真夏の観覧車

三上芳紀(みかみよしき)

真夏の観覧車

商社


一.

尾形澄広は、子どもの頃から、勉強ができた。性格は明るい方ではなく、学校でも目立たない存在だった。だが、勉強に限らず、常に計画的に物事を進め、着実に成功を得る人物だった。有名大学に合格すると、さっさと都会に出た。大手商社に就職も決め、地元には帰らなかった。性格は、元々、醒めたところがあった。それが、社会人になってから、冷静なビジネスマンとしての評価を得るようになった。勉強のことは別にして、子どもの頃、マイナスだったことが、大人になるとプラスに転じていることが多い。結果、澄広は、今、自分にとって全てがプラスに働いていることに、自らが、とても幸運な人間だと感じていた。


澄広は、G商事に入社して以来の十二年間、営業畑を歩んできた。人付き合いの得意でない彼は、入社当初は、取り引き先との人間関係を築き上げるのに大変苦労した。が、今は、多くの人脈を持つまでになった。彼は、プライベートで取り引き先の人間との接点は持たない。接待ゴルフもしない。さすがに得意先から誘われると酒のつき合いはする。でも、それも、ほどほどに控えている。「ビジネスはビジネスの場で」というのが澄広の信条だった。彼の信条は、以前は異端視されていた。だが、時代が変わるにつれ、進歩的だと見習う者が出てきた。そういうこともあり、澄広はクールで格好いい男だと目されている。容姿も、背が高く、高級なスーツを着こなす澄広は目立った。高校時代までの陰気な青年ではなかった。

ある日、澄広は、得意先の誘いで、どうしても断れず、高級クラブに行った。これまでにも、数回行ったことがあるが、澄広には、雰囲気が合わなかった。大仰な気がした。得意先の社長と重役の隣にホステスが座った。二人とも、非常にきれいだった。化粧をしていなくても、かなりの美人だと分かった。ただ、澄広は、こういう場が苦手だった。だから、早々に引き上げようとそればかり考えていた。そこへ、また二人のホステスが現れた。一人は、澄広の上司の営業部長の隣に、そして、もう一人は、澄広の隣に座った。部長の隣のホステスもきれいだった。だが、澄広の隣に座ったホステスは、きれい、あるいは、美人ではなかった。でも、とてもチャーミングだった。大きな瞳に、小さな唇で、明るい笑顔と屈託のない笑い声が、とても魅力的だった。少なくとも、澄広には非常に魅力的だった。

「明未です」

と鼻にかかった声で、彼女は、名刺を澄広に渡した。名刺をもらった澄広は、何も言えず黙ったままだった。

「どうしたの? 緊張してる? 気楽にいきましょう!」

明未は、そう言って、緊張している澄広に笑顔を見せた。澄広は、緊張しているのを知っていても、彼女は、からかわないのだと明未を見た。明未は、もう一度、「気楽にいこうね」と優しく笑った。澄広は、素敵な女性だと思った。そして、明未の事がとても好きになった。ただ、緊張している澄広を知っていて、からかわなかったのは、明未のテクニックだった。真面目な男ほど緊張するし、澄広のようなエリートビジネスマンは、プライドが高い。だから、その自尊心を満たしてやればいい、それだけのことだったのだ。


二.

「女に溺れる」とは、まさに、この時の澄広のことだった。ほとんど毎晩、明未のいるクラブへ通った。そして、給料をつぎ込んだ。更には、明未と深い仲になり、明未のマンションから出勤するまでになった。澄広は、一日も早く明未にホステスをやめさせて、結婚しようと考えていた。だが、明未にその話をしても、色々事情があって、今、すぐは無理だと言われた。やがて、澄広は、クラブに通うにも金が無くなった。給料もつぎ込み、長く貯めた銀行の定期預金まで解約した。だが、高級クラブに毎日通うには、エリートでも一般のサラリーマンの彼には、限界があった。そして、店に通わなくなり、明未のマンションから通勤をするだけの日々が続いたある日、明未が、ある場所に行こうと誘った。「ある場所?」と尋ねると、「とっても楽しい場所」とだけ答え、明未は澄広をある場所に連れて行った。ある場所とは、古い雑居ビルの一室だった。中に入ると、そこでは、違法カジノが開かれていた。その様子を見て、

「ここって、警察が摘発に入ったら、全員捕まるよね?」

澄広は、怯えて言った。

「大丈夫よ。摘発の前には情報が入るから」

「何でそんなこと知ってるの? よくここに来るの?」

「前に、一度、店に来てたお客さんに連れて来られただけよ」

と、明未は面倒くさそうに返事をして、すぐに澄広を部屋の中央に連れて行った。

中央には、カジノのルーレット台が置かれ、客がそれを囲んでいた。恰幅のいい口ひげを生やした男は、両側に女をはべらしていた。女は、明未と同じホステスだった。他に、男ばかりが数人いた。その隣の台では、トランプゲームが行われていた。ディーラーが、複数の客を相手にしていたが、どの客も、澄広と同じ普通のサラリーマンには見えなかった。一人の男は着古した黒の革ジャンを着ていた。目つきが鋭かった。その隣の男は、流行遅れのブランドのセーターを着ていて、長髪を後ろで束ねていた。奥にはソファーがあって、休憩中の客が酒を飲んでいた。部屋全体が煙草の煙で前が見えないほどだった。明未に連れられて、澄広も、ルーレット台に向かったが、澄広は、

「これは違法カジノだ。こんなことできない!」

と拒絶した。すると明未が言った。

「あなた。お金無いでしょう。給料も貯金も使い果たしたから。だから、ここで、勝って、私のためにお金を儲けて。そして、お店に来て、あなたが私を指名してくれないと、私、あのお店にいられないの」

「どういうこと?」

「最近、私を指名してくれるお客さんが減って、私、売り上げが悪くて、このままだと、お店を追い出されるの」

明未は、そう言うと、涙を流した。その姿を見て、澄広は、違法カジノに抵抗はある。だが、やらなければならないと覚悟を決めた。ただ、ルーレットも、トランプゲームも、やり方が分からなった。そのことを明未に話すと、

「ありがとう。私のためにやってくれるのね」

と、明未は一転して、笑顔になり、言った。

「ルーレットやバカラは分からないよね。でも、ブラックジャックなら知ってるでしょう?」

「ブラックジャックなら、子どもの頃、正月なんかに、みんなで集まってやったよ」

そう言って、澄広は、正月、父やいとこと一緒にこたつに入りながら、ブラックジャックをやって遊んだ光景が浮かんだ。そして、何故か、悲しくなった。


ブラックジャックのテーブルは部屋の隅にあり、とても小さかった。明未が迷いなく澄広をその場所に案内したことを彼は疑問に思った。更に、あの場所で行われているトランプゲームは、バカラというゲームなのかと、そのことを既に知っていた明未に対して、重ねて疑問が湧いた。でも、彼女のために、違法カジノをやる覚悟に変わりはなかった。

この日から、澄広はブラックジャックで負け続けた。ディーラーは、澄広より若い男だったが、表情一つ変えず、澄広に勝ち続け、そして、金を巻き上げ続けた。澄広は、負ければ負けるほど、ブラックジャックにのめり込んでいった。明未のためということは既に頭になく、ただ負けを取り返さなくてはという焦りで、毎晩、仕事が終わると、カジノに通った。職場でも、澄広の様子が変だと噂になっていた。そして、通い続けたある日、ブラックジャックのテーブルについていた澄広は後ろから肩を叩かれた。振り返ると、大きな男が立っていた。男は言った。

「ゲームオーバーだ。これ以上、金は貸せない」

澄広は、ずっと違法カジノを訪れるたび、入り口の両替所で、金を借りてブラックジャックをしていた。

「お前の借金が一千万円になった」

「一千万? どうしてそんな金額になるんだ?」

「どうしてか知りたいか? 理由は、ここが違法カジノだからだ」

男は、それだけ言うと、借用書を澄広に書かせた。澄広は、男の要求を断れなかった。何故なら、澄広は、その男を知っていたからだった。男は、たまに明未の勤める店に遊びに来た。すると、店のママとホステスに緊張が走った。失礼のないように慎重に接客をしていた。男は、いつも数人の若い男をしたがえていた。金払いは良かったが、それでも、来て欲しくない客だった。「あの人を絶対に怒らせてはダメよ」がママの口癖だった。

「借用書には、お前のおやじを保証人として書け。おやじさんは、お前の故郷の信用金庫で長年働いてるだろう。保証人として、うってつけの存在だ」

澄広は、何故、父のことを知っているのかと思った瞬間、ようやく、全てが仕組まれていたことであり、俺は騙されたと気づいた。カジノを出てすぐ店に向かったが、明未はもういなかった。昨日、辞めていた。マンションも、今日の午後引き払われていた。そして、明未は姿を消し、一千万円の借金だけが残った。


三.

男は、澄広に、一カ月の間に、金を工面しろと言った。一千万円を一カ月で用意することなどできないとは、澄広は、恐くて、この男には言えなかった。その日から、何も考えられず、一週間が過ぎた。そして、職場で机に向かっていると、内線が鳴った。電話を取ると受け付けからで、「Sさんという方が、お会いしたいそうです」と言った。あの男だった。エレベーターを降りて、一階のロビーに行くと、男が待っていた。受け付けの女性二人は、男が、一般の人間ではないことに既に気づいていて、うつむいていた。「一カ月のはずでは?」と澄広が尋ねると、男は「予定が変わった。今すぐ金を返せ」と言った。「金が無い」と言うと、男はロビーで大声を出した。受け付けの女性二人が、とっさに顔を上げた。男は、さっと身を翻すと去り際に、澄広の耳元で、「また来る」と囁いた。澄広は、その低く囁く男の声が耳に残った。

男の中では、これで今日の計画は十分に遂行された。再び澄広の会社を訪れるつもりもなかった。あくまでも脅しであった。今後は、澄広の携帯電話を連絡手段とし、怪しまれるため、会社へは近づかない。定期的に連絡を入れて、金を持ってこさせる。口座から足がつくリスクを考え、銀行への振り込みにはしない。後は、しぼり取れるだけしぼり取る。会社の金に手をつけるだろう。発覚したら、あいつはクビになる。そこが潮時だ。男はいつも通りのやり方でいこうと算段していた。大手の商社だ。一千万は無理だとしても、最低でも、半分の五百万は間違いなく取れる。男の経験から、そう勘定もしていた。

「何もかも筋書き通りだ」

男は、澄広の会社からの帰り道、そう呟いて、思わず微笑んだ。


だが、男の筋書きは大きく狂った。

男が、澄広の会社を訪れた次の日の夜、澄広が自殺を図ったのだ。

仕事では、パーフェクトであるはずの澄広に、その日、ミスが続いた。デスクワークだったから、他の者が気づいてフォローできたが、これが営業先だったら、問題になっていた。上司からも「尾形君。どうした?」と言われた。澄広は暗い顔をしていた。その様子を見ていた同期の村川という男が、帰宅してから、ふと気になった。電話をかけてみた。何度かけても繋がらない。電源が切ってあった。昼間の暗い表情を思い出し、嫌な予感がした。村川は、澄広のマンションに行って、ドアをノックしチャイムを鳴らしたが出てこない。だが、部屋の電気はついている。村川は、急いでマンションの管理会社に電話して、人に来てもらった。そして、ドアを開け、二人で部屋に入った。

澄広は、リビングの真ん中にうつぶせに倒れていた。大量の血が彼の体の周りに赤い池のようにたまっていた。しかも、壁から天井にかけて、血が飛び散っていた。澄広は左手首をナイフで深く切っていた。

村川は、震える手で、消防署に連絡し、すぐに救急車を呼んだ。

管理会社の人間は、こういう場面に慣れているのか、

「死んでると、後がややこしいんだよな。まいったなあ。」

と呟いた。


澄広は、死ななかった。だが、ナイフが手首の動脈まで切っていたため、大量の出血があり、出血多量で死の淵をさまよった。入院先の医師も、

「死んでいてもおかしくありませんでした。失わずに済んだ命です。大切にしてください」

とベッドに横になる澄広に言った。

澄広は、ただ天井を見つめていた。


四.

両親が借りてくれたアパートの一階の窓の外から、下校する小学生の声が聞こえた。澄広は、時計を見ると、三時を過ぎていた。夜眠れず、深夜までを酒を飲んで、眼が覚めたら、昼を過ぎていた。それから、何もせずにいたら、三時になった。だが、厳密には、何もしていなかったわけではない。ずっと考えていた。

会社は、当然、辞めた。違法カジノで一千万円の借金をして、暴力団員が会社に取り立に訪れ、その後、ナイフで手首を切ったのである。即時、自主退職という形で辞めたが、事実上のクビである。詐欺グループは、すぐに澄広が自殺を図ったことを知ったようで、姿を消した。自分達の身の危険を感じたためだ。警察は、澄広のベッドサイドで、事情を聞いた。詐欺グループを探したが、カジノのあった場所も、もぬけの殻だった。そして、警察は、違法カジノにより一千万円の借金を負い、暴力団員から取り立てを受け、精神的に追い詰められたことによる自殺未遂、として処理した。

澄広は、職を失い、心身ともに療養が必要なため、両親に連れられて故郷に帰ってきた。近隣のものに会わないよう、自宅から離れたところにアパートを借りてもらった。今、そこで、一人、あの時のことをゆっくりと考えている。自殺を図った時のことだ。あの時、澄広は、追い詰められていた。でも、最後の瞬間、澄広は、これで楽になれると、安堵していた。そして、迷いなく、鋭いナイフを左手首に当て、ゆっくりと深くまで切った。切迫感より解放感に心が支配されていた。間違いなく死への誘惑だった。澄広は、あれが自殺の本質ではないかと、その恐ろしさを改めて感じた。澄広は、左手首に、白いスポーツ用のリストバンドを巻いた。手首の傷跡が隠れているか確かめて、外へ出た。故郷に帰ってきてから、一カ月が過ぎ、季節は、初夏になった。気分のすぐれない澄広も、初夏の爽やかな陽気に触れると、少しだが気持ちが晴れた。アパートの近くの公園まで歩いた。細い川があって、子どもの頃には、そこに同じく細い木製の橋が架かっていた。だが、今は、安全のため、コンクリート製の頑丈な橋に変わっている。澄広は、コンクリート製の橋を渡ると、公園の裏側の小さな入り口から園内に入った。

ベンチに、年配の男が座っていた。痩せて色が白く、顔もやつれていたが、整った顔立ちをしていた。

澄広と男の目が合った。男は、澄広がベンチに座りたいと思っていることを感じ取った。彼は好意で立ち去ろうとした。だが、男の歩き方を見て、澄広は、慌てて彼を引きとめた。彼は左脚を引きずるようにして歩いた。右手に杖を持っていた。だが、役に立っているとは思われないほど、左脚を引きずっていた。

「一緒に座りましょう」

「お一人で何か考えたいことでもあるのでは?」

「いえ。散歩の途中に休憩するだけですから」

そして、二人はベンチに並んで座った。男は、問わずとも自ら、左脚のことを話した。

「事故でね。左脚をやられまして」

「そうですか……」

澄広は、そう返事をするだけだった。

男は、独りごとのように語った。

「最近は、スポーツのできる義足もありますねえ。ああいうものが、当時もあったら、私も義足にしていたかもしれない。脚を切断するというのは、勇気が要ります。ましてや、昔の義足は今のように自然に歩けるようなものじゃなかった。だから、脚を切断したら、歩き方は不自然な上に、義足の不自由さが加わるだけでした。それで、私は、脚を残しました。やむを得ませんでした」

澄広は、更に言葉に詰まった。だが、男は、返事を求めているのではなかった。男は、ただ初夏の青空を眺めていた。それから、男は、我に返ったのか、腕時計を見ると、今度は、急いで立ち上がった。

「用事があるのを忘れていました。ではまた」

と言って、男は、ふと澄広の左手首を見た。そして、さっと眼をそらした。澄広は、彼は気づいたと思った。

「ではまた」

もう一度、言って、男は、左脚を引きずりながら、急いで立ち去った。公園の砂地には彼の左脚の跡が深く刻まれた。ズッズッという脚を引きずる音が、彼がいなくなってからも、澄広の耳に残った。


五.

夜、澄広は、リストバンドを外して、左手首の傷跡を見た。それから、男の慌てた様子を思い出した。

携帯電話が鳴った。母の妙子からだった。

「今、忙しくて、様子を見に行けないけれど、調子はどうなの?」

探るように尋ねる母の声に、

「大丈夫だよ」

と澄広は素っ気なく答えた。

「あなたは、子どもの頃から、何でもきちんと自分でやる子だったから、お父さんもお母さんも、安心し過ぎていた。反省している。これからは何でも言ってね」

「分かったから、あまり心配しなくていいよ」

まだ母の話は続いたが、澄広は、適当なところで電話を切った。母には申し訳ないと思う。だが、一人でいると自殺未遂のことを少しでも忘れていられるのが、母のあの探るような声を聞くと、現実は深刻なのだと改めて、認識させられてしまう。父の厚三も同じだった。めったに電話をかけてくることはないが、電話をかけてくると重苦しい沈黙が続いた。その時も、「大丈夫だから」と言って、澄広は電話を切った。

父は地元の信用金庫に勤めている。母は、以前は百貨店の店員をしていたが、澄広が就職して少ししてから辞めた。学費と生活費を送る必要がなくなったからだった。真面目な両親にとって、澄広が起こしたこと、自殺未遂、もしかしたら、それ以上に―ホステス、違法カジノ、借金、暴力団員―これらのことが、深く心を傷つけている。そのことは、澄広にも痛いほど伝わってくる。二人とも、澄広のことがあって、急に老けた気がする。だが、澄広は、心のどこかで、ほっとしてもいる。男がリストバンドを見て慌てたほどには、澄広自身は、深刻に捉えていない。そして、先ほどの母の電話ほどにも。

もう一度、手首の傷を見ながら、入院中の医師の話を思い出していた。

「若いから、徐々に傷跡も目立たなくなると思いますが、完全には消えないでしょう。形成外科で手術を行えば、今の傷跡は分からなくなると思いますが、今度は形成外科手術の傷跡が、僅かですが残ります。ただ、注意して見なければ、分からないほど、きれいに治るとは思います」

その時の話を思い出しながら、澄広は、傷を見ると、まだ、はっきりと傷跡が残っている。一カ月余りしか経っていないのだから当然だが、やはり、気になる。自殺未遂のことを思い出すというより、傷跡そのものがあることが気になる。そして、人目が気になる。現に、今日の男ように、リストバンドを見ただけで、気づく人物がいることを知って、尚更そう思った。

「リストバンドより腕時計のほうが自然だろうか?」

澄広は、呟きながら、男が、リストバンドを見て、すぐに澄広の自殺未遂に気づいたということは、彼も、やはり、自分と同じように手首を切ったことがあるのだろうかと思った。だとすれば、原因は、左脚のことだろう。一千万の借金と左脚。比較できるものではないが、手首を切った原因として、どちらがより深刻かを考えた時、澄広は、男を気の毒に思った。事実上失われた左脚は、もう二度と戻ってこない。

そう考えた時、自分は、何故、あの時、手首を切ったのかを、また考えた。違法ギャンブルでできた借金は返済義務がない。弁護士、警察に相談していれば、時間がかかっても解決したはずである。そして、そのことも知っていたのに、突然、左手首をナイフで切った。そして、自殺とはそういうものだと改めて思った。その瞬間、理性的な判断などできなくなる。できれば、自殺などしない。幾らでも対処方法はあったのに、自殺へ突き進んだ。楽になれると思ったからだった。

「死への誘惑か」

澄広は、まだはっきりと残る傷跡を見ながら、呟いた。そして、白いリストバンドで傷跡を隠した。


遊園地


一.

澄広は、地元の職業安定所にしばらく通ったが、やめた。二カ月近く過ぎた頃から、両親が負担してくれているアパートの家賃と生活費のことが気になり、仕事を探そうと職安に通うようになった。が、あまりにも条件が悪くて、決めようがなかった。つい先日まで、大手商社で働いていた澄広の給料と、地方の中小の会社を比べてはいけないとは思った。だが、あまりにも、その差が大きいため、ためらわざるを得なかった。それに、具体的に何の仕事をするかも決めていなかった。以前のような営業職といっても、機械部品メーカーの営業もあれば、外食サービス業の営業もある。また、故郷にこのまま定住するのかも、はっきり分からない。この状態で、仕事を決めるのは無理だと判断した。そこで、まずアルバイトで仕事を見つけ働こうと考えた。夜、部屋で、アルバイト誌を見た。七月に入ってから猛烈に暑くなり、夜になっても、暑さはおさまらなかった。窓に取り付けられた古いクーラーからの冷風は、今の酷暑には対応しておらず、暑さを僅かしか軽減しなかった。澄広は、生暖かい部屋の中で、アルバイト誌をめくった。一つの募集広告に目がとまった。それは、遊園地の園内スタッフ募集だった。「園内スタッフ急募。募集複数名」と書かれていた。猛暑で人が集まらないのだろうと思った。また、建て前で、年齢性別不問と書かれているが、実際には、夏休みの男子大学生を対象にしていることも分かった。それでも、人手不足なら、現実に年齢性別を問わずに採用されるだろうと考え、澄広は、応募することを決めた。遊園地やプールで積極的に働きたいわけではなかった。だが、酷暑の危険手当の意味なのか時給が良いのと、昼飯までついていることで応募することに決めた。


採用面接の日、澄広は、半袖のチェックシャツに、ベルトが太めのスポーツタイプの腕時計をした。傷跡は上手く隠れた。遊園地のある場所は、澄広の生まれ育った町から、少し離れた丘陵地にある。澄広は、バスに乗り、随分久しぶりに、遊園地に向かった。遊園地が近づくと、観覧車が見えた。昔と特に変わっていないようだが、きれいに塗りかえられていた。夏の青空を背景に、陽の光に、赤と白に塗り分けられた観覧車が輝いていた。澄広は観覧車を眺めていた。バスは遊園地の入り口近くのバス停についた。親子連れの乗客が何組か先に降りて行った。今から遊園地に入る喜びで、はしゃぐ子どもの声が聞こえた。最後に澄広がバスを降りた。ブザー音とともにドアが閉まり、バスは走り去った。午前でも既に日差しは厳しかった。その中を、澄広は、電話で教えられた遊園地の管理事務所に向かった。


面接は、小さな会議室で、男女二人の従業員により行われた。男の従業員が、G商事を辞めて帰郷した理由を尋ねた。澄広は、

「デリケートな内容が含まれておりまして、何ともお答えしにくく申し訳ございません。色々事情があって帰郷しました」

とだけ答えた。

二人とも、彼の言葉を、大きな企業には言えないこともあるのだろうと解釈し、それ以上、問わなかった。そして、すぐに合格となった。澄広を問題なし、としたのと、何より、人手不足のようだった。

「暑いですから、気をつけて頑張ってください。期待してますよ」

女の従業員が言った。そして、二人とも笑顔になった。

「はい。よろしくお願いします」

澄広は、期待しているという言葉が、形式的なものなのか、本心から言っているのか、分かりかねた。だが、とにかく、新鮮に感じた。


二.

次の日、早速、出勤だった。早朝のバスに乗った。昨日と同じく遊園地のバス停についた。降りて事務所に行くと、ユニフォームを渡された。鮮やかなグリーンの半袖シャツに、下も同じ鮮やかなグリーンのハーフパンツ。そして、テンガロンハット型の麦わら帽子だった。ロッカー室で着替え、室内に置かれた姿見で見ると、澄広は、少し恥ずかしかった。

「この前までのスーツ姿にも、もう飽きているけれど、全身、グリーンのユニフォームにテンガロンハットか。まさか、こういう恰好をするとは思わなかった」

澄広は、呟きながら、左手首に巻いた昨日と同じ腕時計を、右手で無意識に確かめていた。指定された場所に行った。その場所は、楕円形をした子ども用の開放スペースだった。保護者が一緒にいるので、大人と子どもの姿が見えた。高い所にワニの顔が取りつけられ、定期的に、その口が開いて、水が噴霧される。すると、大人も子ども、「冷たい!」とはしゃぎながら、霧状の水で頭から体までを冷やす。無料の休憩スペースなので、みんな、好きなところに、のんびりと座っていた。

事務所から、十分近く歩いて、その場所に到着した。昨日の面接を担当した男の従業員が待っていた。寺木という名前だった。寺木は、澄広より、かなり年上だが、日に焼けた若々しい笑顔で、

「おはようございます。今日からよろしくお願いします」

と挨拶した。それから、説明に入った。

「初めて業務に就く人には、まず、この開放スペースの見守りをしてもらいます。無料なので、料金を徴収する作業もありませんし、まずここで慣れてもらいます」

「特記事項というか注意事項はありますか?」

「お子さんの安全第一です。特に幼い子は、体調の急な変化や転倒など、注意深い見守りが必要です」

「分かりました」

澄広は、持参した小さなメモ帳に細かく書き取った。それを見て、寺木は、にっこりうなずいた。

「見てください。あの子ども達の笑顔を。彼らにとっては、今日が、永遠の思い出です。幸せな思い出になるように、しっかりと見守ってあげてください。遊園地はみんなの思い出、みんなの夢です」

寺木はそう語り、はしゃぐ子どもと大人を眩しそうに見つめた。

澄広は、遊園地について、そんな崇高な理念を持った寺木に驚いた。純粋な人なのだと思った。


寺木に教えられた通り澄広が一人で、開放スペースの見守りをしていると、アルバイトの男子大学生が、近づいてきた。休憩時間だから交代すると言う。時計を見ると、十時半だった。緊張しながら、見守りをしていたら、あっという間に、一時間半経っていた。学生と交代して、事務所の中にある休憩室に向かおうとした。その時、学生が、ワニの口の前に行った。噴霧される水を子どもと並んで浴びて、

「冷たい。気持ちいい!」

と叫んだ。開放スペースにいた大人も子どもも、どっと笑った。

振り返ってその様子を見た澄広も、笑った。そして、青春だなと思った。それから、ふと自分の学生時代を思い出した。あの学生のように快活な大学生ではなかった。経済学を必死で勉強していた。目的は、経済理論を学ぶことではなく、就職に有利になるよう良い成績を取るためだった。経済学部を選んだのも就職を考えてのことだった。ゼミも就職に強いとされる教授のゼミに入った。ゼミの先輩を頼り、OB訪問もした。そうやって、G商事の内定を勝ち取った。就職してからも、勝ち抜くことを考え続けた。そのために、慣れない営業にも打ち込んだ。自分だけの人脈も築いた。でも、今、男子学生の「冷たい。気持ちいい!」という叫びと、みんなの笑い声を聞いて、疑問が湧いた。それに、先ほどの寺木の純粋な思いに触れて、澄広は、疑問が湧いた。そもそも、俺が勝ち抜きたかったものって何だ? 出世レース? サラリーマンが勝ち抜きたいといえばそうなるだろう。否定すべきことではない。でも、俺は本当にそんなものを望んでいたのか? 澄広は、真夏の日差しの中、ずっと意識の底に沈めていた疑問が、意識の上にまで現れたことに戸惑いを覚えた。


三.

初日は、緊張のまま一日が終わり、次の日も同じだった。二週間が過ぎ、仕事にも慣れてきた。が、同時に、担当するエリアも広がり、澄広は、新しい仕事を覚えるのに精一杯だった。そして、忙しさの中で、初日に感じた疑問は再び、意識の底に沈んだようであった。また、澄広自身が、努めて思い出さないようにしている部分もあった。

アルバイトは交代で昼休みを取り、昼食を事務所の一階にある食堂で食べる。今、澄広は、日焼けした顔で、一人、今日のメニューのカレーライスを食べていた。すると、テーブルの向かいに誰かが座った。顔を上げると、男子大学生の野河だった。澄広よりも、背が高く、短くした髪の毛が清潔感のある若者だった。

「一緒に食べていいですか?」

「ああ、いいよ」

野河は、澄広が、初めて担当するアトラクションについて、サポート役として、客の誘導から機械の操作方法その他を手順よく教えてくれた。澄広は、教えてもらう立場ながら、年上ということもあり、野河の指導力を高く評価した。野河も、自分より随分、年上にもかかわらず、素直に指導に従う澄広に好感を持った。それ以降、よく話をする。

「今日は、あの子はいないの?」

「います。園内の奥のアトラクションの担当だから、今日は、会ってはいないんですが」

二人の会話の人物は、牧川結美という女子大学生だった。野河と同い年で同じ学年だが、大学は違った。結美は、女子大に通っていた。野河と結美は、この遊園地のアルバイトで出会った。それは、澄広がバイトに採用された日よりずっと前だった。野河は、結美に強く惹かれ、結美は、野河に好感を持った。そして、その温度差があるまま今に至っている。

「会いに行っていいのかどうか、分からなくて」

「無理に会いに行かないほうがいいと思うよ。君の今日の持ち場で待っててごらん。会いに来てくれるから」

「どうしてそんなこと分かるんですか?」

澄広は、仲良くなるとすぐ、野河の恋の相談相手になった。野河の切迫感に、思い詰めていると感じた。だが、こういうことは、相手のあることだから、なるようにしかならないとも思った。それでも、野河に相談される都度、最も適切と思われる答えはしている。それしかできないが、気の毒にも感じたので、そうしてやろうと思った。

「どうしてかって聞かれると、説明できないけど、人ってそういうものだと思うから」

「そういうもの?」

「よっぽど薄情な人以外、恋人でなくても、仲のいい友達のことって気になるだろう? 牧川さんも、そうだと思うから」

「なるほど、よく分かりました」

野河の表情が、ようやく明るくなった。


午後からも、午前に続き、ファイブ・ドーナツ・クライマーというアトラクションの担当をした。その名の通り、五つ連なったドーナツ型をした乗り物が、レールの敷かれた傾斜面を上り下りするアトラクションだった。時々、上り下りする速度が変化するが、速度自体がゆっくりだから、子どもだけでも乗れる比較的安全な乗り物だった。

澄広は、家族連れが多い客を誘導しては、乗り物に乗せ、安全装置をセットし、スタートさせた。五つ連なったドーナツ型の乗り物をスタートさせると、しばらく待って、また、スタートさせる。その間、割と時間があり、澄広は、先ほどの野河のことを考えていた。

偉そうにアドバイスをしたけれど、俺には、彼のような経験はない。話した内容はそれほど間違っていないと思うけれど、俺に言う資格があるのだろうか。ついこの前、明未と詐欺グループに引っかかった俺に。野河の結美への初恋。結美もまだ恋を知らないだろう。そんなことを考えていた。ドーナツ型の乗り物が斜面を上下する度に、歓声が上がった。しばらくすると、アトラクションが終了した乗り物が戻ってきた。澄広は、乗客を降ろし、次の客を乗せ、再び、スタートさせた。

降りた客の中にいた男の子が、元気よく、

「これ」

と持っていた飴を澄広にくれた。澄広は、子どもと両親にお礼を言った。コーラ味の飴だった。口に入れてみると、コーラの味ではなく砂糖そのものの甘い味がした。澄広は、我慢してなめていた。すると、

「いい感じですね」

と後ろから声がした。驚いて、澄広が振り返ると、大見千紗が立っていた。彼女は、寺木と一緒に澄広のアルバイトの面接をした従業員だった。つまり、男女二人いた女の従業員の方だった。

「いい感じ?」

「ええ。遊園地の風景に馴染んでいます。お子さんからも好かれていますし」

「飴のことですか? あの子の気まぐれじゃないかな」

「子どもは正直です。嫌いな人に飴はあげないと思いますよ」

千紗は、そう言って微笑んだ。彼女は、澄広と同い年ぐらいで、落ち着いた印象だった。千紗には、面接で初めて会った時の記憶がある。落ち着いた彼女は、面接が始まると、的確に質問をした。その様子を見て、明晰で芯のしっかりした女性だと理解した。

「お疲れ様でした。またのお越しを」

と終了したドーナツ型の乗り物から、澄広は、客を降ろした。すると、今度は、女の子が、

「はい」

と言って、大きなペロペロキャンディーをくれた。澄広は、慌てて両親に返そうとしたが、どうぞと言われて受け取った。

「やっぱり、そうでしょう」

千紗は笑った。

「確かに、僕は子どもから好かれているのかもしれませんね。認めます。ところで、大見さんは、何故、ここに?」

「そうでした。今日、申し訳ないんですが、仕事が終わったら、一度、事務室に寄っていただけますか? お話したいことがあって」

千紗は、澄広の顔を真っすぐ見ながら言った。

「ええ、いいですよ。どうせ帰っても、寝るだけだから。でも、話って何ですか?」

「また後で、詳しくお話します。暑いので、気をつけてくださいね」

千紗は、澄広の了解を得ると、それだけ言って、事務所に帰って行った。

澄広は、千紗が走り去る後ろ姿を見ながら、考えた。彼女に限らず、今は、あまり人と深く関わりを持ちたくない。知られたくないことが多く、まだ、整理がついていないから。だから、千紗と何の話をするのかは分からないが、深く自分を知られるようなことはないようにしよう、そう思った。


四.

事務室に寄ると、面接の時の小さな会議室に移った。

「帰りがけに、すみません」

「何か問題でもありましたか?」

「いえ。その反対なんです。お願いがありまして。単刀直入に申し上げます。尾形さん。アルバイトではなく、社員として当遊園地で働く気はありませんか? そのことをお願いするために、お呼び立てしました」

千紗と机を挟んで向かい合っている澄広は、それまで、ついこの前、面接で訪れた会議室が、今は少し懐かしい気がし、そのことを不思議だと思って、面接の日のことを何となく思い出していた。それが、今、千紗の話を聞いて、彼女を真っすぐ見た。そして、驚いて言葉が出ないので、とっさに、

「このユニフォームじゃなくて、そのユニフォームを着るということですか?」

と尋ねた。

「はい。そうです」

と千紗は答えた。千紗の着ているユニフォームは、白に赤の縦縞のポロシャツと下はスラックスで、遊園地の正式な制服だった。寺木のように屋外に出る従業員は、澄広と同じ、鮮やかグリーンのユニフォームだが、他は皆、千紗と同じ服装をしている。

「買いかぶりすぎですよ。アルバイトならまだしも、僕は、遊園地で正式に働けるような人間じゃありません」

「何か問題でも? 給与待遇のことなら、以前にお勤めの商社とは比較にならないので何も言えませんが」

「そういうことではなくて、何と言うか」と澄広は、言葉に詰まり、

「僕は、寺木さんのようにはなれません。大見さんのようにも、なれません。そういうことです」

と澄広は、それだけ言うと、立ち上がり会議室を後にした。最後の方は、少し腹を立てていた。

「尾形さん。ごめんなさい」

千紗は、追いかけようとしたがやめた。そして、澄広の後ろ姿を見送った。


アパートに帰ってから、澄広は、ウイスキーをストレートで飲んだ。千紗の話が不愉快だったわけではない。遊園地に勤めないかと誘ってもらったことは有り難いと思った。澄広が、不機嫌になったのは、彼自身の問題だった。しかも、違法カジノや自殺未遂の問題でもない、更に本質的な問題だった。実は、彼も、遊園地で働きながら、これが、アルバイトではなかったらどうなのかと考えたことがあった。その途端、無理だと思った。理由は、競争がないからだった。つまり、勝ち抜くという現象が生じる仕事でなければ無理だと思った。そして、そんな風にしか仕事ができない自分の場合、目的が、安定した生活の確保などではなく、勝つことそのものになり、そこに何の意味があるのか分からなくなった。だから、今日、千紗に遊園地の仕事に誘われて、不愉快になった。

「俺は、大事なものが欠落した人間だ」

澄広は、ウイスキーをまた飲んだ。その時、携帯電話が鳴った。遊園地からの電話だった。

「大見です。先ほどは失礼しました」

千紗からだった。

澄広は時計を見ると、八時を過ぎていた。

「まだ、お仕事ですか?」

「ええ。急に会議が入ったので」

と千紗は言って、それから、先ほどの話は、実は、面接で、澄広の履歴を見た時から、寺木や園長の間で、出ていたものだった―園長は、熊原という太った愛嬌のある男だった。そして、澄広のアルバイトの様子を見ていると、遊園地の仕事を順調に覚え、長年、営業職として勤めていただけあり、接客や言葉遣いも良いため、話をしてみようということになった。本当は、寺木と二人で話す予定だったが、寺木に急用があり、千紗が一人で、今日、話をしたと説明した。そして、改めて、非礼を詫びた。

「非礼なんてありませんよ。機嫌が悪くなったのは、僕自身の問題だったんです。こちらこそ、不愉快な思いをさせてしまって申し訳ありませんでした」

澄広が謝ると、千紗は、ほっとした声で言った。

「良かった。じゃあ、アルバイトを辞めることもないですね」

「もちろんです。辞めることなんて考えてもいないです」

「そうですか。それは本当に良かった」

電話の向こうの千紗の声から、ひどく心配していたことが伝わってきた。その声を聞きながら、澄広は、勝つことを目的としない人の心のありようを、教えられている気がした。


五.

澄広は、あの夜、千紗との電話で考えさせられた。そして、少し変わった。

今も、野河が、結美のことを相談すると、

「どうなるかなんて誰にも分からないけど、誠実であること、そして、悔いのないように」

と、これまでのどこか一歩引いたようなニュアンスとは違うアドバイスをした。野河は、その変化が不思議だった。

二人は、どこの遊園地にもあるコーヒーカップの乗り物の係をしていた。通常は、一人で担当するのだが、屋根があり、日よけになるためか、真夏の太陽に疲れた人々が大勢乗りに来て混んでいる。乗り降りの際、スタッフの手が必要なため、今日は、臨時で二人体制になっている。

「誠実であること、そして、悔いのないように。いい言葉ですね」

野河は、励まされたようだった。

澄広は、屋根の下から、遊園地に目をやった。暑い太陽の下、多くの人が歩いていて、その中に、千紗がいた。そして、千紗は、こちらに向かって歩いてきた。

「野河君。今日もプールのお客さんが、とても多いんだけど、アルバイトの学生さんが、一人、急病で休んだの。だから、プールの監視員の方に回ってくれる。ここは私が代わるから」

そう話す彼女は、ポロシャツにスラックスの制服ではなく、澄広と同じ、鮮やかなグリーンの半袖シャツとハーフパンツ。そして、テンガロンハット型の麦わら帽子をかぶっていた。澄広は、その姿を眩しく感じ、戸惑った。

野河が、早速、プールに向かって行った。そして、交代した千紗が、

「ここも、お客さん多いですね」

と笑顔で言った。その笑顔に澄広は、

「ええ。本当に」

としか答えられなかった。


コーヒーカップへの客の乗降作業を千紗が手早く終えるため、流れがスムーズになった。先ほどの千紗のユニフォームへの彼の戸惑いなど忘れさせるほど、千紗の手際は良かった。

「さすがですね」

澄広が、千紗に言った。

千紗は作業を終え、コーヒーカップをスタートさせると、澄広の方を見て、

「働いて長いですから」

と言った。

「ずっと、この遊園地ですか?」

「そうです」

「僕も、ずっと同じ会社のつもりだったんですが、辞めちゃいました。転職が当たり前の時代かもしれないけど、いざ辞めると、やっぱり、大変ですね」

千紗は返事に困ったようだった。

「気にしないでくださいね。僕が会社を辞めたのは自分の意思で辞めただけだから」

澄広が、そう言っても、千紗は黙ったままだった。そして、千紗は、真剣な表情になり、澄広を見つめて言った。

「今、尾形さんが仕事を辞めた話をしたので、言います。実は、ずっと尾形さんにお話したかったことがあるんです。先日のことにも関係することで、私の個人的なことでもあります。今日、お仕事が終わったら、お時間ありますか?」

「ええ。時間ならありますが?」

澄広は、千紗の真剣な表情を改めて見て、それ以上、問うのをやめた。

そして、作業中も思い詰めた表情になった千紗の横顔を見ながら、澄広は、よほど大事なことを話したいのだろうと、それだけは理解できた。ただ、知り合ってまだ一カ月ほどしか経っていない澄広に、それほど話すべきことがあるのか不思議だった。


六.

いつもは、バイトが終わると、すぐに帰る澄広だったが、今日は、ロッカールームにあるシャワーで汗を流して、そのまま遊園地に残った。野河が一緒に帰ろうと誘ってきたが、ちょっと用事があるからと断った。

「何の用事ですか? バイトから正社員に誘われてるとか?」

澄広は、野河は意外に鋭いと思いながら、「大人は色々あるんだよ」と笑ってごまかした。

「実は、今日、尾形さんに言ってもらったことで、気持ちが楽になって、結美さんに声をかけたんです。そしたら、今から、夕飯でも食べに行こうって話になって」

「良かったじゃないか」

「でも、不安だから、尾形さんにもついて来てもらえれば安心かなって」

「それじゃあ、今までと変わらないよ。君は一人で決められない弱さがあるんだと思う。それが彼女のことだけでなく、今の君の大きな課題だよ。何でも一人でやれるようにならないと。だいいち、二人のデートに俺がついて行けるはずがない」

澄広は、やはり頼りない野河に、それが彼の良さでもあると笑った。


野河と別れてから、澄広は、まず遊園地内の売店で、Tシャツを買おうと思った。着てきたTシャツが、古くて、さすがに、みっともないと思ったからだ。遊園地への通勤に慣れてくるにつれて、澄広の服装は、いい加減になった。よれよれのTシャツにハーフパンツで来ることもあったが、他のバイトの学生も同じだった。遊園地に着いたら、すぐユニフォームに着替えて、帰りもバスで帰宅するだけなので、次第にそうなっていった。今日も、着古したTシャツだったが、それでも、下がハーフパンツではなく、夏用の紺色のコットンパンツだったので、まだ良かった。そこで、Tシャツだけ、売店で探した。アニメのキャラクターがプリントされたTシャツが多くて、澄広に合ったTシャツが、なかなか見つからず、結局、無地の白のポロシャツを買った。普通の店で買うより割高だったが、急だから仕方ないと思った。それから、ハンバーガーショップでハンバーガーを二個食べアイスコーヒーを飲んだが、千紗からの連絡はまだだった。腕時計を見ると、七時前だった。そして、ふと腕時計を外した。見ると、左手首の傷跡は、まだはっきりと残っていた。当初から、傷跡を見ても、すぐに自殺未遂を思い出す澄広ではなかった。

だが、それとは違う意味で、今、遊園地でアルバイトをし、その後こうやって、のんびりハンバーガーを食べている自分と、傷跡、自殺未遂という、ついこの前の過去が、あまりにも一致しないため、彼の中に、不思議な感覚が生じた。左手首の傷跡に、リアリティが持てないのだった。現実に傷跡はあり、それが、自殺未遂の証なのだが、その事実と、今の自分が、あまりにも乖離している。そのため、傷跡が、本当に澄広の手首にある傷跡なのか? 傷跡を生んだ自殺未遂の事実だけでなく、現に今、左手首にある傷跡そのものの存在すら疑わしく思われた。ただし、それは、澄広の感覚の問題だった。左手首には、傷跡があり、傷跡を生んだ自殺未遂も事実だった。

「消せない事実、消せない過去」

澄広は、小さく呟いた。澄広は、―明未、違法カジノ、借金、暴力団員、自殺未遂―という全ての事実を、その事実の当事者が、誰でもない澄広自身であるにもかかわらず、常に、どこか他人事、傍観者的にここまで来た。そのことに、今、改めて傷跡を見ながら、強く気づかされた。全て事実なのだということに。そして、そんな自分に、

「これまで何をやっていたんだろう。俺は」

と初めて、彼は深く後悔させられた。


七.

八時前に、ようやく千紗から連絡が来た。

「待たせてごめんなさい。今、どこにいますか?」

「ハンバーガーショップで、コーヒーを飲んでいます」

澄広は、三杯目のコーヒーで、お腹がいっぱいだった。

しばらくすると、すっかり暗くなった遊園地の中を僅かな照明に照らされて千紗が走ってきた。

「待たせて、すみません」

彼女は、息を切らせて言った。彼女の服装は、無地のベージュのワンピースだった。静かな顔には、化粧もほとんどしていない。アクセサリーもつけていない。彼女もシャワーを浴びてきたため、髪が少し濡れていた。照明に照らされ、濡れた髪が光っていた。千紗も、ハンバーガーショップで、夕食をとった。

「毎日、仕事が遅いんですね。僕も以前はそうだったけど」

「人手不足だからって言うと、どこでも同じですね」

「小さい会社でも人手不足。大きい会社でも人手不足。人手不足じゃない会社って本当にあるのかって思います」

澄広がそう言うと千紗は笑った。

千紗が食事を済ますと、二人は、園内の開放スペースまで歩いた。ワニの顔から冷水が出るアトラクションの場所だった。もう閉園時間が過ぎている。この時間で、まだ幾らか照明に照らされて、ゆっくり話ができる場所は、ここだけだった。もうアルバイトも従業員もいない。警備員が、たまに前を通り過ぎたが、二人とは顔見知りだった。

「話って?」

閉園後、暗闇を淡い照明の光だけが照らす中、澄広は尋ねた。

すると、澄広に千紗が尋ねた。

「尾形さんと初めて会った時のこと覚えていますか? 採用が決定した時、私が、期待してますよって言ったこと?」

あの時のことだと澄広は思った。

「よく覚えています」

「そうですか。覚えていてくれたんですね」

「不思議だったんです。社交辞令なのか、本心で言ってくれているのか。何故か、気になって」

「本心です」

「そうか。本心だったから、気になったんだ。社交辞令なら、そのまま聞き流したはずだから」

「そうですね」

「でも、初対面の僕に、何故? 社交辞令のほうが普通だと思うけど」

「尾形さんの表情を見て……」

千紗は、言いにくそうにしていた。二人は、開放スペースのデッキチェアに並んで座っていた。昼間なら、保護者が座っている。そこから、大きなワニの顔が見える。千紗は、ようやく話し始めた。

「尾形さんのあの時の表情は、絶望していました。そして、その表情が私の父の表情と同じだったんです」

「僕の表情が絶望していた? それは確かにそうだったと思います。ただ、絶望していた僕の表情が、大見さんのお父さんと同じだったというのは、どういうことですか?」

「私の父は、この町の港で生まれ、港で働いていました。貨物船が寄港すると、荷物の積みおろしをしていました。子どもの頃、港で働く父を見ました。いつも生き生きとしていました。父は、良造という名前で、陽気な人でした。少し気の荒い船乗りとも仲が良く、良造さんとみんなから呼ばれ、港で頼りにされた人だったそうです。ここまで全て過去形で話していますが、亡くなったわけではありません。ただ、今は、生きていることを悔いていますが」

「生きていることを悔いている?」

「はい。私が中学生の時でした。父は仕事中に、コンテナの間に左脚を挟まれました。そのため、左脚の骨が砕けてしまいました。脚を切断するか、手術で砕けた骨を固定させる難しい手術を受けるか、どちらか選ばなければならなかったんですが、父は、脚の切断を避けたいため、難しい手術を選びました。今のように、スポーツができる義足もない時代でした。当時の父の判断は妥当だったと思います。ただ、手術前に、医師から、手術が成功しても、元通りに歩けるようにはならないと忠告を受けていましたが、それが、父の想像していた以上の結果だったので、父は絶望しました」

「想像していた以上の結果?」

「つまり、左脚は残せたのですが、脚としての機能はありませんでした。だから、特に歩く時、脚を引きずります。それがとても目立ってしまいます。ズッズッと地面に左脚を引きずりながら歩くので」

澄広は、ここまで話を聞いて、はっとして、千紗に尋ねた。

「大見さんのお父さんは、いつも右手に杖を持っていませんか? それと色の白い痩せた感じの人ではないですか?」

澄広の問いに、

「父を知っているんですか?」

千紗は驚いた。そして、澄広は、改めて、千紗の顔を見ると、公園で会う、杖を持ったあの男に似ていると思った。


八.

遊園地は閉園後、夜遅くなっても、防犯上、そして、安全上のための照明は点灯していた。澄広と千紗が、僅かな照明の中、デッキチェアに並んで座っている。でも、その姿を見とがめる人はいない。警備員以外、皆、昼間の暑さに疲れ帰ってしまっている。澄広が自動販売機で買ってきた清涼飲料水を、今、二人で飲んでいる。千紗は長く話をしたため、喉が渇いていた。澄広も緊張で喉が渇いていた。

「今、ペットボトルだけれど、昔は、缶だった。もっと昔は、瓶だった。僕は、缶が一番、思い出がある。世代だな」

「私も、缶ね。やっぱり、同い年ね。履歴書を見た時に、すぐ思った。この人、同い年なんだって」

「同い年の僕は、君の中学生の時も、同い年で、同じ風景を見ている。だから、お父さんが左脚を怪我した時の時代の風景が見える。だから、その時と、それ以降の君のお父さんの苦しみの歳月の長さが、実感を伴って分かる。君の話に強くシンパシーを感じる。実際に、近所の公園で何度か、お父さんに会って話もしているからよけいに。ただ、繰り返しになるけど、君が見たお父さんの表情と同じ僕の絶望とは何?」

「あなたが、具体的に何に絶望しているかは分からない。ただ、表情を見て、絶望している父と同じだと思った。つまり、いつ死んでもいい。あるいは、いつ死んでもいいと思って、それを行動に移したことがある人の絶望」

澄広は、一気に飲み干したペットボトルを静かに地面に置いた。地面には昼間の太陽の熱がまだ残っていた。

「何故、そんなことが分かるの?」

「父が、事故に遭ってから、何度も、自殺未遂をしたから」

千紗に表情はなかった。何かを思い出していた。

「少し歩こう」

二人は、夜の遊園地を歩いた。昼間と違い静かだった。様々なアトラクションは昼間の疲れを癒すために眠っているように見えた。プールの近くに来た。二人は、従業員だけが知っている生垣のすき間から中へ入った。大きな流水プールのプールサイドに二人は立った。水の流れは止まっていた。照明の僅かな光に照らされたプールの水面は揺れていた。浮いている落ち葉は、明日の朝の当番のアルバイトが、長い柄の網ですくうのだろう。その光景を二人はしばらく想像した。それから、澄広が、揺れる水面を見つめながら言った。

「確かに、僕は、一度、自殺未遂をした。自殺未遂の原因は、恥ずかしくて言えない。でも、君の言うように、いつ死んでもいい、そういう人間特有の絶望が、僕の中にはあるのかもしれない」

「私も、そんな気がする。でも、『絶望がある』から『あった』に変わったと思う。あなたは変わった。面接で初めて会った時、父と同じ絶望を感じさせた。でも、あなたは、日々変わっていった。今のあなたに、あの時の絶望は感じない」

「僕は変わっただろうか? もし、変わったのなら、君のおかげだよ。僕が腹を立てて帰ったあの夜、君が事務所から電話をくれた。あの時、君が心の底から僕のことを心配してくれている声を聞いて、僕は考えさせられた。自分しかない僕は、他者を思いやる君の思いに触れ考えさせられた。常に勝つことに固執しながらも、その生き方に自分でも限界を感じていた。そんな僕は、君の思いに触れて気づかされた。勝つことに一体何の意味があるのかって」

「あの時は、ただ本当に申し訳ないと思って。でも、もし、あなたが私の思いに触れて考えが変わったのなら、私が、初めて会った日に、期待してますよって言った言葉に込めた願いが叶ったんだと思う」

「どういうこと?」

風が吹いてきた。プールにさざ波が起こった。澄広と千紗は、波を目で追った。八の字のような形をした流水プールの何箇所かにある監視台も小さく風に揺れて、カタカタと音を立てた。千紗の髪も風に揺れた。

「あなたに賭けたのよ。父とは絶縁状態なの。でも、もし、あなたが絶望から立ち直ったら、私、もう一度、父に会いに行って説得しようって。もう一度、生き直して欲しいって説得しようって」

澄広も風に吹かれていた。

「そんな大事なことを、見ず知らずの僕に賭けたなんて。切実な気持ちは分からないではないけれど。ただ、お父さんが左脚に大怪我をした絶望と、僕の失ったものでは、絶望の大きさが違う。僕の失ったものは、G商事での仕事だ。色々と複雑なことがあったけど、結局、それに尽きると思う。誰もがもったいないと言うだろう。でも、僕はG商事のことなんて本当は、もうどうでもいい。だけど、君のお父さんの絶望は、深い。実際に、僕は、お父さんの歩く姿を見ている。お父さんの左脚は事実上失われたのだと理解している。身体の一部の喪失の不自由に加え、身体の喪失感そのものにも悩まされていると思う。そして今、君の話を聞いて、お父さんの港での仕事への愛情の深さも知った。これも、仕事を失った現実的な損失に加え、仕事の喪失感に悩まされていると思う。僕が、ただ勝ちたくてG商事に入ったのとは仕事というものの捉え方が違う。お父さんにとって、港での仕事はアイデンティティだった。だから、君のお父さんには身体の喪失と仕事の喪失による何重もの喪失と喪失感があるから、僕とは……」

そこで千紗が、澄広の饒舌を断ち切った。

「助けて欲しいのよ! 喪失感とかアイデンティティとか、そんなことどうでもいいから、助けて欲しいの!」

澄広は、しまったと思った。千紗が、絶縁している父親と再び、会うつもりだという話をした時、手助けして欲しいと訴えているのだと気づかなければならなかった。澄広は、彼女の父親と面識があるのだから。そのことを知った時、千紗は、澄広に、父親と彼女の間に何らかの形で入って欲しいと思ったに違いない。実現できるかどうかは別にして、今、そのようなニュアンスのことを言って欲しかったに違いない。それが、澄広には分からなかった。彼は、論理的に物事を話し、進めることに長けている。反面、情緒的に物事を捉えることが苦手だった。この長所と短所は、仕事では活かされる。情に流されず、ビジネスを遂行する。でも、一人の人間としての日常生活においては支障が多い。今がそれである。千紗は、それほどの期待を抱いていなかったのに、あまりにも無神経に饒舌な澄広に、つい苛立ちを覚えたのだった。澄広は、また悪い癖が出たと思った。


九.

次の日は休みだった。昨夜は、バスの最終も過ぎて、千紗の車で送ってもらった。車内は気まずい沈黙が続いた。車を降りる時、彼女が「ごめんなさい」と言って、「僕が悪いんだ」と澄広も謝った。澄広は、起きてから、ずっと昨夜のことを考えていた。アパートの部屋から外を見ると、久しぶりに雨が降っていた。本格的に雨が降るのは、梅雨が明けて以来、初めてだった。澄広は、雨を見ていた。携帯電話が鳴った。母親からだった。今から、父親と一緒にアパートに来ると言った。最近、母親からの電話が多い。それに、以前と違い声が明るい。電話を切って、しばらくすると父親の車が到着した。

「雨だから、少し涼しいな」

父の厚三が、そう言いながら部屋に入ってきた。

「お弁当を作って持ってきたから」

母の妙子が、手に持った弁当を笑顔で見せた。

三人は、六畳の居間の畳の上で話をした。大人三人には狭かった。

「最近、何かいいことでもあった?」

澄広は、両親に尋ねた。

「いいことって、澄広、あなたがいいことをしたんじゃないの」

母が言った。が、澄広には意味が分からなかった。すると、父が話し始めた。

「お前が遊園地でアルバイトをし始めた時は、内心、困ったと思ってた。何故なら、人が集まる場所で、アルバイトをするなんて、わざわざアパートを借りた意味がなくなるから。近所の人も、よくあの遊園地に遊びに行くだろう。お前のことも、すぐに気づくと思って。ただ、お前が、やりたいと始めたアルバイトに色々言うのも何だから黙ってたんだ」

「そうだったのか。そんなこと全然、考えなかった。悪かった」

「いいんだよ。結局、取り越し苦労だった。澄広、お前、この前、小さな男の子が遊園地の中で無くした帽子を探して、男の子に渡してやっただろう」

「よくそんなこと知ってるなあ。あの男の子のおばあちゃんが買ってくれた大事な帽子だっていうから、一生懸命探したんだ。見つかって良かったよ」

「お前、その時、一緒にいた男の子のお母さんとおばあさんの顔に見覚えはないか? あの人、町内のSさんだよ。お前も子どもの頃から知っているだろう」

「ああ。思い出した。Sさんの家って姉妹がいるけど、姉の方が、俺の同級生だ」

「そうだよ。それで、あの日、お前が会ったのが、Sさんと、妹夫婦、それに、二人の子どもが、帽子を無くした男の子だ。Sさんと娘さんが、あの時、お前の顔に見覚えがあったけど、あんまり日焼けしているから、分からなかったらしい。それでも、帰り際に、お前の胸の名札に『尾形』ってあったのを思い出して、お前だって気づいたんだ」

「それで、まさか、家までお礼の挨拶に来たの?」

「そうだよ。それに、それがきっかけで、お前が帰ってきて遊園地で働いているってことが近所に広まって。G商事を辞めたことは色々あったんだろうけど、地元に帰ってきて働いてくれているのは嬉しいって、みんな喜んでくれてな。都会へ出て行くばかりで、町は高齢化が進むばかりだから」

要するに、俺は俺の気づかない間に、故郷で、再認知されたのだと澄広は、父の話を要約した。

「そこでね、あなた、もうアパートにいる必要がないと思うの。近所の人も、みんな喜んでくれているし。もちろん、あのことは誰も知らないし」

母がそう言った。そして、澄広の左手首をそっと指さした。澄広は、指さされて、改めて、手首を見た。傷跡は、まだはっきりと残っていた。

「家賃も生活費も、負担をかけていることがずっと気になっていたから、父さんと母さんさえ良ければ、家に戻るよ。仕事はまだ見つけられないから、遊園地でアルバイトを続ける。バイト代の中から、できるだけ自分の生活費は捻出するよ。ただ、全部は無理だけど」

「そうね。仕事は無理に急いで探さなくてもいいんじゃない? このまま遊園地に就職したっていいと思う。とにかく、ゆっくりと考えましょう」

「そうだ。今まで、お前は急ぎ過ぎていた。勉強もできたし、仕事もできた。だから、みんなの期待が大き過ぎて、生きるのに疲れていたんだ。だから、ゆっくり生きるように。父さんも母さんも、いつでもお前の味方だ。安心して、自分のペースでやればいい」

優しい両親だった。澄広が自殺未遂をしたことを、自分達の責任と感じて、随分、心を痛めたことが今の話からでも分かる。澄広は、その話を聞きながら、千紗と彼女の父親のことを考えた。絶縁していると彼女は言った。父親大見良造が失意の中にあることは、実際に会って話したことのある澄広には、よく分かった。でも、悲しすぎると思った。今、父と母に、これほどまで愛されている自分がいて、一方、絶縁状態にある千紗がいる。何とかしなければならないと澄広は思った。

父と母と三人で、小さな台所の小さなテーブルで、澄広は、母の手作りの弁当を食べていた。愛情を受け、人は立ち直れる。ならば、千紗と大見の二人ともが、絶縁状態により、愛情の交流が途絶えてしまっている。そのことで、二人ともが、立ち直る機会を逸したまま、ここまで来てしまったのではないか。

「澄広。玉子焼き、もう一つ食べなさい」

「自宅じゃないところで、三人で弁当を食べるのも、なかなか面白いものだな。だが、もう澄広も家に帰ってくる」

父と母の声を聞きながら、澄広は、千紗のために何かしなければならないと痛切に感じた。

「助けて欲しいの!」という千紗の声が、澄広の中で、大きくなっていた。



一.

両親の提案に同意して間もなく、澄広は、アパートを引き払い自宅に帰った。引っ越しのため、一日休みをもらったが、朝から二時間ほどで、すぐに引っ越しは終わった。荷物は故郷に帰ってくる時に、ほとんど処分していたからだった。家に戻ってから、何年振りか分からないほど久しぶりに、澄広は、二階の自分の部屋のベッドで横になっていた。父親の言った通り、近所では澄広の帰郷は好意的に受け止められていた。帰ってきてから、色んなことが順調に行っていると思った。だが、千紗のことが気になる。彼女とは、また職場でお互い、いつも通りに接しているが、あの晩、彼女が助けを求めていたことに気づかなかった自分への後悔がある。また、彼女の父大見良造を公園に探したが、見つけられないままアパートを引き払ったことも気になっている。澄広がそんなことを考えていると、携帯電話が鳴った。千紗からだった。

「お休みの日に、ごめんなさい。尾形さん。父を見かけなかった?」

「いや、アパートを引き払う前に、近くを探したんだけど会えなかった。何かあったの?」

「母から電話があって、昨日の夜から、父が家に帰って来てないの。急遽、私も休みを取って、心当たりのある場所を探してるんだけど、見つからないの。アパートの近くの公園も探したけど、いなかった。それで、公園以外で父の立ち寄りそうなところを知らないかと思って?」

澄広は、公園以外の場所は思い浮かばなかった。時計を見た。午前十時を過ぎていた。「自死」という言葉が頭に浮かんだ。電話から聞こえる千紗の声にも、独特の緊張感が含まれていた。既に警察に捜索願も出したと言った。澄広は、電話を切った。そして、一階に駆け降りると、父の車を借りて、千紗の父を探しに出た。探す当てはない。ただ、そうせずにはいられなかった。公園に行った。ベンチには、やはり、大見良造の姿はなかった。彼が、よく散歩をしている公園の周りも探したが、いなかった。澄広は、これまでの大見との会話の中に何か手がかりはないかと考えた。だが、意識的にお互いの深部には触れないように交わされた会話ばかりだったから、何も手がかりはなかった。

澄広は、公園を後にした。車を走らせているが、どこに向かっているのか自分でも分からなかった。でも、じっとしていられなかった。時間がないという思いに駆られている。時間がないという焦りは、大見良造が、自ら命を絶つまでの残り時間がないという焦りであった。彼が命を絶つという可能性は十分にある。これまでにも、自殺未遂を何度も起こしている。そして、彼は左脚を事実上失って以来、何一つ状況は改善していない。帰郷してから、状況が改善している澄広とは違う。大見良造は絶望のままである。

落ちつかない澄広は、車のラジオをつけた。AMラジオからは、知らないポップソングが流れてきた。彼はラジオを消した。その時、千紗からの電話が鳴った。澄広は、急ブレーキをかけ、路肩に車を寄せた。電話を取った。そして、千紗の話を聞くと、すぐ携帯電話を切った。彼は車の向きを変えると、急発進した。かなりスピードを上げた。


個室の病室には、刑事が二人いた。意識を回復した大見良造から事情を聴取していた。大見良造は自殺を図った。だが、未遂で終わった。澄広は、デイルームで待つことにした。彼は、大見を見つけられなかった落胆と同時に、緊張していた。緊張は、澄広自身が命を絶とうとナイフで手首を切った時と同じ、死の匂いが、まだ漂っているためだった。少しすると、千紗がデイルームに現れた。

「父は、大丈夫です。警察の事情聴取にも、きちんと応じています」

憔悴している千紗は、病院にかけつけた澄広に、それだけは伝えようと、デイルームに来たのだった。

「そうか。良かった。明日また来るよ。大見さんも、疲れているだろうから、少しでも休んで」

それだけ言って、澄広は、病院を去った。大見良造が無事だと確認できたことで、ほっとした。だが、大見良造、そして、千紗のことを考えると気が重かった。

帰宅してからも、気持ちが高ぶっていた。夜遅くなっても、落ち着かないので、居間で一人酒を飲んだ。電気をつけず、テレビの音を消し、画面の明かりだけで、酒を飲んだ。次々に変わる映像を観ながら、酒を飲んだ。知らないうちにソファーで寝ていた。翌朝、母親に起こされた。何かあったのかと聞かれたが、特に何もないと答えた。遊園地に電話をかけ、今日もバイトを休むことを伝えた。人が足りないと悲鳴を上げていた。それから、父親に今日も車を借りると言って、澄広は、病院に向かった。病院につくと、病院の面会は午後からなので、デイルームから、澄広は、千紗に電話をした。しばらくすると、千紗と千紗の母親が現れた。母は君江といった。君江も疲れていた。君江は、澄広が、公園で大見に何度か会っていたことに関心を示した。ただ、澄広が、大見との会話の内容を話して聞かすと、表面的なものばかりなので、落胆した。

「それにしても、昨日は、尾形さんも、夫を探してくださったようで、お手数をおかけしました」

「いえ、結局、何のお役にも立てずに恐縮です」

それから、三人で、デイルームで話をした。大見良造はずっと眠っていると君江が言った。


二.

千紗が、父大見良造の件について説明した。一昨夜、家に帰らず、大見は、港に向かった。港までタクシーを使ったが、所持金の少ない彼は、帰りの運賃を考慮していなかった。つまり、死に場所として港を選んだのだった。ショルダーバッグの中には彼が服用している薬を全て入れていた。港の正面入口は、夜間は閉鎖されている。それを知っている彼は、タクシーの運転手に、港に併設された古くからある食堂に向かうように言った。だが、食堂も夜間は閉まっている。タクシー運転手は、何をしに行くのだろうと不審に思って大見に尋ねた。大見は、「大事なことなんだ。連れて行ってくれ」としか答えなかった。タクシー運転手は、バックミラー越しに大見の顔を見ると、とても落ち着いた表情をしていたので、つい指示に従った。そして、タクシーは、大見を食堂の入り口付近に降ろして去った。千紗は、このタクシー運転手の証言を、昨日、病室に事情聴取に訪れた刑事から聞いた。それから、大見は、食堂の入り口の引き戸を開けた。鍵はかかっていたが、古いガラスの引き戸は、力を入れると簡単に開いた。中に入ると、大見は、左脚を引きずりながら、一直線にもう一方の引き戸に向かった。港側にある引き戸で、ここは港内からの客の出入り口だった。大見は、この引き戸も簡単に開けた。どちらの引き戸も古く、鍵はかけてあるが、形だけで、力を入れれば、すぐに開けられることを、長く港で働いていた大見は知っていた。そして、彼は、港側の引き戸から、港に入った。時刻は、深夜近くになっていた。夏の夜の蒸し暑さ、潮の香り、そして、波の音が、大見の心を静めた。港内に点灯する僅かな明かりを頼りに、大見は歩いた。脚を引きずる音と杖の音が静かな港に響いた。

「もう少し、もう少し」

大見は、そう自分に言い聞かせながら歩いた。

かなり歩いたところで、彼は、立ち止まった。そこは、彼が左脚をコンテナに挟まれた場所だった。今は、何も置いていなかったが、「〇〇港コンテナ運輸会社」という看板が掲げられた倉庫の位置から分かった。大見は、コンクリートの地面に腰を下ろした。汗で半袖シャツが、体にべったりと張りついていた。ショルダーバッグから、薬の入った紙袋と水筒を取り出した。そして、紙袋から、幾種類もの薬を手のひらに出した。何十錠もの錠剤だった。片手ではおさまらず、両手いっぱいになった。その状態では水筒の水が飲めないので、大見は、両手いっぱいの錠剤を、一気に口に入れた。錠剤で頬がふくらんだ。それから、水筒の蓋を取り、水を注いで、口に流し込んだ。ゴクリと水とともに錠剤をのみ込んだ。喉に引っかかって、はき出しそうになったが、我慢した。そして、もう一度、水を蓋に注いで、口に残った錠剤を喉に流し込んだ。今度は、喉に引っかからず流れた。大見は水筒を片づけ、ショルダーバッグを枕に仰向けになった。胃から薬が戻らないようにそのままじっとした。夜空には、星がなかった。真っ暗な夜空を見ながら、あの日は、激痛とともにここに倒れた。が、今は静かな気持ちだと思った。あの日、左脚を怪我することさえなければ、こんな人生を送らずに済んだのに。でも、もう終わりにできる。港で死ねる。そう考えながら、夜空を眺めているうちに、大見の意識はなくなった。


三.

デイルームで、そこまで話を聞いた澄広は、思わず、ため息をついた。そして、澄広自身の自殺未遂を思い出すと、自殺未遂騒動という喧噪的な感じがあったが、大見良造の場合は、深く静かに死を願ったもので、同じ自殺未遂でも、深刻さが違うように思った。彼は続きを問うた。

「でも、無事助かったんだから、そこからは、どういう経緯が?」

「まず、大量の薬を飲んだから、胃が受けつけず、吐いたの。これが不幸中の幸いだったと医師から言われた。それと昔の薬と違って、今の薬は安全性が高いから、昔のようには、薬を沢山飲んでも、それですぐ死ねるものではないんだと言われた。もちろん、死に至る場合もあるから、本当に不幸中の幸いだったと念を押された。場所が港の目立つ場所だったことも幸いしたって。港の朝は早いから、仕事に来た人たちが、倒れている父を見つけて、すぐに救急車を呼んでくれて、救急処置が受けられたから。私と母に連絡が遅れたのは、父は、身元の分かるものを一切、持っていなかったからだって。自殺ができなかった時、私たちに、会わせる顔がないと思って、そうしたみたい。医師と看護師に説得されて、父が自分の身元を明かしたから、ようやく私たちに連絡が来たらしいわ」

「不幸中の幸い。だけどそれは、一つ間違えれば死んでいたっていうことか」

澄広は、同僚の村川が、澄広の様子の変化に気づいてくれていなかったら、間違いなく、自分も死んでいたことを思い出しながら、千紗が医師から言われた言葉をかみ締めた。

それを聞いて、千紗も、千紗の母も、自分達が、たしなめられているかのようにうつむいた。そこに看護師が来た。

「大見さんの部屋からナースコールがありました」

「私たちも行きます」

君江が答え、千紗も続いた。迷ったが、澄広も後に続いた。


点滴の交換が済むと、看護師は部屋から出て行った。二人は部屋の中にいたが、澄広は廊下にいた。看護師が出て行く時、澄広は頭を下げた。看護師は、誰だろうという表情をした。千紗に呼ばれた。澄広は部屋に入った。見ると、大見良造がベッドに横たわり点滴をしていた。表情はいつもと変わらない沈んだものだったが、顔色は、どちらかというと、いつもより良い気がした。

「あなたは、公園でお会いする方では? 何故、ここに?」

澄広を見て、大見は驚いた。

澄広は、アルバイト先の遊園地で、最初に採用面接を担当したのが千紗であり、その後、千紗の父が、公園で会う大見良造であることを知った。もう公園の近くのアパートは引き払ったのだが、昨日、千紗から、父の大見良造がいなくなったため、どこかで会わなかったかと連絡があった。そこで、自分も、大見を車で探したが、途中、千紗から病院に運ばれたと連絡があり、駆け付けた。昨日は無事が確認できたので帰った。そして、今日、改めて、病院を訪れた、と説明した。

「そうでしたか。ご迷惑をおかけしました。それで、わざわざ見舞いにまで。そんなことしなくていいのに。おせっかいですね」

「お父さん。何てこと言うの」

「あなた。失礼なこと言わないで。尾形さん。すみません。夫は、今、気が動転しているんだと思います」

大見の言葉に、千紗と君江が慌てた。

澄広は、動揺することなく、大見のベッドサイドにある椅子に腰かけた。そして、腕時計を外して、大見に左手首の傷跡を見せた。それには、大見だけでなく、千紗も、君江も驚いた。澄広は、大見に語りかけた。

「大きな傷跡になっています。一生消えないかもしれません。でも、僕はこの傷跡を受け入れようと思います。この傷跡ができる前と後では僕の人生は全く変わりました。失ったものも多いです。でも、得たものも沢山あります。そして、最近、こう考えるようになりました。失ったものも、得たものも、両方が、僕の人生なのだ。そして、僕は全ての経験を経たからこそ、今の自分がある。だから、過去を否定しない。自殺未遂をした事実も否定しない。もちろん、そのことを吹聴することはありませんが、自分の心の中で、否定するのは止めようと思いました。そうしたら、傷跡のできる前と後の人生が一つに繋がりました」

澄広の話を聞き終えた大見は、

「きれいごとです。人生はそんなに甘いものじゃない。だいいち、あなたの左脚は健康じゃないですか。手首の傷跡ぐらいどうってことない。手首の傷跡なら、私だってありますよ。ほら」

そう言って、自分の左手首を見せた。澄広のような大きな傷跡ではなかったが、ためらい傷がいくつもあった。

「私の傷跡は、みみずばれのようでしょう。あなたのように手首を深く切るのが怖かったからです。だからといって、私に本気で死ぬ気がなかったわけではない。ただ、刃物で自分の体を切る行為が怖かっただけです。だから、今度こそと思って、薬を飲みました。でも、飲んだ薬の量が多すぎて吐き出すなんて。どこまで、私は、馬鹿なんだ。まともに死ぬことすらできない」

と今度は、大見は、泣き始めた。

「あなた。少し横になりましょう」

絶縁状態にあると言っていた千紗は、そのためか、大見の泣く姿を複雑な目で見ていた。そして、声はかけなかった。代わりに、澄広に、「外に出ましょう」と言った。


部屋を出て、そのまま一階にまで降りた。澄広は、帰ることにした。千紗は、まだしばらく病院にいると言った。

そして、

「嫌な思いをさせてしまって、ごめんなさい。昔は、あんな人じゃなかったんだけど」

「君のお父さんに言われた通りだよ。手首の傷跡と左脚が使えなくなったことを同じ次元のことのように話した僕が悪い。本当はそんなつもりではなかったんだけど、お父さんが、そう捉えてしまったとしても仕方がない」

「頑なになっているだけよ」

「また来るよ」

「ありがとう。でも、もういいのよ。また嫌な思いをするだけだから」

「気になるんだ」

「その優しさが通じる人じゃないから」

二人は話しながら歩いて、病院の玄関を出たところで別れた。

「絶縁状態は、これを機にやめたほうがいいと思う」

「そうね。お母さんも心配だから、そうする」

それを聞いて、澄広は、うなずいた。

「ほんのちょっとしたことがきっかけで、人は変われるんだと思う。僕がそうだった。君が、あの夜、心配して電話をくれたことが、きっかけで、僕は変わった。人生も変わっている。僕も頑なだった。でも、あの時、人の思いに触れられて変わった」

「そんな風に考えられるのは、あなたが聡明だから。父のような頑迷な人は、そうはいかないんじゃないかしら?」

「変われるさ。きっと変われるよ」

澄広は、そう言い残し、病院を去った。澄広の後ろ姿を見ながら、千紗は、初めて会った時、父と同じで絶望していると思った澄広が、ここまで変われるのなら、父も変われるかもしれないと僅かだがそう思った。父には裏切られっぱなしで、父を信じることはできないが、現実に変われた澄広の言うことなら、少しでも信じてみようと思った。


四.

澄広は、毎日、アルバイトが終わると病院へ行った。千紗は、まだ仕事が終わらず、大見と君江だけの日もあった。大見良造の退院が予定より遅れた。理由は、極端な偏食による栄養失調だった。大見は、左脚を怪我してから、食事の量が極端に減った。体を使う仕事を辞めたのだから、ある程度の量が減るのは自然だったが、大見は、ほとんど食べなくなった。食べるのは、晩酌の時の酒の肴だけだった。そんな生活を長く続けたため、大柄だった大見は、痩せた男になった。顔色も悪い。医師が君江から、大見の食生活を聞いて、もう少し入院させる必要があると判断した。入院が延長になってからも、澄広は、大見に会いに来た。

「尾形さん。毎日来られても、話すことはありません。意外に、あなたは、しつこいですねえ」

実は、澄広も、何故、自分が毎日、大見に会いに来るのか、その意味は分からなかった。だが、どうしても来ないといけないと体が動く。だから、来てしまう。それが、大見を変える方法として何なのか、自分でも、説明できないのだが来てしまう。今日も、アルバイトが終わってから、会いに来た。面会時間終了間際だった。

「もしかして、千紗? 千紗と結婚したいんですか? それで、私に取り入ろうと思って毎日会いに来るんですか?」

「あなた。やめてください」

「それなら、わざわざ、私のところに来なくてもいい。あなたが、好きなら、どうぞあげます。千紗は、一人娘なのに、婿を取る気もないし、結婚する気もない。元々、変わってるんですよ。A短大を出て栄養士の資格を持ってるのに、突然、遊園地に就職したんだから。小さい頃から、コックさんになりたいって言って、せっかく栄養士になったのに、どうして、遊園地なのか? 尾形さん。ついていけますか?」

澄広は、A短大と栄養士の話、そして、突然の遊園地への就職の話を初めて聞いた。

「初めて聞いたので、驚きました。確かに、不思議ですね」

「そうでしょう。だから、好きなら、どうぞあげます。でも、苦労しますよ」

そこで、面会時間終了の院内放送が流れた。澄広は、部屋を出てエレベーターに向かった。

君江が一緒に歩きながら、話した。

「あの人が失礼なことばかり言いまして、ごめんなさい。でも、あの人、内心、あなたが来るのを楽しみにしているみたい。尾形さんって、あなたの名前をきちんと言います。あの人が、誰かの名前を言うことってほとんどないんです。だから、あなたに好感を持っているんだと思います。嫌なことを言うのは、やっぱり、左脚を悪くしてから、そうなってしまって」

「そうですか。ご迷惑かと心配していたので、嬉しいです。それと、千紗さんの話ですが?」

「あの話は、夫の言う通りです。栄養士として働くはずだったのに、突然、遊園地に。子どもの頃から、よく家族で遊びに行きましたが、だからといって、そこに就職したのは何故なんでしょうね。あの子は、複雑な性格の子ではないんですが、そのことだけは分かりません。本人に聞いても教えてくれません」

そこへ、エレベーターが来た。君江に挨拶をしてエレベーターに乗った。他に誰もいないエレベーターの中で、澄広は、千紗のことを考えた。彼女は、秘密を持つような人ではない。そういうことを好まない人だと思う。けれど、彼女にも秘密があった。それだけに、彼女の秘密は、大きな意味を持つ気がした。チンと音が鳴り、エレベーターが一階に到着した。澄広は、照明を落とした、薄暗く静かな病院の一階のロビーを抜けて外に出た。夜も湿度が高かった。でも、その中に、少し涼しさも感じた。八月も下旬に入った。


五.

野河と結美が、園内の広場で追いかけっこをしていた。寺木が、二人を注意したが笑顔だった。

「遊ぶのはお客さんだぞ。お客さんより、楽しくスタッフが遊んでいる遊園地なんてないぞ」

二人を見ていた大勢の客も笑った。

八月も下旬になったが、日中の陽ざしは変わらず厳しい。その陽ざしの下、野河と結美は、元気に追いかけっこをしている。澄広は、結美を見た。すらりとした美人の彼女は少し気まぐれなところがある。それが野河を振り回している要因になっているのだが、彼女はそのことに気づいていない。屈託のない彼女は、女子大に通い、夏休みの間、遊園地でアルバイトをしている。澄広は考えた。一見、屈託のない結美にも、実は誰にも言えない秘密があるのだろうか? 千紗がA短大の大学生だった時、結美のように一見、屈託のない女の子だっただろうか? おそらくそうだったのではないか。彼女は、弱音を吐かない。辛さを顔に出さない。だから、一見、明るい大学生だったはずだ。では、結美も同じように心の中に実は深い悩みがあるのだろうか? あるのかもしれない。人は心の内を、そう簡単に見せるものではないから。そう考えながら、澄広は、結美、そして、野河を見ていた。

「八月が終わると、彼らともお別れです」

寺木が言った。澄広は、二人を見ながら、考えていたため、寺木が傍に来たことに気づかなかった。

「尾形さん。あの二人の若者には、どんな未来が待っているのでしょうか? おそらく辛いことのほうが多いでしょうね。そんな時、今の幸せな時間、青春のひと時を思い出してくれるといいと思います。私は、アルバイトの学生にも、この遊園地で楽しい思い出を残していって欲しと思っています。彼らを待ち受ける過酷な現実へ向けての、せめてもの思い出づくりになればと思います」

「以前の寺木さんの遊園地のお話と比べると、随分、悲観的ですね。もっと明るい未来像をお持ちかと思っていました」

「明るい未来なんてないと思います。だからこそ、ここで夢を見て欲しいのです」

「意外です」と澄広は言ってから、先ほど、人は心の内を、そう簡単に見せるものではないと考えたことを思い出し、訂正した。

「意外でもないですね。人生を毎日幸せに過ごせることがないから、こうやって遊園地がある」

「そうだと思います」

寺木はうなずいた。

「ところで、唐突で恐縮ですが、大見さんのことでお尋ねしたいのですが、彼女は、A短大を卒業して、栄養士の資格があるのに、何故、この遊園地に就職したのでしょうか?」

澄広は寺木に尋ねた。

「プライバシーに関わることなので、お答えできません。というより、実は、私にも分からないんです。それにしても、随分前のことですが、彼女がどうかしましたか?」

「いえ。最近、そんな話を聞きまして、不思議な気がしたので」

「以前に、大見さんに、私が世間話の中で聞いたことですが、純粋に、遊園地が好きだから。それと、遊園地では、観覧車が特に好きで、眺めているだけで楽しい。こんなことを聞きました。私も同じです。遊園地が好きだから、ここに就職したし、私の場合、真夏のプールが特に好きです。つまり、遊園地の従業員なら、概ね同じだと思います」

「確かに。一般論のようになってしまうから、やはり、分からないのと同じですね」

それから、まだ追いかけっこをしている二人を澄広と寺木は見ていた。そして、寺木が、そろそろ、止めに行こうとした時、向こうから、千紗が走ってきた。だが、千紗は、二人を止めずに自分も追いかけっこの仲間に入った。

「ほら。純粋に遊園地が好きだって分かるでしょう? 私だって、今の立場でなければ同じことをします」

そう言って、寺木は笑った。

澄広は、確かに千紗は楽しそうだと思った。そして、先ほどの寺木との会話の「幸せに過ごせないから、遊園地がある」を思い出した。千紗は、遊園地にいる時だけ、楽しいのではないか? 遊園地にいる時だけ幸せなのではないか? 父の左脚の大怪我以降、幸せではない人生で、唯一、幸せでいられるのが遊園地の中ではないのだろうか? だとすれば、一種の現実逃避の場を就職場所として彼女は選んだ。栄養士の道では幸せを感じられないから、たとえ、現実逃避でもいいから、幸せを感じられる遊園地に就職した。では、千紗がそこまで遊園地に幸せを感じられる理由は何だろう? 子どもの頃の思い出だろうか? その可能性は大きい。だが、君江が言ったように、子どもの頃から何度も訪れている遊園地の中で、何が彼女を幸せにするのかを特定するのは難しい。やはり、千紗に直接聞くしかないかと思いながら、しかし、極めてデリケートなことである気がした。野河に追いかけられ、結美とともに逃げ回る千紗の無邪気な笑顔を見て、それを壊してはいけないと、澄広は慎重になった。


六.

その夜、澄広は、病院へは行かず自分の部屋にいた。シャワーを浴びて、缶ビールを飲んでいた。帰りがけ、千紗が、駆け寄ってきて、今夜は私が父の見舞いに行くから、家に帰ってゆっくり休んで欲しいと言われた。仕事とはいえ、実の娘が見舞いに行けない晩まで、他人の澄広が見舞いに行っているのは、千紗も気になるだろうと察し帰宅した。もうすぐ退院らしい。その準備もあるだろう。帰りがけに会った時も、千紗は変わりなかった。就職した当時は、遊園地に特別な何かがあったが、長く勤める中で、その特別な何かの力を借りなくてもいいようになったのだろうか? 今、千紗は十分に幸せなのだろうか? 澄広は、彼女にとっての幸せとは何かを考え、同時に、自分にとっての幸せとは何かを考えたが、明確な答えは出せなかった。そして、寺木が以前とは違って、とても悲観的な話をしたことを思い出した。だが、以前に話した理想も彼の本心だろう。人はそんなに単純ではない。左手首を切ってから、遊園地でアルバイトをする日々の中、澄広が、学んだことであった。それから、寺木の話の中の、千紗は遊園地で特に観覧車が好きだと言ったことを思い出した。澄広は高い所が苦手だから、観覧車にほとんど乗ったことがない。アルバイトの面接に行った日に、赤と白にきれいに塗り直した観覧車が目に入ったことを思い出した。

「遊園地自体が、丘陵地にある。更に、そこにある観覧車だから、回転して一番上まで行ったら、遠くまで見えるだろうな。何が見えるんだろう」

澄広は、そう呟いてから、缶ビールを飲み干した。それから、しばらく黙っていた。そして、はっとして、思わず持っている缶を握りつぶした。静かな部屋に、アルミ缶の潰れるクシャリという音がした。


翌日も、晴れていた。朝から気温は上がった。夏休みも終わり間近になり、家族連れの客が押し寄せていた。澄広は、午前中は、園内の誘導係を担当した。プール専用の出入り口がないため、遊園地の出入り口から、全ての入場客が入ってくる。子どもも多い。転倒事故などが発生しないよう機敏な誘導が必要だった。学生のアルバイトとともに、澄広は、午前中ずっと誘導を行った。休憩時間もほとんどなかった。昼の休憩後、ようやく人の流れが落ち着いた。今日、千紗は休みだった。澄広は、今日、千紗が休みであることを重視していた。何故なら、今から、彼は観覧車に乗るからである。理由は、何故、千紗が遊園地に就職したのかを確かめるため。何故、観覧車が一番好きかを確かめるためだった。だが、彼女にとって、それは、デリケートな問題だと考える澄広は、千紗が休みの日に、観覧車に乗ろうと思った。彼女に気づかれないように、というより、彼女を傷つけないために。

他の誘導係の大学生に、少し持ち場を離れることを伝えた。それから、澄広は、観覧車に向かった。無断で持ち場を離れた。しかも、業務中に観覧車に乗るつもりだった。乗せてもらえるのだろうかと思った。でも、澄広は、今じゃないとダメだと思った。千紗が休みの日で、更に、今日のように晴れた日の昼間でなければならない。今日しかないと思った。会社に勤めていた頃の自分だったら、こんなことは絶対にしなかったと思った。澄広の中で、かつては無駄だと思っていたことが、今は、大切なことだと思える。彼は、観覧車の乗り場まで来た。観覧車の係は野河だった。

「尾形さん。今日は誘導係じゃなかったですか? 午後から観覧車の係に変わりましたか?」

「いや、そうじゃないんだ」

「どうしました? まさか観覧車に乗りに来たとか?」

「前から思っていたんだけど、君は、鋭いところがあるね。その通りなんだ」

「えっ?」

野河は、冗談を言っているのではない尾形の表情を見た。

「何かあったんですか?」

「それは言えないんだけど、どうしても今、乗りたいんだ」

やはり、尾形の表情は真剣だった。その表情に対して野河は、

「いいですよ。乗ってください」

とあっさり言った。

「こちらから頼んでおいて、何だけど、そんなに簡単に言って大丈夫なのかい?」

「大丈夫ですよ。けっこう、バイトの学生で乗るヤツがいますもん。特に夏休みも終わり近くなってきたから、遊園地のアルバイトの記念にって、バイト中に乗るヤツがいるんですよ」

「そうなんだ」

「だから、見つかっても、遊園地のバイトの記念に乗りましたって言えば、見逃してもらえます。尾形さんは、夏が終わっても働くと思いますが、あくまでも社員じゃなくてアルバイトです。だから、大丈夫ですよ」

「なるほど。もし、見つかったら、そう言うよ」

それを聞いて、野河は笑った。尾形も笑った。

観覧車は、それほど混雑していなかった。だから、すぐに乗れた。尾形の順番になり、野河が、目の前に現れたゴンドラの扉を開けてくれ、ゴンドラを支えてくれた。尾形は中に乗り込んだ。野河が扉を閉め、支えていた手を離した。すると、ゴンドラは少し揺れながら、ゆっくりと上がっていった。ゴンドラは、赤と白にきれいに塗り直されているので新しく思われたが、乗り込んでみると、中は、古いままだった。澄広は、ゴム製の硬いシートに座った。四人乗りのゴンドラに一人で座っている。外を見ると、思ったより速い速度で昇っていることが分かる。彼は、恐る恐る窓から下を見た。野河の姿が小さくなった。視線を戻すと横に青空が広がっている。つまり、もう随分高くまで昇ったということが分かった。観覧車の一番上を見ると、そこまではまだあるが、遊園地自体が丘陵地にあるため、その分、観覧車から見える景色は高い。澄広は、千紗のことを確認したいためでなければ、自分が観覧車に乗ることはなかっただろうと思った。そして、ある意味で、貴重な体験だと思うようにした。そんなことを考えている間に、ゴンドラは更に昇っていた。ゴンドラの足元には、細かな穴が開いていた。吹く風を通り抜けさせ、ゴンドラを安定させるためなのだろうか。その穴から吹き込んでくる風は、ひやりとした冷たさがあった。彼はその風の冷たさに、今のゴンドラの高さを実感した。

「家族や友達と乗れば、もう少し気がまぎれるのかもしれないが、一人で観覧車に乗るのは、少なくとも俺には厳しい」

冷たい風を足元に浴び、彼は呟いた。

観覧車は回り続け、いよいよ澄広の乗ったゴンドラは、一番上にまで到着した。高かった。青空の中の真っ白な雲が、これほど近く感じたことは、彼は、初めてだった。神秘的な感じさえした。

「アルバイトの記念か」

野河の言葉を思い出した。そして、彼は、観覧車に乗った最大の目的を果たすべく、怖さも忘れて、大きく身を乗り出した。窓に顔をつけると遥か下を見た。この高さだと下界という言葉が相応しいほど遥か下を見た。澄広は、じっとある地点を見続けた。観覧車が回り、頂点から降り、その地点が見えなくなるまで見続けた。そして、

「こういうことか」

と澄広は言った。

その後、澄広のゴンドラは、一番下まで降り、野河が彼の乗るゴンドラの扉を開け、澄広は、ゴンドラから降りた。

「どうでしたか? 何か収穫はありましたか?」

「ああ。ありがとう。おかげで。それにしても、確かに、アルバイトの記念に、相応しい景色だった。でも、高い所が苦手だから、俺は、一生に一回の記念にしておくよ」

野河は笑った。澄広は、礼を言って誘導係に戻った。夕方になると、再び、遊園地とプールの客が一度に帰るため、出入り口付近は混雑した。多くの客を誘導しながら、澄広は、千紗のことを考えていた。


七.

アルバイトが終わると、車で大見良造の入院する病院に向かった。もしかしたら、千紗が休みの日だった今日、良造は退院したかもしれない。だが、退院していなければ、今から病院に向かえば、千紗も病院にいると思った。澄広が見舞いに来ることも分かっているので待っているだろう。彼が、千紗と千紗の両親に会えるのは、退院までの間しかない。だから、退院していないことを願うわけではなかったが、澄広は三人が病室にいてくれることを考えながら、車を走らせた。病院の駐車場に車を停めると、ロビーを通ってエレベーターに向かった。ロビーの照明は落とされておらず、見舞客の姿も多く見られた。エレベーターで三階に上がった。部屋に向かった。まだ「大見良造」と名札があった。ノックしてドアを開けると、千紗も大見良造も君江もいた。

「いつも、すみません。お疲れになっているのに」

「父は明日退院になりました。それで、今、退院の書類を書いたり、片づけをしたり、色々していました」

君江と千紗が言った。

「そうですか。それは良かった。退院おめでとうございます」

澄広の言葉に、

「死に損なって、退院するって、何だか矛盾してますね。つくづく、おめでたい男です。私は」

大見が言った。

君江が、「あなた」とたしなめたが、澄広は、気にしなかった。大見は退院前で、動揺しているのだろうと思った。澄広も同じ経験があった。自殺未遂をして、緊急入院し、無事一命を取りとめたのだが、当初の死ぬという目的から考えれば、全て失敗した結果、退院することになった。その矛盾と恥ずかしさに、澄広もひどく動揺した記憶があった。

「今日、無断で仕事を抜け出して遊園地の観覧車に乗りました。千紗さん。すみません」

時間がない。澄広は、すぐ本題に入った。

大見と君江は、ただ澄広の顔を見ていた。だが、千紗は、ひどく狼狽した。

「何故、観覧車に? 好きなんですか? 別にいいんですよ。いや、本当は良くないんですけど、バイトの学生さんは、時々、乗っているみたいです。でも、今、そんな話を何故、私に?」

「乗ってみたかったんです。というより、乗ってどうしても確かめたいことがあったんです」

「確かめたいこと?」

「はい。観覧車の一番高い所から何が見えるかを確かめたかったんです。千紗さん。あなたが、何故、遊園地に就職したかを知るために」

今度は、千紗だけでなく、千紗の両親も驚いた。

「探偵みたいなことをして、探偵みたいなことを言い出して。尾形さん。あなたは何をやってるんだ。でも、千紗が遊園地に就職した理由って?」

「千紗が遊園地に就職した理由が分かったんですか?」

大見と君江は、関心を示したが、千紗は、警戒心をあらわにした。

「遊園地が好きだから、遊園地に就職した。それだけです。それに、私が遊園地に就職した理由を知るために、何故、観覧車に乗る必要があったんですか? そもそも、何故、今さら、私が遊園地に就職した理由を知る必要があるんですか?」

「千紗。お前の言う通りだが、父さんも母さんも、ずっと疑問に思ってきたのも事実だ。お前はA短大を出て栄養士の資格を取ったのに、突然、遊園地に就職しただろう。でも、父さんも母さんも、お前が、それほど遊園地が好きだったとは思っていない」

「千紗が、毎日、元気に働いているから、あなたの言う通り今さら、無理に知りたいとは思わないのよ。でも、触れてはいけない何かがある気がして、ずっとそのことが気になったままなの。何かがあったのよね?」

両親の言葉に千紗は答えなかった。すると、澄広が話し始めた。

「観覧車に乗った理由は、千紗さんが、遊園地では観覧車が一番好きだという話を聞いたからです。私がお話することは、推測に基づいています。だから、全てが正しいということはありません。でも、今日、観覧車の一番高い所にまで上って、窓から下に広がる風景を見て、その推測が、私の中で確信になりました」

「待って。尾形さん。あなたは、とても頭のいい人だから、今から、あなたが話そうとしていることも、大部分が合っていると思う。でも、何故、あなたが、その話をしようとするのかが知りたい。それを教えて」

千紗は澄広に説明を求めた。澄広は、うなずいた。君江が、澄広にも椅子を進めた。大見のベッドサイドに君江と千紗が、澄広はベッドの足元に椅子を置いて座った。

「千紗さんのこと、そして、お父さんの左脚の怪我のこと、お母さんのこと、みんなの人生と、僕自身の人生を重ね合わせて考えました。何故、今から、僕は話そうとするのか。それは、みんなに幸せになって欲しいからです。興味本位で、観覧車に乗ったわけでも、千紗さんのことを話すわけでもありません」

そこまで話してから、沈黙の後、澄広は自分の過去について語り始めた。

「僕は、確固たる信念と自信が、自分にあると思っていました」


八.

澄広の信念は、「勝つこと」だった。何に勝つのかは、「ライバルに」「勉強に」「受験に」「仕事に」と何でも良かった。決して、特別なものはなかった。だが、その月並みとも言える「勝つこと」が、彼の生涯を一直線に貫く栄光の道であり、その道が決して、途絶えることはないと信じていた。だが、クラブでホステスの明未に会って、栄光の道が見えなくなった。更に、違法カジノへ通い詰める中で、道を踏み外した。そして、暴力団員による借金の取り立てと、マンションでの自殺未遂により、道そのものが消えた。勝つことも、栄光の道も、全て消えた。

「勝つことが、信念だなんて、自分でも、単純な人間だと思います。でも、たとえ、どんなに単純なことであっても、子どもの頃から、ずっと信じてきたことは、自分自身の全てになっています。それが消えてしまった後、生きることは非常に難しい。背骨を抜かれた状態で、歩けと言われているようだと僕は思います」

澄広が話した、明未のこと、違法カジノのこと、借金、暴力団員、自殺未遂のことは、やはり、三人を驚かせた。驚きのあまり、三人とも何も言えなかった。

「借金の問題とかは、ちゃんと片付いているの?」

君江が、自分の息子のように心配した。

「尾形さんのように、しっかりした人でもそんなことがあるなんて。仕事で疲れていたの?」

「僕が世間知らずなだけだったのさ。でも、相手はプロだから、騙すのが巧かったこともあるんだろうね」

千紗は、映画や小説の中のような現実感のない話と、毎日一緒に働いている健康的な澄広が一致しないため、戸惑った。

大見良造は、反応が違った。

「分かります。尾形さんの言うことが、よく分かります。信念ではなくても、ある日、自分が信じていたもの、無くなるはずがないと思っていた当たり前の日常が、突然、奪われた時の苦しみ。それは、その時ではなく、奪われてから後の日々に襲ってくる。空しさ、喪失感、生きている手応えの無さ、目標の見えない人生を生きる苦しさ、そして、取り戻せないあの日々を絶えず思い出す苦しみ」

そして、大見は涙を流した。それから、

「私のショルダーバッグを取ってくれ」

と言って、君江から、渡してもらったバッグの口を開いた。そして、中から、一枚の写真を取り出した。見ると、大見ともう一人の男が肩を組んで写っていた。古い写真で変色していたが、大見が笑顔で写っていることが分かった。写真の大見は、黒髪をリーゼントのようにして、隣の男と同じブルーのつなぎの作業服を着ていた。作業服の上からでも、筋肉質ながっしりとした体格であることが分かる。今の痩せた大見とは違う。写真の中の大見は、力強い笑顔の無骨な男だった。

「事故に遭う少し前です。一緒に写っているのは私と仲の良かった同僚です。いつも、この写真を持ち歩いている理由ですが、左脚に大怪我をしたあの日以降、生きている日々の中で、襲われるんです。一体何のために自分は生きているのかという思いに。しかも、突然です。散歩をしている時、図書館で本を読んでいる時、夜寝る前、突然、襲ってきます。そんな時、この写真を見るんです。自分は今、何のために生きているのか、一体自分は何者なのか全く分らない。けれど、昔、こうやって、自分は港で働き、港で仲間と語らい、港で生きた人間なんだ。今は全く分からないけれど、かつては自分にも信じられる人生があった。空しさや喪失感に襲われることのない人生があった。この写真を見ながら、あの頃の自分を思い出しています。そうすると、その間だけは、過去と現在の自分が一致する気がします。写真は、私のお守りです。自分が何者なのか分からなくなった時、必死でしがみついているお守りです。だから、尾形さん。あなたのおっしゃることが、よく分かります。私には信じられる過去はあります。でも、今、私は何のために生きているのか全く分かりません。過去と現在が断絶しています。過去の自分の人生と今の自分の人生が一致しないのです。その不一致が私を混乱に陥れます。そして、その混乱に襲われた時のことを思うと、私は恐怖のため、この写真を手放すことができません。これが私の今の人生です」

千紗と君江は、大見の言葉から、改めて、彼が、何に苦しんでいるのかを知った。そして、彼が、千紗も君江も知らない所で、一人、昔の写真を見つめて過去と現在を一致させていることを初めて知った。

澄広は、更に、大見の話を引き継いだ。

「過去と現在が一致しない理由は、現在の自分の置かれた境遇、つまり、現実を受け入れられないからだと思います。過去は認めているけど、現実は否定し、拒絶しているから、一致しない。僕も、大見さんのような不可抗力的な事故ではなく、自業自得な結果ですが、それでも、自殺未遂に関連する問題以後の現実を受け入れられません。過去の自分の勝つという生き方を、今振り返ってみて、正しいとは思えませんが、それでも、子どもの頃から、ずっとそうしてきました。だから、それ以外なかったと思いますし、そういう意味では過去を否定しません。そして、全てを失った今、もう一度、やり直せるかと言えば、そんな簡単なものではありませんでした。前に進もうとすると、大手商社に勤めていたというプライドが邪魔をします。また、ホステスに魅了され、ギャンブルで一千万もの借金をし、暴力団員に脅された。しかも、それらが全て仕組まれていたことだと気づかず、見事に騙され、手首まで切った自分の無様さが、今でも許せません。全部無かったことにして、もう一度、やり直したい。でも、失ったものは二度と戻らない。でも、やり直したい。頭の中はいつも堂々巡りです。夏の間、遊園地でアルバイトをして、とても楽しかったです。優しい遊園地の人たち、若くてナイーブな大学生、みんなとの出会いが、ここまで僕を立ち直らせてくれました。でも、僕は、アルバイトをしている最中も、今、自分は何故、この遊園地にいるのだろう? 会社を辞めたという事実は、何かの間違いなんじゃないか? そんなことをずっと考えています。やはり、現実を受け入れられません」

そこまで話すと、澄広は、千紗を見つめながら、

「でも、そんな不安定な気持ちの僕だからこそ、千紗さんの気持ちが分かりました」

と言った。すると、千紗が、

「尾形さんが、興味本位ではなく、同じ傷を持った者への共感で、私、そして、父についてお話していることが分かりました。ここからは、私が自分で話します」

そう答えた。澄広は、静かにうなずいた。


九.

中学二年生の秋だった。その日は中間テストだった。千紗はクラスでみんなと一緒に英語のテストを解いていた。全学年が一斉にテストを実施しているから、学校はとても静かだった。突然、廊下を走る音が聞こえた。大きなサンダルの音だったので、男性教師だと分かった。足音は千紗の教室の前で止まった。ノックもせず、教室の前の出入り口が開いた。学年主任だった。クラス全員が、問題を解く手を止めて、学年主任を見た。真っ青な顔をしていた。

「みんな、テストを続けなさい。先生、ちょっと」

学年主任は、担任教師を廊下に呼び出した。しばらくすると、担任が教室に戻ってきた。日焼けした男性体育教師である担任の顔も真っ青になっていた。

「大見。急いで職員室に行くように」

千紗は、訳も分からず、廊下に出た。学年主任が待っていた。主任に連れられ職員室に向かった。電話を取らされた。母からだった。

「お父さんが、仕事中にコンテナに左脚を挟まれて、大怪我をしたの。今、H病院に救急車で運ばれたから、千紗も、学校を早退して、病院に来て」


千紗は言った。

「中間テストの最中に先生に呼び出される前までが私の過去。それからが、私の現在になっている。病院の救急外来に入って、私のこれまで信じてきたものが全て崩れた。そして、もう過去の自分には二度と戻れなくなった」

救急外来に入って、すぐ父の顔が見えた。奇妙なほど穏やかな顔をして眠っていた。だが、眠っていたのではなく、左脚の怪我の激痛のあまり失神していたのだった。医師から、母とともに説明を受けた。左脚も見せられた。大怪我だというので、血まみれになっているのかと思っていたが、出血はしていなかった。ただ、皮膚の下で、左脚の大腿骨と下腿骨が、砕け散っていると医師は言った。それは、左脚が仮の固定をされる前、救急外来に運ばれてきたばかりの時、父の左脚を見た母が知っていた。

「左脚は、皮膚だけでつながっているの。骨が砕け散っているから、支えが無くて、ぐにゃぐにゃになっていた。骨が無いのと同じだと思った」

医師は、左脚の切断か、骨の固定手術を提案した。父の意思で、骨の固定手術を選んだ。医師は言った。非常に難しい手術であり、術後の経過が良くない場合、切断手術を再度行う可能性がある。そして、手術が成功しても、膝と足首の関節の骨折に関しては、元通りにはならない。つまり、膝も足首も動かなくなると説明した。今、大見良造が、脚を引きずっているのも、それが主な原因だった。だから、手術は無事成功したが、大見良造の左脚は、機能していないのと同じになった。


十.

千紗は、毎日が穏やかに過ぎていた、これまでの人生がどれだけ幸せであったかを、その時、初めて知った。と同時に、中学二年生の秋の中間テストの最中に学年主任が現れたあの時までが、自分の本当の人生だったと思うようになった。テスト中、学年主任の走るサンダルの音が静かな校舎の廊下に響いた。その音が、未だに千紗の耳に残っている。抜け出せない不幸が駆け足で千紗に近づいてきた音。今も、千紗にはそう思えてならない。


「あの日から、私は、現実を拒否した。でも、現実は、私に前に進むことを要求する。何故なら、私は生きているから。生きている限り、否応なく、前に進まざるをない。つまり、過去に戻ることはできない。そこで、私は、現実を拒否しながら、前に進もうとした。例えれば、後ろを向いたまま歩く。時には後ろを向いたまま走る。過去を見つめたまま、現実を生きるためには、そうするしかなかった。けれども、それは、とても不自然で、自分の中では過去に立ち止まったままだから、徒に時間ばかりが過ぎた。それに現実の社会との折り合いがつかなくなった」


千紗は中学、高校を卒業して、子どもの頃からの目標だった栄養士になるため、A短大に入った。事故以来、父の大見良造は、働けなくなった。事故後、僅かの間、事故前から勤めていた港にある会社で事務の仕事をしたが、プライドが許さなかった。動かなくていいから事務職ということだったが、彼には、動けなくなったから事務職しかないと捉えられ、屈辱感ですぐに辞めた。以降、障害年金と会社からの補償金と働きに出るようになった君江の稼ぎで家族は暮らした。父が働いていた頃より、収入は大幅に減った。家族は生活を切り詰めなければならなくなった。が、千紗は、一人娘だったので、何とか短大に進学できた。


十一.

だが、千紗は、A短大に進学してから、ひどく戸惑った。栄養士になりたいという子どもの頃からの目標があって入学したのだが、目の前にある大学生活という現実を、彼女は受け入れることができなかった。頭では、これでいいんだと考えるようにしても、過去で止まってしまった心が現実を受け入れなかった。父が左脚に大怪我をしたあの日からの現実は、現実ではない。あの日より前の幸せな家族の日常が、自分の本当の現実なのだ。それが、二度と取り戻せない過去であっても、自分にとっては、本当の現実はあの日々なのだ。そして、あの日々がそのまま続いて今があるならば、それこそが、自分が生きるべき本当の現実なのだ。だから、今、目の前にあるのは嘘の現実なのだ。

「現実に生きている日常を嘘の現実って、一体、私は、何を考えているのだろうって思う。でも、その考えは今も変わらない。変えられないの。今、私が生きている現実は全て間違いで、嘘なんだって。父が大怪我をしたあの日以降の日々は全て間違いなんだって」

それを聞いた澄広が、言った。

「君は、とても幸せだったんだと思う。もしかしたら、幸せすぎるぐらい幸せな子ども時代だったのかもしれない。僕は、子どもの頃から、何故か、生きることがとても嫌だった。両親は良い人たちだけど、それほど優しい人でもなかった。君のご両親のように子どもの期待に応えてくれるような人じゃなかった。だから、誰にも期待しなかった。薄っすらと自分はあまり幸せではないと思っていた。経済的には恵まれていたけれど、愛情の薄い家庭だと思った。だから、人にも世の中にも期待することがなくて、反面、落胆することもなかった」

「確かに、愛されすぎて、幸せすぎるぐらいの子どもだった。夢もいっぱいあった。だから、それだけ、深く傷ついた。尾形さんの言う通りだと思う。ただ、どうすればいいの? 私、なりたくてこうなったわけじゃない。父の事故をきっかけにこうなってしまった。そして、どうやって、この状態から抜け出せばいいのか分からない」

千紗は、苦しい思いを告白した。それを聞いて、澄広だけでなく、千紗の両親も、何も言えなかった。


十二.

千紗は、現実を受け入れられないまま、まさに後ろを向いたまま歩き、時には走り、大学生活を送った。拒否した現実を生きるには、それしか方法がなかった。

「でもね、それにも限界があるの。それが就職の時だった。大学生活の現実を否定しながら生きる矛盾だけで、私は、もう限界寸前だった。三年間、後ろを向いたまま歩き続けた疲労と限界。更に、就職は実社会に社会人として参加すること。これ以上ない現実。もうどこにも逃れられないと思った」

そんなある日、千紗はバスに乗っていて、窓の外を見ると、観覧車が見えた。子どもの頃、家族でよく遊びに訪れた遊園地が近くにあることに気づいた。バスは遊園地の前で停まった。ふと千紗は、遊園地に行ってみようと思った。就職の面接会場に行く途中だったが、彼女はそのことを忘れてバスを降りた。遊園地の中に入ると、中学二年生の時から一致しなくなっていた彼女の過去と現実が一致した。彼女の中に常にあった言い表しようのない違和感が消えた。彼女は心の底から安堵した。あまりにも安堵したため、彼女は長い時間、ベンチに座ったままだった。ようやく我に返り遊園地を見て回った。懐かしい乗り物も沢山あった。彼女はゆっくりと遊園地を回った。最後に観覧車に乗ろうと思った。いつも父と母と三人で乗った観覧車に一人で乗るのは不思議な気がした。赤と白に塗り直す前のブルーの観覧車だった。千紗は観覧車に乗った。高い所が平気な彼女は、窓から下を見ていた。観覧車が高くなるにつれ雲が近づいてきた。子どもの頃、「あの雲が欲しい」と手を伸ばして、父と母が笑ったことを思い出した。観覧車は更に高く昇り、一番高い所に到達した。千紗は眼下に広がる景色を見た。


十三.

「港だ。港が見える。貨物船も、カモメも、海も、水平線も、それに、青空も。それから、お父さんの働いていた会社も、倉庫も見える。あの頃の港そのままだ」

千紗は観覧車が徐々に降り始めても、ずっと港を見ていた。父と母と一緒に乗った観覧車。あの頃も、父と母と一緒にこの港の景色を見た。そして、父が、「あれが、父さんが働いている会社だよ」と港を指さし教えてくれたことを思い出した。

「何故、忘れていたんだろう。こんな大事なことを何故、私は忘れていたんだろう」

と彼女は泣いた。そして、観覧車が、空の青色と同化して遠くから見えにくいと言われるのに、ブルーなのは、海の青をイメージしているからだと思い出した。だから、その後、赤と白に塗りかえられる時、ひどくさみしく思った。

「その日に、事務所に行って、新入社員の募集はないか、尋ねたの。栄養士の募集はないけど、一般事務及び園内管理員の募集ならあると教えてもらって、すぐ応募した。そして、合格して、遊園地に就職したの。私は、もう後ろを向いたまま歩かなくていい。前を向いて歩けると思ったから」

「だから、遊園地に就職したのか」

大見良造は、以前に、澄広に言ったように、栄養士の資格があるのに遊園地に就職した千紗を、変わっていると言った自分を後悔した。

「千紗。どうして、教えてくれなかったの。お母さん、ずっと気になっていて何度も聞いたのに」

君江は、涙を流していた。

「本当に大変だっただろうね。でも、遊園地に就職したことで、千紗さんは、もう過去と現在が一致しないことに悩まされることはなくなったのか。栄養士の道には進めなかったけれど、今はもう現実を拒否することもなくなった。だから、以前より、幸せになれている。だとすれば、それで良かったと僕は思う」

澄広は、素直にそう言った。ところが、

「それがね。私の幸せは、遊園地の中にいる時だけっていう制限があるの」

「どういうこと?」


十四.

千紗の両親は知っているが、澄広は知らないことに、千紗の恋人のことがある。ただ、両親も何故、千紗が恋人と別れたかは知らない。千紗は、学生時代、アルバイト先でその男に出会った。彼女より一歳上の大学生だった。藤本といった。真面目で大人しい青年だった。二人はいずれ結婚するつもりだった。千紗の就職と一歳上で四年制大学の藤本の就職の時期は重なった。藤本は就職がなかなか決まらなかった。ようやく決まった時、既に、千紗は遊園地に就職を決め、試用期間の意味でアルバイトまでしていた。

「何故、君は遊園地で働くことに? 栄養士の仕事は?」

藤本は問うたが、千紗は答えられなかった。

藤本には、切実な問題があった。彼の就職先は、この町を遠く離れた都会にあり、この町を離れることになる。そこで、藤本は、千紗に就職後数年してから、できれば今すぐ、結婚して、一緒にこの町を離れて欲しかった。

「私、この町を離れることが、できなくなった。この遊園地を離れることができなくなったの」

藤本から、学生時代と違い、漠然とではなく具体的に結婚の話をされた時、しかも、この町を離れることになると言われた時、千紗の心が、それを受け入れがたい現実として拒否した。そして、気づいた。千紗は、遊園地によって、過去と現在が一致したのではなく、彼女は、遊園地の中にいることで、幸せだった過去を生きているのだということに。

「何故、この町を離れられないの? 向こうで他の仕事を見つければいい。栄養士の資格を活かせる仕事を。どうして遊園地なの? こだわる理由があるの?」

藤本の疑問は湧いて当然のものだった。だが、千紗は答えられなかった。千紗が答えられないことに、藤本は苛立ちと不信を感じた。その思いを抱いたまま、藤本はこの町を離れた。


十五.

それでも、何年か交際は続いた。ただ、ほとんど会えなかった。ある時、藤本は帰省した。どうしても会いたいと千紗に連絡してきた。遊園地の仕事が終わってから、千紗と藤本は久しぶりに会った。藤本は言った。

「向こうで、好きな人ができた」

千紗は答えなかった。

「何故、君は何も言ってくれないんだ。学生時代はそうじゃなかったのに」

「ごめんなさい」

「その人と、将来、結婚しようと思う」

「そうして。私とは結婚できないから」

「まるで、君は、遊園地と結婚したみたいだ」

「そうなの。私は遊園地と結婚したの」

藤本は、最後は諦めて去っていった。千紗は、藤本が去る姿を見ながら言った。

「私は遊園地と結婚した。そして、過去と結婚したの。過去を生きる私と、今を生きるあなたは結婚できない。私は誰とも結婚できない。さようなら」


「そんなことがあったのか?」

「千紗。そんな深刻な問題があるのなら、何故、言ってくれなかったの?」

千紗の両親は、衝撃のあまり、それ以上、言葉が続かなかった。

「一見、状況は改善されたように思われたけれど、実は、根本的な解決には至っていない。結果、千紗さんは、遊園地の中でしか生きられない。まるで、水槽の中の熱帯魚のように。生き生きと美しく泳ぐ姿も、あくまでも、水槽の中の、きれいな水がなければならないのと同じように」

両親に代わって、澄広が、冷静に分析し言った。

「私は、そんなに良い例えではない。私は、過去としか生きられないの」


最終章(観覧車)


一.

尾形澄広は、遊園地に正式に社員として就職した。

九月に入り、大学生のアルバイトがいなくなった。平日の来客も減り、落ち着いた反面、遊園地はさみしくなった。そんな時期だということもあってか、澄広の就職は、みんなに喜ばれた。

九月の初旬、爽やかに晴れた日だった。事務室で、澄広が、社員として正式な入社の挨拶をした。

「頑張りすぎて、空回りする性格なので、頑張りすぎないように気をつけます」

「尾形君がアルバイトで遊園地に勤め始めた時から、きっと、私たちの仲間になってくれると思っていました。頼もしい人物が加わってくれたことを嬉しく思います。ともに頑張りましょう。あまり頑張りすぎないように気をつけながらね」

園長の熊原が笑顔で言った。みんなが笑った。そこには、寺木の笑顔も、そして、千紗の笑顔もあった。


澄広は、病室で千紗の話を聞いて、彼の中にある様々な思いが、一つに結実した。

「遊園地に社員として勤める」という思いだった。

病室を出てからも、澄広は、千紗の話が心から消えなかった。車に乗って、ラジオをつけた。プロ野球のナイター中継が放送されていた。延長戦での一発逆転ツーラン・ホームランという劇的な勝利で終わった。澄広は、ラジオを消した。

「人生に一発逆転ホームランはない」

そう呟いて、千紗のことを考えた。そして、気づけば、遊園地の前に来ていた。路肩に車を停めた。車を降りた。星のない夜空に観覧車が浮かんでいるように見えた。赤と白だから、夜空でも見える。昔のブルーだった時は、闇夜に紛れていただろう。あの高さなら、飛行機やヘリコプターが追突する危険もあったはずだ。だから、安全面からも塗り直しが必要だった。でも、千紗の中では、観覧車はブルーのままなのだろう。それは彼女の中で時間が止まっているから。彼女の時間を前に進めることが可能なのか? 可能であればどうすればいいのか? そこで、澄広は、一つの結論に達した。

「俺が、彼女の時間に合わせて生きよう」

澄広は、千紗の過去の時間にまで自分が戻る方法が、一つだけあると思った。それは、澄広が、遊園地に就職することで、彼女の過去の時間の流れの中に入ることだった。そして、彼女の止まっている時間を、彼女とともに人生を歩みながら、少しずつ現実の時間に向けていく。例えれば、長年止まったままの時計のネジをゆっくりと慎重に巻き直し、時計を現実の時間に合わせる。そうすることで、千紗は過去を脱し、現実を生きられるようになる、そう思った。ところで、千紗とともに生きるとは何を意味するのか?


二.

夜空に浮かぶ観覧車を見ながら、

「論理的な思考には長けているけど、情緒的な問題には極めて疎い。今になってようやく気づいた。俺は、彼女が好きなんだ」

澄広は、そう言って、千紗のために遊園地に勤めることを決意した。もちろん、彼女の気持ちは確かめていない。千紗が澄広に、好感を持っていることは確かだけれど、それが、恋愛感情であるかは分からない。むしろ、そうなる可能性はあっても、まだ、恋愛感情ではないと考えるべきだ。それでも、澄広は、今夜、千紗、そして、千紗の両親を深く知ってしまった今、彼らをそのままにして、どこかに行ってしまうことはもうできないと思った。澄広にとって、遊園地に就職することが、損か得かではない。そういう次元の問題ではない。三人の前で宣言したように、みんなの幸せのために、彼は、遊園地に勤めようと思った。あの頃のように、自分の勝ちを求め、成果を求めるのではなく、みんなが幸せになるために。これが、今の澄広の思いだった。

彼は、車に戻ると、もう一度、ラジオをつけた。スポーツニュースが流れていた。その中で、先ほどのナイター中継で、逆転ツーラン・ホームランを打ったバッターは、長い故障から復帰して、ようやく打ったのが、今夜のホームランだと解説していた。

「人生に一発逆転ホームランはない」

澄広は微笑んだ。そして、遊園地を後にした。


三.

「尾形さん。どうして、遊園地で働く気になったの? 前に私が、その話をした時、怒ってたのに」

澄広の挨拶の後、事務所から出て、並んで園内を歩きながら、改めて、千紗は澄広に尋ねた。

千紗と同じ白に赤の縦縞のポロシャツとスラックス姿の澄広は答えた。

「君と遊園地の結婚を解消させるためだよ。僕は結婚主義者じゃないけれど、君が、いくら遊園地が好きだからって、遊園地と結婚した状態をそのままにしておくのは良くないと思ってね。自由になりなよ。現実に結婚するしない、それは君が決めればいい。だけど、何かにとらわれたままでは、決めることすらできない」

「自由か。その通りね。でも、それなら、私のために遊園地に就職したの?」

「それもある。でも、それだけじゃない。僕自身について、沢山のことを考えた。そして、働こうと思った」

二人はそのまま園内を歩いた。平日の朝なので、園内は静かで客はまばらだった。若い夫婦と小さな男の子の家族連れが歩いていた。父親はあくびをしていた。九月に入っても日中は暑いが、朝夕はもう秋の気配が漂っている。

「あなた自身のことは、具体的には、どんなこと?」

千紗の問いに、

「それを見せるよ」と澄広は、千紗を観覧車の乗り場に連れて行った。

そして、係に頼んで、二人を乗せてもらった。昇るゴンドラの中で、澄広は千紗に話した。

「僕自身が遊園地に就職した動機は、」

そこまで言って、澄広は、腕時計を外した。そして、左手首の傷跡を千紗に見せた。

「僕もまだ若いのか、思っていたより早く傷跡が目立たなくなってきた。でも、はっきりとナイフの跡は残っている。この傷跡はずっと残る。僕は、最近、この傷跡を詐欺グループに騙されて自殺未遂をした傷跡だと思わなくなった。僕は、この傷跡を勝つことにこだわって生きてきた、エゴイスティックな自分が限界を感じて自殺未遂をした傷跡だと思っている。あの時、僕は確かに限界だった。そんな僕が、辿り着いたこの遊園地で、生き方が変わった」

「確かに、あなたは変わった」

千紗はうなずいた。

ゴンドラは昇っている。澄んだ秋の青空に白い雲が浮かんでいた。雲も、夏ではなく、もう秋の雲だった。力強くもり上がる雲から風に流れる雲に変わっていた。

「でも、生き方の変わったあなたが、必ずしも、この遊園地に就職することはなかった。もっと、待遇の良い所にも勤められた。何故、この遊園地に?」


四.(最終話)

「勝つことは、無数の敗者を生む。そして、僕は無数の敗者を生む場所で戦い、勝つことを喜びとしてきた。多くの人を敗者として犠牲にして。ビジネスの場ではやむを得ないことだろうけれど、僕は、もうそういう生き方をやめようと思った。自殺未遂をするほど限界が来ていた。そして、勝者も敗者も生まれない仕事をしたいと思った。それが、遊園地だった」

「遊園地だって大変よ。見ているのと中に入るのとでは違う。アルバイトを通して、多少は知っていると思うけど。もっと色々と複雑なことがあるけど、いいの?」

「それはどんな世界でも同じだよ。きれいごとじゃ済まない。ただ、お客さんのいる遊園地の中に、かけ引きや、抜け駆けや、裏切りはないと思う。僕がバイトの間に経験した一番困ったことは、暴れる酔っぱらいにどう対応するかだった」

「確かに、それはそうね。大手商社の営業部とは違う」

「何よりも、誰かのために働きたい。誰かの喜ぶ顔が見たい。誰かを守りたい」

そこで、ゴンドラは一番高い所に達した。

「千紗さん。港が見える。貨物船も、カモメも、海も、水平線も」

千紗は、澄広が指さす方を見た。

いつもと同じ港の景色だった。貨物船が泊まる港。そして、青く広がる海。

だが、今日は、港の景色の見え方が違った。

それは、港の景色が変わったのではなく、彼女の心の中が変わったからだった。

千紗の心は、僅かだが、もう動き始めていた。澄広は、港を見つめる千紗のまなざしにそれを感じた。

きっと、彼女は、いつか近い将来、この遊園地を、過去ではなく、現在として捉えることができる日が訪れる。

それは、彼女の心が過去から解き放たれ、今を生きることができるようになる日である。

そして、その時こそ、澄広は、千紗に愛を告白しようと観覧車から見える青く広がる海に誓ったのだった。


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真夏の観覧車 三上芳紀(みかみよしき) @packman12

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