夏草の海へ

三上芳紀(みかみよしき)

夏草の海へ

第一章(遠い山へ)


一.

都会に生まれ育った友喜が、山深い伯父の家で暮らしたのは、彼が十六歳の時だった。高層ビルとマンションばかりが建ち並ぶ街に生まれ育った彼が、夏休みの間、その村で暮らした。彼は、それまで、街を出たことがなかった。学校の校庭には、人工芝が敷き詰められていて、その下は、道路と同じ硬いアスファルトが敷かれている、そんな街だった。彼は、中学の時、体育の授業中、校庭で転んだ。その時、強く顔を打ちつけて、左の犬歯が欠けた。彼が、校庭はアスファルトではなく、本来、土なのだと知ったのは、その村で過ごした夏休みの間だった。そして、彼がその村で過ごすきっかけになったのは、彼の母が、病気をしたことだった。母は、結核になった。結核は、もう昔の病気だと思っていたら、そうではなかった。彼の父は、セールスの仕事をほっぽり出して、母のために走り回った。入院も、特別な病院にしか隔離病棟がなかったから、母は、家から随分、離れた病院に入院した。

その時の父のうろたえぶりを、友喜は、忘れない。父は母を愛していた。だから、看病に専念すると彼に言った。実際のところ、隔離病棟にいる母を看病したくても、できないのだけれど。でも、父は母に全身全霊を捧げる覚悟だった。そこで、困ったことが起きた。友喜の存在だ。母を愛するがあまり、父は彼が邪魔になった。看病に専念するためには、ひとり息子が邪魔になった。彼としては、その時、色々、父に抗議したい気持ちもあったのだけれど、父の気持ちを尊重した。彼も、もう高校生だったから。


父が病院に行ったきり帰って来ない家から、友喜は高校に通学していたのだけれど、母の病状は、思ったより悪かった。そこで、父は、父の兄、つまり、彼の伯父に電話をした。そして、夏休みに入ったばかりのある日、伯父が彼を迎えに来た。

「弟から、夏休みの間、お前を家に一人にしておけないって、電話があってな」

友喜は、伯父の言葉を聞いて、黙って、荷物をまとめた。この家とも、しばらくお別れだ。彼は、そう思った。


伯父は、好克といった。伯父の運転する車に乗って友喜は、父の生まれた家に向かった。遠い山の中の小さな村だった。父の生家は、古い日本家屋だった。家業は、林業で、“木こり”だった。彼は、父の生まれ故郷の村に、子どもの頃、遊びに訪れたことがあった。その時、伯父が木こりをしていると聞いたが、分からなかった。ある時、伯父が、友喜に木こりとは何かを実践して見せてくれた。伯父は、友喜を裏山に連れて行った。そして、ロープを、一本の高い木の幹に巻きつけた。ロープは金具によって体に固定されていた。だから、木と伯父はロープによって結ばれたようになっていた。それから、先のとがった金具を靴の上からつけていたのだけれど、驚くべきことに、それだけの装備で、伯父は、高い木をするすると登り始めた。金具の先を木に食い込ませて登った。そして、ロープを器用に操り、高い木の真ん中ぐらいのところで、伯父は、とまった。その姿は、木にぶら下がっているのでもなかった。ロープを背もたれのようにして、伯父は、心地よく木にとまって休憩しているように見えた。

「どうだ?」

伯父は、下にいる友喜に感想を聞いた。

「キツツキみたい」

友喜は上の伯父に向かって叫んだ。

伯父は笑った。

そして、先ほどとは逆の順序で、今度は、するすると木を降りて来た。

子どもの頃の友喜には、伯父がまるで手品師のように思われた。高校生になった今でも、あの時の伯父を思い出すと手品師のように思う。


夜遅く、伯父の家に着いた。山の中の村は灯りがなく真っ暗だった。伯母が迎えに出てきた。伯父夫婦には、二人息子がいたが、村には仕事がないと二人とも遠方で働いている。将来的にも、もう帰って来ることはないようだった。だから、大きな家には、今、伯父と伯母だけだった。友喜は、家に上がると、この広い屋敷に夫婦二人きりで暮らしているのだと思い、伯父夫婦を気の毒に思った。

その日は、伯母の作ってくれた夕飯を食べると、彼は疲れてすぐに眠ってしまった。

二階の窓からは、都会と違い真夏でも、涼しい風が入ってきた。星が、手が届くほど近くで輝いていることに、彼は、まどろみの中で、驚いていた。

父は病院だろうか? 母は病室でもう眠っているだろうか? 階下では伯母が何か手仕事をしているようだった。カタカタという音が聞こえてきた。

彼は、夏休みの間をここで過ごす。

でも、夏休みを過ぎることもあるのだろうか? そうしたら、学校は?

夏休み中に戻ることもあるのだろうか? それはどういう意味だろう? もう、ここにいる必要がないって、どういう意味だろう?

友喜は、自分で設けた設問に自分で答えるのをやめることにした。

そして、彼は、深い眠りに落ちた。


二.

友喜は、居間の縁側から広い庭を見ていた。庭といっても、ほとんど砂利が敷かれて駐車場になっている。軽トラックが二台にワゴン車が一台、停められている。また、友喜には、何に使うのか分からない機械や道具を納めた大きな倉庫があった。

「友喜君。村には何もないでしょ? 遊びに行くところもないし」

伯母の君子が、後ろから声をかけた。

「おばさん。僕、この村のほうが、いいみたい。高校に通ってるけど、息がつまりそうなんだ。勉強が嫌いなわけじゃないんだけど。学校だけじゃない。街を歩いていても、地下鉄に乗っていても」

友喜は、伯母を振り返りそう言った。

「都会は人が多いからかねえ。でも、田舎だって、人は少ないけど、色々あるんだよ」

「人間関係が濃密だとか?」

「それはそうよ。それに、仕事がないから、息子二人も、村を出なければならなくなった。まあ、二人とも、こんな田舎にいても、退屈だから、都会に出て良かったのかもしれないけど。でもねえ」

君子はため息をついた。

友喜は、豊かな自然に接し、癒されていた。それは、確かだった。でも、自然が全てを解決してくれるほど、世の中は単純じゃないのだと、君子のため息から、自分がひどくナイーブであることに気づかされた。

二人は、黙って広い庭を見ていた。


数日は、伯父の家にいたが、次第にすることがなく暇になってきた。だから、友喜は、村を歩いてみた。

強い夏の陽ざしは、この村でも同じだったが、木陰に入れば、涼しい風に汗がひいた。また、すれ違う村の人が、皆、友喜のことを知っていることに驚いた。

「滝村さんの甥っ子だね? お母さんが入院してるんだろ? 早く良くなるといいねえ」

すれ違う人、皆から、同じことを言われた。

友喜は、挨拶をしながら、この村で悪いことをしたら、大変なことになるぞと思った。そして、伯母のため息を思い出した。一方的に友喜だけ、村の有名人のようになっているけれど、彼は村の人間を誰も知らない。だから、遊び相手もいないのだ。村に一つしかない高校に行ってみた。広い校庭の周りをランニングしている生徒がいたり、サッカーの練習をしている生徒がいたりして、活気があったが、その生徒たちは、友喜の存在には気づかなかった。部活に一生懸命で気づかなかっただけだろうが、有名人になったのだから、誰か一人ぐらい気づいてくれるかと思っていたので、友喜は、少しさみしかった。

そして、

「みんな、土の上を走っている。都会の校庭はアスファルトに人工芝なんだぞ」

と負け惜しみのようなことを言って、高校を後にした。

それからまた、一人で歩きながら、ふと伯父が木を登る姿を思い出した。子どもの頃、一度見たきり、見ていない。今から山にいる伯父に会いに行こうと思った。もしかしたら、あの手品師のような伯父を再び見られるかもしれないから。木をするするする。友喜は、山へ入った。


高い山でなくても、不案内な人間が、山に入るのは危険だ。友喜は、当然のことながら、山の中で迷子になった。いつの間にか、深い森のような場所まで来てしまっていた。陽の光は、木々に遮られ薄暗い中を友喜は、さまよっていた。焦りと不安で、頭の中が熱くなっている気がした。

その時、後ろから、

「そのまま真っすぐ行くと、帰れなくなるよ」

と声がした。

驚いた友喜は、声のほうを振り返った。

そこには、青年が立っていた。年齢は二十歳過ぎだろうか。都会育ちの生白い友喜と違い、日焼けした背の高い青年だった。ただ、彼は、全体に薄汚れた感じがした。眼鏡のレンズは汚れているし、髪の毛も伸ばしっぱなしなのが分かった。着ているTシャツも、部屋着のような綿のパンツも、垢じみていた。そして、ボロボロのビーチサンダルを履いていた。

「君。こんな山の中に何をしに来たの?」

青年は、友喜に尋ねた。

友喜は、彼の様子に、こんな山の中で一体何をしているのか、逆に尋ねたい気がしたが、伯父の仕事を見るつもりで、山に入ったが、迷ってしまったと答えた。

「それは無謀だな。だから、こんなところに来てしまうんだ。ほら、耳を澄ましてごらん」

青年に言われた通り、友喜は耳を澄ませると、遠くで、電気ノコギリの音が聞こえた。それから、何人かの男の声も。

「木を切っている音だよ。ここから、まるっきり反対のほうだろ?」

「本当だ。僕、おじさんと、まるっきり反対のところに来ちゃった」

友喜は、真顔で驚いた。

すると、青年は、

「君は素直な人だね。僕は素直な人が好きだ。だから、僕は素直な君に敬意を表して自分の名前を名乗ることにする。僕は、尾花恵一。この村の人間だ」

友喜は、彼の名を聞いて驚いた。

友喜は、彼の名を知っていた。友喜より、村で有名人なのが、彼だった。尾花恵一は、昔、この村の庄屋だった大きな家の跡取り息子だった。それが、ある日突然、家出をした。家族も村の者も皆、尾花は、村を出て、どこか遠いところへ行ってしまったのだろうと半ば諦めていた。ところが、しばらくしたある日、山の中を村人が歩いていると、大きな野生の猿のようなものが走り去った。そこで、その村人が、目を凝らして見ると、そこには、野生の猿ではなく、尾花恵一が立っていた。村人は仰天して、村へ戻ると、尾花の家に行き、その話をした。それから、尾花の家の頼みで、村中を上げて、尾花を探したが、時すでに遅しで、尾花の姿は消えていた。その後、村の田畑から野菜が盗まれたり、飼っている鶏が産んだ卵が盗まれたりする。村では、尾形が食糧確保のために人目を忍んで盗みに来るのだと、その時を狙って彼を捕まえようとしているが、未だに捕まらずに山の中で生活している。それが、尾花恵一だった。


「なあ。友喜。都会には色んな人がいると思うが、この村にも変な若者がいてな。山ん中で、一人でずっと生活してるんだ。事情があるのは分かるけど、もう一年になる。尾花恵一っていうんだけどな」

「頭のいい子でねえ。頭のいい大学で勉強していて、去年の夏休みに村に帰ってきたんだけど、その時、突然、家出して山にこもったのよ。理由はあるにしても、一年も。ここだけの話だけど、みんな、頭が良すぎるから、かえって、頭がどうかしちゃったんだって噂してるの」

伯父と伯母が、友喜が、村に来たばかりの夕飯時、そう教えてくれた。二人とも、自分の親戚のように心配して話していたのを友喜は覚えている。


「僕は、滝村友喜といいます。滝村好克の甥で、夏休みの間、伯父の家に厄介になっています」

友喜は、尾花を知っていることは黙って自己紹介した。

それから、尾花の様子を改めて見たが、服の汚れは、ともかくとして、彼の頭がどうかしてしまっているようには見えなかった。

ただ、一年も山の中にこもって生活していること自体は、どうかしていると思った。


三.

尾花は、友喜に、少し休むように言った。長く山の中をさまよっている間に、体力が奪われている。精神的にも疲れているからだと言った。そして、森の中に、自然にできた広場のような場所に友喜を座らせた。それから、尾花は、近くにある洞窟のような穴に入っていって、水筒を持って来た。そして、水筒の蓋に水を注いで友喜に差し出した。湧水だと言った。友喜は、湧水よりも、水筒の蓋を見て、衛生上、飲んでいいものだろうかと迷ったが飲んだ。すると、水は冷たくとても美味しかった。友喜は、もう一杯もらった。

「とても、美味しい」

「少し登ったところに湧水があるんだ」

尾花は、その方を指さした。

「行ってみたい」

「行ってみよう」

尾花の後をついて友喜も、山道を歩いた。

少し歩くと、急に陽の光が差した。友喜は、眩しくて前が見えなくなった。それから、もう少し歩くと、湧水が出ている場所についた。もっと沢山、水が湧き出ていると思っていた友喜は、ちょろちょろとしか湧き出ていない水に拍子抜けした。でも、こんな少ししか水が湧き出ていないのに、よくここを見つけたと尾花を見た。彼は、友喜の視線にも気づかず、しゃがんで、持って来た水筒に、湧水を入れていた。

「尾花さん。実は、僕、あなたのことを知ってるんです」

友喜は、尾花の横顔を見ながら、そう言った。

「まあ、そうだろうね。あの村では秘密なんて無いからね」

尾花は特に驚いていなかった。

「確かに、そうです。僕も村に来たばかりなのに、村の人が全員僕のことを知っています。でも、尾花さんの場合は、今も、村の人たちが心配して話題にしています。僕の伯父と伯母も心配していました。何故、突然、山にこもったんですか?」

友喜は、ダイレクトに質問した。

尾花は、水筒に水を入れ終えた。それから、友喜の顔を見て、

「おじさんもおばさんも、理由は言わなかったんだね。優しい人たちだ」

それだけを言うと、彼は、立ち上がった。そして、友喜の先を歩いた。

聞いてはいけないことではないけれど、答えるつもりはないのだと友喜は、尾花の背中を見ながら歩いた。しばらく歩くと、再び、陽の光は木々に遮られ、薄暗くなった。

「僕のこれまでの人生で最大の抵抗なんだ」

「最大の抵抗?」

「命を守るために、命をかけている」

「命を守るため?」

「そう。命を守るためなんだ。そのためなら、僕は命を失ってもいい」

「命は大切にしてください。そんなことを言ってはダメです」

「ありがとう。君は素直で優しい」

友喜の言葉に尾花は微笑んだ。


二人は、広場に戻った。

今、汲んできたばかりの湧水をもらって、友喜は、すっかり元気になった。体力よりも、気持ちが回復した。その様子を見て尾花は、

「そろそろ、帰ってもいい頃だな」

と友喜を送ろうと立ち上がった。

友喜も、立ち上がった。

尾花の後をついて歩いていると、あれだけ迷った道だったが、実は、村と、今、尾花に出会った場所までの道は、ほぼ一直線で、距離も近いことが分かった。

「実は、こんな風に簡単な道なんだけど、それも、知っていればの話で、山道は危険だ」

「はい。もう二度と帰れないかと思いました」

尾花と友喜は、そんな話をしながら、山道を降りた。

そして、ある地点まで来ると、尾花が、

「ほら!」

と言って指をさした。

足下を見ながら歩いていた友喜は、その声に、顔を上げた。すると、尾花が指さす先に村が見えた。友喜の伯父の家も見えた。伯母が、庭に干した洗濯物を取り入れる姿が見えた。

友喜は、ほっとした安堵の喜びで、

「おばさん」

と叫ぼうとした。すると、

「シーッ! 声を出さないで」

と尾花が、声をひそめて言った。

「僕が山にいることは、みんな、分かっているけれど、僕がどこにいるかは知らない」

尾花は、体を低くした。

「だから、ここからは、君、一人で帰ってくれ。もう大丈夫だね?」

「はい。でも、尾花さん。いつまで、山にいるつもりですか?」

「僕にも分からない」

その返事に、友喜は、しばらく考えて、

「野菜を盗んだりするのは、良くないと思います。だから、僕が、内緒で食べるものを持ってきます」

と言うと、

「そんなことしなくていい。僕に関わってはいけない」

と尾花は断った。

でも、友喜は、その返事を聞く前に、もう帰り道を走り出していた。そして、振り返ると、尾花に向かって笑顔で手を振っていた。その姿を見て、

「まいったなあ。彼は、本当にまた来る気だなあ」

と尾花は呟いた。


友喜は、この村に来て初めて友だちができたと思った。それも、最高に気の合う友だちだと思った。歳は上だし、山ごもりしている変わった人物だけれど、友喜は、尾花とは仲良くなれると思った。だから、友喜は、嬉しくて、帰り道を走って帰った。そして、次は、何か尾花に食べ物を持って行ってやろうと、そればかりを考えていた。


第二章(夏草の海)


一.

友喜は、生き生きしていたのと同時に、落ち着きがなかった。

「友喜。最近、どうした? 元気なのか落ち着かないのか、よく分からないが」

伯父は、朝飯を食べながら、ちゃぶ台の向こうの友喜に尋ねた。

「そうねえ。元気になったのならいいけど、友だちができたわけでもなさそうだし、最近、何をしているの?」

伯母も尋ねた。

「村は、都会と違って、空気もいいし、自然に楽しくなるだけだよ」

友喜は、尾花に何を持って行ってやろうかとそればかり考えていた。その様子を見て、二人が怪しんでいることに気づいて慌てた。

「お母さんのことで、落ち込んでいるよりはいいが、村や山には危ない場所もあるから、気をつけてな」

そう言うと、伯父はそれ以上尋ねなかった。伯母も伯父の言葉を念押しして終わりにした。


友喜は、朝食を食べ終わると、すぐに自分の部屋に戻った。この家の二階の長男の部屋を、今、友喜は使っている。友喜は、ベッドの下に隠してある大きな紙袋を引っぱり出した。開けると中には、キャベツとトマトときゅうりが入っていた。それに、新聞紙に包まれた鶏の卵が三個入っていた。

『サラダに使うような野菜しか集まらなかった。健康的だけれど、力が出るとは思えない。でも、産みたての卵があるから、これで栄養を取ってもらえば』と友喜は、卵を手に取った。

野菜は、この家の畑から、拝借した。伯父夫婦と甥だから、まあいいだろうと思った。卵も、夜明けに伯母が卵を取りに行く前に、鶏の小屋に入って、友喜が、鶏につつかれながら、産みたての卵を取ってきた。その後、伯母が、「今朝は、卵を産まなかったのねえ。体調でも悪いのかい」と鶏に話しかけている声が聞こえた。

「おばさん。ごめんなさい」

友喜は、卵を見ながらそう言った。そして、そっと家を抜け出した。

まだ朝早い時間だが、村の人は早起きだ。もう畑を耕している人がいた。友喜は、伯父夫婦に頼まれた風を装って、大きな紙袋を運んだ。

「友喜君。おじさんとおばさんのお手伝いかい? 偉いね」

「はい。ちょっとそこまで」

村人は友喜のことを全く疑っていなかった。

友喜は、これから、尾花に食べ物を持って行くのに加え、わずかの間に、村に自分が馴染んでいることを知って、嬉しくなった。


朝露に濡れた草の茂る山道を登っていくと、この前迷った場所にすぐ到着した。あの薄暗い広場が見えた。やっぱり、本当は近かったのだと友喜は思いながら、広場に着いた。尾花はいなかった。友喜は、そのまま待とうかと思ったが、そう長くも、この場所にいられない。早く帰らないと、伯父伯母に怪しまれる。そう思って、今度は、迷わないよう慎重に広場の周りを探した。洞窟のような穴ものぞいた。尾花さんと呼びかけたが、返事がなかった。そこで、この前、尾花に、それ以上行くと帰れなくなると止められた道をあえて歩いた。心臓がドキドキした。けれども、尾花に食材を渡さなければ。友喜は、そう思って歩いた。すると、森が開けて、下には大きな川が流れていた。友喜は、一瞬、方向感覚が、おかしくなった。しばらくして、これは、村で一番大きな川だ。子どもが泳いだり、大人が釣りをしたりするあの川だと分かった。友喜は、伯父の家のほうに向かって歩いていると思っていたが、実際には、反対方向に歩いていた。そして、そこは崖になっていた。落ちたら、大変だ。それで、尾花は、この前、行かないよう注意してくれのだと分かった。友喜は、崖から川辺を見下ろした。それほど高くない石の橋の上から、子どもが川に飛び込んでいた。子どもが、飛び込むたびに、バシャーンという音が、友喜のところまで聞こえてきた。友喜は、子ども達に目を奪われていた。

「やあ。やっぱり、本当に来たね」

その声に、友喜は顔を上げると、尾花がいた。

そして、その隣に、もう一人、女がいた。

「初めまして」

華奢な大人しい感じの女だった。尾花と同じで、眼鏡をかけていた。ただ、眼鏡は汚れていなかった。チェック柄の半袖シャツを着てリュックを背負っていた。下はコットンパンツにしっかりしたスニーカーをはいていた。山登りをするための、きちんとした格好をしていた。

友喜は、疑わし気に女を見て、

「誰ですか?」

と尋ねた。

「私は、尾花君と同じ大学の切田つぼみです」

友喜は、尾花が一人だと思って、一生懸命、食べ物を持って来たのに、知らない女がいることで、機嫌を損ねた。

尾花が、それに気づいて、

「友喜君。今、彼女と君の話をしていたところなんだ。きっと、君は約束を守って、食べ物を持ってきてくれるって。その通り、君は来てくれた。ありがとう」

と友喜をほめた。

友喜は、その言葉を聞いて、紙袋の中から卵を三つ取り出し、尾花の前に差し出した。

「今朝、産みたての卵だよ」

「本当かい? ありがとう」

尾花が、卵を見て、心から喜んでいる様子に、友喜の機嫌は直った。

そして、友喜は、つぼみのほうを得意げに見た。

彼女は、友喜の予想に反して、優しい眼で、友喜を見ていた。


二.

尾花は、器用だった。古代人のように木の枝をくるくる回して乾かした葉っぱに火をつけた。そこにもっと葉っぱを入れていくと火は大きくなった。火の上に、どこで拾って来たのか分からないフライパンを、そして、フライパンの中に、友喜が持って来た野菜を入れた。野菜は、とがった石で切った。石で野菜を切っている姿を見て、友喜は、尾花を本物の古代人のようだと思った。それから、卵を二つ入れて、野菜入りスクランブルエッグを作った。出来上がりはなかなかのものだった。

「美味しいよ。友喜君。ありがとう」

尾花は、小枝で作った箸で食べた。

最後に、尾花は、残った卵一つを割って、口に放り込んだ。

「卵なんて、いつ以来だろう」

尾花は十分満足したようだった。

つぼみは、

「今日は、友喜君のおかげで、野菜と卵が食べられたけど、普段は何も食べてないんでしょ? このままだと栄養失調で死んじゃう。山を降りましょう」

と尾花に言った。

友喜は、姉のような女性から、友喜君と呼ばれて、心臓がドキンとした。そして、それまで、ライバル心を抱いていたのに、急に、彼女に好感を抱いた。

「大丈夫だよ。時々、川に降りて、魚だって取って食べてるんだ。栄養はとっている」

「そういう問題じゃなくて、もう山を降りましょう。一年になるのよ。みんな、あなたの頭が、どうかしてるって思ってるけど、一年も、山にこもっていたら、そう思われても仕方がない。でも、悔しいじゃない。あなたが悪いんじゃないのに」

友喜と並んで座っていたつぼみが、立ち上がった。

友喜は、立ち上がったつぼみと座っている尾花を交互に見た。そして、二人は、恋人同士で間違いないだろうと思った。それから、二人は一体何の話をしているのだろう、尾花は悪くないって何のことだろうと思った。

すると、

「友喜君がいるんだから、その話はやめよう」

と尾花が言った。

「友喜君にも聞いてもらいましょう。彼も、もう高校生でしょ。分かってくれる」

尾花は、友喜をチラリと見ると、つぼみの腕をつかんで広場の遠くに連れて行った。

口論になった。そして、二人の声が大きくなると、それが、友喜のところにまで聞こえた。


「大人の暗い話なんて、高校生の彼に聞かせてはいけない」

「でも、彼の伯父さんもこの村の人でしょ。無関係じゃないわ」

「この問題は僕が解決する」

「そう言って、山にこもっているだけじゃない」


ひとしきり言い合って、落ち着いたのか、二人は戻ってきた。

「友喜君。ごめんよ。何も聞こえなかったかい?」

「うん。遠くて何も聞こえなかった」

友喜は、口論の中で、かなり重要な部分を聞いたと思ったが、そのことは黙っておくことにした。

二人は、喧嘩という形で感情をぶつけ合ったことで、愛情の確認ができた。だから、先ほどより、親密な空気を共有していた。友喜には、そのことが分からず、何故、二人は、喧嘩した後のほうが、仲良くなったのだろうと不思議に思った。

「大事なものを忘れてた。これ」

つぼみは、リュックを開けると、中から衣類を取り出した。そして、尾花に渡した。

「ありがとう。向こうで着替えて来るよ」

と尾花は姿を消した。

尾花が姿を消すと、急に、広場はしんと静かになった。つぼみと二人きりになった友喜は、居心地の悪さを感じた。つぼみも同じだったようで、

「何で、私たち二人が、山の中で、並んで立っていなくちゃならないんだろう。友喜君も、変だと思うよね」

と言った。

「僕は、尾花さんに助けてもらったお礼で、ここに来ているからいいけど、つぼみさんは、何故、わざわざ、こんな山の中まで?」

友喜はつぼみに尋ねた。

「好きだからよ。彼のことが」

つぼみは、きっぱりと言った。

あまりにもきっぱりと言ったので、友喜は、つぼみの言葉を聞いても、頬が赤くなることはなかった。それどころか、恋人に会いに来ている人に、何故来るんですか? なんて愚門だったと反省した。

友喜は、話題を変えた。

「ところで、尾花さんとつぼみさんは同じ大学ですが、学部は?」

「生物学部だけど、何故?」

「僕も進学を考えているから、参考にと思っただけです。生物学部ってどんな勉強をするんですか?」

「生物学部ってひと言で言っても、沢山の学科と研究がある。その中で、私たちは、昆虫の研究をしている」

「昆虫? 虫の研究ですか?」

「ええ。虫を研究してるって、何だか変でしょ?」

「そんなことはないです。とても興味深いです」

「本当? 気を使わなくていいのよ」

二人が話していると、尾花が着替えて現れた。話はそこで終わった。


三.

尾花は、左の胸元に、てんとう虫の刺繍が入った白のTシャツを着ていた。手にも同じTシャツを何枚も持っていた。下は前にはいていたのと同じ綿のパンツだった。新品だと、尾花の脚がすらりと長いのが分かった。だから、今まではいていた古いパンツは、それだけヨレヨレだったことも分かった。足元もビーチサンダルではなく新しいスニーカーだった。

「ありがとう。おかげで、気持ちまで新鮮になった」

尾花は、着がえる前よりも、明るい表情で、つぼみに礼を言った。

「これで、もう何回着がえを持って来ただろう」

つぼみは、ため息をついた。

友喜は、尾花の足下を見ながら、

「ずっと、あのビーチサンダルで歩いていたんですか?」

と尋ねた。

「違うんだ。スニーカーをはきすぎて、底が破れて使えなくなったから、川原で拾って来たんだ。それで、ビーチサンダルを履いてたんだけど、虫には刺されるし、草で足を切るし大変だった」

尾花は、新しいスニーカーを自分でも眺めていた。

「Tシャツは? 同じTシャツが何枚も? 流行のブランドですか?」

友喜は、てんとう虫の刺繡を指さして尋ねた。七星てんとう虫のきれいな刺繍だった。

すると、尾花は、

「これは、大学の研究室の学生たちが作ったTシャツなんだ。近年、昆虫の研究をしたいっていう学生が減っているんだ。お金にならない研究だからかな。それで、宣伝のために、大学を見学に来る高校生にパンフレットと一緒に配布してたんだけど、大学から、Tシャツを配るのは、買収に該当する可能性がある。中止せよって言われて。せっかく作ったんだけど余ってね。結局、自分たちで着てるんだ」

と言った。

友喜は、金になる研究、金にならない研究という考え方が、大学を衰退させているという社会問題は知っていた。彼も、進学を考えている以上、大学のことについて知るために本を読んで、色んな問題を知っていた。でも、今はそれより、知りたいことがあった。

「尾花さん。昆虫ってどんな生き物? 僕、本物をあまり見たことがないんだ」

という都会っ子である彼の、切実で純粋な好奇心だった。

「えっ? 本物を見たことがない?」

尾花が驚いた。

「うん。僕の住んでいる街は、土がないし、草も生えてないから、虫なんて見たことがない。見たことがあるのって、ハエかダンゴムシぐらい。後は、昆虫図鑑でしか見たことがない」

友喜は、言った。

「ダンゴムシは、正確には、昆虫ではないんだけど、とにかく、都会に住んでいる友喜君は、昆虫を見たことがない。そう聞いては放っておけないな。友喜君。ついておいで」

そう言うと、尾花は、新しいスニーカーをはいたため、以前より、速いスピード歩き出した。友喜とつぼみは、尾花の後について山道に入った。その山道は、友喜もつぼみも今まで入ったことのない細い山道だった。

「どこへ行くの?」

つぼみが声をかけても、尾花は振り向かず、

「とても素敵なところだよ。ついておいで」

と歩き続けた。

友喜もつぼみも、彼の足の速さについて行けず、もう限界だと思った時、細い山道が急に開けて明るくなった。そして、彼らの前には、大きな草原が広がっていた。

「こんな場所があったんだ」

つぼみが、思わずそう呟いた。

草原は、周りを森に囲まれていて、まるで、山の中の湖のように存在していた。そして、そこだけ陽の光が当たり、草原はエメラルドのように輝いていた。わずかだが、森を抜けてくる風、青い空から吹く風が、草原を揺らしていた。友喜は、風に揺れる草原を見て、街の道路のゴミ屑や車の排気ガス、そして、街全体を覆う何とも言えない臭気、それらのもの、一切を忘れた。友喜は、その揺れる草原を見ていると、海のように思えた。湖ではなく、水面を波が大きく揺らす海、そうだ、夏草の海だと思った。そして、この風に揺れる夏草の一つ一つが、ハーモニーを奏でている。それは、潮騒のようにはっきりと聴こえる音ではないが、確かに、友喜の心には響いていた。

友喜は、しばらく自分も揺れるような感覚に浸っていた。


その友喜の眠るような感覚を目覚めさせたのが、尾花の声だった。

「つかまえたよ!」

その声に、友喜は、目の前に現実の草原が広がり、正気に戻った。

そして、出会ってからの尾花は、思索的な青年であったが、昆虫の話になってから、子どものようになったと思った。今の声も、まるで、小学生だと思った。それから、尾花の姿を探すと、彼は、草原の中から、ひょこっと顔を出した。

「貝か魚をとって、水面に顔を出した人みたい」

つぼみが言った。

友喜も思った。尾花は、友喜が、先ほどまで揺れるように感じていた夏草の海ではなく、近場の海水浴場で、素潜りをして、あらぬところから顔を出して、喜んでいる、そういう若者の滑稽さを感じた。


四.

尾花が、草原から出てきた。そして、閉じた両手を友喜の前でそっと開いた。すると、彼の手のひらには、とても小さなカマキリがいた。体長は、五センチぐらいだろうか。全体に薄いみどりで、陽の光に体の内部が透けて見えるようだった。大人のカマキリとは違い、弱々しい感じがした。

「カマキリは見たことがある?」

「大人のカマキリですが、それも昆虫図鑑でしか見たことがありません」

「じゃあ、こんな小さな子どものカマキリは、初めてだね」

「はい」

友喜は、全体に細くて、小さなカマキリのカマをそっと触った。

すると、小さなカマキリは、威嚇のポーズをとった。けれど、その威嚇のポーズを見て、友喜は、可憐だと思った。その小ささと、はかなさに、見ていると、彼は、何故か、悲しくなった。

その時、尾花が、

「涙が出るような気持になるんだ」

と呟いた。友喜はうなずいた。

「小さい命、いつ消えてしまうかもしれない命、だからこそ、より命の大切さを僕は感じる」

「この小さなカマキリは、ちゃんと大人になれるでしょうか? 厳しい自然の中では、誰も頼れないんですよね。僕は、母が病気ですが、心の中では、その病気の母を頼っています。本当は僕がしっかりしないといけないんだけど」

友喜は、母のことを思い出した。

「友喜君のお母さんのこと、尾花君から聞いた。だから、今、一人で、おじさんの家にいるって。友喜君。お母さんのことで心配なことがあったら、私たちに何でも相談して。聞くだけしかできないかもしれないけれど、力になれることがあったら、何でも協力するから」

つぼみがそう言って、友喜の肩に手を置いた。

その時、友喜の目から涙がこぼれた。

小さなカマキリは、尾花の手のひらの上で、まだ威嚇のポーズをとっていた。

「こんな小さなカマキリでも、一人で頑張ってるんだ。僕も頑張らないといけないのに、泣いてるなんて」

そう言うと、よけいに涙が流れて来るので、友喜は、右手で目をこすった。

「いいんだよ。泣いても。ずっと我慢してきたんだろ」

尾花が優しく言った。

つぼみが、ハンカチを友喜に渡した。友喜は、ハンカチで涙をぬぐった。

尾花が、手のひらの中にいるカマキリを、友喜の手にそっと渡した。友喜は両手で受け取ると、小さなカマキリを見た。カマキリは威嚇のポーズをとらなかった。カマで眼の辺りをこすって掃除をしているような仕草をした。

「このカマキリは、友喜君のことを信頼しているんだ。だから、威嚇せずに、眼の掃除をしている」

「そんな感情があるんですか?」

「そうは思わないかい? よくカマキリを見てごらん」

尾花に言われて、友喜はカマキリを見た。カマキリが自分のことを信頼しているかどうかは分からなかったが、落ち着いていることは確かだった。友喜は、カマキリの小さな頭を、チョンと触った。カマキリは、彼を威嚇する代わりに、手から逃げ出し、ポトリと地面に落ちると、そのまま走って逃げた。小さなカマキリの逃げる姿は、やはり、心細く思われた。そして、草原の中に消えていった。


三人の間を草原の風が吹き抜けた。三人は、黙ったまま草原を離れ、再び細い山道を通って、あの広場に戻った。

「長い時間が経ってしまった。もう昼を過ぎている。二人とも、あまり長くここにいると怪しまれるから、帰らないといけない」

尾花に言われ、友喜は、昼飯を用意してくれている伯母のことを思い出した。

つぼみは、リュックから、菓子パン、ペットボトルのミネラルウォーター、非常食の缶などを取り出すと、尾花に渡した。そして、

「次は、必ず、山を降りましょう」

と言った。

尾花は、迷いながら、

「そうする」

と言った。

つぼみは黙ったまま、菓子パンなどを持っている尾花の手を強く握った。そのため、それらが地面に落ちた。


途中まで尾花に送られて山道を降りてきた友喜とつぼみは、尾花がいなくなってから、二人で話した。

「さっきは、尾花君のことで、内緒話ばかりして、ごめんね」

「いえ、僕には難しくて分からないだろうから。それより、急に泣いてしまってごめんなさい」

「いいのよ。友喜君も我慢しすぎて泣きたかったのに泣けなかったんだと思う。だから、泣けたことは良かった。私はそう思う」

「そうですね。でも、涙って急に出るんですね。それに、止めようと思っても止まらないから、恥ずかしかったです」

「恥ずかしがることない。友喜君が、それだけお母さんのことを愛しているって証拠だから」

つぼみにそう言われて、友喜は、心が暖かくなった。母の入院以降、ずっと、凍りついたように冷たかった心が暖かくなった。そして、友喜は、自分より少しだけ背の高いつぼみを見て、胸が熱くなった。それは、友喜が初めて経験する感情であり、それは、淡いけれど、確かに初恋だった。友喜は、つぼみの恋人である尾花に嫉妬した。それも、淡く小さな嫉妬だった。淡く小さな嫉妬は、尾花の優しさを思うと、静かに消えていった。


第三章(リフレイン)


一.

友喜は、山を降りてから、つぼみのことを考えることが多くなった。初めて恋した人のことを考えるのは、自然のことだろう。ただ、不思議なのは、つぼみのことを考えることが多くなったのにつれて、尾花のことも以前より、多く考えるようになった。友喜は、その理由を、彼なりに考えてみたが、はっきりした答えは見つからなかった。ただ、一つだけ言えるのは、彼は、つぼみと同じぐらい尾花のことも好きだということだった。山の中に迷い込んだあの日の尾花との出会いがなければ、友喜の村での生活は、今も孤独な日々だったはずだ。最高の友だちに出会えたあの日の友喜の喜びは、つぼみへの初恋の思いに比しても劣らないものであった。だから、友喜の中で、尾花への友情とつぼみへの愛情は、対立する関係にはないのかもしれなかった。この日も、友喜は、二階の部屋で、つぼみのことを考えた。そして同時に、尾花のことを考えた。

尾花とつぼみと一緒に山にいた時の断片的な記憶を思い出していた。

「大人の暗い話、山ごもり、生物学部、昆虫。これだけじゃ、何も分からない」

友喜はそう呟くと、二階の窓から見えるあの山を見た。高い山ではないし、大きな山でもない。でも、どの辺りに尾花が隠れているかなど分かるはずもなかった。つぼみは、彼を好きだとはっきり言った。一年も、山にこもっているような人を、あんなにはっきりと好きだと言えるものだろうか。それとも、山にこもっていること自体は変わっているけれど、そこまでして何かを貫き通そうとする尾花の信念のようなものに、彼女は心惹かれているのだろうか。確かに、そうかもしれない。強い意志を感じる。ところで、そこまでしなければならないことって一体何なのだろう? 尾花の身に何が降りかかったのだろう?

友喜は、青い空の下、緩やかな稜線を描く山を眺めながら、そう思った。


友喜が疑問に思っているその時、切田つぼみは大学にいた。

つぼみと尾花の通う大学は、友喜の伯父の家のある村から、しばらく電車に乗った町にあった。友喜の住むような都会ではなく、大学が多くある静かな町であった。自然も残っていて、つぼみが通う大学も、緑に囲まれていた。

つぼみは、研究室の近くにある休憩室のベンチに腰かけていた。今日は、夏休みの間の当番で、研究室で飼っている昆虫に餌を与えに大学に来ていた。休憩室の大きな窓には、陽ざしが差し込むため、窓の外に斜めに陽よけが掛けられていた。そして、夏休みのため、誰もいない休憩室は、エアコンが効きすぎていた。つぼみは、研究室で着用する白衣を着ていたので、寒くはなかった。白衣のポケットに手を突っ込んで、陽よけ越しに差し込む光を見ていた。そうしていると、尾花と一緒に研究室にいた頃のことが思い出せたからだった。

つぼみは、今、大学院の二年生だった。

彼女は、この町に生まれ、地元の高校を卒業して、大学に進んだ。一人っ子の彼女の家は、平凡なサラリーマン家庭だった。彼女は、バランス良く勉強ができるほうではなく、理系の科目だけが得意だった。だから、理数系の科目の勉強ばかりしていた結果、今の生物学部に入った。つまり、尾花のように昆虫が好きで、昆虫の研究がしたいから、生物学部に入ったのとは違った。尾花の研究への情熱には驚かされた。そして、何となくこの学部に入り、就職を先延ばしするために大学院へ進んだことを否めない彼女は、そういう自分を尾花と比較して後ろめたく感じていた。また、だからこそ、尾花を尊敬していた。その尾花が、一年前、山に隠れたことは、今でも信じられない。でも同時に、尾花だからこそ、隠れたのだと思った。


去年の夏休み、尾花は大学院に進んで、昆虫の研究に専念できた充実感に満たされ、幸せな気持ちで、村に帰郷した。不便な山の中でもあり、毎日、夜遅くまで、大学で勉強をする尾花は、学校の近くに安い下宿を借りて生活していた。だから、帰郷して、村にしかない澄んだ空気を吸って、尾花は心から安堵した。大きな家の多い村でも、尾花の家は、ひときわ大きい。尾花は居間の畳の上で、寝転んでいた。静かに風が居間を吹き抜けていくたびに、尾花は、この村の自然を愛おしく感じた。尾花が昆虫の研究を始めるようになったのも、この自然に自らが育まれたことへの恩返しのような気がしていた。

静かな風に吹かれながら、尾花が、その自然に抱かれている思いでいる時、突然、

「恵一。話がある。起きなさい」

と父の声がした。


尾花の父は、隣の客間で、尾花に話をした。尾花の家は、かつては村の大地主であった。今もその名残があり、村の土地、付近の山を多く所有していた。そして、その中には、貴重な自然が残っている山があり、昆虫、両生類などの稀少な生物もいた。尾花が最も愛する場所であった。尾花の父は、そこを含めた山を幾つか売ると言った。別荘地にするため、既に不動産会社と契約を済ませ、秋から、工事を開始すると尾花に言った。

「お前は、跡取りだから、一応、ひと言伝えておこうと思ってな」

尾花の父は、素っ気なく言った。

尾花は怒った。あの山は、稀少な生物のいる大切な山だ。別荘地になどは絶対にしてはいけない。

それから、尾花と父は、口論となった。近所にも聞こえるほどの大声で怒鳴り合った。

大人しい尾花が、それほど怒るのは、初めてだった。父も驚いたが、引くわけにはいかないと怒鳴りつけた。母が止めに入ったが、二人の喧嘩は激しさを増すばかりだった。そして、ついに、尾花は家を飛び出した。誰もが、どこか遠くに行ったと思っていたら、尾花は山の中に隠れていた。その山こそが、稀少な生物の棲む山であり、尾花の最も愛する山であった。そして、今も彼は、山に隠れ、山を守るための抵抗を続けている。

騒動は、村中に広まった。

村役場にも、尾花が山に隠れていることが伝わった。しばらくして、役場の人間が、尾花の家を訪れた。そして、尾花の父は言われた。

「息子さんの意見には一理あります。我々も、尾花さんの所有する山なので、申し上げにくかったのですが、あの山に生息する稀少な生物のことを考えた場合、村としても、工事にとりかかるのを待っていただきたいのです。役場でも改めて検討することになりましたので」

尾花の父は、渋々承諾した。

そして、尾花の山ごもりと工事のストップが継続したまま今に至る。


つぼみは、去年の夏のことを思い出していた。夏休みの前の日、笑顔で別れた尾花。夏休みに入ったら、彼のいる村に遊びに行き、一緒に、あの山に登ろうと約束したのだった。それが、いざ村に遊びに行ってみると、尾花は山にこもって出てこないと聞かされた。おかしくなってしまったのかと思ったが、次第に、あの山をめぐる問題が明らかになった。つぼみは、尾花に会いたくて山に登った。山の中に、自然にできた広場のことは、以前から聞いて知っていた。だから、彼が、そこに隠れていることは、すぐに分かった。そして、彼と再会した。尾花は、汚れた服を着て、やせ細った顔でつぼみの前に出てきた。つぼみは、たまらなくなって、尾花に抱きついた。

そして、その時、二人は、本当の恋に落ちた。


二.

友喜は、村を歩いていた。特に目的があるわけではなかった。あまり頻繁に、尾花に会いに行くと彼が見つかる危険がある。それに、つぼみが、会いに来たなら、一緒に尾花に会いに行けるが、彼女も来ない。つぼみは、この前、別れ際に、ある秘密を教えてくれた。彼女が尾花に会いに来た時は、合図をすることを。合図は、彼女が、村の駅にある「村の歌」が流れる機械のボタンを押すことだった。「村の歌」というのは、先々代の村長が作った歌で、“村は美しい”のリフレインが耳に残るなかなか軽快な歌だった。そこで、村おこしに使おうと村中でPR動画を作ったりして、売り出したのだが、村人が期待したほど話題になることなく終わった歌だった。その時、駅の柱にも、この歌が流れる機械が設置された。今もまだ取り外されずにある。青い鉄の箱の真ん中に赤いボタンがついていて、ボタンを押すと歌が流れる。村は静かだ。そして、今、このボタンを押す者はいない。つぼみが、ボタンを押すと村中に、この歌が響き、それは、山の中まで聞こえる。そこで、尾花は、つぼみが、会いに来たと分かる。尾花が、つぼみに教えた合図だった。それを、つぼみが友喜にも教えてくれた。

「村は美しいっていう歌が流れ始めたら、山へ登って。私も山に向かっているから」

つぼみから、その秘密を教えてもらって以降、友喜は、常に耳をすませていたが、歌が流れることはなかった。だから、何となく村を歩いていた。すると、駄菓子屋の前に、村の中学生と高校生がいた。少年ばかりだった。友喜は、少し怯んだ。皆、日焼けしてたくましい。

「おい。お前、滝村さんの甥っ子だろ」

一番大きい少年が話しかけてきた。友喜と同い年ぐらいだった。

「うん。僕は滝村友喜」

「お母さんが病気って聞いた。それは可哀そうだと思う。でも、何で、俺たちのところに挨拶に来ない。一緒に遊びたくないのか?」

「そんなことないよ。僕がこの村に来てすぐ、村の高校に行ったけど、みんな、部活で忙しくて、相手にしてもらえなかったんだ」

「それは、部活の連中だろ? 俺たちは、そのグループじゃない。何故、会いに来なかった?」

「だって、この村のこと、何も知らないから。今も、村の人のこと、ほとんど知らないもの」

「じゃあ。誰を知ってるんだ!」

大きな少年は、言い訳が多いと思ったようで、声を荒げた。

友喜は、驚いて思わず、

「尾花さん。尾花恵一さんと仲良し」

と答えた。そして、言ってはいけない秘密の名前を言ってしまったと後悔した。

だが、大きな少年だけでなく、そこにいたみんなは、尾花の名前を聞くと、

「こいつ。尾花さんと友だちなんだって。凄い」

「尾花さん。今、どこにいるの? 会えるかい?」

と騒ぎ始めた。

大きな少年が、

「静かに。尾花さんのことは、人に聞かれてはマズい」

と皆を制した。それから、

「俺は、純太っていうんだ。尾花さんは元気なの?」

と急に友喜に親しみを抱いて話しかけてきた。


純太に話を聞くと、尾花は村の子ども達の英雄だった。

「山にこもった尾花さんが、どうして英雄なの?」

「おじさんとおばさんからは、何も聞いていないか?」

「うん」

「じゃあ、俺が教えてやる。尾花さんのお父さんは、村で一番、偉い人なんだ。村長さんよりも偉い人だから、この話は秘密にすること。もしかしたら、滝村のおじさんとおばさんが、村から追い出されてしまうかもしれないから」

純太はそう言ってから、尾花が、何故、山にこもっているかを教えてくれた。ただ、尾花の父は村一番の有力者だが、村人を追い出したりする人間ではなかった。それは、子ども達の誇張だった。村人が、表立ってこの話をしないのは、尾花の父が有力者であることもあったが、それより、息子が、山ごもりをしているという悲劇を気の毒に思っているからだった。やはり、皆、尾花の頭がどうかしてしまったと思っていた。

「あの山を売ってしまう? 別荘地にするため? それに反対した尾花さんが、山にこもって抵抗している?」

友喜は、純太から真実を教えられるたびに、驚きのあまり、一つ一つ声に出してしまった。その都度、

「シーッ! 声が大きい」

と純太から注意された。

そして、純太から、彼らが知っている事実について、全てを教えられると―幾つか誇張や誤解はあったが―、友喜は山を見て、尾花の昆虫だけでなく、生き物への思い、そして、自然を守りたいという思いの強さに、圧倒された。『自然を守りたいという気持ちは僕にもある。でも、そのために、一年も、山にこもるなんて、僕にはできない。純太を始め、子ども達が、彼を英雄だと思うのも当然だ。でも、果たして、彼は、いつまで、山にこもり続けるのだろう? 具体的な計画はあるのだろうか?』

友喜は、様々なことを考えながら山を見ていた。すると、

「おい。友喜。一緒に山に登って、尾花さんのところに連れていってくれないか」

と純太が言った。

「えっ! 絶対に秘密にしてって尾花さんから頼まれたんだ」

「分かってる。でも、尾花さんは、俺が小さい頃から、いつも一緒に遊んでくれた。他の村の子どもも同じように遊んでくれた。だから、心配なんだ」

「気持ちは分かるけど、それはできない。尾花さんを裏切ることになるから」

友喜は、純太を見てから、二人を取り囲んでいる少年たちも見た。

「分かった。それだけ、真剣に尾花さんのことを守ろうとしているなら、俺たちも、安心だ。尾花さんのことを頼んだ」

純太は言った。

「うん」

友喜は、純太たちと約束をした。そして、彼らと別れた。


純太の話を聞いて友喜は、尾花の気持ちは分かるけれど、他にも抗議のやり方はあったようにも思った。でも、もう一年も経過してしまっているのだから、言っても仕方がないと友喜は再び歩きながら思った。それと、ショックだったのは、純太が自分より一つ歳下で、まだ中学生だと知ったことだった。村育ちの純太が、都会育ちの自分より、大人びていることに彼は疑問を感じた。逆ではないのか? そう考えたが、それは偏見だと反省した。それから、つぼみのことを考えた。彼女から見ると、自分はまるっきり子どもなのだ。一応、自分も高校生だから、恋愛対象にはならなくても、その一つ手前ぐらいには思ってもらえるかと考えていた。でも、中学生の純太に負けているようでは、無理だと思った。


真夏の陽ざしに照らされて、不自然なほど影のない道を友喜は歩いていた。道にはアスファルトが敷かれていない。大地は熱を吸収し、アスファルトの道路のような照り返しがない。校庭と同じだった。そして、その自然の恵みを受け、あれだけ純太が成長したのなら、都会に生きる自分は、それだけ成長が遅いのだろうかとまた同じようなことを思った。そして、それも違うと思った。自分は幼い。それだけなのだと彼は思った。

その時、村に歌が流れた。

友喜は、影のない道を駅に向かった。


三.

駅では、つぼみが、「村の歌」の流れる青い箱の赤いボタンを押して、駅の改札を出るところだった。つぼみは、登山帽を深くかぶり顔を隠していた。『私がこの駅に来るたびに、あのボタンを押しているのを駅員さんは気づいている。やっぱり、不審に思われているだろうか』そう思うと、帽子で顔を隠さざるを得なかった。いくら静かな村だとはいえ、山まで響く音量なのだ。ボタンを押すつぼみが、駅で目立たないわけがなかった。しばらく歩いて駅を離れると、帽子をかぶり直した。それから、いかにも山登りが好きな風を装って、あの山に向かった。リュックも、はきなれたスニーカーも、山を登るためだけでなく、村を歩く時、登山客だと村人に思わせるためでもあった。

村のおばあさんにすれ違った。

「今日も山登りかね。気をつけてな」

「はい。いつも、ありがとう」

つぼみは、笑顔で答えた。村の人には怪しまれていない。村の道をこのまま歩けば、あの山道に入る場所にたどり着く。彼女は、自分が村の風景に溶け込んでいることを肌で感じた。誰も、自分の存在に違和感を覚える者はいない。それどころか、彼女の存在にすら気づいていない。彼女は、安心して村の道を歩いていた。すると、強い陽ざしの中、遠くに小さな人影が見えた。人影は、立ち上る陽炎に揺らぎながら、みるみるうちに近くなった。そして、それが、友喜だと分かった時には、彼は、すぐ目の前に来ていた。

「友喜君。山に登って待っていてくれれば良かったのに」

走って、汗だくになっている友喜を見て、つぼみは言った。

「尾花さんのことで、今、村の男の子から、大事な話を聞いたんだ。だから、つぼみさんに確認しようと思って走ってきた」

「尾花君には、秘密にしたほうがいい話?」

「それも、分からない。尾花さんが聞いても、大丈夫なのか。事実と違う話を僕が聞いていて、尾花さんの前で話すと尾花さんが傷ついてしまうかもしれないから、まず、つぼみさんに話そうと思って」

「なるほど。じゃあ、歩きながら聞くわ。一緒に山に向かいましょう」

「うん」

そして、友喜は、先ほど純太から聞いた尾花の山ごもりのいきさつをつぼみに話した。

「所どころ誇張や誤解はあるけど、大部分はあってる。ただ、野菜を盗みに畑を荒らす尾花君が悪いんだけど、山の中でも、自作の槍を持って獲物を探し回っているっていうのは、いくらなんでも、ひどいよね」

つぼみは、笑った。

「そこは訂正しておいた。ある場所に隠れているんだって。もちろん、場所は秘密だから言わなかったよ。それにしても、山道を登ってすぐのあんな場所に隠れていて、よく見つからないね」

友喜は、広場の周辺に限ってだけは、土地勘ができた。そして、それに伴い生じた疑問をつぼみに尋ねた。

「尾花君に聞いたんだけど、あの場所のほうが、かえって、見つからないんだって。灯台下暗しっていうことかな。村の人たちが、みんなで尾花君を探しに来た時も、あの場所の前を、村の人全員が走り抜けて行ったんだって」

つぼみは、尾花から聞いた話を友喜に教えた。

「人間って、そういうものなのかなあ」

二人は、村人が、みんな、あの場所の前を走り抜けて行くのを、尾花が、こっそりのぞき見ていた姿を思い浮かべた。そして、その光景を滑稽に感じ、思わず、二人で大笑いした。

静かな村に笑い声が響いた。

畑を挟んだ道を歩いていた老人が、ふと、こちらを見た。つぼみは会釈した。

老人は、つぼみを見ると、見覚えがあるので、笑顔でうなずいた。友喜にも目をやったが、こちらも見覚えのある少年なので、気にとめなかった。他にも、村人がいたが、特に関心を示さなかった。

そこで、つぼみと友喜は、「静かにね」とお互いに言い合って、そっと歩き始めた。


そして、彼らの姿が、遠くなってから、一人の男が、停めてあった軽トラックから降りてきて、二人の後ろ姿を見た。男は、友喜の伯父好克だった。好克は、材木店との交渉の帰りだった。切り出した材木の売値がようやく決まった。安く叩くばかりの材木店との交渉に疲れて、酒屋でジュースを買って車の中で飲んでいたのだ。その時、反対側の道で、笑い声が聞こえた。見ると、友喜と歳上の女だった。あの女は誰だろうと思った。女というより、まだ女の子だ。友喜より歳上といっても、大学生だろうか。それから、しばらく考えて、あの女の子は、最近、山登りに、よく訪れる登山客だと好克は気づいた。

友喜は、村の子どもと馴染めないみたいだから、よそから来たあの女の子と仲良くなったのだろうか?

好克は、そんなことを考えた。別に悪いことではない。ただ、弟から預かった大事な甥だ。母親も病気とたたかっている今、友喜に何か間違いがあってはならない。このことは、さっそく帰って君子に相談しよう。

好克は、軽トラックを静かに走らせると、反対側の道を見た。どこにも、二人の姿はない。山道に入ったのだ。

「友喜は、あの女の子に惹かれて山登りをしているのか?」

好克は、そう呟いて、アクセルを踏むとスピードを上げ、家へ急いだ。


第四章(推理)


一.

道ばたで、つぼみと笑っているところを、伯父に目撃されたことを知らない友喜は、広場で、話をしていた。つぼみも、自分が、最近、頻繁に山登りに訪れる登山客だと気づかれたことを知らない。尾花も、当然、そんな重大な事態が起こったことを知らない。三人は何も知らないまま話をしていた。

一年経ったが、事態は膠着したままで、徒に時間が過ぎて行くばかりである。だから、とにかく、山を降りて、父親に会って話をすべきだと、尾花に、つぼみが提案した。友喜も、それがいいのではないかと思った。

だが、尾花は、

「父さんは、一筋縄ではいかない。一年前、大喧嘩した時の父さんだったら、もしかしたら、説得できたかもしれない。あんな風に感情的になった父さんを見たのは初めてだ。いつもは、穏やかで良い人なんだ。でも、つかみどころがなくて、いつの間にか、父さんの思い通りになってしまっている。そういう人なんだ。正面からぶつかっていくのは得策じゃない。だから、一年前、抗議のため山に飛び込んだけど、同時に、僕は自ら、チャンスを逃してしまった」

そう言って、山を降りることを否定した。これまで、つぼみが、山を降りるように促すと、曖昧な返事しかしなかった尾花が、はっきり否定した。そして、その理由も、初めて説明したので、つぼみは驚いた。

「山にこもっている一番の理由は、お父さんを説得できないから? 私、山の売買契約のこととか、村役場から、ストップがかかったことと関係があるのかと思ってた」

彼女の言葉に、

「もちろん、それもある。でも、売買契約とかは形のある問題だけど、父さんのことは目に見えない問題、語弊があるかもしれないけれど、見えない敵とたたかうようなものなんだ」

そう言って、尾花はうなだれた。

つぼみも友喜も、尾花の様子を見て、彼の父とは、それほどの難物なのかと思った。そして、友喜は、自分の父を思い浮かべた。母を愛するがあまり、友喜を生家の兄夫婦に預けた父。友喜は、その父の愛情のバランスの悪さを、決して、愛すべきものだとは思わなかったが―友喜の身になってみれば当然だった―、それでも、尾花の父と比べると、自分の父のほうが、はるかに好ましいと思った。否、父と対話するのを避けるため、一年も飲まず食わずで、山にこもらなければならない尾花を目の前にすると、そう思わざるを得なかったと言うべきだった。


友喜が、そんなことを考えている時、伯父の好克は、家に帰り、居間で、伯母の君子と話をしていた。

「友喜が、女の子と道ばたで笑ってたの?」

「女の子って言っても、友喜と同じ高校生じゃない。大学生だろう。最近、よく村に来る登山客の女の子だよ」

「ああ。あの子ね。でも、あの子とどうして知り合いになったの? きっかけは何かしら?」

「そこら辺が、俺にも分からないんだ」

伯父と伯母は、友喜とつぼみについて、早速、話し合っていた。

そして、ふと好克が、呟いた。

「そう言えば、あの女の子は、いつ頃から、この村に来るようになったんだろう?」

「随分になるわねえ。もう一年ぐらいかしら」

「一年か」

好克は、一年という言葉に何かを感じた。そして、

「一年前というと、ちょうど、尾花の息子さんが、山に逃げ込んだ頃だな」

と言った。

君子も、その言葉に何かを感じた。

「そう言えばそうねえ」

「あの女の子は、尾花の息子さんの同級生じゃないのか。それで、山登りの格好をして、息子さんに会いに来ている。だとしたら、恋人だろう」

「私も、そう思う。今までずっと登山客だと思っていたけど、どうしてこの村の山ばかりに来るのか。考えてみれば、不自然だわ」

二人は、確信を持った。

「ところで、その二人に、何故、友喜君が関係しているの?」

「そこだな。友喜は、どうやって、あの二人と知り合ったかだ」

更に、二人は考えた。

尾花は、真面目な学生である。尾花の恋人である女子学生も真面目な人間だろう。大人しい様子からもそれがうかがえる。だから、友喜が、二人と知り合っていたとしても、本来なら問題はない。だが、現状は違う。尾花は一年も山に隠れている非常事態である。友喜が、尾花と接点があるということは、尾花の隠れ場所を知っているということになる。これは、尾花の家にとって、村役場にとって、そして、村全体にとっての大きな問題だった。もう一つ、身内の問題がある。弟の俊克から預かった大事な友喜に何かあってはいけない。ましてや、友喜の母は闘病中である。友喜を預かることに二人は、大きな責任を感じていた。


伯父伯母として、友喜に確かめなければならないことが幾つもあったが、彼を傷つけてはいけない。

「焦って、友喜君を叱るようなことがあってはダメよ。あなた、あの子が帰ってきたら、優しく接するのよ」

「分かってる。俺は、息子二人にだって、そんなに厳しい父親じゃなかったじゃないか。だから、二人とも木こりを継がずに、都会に出てしまったのかと後悔しているぐらいだ」

「そのことはまた別の問題よ。二人が考えて決めたことだから仕方ないわ。とにかく、友喜君のことは慎重にね」

「ああ。分かっている」

好克と君子は、広い屋敷に二人きりでいることのさみしさを、友喜が滞在するようになってから、忘れさせてもらっていた。白髪の増えた二人にとって、友喜には、甥というより孫のような感覚で接している。それだけに、より愛らしく、だからこそ、友喜を傷つけないように慎重になっていた。居間から見える庭も、友喜がいないと、砂利しか敷かれていない殺風景ないつもの庭に戻った。蝉の声だけが響いていた。広い家の中も、ガランとしていた。二人は、夏休みの間、弟から友喜を預かり、休みが終わったら、無事に弟夫婦のもとに返すことを第一に考えてきた。でも、ふとこのまま友喜が、ずっとこの家にいてくれればと思うことがあった。そして、夫婦の間では、そのことは口にせず、

「沢子さんが、早く良くなってくれるように」

とそのことだけを話して、毎日を友喜とともに暮らしていた。


二.

伯父と伯母の疑問に、まず、どのように、友喜が、尾花とつぼみと知り合いになったのかがあった。それと、もう一つ、つぼみは、いつも、あの山に登っているのだろうが、あの山のどこから登っているのか? それが分かれば、尾花の隠れ場所が特定できるかもしれなかった。でも、それが分からない今は、隠れ場所は分からなかった。友喜が、家に帰ってきた時、いちいち、どこに遊びに行ってきたの? などとは高校生の友喜には聞かないようにしている。だから、友喜の行動から、尾花の隠れ場所を特定することもできなかった。そして、伯父と伯母は、この話は、しばらくは、二人だけの秘密にしたほうがいいと判断した。


友喜は、伯父と伯母に、自分と尾花とつぼみのことを推理されているその間、カブトムシをつかまえていた。

「普通は、早朝じゃないと、つかまえられないんだけど、この山は、日中でも涼しいし、人も来ないから、こうやって、昼間でも、沢山、カブトムシやクワガタムシが隠れずにいるんだと思う」

尾花の説明の通り、倒木の上にも、樹液の出ている木にも、カブトムシがいた。クワガタムシもいた。

「昆虫図鑑でしか見たことのないカブトムシやクワガタムシがいっぱいいる。想像していたより大きい」

喜ぶ友喜に、尾花は説明した。

「こんなに大きなカブトムシやクワガタムシは、そうそういないよ。この山の自然が豊かな証拠だよ」

「この山には、どれくらいの種類の昆虫がいるのかしら。一度、大学で調査してみたい。正式に保護地区になれば、山の開発は完全に中止になるでしょ?」

「確かに、そうだね。でも、そのためには、まず僕が山を降りないと。僕が山に隠れたまま、僕が在籍する大学の生物学部の調査を父が受け入れるはずがない」

つぼみの提案に、尾花は済まなさそうに答えた。話がいつも堂々めぐりになるからだった。


友喜は、尾花に、

「カブトムシをつかまえるのは、やめるよ。こんな豊かな自然に生きているのを、つかまえて、小さな虫カゴの中で飼うのは可哀そうだから」

そう言った。

「そうだね。このままにしておいてあげるのがいいね。友喜君は優しいね」

尾花は友喜をほめた。

友喜は、本当は、一度も触ったことのないカブトムシが怖かったのだった。それが言えないから、そう言っただけだった。でも、虫カゴで飼うのは可哀そうだと自分で言ってから、改めて、そう思った。

「みんな、楽しそうに見える」

「そうだね。僕にも、そう見える」

「私にも、そう見える」

三人は、呑気だった。


つぼみが、合図の「村の歌」を流したら、「山の中で会おう」と言ったのは、村の中で会うのは、人の目があるから危険だという意味だったのだが、言ったつぼみ自身が、そのことを忘れていた。というより、油断していたと言うべきか。何故、「山の中で会おう」と言ったのかの意味を教えてもらっていなかった友喜が、つぼみに駆け寄るのは当然で、その意味を伝えていなかったのが、そもそものミスだ。だが、友喜が駆け寄った時点で、気づけばごまかせたはずである。つぼみは、村に馴染んでいることで油断していた。案の定、一番見られてはマズい友喜の伯父に目撃されたのだった。


数日後、友喜は、いつも通り、朝から遊びに出かけた。

それを見届けてから、好克と君子は、軽トラックで、そっと外出した。二人は、村役場に着いた。

役場に入ると、

「立河さんをお願いします」

と好克が言った。

それから、少し待っていると、大きな体の男が現れた。森林課の立河進だった。ベージュ色の作業着を着ていた。そして、二人を相談室に案内した。大事な話があると好克が言ったからだった。

「今日は、急にどうしましたか? 大事な話があるって」

「立河さんだけに話すことだから、内緒にして欲しいんだけど」

好克は言った。

「ええ。分かりました」

「実は、今、うちには、私の弟から預かった甥がいて」

そこまで言った時、

「そうだ。甥御さんのことを純太が話していました。少し前に、話をしたって言っていました」

立河は、純太の父親だった。

「えっ? 純太君が、友喜と話をした?」

「ええ。駄菓子屋の前でジュースを飲んでいたら、向こうから歩いて来たそうです。それで、お互いに自己紹介をして、少し話をしたらしいです。すぐ別れたみたいで、一度しか会っていないようですが」

「友だちっていうほどの仲ではないんですね。何か特別な話をしたとか、そんなことは?」

君子が尋ねた。

「お二人とも、どうしたんです?」

そこで、好克と君子は、先日、友喜が、つぼみと道ばたで笑っていたところを好克が見たことを話した。そして、二人で話し合った結果、つぼみは尾花の大学の同級生で、おそらく恋人であり、登山客を装い、尾花に頻繫に会いに来ている。更に、何故、友喜が、つぼみと接点があるのかは分からないが、自然に考えれば、友喜は、山に隠れている尾花にも会っているのだと思うと、立河に二人は自分たちの推理を打ち明けた。

「なるほど。お話にはかなりの信憑性を感じます。ただ、滝村さんご夫婦の目的が何なのか? そこが、よく分からないのですが? 甥御さんの友喜君を、尾花家の息子さんの恵一君と彼の恋人とは会わせないようにしたいのか。それとも、これを機に、恵一君を見つけて、山から降りるようにすることなのか。どちらなんでしょうか?」

立河は、そう話しながら、太い腕を組んで自分も考え込んでしまった。

好克と君子は顔を見合わせた。

そして、好克が夫婦を代表してこう言った。

「恵一君は好青年です。彼の恋人からも真面目な印象を受けます。友喜が彼らと、つき合うことは、都会育ちの友喜が、この村の自然に触れることと同じぐらい、本人のためになると思います。ただ、状況が良くありません。恵一君は、もう一年も山にこもっています。彼はまともな若者ですが、状況がまともじゃない。友喜がせっかく恵一君と出会ったのならば、その出会いを山に隠れた恵一君に、こそこそ会いに行くようなものではなく、堂々とこの村の青年の一人として、友喜との交流を深めて欲しいのです。それが、夏休みの終わりにはこの村を去る友喜の将来に、良い影響を大きく与えると私たち夫婦は考えています。それに、登山客を装ってこの村を訪れている恵一君の恋人も不憫です。立河さん。村役場の森林課の課長として、もう一度、あの山の捜索、そして、あの山の売買契約の問題に取り組んで欲しいのです。お願いできますか?」

じっと目をつむって話を聞いていた立河は、好克の話が終わってからもしばらくそのままでいた。それから、ようやく目を開けて、彼は話を始めた。

「あの山の売買契約に待ったをかけたものの、その後、役場として、何もしてきませんでした。正直なところ、面倒な法律問題に発展するのを避けたいためでした。山の所有者の尾花さんが、自ら不動産会社との契約を解除してくれるのを内心、期待して。つまり、逃げていました。でも、もう一年経ちました。私も、本当は心配していました。契約の問題ではありません。それは、恵一君のことです。私にも、純太という子どもがいます。夏休みも、元気に毎日飛び回っています。その様子を見るたびに、恵一君のことが思い浮かびます。ただ、安易に動いて、恵一君を刺激にすることは避けなければならないと思います。長い山の生活で神経が過敏になっているかもしれません。だから、ここは慎重に対処するため、森林課を動かす前に私個人で動きたいのですが? まず、今夜、純太に友喜君と会った時に何を話したのかを確認します。そして、尾花家を訪ねて、今日のお二人の話をします。そこで、今後の対応を決めます」

立河が自身の考えを説明した。

「なるほど。いきなり、山の捜索をして、恵一君を追い詰めることがあってはならない。憔悴している彼が、どんな行動に出るか分からないからか。確かに、そうですね」

好克が、うなずいた。

「その通りね。ここは、立河さんにお任せしましょう」

君子も、うなずいた。

そして、二人は立河に今後の対応を一任し、いつ友喜が帰って来るかもしれないので、急いで役場を後にした。二人の乗る軽トラックは、夏野菜の実る畑の間の農道を、いつもより、スピードを上げて家に向かった。


三.

立河進は、仕事が終わり家に帰ると、純太を呼んだ。

「純太。この前、滝村さんの甥御さんに会ったって言ってただろう。あの時、純太は、その子と何の話をしたんだい?」

父の声が、いつもより穏やかで優しいことに、純太は緊張した。それは、父の質問が、それだけ深刻な意味を持つことを表していることが分かったからだ。

純太は、隠さず友喜に話したありのままを伝えた。何かを隠したりすると、あらぬ誤解が生じ、友喜に災いのようなものが及ぶかもしれないと考えたからだ。

立河は、純太の話を聞いて、

「それだけかい? 他に忘れていることはないか?」

と確認した。

「ないよ」

純太は緊張して答えた。

「そうか。この村でしばらく生活していれば、いずれ知ることだな」

立河の緊張も解けた。

「もう部屋に戻っていいよ。夏休みの宿題をちゃんとしなさい」

父の声がいつもの調子に戻ったので、純太もほっとして「はーい」と部屋に戻った。

その姿を見届けると、次に立河は、作業着のズボンのポケットから携帯電話を取り出した。そして、家の裏口から外に出た。妻にも子どもにも話を聞かれないためであった。それから、誰もいない裏庭で、立河は、電話をかけた。相手は、恵一の父尾花雄一だった。会話は短かった。立河は、すぐに電話を切った。それから、立河は、再び、裏庭から家に戻り、何事もなかったかのように妻に冗談を言い、風呂に入った。


翌日、立河は、尾花家にいた。尾花家の所有する山の森林のことで相談を受けたと森林課の部下に言って、尾花家を訪れた。尾花雄一と立河は、座敷に座って話をした。尾花雄一は、この日は、涼しげな麻の着物姿で、白髪を後ろに流していた。見たところ、かなりの高齢に思われるが、実際は、友喜の伯父より、少し歳上なだけである。威厳のある人物だった。雄一は、都会でサラリーマンとして働いた後、村に帰ってきた。帰ってきてからは、父の跡を継ぎ、この家を守っている。広い田畑は、繁忙期には多くの人を雇う。米と野菜を収穫し、それらを売り現金収入を得ている。山の管理もある。木々を伐採して売る。それに植林もする。この作業には、友喜の伯父も携わっている。また、山に生息する野生動物についても管理する。熊、猿、鹿のような動物に関しては、人間に危害を加える危険性があるので、常に把握が必要である。また、尾花家は、昔から、山の斜面を利用して茶を栽培している。ここで採れる茶が、上質で味も良く、高値で売れるため、大きな収入源となっている。茶の栽培には専門の職人を雇っている。雄一は尾花家が営む農林業の経営者であった。

また、自尊心の強い雄一は、サラリーマン生活が合わず、早々に村に帰ってきた。そして、同級生の里子と結婚した。雄一の父は、家柄にこだわる人間だった。里子の家は小さな兼業農家だったから、普通は反対するところだったが、里子が聡明な女性であったため、結婚に異を唱えることはなかった。そして、恵一と妹の水季が生まれた。水季は今、高校二年生だった。


今、対坐する大きな体の立河も雄一の威厳に恐縮していた。

「では、お話しください」

「はい。実は……」

雄一に促されて、立河は、ようやく話し始めた。

先日、滝村夫婦が、村役場を訪ねてきたこと。そして、村の中で甥の友喜が、女性の登山客と談笑していたところを好克が目撃し、疑問が湧いたこと。そこで、君子と話し合い、その女性は、実は、登山客を装った恵一の同級生であり、恋人であるという結論に至った。そこから更に、友喜と恵一の恋人は、恵一の隠れ場所を知っている。何故なら、恵一の恋人は、登山客を装い、一年も前から、この村を訪れ、山に登り続けているからだ。そして、その山は、一年前、村人と森林課が総出で恵一を捜索したあの山であることから、恋人と友喜は、隠れ場所を知っており、そこに定期的に通っていると考えられる。ちなみに、自分の息子の純太が、滝村の甥と一度だけ会話を交わしたことがあり、その時、恵一が、何故、山に隠れたかについて説明した。そのことは、昨夜、本人に確認した。嘘は言っていなかった。

そして、最後に、滝村夫婦から頼まれたことは、恵一を山から降ろしてやって欲しい。夏休みの間だけ、この村にいる甥の友喜と、堂々と村の一青年として交流させてやって欲しい。それが、恵一のためでもあり、友喜の将来にも必ず良い影響を与えるということだった。このように、立河は、長い話を雄一に伝えた。

立河は、最初は、緊張していたが、最後の、滝村夫婦の願いは、彼自身も心を動かされた話だったので、思わず、熱が入った。

尾花雄一は、目を閉じて黙っていた。沈黙が続いた。

「一年は長すぎます。いくら恵一君が子どもの頃から、遊び慣れた山だといっても、今の夏の暑さだけでなく、冬の寒さの中、一体、どうやって生活してきたのか。凍死してもおかしくありませんでした。尾花さん。今更ですが、警察に捜索願を出して、大規模に山を捜索しましょう」

立河は訴えた。

そして、何故、我が子が一年も山に隠れているのに、これほど平然としていられるのかが疑問だった。尾花雄一は、確かに、分かりにくい人物だが、心根は優しく、子煩悩なはずだと不可解だった。

立河の視線を感じたのか、目を開けて、雄一は話し始めた。

「一年も山に隠れている息子を探さない父親である私を、さぞや冷たい人間だと思っているでしょう。でも、実は、私が、そうしていられるのも訳があるのです。だから、警察への捜索願は出さずにお願いします」

本来、一年前、恵一が山に隠れた時点で、警察に捜索願を出して、捜索をしなければならないのを、騒ぎが大きくなるのを避けるため、そうせずに、親の代から親しい立河に頼んで、森林課に捜索させたのは雄一だった。尾花雄一には、村において、それだけの力があった。

「訳があるとはどういう意味ですか? 一体何なんですか?」

立河が性急に尋ねると、それに押されるように、雄一は、その訳を説明し始めた。

「妻の里子と娘の水季が、私の目を盗んで、恵一のところに、食料や衣料を運んでいるんです」

雄一は、立河にそう言った。

「えっ? 奥さんと娘さんは、恵一君が隠れている場所を知っているんですか? それに恵一君に会っている?」

「そうなんです。そして、そのことに私が気づいていることを二人は知らない」

「そうだったんですか。道理で、尾花さんは、落ち着いているはずです。それで、恵一君は、元気なんですか?」

「ええ。お蔭さまで何とか。それと、今まで黙っていて申し訳ございませんでした」

雄一が頭を下げて詫びた。

これまでとは、雄一と立河の立場が逆になってしまった。村で村長よりも力のある尾花雄一が、立河に頭を下げた。立河はその姿を見て驚いたが、それよりも、恵一の身を案じ、

「尾花さん。一刻も早く奥さんとお嬢さんと一緒に恵一君を迎えに行きましょう!」

と雄一を促した。

「それが、今は、ちょっと行けないんだ」

「何故です? 今すぐ迎えに行きましょう!」

苛立つ立河の様子を見て、雄一は、

「実は、今、里子と水季が恵一に食料を渡しに山に行っているところなんだ」

と説明した。


四.

尾花が隠れている山の広場に行くには、いつも、つぼみが登る山道が一番近いのだが、人目につくので里子と水季は、違う山道を登る。人目につかない代わりに距離があったが、村の人間でもあり、尾花家の山である。登り慣れているので速かった。そして、二人は、家にいる時の服装のままで山を登った。これは、つぼみが、登山客を装うのとは逆に、村に用事があって外出しているだけだと村人に思わせるためであった。ただ、カモフラージュである点では同じだった。里子はエプロンをつけたまま、水季はTシャツに短パン姿で山を登った。


里子と水季は、山の広場に到着し、尾花に会っていた。

「いい加減。山を降りてよ。兄さんが、山にこもっていることで、私、山猿の妹だって陰で言われてるんだから」

水季に文句を言われながら、尾花は、二人が持って来たあんパンを食べ、パック入りの牛乳を飲んでいた。そして、

「頭が、どうかしているとか、山猿だとか、何を言われても、僕は平気だよ。この山を守るためなら」

と水季を見て言った。

「お母さんと私が、こっそり色々持ってきてあげてるから、兄さん、一年も山にいられるんじゃない。こんな風にしてもらえるなら、私だって、二年でも三年でも、山で暮らせるわよ」

水季が言い返した。

尾花は、水季の言葉には耳を貸さず、あんパンをもう一個食べた。

その間、里子は、広場の雑草を刈り、伸びた枝を持参した登山ナイフで払っていた。また、恵一が散らかしたゴミを片づけていた。その様子を見ていた尾花は、まるで、自宅の二階の自分の部屋を母が掃除しているような錯覚に陥った。そして、ぼんやりと母を見ていた。すると、母は、ゴミを持ってこちらに来た。

「このゴミは、切田つぼみさんが持って来てくれた食べ物の包装や空き缶。恵一、あなた、彼女にずっと私たちのことを言わないまま、一年経ったけど、そのことはどう思っているの? 私はそのことが、とても気がかりなの」

里子に問われて、尾花は、

「彼女には、すぐに言おうと思ったんだけど、きっかけを逃してしまったんだ。悪いと思ってる」

そう言ってうつむいた。

「私たちが家族じゃなければ、兄さんは、二股をかけているわけよ。いや、この場合、家族でもそうなるか」

「お母さんも、水季が言うことは、まんざら言いすぎじゃないと思う。恋人の切田さんが、私たち家族が、彼女に内緒で食料を運んでいることを知ったら、どう思う? きっと裏切られたって傷つくはず。それに、一年も、彼女に食料や衣類を運ばせていることと、この問題に彼女を巻き込んでいることをどう思っているの? 彼女のことを本当に大切に思っているなら、山を降りて、お父さんときちんと話し合うべきじゃない?」

里子は、日頃から怒らない母親だった。でも、この時は、怒らない代わりに焦っていた。一年が経ち、いよいよこれではいけないと思っていたからだった。


里子が、尾花を説得しているその時、友喜は、お盆の墓参りの帰りだった。村の墓地にある滝村家の墓に、友喜は、手を合わせてきた。「お前のご先祖様がこの墓に眠っているんだよ」と伯父から言われたが、友喜には実感が湧かなかった。早くに他界した祖父母に会った記憶もほとんどなかったからだ。


伯父伯母と一緒に石の橋の上を歩いていた。尾花の隠れる山の広場の近く、友喜が、つぼみと初めて出会った、あの崖から見える石の橋である。今日も、村の子ども達が、橋の上から川に飛び込んでいた。水しぶきが陽の光で輝いていた。

伯父と伯母が話していた。

「もうお盆になるのに、忙しくて、友喜をどこにも遊びに連れて行ってやれなかった」

「ええ。さみしい思いをさせてしまいました」

それを聞いて、友喜が言った。

「僕、さみしくなんかないよ。村にも慣れてきたし、色んなところに遊びに行ってるから」

「色んなところって、どこだい?」

伯父の言葉に、友喜は黙った。

伯父も、それ以上は、聞かないことにした。友喜が、一人で、山の中に、尾花に会いに行っていることは、心配だったが、この問題は、立河に一任した。だから、聞いてはいけないと思った。伯母の君子もそう思った。好克は、弟の俊克に、沢子の様子を聞くため電話をしても、出ないことも気になっていた。君子にそのことを言うと、君子は「便りがないのが無事な証拠だと思いましょう」と言った。だが、君子も本当は気になっていた。でも、誰も知る者のいない村で、泣きごとも言わず、父が迎えに来るのを待っている友喜のことを思うと、自分も気丈でいなければと君子は思った。二人が考えにふけっている間、友喜は、橋の上から川に飛び込む子ども達を見ていた。

「友喜も、飛び込んでみるか?」

「無理だよ」

「そうよ。小さい頃から、飛び込んでいるから村の子どもは平気だけど、友喜君には危ないわ」

「じゃあ。おじさんが、魚をつかまえてやろう」

「つかまえる? 釣りざおもないのに、どうやって?」

伯父は、友喜に、村の思い出を作ってやりたかった。

母が病気だとはいえ、父に見放されたような、ひとりぼっちの友喜のために、夏休みの思い出を作ってやりたかった。

川に降りるのは、簡単だった。

橋を渡ると、川の土手に木を埋め込んで作った階段があった。三人は、階段を降りた。

友喜は、ズボンの裾をまくると川に足を入れた。皮ふが切れるような冷たさだった。

伯父は、もう川の真ん中にいて、川面を見つめていた。友喜は、ようやく両足をつけて、伯父のほうに向かって歩いた。その時、伯父が、両手をさっと水の中に入れた。それから、

「友喜。ほら。ごらん!」

と両手を水から出した。そして、両手を自分の頭の上まで持っていった。

両手の中に魚がいるのが、友喜に見えた。後ろから、伯母の声がした。

「川魚の鮎よ」

「手で、つかまえた。そんなことできるの?」

「おじさんは、子どもの頃から、やっているからね。でも、友喜君も挑戦してみたら? きっと、つかまえられるから」

「うん」

友喜は、元気にうなずくと、川の真ん中にいる伯父のところまで行った。川の水の冷たさに、足の感覚がなくなっていたが、それより、魚をとってみたいと思った。

それから、伯父の教えに従って、友喜は、魚をつかまえようと夢中になっていた。

伯母は、その様子を見て、わずかだが、心が慰められる思いがした。

川には、他にも、村人や帰省している村人の親族がいて、魚を釣ったり、泳いだりしていた。


そして、山で、尾花が、母に説得をされ、友喜が、伯父に教わり川で魚をつかまえているその時だった。

つぼみが、村の駅に到着し、電車を降りた。それから、青い箱の赤いボタンを、いつも通り押した。だが、いつもと違って、「村の歌」は流れなかった。つぼみが、焦って、何度、赤いボタンを押しても、歌は流れなかった。その内、つぼみは、我に返って、急いで改札を出た。

『ただでさえ、いつもあのボタンを押して、怪しまれているはずなのに、ボタンを繰り返し、押していたら、もっと、怪しまれる。もしかしたら、私が押すから、もう、音楽が流れないようにしたのかも。それは考えすぎだとして、単に故障をしたにしても、押し続けるのは良くない』

つぼみは、駅から離れるにつれて、冷静さを取り戻した。歌が流れなかったとしても、予告なく、尾花のところを訪れるだけで、特別な支障はない。せいぜい尾花が驚くぐらいのことだ。今は、友喜に合図が送れないことだけが、現実に生じている支障だ。友喜には申し訳ないが、今日は、このまま、自分だけで、尾花に会いに行こうとつぼみは村の道を歩いた。村に慣れた登山客を装って、いつも通り歩いた。だが、いつもと違って、「村の歌」が流れなかったように、これから向かう山の広場には、尾花だけではなく、尾花の母と妹もいるのだった。

つぼみにとって、今日は、何もかもが、いつも通りではなかった。

そして、それが、この後、つぼみに、村中を巻き込む騒動を起こさせることになるのだが、今、村の道をいつも通り歩く彼女が、そのことを知る由もなかった。


次回第五章へ つづく


第五章(騒動)


一.

物事が破たんする時とは、ある瞬間に、決定的な問題が生じることよりも、長い時間の経過の中で、知らぬ間に、狂いが生じてきた結果、ある時、それが、決定的な問題となって現れることのほうが多いのかもしれない。つぼみが、駅のボタンを押した時に、突然、機械が壊れたわけではなくて、長い年月の中で、例えば、青い鉄の箱の内部にある音声を出す部分の機械が劣化していた。それが、今日、つぼみがボタンを押した時、いよいよ音を出さなくなったのかもしれなかった。でも、そもそも、尾花が、母から言われたように、早い時期に山を降りて、父の雄一と話し合いをしていたとしたら、村の歌が流れる機械が故障する前に、既に、この問題は解決していた。だから、つぼみが、壊れた機械のボタンを押すこともなかったとも考えられる。そう考えると、あまたの悲劇も、突然、起こるものではなく、長い時間の流れの中で生じた狂いの結実なのかもしれない。この度の問題において、種をまいたのは、父の雄一かもしれないが、実らせたのは尾花だということだった。


つぼみは、村の道を歩いていた。既に友喜の伯父に気づかれていることも知らず、いつも出会うおばあさんに挨拶をして、何も変化がないことを確認した。そして、山道へ向かった。先ほど、「村の歌」が流れなかった動揺も、もう鎮まっていた。つぼみは、思い出していた。初めて、この村を訪れた時、登山客の格好はしていたものの、村人の視線が、ひどく気になったことを。今日と同じように真夏の陽ざしが厳しく、暑さと極度の緊張からくるめまいに襲われながら、この道を歩いた。秋になり、ようやく涼しくなった頃には、つぼみも、この村に少し馴染んできたことを感じた。村人への挨拶もさりげなく行えるようになった。だが、馴染むことが、果たしていいことなのか? 一体、いつまで尾花は山に隠れ続けるつもりなのかを疑問に感じていた。そして、冬が訪れた。山の冬の寒さは、つぼみが、これまで経験したことのないもので、彼女は、冬用の衣類と保温性の高い寝袋を尾花のところに運んだことを記憶している。彼が、冬山の中で凍死するのではないかと毎晩、心配で眠れなかった。それから、春が訪れ、今、二度目の夏になった。まさか、一年も、尾花が山に隠れることになるとは思わなかった。そして、自分が、一年も、この村に通い続けることになるとは思わなかった。一体、いつ終わりが訪れるのだろう? 一体、いつ尾花と彼の父は和解するのだろう? 尾花の前では見せないが、つぼみは、内心、疲れ切っていた。大学でも、尾花のことは問題になっている。教授会で、尾花のことが、最近、度々、取り上げられていると同じ研究室の人間から聞いた。もう、決着をつけなければならない。それなのに、肝心の尾花は、ひどくのんびりとしている。今日は、つぼみの本心と大学の状況を伝えて、尾花に決断させなければならない。それでも、彼が、決断できないならば、つぼみは、別れることも考えていた。このまま、自分が隠れて彼を援助していることが、かえって、彼が山を降りる決断を下すことを遅らせているだけだとしか思えなくなってきたからだ。そう考えると、今日、「村の歌」を流す機械が故障していたことは良かったと彼女は思った。何故なら、今日は、友喜を連れずに、一人で彼のところを訪れるべき日だったからだ。


つぼみは、山道を登り始めた。この山道にも、もう慣れていた。初めて登った時は、息が上がって何度も、途中で休んだが、今は、気軽に登れるほどになった。ただ、今日の、つぼみは、気軽ではなかった。山は楽に登れるが、尾花に会ってから、彼と話し合う、その話の内容を考えると気持ちはとても重かった。

山道は、木々が生い茂る中へと続いた。陽ざしが木々にさえぎられ、視界は急に暗くなり、そして、涼しくなった。つぼみは、少し歩くと、山道を左にそれた。そして、いつもと同じように、あの広場に着いた。

それから、リュックを降ろそうとして、奇妙な光景を見た。あまりにも奇妙な光景だったので、つぼみは、嘘を見ている気がした。あるいは、虚構のように、つぼみは感じた。だが、嘘でも虚構でもなく、尾花と二人の女性が、つぼみの目の前にいた。そして、尾花の周りには、食料が沢山置いてあった。つぼみは、それを見て、二人の女性は、尾花の母と妹だと思った。エプロン姿とTシャツに短パン姿を見て、自分とは違う服装だが、自分と同じようにカモフラージュのためのものだと思った。山に登る時に着るはずのない服装をあえて着ているのは、二人が、尾花の母と妹で、近所に出かける風を装い、村人に気づかれないように、山に登っていることを意味している。つぼみには、自身の一年のカモフラージュの経験から、そのことがすぐに分かった。それから、つぼみは、尾花は、母と妹の援助をいつから受けているのだろうかと思った。そして、そのことが、最も気になり、同時に、その期間の長さによって、彼の自分への裏切りの度合いが決まるような気がした。期間が長ければ長いほど、裏切りの度合いは深く、つぼみは、想像するだけで、めまいがした。いつも静かな彼女の心が、この時、激しく乱れたのだった。


二.

つぼみの頭の中では、それだけの思考と感情が渦巻いていたが、外目には、彼女は、ただ、そこに立っているだけに見えた。それでも、つぼみが呆然としていることは、一見して分かった。

そこで、尾花が、恐る恐る言った。

「つぼみちゃん。僕の母さんと妹なんだ。時々、来てくれるんだ。時々だけどね」

続いて、里子が言った。

「恵一の母の尾花里子です。切田つぼみさんですね。いつも、遠いところを恵一のために申し訳ございません。私たちも、村の人の目があるので、時々なんですが、本当に時々なんですが、こうやって、恵一のところに来るんです」

水季が言った。

「この山、うちの山だから、兄さんが隠れた時に、すぐこの場所だって分かっちゃってね。それで、母さんと私の二人で、様子を見に来るようになったの。ごめんね。隠すつもりじゃなかったんだけど」

それを聞いて、つぼみは、

「すぐに分かったっていうことは、私よりも先にここに来ていたってこと?」

と尋ねた。

「そんなことないよ。つぼみちゃんが来てくれた後だよ。確か、三日後だったと思う」

尾花が釈明のつもりで言った。

「そのことを何故、私に言ってくれなかったの。三日後だったら、一年間、ずっと黙っていたのと同じじゃない」

つぼみはそう言うと、リュックを地面にドサリと落とした。

そして、先ほど、村を歩きながら、思い出していたこの一年の出来事が、再び蘇ってきた。母親と妹が悪いのではない。心配で様子を見に来て当然だから。それより、一年間、登山客を装って、様々なものを運んで来たのは、尾花を愛しているという、その思いだけだったのに。そして、自分がそうしなければ、尾花は、山の中で、餓死するかもしれない、凍死するかもしれないと思って、必死で彼のところに来ていたのに。その尾花は、身近にいる母親と妹から援助を受けていた。しかも、そのことをずっと黙っていた。私の彼への愛と一年の歳月は何だったのだろう?

つぼみは、とても疲れていた。そのことが、彼女をよりナーバスにしていたこともある。確かに、尾花が悪い。だが、今のつぼみは、それ以上に、過剰に被害妄想的になっていた。そこが、これからの彼女の行動を決定づける大きな要因だった。そして、彼女はある行動に出た。


つぼみは、広場を飛び出し走り出した。一種のパニック状態だった。

「恵一。追いかけて!」

「兄さん。彼女をつかまえないと、危ない!」

母と妹が叫んだ。

「つぼみちゃん!」

尾花は追いかけた。

つぼみは、どこに向かって走っているのか、自分でも分からなかった。本当は、いつもの山道を降りるつもりだったが、全く違う方向に向かってしまった。

「そっちに行ってはいけない! つぼみちゃん。止まるんだ!」

尾花が追いかけても、つぼみに追いつかなかった。

つぼみは、山道を走り抜けた。正常な精神状態でないことが、彼女の足の速さに繋がっていた。普通は山道をこれほどの速さでは走れなかった。山に慣れた尾花ですら、追いつけなかった。

そして、ついに、つぼみは、道が開けて明るい場所に出た。

そこは、川を真下に見るあの崖だった。

つぼみが走ってきた道は、友喜が山に迷って、尾花に、それ以上、行くと戻って来られないと止められたあの道だった。そして、尾花と二人で、並んで座っていた時、友喜が現れ、初めて、彼に会ったのが、この崖だった。そうなのだ。ここは危険だから、尾花と二人でしか来てはいけない場所だったのだ。

そう気づいた時には、つぼみの足は崖を踏み越え、彼女の体は、宙に浮き、そのまま彼女は、一気に川に落ちた。

ドボンという大きな音と、大きな水しぶきが上がった。

尾花も、つぼみの後を追って、「つぼみちゃん。すぐに僕が助ける!」と崖から飛び降りた。

再び、ドボンという大きな音と、大きな水しぶきが上がった。

川で遊んでいた人々は、

「人が落ちたぞ!」

と大騒ぎになった。

そして、その中に、魚をつかまえていた友喜と伯父、伯母もいた。

「人が崖から落ちた。もう一人落ちた」

その瞬間を目撃した友喜は、そう呟いた。

友喜と伯父が、魚をつかまえている場所から、あの崖はすぐ近くだった。

村に慣れてきたとはいえ、友喜は、まだ、そこまでは気づかなかった。でも、今、二人の人間が、川に落ちる姿を見て、つぼみと尾花だと彼は気づいた。二人に一体何があったのか? 友喜は、つかまえていた魚を放り出して、川から上がった。そして、靴をはくと、つぼみと尾花の姿を見るために川原を走った。二人が落ちたところには、村人の中で、泳ぎの達者なものが、助けに向かっていた。

村は大きな騒動になった。


三.

川に落ちたつぼみは、救急車で病院の集中治療室に運ばれた。意識が戻らなかったからだ。自殺の疑いが強いため、尾花は病院内で警察官から事情聴取を受けた。尾花は、意識もしっかりしており、怪我もしておらず、救急外来で検査を受けただけで異常なしの診断を受けていた。警察から連絡を受けた、つぼみの両親が病院に駆けつけた。集中治療室には入れず、待合で悲嘆にくれていた。警察官は、つぼみの両親の様子を見て、事情聴取を後にした。

村人が病院に押しかけていた。病院の職員が、関係者以外立ち入り禁止だと言っても聞かなかった。村で起った大事件なのだから、村人全員に関係があると反論した。だから、小さな病院のロビーは、人でごった返していた。そこに遅れて、里子と水季が到着した。二人は、状況を見て、そのまま病院に入らずに、家に帰った。そして、雄一に、まず、二人で隠れて山へ行っていたことを打ち明けた。雄一は何も言わなかった。それから、恵一とつぼみが川へ飛び込んで村中が大騒動になっていることを話した。村長よりも力があるとされる雄一に、あらかじめ事態を知らせておかないと、恵一、そして、つぼみのことで、村人、警察、地元の新聞社などに対応してもらう際、支障があると考えたからであった。また、帰宅した時、気を使って席を外した立河を呼んで、里子は、彼にも全てを打ち明けた。その時になってようやく、里子と水季が、恵一に会いに山へ行っていることを以前から知っていたと、雄一は言った。同時に、立河も、今、その話を雄一から聞いて知ったと言った。それを知り、里子は、拍子抜けしたが、とにかく、雄一と立河とともに病院に向かった。そして、その後の雄一と立河の警察や新聞記者への対応を見て、里子は、自分の判断は、正しかったと思った。

雄一は、

「実は、恵一がいる場所も、家族は把握しておりました。村の皆様に隠していて申し訳ございませんでした。ただ、恵一も、神経質になっていて、説得するのは家族でないと難しいと判断したからでした。それと、川に落ちたお嬢さんなんですが、恵一の大学の同級生です。つまり、恋人です。彼女も、同じように説得をしてくれていました。だから、自殺ということはないはずです。街の人ですから、山の中で、猿か猪に出会って、怖くて逃げた。それで、誤って崖から川に落ちたのではないか。そこで、彼女を助けるために恵一も川に飛び込んだのではないかと思います」

このように、いかにも事情に通じた様子で話しをした。

更に、立河も、警察官に、

「私も、警察のほうではなく、森林課で捜索をして欲しいと、尾花さんから頼まれて、一年前から、経過を見てきましたが、自殺の可能性はないと思います」

と訳知り顔で話した。事実、長年、森林課に勤める立河の判断で、突発的な事故だろうと思った。川遊びの子ども達と釣り人でにぎわう川の真ん中に崖から飛び込む自殺願望者は、まずいないと判断した。

警察官のほうも、突然の騒ぎで混乱していたが、尾花家の当主と、この件に関して警察より事情に詳しい森林課の課長から話を聞いて安心した。そのため、尾花への事情聴取も緩やかになった。そして、自然にその雰囲気が、ロビーにいる村人にも伝わって、皆、引き返していった。

「尾花のご当主が、大丈夫だって言ってるんだから、大丈夫だろう」

病院に、いつもの静けさが戻った。診察も終了し、待合に人はいなくなった。そして、友喜と、伯父夫婦だけが残った。


つぼみの意識が回復した。集中治療室に両親が呼ばれた。意識の回復した彼女は、両親を見て恥ずかしそうに笑った。母は彼女の手をそっと握り、父は、何度もうなずいた。

待合には、尾花と、彼の両親、妹、立河、それに、友喜と伯父伯母がいた。

尾花は、父の雄一から言われた。

「ずっと、待っていたんだ。お前が、自分の意志で、山を降りて、私と話し合いをすることを。だから、契約も止めたままにしておいた。もちろん、森林課から待ったがかかったこともある。でも、そのことも含めて、もう一度、きちんとお前と話し合いたかったんだ。あのまま、喧嘩別れして、しかも、お前が山に隠れたままで、父さんに何ができるって言うんだ」

尾花は、

「ごめんなさい」

と謝った。そして、

「でも、父さんは、いつでも、結局、自分の決めた通りにするから、こうするしかなかったんだ。僕の命をかけた、たたかいだったんだ。僕はあの山を守る。あの山に生きる沢山の生き物と山の自然を守るためなら、また、山に隠れるつもりだ」

父に対し、尾花は、まだ、抵抗を続ける覚悟だと宣言したのだった。

そこで、雄一は言った。

「恵一。お前が、本当に守りたいものとは何だ? 自然は大切だ。今回のことで、父さんもそのことを知った。でも、お前にとって何よりも大切なものとは何だ? つぼみさんじゃないのか? 何故なら、お前は、命を捨てて彼女のために川に飛び込んだのだから。お前、川に落ちてからのことを覚えているか?」

尾花は必死であったため、川に落ちてからのことは覚えていなかった。

「尾花さん。つぼみさんを抱きかかえて、立ち泳ぎをしたんだよ。僕、立ち泳ぎって生まれて初めて見たから、びっくりした」

友喜がその時の様子を話し始めた。

「村の人も川に飛び込んで助けに行ったんだけど、つぼみは、僕が守るって、あの流れの速い川を、つぼみさんを抱きかかえて、立ち泳ぎで、川岸まで泳ぎ着いたんだ。そして、つぼみさんを抱きかかえたまま、まだ歩こうとしたんだけど、そこで疲れて倒れそうになった。でも、救急隊員が到着していたから、尾花さんから、つぼみさんを受け取って、救急処置を始めたんだ。村の人たちも、びっくりしてたよ。びっくりっていうのは、崖から突然、人が飛び降りてきたことと、その内の一人が、山に隠れていた尾花さんだったことと、尾花さんが立ち泳ぎで、つぼみさんを川岸まで運んだことの三つの意味なんだけど」

友喜は、尾花とつぼみのために、進んで重要な証言をした。気負いもあってか、びっくりの三つの意味まで説明した。そして、やや説明過多だったかなと思った。

尾花は、友喜の詳細な説明を聞いて、

「立ち泳ぎなんて、村育ちでも、僕は、あまりしたことがないんだけど。僕は、普通に泳ぐのも得意なほうじゃないから」

と驚いていた。やはり、覚えていないらしかった。

「恵一。あの山とつぼみさんのどっちか一つを取れって言われたら、どうする?」

雄一は、友喜の話を聞いた尾花に尋ねた。

「人と山を比較できるものじゃないよ。でも、つぼみさん。つぼみさんが、一番大切だ」

尾花は、自分に確かめるように言った。

その言葉を聞いて、

「山は二番目だな。それでいい。じゃあ、あの山は売らない。あの山が一番大切だったら、売るつもりだったけれど、つぼみさんが、一番大切で、あの山が二番目なら売らない」

雄一は、そう言った。

尾花は尋ねた。

「どういう意味? 僕が、あの山が一番大切だったら、売ってたの?」

「それは、私自身の気持ちなんだ。あの山を売ると考えた時、不動産会社に乗せられたこともあったけど、私自身、あの山の不動産価値を考えていたんだ。つまり、お金だな。それが、お前が、山にこもってまで抗議することになって、思い知らされたのは、私にとって一番大切なのは、あの山でもない。お金でもない。恵一。お前の命だということだった。冬、雪の夜、お前は山で凍え死んでいるんじゃないかと思うと、私も、生きた心地がしなかった。里子と水季が、お前の居場所を知っていて、色々なものを運んでくれていることを知っていたとはいえ、最悪の事態を何度も考えては、夢にうなされてきた」

そこまで、聞くと、尾花は、自分の宣言は、もう撤回すべきだと気づいた。

「ただ、父さんは、どうしても、お前に山から降りてきて、話し合いに応じてもらわなければと思った。それは、お前が、父さんは、話しにくくて、何でも自分の思い通りにすると思っているように、私も、お前のことをとても気難しくて、話し合いなどできない若者だと思っているからだ。生物学部で昆虫の研究をすると言った時、父さんと母さんは、農業や林業の研究をして欲しいと言ったが、お前は、断固として聞かなかった。好きなことだから、それは仕方がないのだろうけれど、あの頑固さには、父さんも母さんも、お前が子どもの頃から、苦労させられているんだ。そして、それが、いよいよこの度の騒動にまで発展したんだと思う。恵一。本当に大切なものは何か? この度のことを教訓にして、これからの人生で、しっかり考えて欲しい」

雄一の話を聞きながら、尾花は、父は、この一年で随分、老けたと思った。そして、母も。それから、尾花は、好きに生きてきた自分は、多くの人の心に気づかず、多くの人を傷つけてきたと思った。その時、つぼみの顔が浮かんだ。それから、ふと顔を上げると、心配そうにこちらを見ている友喜と目が合った。

尾花は思った。彼は、まだ十六歳だ。でも、彼は、多くの悲しみを知り、多くの人の心を知っている。彼は、自分よりずっと大人で、ずっと優しい。そう思うと、友喜を見つめる尾花の目に涙が浮かんできた。

つぼみは、目が覚めただろうか? 『つぼみ。僕と同じように彼も君のことが好きだ。彼のためにも、早く目を覚ましておくれ』。尾花は、待合にいる人たちに頭を下げ、一人、祈る思いで、つぼみのいる集中治療室に向かった。


第六章(生命)


つぼみは、川に落ちた時のショックで気を失っただけだった。精密検査の結果、どこにも異常はなかった。ただ、念のため、数日、入院した。それから、そっと退院した。村人たちは、あの騒動のこともすっかり忘れていた。あれだけの騒ぎも、日々の忙しさに追われる村人たちには、もう過去のことになっていた。

尾花は、一年ぶりに、自分の家の二階の部屋のベッドで眠った。山にいる時に使っていた寝袋の感覚に慣れてしまっていた彼には、ベッドの寝心地は、落ち着かない感じがした。穴の中の岩の上に薄い寝袋を敷いて、その上で一年も寝ていたのだから、落ち着かないのは当然だった。ベッドの上は、雲の上にいるような感覚だった。寝袋は、ビニール袋に入れられ、裏庭のゴミ置き場に置かれて、来週の燃えないゴミの日に捨てられるのを待っていた。


夏休みも残り少なくなったある日、尾花はつぼみと一緒に大学に行った。研究室には、指導教授がいた。老年の昆虫学者だった。尾花の父と同じく真っ白な頭をしていた。尾花は、教授に一年間の無断欠席とこの度の騒動を謝罪した。つぼみも、謝罪した。教授は、つぼみに関しては不問にした。尾花の居場所を知っていたのに隠していたこと、援助までしていたこと。また、川に落ちた騒動も、問題ではあるが、そもそもの原因は、全て尾花にあったからだ。

教授は、尾花に言った。

「本来なら、君は即刻退学処分でもおかしくない」

尾花は当然だと思った。そう覚悟して大学に来た。だから、「でもおかしくない」という言葉が続いたことが不思議で、彼は下げていた頭を上げた。そして、教授の顔を見た。教授は、尾花に話しの続きをした。

尾花が、山に隠れるまで、彼の住む村の自然について、大学では、関心がなかった。それは、他の大学でも同じだった。理由は、おそらく、観光化されるほど話題になる自然の風景があるわけでもなく、あるいは、滝のような観光スポットもないため、誰も注目しなかったことが考えられる。尾花には悪いが、要するに、平凡な田舎の村としての認識しかなかった。そのため、学者や、中央地方問わず行政府も、村の自然を見過ごしていたのだろう。だが、この度の尾花の一年の山ごもりの間に、生物学部の教授の間で、改めて、あの村の山や川の生態調査をしてみたいという意見が複数上がった。その中には、尾花の指導教授も含まれていた。尾花の教授としては、彼の村の山や川を調査することによって、新たな発見があり、学術的成果が得られれば、結果的にだが、尾花の山ごもりが、その端緒となったという言い訳を作り出すことができ、尾花の退学処分を回避できると考えたからだった。そのことは、教授会では口に出さなかったが、尾花とつぼみには、今、研究室で、そっと明かした。

「実際のところ、もう村の調査は決定したのだから、君は退学にはならない。でも、この機会に、村の自然を熟知している君が活躍することで、一年の間に失ったものを取り戻すんだ。そして、それは、学業よりも、君が失った信頼を取り戻すことだ」

教授は、尾花をじっと見つめ、そう言った。尾花は、真っ白な頭の教授が語る姿を見て、父の雄一から、言われているような気がした。

「先生。僕、頑張ります」

「私も、頑張ります」

尾花とつぼみは、教授に言われた通り、生態調査によって、この一年間を、喪失ではなく、少しでも結実したものにしたいと思った。


尾花とつぼみが、大学にいる間、友喜は時間を持てあましていた。父からは連絡がないため、母の容態は分からない。尾花が山から降りたことは良かったが、そのために、友喜は、山に登ることができなくなった。

伯父から言われた。

「お前が、恵一君に会いに山に登っていたのは知っていたんだ。でも、考えがあって黙っていた。恵一君が、無事、山から降りたから、今後、一人で山には登らないこと。危ないからな」

友喜は、庭の砂利に足で円を書いていた。それぐらいしか、することがなかった。

その時、ザーッという砂利をタイヤが踏む音とともに、庭に車が入ってきた。

友喜が顔を上げると、紺色のハッチバック車がとまっていた。友喜の父の車だった。

「友喜。元気だったか?」

父が笑顔で運転席から降りてきて言った。父はいつも唐突だった。唐突に友喜を伯父の村に預け、唐突に村に現れ、唐突な質問をする。

友喜が返事に困っていると、車の音を聞きつけた伯父と伯母が現れた。


居間で、友喜の父は、話をした。

「沢子の病気が良くなって、明日、退院するんだ。それで、慌てて友喜を迎えに来た。長い間、友喜を預かってくれて、ありがとう」

伯父と伯母は、複雑な顔をした。

「沢子さんが良くなったことは、喜ばしいけど、全く連絡をして来ずに、急に友喜を迎えに来るなんて。私たちにだって、心の準備がある」

「心の準備? 何のこと?」

伯父の言葉に父は聞き返した。

伯父も伯母も、友喜との別れが、こんな風に突然、訪れるとは思わなかった。心の準備をしていなかった。そのことを言いたかったのだが、それは、言えなかった。

その後、伯父夫婦と父は、少し世間話をした。それから、父は立ち上がった。もう帰るのだった。

伯父と伯母は、もう少しゆっくりできないのかと言った。沢子の退院後の準備があるからと父が言った。

伯父と伯母は、友喜の傍に来た。

伯父は言った。

「夏休みの間、友喜は、さみしかったと思う。でも、おじさんとおばさんは、友喜がこの村に来てくれたおかげで、本当に幸せだった。こんなに楽しい毎日は、一体、いつ以来だろう、そう思っていたんだ」

伯父は、涙で目が赤くなっていた。

「止めちゃダメだって分かっているんだけどね。できたら、ずっと、この村にいて欲しい。友喜。もう行ってしまうんだね。おばさん。明日からさみしくて、どうやって過ごしたらいいか」

伯母は涙を流した。

「おじさん、おばさん。本当にありがとう。僕もこんなに楽しい夏休みは生まれて初めてだった。僕も、この村にずっといたい。帰りたくない」

友喜も、知らぬ間に涙がこぼれていた。

そして、畳の上に泣き崩れた。伯父と伯母と別れる悲しみに加え、父が迎えに来るまで、ずっと張りつめていた緊張から解き放たれたため、思わず、泣き崩れたのだった。

「友喜。父さんも、連絡をしなければと思っていたんだけど、仕事が忙しいのと、母さんの病院に見舞いに行くのが重なってしまって。一人で、ずっと不安だったんだな。ごめんな」

父は、ようやく優しい言葉で友喜を慰めた。


車の助手席から、顔を出し、友喜は、次第に小さくなっていく伯父と伯母に向かって手を振った。

伯父と伯母も、手を振っていたが、その姿は、車がスピードを上げるにつれ、急速に小さくなり、消えた。

「友喜。母さんが元気になったら、また、村に遊びに来ような」

父も、友喜と伯父伯母のことに心を打たれたようだった。

「うん」

友喜は、返事をし、伯父と伯母のことを胸にしまい、母のことを考えた。だが、友喜は、何か大事なことを忘れている気がした。

そして、それがすぐ、尾花とつぼみのことだと気づいた。

『もう会えないかもしれない! 伯父と伯母とは違って、二人には二度と会えないかもしれない。二人が、どこか遠いところに就職してしまったら、もう会えない』

友喜は、うろたえた。だが、車は村を離れている。父に車を止めてくれと言ったところで、尾花とつぼみがどこにいるかも分からない。

友喜は、呆然としたまま助手席に座っていた。

そして、村の駅の踏切を渡るため、父が一旦停止をし、それから、ゆっくり車を動かした。

その時だった。大学から村に戻った尾花とつぼみが、電車を降りて、小さなホームを歩いていた。そこで、目の前を通り過ぎる車の助手席に座る友喜を見た。

「つぼみちゃん。友喜君だ!」

「隣の人は、お父さんね。きっと、もう街に帰るんだ」

尾花とつぼみも、電車の中で、友喜のことを話していたのだった。

もう街に帰る頃じゃないのか。そして、もしかしたら、もう二度と会えないのではないかと。

「つぼみちゃん。どうしよう。追いかけても、追いつけないスピードだ!」

尾花は、駆けだしたが、改札を出たところで、到底、追いつけないと叫んだ。

つぼみは、尾花の叫び声を聞き、とっさに、駅の柱に設置されている「村の歌」の流れる青い鉄の箱の真ん中にある赤いボタンを押した。たとえ、もう壊れていたとしても、今、押すこの時だけ、機械よ、目覚めてくれと願いを込めてボタンを押した。すると、故障したはずの機械が動き、村は美しい~村は美しい~と村の歌が大きな音で流れた。


助手席で呆然としていた友喜の耳に、村の歌が聞こえた。

「お父さん。車を止めて!」

友喜は、助手席から転げ落ちるように車を降り、駅に向かって走った。

「あっ! 友喜君だ」

尾花が、こちらに向かって走って来る友喜を見つけて、彼も走り出した。

つぼみも、改札を出て、友喜に向かって走った。

村中に、そして、今は誰もいなくなった、あの山の広場にも、村の歌が流れていた。

もう、これが最後になるかもしれない。友喜と、尾花、つぼみの別れを惜しむかのように、いつもは、軽快なリフレインも、この時は、どこかもの悲しく響いていた。

三人は、駅の待合の木製のベンチに座って話をした。友喜の父は、三人の邪魔をしないように車を降りず、少し離れた場所から彼らを見守った。

三人は、別れの言葉は口にしなかった。

「また会おうね」

最後に、そう言って、それぞれの世界に戻った。

尾花とつぼみは、生態調査に向けた準備が進む大学に。

友喜は、人工芝が敷かれた校庭のある都会の高校に戻った。

そして、友喜の夏休みは終わった。


友喜にとって、尾花とつぼみとの出会いは、十六歳の夏休みの経験の中で、最も美しい思い出だった。彼は、街に帰った今も思い出す。あの山の中の草原を。そこだけ陽の光が当たり、エメラルドのように輝いていた。そして、森を抜ける風に揺られ、草原は、波のように大きく緩やかに揺られていた。風に揺れる夏草の一つ一つが、ハーモニーを奏でていて、友喜の心に響いた。その時、友喜は知った。都会では知り得なかった、生命の輝きを。街の道路に落ちているゴミ屑ぐらいしか見たことのなかった友喜が、生命が生命として輝くことの美しさを知った。生命が最も輝くのは、愛し合う時だということを、尾花とつぼみから知った。友喜は、つぼみに初めての恋をした。そして、ほんのわずかな嫉妬を知り、更に、嫉妬を超えた尾花への友情を知った。友喜は、十六歳の夏に、人を愛することを知った。友喜は、今、病後の母と父と、再び生まれ育った都会に暮らしながらも、心の中に、彼にとっての、本当の故郷を抱いて生きている。目を閉じると、いつでも、彼は、あの夏草の海へ帰ることができた。そして、夏草の海へ帰る時、彼の心は限りない愛に満たされるのだった。


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夏草の海へ 三上芳紀(みかみよしき) @packman12

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