第4話 結論は最初から……
第四章 結論は最初から……
――彩名は、気が付いたのだろうか?
信二は、彩名との再会を心待ちにしていた。彩名のことを再度思い出し、意識し始めたのが、二十歳の頃だった。
それまでの信二は、
――いつも自分は一人で、孤独な人生を歩んでいる――
と思っていた。
それでいいと思っていたのは、子供の頃の思い出が、彩名のことでいっぱいだったからだ。
彩名のことが好きだったという思いももちろんあったが、何よりも、
――彩名に対してすまない――
と思っていたことだった。
彩名の記憶が欠落していることまでは知らなかったが、彩名は必死に忘れようとして、思い出さないようにしていることは分かっていた。そのために、かなりの苦痛を味わったのではないかと思うと、すまないと思う気持ちがさらに大きくなって行く。
ただ、信二自身には自覚がなかったが、彼もかなりの苦痛を味わっていた。
信二が味わっている苦痛というのは、ストレスを伴うものだった。他の人が同じような苦痛を味わっているとしても、ストレスを伴うことはなかったかも知れない。ストレスを伴わなければいけないのが信二の性格から来るものだとすれば、
――どうして、僕なんだ?
と、信二自身が意識しているとすれば、きっとそのように感じるかも知れない。
世の中の理不尽さが、こういうところでも滲み出てくる。
信二にとってみれば、自分が悩みを感じていることよりも、彩名の中に残してしまった悩みの方が大きくのしかかってしまい、それが幻影のようになって、信二のトラウマとして残ってしまった。いずれ、再会することになるであろう彩名に対し、どんな顔で再会すればいいのか、考えあぐねていた信二は、
――まだ再会には時期尚早――
と思うことで、再会しないことを望んでいるもう一人の自分の存在を、自分に納得させようとしていたのだ。
友達がいないのは今も変わりないが、二十歳までの信二は、いつも何かに怯えていた。彩名とは違う意味での躁鬱症だった。彩名との一番の違いは、信二が自分の躁鬱症の理由を分かっているというだけで、分かっていてもどうしようもないのが、躁鬱症なのだ。
躁鬱症というのは、理由が分かっている場合と、分かっていない場合の二つが存在する。信二の鬱は、人に対しての悪いという気持ちから来ているものだった。
最初は、誰に対して悪いと思っているかということを意識していなかった。人に悪いと思うようになったのは、子供の頃からだったが、最初に感じたのが彩名だったということだけは覚えている。
――彩名は、僕のそんな気持ちに気付いていないだろうな。もし分かっていたとすれば、僕を許せないと思うはずだ――
彩名の記憶の一部が欠落していることを、信二は知らない。
普通、子供の頃の知り合いと十年以上ぶりに再会すれば、話題というのは、子供の頃の話題のはずである。しかし、信二は子供の頃の話題に触れようとはしなかった。信二にとっても子供の頃の話題は、自分の中でタブーだと思っている。彩名が意識していないのならこれ幸い、わざわざ思い出させるようなことはしたくない。
信二の子供時代というと、近所に住んでいた一つ年上の先輩が大きな影響を及ぼしていた。
先輩は信二のことをどう思っていたのか知らないが、信二は先輩に逆らうことができなかった。
相手が先輩でなくとも、信二は自分に対して高圧的な態度を取る人に対して、抗うことができなかった。
それは信二が性格的に、
――まわりの人は皆自分よりも優れている――
と思っていたからだ。
抗うことなどとんでもない。自分に指示する人のうことはきかないといけないという考えは、まるで自分の意志を持たないロボットのようだ。
信二は自分のそんな性格が嫌いだった。だが、自分ではどうすることもできない。自分が抗うことを相手に納得させることができないからだ。
ここが彩名と似ているところだった。相手を納得させることを必要だと考えるのは、まず自分が納得しないといけないと思う。自分を納得させることを一番に考えるところが、彩名と似ているところである。
彩名が自分を納得させることを意識するのは、これから行おうとすることが、果たして自分の考え方に沿っているものなのかということを最初に考えてしまうのだが、沿っていない時、自分を納得させなければならないと思う。信二も同じなのだろうが、順番が違っているのだ。
彩名は、まず自分の中から考える。しかし、信二の場合は、自分というよりもまわりから、その人たちの目になったような気持ちになって自分を見つめる。見つめることで、自分への納得が必要なことであれば、その時初めて、自分を納得させることを考えるのだ。
信二は、先輩のいうことには、服従していた。
「頼りになるお兄さん」
というイメージが先輩にはあり、先輩のいうことには間違いはないと思っていた。
途中から、
「あれ?」
と思うこともあったが、
――先輩のいうことは絶対だ――
と思っていたこともあって、先輩のいうことに逆らう気持ちにはなれなかった。先輩に逆らうということは、
――自分を納得させられない――
ということだった。
自分を納得させるには、先輩を信じているという自分の気持ちを、それが間違いだったということを理論的に説明できなければ、納得させられない。
だが、それ以上に、
――先輩が信じられないのなら、誰を信じればいいんだ――
先輩を信じられなくなると、自分が孤立することになる。孤立してまで、先輩から離れるメリットがあるというのだろうか?
――先輩の行動も、今の自分が納得できるかどうか分からないという程度の曖昧なことであり、リスクを犯してまで、先輩に逆らうことができるだろうか?
そう思うと、今ここで先輩に逆らうことは、得策ではないと思ったのだろう。
もちろん、これは大人になってから、過去を振り返って感じていることだ。子供の頃にここまでの思考能力があるはずもない。
しかし、過去を思い出していくうちに、その時々で、信二は自分を納得させてきたような気がする。
もちろん、若干の妥協もあっただろうが、基本的には、先輩に逆らうことはなかった。
先輩は、信二のそんな気持ちを知ってか知らずか、
――こいつは、命令すれば何でもやるやつなんだ――
と思っていたのだろう。
そういう意味では、お互いに相性は合っていたのだろう。
ただ、先輩が信二の思っているほど、まわりのことを気にしていなかったことを知らなかったようだ。
もちろん、信二のことも気にしていたわけではない。元々、一人でも十分な性格だった先輩を、信二は慕って近寄って行った。先輩に人を引き付けるオーラがあり、まんまと惹きつけられたのが信二だった。
先輩も、自分の言葉一つで動いてくれる人がいるというのは気持ちいいはずだ。気持ちが増長しても仕方のないことなのだろうが、元々一人でもいいと思っていた性格、人が自分のためにやってくれる行動は、プラスアルファ的なもので、別になくても、自分が困ることはないと思っていた。それだけ、自分の発した命令にも、それをきいてくれる人間に対しても、かなり軽視していたようだ。
ここが、信二との間で、決して交わることのない平行線が存在する理由だった。
平行線があるために、信二は先輩の気持ちを探ろうとしても見つけることができない。だからこそ、信二が先輩との決別を自分に納得させることができないのだ。
信二が、先輩の命令に逆らったことは一度だけ、そして、その一度のために、先輩は自我を失い、そして、信二の前から去って行った。
信二は、その時、先輩が自分の前から離れていったのは、自分が先輩の命令に逆らったこと、それがすべてだと思っていた。
あとから思えば、先輩の命令は常軌を逸していた。そんな命令に従うというのは、自分を納得させる以前に、
――あってはいけないことなんだ――
と、そこまでどうしてすぐに気が付かなかったのか、自分でも分からなかった。
先輩が、少しおかしくなったのは、彩名と信二が一緒にいるのを見られた時からだった。信二は先輩から見られていたという意識はない。逆に彩名の方が先に気が付いた。
「ねえ、信二君、変な人がいるんだけど」
と、彩名がしばらくして、信二に打ち明けたことがあった。
「変な人というのは?」
「なんか、いつも私のことを見ている男の子がいるんだけど、ちょっと怖いわ」
という彩名の話の相手が、まさか先輩だとは思わなかった。
その頃の信二も彩名もまだ、小学校低学年。異性を意識することはなかったが、彩名とすれば、自分のことをいつも見ている男の子がいるというだけで純粋に怖いと思っていたのだ。
それが先輩だということを知ったのは、先輩から気になっている女の子がいるということを聞かされたからだ。
「可愛いという印象じゃないんだけど、何だろう? 苛めてみたいという気持ちになってるんだよ」
先輩の言っている意味はさっぱり分からなかった。
「苛めたいって、そんなのダメですよ」
「そうだよな。苛めたいといっても、悪戯したいというイメージなんだけど、いけないことなんだよな」
と、まるで自分に言い聞かせているような素振りだった。
信二は今までそんな先輩の姿を見たことがない。どこか弱気な先輩だったが、信二はなぜかホッとした気がしていた。先輩が考えていることは許されることではないのは分かっているが、先輩から、
「やれ」
と言われれば、自分も女の子に悪戯くらいはしたかも知れないと感じたほどだった。それだけ先輩と話をしていると、許されないことであっても、先輩がいてくれれば、何でもできる気がしたのだ。
だが、そんな思いが本当に実現を迎える日がやってくるなど、想像もしていなかった。
先輩が気になっていて苛めたいと思っている女の子が彩名だということは、すぐに気が付いた。
――これはやばい――
と、信二は彩名の身の危険を察知したが、先輩が思い詰めている姿を見ると、止めることもできないのが分かっただけに、どうしていいのか分からなくなった。
小学生の信二に、どうしていいのかなど分かるはずもない。信憑性のない話を他人にして、助けを求めるわけにはいかない。先輩が口にしているというだけで、まさか本当に行動に出るという可能性は、ほぼゼロに近い。だが、その時信二は、
――限りなくゼロに近いと言っても、完全なゼロではないのだ――
ということに気付いていなかった。
信二が、先輩に意義を唱えたとしたらどうだっただろう? 先輩は思いとどまっていただろうか?
人によっては、他の人から指摘されると、どんなに気持ちが盛り上がっていても、止めることができる人もいるようだ。
だが、そんな人はほんの一握りにしか過ぎない。その時信二は、
――先輩は、そんな一握りの一人に違いない――
という思いもあった。
言ってみるだけの価値はあったかも知れない。しかし、信二には言えなかった。それは、自分の心の中に、
――嫌がり抗う彩名の姿を見てみたい――
という邪な気持ちがあった。
それは邪な気持ちだというよりも、それが信二の本性だということに、気付かなかった。だから、邪な気持ちが思い浮かんだ瞬間、
――ありえない――
ということで、必死になって自分の中に気持ちを封印しようとした。
封印された気持ちは、信二にとっての、一種の記憶の欠落なのかも知れない。あまりにも一瞬のことなので、本人に意識はないが、彩名の記憶が欠落している部分があるということに気付いた時、信二はそのことを思い出すことになる。
先輩が彩名に悪戯したいと、信二に計画を打ち明けたのは、信二が、彩名を意識し始めてからだった。
その意識は、
――嫌がり抗う彩名の姿を見てみたい――
ということから来ているということだったのだが、こんな常軌を逸したことに対して賛同してしまった自分が許せる時期は、まさにこのタイミングだけだったのかも知れない。
絶妙のタイミングを、偶然という言葉で片づけられるとすれば、偶然という言葉は漠然としたものではなく、根拠をともなったものになってしまう。
「偶然も実力のうち」
と言われることもあるが、偶然が根拠のあるものだとすれば、この言葉も十分に説得力のあるものだと言える。
ただ、今の信二は少し違った考えを持っている。
――世の中というのは、絶妙のタイミングと、偶然で成り立っている――
と思っている。
これは、絶妙のタイミングと偶然を同じ言葉で考えようとしたことと、まったく逆の発想である。
しかし、絶妙のタイミングは偶然ではないという考えを持っているのは、彩名の方だった。
再会してから、このことが話題になったが、信二が考えているこの二つは同じものだという話に、彩名は苛立ちながら、完全に否定した。
「絶妙のタイミングというのは、まわりの偶然が引き起こしたものだと私は思うのよ。確かにその人の感性で、絶妙のタイミングを産むのだとしても、それを偶然と言ってしまうと、同じシチュエーションでは、二度と同じタイミングを掴むことができないということですよね」
「でも、偶然という言葉を漠然としたものだと思うからそう感じるんだろう? 漠然としたものではなく、理由づけて納得させられるものだとするのなら、それが絶妙のタイミングだと言えないだろうか?」
「私が言いたいのは、絶妙のタイミングは、自然現象ではなく、その人の中でずっと培われてきたものから生まれるものだと思うということ、確かに自然の摂理などのように力を持ったものであれば、説得力もあるのだろうけど、その人の努力は、まったくその中に反映されていないじゃない。それだとあんまり寂しいと思うのよ」
「女性らしい考え方だね。彩名の言っていることは一見、人情っぽい発想に見えるけど、その実、現実的な考え方なんだね。女性ってロマンチックな性格に見えるけど、実際には現実的な考えを持っている人が多いというのと似ているね」
「それも男性の偏見なのかも知れないわよ。あながち、女性というのは、男性が思っているよりも考えの幅というのは広いと私は思うわ」
「でも、僕が思っているのは、女性というのは、何か結論を出さないといけない時、まわりに自分の気持ちを話す時、最初は決まっていないような言い方をするけど、本当はもっと前から結論が出ていることが多いというからね」
「そのことは、他の人からも言われて分かっているわ」
彩名はまたしても、自分の考えていることが、最初から決まっていたのだろうということを、まわりから納得させられた。彩名にとっては、絶えず意識していないといけないということなのだろう。
信二は、彩名が、嫌がり抗う姿が想像できた。それは子供の頃に見ることができなかったことで、気持ちを封印してしまった過去を持つ信二だからできたことだ。
――彩名という女は一体どういう女なのだろう?
信二は、彩名の中にどうしても見ることができない空洞はあることに気付いていた。彩名もその空洞は意識しているはずだ。その空洞に欠落している記憶を入れてみればどうなるだろう? ピッタリと埋めることができるのだろうか?
空洞の大きさは、他に何かピッタリ埋まるものがあるようにも思えていた。
それは彩名にだけ自覚しているものだったが、それを本当に意識し始めたのは、信二と再会してからだ。
――本当は、自分の中に空洞などなかったのだ――
欠落した記憶の部分が、確かにその場所にはあったはずだ。
しかし、彩名はずっとその大きな空洞の存在を知らなかった。なぜなら、その空洞は最初からあったわけではない。記憶が欠落したあとでも、空洞となっている場所には、何かがあったはずだ。
――一体何があったのだろう?
そこで彩名が気になったのは、自分が躁鬱症だということである。
それも、最初から躁鬱症だったわけではない。何かがきっかけになって躁鬱状態を引き起こした。それがそのまま自分の性格になってしまった。躁鬱症という性格を持っている人は、彩名に限らず、誰もが同じなのではないだろうか。そう思うと、きっかけとなったことが気になってくるのだった。
彩名の心の中の空洞は、元々、小さな穴だったのかも知れない。
一気に穴が空いたのだとすれば、最初から穴の存在を分かっていたはずである。分からなかったということは、徐々に身体を蝕む何かがあったことになる。
躁鬱症の鬱状態が伝染するものだということを意識していた彩名だが、身体の中に穴が空いてきたのは、ひょっとすると、何かの伝染病のようなものが原因なのかも知れない。本当に伝染するものなのかどうかは分からないが、もし伝染するものだとすれば、それは、トラウマのように、心の中に封印したいものがあって、それを封印した時の間隙をぬって一気に入り込んでくるものなのかも知れない。
しかも、その時のスピードは瞬時でなければいけない。そうでないと気付かれてしまうからだ。
――これこそ絶妙のタイミングだと言えるのではないか?
と彩名は思っていた。
――彩名の空洞は、躁鬱症が招いたものなのかも知れない――
信二は、そう思った。
彩名の性格が躁鬱症を含んでいるということに気付く前に、信二は彩名の心の中に空洞を見つけた。躁鬱症を見抜くよりも簡単なことだったのかも知れない。
だが、彩名の躁鬱症は、すぐに看過できるものではなかった。本人は結構意識しているが、意外とまわりはそれほど意識していない。人の性格というのは、自分で分かっている場合は、まわりにはあまり意識されることはないが、逆に自分で分かっていない性格は、まわりから見れば一目瞭然のようだ。
なぜなら、自分の性格の、特に核心部分は、本人が表に出さないようにするからだ。これは意識していても無意識でも同じことで、本人が意識していることは、なるべく表に出さないようにしているのだから、他人も意識しないだろう。しかし、本人に意識のないことは、垂れ流し状態で表に出てくるので、その人の性格をまわりが知ることは、それほど難しいことではない。
信二は、彩名の空洞だった部分をどうして見つけることができたのかというと、ちょうど、信二が彩名の心の中を覗いた時、それが躁と鬱の入れ替わる時だったからである。
これも一瞬の間隙というものを、絶妙のタイミングで見破ったのだ。この場合は偶然という言葉も使えるのかも知れない。絶妙のタイミングも、何か他に有効な手段が絡むことで、ランクアップするからだ。
そういう意味では、漠然とした言葉であるが、偶然という言葉の持つ力が分かってくる。
偶然という言葉は、幅が広いというだけではなく、相容れることのできないはずの、
――力に有効性をもたらす――
ということができるもので、二つ以上のランクアップが存在することで、偶然を説明できるところまで、近づくことができるのだ。
信二は、彩名の中にある空洞が、以前に自分が招いてしまったことが原因であることを分かりすぎるくらい分かっていた。
信二は彩名が自分のことを慕ってくれているのを分かっていた。分かっていて、彩名に取り返しのつかないトラウマを残すことに一役買ってしまったのだ。
今の彩名は、信二を昔の信二だとは思っていない。別人のような感覚になっている。視線を見れば、大体のことが分かると思っているが、今の信二は彩名を正面から見ることができている。だが、子供の頃の信二は違った。彩名の目を正面から見つめることはできなかったのだ。
ただ、彩名が信二を意識して目を合わせようとしている時に、信二が目を逸らしたからだ。意識してのことではなかったのかも知れない。それだけに、信二の心根が分からない。意識せずに目を逸らしたということは、彩名に対して特別な感情を抱いていることになるからだ。
それを恋心だと思うには、まだ二人は幼すぎた。それよりも、彩名に対して後ろめたい気持ちを持っていると思う方が自然ではないだろうか。信二が彩名を必要以上に意識している。それこそ、信二の中にトラウマが生まれた瞬間だったのかも知れない。
それなのに、信二は彩名から遠ざかろうとはしなかった。一定の距離を保ちながら、近づくわけでもなく、離れるわけでもない。彩名は、そんな信二の挙動を、子供の頃意識することはなかった。それなのに、大人になって、信二と出会うことで思い出すことになるというのは、
――子供の頃、意識していなかったつもりでも、記憶として残っていたということなのかも知れない――
と思った。
意識していなかったということを記憶していなければ、いくら記憶していたとしても、思い出すことはなかったのではないかと思った。
彩名は自分が記憶している中のものの時系列がバラバラであることを意識していた。思い出せたとしても、それがいつのことだったのかハッキリしないことも少なくない。
特に複数のことを思い出そうとした時、どの順番だったのかがハッキリとしない。つまり、子供の頃の記憶も昨日あったことの記憶も、記憶領域の中では「横一線」になっていた。
彩名にとって、記憶の順番が別に入り繰っていても、自分としては何ら問題はないと思っていたが、一人の人の記憶の時系列がハッキリしないということは、どちらかがぼやけた記憶になっていて、
――果たして正しい記憶なのか?
という疑問を生むことに繋がってくる。
どちらか一方に照準を合わさなければ、せっかく思い出した記憶の両方とも、再度封印してしまうことになる。
――再度の封印は、二度とその記憶を呼び起こすことはない――
という彩名の中に、そういう思いがある。
もちろん、オカルト的で迷信に近いものなのだろうが、彩名はそのオカルトを信じている。今までにもあったことだからだ。
思い出そうとしたが、結局思い出せなくて、
――しょうがない。今度思い出した時に考えるしかないわ――
と思ってしまうと、頭の中で、
――封印した記憶を思い出したことがある――
という意識が残るだけで、一向にその記憶を思い出そうとすることはなかった。思い出そうとして思い出せるわけではなく、あくまでも思い出すということは自然でなければいけないと思っているので、思い出せない以上、彩名にはどうすることもできないのだ。
何やらヘビの生殺しのようだが、記憶というのは、そういうものではないかと、感じるようになったが、最近感じるのは、記憶がバラバラに格納されているのは、夢と似ている感覚だからではないだろうか。
夢というものが、潜在意識が見せるものだということを分かっている彩名には、潜在意識というものが、夢の中を支配しているものを記憶装置がコントロールしているのではないかと思うようになった。
――あれは夢だったのかしら?
現実に起こったことでも、夢として片づけたくなることもあるが、それは、
――自分にとって悲痛な記憶なので、消してしまいたい――
という意識はあるのだが、消してしまうことを、心のどこかで否定している。そのために、
――夢だったんだ――
と思うことで正当化しようとしているのかも知れない。
そう考えると、デジャブなどの精神的な現象も説明がつくかも知れない。
それが詰まるところの、
「辻褄合わせ」
だということは、何度も感じていることだった。
――私の中に、いくつの辻褄合わせがあるというのだろう?
この思いは、実は信二にも通じるものがあった。
信二は、彩名が失ってしまったと思われる記憶が何であるか、想像がついた。
元々、相手の記憶の中を見ることなどできるはずもないので、何が欠落しているかということなど分かるはずもない。しかし、信二は彩名が喪失したと思われる時、一番そばにいて、彩名を見てきた。そして、自分の中に彩名に対してどうしても抗うことのできないトラウマを残してしまった。
そのトラウマは、
――自分だけの胸に閉まって、一緒に墓場まで持っていくんだ――
という感覚になっていた。
高校生になって離れてしまったことは、信二にとって一息つくにはちょうどよかった。
――このまま彩名と出会うことがなければ、それでいいんだ――
と、トラウマをどこまで誤魔化し続けることができるかということを意識しながら、信二は自分の中の気持ちと葛藤を続けた。これだけはどうしようもない。それは、自分にウソをつくということができないからだった。
しかし、十年以上という年月を経て、
――出会うことなど、もうないだろう――
と思っていた彩名と再会することになってしまった。
もちろん、信二自身が望んだことではない。だが、これを偶然と言ってしまえば、今まで自分の中の気持ちと葛藤を繰り返してきたことが無に帰してしまうのではないかと思った。
しかし、信二は彩名と出会ってしまったことを、必然とは思えない。
――偶然でもなければ必然でもない――
これは一体どういう感覚なのであろうか?
信二は、高校に入ってから、急に女性が気になり始めた。それまで異性を意識することはあっても、
――女の子を好きになってはいけないんだ――
という縛りを自分の中に抱えていた。
女の子を意識するということは、彩名を意識しないわけにはいかない。
まず彩名を意識して、彩名が自分の好きな女性かどうかを判断し、もし彩名が好きな女性でなければ、今度は他の女性に目を向ける。これが女性を意識する時の考え方ではないかと思っていた。
しかし、彩名を好きな女性なのかというところで、信二は思考が一瞬停止してしまった。一瞬のことだったので、本人も意識していないかも知れない。
だが、この一瞬は大きな一瞬だった。その間に、信二の中で心境のスイッチが逆に入ってしまったのだ。
潜在意識としては、
――自分は彩名のことが好きだ――
と思っているにも関わらず、潜在意識の外にある思考する意識の方は、
――彩名を好きになってはいけない――
と言っているのだ。
この二つが葛藤を繰り返し、信二の中で結論を生むことができなくなった。葛藤は堂々巡りを繰り返し、そのまま無限ループに入ってしまった。
信二にとってのトラウマは、まさしくこの無限ループから始まっている。
――彩名を自分のものにしたい――
という考えが芽生えたのは、この葛藤が変則的に形を変えたものだった。
――好きになってはいけないが、心の中では好きだと叫んでいる――
好きだということは、相手にも好きになってもらいたいという気持ちの表れである。そして、好きになってはいけないのなら、好きになってもらうのとは違う形で、自分を思ってほしいという気持ちに捉われた。
そう思った時に感じたのが、
――彩名から、慕われたい――
という思いである。
どうすれば慕われるのかということを考えた時、思いついたのが、
――自分が彩名に対して、絶対的な存在になればいいんだ――
ということであった。
何も他の人に対して思うことではない。彩名に対してだけ自分を慕ってもらえる存在になれればそれでいいのだ。だが、それがどんなに難しいことかということを、中学時代の信二には分からなかった。
その頃の信二は、過去の自分を顧みることはなかった。過去に行ったことに自らオブラートをかぶせ、それ以上、自分が苦しむことを避けた。逃げていると思われても、誰にも分からないことだとして、自らで封印してきた。
だからこそ、自分を縛ることなく、彩名に対して、
――自分は彩名に対して絶対的な存在になれるんだ――
と思ったのだ。
誰かが誰かに対して絶対的な存在になるということ自体、それほど難しいことではないと思っている。小学生の頃の信二は、
――僕が他の人の絶対的な存在になり下がっていたことがあったくらいだ――
信二は、その時の相手に対して逆らうことができなかった。まるで金縛りに遭ったように見つめられると、動けなくなってしまう。その人の命令には絶対服従を義務付けられていて、逆らうことは許されない。
もちろん、命令する方も、そのことは分かっているだろう。分かっているからこそ、命令することに感覚がマヒしていたのかも知れない。それは信二にも同じことで、命令された自分も完全に感覚がマヒしていた。そこに理性はもちろん、感情も存在しない。
――本当にそんなことがありえるのだろうか?
と、自分でも疑いたくなるのだった。
感覚がマヒしているもの同士、考えることは意外と似通っている。
というよりも、お互いに気が付いていなくても、同じことを考えていたりするもので、それが命令になって現れると、
――形は違うが、同じようなことを考えているんだ――
と思うようになっていた。
その人が彩名を苛めたいと言っていた先輩であり、彩名を自分のものにしたいと思っている信二の気持ちとの葛藤から、信二自身、感覚がマヒしてしまっていたのだ。
ただ、記憶が欠落するようなことはなかった。マヒした感覚の中で、信二は彩名が、
――嫌がり、抗っている姿――
を想像してしまったことを思い出した。
実際にその場面を見たわけではない。信二は、先輩が彩名に悪戯する姿を想像しただけだった。
なぜなら、信二は彩名が悪戯されている時、見張り役として、離れたところにいたからだった。
その時に彩名の声は聞こえなかった。嫌がり抗っているはずなのに、抵抗している声も何も聞こえなかった。それが信二には信じられなくて、さらに信二は心の中で、マヒしていったのである。
マヒしてしまったことで、記憶を封印することが許されなくなった。その代わり、彩名に対しての気持ちも永遠に無限ループを繰り返すことになった。
――最初から分かっていたことのように思う――
彩名が悪戯される場面を見なくてよかったと思う反面、
――どうして声を立てなかったのだろう?
という思いが、信二を追いつめていく。
――まさか、彩名も悪戯されることで眠っていた自分の性癖に気が付いたということなのか?
これは大人になって感じたことだった。
このことに気が付いたから、彩名との再会を果たせたのかも知れない。
――こんな気持ちで再会などしたくはなかった。一体、どんな気持ちで彩名に正対すればいいというのだ?
と思ったが、実際に再会してしまうと、彩名は記憶が欠落していた。信二のことは覚えているようだが、肝心なところの記憶が欠落しているのだ。
信二は、最初ホッとしたが、実際に知りたいこと、そして、自分が知らなければいけないことというのが、これによって永遠に分かる術を失ってしまったのではないかと感じると、やりきれない気持ちになっていた。
――僕はこのまま彩名から離れてはいけないんだ――
という思いが頭を巡り、彩名の記憶が欠落しているということは、一度、彩名の中でリセットが行なわれたと考えた。そうなれば、信二は彩名に対してこれから自分が取るべき行動の指針が見えたような気がした。
――彩名を自分のものにしてしまうことだ――
これが、信二の考え方だった。
彩名は、もちろん、そんなことを望んでいないだろうと思われた。
しかし、彩名の中で今、信二が現れたことで、
――誰かを慕いたい――
という気持ちが表に出てきたことは事実だった。
元々、彩名の中には誰かを慕いたいという気持ちがあり、その気持ちを持っていることで、最初に意識するのは、
――自分のことを、相手がどれほど分かっているか?
ということであった。その次に感じるのが、
――相手のことを自分がどれほど分かるか?
ということであり、きっと、他の人とは逆なのではないかと感じたことだった。
それが、自分の中で、人を慕うという気持ちの表れであり、依存心の強さを物語っていた。
それを意識させたのが、次郎や隼人との出会いであり、その二つの出会いがあって、信二と再会した。
彩名は、今信二を慕っている。それは信二の思いの中と同じ気持ちであったが、実際には微妙に違っていることに気付かなかった。
――好きだから好かれたい――
と思うのが、信二の考え方だと思っていたからだ。
彩名は、自分が相手を慕う気持ちから、
――好かれたから好きになる――
という受け身の考え方になっていた。だが、実際には、彩名の中の意識は、
「好き嫌い」
という概念ではなく、自分を支配してくれる人の存在だった。
それが、彩名の子供の頃の悪戯を受けた体験の時に、声を発しなかったという理由であり、蹂躙されると、されるがままにしていることに快感を感じる性癖だったのだ。
――信二が彩名の前に現れたのは、本当に偶然だったのだろうか?
偶然というのは、絶好のタイミングとは違うものだ。ということは、彩名の前に現れた信二は絶好のタイミングでしかないのだ。
この絶好のタイミングに、彩名はこう感じているかも知れない。
「結論は、最初から出ていたのよ」
と、言葉にならない声が、彩名のどこからか聞こえてくるような気がしたのは、隼人だけだったのかも知れない……。
( 完 )
絶妙のタイミング 森本 晃次 @kakku
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