第3話 欠落した記憶
第三章 欠落した記憶
信二と再会してからの彩名は自分でも、
――少し変わったかも知れない――
と思うようになった。
香織を意識し始めたのもそのせいだし、毎日の「色」が変わってきた気がした。
信二との再会は明らかに偶然なのに、
「偶然なんかじゃない」
と、信二は言いきる。
「じゃあ、偶然じゃないなら、その根拠を見せて」
というと、
「根拠なんかない。僕が偶然じゃないというんだから、偶然じゃないんだ」
と、力技で押そうとする。それはまるで小学生が喧嘩の時の、
――言い訳にならない言い訳――
のようだった。
だが、彩名も信二の顔を見ていると、その真剣な表情に、
――まんざらウソとも限らないのかも知れない――
と思った。
最初から彩名を探していて、偶然を装ったにしては、再会した時の喜びは、あそこまで激しくはないだろう。いかにも大げさな驚き方で、今にも抱き付いてきそうな勢いに、圧倒されたというよりも、
――自分も彼が現れるのを待っていたのかも知れないわ――
と、ありもしない錯覚を覚えた気がした。
彩名は、子供の頃、信二を誤解していた。それが本当に誤解だったのかどうか、知りたいと思った。しかし、中学生の頃にそれぞれ違う人生を歩き始めたことを自覚した彩名は、中学の時の信二とは、もう二度と会えないことが残念でならなかった。もし、一緒に高校時代を迎えたとしても、そこから二人はそれぞれ違った人生を歩むと思っていた彩名は、信二と離れたのも必然だと感じ、中学時代最後の卒業式の後、信二の気持ちを確かめたいという思いに駆られていた。
裏では、
――どうせ離れるのに、今さらそれが分かってどうするっていうの? もし、彼が自分のことを好きになってくれていなければ、もうリベンジのチャンスはないんだから――
という思いを抱いていたの違いない。
――信二と会いたい――
という思いは、最初、子供の頃に抱いた誤解が何だったのかを知りたいだけだったのだと思っていたが、実際に出会ってみると、そんなことはどうでもよくなった。
明らかに子供の頃の信二とは違っていて、彩名の前ではどうしても素直になれなかった子供時代の信二とは、まるで別人のようだった。
あの頃はお互いに思春期。大人になりたいという思いが強かった頃だと思っていた。
そういえば、中学時代の信二が、
「僕は大人に何かなりたくないな」
と言っていたのを思い出した。
「どうしてなの?」
「だってそうじゃないか。自分たちの勝手な理屈で迷惑したり、被害を被ったりするのは、いつも子供だからね」
彩名には信二の気持ちは分からなくもなかった。大人に対しての恨みから、自分が大人になりたくないという気持ちもよく分かる。
しかしだからといって、自分が大人になりたくないという発想とは少し違っているように思う。
同じ大人になりたくないと思う気持ちがあっても、その頭に違う言葉がつけば、ニュアンスも違ってくるだろう。
「自分が嫌いな大人にはなりたくない」
つまり、大人すべてを否定するのではなく、自分が生理的に受け付けない大人だけを毛嫌いすればいい。
彩名は、
――もう少し、ほんの少しだけでも、発想を一つ先に進めれば、きっと違った自分を夢見ることができる――
と、感じていた。
それが、実は今の彩名を支えていて、その思いを与えてくれた信二に、再度会いたいと思ったとしても、無理もないことだ。
彩名は、それまで男性というものを軽く見ていた。自分が理想とする男性からは、程遠い人しか自分のまわりにはいなかった。
――どうして私のまわりにだけ、ひどい男性ばかりが集まるのかしら?
と思っていたが、実際は、彩名の理想が高いだけで、彩名が自分の好きなタイプのランクを下げない限り、彩名が好きになる男性は現れることはなかった。
それでも、寂しさからか、自らの「禁」を破るかのように、理想のランクを下げて見たことがあった。ほんの少しでもランクを下げれば、結構自分のまわりには合格点が挙げられる男性はいた。
その中から一人の男性と知り合い、付き合ってみたが、すぐに別れることになった。原因は彩名の方にあり、彩名が離れたわけではなく、相手が彩名に見切りをつけたのだ。
「君はどうして、そんなに上から目線なんだ。俺の方が上だとは言わない。せめて対等であれば、お互いをもっと分かり合えたのに」
と、彼はいうと、彩名は何も言えなくなってしまった。
「何言ってるの。私だって、理想のランクを下げたのよ。それなのに、どうしてあなたから罵声を浴びなきゃならないの?」
と、喉まで出かかった言葉があったが、口にすることはできなかった。その分、目で睨みつけてやった。
すると、相手の男は、
「その目だよ。その目。君は一体自分がどういう人間だって思っているんだ? 相手を蔑むような目をするのはやめるんだな」
と、言葉にするのを必死で堪えているのに、目を攻撃してくる。
「卑怯だわ」
「卑怯? 何が卑怯だっていうんだ?」
「あなた、最初から私のことをそんな風に思っていたんでしょう? だったら、最初からそう言えばいいのよ」
「僕はせっかく君が好きになってくれたんだから、君の心に少しでも近づこうと思ったさ。でも、君はいつも違う方向を見ていて。僕を見ているわけじゃない。そのうちに僕を見てくれるようになるんじゃないかという思いと、この僕が振り向かせてやろうという思いとがそれぞれ僕の中にあって、でも、結局君が振り向いてくれることはなかった。声が届くのなら、まだマシだったがそれもない。このあたりが潮時だと思ったとしても仕方のないことだ」
彼の言っていることは当たっていた。
確かに寂しさから、相手を求めた。そういう意味では誰でもよかった。
彼が彩名に罵声を浴びせていて、彩名も売り言葉に買い言葉で、応戦しているが、甘んじて罵声を浴びてもいいと本当は思っていた。むしろ罵声を浴びて、口答えもしない方が、本当の彩名らしい。
――それなのに、どうして喧嘩みたいになったのかしら?
別れの時に喧嘩になるのは仕方のないことだと思っていたが、まさかその場面に自分が遭遇し、しかも、自分から喧嘩を吹っかけるような態度を取るなど、冷静に考えれば、信じられないことだった。
――それだけ、興奮していたということなのかしら?
と彩名は感じたが、興奮していたという意識は不思議となかった。
だが、決して冷静だったわけではない。
――冷静でもなく、興奮していたわけでもない自分。あの時、私はどこに行こうとしたのかしら?
喧嘩になった時のことは、ハッキリと覚えてはいるのだが、どこかを見ていたはずなのに、どこを見ていたのか、思い出せない。
――あの時と同じ状況になったとして、思い出すことができるかしら?
あとから思えば思い出すことはできないと思う。しかし、いつ何かのタイミングで思い出す時が来ると信じている。ただ、思い出したとしても、またすぐに忘れてしまうことになるのだろうが……。
彩名は、自分の中で完全に欠落してしまった記憶を持っているという意識がある限り、感じた思いを一度忘れてしまえば、再度思い出したとしても、それは一瞬のことであり、意識が働く余地はなく、思い出したことすら分からないような感覚に陥ると思っている。つまりは、一瞬の記憶回復が、さらに、本当の記憶を呼び起こすことを拒んでいるに違いない。
そのことを、世間では「デジャブ」と呼んでいる。彩名はその言葉を知っているが、自分の意識の中の一瞬の記憶回復という問題と結びつけることができなかった。
一瞬の記憶回復は、一瞬だが、本当に記憶がよみがえる。内容は覚えていないが、記憶がよみがえったという意識はある。そこがデジャブとの一番の違いだった。
デジャブの場合は、記憶があって、欠落した部分を思い出そうとしているのか、それとも、記憶にあるといっても、自分が経験したことではなく、絵画や映像を見て、その中に入りこんでしまったという錯覚を覚えたことが、あとから同じような光景を見たことで思い出した錯覚の辻褄を合わせようとする感覚が生み出したものなのか。どちらであっても、思い出したと言えるものではない。
信二と出会って、心の中に、
――私は、信二のことが好きなんだ――
という意識が芽生えてきたことを感じていた。
だが、それは、今まで自分の中に隠れていたものだという思いは少なかった。信二とは再会であるが、まるで、
「初めて出会った理想の男性」
というイメージが強かった。
それだけ彼は彩名が知っている信二ではなかった。
だが、信二の中には、
――彩名が知っている男性――
のイメージも感じられた。それも、彩名が鬱状態に入っている時に感じた思いに似ていた。
鬱状態に陥った時の心境は、抜けてしまうと思い出すことは困難だった。今までにも何度か思い出そうとしたが、できなかった。鬱状態というのは伝染するという意識を持ち始めていた頃の話で、彩名は、
――ひょっとして、その時に感じた男性から、鬱状態を移されたのかも知れない――
と感じたのだ。
伝染する鬱状態というのは、風邪と一緒で、移した人は、移した瞬間に、鬱状態から抜ける。そして移された人が、そのまま鬱に陥る。つまりは、病原菌のようなものがあり、それが「悪さ」をするのが、鬱病で、一度に見える範囲で、鬱病の人は一人しか存在しえない。
鬱状態というのは、陥った人が最初に考えるのは、
――二週間ほど我慢すれば、抜けてくれる――
という思いである。
実は鬱状態に陥った時に考えられることは、それ以上でもそれ以下でもない。最初に考えたことが、「すべて」なのだ。
鬱に巣食う「病原菌」は、巣食った相手に自分の存在を意識させることはない。つまりは、誰かから伝染で受け取って、一定期間身体の中を巣食われて、気が付けば、他の人に伝染しているという意識はまったくない。あるとすれば、
――いつの間にかやってきて、二週間ほど鬱状態の時期があり、図ったように二週間ほどで抜けている――
というものである。そこに何かの力が働いているとは感じたとしても、まさか病原菌や伝染などという意識は存在しないのだ。
ただ、一つ彩名が気になっていることがある。それは、
――鬱状態に陥る人は限られた人間だけだ――
という思いである。
確かに、鬱になったことなど一度もないという人もいるのに、定期的に躁状態と鬱状態を繰り返す「躁鬱症」の人もいる。そして、鬱だけを定期的に繰り返している人もいて、一言で鬱状態といっても、陥る人は限られているのだ。
ただ、それが「選ばれた人」だけだということなのかどうかは、彩名には分からない。
病原菌が巣食うには、精神的に巣食いやすい場所を持っている人が一番であり、そこから人間の神経を食べているのだと思うと、病原菌にも苦手な人間はいるに違いない。
――決して近づいてはいけない人間――
というのを、本能が分かっていて、最初から見ようとしないのかも知れない。
――そういえば、前に付き合った男性は、私を直視できなかったわね――
正面から見たくても、見ることができなかったんだ。彩名にそこまで分かるわけもなく、相手の男性も、漠然としてしか分かっていないので、説明のしようがない。
そもそも言葉で表現できる状況なのだろうか。
「見えている部分」
だけなら何とでも表現できるが、肌で感じている感覚を口にして説明するのは無理がある。
しかも、相手を納得させなければいけないのだから、ほとんど絶望に近い感覚だ。彼が喧嘩になった時、彩名を見ていた視線が何なのか分からず気になっていたが、今から思うとあれは、
「憐みの視線」
だったに違いない。
信二は、彩名に対して、ほとんど無表情だ。しかし、その中で、絶えず何かを訴えてくるものがあった。それは何なのか分からないのは不安だったが、下手に表情を浮かべられて、気持ちが動いた瞬間に、他の誰かから鬱状態を移されるというのも、溜まったものではない。
――信二は、私が鬱になるということを知っていて、しかも、鬱状態が伝染によるものということを分かっていて、さらに私を鬱から救おうとしてくれているのかしら?
と考えた。
信二がまるで、「救世主」のように思えてきた。
彩名が想像している救世主というのは、決して笑顔を見せたりするものではない。ほとんどが無表情で、憐みだけを救う相手に見せている。
信二は、彩名が想像していた「救世主」そのものだった。
だが、彩名は最初はそれでもよかったが、途中から心境が変わって行った。信二が「救世主」だとすれば、それは彩名に向けてだけではなく、他の人にも平等に「救世主」としての勤めを全うしようとするだろう。
最初は、そんな信二のことをまわりに、
――どう、この人は私の昔から知っている人なのよ――
と、優位性を保つための「道具」に使っていたことで、別に彼が誰に憐みを向けようとも不満はなかった。
しかし、次第に信二のことを思い出していくうちに、昔、自分が信二を好きだったんだという記憶を思い出してしまうと、もういけない。
――信二を一人占めしたい――
という思いに駆られてきた。
信二のことを思い出したと言っても、完全に思い出したわけではない。少しずつ思い出せばいいものを一気に思い出そうとするから、
――彼のことを好きだった――
という事実だけが表に出てきた。その時の心境はまだ、どこかでウロウロしているに違いないが、事実がある以上、心境がなければどうしようもない。魂だけがあっても、口がなければ誰にも思いを伝えられないのと同じことである。
信二のことを思い出していると、ある程度のところまできて、
――それ以上、思い出してはいけない――
という心の声が聞こえた。
それまで順調に思い出していたと思っていたのに、あるところまで来ると、そこに門番がいて、そこから先を通そうとしない。
空には暗雲が立ち込めていて、今にも雷が落ちてきそうな雰囲気だ。しかし、雨は一粒も降っていない。何とも中途半端な雰囲気だろう。
この中途半端な雰囲気が、彩名の中に不気味さと、そして、果てしなさを感じさせ、
――ここから先は行ってはいけない――
という思いをさらに強くする。
目の前に広がった結界は、見えない壁を作っている。
不気味さは信二の今の雰囲気をそのまま投影しているかのようで、
――必然として作られた空間――
を感じさせるものだった。
――信二を一人占めにしたい――
という女心と、結界を見せつけられ、それ以上先に進んではいけないという心の声とが葛藤を始め、どちらも一進一退、彩名の中で均衡を作っていた。
この均衡は、いつどちらに傾くか分からない不安定な要素を持っていたが、それ以上に彩名に考える時間を与えていた。
それなのに、彩名には考える時間があればあるほど、結論を導き出すことはできないと思わざるおえなかった。
結論というのは、そう簡単に出すことができるものではないということを、彩名は最近知った。
知ったというよりも、人の口から言われることで、それまで漠然とした意識としてあったものが、初めて形として現れた気がしたのだ。
そのことを口にしたのは香織だった。香織は鬱状態に陥っている彩名を見て、
「無理して結論なんか出す必要はないのよ」
と、語り掛けるように言った。
彩名は何のことなのか分からなかった。鬱状態の時に何を言われても、ほとんど上の空でしか聞けないはずなのに、その時の香織の言葉は、妙に心に響いた。
やっと抜けてくれた鬱状態から、その時は躁状態に変わっていた。何を考えてもポジティブに考えられるそんな時期、一歩間違うと、すべてを軽視してしまいそうな環境の中で、香織のその言葉は、
「軽視への警鐘」
として、意識させるに十分だった。
――香織を控えめでありながら、冷静な性格にしたのは何なのだろう?
元々相容れない性格のように見える。彩名には、その二つが持って生まれたものには見えなかったのだ。つまりは、どちらかが持って生まれたもので、どちらかが、途中から身についた性格なのではないかと思えるようになったのだ。
躁鬱症にしてもそうだ。彩名が自覚し始めたのはいつの頃だったのか覚えていないが、思春期を通り越して、大人の仲間入りをしたように思えてきた時期からであった。
その頃の彩名は、自分が情緒不安定に陥るのを自覚していた頃で、それがまさか躁鬱症に発展するなど思ってもみなかった。
最初は躁状態からだったと思う。
急に見えなかったものが見えてきた気がした。その時の躁状態は、
――このまま果てしなくこの状態が続くのではないか?
と思っていた。本当なら躁状態が続くのであれば、心配事などないと思われるかもしれないが、それはあくまで表から見ての発想だった。
実際に彩名はその時覚えていた、言い知れぬ何かに怯えていたのだ。
目に見えない何か暗黒の物体、それが目の前に対峙している感覚、黒い物体は、実際よりも大きく見えてしまうという錯覚がある。そのことを意識しているだけに、彩名には余計に不気味だった。
――躁状態なのに、一体何に怯えているというのかしら?
情緒不安定がまた襲ってきた。
そのうちに、今度は鬱状態が忍び寄ってくるのを感じた。
躁状態である上に鬱状態まで襲ってくるというのは恐怖であった。
――鬱状態と躁状態とでは、共存はありえない――
という感覚を持っているからなのだが、果てしなく続くであろうと思われた躁状態に対して感じた怯えというのは、
――このことだったんだ――
と思わせるに至った。
――共存できない相手が忍び寄ってくる恐怖――
ということは、彩名には鬱状態が近い将来忍び寄ってくるということが分かっていたということなのだろうか?
そう考えないと納得できない状況だが、彩名には、やはり分かっていたのだろう。
なぜなら、躁状態はともかく、鬱状態には、今までにも襲われたことがあったという思いが浮かんできたからである。
――私は今まで鬱状態になんか陥ったこと、なかったはずなのに――
と自分の過去を思い出そうとしたが、すぐにやめた。
思い出したところでどうなるものでもないし、どうせ途中で行きどまってしまうことは分かっている。
――記憶の欠落部分があるからだ――
と今さらながらに思い出していた。
同じ思い出そうとするのであれば、鬱状態の記憶を呼び起こそうなどとする愚行の中で行っても、何の意味があるというのだろう?
彩名は自分の過去をあまり顧みたくないと思うようになったのは、欠落部分にぶち当たった時、過去を顧みることの意味を再確認させられることが分かっていたからだ。
彩名の心配は、取り越し苦労に終わった。鬱状態は想像していた通り襲ってきたが、ちょうど、躁状態はそれと同時に消えていったからだ。
だが、そのせいでさらに不安が襲ってきた。
――躁状態と鬱状態を交互に繰り返す人生を歩んでいくんじゃないかしら?
慢性化してしまい、躁鬱症として、自分の性格が形成されてしまう。それを恐れていたのだ。
彩名に鬱状態が襲ってきた時、躁状態になった時のように、
――果てしなく続く――
などという発想はなかった。その代わり、
――鬱状態には、一定期間の決まった時間がある――
ということが分かっていた。
つまりは、
――必ず、近い将来抜けることは間違いない――
という思いと、今度は逆に、
――その期間が来るまでは、決して抜けることはない――
という、焦っても仕方がないという思いとの二つが大きくのしかかってきた。
――まるで夢のような感覚だわ――
と、彩名は、自分の性格を夢に置き換えて考えていた。
夢だって、覚めない夢などないはずである。
怖い夢であれば、早く覚めてほしいと思い、楽しい夢であれば、このまま覚めないでいてほしいと思う、
それは、夢を見ている間、印象深いものには、
――これは夢なんだ――
という意識があるからだ、
躁鬱症にだって同じようなものがあり、躁状態の間に、辛いことがあっても、
――今なら乗り越えられる――
という思いと、鬱状態の間に、楽しいことがあれば、
――この感覚を忘れたくない――
という思いに陥ることだろう。
そう思うと、躁鬱症であっても、自分の中に性格の意識がある限り、いかに自分に都合よく考えられるかということがカギになってくるに違いない。
しかし、彩名は最近になって、自分が躁鬱状態の繰り返しから抜けられるのではないかと思うようになってきた。
躁鬱の繰り返しを感じるようになってから、三年が経っていた。この三年が長かったのか短かったのかは、今現在としては、
――長かった――
と思っている。
しかし、完全に抜けてしまって過去を振り返ると、
――あっという間だった――
と思うだろうと感じた。
それは、夢から覚めた時と同じである。目が覚めた瞬間、まだ意識が朦朧としている間は、
――夢は長かった――
と感じているが、意識がハッキリしてくるにつれ、
――あっという間だった――
と感じるようになる。それは、夢の世界が別の世界だという意識があるからで、立体の世界から、平面を見ているような感覚に陥っていた。
「夢というのは、どんなに長い夢であっても、目が覚める数秒前に一瞬見るものだっていうよ」
という話を聞いたことがある。
それがどういうことを意味しているのか、話を聞いた時には分からなかったが、目が覚めた瞬間、そして意識がハッキリしてきた瞬間とで夢のことを思い出そうとした時に、この話を思い出した。
人から聞いた話というのは、よほど自分の経験と照らし合わせて、経験上合致していなければ、次第に忘れていくものである。
この話も、すでに忘れていたが、夢について実際に目が覚める時に感じたことで、すぐに思い出した。
思い出したというよりも、一瞬、自分が思いついたことのような錯覚を覚えた。
――いや、錯覚ではなく、自分が思いついたことと、過去に聞いた話が合致して、シンクロしているのではないだろうか?
というようにも感じたのだ。
彩名は、自分の過去に何かか禍根を残してきたことを意識し始めた。それが何か分からない以上、余計なことを考える必要はない。
言い知れぬ不安に襲われたのは、降り悪く、鬱状態の時だった。
だが、幸か不幸か、ちょうどその時の彩名は、
――私の躁鬱状態は、今回で終わるんだわ――
という意識を感じ始めた時だった。それまでは漠然とした感覚だったが、過去の禍根を感じることで、今回で終わるであろう躁鬱状態という意識が、確信に近づいた気がしたのだ。
彩名は、しばらくしてから、記憶の一部を思い出すことになった。
思い出したといっても、それほど重要なことを思い出したわけではない。しかも、しばらくしてから、思い出したはずの記憶がまた結界の向こうに隠れてしまったのを感じたからだ。
結界の向こうに隠れてしまうと、思い出したという事実は理解できても、それがどんな記憶だったのかということは思い出せない。何とも中途半端な感覚であり、
――まるでヘビの生殺しのようだ――
と、感じるくらいだった。
彩名は、忘れてしまったとはいえ、それが、
――見てはいけない何かを見た――
ということであることは分かっていた。忘れてしまったとはいえ、完全に忘れてしまったわけではない。それだけに、気持ち悪いものが残ってしまい、中途半端な気持ちが消えないのもそのためなのに違いない。
記憶の一部を思い出したのは、躁鬱状態の繰り返しを抜けたからだと思っていた。躁鬱状態にいる間は、自分が縛りの中にいて、抜けられないことで、
――自由がない――
と思っていたが、本当は、
――見えない力に守られていたのだ――
ということが、彩名の中で縛りというものの再認識に繋がった。
躁鬱状態を抜けることに、不安を感じたのは、きっと見えない力に守られていたということを自分で意識していたからなのかも知れない。それを分かっていたからこそ、彩名は躁鬱状態でも、もがくようなことはしなかった。焦れば焦るほど、自分の首を絞めることになるのを分かっていたからである。
見えない力というのは、夢にも存在している。
夢で見たことが現実になる「予知夢」というのがあるが、彩名は今までに予知夢を見たことがあったように思う。
その夢自体が何か影響を及ぼしたわけではないが、その夢を見たことで、自分のまわりに起こった不吉な出来事から身を守ることができたのではないかと思うようになった。
朝、出かける時、ちょっとした電話。実際は間違い電話だったのだが、
「もう、余計な電話のせいで、遅刻するじゃない」
と、不満タラタラで駅まで行ったが、電話のせいでいつも乗る電車には乗れるはずもなく、次の電車を待っていたが、
「先行列車が脱線事故を起こし……」
という館内放送が入った。
彩名の頭は混乱した。混乱しながら、必死で頭の中が回転しているのを意識していたが、
意識の矛先は、自分が助かったのだということを示していた。
――もし、あのまま乗っていたら……
そう思うと、ゾッとした。まるで虫の知らせでもあるかのようなあの電話は、本当に偶然だったのかと言われれば、
「決して、偶然ではない」
と言いきれるのではないかと思っていた。
虫の知らせというものを今までは信じたことはなかったが、今回のことはさすがに信じないわけには行かなかった。
人間というもの、自分の生死にかかわることであれば、信じないわけにはいかないものなのだろう。
――ひょっとして自由がないと思っていたようなことが、本当は守られていたという意識に繋がっていくのかも知れない――
その時、一緒に感じたのが、
――あの時の電話の声。どこかで聞いたことがあるような気がする――
最初に電話に出た時、違和感がなかった。それは聞き覚えのある声だったからである。しかし、すぐにそれが間違い電話だと気付いた。なぜなら、聞き覚えのある声の主が、自分に電話などしてくるはずがないからだ。しかも、早朝、よほどの緊急性でもない限り、掛かってくるはずもなかった。
だが、違和感なく電話を取った時、変な胸騒ぎがした。やはり、最初に声の主を思い浮かべた時に、緊急性まで頭が回ったからなのだが、間違い電話だと言われると、すぐに納得した。それでも、胸騒ぎは消えなかった。
その胸騒ぎが、まさか事故の予見だったということに、すぐには結びつかなかったが、虫の知らせだと思った瞬間、胸騒ぎが虫の知らせを持ってきたと思うことで、偶然ではなかったという結論に至ったのだ。
ただ、彩名は自分が難を逃れてホッとしたにも関わらず、胸騒ぎは収まらない。
――まさか、これで終わりじゃないということ?
安心できない状況に自分がいるということを、肝に銘じなければいけないと感じていたのだ。
彩名は、それからしばらくして、大学時代の同級生が亡くなったという話を聞いた。理由は自殺だったという。愕然となった彩名は、
――もう、会うことも、話をすることもできないんだ――
と思うと、胸騒ぎを思い出した。
――そうだ、あの時の電話の声は、自殺した友達の声だったんだ――
思い出してしまうと、今度は背中に汗が滲み、寒気とともに、ゾッとした気分が悪寒となって襲ってくるのを感じた。
彩名は、死んだ友達と、それほど仲が良かったわけではないが、なぜか学生時代に気になっていた相手だった。卒業するまで、結局親密になったわけではなく、気になる存在というまま、卒業を迎えた。
――今から思えば、彼女が夢に出てきたこともあったな――
というのを思い出した。
夢の内容は覚えていないが、あまりいい夢ではなかったということだけは記憶している。もっともいい夢なら、夢を見たこと自体忘れていると思えるからで、悪い夢だからこそ、きっと目が覚めてからしばらくなら、夢の内容を思い出せたことだろう。それすら覚えていないということは、敢えて夢の内容を思い出したくないと思ったからで、よほど悪い夢だったに違いない。
――いい夢だったら忘れてしまい、悪い夢なら覚えている――
というのは、一体どの精神構造から来ているのか、彩名には分からなかった。
「怖いもの見たさみたいなものなのかしら?」
とも感じたが、種類が違っているように思えてならない。
だが、電話が掛かったことを思い出すと、夢の中でも、彼女から電話が掛かってきたような気がした。電話の内容は切羽詰ったもので、今にも死を迎えるようなそんな切迫した声だったように思う。
それを思えば、事故があった日の朝、掛かってきた電話の声は、やたら落ち着いていた。落ち着きすぎていて、朝の喧騒とした時間に苛立ちを覚えた記憶があった。だが、胸騒ぎを覚えたことからも、その声が妙に不気味だったことを思えば、まったくの無表情で電話をしてきたように思えてならない。それは、
――まるで死を目の前にした人からの電話――
という意識を持たせるほどで、胸騒ぎは、事故に対してだけではなく、いずれ死を迎える彼女を予見させるものだったのかも知れない。事故が起こってホッと胸を撫で下ろしたにも関わらず、まだ胸騒ぎが収まらなかったのは、予見に二つの意味が込められていたのを分かっていたからなのかも知れない。
彩名は、自分の中に何か特殊能力でもあるのかを予感していた。
――私は、他の人と、何が違うというのだろう?
確かに躁鬱症だったり、過去に欠落した記憶を持っていたり、その部分に自分のトラウマが存在しているのではないかという思いがあるのは事実だが、だからといって、特殊能力を有するほどではないと思っている。
ただ、もしそれが真実であるならば、欠落した記憶にその秘密があるとしか考えられない。
今までは、
――思い出す必要もないので、気にしないようにしよう――
と思っていたが、こうなってくると、あながち無視もできないような気がしてきた。今は誰にも迷惑が掛かっていないが、もし他人に迷惑が掛かり、それが自分に跳ね返ってくるようであれば、ただ事ではすまないような気がする。彩名は今、自分の頭の中が、悪い方へとばかり進んでいることを自覚していた。
――どこかで堰き止めないと――
思い過ごしであれば、それに越したことはないのだが、思い過ごしだと思わせる根拠がない。根拠がなければ自分を納得させるなど無理なことである。
――結論は、最初から決まっていた?
彩名は、自分が悩んだり考え込んだ時、考え始めた時にすでに答えが出ているのではないかという思いを以前から抱いていたことを思い出した。
――答えは、心の中にあるというのかしら?
と思い、自分に言い聞かせてみるが、ハッキリとは答えてくれない。
やはり、自分の考えが堂々巡りの中でも、少なくとも一周はしなければ、自分で納得できる答えだと言いきることはできないのだろう。逆に自分で納得できる答えを見つけることができた時、自分の考えが、堂々巡りを繰り返しているのだということを証明していると言えるだろう。
――欠落した記憶は、最初から欠落していたのだろうか?
という思いがまず頭を過ぎった。
忘れてしまいたい記憶があったとしても、そう簡単に忘れられるくらいなら、普通なら苦労をしないと思う。なかなか忘れられないという葛藤を繰り返しながら、次第に記憶の奥に封印する術を見つけることで、やっと欠落させることができるものだと、彩名は信じていた。
だが、この記憶は、いきなり消えてしまったように思う。
普通に歩いていて、急に目の前の地面がなくなり、奈落の底に真っ逆さまに落ちていくような感覚である。
実は、今までに彩名は欠落した記憶を思い出したことがなかったわけではなかった。
ある瞬間に急に思い出したことがあったが、次の瞬間には忘れてしまっていた。その時、あっという間に時間が過ぎたような気がしていたが、実際には、彩名は意識を失っていて、気が付けばまわりの人から介抱されていた。
「ビックリしたよ、急に意識を失うものだから。救急車を呼ばないといけないと思ったその時、目が覚めたからよかったけど、まるでこん睡状態って感じだったんだけど、今までにもこんなことってあったのかい?」
介抱してくれた人からそう言われたが、同じようなことが、確かに過去にもあった。その時はまわりに誰もおらず、自分だけの世界に入りこんでしまったような感覚だったので、自分では、
――錯覚ではないか――
と思っていた。錯覚は夢という形で、自分を納得させるものに変化していた。
しかし、二度目のその時は、まわりに人もいて、その時も、意識だけが自我の世界を形成していたような不思議な感覚だったのだ。
――私の意識はどこに飛んでいたんだろう?
と彩名は思い出そうとしたが、きっと意識を失った時にまわりに誰もいなければ、以前と同じように、錯覚だと感じ、夢だとして自分の中で処理してしまったに違いない。
それほど夢というものは曖昧で、錯覚まで夢だと思うことで、自分を納得させる道具として使うこともできるだろう。
欠落した記憶は、トラウマを伴っている。
彩名はトラウマを抱えていることは意識しているが、トラウマの正体を知らない。分かっていたからといって、解消できるものではないので、無理して知る必要もないと思っていた。
下手に知ってしまうと、何かあった時、トラウマを意識していないつもりでも、勝手に頭の中に割り込んできて、目の前に現れれば、意識しないわけにもいかないだろう。これでもかというほど見せつけられるトラウマが、目の前に展開されるところなど、想像できるはずもない。
彩名は、異性に興味を持つのが、少し他の人よりも遅かった。中学に入るまでは、異性を意識することもなく、恋愛感情など、自分の中にはないものだと思っていたくらいだった。
クラスメイトの女の子は、お決まりの、
「あの先輩がいいわね」
と、年上の男性に憧れを持つ。それを見ながら、
「そうね」
と相槌を打つが、心の中は冷静さよりも凍り付いたような答え方だったが、友達は彩名のそんな様子に気付かない。
――何て鈍感なのかしら?
と思ったが、男性を好きになるとそれくらい盲目になるものだということを、その時の彩名は知る由もなかった。
彩名が、ここまで凍り付いた目をしているということにまわりは誰も気づかなかったようだ。それだけまわりは思春期の男女に溢れている。彩名には息苦しいばかりだったが、それを跳ねのける意味でも、凍り付いた目は必要だったのだ。
だが、そんな彩名のことを遠くから見ていて、そのくせ、凍り付いた目を一番感じていた人がいた。それが信二だったのだ。
信二は、
――自分こそ、彩名の一番の理解者だ――
と思っていた。
しかし、それを恋心だとは自分で認めようとはせず、もちろん、告白などするはずもない。
もっとも告白しても玉砕するだけなのは、分かりきったことだった。
――あの目で見つめられたら、告白なんかできるはずもない――
と思う気持ちと、
――あの目をしばらくは放っておきたい――
という気持ちとで信二の考えは二分していた。
彩名のその目を、信二は恐れているというよりも、
――貴重な存在だ――
と思うようになっていた。その思いが彩名に対しての恋心とうまい具合に調和して、遠くからでも暖かく見守ることができているのだと感じていた。彩名がそのことに気付くはずはないだろうが、信二にとっては、それが一番ありがたかったのだ。
信二は、彩名の理解者として、彩名が何かあれば自分に相談を持ち掛けるように仕向けることを考えていた。実際に、彩名には相談する相手がいるわけでもなく、悩みごとは一人で抱えていた。それでも、悩みが深くなると信二の視線が気になるようになり、自然と信二に相談を持ち掛けるようになる。
信二は親身になって相談に乗ってあげたが、自分の意見に信二は酔っていた。彩名がそんな信二を信用したのは、二人のバイオリズムが合っていたからなのかも知れない。
その頃の彩名にはまだ躁鬱症の気はなかった。彩名が躁鬱症を感じるようになったのは高校生になってから。そう、信二と離れてからのことだったのだ。
「いずれ、どこかで会えるさ」
別れの時、涙を流し号泣していた彩名が思い出された。彩名にしても、ここまで号泣したのは、後にも先にもその時だけだった。
「本当ね。また会えるよね?」
「当然さ。僕にはそれ以外は考えられない。でも、彩名は僕と再会する前に、きっと他の男性と知り合うと思う。彩名のことを分かっている男性が現れると思うんだ。彩名は自分のことを分かってくれる人が現れると、惹かれてしまう傾向にあるようだけど、全面的に信用してはダメだよ」
と言っていた。
その言葉、絶対に忘れることはないと思っていたはずなのに、信二と再会して、ハッと思い出した。つまりは忘れていたのだ。
――どうして忘れたりしたんだろう? というよりも、忘れたという意識はない。覚えていないといけないという思いをずっと持っていて、信二と出会ってハッと思い立つまで、私は忘れていたということに、気付かなかったんだわ――
と感じていた。
この思いが何を意味するものなのか、ハッキリと分からなかったが、
――忘れるということは、覚えることを止めるというのとは、違うイメージで思っていたのに、実際には同じことだということを思い知らされた気がする――
と、感じた。
結果としては同じことでも、忘れるということは、無意識に行うことであり、覚えるのを止めるというのは、意識的に行わないとできないことだ。それは、忘れるという行為は、最初に覚えることから始まって、そのまま無意識に記憶のどこに収めるかという選択をする時、封印する方に入れるということである。覚えるのを止めるというのは、まだ覚えるところまでは至っていない。つまり記憶云々以前の問題なのだ。意識が伴わないと、そのまま覚えてしまうのが、人間の摂理というものではないだろうか。
――人は、無意識なら、記憶するようにできている。でも、思い出せる記憶なのか、思い出せない記憶なのかの振り分けは、本人の意志に関わらず、無意識のうちに行われる。それが本能なんじゃないかしら?
と、彩名は感じていた。
欠落した記憶を感じている彩名だからこその考え方だと言える。他の人はもっと違う考えを持っているだろう。そして、彩名に欠落した記憶がなければ、違う考えを持っていたはず。そこまで考えてくると、
――世間では、人の数だけ違う考えを持っているのかしら? それともいくつかのパターンに分けられている中のどれかに必ず当て嵌まるようにできているのだろうか?
と、考えるようにもなったが、彩名は、いくつかのパターンに分けられているように思いながらも、人それぞれ微妙に違っていて、決してこの世に同じものは二つ存在しないのではないかという考えでもあった。要するに、それぞれの考え方の「いい所取り」という感じで考えているようだ。
それにしても、信二の彩名に対してのあの絶対的な自信はどこから来るのだろう?
――ひょっとして、人は一生のうちに、自分が絶対的に自信を持てる相手がどこかで見つかるのではないだろうか?
それが、いつのことなのか、どこでなのか、そしてもしその時に遭遇したとして、その人は、本当に自分が絶対的に自信が持てる相手なのかということに気付くかどうかということが一番肝心なのではないかと思うのだ。
彩名には、まだ見つかっていないが、信二にとってその相手は彩名だった。
彩名は、それを感じた時に、
――私の相手から、信二は消えてしまったんだわ――
と思い、落胆していた。ひょっとすると自分の相手が信二だと思っていたからである。
だが、本当にそれでいいのだろうか? 双方向からお互いに自信が持てる相手だとして見つめることもありなのではないだろうか? お互いに好きになって、相手を大切に思うことができればそれが思いやりに繋がるように、相手に対してお互いに自信が持てるということは、これ以上の絆はないのではないかと思うからだ。彩名は、最初に自分の相手が信二ではないと思いこんだことで、自分が堂々巡りを繰り返すことになるなど、想像もしていなかったことだろう。
しかし、自分が絶対的に自信の持てる相手が、同じように自分に対して自信を持ってしまえば、どうなるのだろう?
本当にその二人はうまく行くようにできているのだろうか?
確かに相手に対して自信が持てるということは、それだけ相手が見えるということだろうから、相性は合う二人なのかも知れない。
しかし、見えすぎるというのも、本当にいいことなのか分からない。見えすぎてしまうということは、いいことだけならいいのだが、悪いことまで見えてしまう。
ただ、中途半端に見えるよりはいいかも知れない。
中途半端に見えてしまうと、どうしても、相手の性格から、見えている先を先読みしてしまうことになる。しかし、見えてきたものに対して、絶対的な自信があるわけではない。絶対的な自信から出来上がったものであれば、それでもいいのだが、勝手な想像ほど、相手を見誤ってしまう。
ただ、相手に自信を持っていることを、お互いに知っている場合はどうであろうか?
相手が自分に対して自信を持っていないと思っていれば、自分の優位性は揺るぎないものだが、相手も自分に自信を持っているということが分かっていれば、まず考えることとして、
――果たして、どちらの方が相手に深い自信を持っているというのだろう?
ということだ。
それが競争心として頭に描いてしまえば、自分も負けまいとするだろう。
だが、なかなか仲のいい相手に対し、お互いに絶対的な自信を持っている人というのはいないのではないかと思える。どちらか片方にでも絶対的な自信を持っている人がいるなどということすら珍しいことだと思える。それがお互いとなると、探すのは宝くじを引くようなものだろう。
いや、それ以前にありえないような気もする。
――お互いに相手に対し、絶対的な自信を持った時点で、相手の限界を見切ってしまい、付き合って行く意味を失ってしまうんじゃないかしら?
と彩名は考えた。
お互いの限界が見えてしまうと、相手に対しての「期待」というものがなくなってしまう。
もちろん、「不安」も一緒になくなってしまうかも知れないが、それがお互い長年付き添ってきた夫婦であるなら、別れる必然性はないが、まだ結婚もしていない、これから相手を自由に選べる身であれば、シラケてしまうのも必至であろう。
それでも相手に執着するというのであれば、それは、自分ではどうすることもできないほど、相手のことを好きになってしまったということなのか、それとも、
――運命の人と出会った――
と、信じて疑わない気持ちの方が強い人なのかのどちらかであろう。
だが、交際というのは相手があって成立するもの、相手がいかに考えるかで決まると言ってもいい。特に、ガチガチの考え方で、頭の中に余裕のない人は、特に相手の考え一つで、その後は決まってしまうに違いない。
――それじゃあ、あまりにも寂しいじゃない――
彩名は、自分が信二に対して、絶対的な自信を持っていないことにホッとしていた。裏を返せば、信二に期待していると言ってもいい。
信二の方はどうなのだろう?
彩名に対して絶対的な自信を持っていて、彩名に対して限界を見ることがないのだろうか?
――ひょっとして、中学の時に、信二が私から離れた時、平静でいられたのは、一度頭を冷やしたかったからなのかも知れないわ――
と感じた。
さらに、信二は言ったではないか。また会うことができるのだと……。
しかし、その時に、予感めいたことを言っていたのも一緒に思い出した。彩名は、自分に対して絶対的な自信が持てるような男性に出会うと言っていたが、彩名の頭の中に浮かんできたのは、隼人のことだった。だが、隼人を思い浮かべてしまうと、必然的に、次郎も一緒に頭に浮かんでくる。
――私にとって、二人はセットなのかしら?
というイメージが浮かんできた。
信二が中学時代の彩名に何を見たというのだろう? 彩名は確かに単純な性格だと思っていたが、そんなに人に看破されやすい性格だというわけではなかったはずだ。
人のことがよく分かる時と、相手が自分のことを分かる時というのは、同じ時期に共存しえないことだと以前は思っていた。しかし、次郎と隼人が現れたことで、その考えは間違っていたことに気付かされる。
隼人は、彩名に優位性を持っているが、決してそれを表に出そうとはしない。しかし、彩名は次郎に対して持っている優位性を表に出している。次郎は、彩名に自分のことを分かってもらえたことが嬉しいと言っていた。今まで誰にも分かってもらえなかったようで、一人悶々としていたようだ。
隼人の方が、次郎よりもしっかりしているように見えるが、隼人にもグレーな部分がいくつか見えてきた。
特に、彩名の優位性を持ってしても、隼人の中のグレーな部分には入り込むことができない。隼人はそれを、
「自分でも分からないんだけど、好きな人ができると、必ず相手から、『あなたは何を考えているのか分からない』と言われて別れることになるんです。どうやら、僕の性格は女性に理解されにくいようで、自分でも悩んでいるんですよ」
と言っていた。
きっと、隼人には自分の中にグレーな部分が存在していることを理解していないのだろう。自覚症状がないことで、隼人は今まで自分が損をしてきたと思っているようだが、果たしてそうなのだろうか?
隼人は一見控えめに見えるが、実際にはそうでもない。次郎と一緒にいる時は、結構饒舌である。
隼人は次郎のことを親友のように思っているが、次郎の方では、そこまでは思っていない。
――たくさんいる知り合いの中の一人――
という位置づけなのだろう。
次郎にはたくさん友達がいるのは確かだ。中にはそれほど深い仲ではない人も結構含まれている。本当に友達と言えるのは、四、五人程度というところだろうか。それなら他の人とあまり変わりはない。
そういう意味で行くと、彩名には友達と言える人は一人もいない。彩名は女性と話すことをあまりしない。自分から避けているところがある。理由については、自分でも分かっている。
要するに、相手から見透かされるのが嫌なのだ。
相手が男性であれば、別に構わないと思っている。同性だと、心の奥底までも土足で上がりこまれるような錯覚を覚えることで、自分の居場所が失われることに恐怖すら覚える。しかも女性は、男性に比べて限度というものを知らない。一度目を付けられると、果てしない恐怖が、ずっと続いて行くように思えて仕方がないのだ。
そんな自分と同じような「匂い」を感じるのが、隼人だった。
隼人は、まわりの人間を基本的に毛嫌いしている。友達がいるように見えるのも、隼人が女性でなく男性だからだ。もし隼人が女性であれば、まず友達は一人もいないに違いない。
それにしても、そんなに友達がいないというのが珍しいことなのだろうか?
彩名には友達がいないことの方が自由に行動できるから好きだった。下手にまわりに誰かがいると、好き勝手できない。しかも、少しでも自由を目指そうとすると、誰か一人から、
「団体行動を乱すような行動は控えてください」
と言われかねない。
言われても別に気にしなければいいのだが、それほどメンタル的に強いわけではない。それよりも、空気の密度が濃くなっていくことで、過呼吸になってしまう状態に耐えられないのだ。
一度、一人の世界を知ってしまうと、そこから抜けられなくなる。
「一人は孤独で寂しいものだ」
などというのは、
――嫌でも団体行動をしないと生きていけない――
という考えの元、逃れることのできない自分と、一人でいる相手とを比較して、いかに自分の方がまだマシなのかというのを必死で探している中、孤独というキーワードが自分にとっての救いとなることを自分に言い聞かせるための、言い訳のようなものではないだろうか。
彩名の両親は、まわりとの付き合いに関しては、結構厳しかった。
「人付き合いができない人は、立派な大人になれませんよ」
と、何度言われたことか。
今から思えば、陳腐なテレビドラマでも言わないような言葉を、よく親は平気で口にしていたものだと思うくらい、平凡な家庭の平凡な親が、子供に言って聞かせる殺し文句だった。
それに対して、
――何かおかしい――
とは思いながらも、反発できない自分にいらだちを覚えていた。何かと言えば、
「ちゃんと自分で考えなさい」
と言っていたことで、その反発から、一切余計なことは考えないようになっていた。反発心が強かったのも事実だが、自分の中にある言い知れぬ苛立ちが、考えることをやめさせた。
言い知れぬ苛立ちの原因を作ったのは親だというのが分かっているので、反発心が強まってくる。自分のまわりに結界のようなものを作ることができるようになっていたのだが、子供の自分には意識すらなかった。
さすが親には、子供が結界を作っていることが分かったようだ。自分の子供に自分たちへの結界を作られたことを屈辱とでも思ったのか、ムキになって子供に向かってくる。
しかし、相変わらずの「大人の理論」で向かってきても、彩名の結界を崩すことはできない。
――どうしてそんな簡単なことが分からないんだろう? 押さえつけるだけで、子供がいうことをきくとでも思っているのだろうか?
と、考えるようになっていた。
もう少し工夫をしてくれば、もう少し違った展開もあっただろうが、同じような押さえつけなので、さすがに子供でも業を煮やした。
その時彩名は、自分と親とが、大人の世界と子供の世界で逆転した気がした。
――親といっても、まるで子供みたいじゃない。親という権力をかさに着て、それで子供を従わせようなんて、何て幼稚で陳腐な考え方なのかしら?
自分がどんどん冷静になっていくのを感じた。すでに親の言葉など届かない。今まで絶対的に届かない相手だと思っていたことがバカみたいだ。
――どんなに努力したって、年齢が近づくことがないように、親に逆らうことなんてできないんだ――
と、思っていたからこそ。理不尽なことでも、無視することができず、何とか自分なりの結論を見つけないと、自分が潰れてしまうと思っていたのに、親の情けなさが身に沁みてくると、バカバカしさから、相手が何を言っていようと、無視すればいいという理屈が自分を勝手に納得させてくれる。
ちょうど、記憶の欠落はその頃の記憶だった。
だから、彩名は、
――記憶の欠落の原因は、親に対しての思い入れにあるのかも知れない――
と思っていた。
あまりにも冷静になりすぎて、覚えていなければいけないことも、冷静さが起こったことを記憶として留めることを許さなかったとも考えられる。今まで生きてきた中で、一番冷静だった時期が、その時だった。感受性というにはまだまだ子供だった頃で、ただ、まわりからの愛情の度合いによって、それ以降の人生がいかに変わってくるかという大切な時期でもあった。
まわりが愛情を注いでいるつもりでも、子供にそれが伝わらなければ意味がない。彩名の親も愛情を注いでいたのかも知れないが、冷めた頭の子供には、大人の常識など通用しない。結界を作られて、冷静さを保つことを覚えられてしまい、歩み寄ることすらできなくなる。
手を伸ばせばすぐそばにいるのに手が届かない。それは親の方で、距離の遠さを自覚しない限り決して近づくことのない平行線。それを彩名は感じていた。
ただ、最近彩名は、
――記憶の欠落は、親に対しての思い入れだけではない――
と感じるようになっていた。
その思いを起こさせたのは信二だった。
再会できて懐かしい信二だったが、信二に対しては、それだけの思いではない。それ以外に何か隠された感覚があった。
――何を恐れているんだろう?
彩名の中で、信二との再会で忘れていた、
――恐れ――
というものが、吹き出してきたような気がした。
それが何を意味するものなのか、彩名にはまだ分かっていない。その時に思い出したのが、親に対して感じた、あの時の冷静さだった。感受性は欠如し、近づいてくるものを敵意でしか見ることのできない目、あくまで下から見上げるその目は、上から見下ろした時に、さらなる恐怖を煽る表情となっていることだろう。
――何も私のことを分かっていなかった母親――
それは、
――分かっていなかった――
わけではない。
――分かろうとしなかった――
ということが、子供であっても冷静になることで理解できたのだ。あの時の彩名は、ひょっとすると、
――今までの中で一番頭の回転が早かったのかも知れない――
と、感じるほどだった。
子供の頃は「怖いものしらず」である。大人に近づくにつれて、いろいろ経験をすることによって、何が怖いのかを覚えていくうちに、次第に何もできなくなってしまう。
普通は、意識することもないだろう。元々、子供が大人になっていくわけだから、変化があって当然だという意識もあるのかも知れない。しかし、彩名の場合は、明らかに怖さや怯えを感じているのが分かった。そして、そんなことを感じるくらいなら、
――大人になんかなりたくない――
と思うようになった。
大人の汚い部分が見えてきて、大人になりたくないという人もいるようだが、それは彩名から見ればきれいごとにしか見えない。
――大人になりたくないという結論に理由をつけるとすれば――
という切り口から入ることで、強引に納得させるための理由がいるのだ。
その理由は、綺麗なものでなければいけない。
――大人になりたくない――
という明らかに後ろ向きの考え方を納得させるのだから、何かそれなりの考えが必要になる。それが、「綺麗」という発想なのだ。
逆にいえば、
――大人の世界は汚い――
と考えられる。そう考えるからこそ、得体の知れないものが蠢いていて、近寄ると飲み込まれてしまいそうな錯覚を覚えるのだ。まるで魑魅魍魎が蠢く世界が大人の世界に思えてきて、一度嫌なものだと思ってしまうと、崩してしまったイメージは堕ちていくしかないのだ。
記憶が欠落している部分の、そばの記憶であると思われるところは、意外とハッキリと覚えている。
学校の帰りは、いつも友達と一緒だった。それは、彩名が望んだわけではなく、一種の集団下校だったのだ。
三か月を目安に決められた集団下校。学校の近くで、強盗があったからだというのが理由だったが、強盗犯は、集団下校が始まってから、一か月のうちに捕まった。しかし、学校側は、
「安全には安全を期して」
ということで、集団下校は続行された。そのせいもあってか、彩名は友達と話しをする機会が増えた。
元々、話しベタだった彩名である。話す機会が増えたといっても、何を話していいのか分からない。下手に口を開いて、相手の心証を悪くしても仕方がない。数人のグループというのが幸いしてか、なるべく目立たないようにしていた。
すると、そのうちの一人が、
「彩名ちゃんって暗いわね。何か喋ればいいのに」
と、余計なことを口にした。
まわりの視線は、彩名に向けられる。彩名はまわりを見ながらしどろもどろだ。
――早く時間が過ぎてほしい――
と思っていると、本当に時間が早く進んでくれたのか、
「放っておきましょう。こんな子相手にするだけ時間の無駄よ」
と、彩名は端っこに追いやられた。
時間の無駄だと言った子は、それで彩名が困った顔になるのを待っていたようだが、彩名の表情が変わらないことで、彩名に対して恨みに近いものが芽生えたようだ。
その時から、彩名は嫌がらせを受けるようになった。嫌がらせは皆から受けていたわけではなく一人からだったので、比較的軽度なもので、しかもすぐに止んだ。彩名もまわりに嫌がらせを受けていたことを黙っていたので、この二人の間に起こったことは、すべて誰も知らないことだったのだ。
その女の子は、少しして引っ越して行った。彩名は、
――自分のせいだ――
と思うようになっていた。しかし、すぐにそのことも忘れてしまっていたが、彼女のことを思い出したのは、彼女の家がお金持ちだということだった。
それまで住んでいた彼女の家は、廃墟となり、誰も住む人もおらず、草が生え放題になていた。
彼女とのわだかまりが起きる前、友達を招いての誕生日パーティを開いた時、彩名も彼女の家に初めて入った。
大きな家だった。表から見るよりも、中は広く感じられた。その時が、彼女の家に行った最初で最後となったのだが、彩名の記憶は、パーティの豪華さよりも、無駄に広い家に吹いた横風のイメージだった。
パーティは賑やかだったが、印象としては、思ったよりも質素だった。主役が目立つのは当然のことだが、彼女は別に自分から目立とうとしなくても、十分目立っていた。まわりも同じことを考えていたのだろう。下手な演出で興冷めしている人もいた。
しかし、彼女にはまわりから目立たせるものが必要だった。自分からは決して光を放とうとしない、そんな雰囲気をまわりが気を遣ったのだ。
彩名は、そんな彼女をいつも他の人とは違った目で見ていた。自分でも違った目で見ているという意識はあったが、それが相手を傷つける目だということには気付かなかった。
廃墟になった彼女の家に入ってみると、建物の奥に井戸があるのが見つかった。
――あのお屋敷の奥に、こんな井戸があったなんて――
井戸というと、旧式の和風建築の家に見られるものというイメージがあった。
今でこそ、昔のイメージをとどめていないが、西洋風屋敷としての佇まいは、威風堂々としたものだった。少なくとも彩名が知る限りでは、和風建築が施されていたというイメージはどこにもなかったのだ。
井戸は、草が生い茂った中にポツンとあり、
「よく見つけることができたわ」
と思うほど、まわりは、散々たるものだった。
さすがに井戸に近づくのは怖く、遠くから見ていると、井戸のまわりに生い茂った叢が、次第に暗黒を帯びていくのを感じた。
井戸を見ていると、逃げ出したくなる衝動に駆られた。それは、得体の知れない恐怖から逃げ出したいという思いではない。もっと現実的な思いだった。
現実的でもあり、切実な感覚は、彩名にとって、思い出したくない記憶の一つがそこにあることを示していた。
――確かあの時は、親に対しての確執があった時で、家に帰りたくないという思いの中、どこに行くとも知れず彷徨っていると、井戸の近くまで来ていたような気がした――
その思いは、ここだったわけではないが、この屋敷に井戸があるなど知らなかったはずなのに、井戸を見つけることができたのは、まわりの雰囲気が井戸を思い出させるに十分な雰囲気だったからだ。
彩名は、自分がその時誰かを好きだったのを覚えている。その男の子とはうまくいかなかったが、その時、いつも彩名の意識の中にいたのが信二だったということを、思い出すことができた。
信二を好きだったわけではないが、しつこいほどに意識に入り込んできた信二を、気にしないわけにはいかない。もちろん、嫌いだったわけではないので、好きになろうと思っていたような気がする。
だが、信二を好きになる寸前で、自分の中で何かが起こり、信二を好きになってはいけない何かが生まれた気がした。それは信二が悪いというわけではなく、あくまでも彩名自身の問題だった。
彩名はその時、信二と離れてしまうことを意識していた。それが小学生の頃のことであって、再度、信二を意識するようになったのは中学に入ってからのことだった。
中学生になると、他の人に比べて、大きな変化ではなかったはずだが、少なからず、男子を意識するようになってきた。その時思い浮かんだ相手は、信二以外にはいなかったのだ。
だが、その時信二も同じように思春期だった。そんな当たり前のことを考えられないほど気持ちに余裕がなかったのか、信二が、彩名の他に好きな人がいるということに気付かなかった。
最初は相手が誰なのかまったく想像もつなかなかったが、まだまだ子供の彩名には、足元にも及ばないほどの女性なのは確かだろう。
彩名には、その女性と競い合ってでも信二を自分のものにしたいという思いはなかった。思春期の時の彩名は控えめで、好きになった人に他に意識している人がいれば、簡単に諦められるだろうと思っていた。信二に対しても同じことで、相手の女性がどんな人なのか気にはなったが、基本的に、
――その人から奪い取ろう――
などという意識までは持てなかった。
理由は、
――自分に自信がないからだ――
と思っていた。
人と競争して勝てればいいが、もし負けてしまったら、情けないだけだ。好きな相手からは、惨めに見えることだろう。
好きな相手には振り向いてもらえず、さらに惨めに見られてしまっては、これ以上情けないことはない。それだけは避けたかった。
そんな気弱な気持ちというのは、相手にも伝わるものなのだろう。信二を競い合っている相手の女性は、これ以上ないというほど、自信に満ち溢れているように見えた。
子供の頃の彩名は、自分に自信を持てる時期は、本当に自信過剰なほど、まわりに対して高圧的な態度を取っていた。本人には、そこまで高圧的な態度だとは思っていなかったのだろうが、
――まわりの人には負けたくない――
という思いがいつの間にか、意識の中で大きくなっていて、自信過剰な時ほど、まわりを意識してしまっていた。
冷静になって考えると、まわりを意識している時というのは、本当の自信を掴めていない時だと思えた。子供の頃の自信というのは、環境が少しでも変わって、心境が変化してしまうと、吹けば飛ぶような軽石のような自信しか持っていなかったことになる。彩名はそんな自分を意識の中にいる自分が追い詰めていたような気がして仕方がなかった。
彩名の記憶が欠落している時期、つまり、小学生の低学年のこの頃、欠落した記憶に対し、
――絶対に忘れたくない――
という強い意志があったとすれば、それ以降の人生が変わっていたことは間違いないだろう。
だが、それがどれほど大きな変化となるかは、分からない。思い出す必要もないような気がする。
だが、二十五歳の今になって、彩名は信二と再会した。これが偶然ではないにしても、一体、時代の流れは、彩名に何をさせようというのだろう?
時間の流れが微妙に違っているのを感じた時、彩名は信二を強く意識し始めていた……。
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