一番大切な人

垂水わらび

第1話 一番大切な人

 新任の外務大臣・染井良亮そめいりょうすけは、ふぅぅぅっとため息をついて田園調布の自宅のソファに身を投げた。


 日曜の深夜2時である。妻の潔子きよこと娘たちはすでに寝ているだろう。良亮が帰宅した物音に反応すらない。

 セントラルヒーティングで家の中は、潔子の手の中のように暖かい。


 良亮の片手にはこの秋に発売されたばかりの新型iPhoneが握られている。


 Twitterを確認して、今日羽田空港に送った某国大統領との自撮りツーショットにどういう反応があるのか確認する。

 今回は国賓待遇ではないのに日本の外務大臣が見送ってくれたと、南の島国の大統領は喜んでくれた。そういう積み重ねもまた、外交のあり方であろう。


 公認マークのおかげで、フォローしていない人からのリプライを表示しないこともできる。しかし、良亮はエゴサーチを大切にした。的を外したものが多い。それでも、人の声を聞くのがこの仕事である。

 ポピュリズムと呼ばれようが、わが国は民主主義国家である。あまねく有権者の声に耳を傾けることは必須だ。


 もちろん、聞いてなお、従うとは限らない。それであっても、有権者に幅広く門戸を開く、その姿勢は見せるべきであると信じている。


 車が発進する音がした。

 いかに公務といえど、この深夜に公用車を動かすことは憚られた。公設秘書の藤尾基也に自宅の車を運転させて帰宅した。藤尾はそれに乗って田園調布から自宅まで帰る。明日の朝は公用車が迎えにくる。


 物音がしないことを確認して、良亮は別のアプリを立ち上げた。

 Instagramである。


 良亮はTwitterもInstagramもアカウントは公表している。

「おじさんなのに、使いこなしてるよね」

 それが最近の評価であろうか。


 同じものをポストしても反応が良いのはTwitterの方だ。つい、反応するのもTwitterを選択する。まだ若い藤尾と相談して文を作り写真を選ぶ。公式のInstagramアカウントの管理はほぼ藤尾に任せた。


 しばしば、大臣経験者から野党議員までインターネットを使いこなしているふりをして炎上するが、幸運なことに良亮には炎上経験はない。おそらく、誰かに相談するという、ワンクッションを置くことにより炎上を防いでいるのだろう。


 良亮は、実はもう一つアカウントを持っている。


 二つ目のInstagramのアカウントはいわゆる「裏垢」だ。非公開かつ、写真の投稿は0。「いいね」を押したこともない。つまり、フォロー0、フォロワー0の、休眠アカウントである。たまにスパムアカウントからフォローリクエストがあるが、スパブロだ。


 良亮は、その休眠アカウントから、フォローもしないまま、一つのアカウントを見る。

 わざわざそこまでするのは、フォローアカウントからは最新ログイン時間がばれるからだ。我ながらストーカーっぽいと思うが。


(ほんっとあいつ、今何してるんだよ)


 そのアカウントのフォロワーは4。フォローは0である。ジオタグもハッシュタグも一切使わないので、いわゆるところの「育たないアカウント」である。


「銀座、なう」

 昨日の午後15時に更新されただけだ。晩秋の銀座の少し赤みがかった光に、心なしか雑踏が寒そうにしている。


(銀座で、誰に会ったんだよ。何食ったんだよ)


 午前2時なのに、これまで更新がない。

 手に持ったiPhoneを思わず壁に投げつけたくなった。

 いやいや、大きな物音を立てれば、潔子や娘たちが起きるだろう。


 そのアカウントの写真は、街角のスナップだけである。たまに、ビールと焼き鳥のようなものが映る。


 良亮は先週末らしい、台北の写真を食い入るように見る。今週幾度も見た写真の一枚である。

 光の使い方がうまいんだよな。

 タクシーの助手席からだろうか。前を走る車のテールランプが揺れる様も良亮を感傷的にさせた。


 50前でなお独身のこのアカウントに女っ気のある写真はない。バブル世代にしては「枯れた」写真だけだ。バブル世代といっても、もう最後の方だから、なんとも物悲しいものがある。


 このアカウントの持ち主は良亮の財務省時代の同期、竹村崇たけむらたかし

 正確には、良亮の部下だった男だ。 


 染井良亮は東京大学法学部卒業後、そのまま国家公務員第1種に合格して、大蔵省から「財務省」に名前が変わった年に、財務本省に入省した。


 竹村崇は同じ年に、財務省は財務省でも国税庁に入庁した。両者は共に、今は国家公務員総合職と呼ばれる1種採用者、つまりキャリア官僚だが、進むべきコースが異なる。


 良亮が国税庁主税局調査課に課長補佐として出向したときに部下としてつけられたのが、同じ年に入庁した二つ上の竹村である。


 同じ試験に合格していても、サラブレッドが揃う本省のキャリアは国税庁のキャリアを多少下に見るところがある。良亮はその風潮を良しとしなかったが、同じ建物の中でかけられている圧力の違いは、帰宅の時間の違いに現れる、とは思っていた。


 人はある程度の圧をかけてこそ伸びる。


 そのように信じていた良亮の見識を一変させたのがこの男、竹村崇である。


 無口な竹村は与えられた仕事はすぐにこなした。その速さ、その正確性に関しては本省でも見たことがない。一度本を読んだら一字一句暗唱できるような人間が揃った本省だが、竹村はその上をいった。


 当時、導入されたばかりのノートパソコンを二台並べ、片手ずつキーボードに置き、目はチラチラと二つのパソコンの間をいったりきたりさせる。


 ブラインドタッチどころではない。


 確かに図表などを作るときには一つだけを使う。しかし、文を書くときには、一つの文章を右は頭から、左は途中から打ち込み始めていく。そもそも片手で打ち込んでいくその速度は、良房の1.5倍の速度である。


 またあるときは、右は英文バージョン、左は日本語バージョンと作り分けた。


 この男、化け物なり。


 竹村は束縛を嫌う。そう踏んで、昼飯をおごるからさ、と度々昼飯に誘った。


 財務省の食堂の不味さは、霞が関でも有名だ。行く先は農林水産省の食堂である。ここは、さすがに新鮮な食材を使うことで知られ、霞が関でも人気の食堂の一つである。


 ようやく聞き出した話によると、竹村は京都大学を二年留年した。二年間何をしていたのかというと、世界を放浪していたのである。


 良亮には、曲りなりとも、多少は優秀な人間であるという自負があった。何者になるべきかと考えるまでもなかった。


 ピンピンピン、つまり東京大学法学部主席卒業、国家公務員第1種試験主席合格、司法試験主席合格を秀とする価値観の中にいた良亮には、ほとんど別世界の話である。


 流石に、ピンピンピンは揃えられなかったが、司法試験には主席合格した。法曹から官僚になることはできないが、官僚から司法修習生を経れば法曹になることはできる。ならば、官僚になろう、そう思って財務省に入った。


「インドから帰ってきて、流石になんとかせなって、三月から過去問を解いて猛勉強して、国1に合格して拾ってくれたんは国税だけや」


 仕事中には聞いたことのない、微かな関西弁が聞こえた。


 流石の良亮も、これは参った。


 一次試験は短答の五月に始まり、二次が六月の論文、最後の七月の官庁訪問で翌年四月からの配属先が決まる。


 東大生でも公務員予備校に通う。良亮は短くて、三年生になってから公務員予備校と、司法試験予備校に合わせて通った。国1と司法試験は似通ったところがないわけではなく、知識を流用できた。


「論文なんかも独学で?」

「いやあ、幸い三回生で合格した人がいて、その人に見てもらった」


 当時の国家公務員試験第1種は、受験時22歳の大学生なら受験できた。つまり、5月に22歳になっている大学三年生はおそらく一年浪人か留年している。一年間毎月ハガキを出さねばならないが、採用面接の官庁訪問を翌年にすることもできたし、もちろん蹴ることもできる。


「俺よりはるかに要領がいい」


 最短距離を走ってきたつもりの良亮のつぶやきに、頭を掻きながら竹村は答えた。


「いやー、そうでもないと思う」


 竹村の苦手なことは、人付き合いである。


 前にいた課では、竹村は仕事の遅い先輩(=上司)にブチ切れてたてついたことがある。とは言っても、大したことではない。


「あなたはいつも上から目線ですね」と物理的に上から見下ろしたのだという。


 その「先輩」の名前を聞いて、良亮も腹を抱えて笑った。藤村か。こっちにも身に覚えがある。


 確かに身長185センチくらいはあるだろう竹村からは、身長172センチで特別にチビだと自覚したことのない良亮も上から見下ろされる。


 自由を好む竹村が、規範的であることを求められる国税庁にいることには決して矛盾はない。竹村は常識的な男である。規範の範囲内で自由に振る舞うだけだ。


 無理をせず、楽な仕事をしてのんびり過ごす。それが竹村の人生観だった。


 このとき同期で係長にもなれないのは竹村一人だったが、竹村の価値観からは係長のポストに価値はない。


「それで、二歳年下の同期入省の下に平でつかされたというわけか」

 まあ、そんなとこです、と竹村は笑った。

「染井さんはきちんと仕事を割り振りますしね」


 圧をかける、といっても要領の良いものに過剰に仕事を割振るつもりはない。要領良くこなせられるならば、さっさと帰らせて人件費を浮かせろ、それが予算を司る財務省のあり方であろうと思った。 


 本省に戻ったときに、なんとかして竹村を本省へと思ったが、肝心の竹村が断った。


国税庁こっちなら地方をまわることもできますし」

 関西の男には東京は息がつまるのだろうか。 

 

 数年経って、地方を回って本庁に戻ったばかりの良亮には別の声がかかった。お見合いの話である。


 嵯峨という苗字が少し珍しい。


 留学帰りのパタンナーという22歳の若い娘と、二人きりで美術館を歩いた。


 良亮には、デザイナーとパタンナーの違いもわからない。その娘の美醜もよくわからないが、清潔感があることはわかる。そのファッションが凝ったものだろうとは思うが、それはこのようなときにファッション業界で生きる人はけっこう凝るのではないかという推測からのものでしかない。

 さらに現代アートはチンプンカンプンである。しかし、説明を聞くうちにただの白い板も、なんだかそれらしく見えてきた。


 相手の娘は興奮するように、口の端っこに白い泡まで作った。

 知らないことを知っている人というものはいいものだ。


 ふと、小柄な娘と背の高い竹村が重なると、実に好ましい。


 しかし、次に会う約束をするときに聞かずにはいられなかった。

「ひょっとして元首相のご親戚ですか」

「娘よ。お嫌?」

 娘が下を向いた。


 嵯峨元首相は、昔でいう、大蔵族の一人で、今ではドンとも言える人である。何度か「ご説明に」上がった。


 一人娘がいる話は、雑談の中で本人から聞いた。政略結婚の道具にされるのかなとも思った娘である。その娘本人が、見合い相手として自分の前にいた。


 良亮はたじろがなかった。自分は逆玉を狙ってようやく次官になれるような人間ではない。


「私は政治に興味がないので、父は後継者を探しているのよ」


 別れる代わりにそのまま、近くのホテルのロビーラウンジに入った。

 コーヒーに砂糖は入れず、ミルクだけ入れたその人は、さっきまでとは打って変わって別人のようだ。


「どこかの省の人にも会いました。どこかの議員の息子にも会いました。私が誰の娘か知っていながら知らないふりをした人もいました。わざわざ「純粋に」と強調してあなたが好きだと言いながら、私ではなく父と結婚したい野心家さんもいました。あなたは?」

「私は、」

 良亮は言い淀んだ。選挙となると少し話が変わる。


「染井君は、説明が簡潔で実に良いと父は買ってたのに、即答できないの?」

「仕事と、こういうことは別ですから」

「あなたは、どうなの。父の地盤が欲しい?」


 潔子きよこという娘の目から生気が消えた。


「私は無粋でね。現代アートはあまりよく知らない。それでも、説明してくれる人が一緒にいると、なんだかそういう風に見えてきた。世界が広がるんだね。あなたの世界を教えて欲しいと思ったよ」


 潔子が泣いた。


「父の地盤が欲しい?」

「私は、あなたと一緒にいたい。そのために代議士になれと言うなら、ベストを尽くします。官僚の妻がいいというなら、このまま官僚としてベストを尽くします」


 一度会っただけでプロポーズした。

 お見合い相手と結婚を考えると、代議士の座が付いてきた。それだけだ。


 同時に、官僚以上に自分の力を発揮することができる舞台が準備された、とも思った。


 結婚と一緒に退庁して、良亮は嵯峨議員の秘書になった。

 披露宴には財務省の同僚も何人か呼んだ。竹村は長身を居心地悪そうにしていた。


 一種の寿退庁である。

 そういう職員は実は少なくない。

 代議士に婿入りする者、大企業の役員に婿入りする者、いろいろいる。ただし、バブル崩壊後にそういう辞め方をする人間は少なくなっていたのは事実だが。


 良亮は私設秘書で入る予定が、ちょうど前の政策秘書が辞めたいということで、政策秘書になった。国1合格者は政策秘書になれるのである。


 政策秘書として駆けずり回り、地盤・看板・カバンを引き継ぐのに二年。まずは参院議員になった。次の衆院議員選挙で嵯峨議員の地盤を受け継いだ。

 地盤は、東京第3区。行政区域で言えば、品川区・大田区にあたる。

 こうして、二十年が経った。


 結婚後、潔子はなかなか妊娠しない。

 潔子には「跡継ぎを」という無言の圧力がかかった。

 良亮の精子が悪いのではないかと、暗にほのめかした支援者もいた。

 生理が来るたびに潔子は焦った。


「子どもができないならできないでいいじゃない。この地盤は、国のために私よりも優秀な人に譲ることに文句はないよ」

 そう言いつつも、良亮は求められるままではあったが、不妊治療に関わり、「少子化対策の一環としての不妊治療」は、良亮の国会議員としての仕事の一つにもなった。


 そして、ようやく潔子が妊娠したとき、良亮ははすでに40を過ぎていた。


 不妊治療、妊娠、出産と家族として関わることができたのは、良亮の強みである。二卵性の双子の女の子には明子、恵子と名付けた。


 双子といえども、大きく性格が異なる。

 内気な明子に対して、恵子は活発で赤ん坊の頃から誰にでも笑いかける。


 竹村も二人を抱きに来てくれた。恵子を抱いてとろけそうな顔をした。抱かれるのは嫌がったが、明子の方も安全な潔子の腕の中で、面白そうに竹村を観察している。


 この間に、竹村は広島国税局西郷税務署の副署長になっていた。


 西郷税務署は広島県内にあるわけではない。

 島根県の隠岐の島だ。

 古くは小野篁や後鳥羽上皇が配流された地である。


 過疎が進むその島は、今でもキャリア組にとっては左遷の地なのだろうか。あいつのせいかな、と昔竹村が物理的に上から目線でからかった先輩を思い出した。


 通常、国税庁本庁採用組は若い時期に二年程度過ごして異動するところを、竹村は三十代から四十代の六年間をすごした。副署長からそのまま署長になったのは何かあったのだろう。


 竹村が西郷税務署署長から本庁の課長で戻った頃に会うとやつれていた。隠岐とは過酷な土地なのだろうか。


 話すと言っても、竹村は相変わらず多くを語らない。気がつけば、しゃべっているのは良亮だけだ。

「Twitter議員って有名になったようですね」

「若い秘書と相談しながら書いてる」

「インスタはやらないんです?」

 最近流行り始めたInstagramの説明をしてもらった。


 これがアカウントだと竹村が見せてくれたそのアカウントを、良亮は決して忘れなかった。

 記憶力には自信がある。


 当時の一番若手の秘書にインスタのアカウントを開設させた。Twitterと同様の文面と写真を使ったが、ハッシュタグを使い、選ぶ写真を見極めるようになった。

 そして、毎日のように竹村のアカウントを確認する日々が始まった。


 公式アカウントから良亮が竹村をフォローしても、竹村からのフォローバックは、なかった。


 週末だけ、ぽつんとどこかのスナップが更新される。


 フォローは0のままだ。


 数年経って、竹村のフォロワーは5人まで増えた。

 いや、今は4人しかいない。


 フォロワーの5人は、1人が良亮。4人は国税庁の職員らしい。1人は国税庁のキャリア採用、1人はなんとあの竹村が広島採用の職員を本庁に呼び寄せたようだ。一番よく竹村の投稿にコメントを残していたはずの、このアカウントがフォローを外した。残りの2人は、盛岡の職員。


 今、竹村は盛岡税務署の署長で盛岡にいる。


 隠岐の次が盛岡とは、なかなか寒そうなところばかり振られる。ただし、県庁所在地の署長は悪いものではない。本来のキャリアに戻ったのだろうか。


(東京には遊びに来たんだろう)


 良亮は流石に寝なければならない。3時間でも、4時間でも寝なければ。


 良亮用のベッドルームには、シャワーブースとトイレがつけてある。

 潔子とは不仲ではないと思うが、深夜に帰宅するときには潔子の生活リズムを乱さぬよう、潔子とは別の部屋で眠るのが、不妊治療の頃からの習慣だ。


 軽くシャワーをしてふと窓のカーテンを開けた。

 外務大臣の自宅には警護がついている。警護の他に誰かが前にいる。


 細い人影と目があったような気がする。

 その、誰かが手を挙げた。


(まさか)


 良亮は階段を降り、コートを引っ掛けて外に飛び出た。


 警護は警護らしく「大臣」とも言わない。

 良亮はすでに立ち去ろうとしていた人影を、追って走った。


「待ってくれよ」


 人影が立ち止まった。


「大臣が自宅前で追いかけっこするのは流石にだめでしょう」

 その人影、竹村が言った。


 良亮はくしゃみをした。

「ほらほらほらほら、頭が濡れたままでこんな寒い日に外に出ると風邪引くでしょ」

「じゃあ、入ってくれよ」

 竹村は戸惑った。


「俺、冷えちゃうよ」

 無理やり竹村を入れようとすると、さすがに警護が止めた。

「大臣、こちらは」

 良亮が、昔の同僚だと言おうとしたときに、竹村が手で静止してごそごそとコートを探った。

 空気が動いて、酒の匂いがした。


「こういう者です」

 盛岡税務署署長の、入館カードを竹村は持っていた。休日なのに。

  

 家の中はやはり、潔子の手の中のように暖かい。


 濡れた髪の毛を乾かしにドライヤーを取りに行くが、客人を待たせるわけにもいかず、ドライヤーを持って下に降りた。


「酒を飲むかい?」

 大きな体をソファの横っちょに、ちょこんと座った竹村は首を横に振った。

「何を飲むんですか?」

「酒には遅い。茶もコーヒーも遅い。なので、お湯」

 竹村はクスッと笑って、「じゃあ、同じものを」と言った。

 酒の匂いをさせていた割に、酔っ払っているわけではないらしい。


 マグカップに砂糖をひとつまみ、塩をうんとちょっぴり、レモン汁を一滴垂らしてお湯を注いでやった。

 薄めの経口補水液(ホット)である。

 大臣宅で客人に出されたのが経口補水液(ホット)だと、なんと書かれるだろうか。 


 心を尽くそうとして、目の前の相手にあまりに華美にもてなすことも、あまりに質素にもてなすことも、できない立場である。

 良亮には相手のニーズを見極めようとする癖がついた。


「酒飲んでるだろ。塩と砂糖を少し入れてる」

「経口補水液ですか」

 竹村はぷふっと笑った。良亮は竹村の脇の、ソファの手すりに腰をかけた。

「大臣宅で、大臣手作りの経口補水液を出してもらった人って何人いるんですかね」

「初めて出すよ」

「しかも、日曜なのに公務だったでしょ。ほら、」

 竹村は某大統領の名前を出した。


「よく知ってるな」

 自分で出しているくせに、良亮はボソッと答えた。


「ご活躍は全部知ってますよ」

 さらに、ボソッと竹村が答えた。


「盛岡から出てきて、日付が変わるまで歩いて、今日は何したの?」

 竹村は頭を抱えた。


 何か、まずかっただろうか。


「盛岡の前に隠岐にいたじゃないですか。東京に戻る前に、隠岐で知り合った子に連れて行ってくれって言われて」

 ああ、今日フォローを外した男か。

「結婚したんですよ」


 結婚!?


「竹村、結婚してたの?」

「しました。言わなかったけど」

 そっと左手を確認したが、細くて長い指に指輪の跡もない。しない人は少なくない。


「言ってくれれば良かったのに」


 ひくっと竹村が泣いた。

「言わなくて良かった。女房は盛岡行きを嫌がったんです。世田谷にマンション買って盛岡に単身赴任して。今日、思いついて盛岡から自宅に帰ったら」

 まさか。

 何年か前に、元アイドルが夫のいない間に若い男を連れ込んで、クローゼットに隠した話があった。

「まさかの、クローゼット?」

「そう」

 当たりすぎて困る。


 竹村が肩を震わせながら言った。

「広島から隠岐にきてた若いのがいて、悪くないから本庁に送ったんですよ。もともと、なつみが、なつみって名前の女房なんですけど、隠岐のちっちゃい会社の事務をしてたなつみを紹介してくれたのが、そいつ。さびしかったんだと」


 それは、恐怖だ。

「そこから、酒を飲んで?」

 竹村が頷いた。

「気づいたら田園調布にいた」


 9時に盛岡を出て、東京駅には12時か。公務員に買えるマンションなら世田谷の、用賀なら13時。そこで目撃して、1時間ばかり喧嘩をしたとして、ふらつきながら銀座に流れて15時。

(うん。田園調布まで歩けないわけではないが、どこかで地下鉄かバスかには乗ってるだろうな)


「たまたまカーテンを開けて良かった」 

「会えた。来て、良かった」

「会えたな。愛する人に裏切られたら、そりゃ酒でも飲みたくなるね」 

「愛情はぜんぜんなかった。どこかで下に見てたんですよ、なつみのこと」

 竹村は鼻で笑った。

「愛情も何もなく結婚したのかよ」

 竹村は何度も頷いた。


(おい。自由を愛する男がなんということをしたんだ)


「俺はね、愛した人がいたんです。でもその人、結婚したんです」


(そうか)


「愛することはやめられないけれど、結婚してあの人が幸せならそれでいい。あの人の子どもを抱いたら笑いかけてくれて、天にも上る心地でしたよ」


 よその男と、友達づきあいする妻か。男女間の友情を否定しないが、潔子が子どもを抱かせるような、古い知り合いの男がいただろうか。

 想像してみるとあまり心地の良いものではない。


「めちゃくちゃ頭が良くて、人当たりもいい。仕事もできる。尊敬できる人なんです」


 両手でタイピングして完璧な文書を作っていく男が褒めた。

 良亮は頭の中で、財務本省と国税庁の名簿を高速でくっていく。そういう評判の女性職員はいただろうか。


(いや、京大か?)


「潔子さんのこと、愛してます?」

 唐突に聞かれて、良亮は少し困った。


「長く過ごすと、関係が変わる。今、潔子が一番愛しているのは娘たちのこと。そういうものなんだよ。ただ、私は、保守派の公人としては一番大切なのは国のことだと言わざるを得ない」

「大臣・代議士という立場も、親という立場も離れたら?どうです?」

「戦友。潔子は戦友だね」

「愛情は?」

「性愛のことなら、互いに妥協しあったとは思う」

「今あの人は何をしているだろうかと、悶々とすることは、ない?誰に対しても、ない?」


 竹村のやつれた顔の中で目がらんらんとしている。


 良亮は落ち着いて答えた。


「今日銀座にいたでしょ。盛岡から銀座に出てきて、この瞬間どうしてるだろうかと何度も見たよ」


 竹村が下を向いて呟いた。

「そうやって人を喜ばせるのがうまいんだから。俺は何年も何年も染井良亮という人にもらった言葉を胸に抱いて、いつの間にかそれだけを頼りに生きてる」


「俺の言葉は真心からだもの」

 人のいいところを見つけて褒めるようにしているのだ。


「知ってる。でも、たくさんの真心がある。俺は、誰と会ってるんだろうかと思いながら、何年も過ごしてる」


(愛した人って、まさか?)


 良亮の心に妙にじんわりしたものがある。

「俺の交友関係はほとんど全部オープンだからね。ここ何年か、一つのインスタを開けては、ここには誰とだ、孤独じゃないよなと思う。とにかく光の使い方がうまい写真を、上がってくるたびに食い入るように見てる」

「写真がうまいってことでしょ」

「違う。食い入るように見てるんだ。例の男、大友善行おおともよしゆきってやつでしょ」


 竹村が顔を上げた。


「フォロワーが一人減った」

「ブロ解」

「泳がせときゃいいのに」

「どのみちリムられる」

「よし」


 良亮はさっきまで持っていたiPhoneを出した。

 公式アカウントの方のインスタグラムをあけて、フォロー完了。

 大友善行のアカウントを忘れるわけはない。

 記憶力には自信があるんだから。


「俺が見てる」


 竹村が笑ったような気がする。

「検索して見られるよね」

 いつもやってることだ。


「大臣アカウントからフォローされたんだぞ、ちょっと何か思わないかな」

「話したことないから知らないんじゃないかな」

「なおさら良いじゃない」

 竹村が吹き出した。

 

(いい調子だ)


「結婚するとき、そうだな、いいなと思ったのは、潔子は自分の世界を持ってるからだ。知らない世界のことを教えてくれる人だからだ。教えてくれる人は貴重だし、こっちがその世界を知りたいと思う人はもっと少ない。そういうところが京都から来た男と似てるから結婚した」


 竹村がまた泣きそうな顔をして見上げた。


「潔子が地盤を継ぐなと言えば、今でも財務省にいて、そうだなあ、次期次官最有力、と言われてるんじゃないの」

「言いますね」


 竹村は半泣きで笑った。


「それぐらいの自負はあったし、今でもあるもの」

「国税庁長官では終わりませんって」

 国税庁長官のポストは国税庁のキャリアのものではない。財務本省のキャリアのものだ。

「そっか、一昨年からあいつか」


 昔、竹村が物理的に上から嫌味を言った、あの藤村。

 いまだに根に持っているらしく、竹村を盛岡に飛ばしたのだろう。

 経口補水液(ホット)を口にすると、流石に冷えていた。酒を飲んで、泣いたら脱水するぞ。


「温めよう」


 少し温めて、竹村に飲ませてやった。飲み終わると、竹村は少しあくびをした。


「明日は休み?」

「まさか。勤務日だもの。始発で盛岡に戻ります。東京駅を6時半に出て、9時に税務署かな。遅刻……30分」


 そう言って、ソファに丸くなった。


(呆れた)


 太陽が昇ったら全部忘れるといい。

 良亮は二階から毛布を二枚持って降りた。


 さすがに、潔子や娘たちが起きてきて、見知らぬ仲ではないが竹村が客間で寝ているところを見つけるとまずい。田園調布ここから東京駅まで45分。始発は5時過ぎからある。盛岡までの切符はあるのか?4時過ぎに起こそう。


(あと、1時間)


 どこでも眠れるのが特技なんだ。

 良亮は向かいのソファで丸くなった。

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