第2話 信二と香織
第二章 信二と香織
彩名が、中学時代のクラスメイトだった信二と再会したのは、次郎や隼人との関係を奇妙に感じ始めた頃のことだった。
あれは、会社の用事で、出身中学校の近くまで来た時のことで、懐かしくなって、学校を覗いていると、そこに現れたのが、信二だった。
「彩名ちゃんじゃないのかい?」
「えっ」
振り返ると、少し無精ひげを生やした、一瞬近寄りがたい男性が立っていた。思わず後ずさりしそうになったのを堪えた彩名は、相手の顔を凝視した。一見、野性的な雰囲気に見えたが、よく見ると、どこかあどけなさが感じられた。しかも、どこかで見たような気がして懐かしさすら感じた。相手がこちらを知っているのだから、懐かしさを感じても無理もないことだが、それでも、新鮮な気持ちになってくる自分がいるのを感じた。
「信二君?」
両目の焦点を合わすかのように、左右から、ぼやけた顔が寄ってきて、そこで綺麗に重なったその顔は、中学時代に見覚えがある信二だったのだ。
――まるで、指紋照合のスクリーンを見ているようだわ――
と、感じたのは、最近、二時間ドラマの見すぎだろうか?
最近、テレビをよく見るようになった。それだけ表に出ることがなくなった証拠なのだが、家にいても何もすることがない。昨年までは、そんな毎日に嫌気が差して、休みの日でも、必ずどこかに出かけていた。そんな時に限って誰に会うこともない。それはそれでありがたいのだが、表に出たからと言って、何をするわけでもない。
次郎や隼人と知り合ってから、少し自分の身辺が慌ただしくなってきたが、表に出ていても、結局何もすることなく、家にいるのを選んでしまうと、今度は表に出るのが億劫になってくる。
――時間にメリハリをつけないと――
と思っているくせに、家にいる時は、結局テレビを見ていることが多い。
彩名は、平日が休みの時が多い。昼下がりは二時間ドラマが多いこともあって、不安なことも、二時間ドラマに結びつけて考えてしまう自分に、苦笑いしてしまう。
指紋照合のスライドのように、顔が一致することで信二を思い出した彩名だったが、中学時代の面影はかすかに残しているとはいえ、ここまで雰囲気が変わってしまうとは、ビックリした。
無精ひげというと、彩名には、どうしても、野性的な男性のイメージがある。正直、野性的な男性が苦手だった。それならまだ、優男の方がよかった。ただし、同じ優男でも、自分に逆らう男性は、最初から相手にしない。
――私は、やっぱりSなのかしら?
と思ったが、次郎や隼人を相手にする時に感じた優越感とはまた違うイメージのSである。
単純に、
――相手が私にひれ伏してくれればそれでいいんだ――
とは思いながら、相手が弱さばかりを表に出しているのであれば、我慢できない。彩名にだけ服従しているのだが、それ以外のまわりの人を従えるくらいの男性を求めている。
もちろん、究極の相手に違いないが、決して探して見つからないことはないと思っている。
基本はSであるが、彩名に対してだけはMになる男性。つまり、それだけ、彩名自身のS性が強いのではないかと思っていた。
――でも、どうしても、自分を納得させることができないわ――
欠落している記憶があるから、そんな男性が存在するのだと思っているのかも知れないと、彩名は感じていた。
彩名は自分が男性に絶対に服従しない性格であることを、自分で分かっている。もし、相手に優位性があっても、
――そんな人とは付き合わなければいいんだ――
と、思うからだ。
だが、そう簡単にも行かない。彩名は、自分がどんな男性に惹かれるのか、自分でもよく分かっていなかった。
そういえば、中学時代の信二が、彩名に好意を持っているということを、気付いていたのを思い出した。中学時代の彩名は、男性から好かれるタイプではなかった。どちらかというと暗い性格で、いつも何を考えているのか分からないと思われていたに違いない。
「人を好きになるのって難しいのよ」
友達の女の子が他の友達に話しているのを聞いていた。二人は別にまわりに隠れて話すこともなく、オープンに会話をしていた。聞こうとしなくても、聞こえてくるのだ。
「どうして? 誰に憚ることもなく好きになればいいことでしょう?」
「最初はそれでもいいんだけど、好きになったら、どんどん相手のことが知りたいって思うでしょう?」
「ええ」
「その時点で、相手にプレッシャーが掛かっているのよ。相手は気付かないかも知れないけど、好きになった方の女性から、見えない強い視線を浴びることになるでしょう? まるで、太陽の紫外線のようなもので、気が付けば、相手の気持ちの中に入っていたりするものなのよ。ただ、入ってしまって抜けられなくなる場合もある。その場合は、相手も意識することになるんだけど、今度は、視線を投げていた人の方が、相手を見つめる目に狂いが生じてくる」
「どういうことなの?」
「相手の中に入りこんでしまった自分の想いが、自分の視線を引き付けることになるの。だから、ひょっとすると、その時点で立場が入れ替わってしまうこともあるということなのよね」
「それは、直線が交差して、一度重なったものが、今度は反対方向に離れて行くような、そんな感じかしら?」
「ええ、それに似ていると思うわ。だから、人を好きになったとして、その気持ちが成就するか、成就しないまでも、自分に納得のいく結論が得られるかどうかというのも、すべては、タイミングの問題だと思うのよね」
「そうですね、確かにタイミングですね。そういう意味で、恋愛感情が交差した時というのは、お互いに分かるものなのかしらね?」
「私は、分からないものだと思うわ。きっと本当に瞬間だと思うの。気が付けば右にいた人が急に見えなくなった。本当は左にいるのにね。そのことに気が付けば、もう一度気持ちをリセットすることで、その二人は、これからもずっとうまく行くと思うの。でも、それに気が付かないと、すれ違ったまま、二度と交わることはない……」
「そういえば、気持ちがすれ違うって言いますものね」
「そうね。でも、一般的に言われている気持ちがすれ違うという感覚は、直線が交わって、そこから離れて行くのと現象は似てるように感じるけど、違うものだって思うの。上から見れば同じことなんだろうけど、横から見ればまったく違う。人を好きになってすぐの時は、相手との高さが合っていないものなのよ。だから相手も自分のことを気にしてくれているとしても、結局交わることがないのは、高低差があるからなのね。それは立場であったり、年齢であったり、年齢に関しては、意識していないつもりでも、直線に描くと、高低差がかなりあると私は思うの。つまり、少なくともどちらかが歩み寄ることをしなければ、年齢差というのは、埋まらないものなのよ」
何やら難しい話をしていたようで、それでも彩名は納得して聞いたつもりだった。
しかし、しばらくして自分も他の人を好きになった時、ふいにその話を思い出して、
――どうしてあの時納得できたのかしら?
と感じたのは、後になって思い出そうとすると、ところどころに辻褄が合っていないことに気付いたからだ。
好きになった人は二歳年上の先輩だったが、先輩との年齢差は感じなかった。ただ、もし好きになっていなければ、年齢差だけを意識して、
――雲の上の存在――
と思ったのではないだろうか。
彩名はその人を好きになったことで、年齢差という垣根を超えたような気がしていたが、実際には、近づきたいという一心が、年齢差という大きな垣根を曇らせたのかも知れない。
相手の男性を意識する時、線で結ばれた状態を思い浮かべたのは、中学時代に聞こえてきた話が嫌でも思い出されたからだった。その時に、彩名が見つめていた「交差」する瞬間がぼやけていたのだ。
――高低差は絶対に交わることはない――
それは、年齢で相手には絶対に追いつけるわけがないと思ったからだ。もし追いつけるとすれば、それは、先輩の死を意味していた。
――私はなんてことを想像したのかしら?
先輩の死を少しでも考えてしまった自分が怖くなり、その瞬間に、それまで見えていた「交差」する瞬間が見えなくなった。
――よかった――
彩名は、そのことをいいことだと思う以外に、感じることはなかった。その時から、
――男女の関係が見えるなどというのは、おこがましいことだ――
と、考えるようになった。
彩名は、自分が中学の時に好きになった男性のことを思い浮かべていた。
その人は、高校の先輩だったのだが、その人は結構モテる人だった。中学生の、しかもあまり目立たない彩名など、意識するはずもなかった。
その先輩の話を、信二の口から聞かされた。
「あの人は優柔不断なところがあって、二股を掛けたとか、一度に何人もの女性とお付き合いをしていたなんて噂が絶えなかったんだ」
「……」
彩名は、その話を聞いて、黙っていた。本当は好きだったのだということを、もう少しで喋ってしまうのを何とか堪えられてよかったと思った。
「でも、その人は、皆が噂するような人じゃなかったんだ。ただ、結論としては、同じ時期に二人の女性と付き合っていたことも事実のようなんだけど、だから、優柔不断だって思うんだけど、本人は『自分に正直なだけだ』と言っていたらしい」
「それで?」
「でも、それって言い訳にしかならないよね。二人を好きになったとしても、本当に好きな相手は二人いないわけだから」
「でも、それって、本当にそうなのかしら? 一度に好きな人が複数いるのって、悪いことなのかしら?」
「いい悪いの問題じゃなく、相手の二人の女性の気持ちを考えた時、どう思うかということよね?」
「相手の二人はどうだったんですか?」
「お互いに遠慮しちゃって、彼から自分の方が別れるって言っていたらしいんだけど、それが本音なわけがないことは、誰も目にも明らかよね。だから、余計に先輩は、板挟みになったみたいで、苦しんでいたようなの」
「それって自業自得ですよね?」
「確かにそうなんだけど、あなたが彼の立場になったらどうかしら? 男の人って、女性の方から好きになられると、自分の気持ちよりも、相手が好きになってくれたから、自分も好きになったと、思ってしまうもののようね。だから、女性から好きになられた男性は、自分に優位性があることを強く意識するのよ」
男の信二は、男性のことを自業自得だと思ったのに、女性の側の彩名は、彼を庇おうとしている。普通なら逆に思えるが、彩名には分かったような気がした。
――先輩は、女性っぽいところがあるんだわ――
と感じた。
「結局、どうなったの?」
「二人の女性は、彼の出す答えに従うことになったんだ。彼に一定期間の時間を与えてね」
「それって、厳しい」
「そうだね。この場合、三人が三人とも苦しむことにあるからね。女性二人は、待っていることの苦しさ、男性の方は、選ばなければいけない辛さ。どちらも甲乙つけがたいものかも知れないね」
「そうかしら? あなたなら分かると思うんだけど、どっちが辛いと思う?」
信二は考え込んだ。そして、少し間を置いてから答えた。
「やっぱり、女性の方がきついかも知れないと思うね。だって、決めるのは自分じゃなく、相手なんでしょう?」
「そう、待っている方が相当辛いと思うわ。でも、それ以前に、男性はきっと、女性二人から迫られた時に、すでに結論は出ていたと思うの。でも、答えを出しきれないのは、未練というよりも、自分をいかに納得させられるかということが重要だったんじゃないかしら」
そう言われて、信二は、ハッと思った。
そのリアクションを見て彩名は、
――この人にも、同じような経験があるのかも知れないわね――
と、感じた。
もちろん、シチュエーションも立場も違っているのだろうが、何かを決めなければいけないという時、特にたくさんの中から一つを選ぶという時よりも、二つの中から一つを選ぶ方が、どれほど辛いかということを分かっているからなのかも知れない。
たくさんの中から一つを選ぶのは確率的に厳しい。それだけに、ある程度の諦めの気持ちが漂っている。そう思うと、二者択一というものがどれほど難しいか、考えれば分かることだった。
――逃げの気持ちは許されない。つまり、絶えず前を向いていなければいけない――
そう思うからだった。
「その先輩はどうなったの?」
「二人のうちの一人を選んで、円満に行っているということだよ。フラれた方の彼女も、最初はショックだったようだけど、すぐに他の男性を好きになって、うまくいっているみたい。それはきっと、先輩が逃げずに一つの結論を見出したからに違いないね」
「それなら、よかった」
「先輩は、それから小説を書くようになったんだけど、恋愛に関しては、結構的を得ているようで、アマチュアではあるんだけど、ネットでの順位はそこそこだが、その時の選択が、先輩の才能を開花させたのかも知れないな」
「アマチュアでも、小説を書けるなんてすごいですね」
「『真実は小説よりも奇なり』という言葉があるんだけど、その言葉を意識していないと、小説は書けないっていう話だぜ」
「どういうこと?」
「確かに、『真実は小説よりも奇なり』という言葉は、その通りだと思うんだけど、それを無視していては、逃げていることになるでしょう?」
「でも、そればかりを意識していては、前にも進まないわよね」
「そうなんだ。だから、意識はするけど、その言葉を素直に認める気持ちも持っていないといけない。そのまま認めてしまうと前に進めなくなるから、認めた上で、いかにその言葉に近づけるかということを、意識し続けなければいけないんだ」
「永遠のテーマなんですね」
「僕はその話を聞いた時、人間って、何かを悩んだ時、すでに答えは出ているものなんだって思ったんだ。でも、それを認めたくないもう一人の自分がいる。要するに、捨てきれない自分だよね。その自分との葛藤が心が決まった上で行われる。それって、本人にとって、矛盾したことになる。でも、その壁を超えなければ、一つのことを選ぶことができない。選択って、それだけ難しいことなんだって思うよ」
「自分の中で、迫られた選択を、それほど意識せずにこなせるようになったら、何でもできてしまう気がするわね」
「いや、そんなことはないさ。意識せずにこなせるほど、単純なものではないし、何でもできてしまうと思うほど、人間は自分におこがましくできてはいないだろうからね」
信二の話は何となく分かった。
「でも、ある意味、時間がもったいない気がするわ。最初から結論が決まっているのなら、本人も、まわりも悩まずに済むんだから、さっさと結論を決めてあげれば、皆楽になれるんじゃないかしら?」
「そうでもないさ。人には、誰でも通らなければならない道というのがあると思うんだ。これはそのための大切な道の一つなんじゃないかって思うんだ」
「それぞれの当事者は、自分だけのことで精一杯なんだろうけど、こうやって他人事として話を聞いている方も、どちらの気持ちも分かる気がするので、結構精神的に重い気分にさせられる気がするわ」
「重たい気分にはなるだろうけど、暗く鬱な状態にはならないだろう?」
「そんな気持ちはないわ。でも、身体の普段使っていない筋肉にも力が入ってしまうようで、他人事なのに、どうしてなのかしらって感じるわ」
「他人事だから、余計に感じるんだよ。自分のことだったら。自分と、そのすぐまわりしか見えないものさ。自分の顔は鏡に通さないと見えないだろう?」
「ええ、確かにそう。でも、声はどうなのかしら? 私は自分の発する声を感じているけど、録音した自分の声を聞くと、まったく違って聞こえるのよ。まわりの人に私の声がどう聞こえているのかというのも興味があるわ」
「きっと、テープの声なんだろうね。自分とテープの声には違和感があっても、他の人の声と、テープの声にほとんど差はないからね。もしあったとすれば、相手の番号が出ないタイプの電話があれば、電話だけで相手を特定することが不可能になってしまうからね。彩名は、自分の声を録音して聞いたことがあったんだね?」
「ええ、中学の時、放送部にインタビューされた時、マイクから洩れてくる自分の声が、普段と違っていることに疑問を感じたので、聞かせてもらったの。そしたら、私の声が、本当は結構高かったんだって思うようになって、意外だったわ」
「彩名は、それで、嬉しかった? それともガッカリした?」
「私はガッカリだったわ。本当の声というのが、こんなにも鼻に掛かったような声だったなんて、まるでもう一人の自分に対して、劣等感を抱いているようだったわ」
「劣等感?」
「ええ、嫌いな声なので、そんな自分にどうして劣等感を抱かなければいけないのかということに対してジレンマが生まれるの。自分の中に、本当にもう一人の自分がいるのだと思うと、気持ち悪くもなるし、たまにもう一人の自分が出てくる夢を見るんだけど、それが怖くて仕方がないの」
彩名は、信二の前では饒舌になれる。それはきっとお互いに言いたいことを相手が理解し、聞きたい答えを的確に返してくれるからに相違ない。少なくとも、彩名にとって信二は子供の頃からそんな存在だった。尊敬に近い感情が、信二に対してあったに違いない。
信二は彩名を、まるで妹のように思っていた。甘えてくる彩名に対し、
「ヨシヨシ」
と、頭を撫でてあげたいような気分になっていた。
子供の頃は、そこに子供なりの優越感があったのだが、相手が示す優越感に対して敏感なはずの彩名が意識していなかったのは、それだけ信二がいつも彩名に気を遣っていたことと、妹のような目で見られていることを彩名が看破していたからに違いない。
彩名と信二は、小学校の頃から中学卒業まで一緒だった。小学生の頃はお互いに意識することはなかったが、中学一年生になって、信二の方が彩名を意識し始めたのだ。
ちょうどその時、信二の両親に離婚問題が発生していたようで、子供の信二にはどうすることもできない。そして、離婚が決定的になった時、両親から、
「お父さん、お母さんのどちらと一緒に暮らしたいか、選びなさい」
という、中学に入学したばかりの信二に選択させたのだ。
最初は母親を考えていたらしいが、最終的には父親が引き取ることになった。母親では経済的に引き取ることはできなかったからだ。なぜなら、二人の離婚の原因が母親の不貞にあったからだということである。
「選んでいいって言っておきながら、結局、最後は考えていたことと違う方に決まってしまうんだから、いい加減なものだ」
と、親の離婚ということ自体、すでに信二の中では、バカバカしい茶番劇にしか映っていなかったのだろう。
信二は続けた。
「先輩の話をした時、僕が本当に言いたかったのは、『何かの選択を、期間を区切って迫られたとしても、結論が出るのは、一番最初だ』ということなんだ」
「どういうことなの?」
「つまりは、最初に結論を出さなければ、いくら期限を少々長く区切られたとしても、出てくるわけはないということだよ。最初に思いきらなければ、時間に余裕があればあるほど、余計なことを考えてしまう。結論を出すには、そこまで到達できないんだ」
「じゃあ、最初に決めなければ、堂々巡りを繰り返すということなのね?」
「そう、何事もそうなんだろうけど、最初が肝心で、最初に置いた石の位置で、勝負が決まると言っても過言ではないだろうね」
「それって、囲碁の話?」
「そうだよ、僕は囲碁は分からないけど、囲碁をする人の話を聞いていると、どうもそう言っているとしか思えないふしがある。彩名には、分かるんじゃないかと思って話しているんだけど、どうなんだい?」
「うん、分かる気がするわ。あなたが最初から母親を選んだというのも、私にはよく分かるし、それに対して、裏切られた結果が待っていたのだって、決してあなたが悪いわけではない」
「もちろんそうさ。事情が許さなかっただけだからね。でも、その時に選択を迫られたから、今の僕はあるんだって思う。もし、あのまま両親が離婚することもなく、そのまま平穏に暮らしていれば、どうなったんだろうね」
「でも、それは時間の問題だったんじゃないかしら? お互いに一緒にいられないと思っても、引っかかってくるのは、子供のこと。子供のためにだけ一緒にいるような『仮面夫婦』というのは多いって聞くけど、どれほど気まずい家庭なのかって思うけど、私には想像を絶するものに思えてならないの」
「確かにそういう意味では、ズルズル引きずらなかっただけよかったと思う。もし、そんな気まずいまま、思春期を通り抜けていれば、感受性は失われ、下手をすると、考える力がなくなってしまい、ずっと殻に閉じこもってしまったかも知れないからね」
「感受性が失われるとは思わないけど、自分の殻に閉じこもってしまうのだけは事実だと思うわ。でも、感受性に対して、『失われた』と感じているのなら、それは無意識に殻の中に閉じ込めただけ、何かのきっかけがあれば、いつどこででも発動され、いきなりショッキングなことにぶち当たってしまうかも知れない」
「それは彩名の言う通りかも知れないな。彩名は、僕が中学の時に、君を妹のように感じていたことに気付いていたかい?」
「私は、どちらかというと、信二に対して、劣等感があった。そして、いつも正面から見ることができず、前だけを向いているあなたの横顔だけしか見ることができなかったんだって思っているわ」
「それが、妹として、兄を見る目だったのかも知れないね。そして、それは人それぞれの『顔』を持っている。彩名はその時、きっとそのことには気付いていなかったんじゃないかな?」
彩名は信二が自分のことを中学時代に好きだったことには気付いていたが、彩名自身、それに答えることはなかった。信二が嫌いだったわけではない。むしろ好きだったと言ってもいい。しかし、本当に好きだったという確証が持てなかった。
――本当はもっと前から好かれていたのかも知れない――
中学に入った頃から? いや、小学生の頃の、仲良くなった時から? 実はその前からだったのかも知れない。
そんなことをいろいろ考えていると、彩名が信二を男性として意識し始めたのが、中学二年生の後半だった。
彩名が異性に興味を持ち始めたのは、本当はもっと前からだったのだが、信二の気持ちに気付いていなかった。
――本当に気付いていなかった?
もし、その時からお互いに恋愛感情を持ってしまうと、お互いにぎこちなくなってしまうのではないかと彩名は考えた。
確かに嫌いな相手ではないが、どこまで好きなのかというとハッキリと自分でも分からなかった。
それは信二との付き合いの長さのわりに、信二のことを漠然としてしか分かっていなかったからだ。
――彼のことを、あれこれ詮索するのは失礼だ――
という思いが彩名にはあった。
それは、信二のことを兄のように思っていたからであって、年上の兄のことを妹の自分があれこれ詮索するなど許されないという思いがあったのだ。
彩名は、信二の気持ちを分かっていて受け入れられなかったのは、中途半端な関係に戸惑っていたからだった。
その根底にあるものは、
――私は本当に信二の愛を受け入れられる女なのかしら?
という思いだった。
大雑把な性格ではあったが、そのあたりはしっかりしていた。特に中途半端な状態では特に慎重になっていた。
――そういえば私は、一万円以上の買い物をする時、結構悩んだりするのは当たり前で、千円未満のものを買うのもさほど悩まない。しかし、千円台の買い物をする時というのは、結構悩んだりする。自分では中途半端な値段だと思っているからだ。喩えがおかしいかも知れないかな?
と苦笑したが、信二とのことを考えて、中途半端な関係を思い浮かべた時、なぜか買い物をイメージしてしまう彩名だった。
――兄のように慕っている人を、好きになってはいけないのかしら?
このことを彩名は結構悩んでいた。
確かに兄として慕っていて、さらにその人が男性として愛を注いでくれるのであれば、こんな嬉しいことはないが、本当にその二つが共存できるのかどうか、彩名には疑問だった。
もし、共存できるとしても、それを受け入れるだけの器が自分になければ、
「二兎を追うもの一兎も得ず」
ということわざのように、結局はどちらも失ってしまうことになりかねない。
そうなれば、せっかくの今まで積み上げてきた二人の関係が崩れてしまい、彩名が彼に持っていた依存心が、自分の中でどれほど大きなものなのかということを知ることになるだろう。
――そんなの知りたくない――
それを知るということは、別れを迎えるということだからである。
もし、ここで突然の別れを迎えることになれば、
「完全な別れ」
が待っていると思っている。
「一ランク下げて、お友達から」
などというそれこそ中途半端は許されない。お互いに気まずいのは分かりきっていることで、結局最後には気まずいまま、自然消滅が待っているだけに終わってしまうに違いないからだ。
彩名はそれを嫌った。
――別れが訪れるなら、それなりの納得の上で別れるのがいい――
二人は、別々の高校に進学した。最後は、確かに自然消滅のような形にはなったが、
――気まずいままの自然消滅ではなかった――
お互いに自然消滅は仕方がないことだったと、理解してのことだったに違いない。少なくとも、彩名はそうだった。信二がそうであってほしいという願望は、ずっと持っていたのだ。
彩名は、その時の思いを、
――もし、信二に再会することができれば、きっと話すに違いない――
と思っていて、時々ではあったが、信二との再会を思い浮かべ、話の展開を想像したりしていた。それは思っていたよりも心地よいもので、いつの間にか時間を忘れて考えていることが多かった。
「一体どうしたの? ボーっとして」
と、仕事中でも考え込んでしまっていることがあるくらいなので、同僚からも指摘されることになった。
「何でもないんだけどね」
と、口を濁していたが、
「何よ。昔の彼氏のことでも考えていたの?」
と、言われて、思わずビックリしてしまった。
必死でドキッとしている自分を隠しながら、
「ええ、そうね」
と否定はしなかった。
ここでムキになって否定してしまうと、却って余計な勘繰りを相手に与えてしまうことになる。ここは素直に認めて、相手の想像を必要以上なものにしないようにと考えたのだった。
同僚の名前は、香織と言った。
香織は、
「私は人の心を読むのが得意なの」
と自称ではあるが、豪語していた。
しかし、彼女のセリフからは、完全なものは感じられない。
「人の心を読むことができる」
と言いきっているわけではなく、
「得意なの」
という中途半端な言い方で、お茶を濁している。
ただ、香織の言葉には、中途半端ではあるが、どこか重みが感じられる。最初はそれがどこから来るものか分からなかったが、今では何となく分かるような気がしてくるのだった。
――彼女は、それだけ自分に自信があるんだわ――
言葉尻は中途半端なのだが、言葉尻とは反対に、考えていることに自信はあるようだ。
それが香織の特徴だった。
彼女は他の人とは違って、自分に自信があるということを、表に出そうとはしない。出したくないようだ。それが言葉尻に現れてくるのだが、実際に思っていることは、態度になって現れる。
いわゆる「オーラ」を感じるのだ。
彩名は、そんな香織に一目置いている。
そして、香織からいつどんなことを言われるのか、ドキドキしながらも、内心では楽しみにしていた。
――私って、Mなのかしらね――
と苦笑したが、いきなり指摘されると、悟られないように、煙に巻くわけではなく、相手の言葉を肯定することで、その場をやり過ごそうとした。
彩名はそんな自分に少し自己嫌悪を感じていた。
――せっかく、香織が指摘してくれたのに、私はごまかすような返答しか、どうしてできなかったのかしら?
と思ったが、もうあとの祭りである。
彩名は、
――香織はどうして、簡単に言ってのけたのかしら?
昔の彼氏のことを思い浮かべていたなどという聞き方は、普通ならサラリと受け流してもいい内容だ。その質問にいちいち反応するというのも、本当はナンセンスな話だと思うのだが、香織という女性の性格を分かっているだけに、彩名には、簡単にスル―することができなかった。
香織は、彩名に興味を持っていた。
香織には友達はいない。彩名も友達が少ない方だが、香織は、就職前の友達とは、もうすでに連絡を取っていないということ。仕事を始めて友達ができたという話を聞いていないし、もし友達だと言える相手がいるとすれば、彩名だけだったのかも知れない。
香織の好奇心は旺盛だった。特に彩名の行動は気になっているようだった。そんな彩名に対して、
「昔の彼氏のことでも」
などという言い方は、考えてみれば香織らしくない。
言葉の最後に、
「でも」
という言葉を使ったことも解せない。なぜなら、その言葉は、相手を小馬鹿にしているように取られないとも限らないからである。
それに、「昔」という言葉、香織にしては、中途半端な言葉の使い方に思えた。そして何よりもこの聞き方は、相当お互いに分かり合えていないと口にできない言葉ではないかと彩名は思っていた。
――私たちって、そこまで仲が良かったのかしら?
少なくとも、香織がそう思ってくれているのであれば嬉しい限りだが、彩名にはそこまでは考えられない。まだまだ香織には、彩名の想定外のことが、頭の中で燻っているのではないかと思うのだった。
彩名は香織の「控えめな」性格が嫌いではなかった。
時々、控えめなところが目立ってしまうこともあるが、それもたまになので、いいと思っている。
そして、入社して三年も経つのに、それまで香織のことを何も知らなかった自分がいることに気が付いた。
――香織は、私に結構溜口を利いてくるけど、私は、いつも敬語を返していたわ――
それは、香織の迫力のせいなのかと思っていたが、そうではない。香織は彩名が考えているよりも、彩名のことを分かっているのだろう。だから、溜め口でもいいと思っているのだろうし、溜口を利いても怒ることはないとタカをくくっているのだ。
もとより、その通りだった。
彩名には香織に対して逆らうことはもちろん、敬語を使うことに対して違和感は一切なかった。それが香織のイメージに沿っているので、違和感などないのだ。要するに香織には彩名に対しての優位性があるのだった。
そんな中で、他の人にもそうなのだが、彩名に対しても、控えめなところがあった。自信を持って言いきることのできない何かが、香織の中にはあるようだった。
彩名は香織に対して、初めて対等な立場になれるのではないかと感じたのが、彼女に控えめな雰囲気を感じた時だった。
信二と再会してから、彩名の雰囲気が変わったことを、香織は分かっていた。
――やはり、この人は私のことがよく分かっているんだわ――
と、感じた。
どうして、彩名の雰囲気が変わったのが分かったのかということを香織に聞いてみたのだが、
「それはね。最近あなたの心の中が綺麗になったのが分かったからよ」
「どうして、分かるの?」
「女の勘というやつね」
と、最後はごまかされたが、確かにその通りかも知れない。
ただ、女の勘というのも、相手が男性である場合と女性である場合では若干違っているかも知れない。
今まで、彩名は「女の勘」というものをあまり信じていなかった。なぜなら、自分には、
――そんな女の勘などというものはないんだ――
と思っていたからだった。
香織が曖昧な表現を使う時は、彩名の何かを確信を持って掴んだ時ではないかと思われた。
――何に気付いたのかしら? 信二と再会したと言っても、別に彼氏彼女だったわけではないので、香織にはそれほど大きな問題になるはずのないことなんだけどな――
と思った。
香織は普段から余計なことは言わない。口を開くと、意味深なことを皮肉を込めて口にするのが香織だった。少々のことでは、
「人のことなんかに構ってられないわ」
とでも、言わんばかりの雰囲気だったのだ。
だが、控えめなところがあるので、まわりには、そんなに高飛車な女性に見られることはなかった。ただ、彩名にはどうしても優位性を相手に取られてしまったように感じることで、どこか、
――お高く留まっている――
と、思えてならないのだった。
彩名は、香織のそんな目線を感じる時、
――忘れていた何かを思い出しそうな気がする――
と思った。
それが思い出していいことなのか、悪いことなのか、最初はハッキリとしなかった。ただ、思い出せそうな気がするのは事実で、思い出そうとすると、吐き気を催してくることから、いいことではないと思えてきたのだ。
嫌悪感が嵩じて吐き気を催すというのは、よほど自分のトラウマになっていることに牴触するような内容なのだろうと想像できる。彩名が持っているトラウマとは、決して人に知られたくないものだと思っているのに、香織にだけは知られているような気がして仕方がない。
――知られてしまったのならしょうがない――
と思うしかないのだろうが、彩名は香織がどこまで知っているのか気にはなったが、自分以外にも誰かが知ってくれていると思うと、却って安心できるような気がしてきた。
ただ、一つ気になっているのは、
――香織に自分の過去を見透かされているような気がする――
という感覚で、自分ですら思い出すことのできない過去を、他人が知っていると思うのは、背筋が寒くなるような思いであった。彩名にとって香織は、
――自分から決して離れてはいけない相手――
という認識を持つようになっていた。
もし、彩名が過去の記憶を失っていなければ、そんなことは思わなかっただろう。香織は過去を思い出させてくれる相手として、付き合っていかなければならないことになる。
――私は、そんなに過去を思い出したいのかしら?
過去なんて、余計なものであって、思い出す必要などないと思っていた時期もあったが、素直になって考えてみれば、欠落したどの部分が、今後の自分の人生に影響を与えるか分からない。知っていなければいけないはずの過去を知らないことが、これから先、自分に何をもたらすというのか、彩名はそのことが気になっていた。
今、直接困っているわけではないことを、あれこれ考えてしまって、余計な回り道をしているのであれば、
――ただの取り越し苦労で済んでよかった――
と、ホッと胸を撫で下ろすだけでいいのだが、もし、何も考えずにいきなり困難にぶつかって、その場から動くことさえできなくなってしまうことを考えると、
――取り越し苦労であっても、別にいい――
と思うようになっていた。
香織を見ていると、どんどん自分の記憶が遡ってくるような錯覚を覚える。
中学時代を通り越し、小学生の頃の自分に戻っている。そこまで高速でワープした意識を持っていたが、急に何かにぶつかってしまい、完全に進行を止められてしまった。
――何か、見えない壁があるようだわ――
壁の向こうに立ち塞がっているのは、小学生時代の自分だった。まだあどけない表情ではあるが、その顔は狂気に満ちていた。明らかに何かに怯えている様子である。
後ろばかりを気にしている。見えない壁に気付かないのか、必死に逃げようとしているのに、そこから先に進んでいないことを分かっていないのか、それでも必死に前に突進を繰り返している。
「もういいから、横に逃げなさい」
思わず声に出して、指示をしても、その子は、まだ必死に見えない壁を押し続ける。
追手が追いついてきた。見覚えのない男性が数人、よってたかって一人の女の子を追いかけている。
相手は子供の頃の自分を追いつめているはずなのに、それより先に入ってこようとはしない。入りこもうと、間合いを詰めてはいるが、最後の一歩が踏み出せないのだ。
――相手も何かに怯えている。何に怯えているのかしら?
追手の一人と目が合った。彩名は、
――しまった――
と思い、顔を背けたが。相手は彩名に気付いていないようだ。
――そうか、私が見えないんだ。それなのに、明らかに怯えのその先にいるのはこの私、他の誰でもない――
と、思うと、相手から見えないのをいいことに、ダメもとで、やつらの顔を凝視した。
すると、彼らはビックリしたかのように、半歩後ろに下がって、すごすごと帰っていった。
――助かったわ――
と思ったが、当の子供の頃の彩名は、今まであれだけ怯えていたかというのに、急に真顔になって、すっくと立ちあがり、何事もなかったように歩き出した。
真顔というのは、無表情とも言い換えることもできる。その横顔を見た彩名は、
――何て涼しそうな目なのかしら?
ゾッとしてしまうほどの冷徹な目、本当にあれが小学生の目だというのだろうか。しかも、自分の子供の頃のことである。
確かに自分の顔を自分で見るというのは、鏡という媒体でもなければ無理なことだ。毎日顔を洗う時に見てはいても、自分の表情を意識して見ているわけではなかった。化粧には気を遣っても、表情まではなかなかチェックはしない。
それが小学生ともなると、化粧するわけでもなく、ただ、鏡に写った自分の顔を眺める程度である。
その顔はいつも無表情だったと思ったが、別に怖いとは思わなかった。
――ひょっとして大人になってから見るから、怖く感じるのかしら?
子供の頃、自分の顔だと思って見ているからこそ、別に意識していないが、大人になって自分の顔と対面すると、
――本当にこれが自分の子供の頃の顔だというの?
というほど、想像を絶するものだったに違いない。
小学生の頃と今とでは、感受性も違えば、考え方も違う。
子供の頃は、いくら将来があると言っても、あまりにも先が長すぎて、想像することもできない。しかも、自分がまだ大人になりきれていない中途半端な子供だという意識があるからだ。
だからといって、早く大人になりたいとは思わなかった。
友達の中には、
「早く大人になりたい」
と、口にしている人もいたが、彩名には何となく分かっていた。
――大人になりたいなどと口にする人ほど、本当は大人になることを怖がっているんだわ――
という思いである。
彩名も、少しでも性格が違っていれば、その友達のように自分からまわりに吹聴していたかも知れない。それをしなかったのは、他に吹聴をしている人がいて、自分も同じだと思われたくないという考えと、
「じゃあ、どんな大人になりたいと思っているの?」
と、一つでも、質問されると、どんな質問に対しても、まともに答えを返せる自信がなかったからだ。
彩名が、大人しくなってしまった原因は、やはり欠落している記憶の中にあるのは明白だった。今の自分が何を思い出しても、あんなにまわりに対して無関心で、何も考えないようにしようなどという思いを抱いたりはしないはずだからである。
ただ、子供の頃のことを今思い出そうとすると、確かに、
――見えない壁――
というものにぶち当たっていたような気がしてきた。子供の頃はもちろんのこと、高校時代などにも、子供の頃を思い出すことはあったが、同じようなシチュエーションの中で、前に進めなかったという意識があっても、そこに「見えない壁」が存在していたなどという意識はなかったのだ。
今の彩名は、子供の頃よりも明るくなった。子供の頃には、将来が想像できていなかったはずなのに、明るくなった今の方が、将来に対して失望感が強くなっている。
それは、子供のころからの後悔が大きいのかも知れない。
――あの時、ああしておけばよかった――
などという考えは、誰にも一つや二つはあるものだ。
やってしまって後悔することもあるが、しなくて後悔することの方が遥かに大きい。子供の頃にその意識があれば、もっとやりたいことをしていたはずだ。大人になってしまえば、やってしまったことに対して後悔することの方が多くなっているのだ。
やりたくないことはしなくてもいいのが子供の世界であり、大人になれば、やりたくないことでもやらなければいけないことはたくさん出てくる。それが社会の仕組みとしての自分の役割になっているのなら、やらないわけにはいかないだろう。
子供の頃から、やってもいいがしなくてもいいという中途半端なことに対しては、一切手を触れてこなかった。そのツケが今回ってきたわけだが、要するに、それだけ経験を積んでいないということになるのだろう。
彩名は香織を見ていて、
――きっと彼女の子供の頃、やりたいと思ったことをやらずに済ませたという後悔をしてこなかったに違いない――
と感じるようになった。
彩名を意識しているわけではないのに、彩名の方が意識してしまうのは、自分にないところをハッキリと表に出している様子が見て取れる香織に、どこか嫉妬のようなものを感じているのかも知れない。
香織から、よく昼食に誘われる。会話はさほどあるわけではないが、差し障りのない会話が多い。
かといって、どうでもいいような会話の中であっても、いつも必ず一つは心に突き刺さるような言葉を残しているのは、他の人にはない香織の特徴だった。
やはり香織を、
――逃してしまってはいけない相手――
と思っているようだ。
それに他の人に彩名のことを知られているのであれば、気持ち悪いだけだが、香織に知られているだけなら、気持ち悪いどころか、まるでゆりかごに揺られているかのような睡魔を誘う適度な疲れを感じさせてくれる。
そんな香織を、彩名はいつの頃か「意識」し始めていた。
それは、友達や同僚という意識ではなく、
――慕う相手――
としての意識である。
もし、二人きりになれて、まわりに誰もいないとすれば、
「お姉さま」
と言って、抱き付きたい気分になっていた。
香織がどんな表情をするのか、彩名はいつも想像してみた。その都度、顔が赤くなるのを感じていたが、すぐに我に返り、
――私ったら、なんてはしたないことを考えているのかしら?
と、自分を叱咤したい気持ちでいっぱいだった。
ただ、自分をごまかすことはできない。またすぐに慕う気持ちが、身体の奥から滲み出てくるのだった。
その気持ちは一度こみ上げてくると、なかなか沈めることは難しい。
油田のように掘り起こすまでは難しいが、一旦、湧き出てくると、衰えることを知らずに、どんどん湧き出してくる。彩名は自分の中に、そんな意識が隠れていることを知った。それこそ、潜在意識の表れである。
香織は最近、彩名に対して攻撃的なところがあった。特に、
「あなた、最近彼氏でもできたんじゃない?」
と、会話の端々で言われるようになった。
最初はドキッとして、どう返答していいのか迷っていたが、慣れてくると、スラッと受け流すことができるようになった。
――香織は、私を試しているのかな?
と思うようになると、慣れてきた今では、今度は最初の頃のようにあたふたしているように見せることがあった。そんな時、ニンマリと笑う香織の表情が妙に可愛くて、少し苛めたくなるくらいだった。
――立場が逆転したのかしら?
とも思ったが、実はその時、香織が鬱状態で、精神が弱っている時だったのを知ってからは、余計な悪戯はしないように心掛けていた。
彩名にも躁鬱症の気はあった。本当なら香織が同じく鬱状態になっているのなら、誰よりも先に気付くべきなのだろうが、意外と自分と同じ性質のものには、気付かないものである。
「灯台下暗し」
という言葉もあれば、保護色で同じ色のものが見えにくいのも道理である。
そう思うと、
――近すぎて却って見えないものもたくさんあることになる――
という考えも浮かんでくるのだった。
香織の鬱状態は、見る限りでは、自分の鬱状態とは違う種類に思えた。
鬱状態と言っても、表から見えているものと、実際に自分で感じているものとではかなり違っていると聞いたことがある。
「鬱状態にもいろいろ種類があるみたいよ」
と、大学時代に心理学を専攻している人が話していた。それを聞いていた人が相槌を入れる。
「どんな風になの?」
「内に籠る鬱と、表に発散される鬱なんだけど、内に籠る鬱が圧倒的に多いように思われているんだよね。表に発散される鬱の場合は、もはや鬱ではないと思っている人もいるらしく、その場合の鬱は、どうやら他の人に伝染するものらしいのよ。鬱というのは、元々普段からいろいろなことを考えている人が、ふいに自分が考えていることに疑問を持った時、我に返って、自分の居場所が分からなくなって、自分を見失いのが鬱だと思うの。そういう意味では、元来人に移るものではないでしょう?」
「それはそうね。確かにあなたのいうように、鬱病というのは、自分で自分のことが分からなくなった時のことだって聞いたことがあるわ」
「誰でも同じだとは思わないまでも、鬱病に関しては、さほど個人差はないと思われがちなんだけど、私は、これほど大きな違いのあるものはないんじゃないかって思うのよね」
「鬱病って、一口にいうけど、そんなにいろいろあるんですね?」
「私はいろいろあると思ってるわ。さっき言った伝染するというのは、医学的に証明されているわけでも何でもないんだけど、そう思うと合わなかった辻褄が合ってくることもあるように思えてくるから不思議なのよね」
ここからはあまりハッキリとは覚えていないが、この話を香織にすると、
「確かに興味のある話だわ」
と言って乗り気になった。
「私は、伝染というところに注目したんだけど、病気じゃないものも伝染したりするんだと思うと、不思議な気がしてきたのよ」
と、彩名がいうと、
「私は、昔から伝染するものは病気だけに限らないと思っていたわ。伝染に必要な要素は、病気というよりも、心情というところにあるんじゃないかって思ったりするの。ほら、悲しい映画やドラマを見た時、もらい泣きするっていうでしょう? あれだって、感情移入が激しい人のそばにいると、自分もその人に感化されて、涙が出てくるのかも知れないわね」
「でも、それって劇中の泣ける内容が、その人のツボに嵌ったかどうかということなんじゃないのかしら?」
「でも、ツボに嵌るということは、その人の意識や記憶の中にある感動を、その映画が呼び起こしたのだとすると、もらい泣きした人も、同じような過去を持っているということになるわね。でも、そんなに都合よくいくかしら? 私はそれよりも、感情移入が泣いている人の心の中を覗いてみて、その人がどうして感動しているのかを垣間見ることで、自分も同じ感動に浸ってしまったのではないかと考える方が自然なんじゃないかって思ったりするの」
「ということは、感情移入というのは、ある意味、伝染だっていうことなのかしら?」
「そう言えるかも知れないわね」
「伝染するというと、どうしても悪いイメージしかないんだけど、本当に悪いことだけしか伝染しないのかしら?」
「私もそれは考えたことがあった。いいことも伝染するかも知れないんだけど、それは伝染元の人にとってはいいことなのかも知れない。でも、伝染先の人は、たいていの場合、悪いことなんじゃないかって思うの。だから、『伝染は、悪いことにしか起こらない』というのが、私の持論なの」
と、香織はそう答えた。
彩名は少し考え込んだ。
それまでの香織の意見には、ほとんどが賛成で承服できた。だが、伝染に関して、
「悪いことばかり」
という意見には、少々不満が残る。自分に納得がいかないのだ。
――理屈は分かっているのだが、自分が納得できないのであれば、それは賛成とは言わない――
というのが彩名の考えである。
「鬱病」
という言葉があるが、鬱を病気として見るかどうかは別にして、伝染するものであるから、「病」という言葉がついているのかも知れない。そう思えば、表に出る鬱が伝染するものであるとしても、納得できないわけではない。ただ、それは、
「信じられる、信じられない」
という理屈を抜きにすれば、納得できるということである。
彩名は、香織と話をしていると、
――この人とは、本当に以前に会ったことがなかったのだろうか?
と思わずにはいられなくなる。
もちろん、こんな難しい話をしたというわけではないが、以前知っていた人も彩名を引き付ける何かを持っていた。自分に対して、納得できないと記憶に残らない人がいるとすれば、それは香織に似た人だったのかも知れない……。
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