弁天様ブルース

三上芳紀(みかみよしき)

弁天様ブルース

第一章(リタイア)

一.

夜道を歩きながら、俺は、誰も追いかけて来ないことに焦りを覚えていた。

今、コンビニで万引きをした。普通なら、店を出る寸前で、店員に止められるんじゃないのか?

これでは、俺は、万引きに成功してしまうことになる。いや、俺は既に万引きに成功してしまったのか? そう思った時だった。コンビニから店員が飛び出してきた。

「そこのお前。待て! 今、万引きしただろ!」

店員の声に、俺は、

「遅い。危うく万引きに成功するところだった。それじゃあ困るんだよ」

と呟いた。そして、立ち止まって振り返った。

太った大柄の男の店員は、俺の腕をつかみ、店に連れて行った。

店員は言った。

「危なかった。逃げられるところだった」

俺は、わざわざ捕まるために、走らず、この男が追いかけてくるのを待っていたのだ。

「間抜けな野郎だ」

俺は呟いたが、男は気づかず、俺をコンビニの奥にある事務所に連れて行った。


事務所は雑然としていた。

事務机にパソコンが一台置いてある以外は、事務所というより倉庫だった。店の外に立てるのぼりや、商品のポスターが置かれていた。それから、もうはがしたポスターがダンボール箱に突っ込んであった。その他、雑品だらけだった。その中で一番目を引いたのが、男性アイドルのパネルだった。新発売のアイスクリームを持って笑顔で写っているのだが、等身大だと思われるサイズなので、本人が目の前にいるような気がした。汚れていないから、まだ新しいパネルだと分かった。どこに飾るのだろう? 店舗の外だろうか? その場合、コンビニの前を歩く人が驚くだろう。でも、店内に置くには大き過ぎる気がした。

そんなことを考えていたら、

「パネルのことは考えなくていいから、君の名前と住所を言いなさい。それに高校生だね? 学校名も」

と店長が言った。

俺が考えていることを見透かされていた。

店長は、あの店員と違い落ち着いた男だった。歳は、四十代半ばぐらいに思えた。

俺は答えた。

「GF高校二年道村孝次です。住所は」

店長は、俺があんまりはっきりと答えるので、かえって、嘘かと疑ったようだった。でも、俺が生徒手帳を見せると納得した。納得したが、不自然に思った。

そして、

「普通、万引きをして捕まって、君のように、すらすら自分のことを話す人間はいない。変だよ。道村君。捕まるつもりで万引きをしたんじゃないのかい?」

と言った。

図星だったが、

「いえ。むしゃくしゃしていて、つい、やりました。それだけです」

と俺は答えた。机の上には、俺が盗んだ大盛りカップ焼きそばと三色ボールペンがあった。確かに、計画性は感じられない。

「まあ、いいよ。どっちにしろ、君が万引きしたことには変わりないからね。学校とご家族に連絡するよ。君は、万引きは初めてのようだ。少なくとも、うちの店では初めてだ。だから、警察に連絡するのは、今はやめておこう」

店長は、俺の話を信じていなかった。そして、事務的に学校と家に連絡をした。


教頭と担任と両親が飛んで来た。

皆が、店長に謝罪し、俺を叱った。母親は涙を流していた。それには、少し俺の心も痛んだが、仕方がないことなのだと思った。俺なりによく考えて実行したことなのだ。俺の人生は俺が決めるしかないのだから。

俺はそう思ってうつむいていた顔を上げると、等身大パネルの笑顔があった。こいう笑顔は不自然だが、それを表す的確な言葉があった気がした。少しして、ようやく、それは、「作り笑顔」だと思い出した。俺は、平静を装っているが、本当は動揺していることに、その時、気づいた。


二.

万引きの計画は、失敗したわけではないが、ひどく中途半端な結果に終わった。

俺は、GF高校にバスケットボールのスポーツ推薦で入学した。世間的にも知られていることだと思うが、スポーツ推薦で入学した場合、その部活をやめると、往々にして、学校もやめざるを得なくなる。スポーツ推薦は、高校三年間も継続してそのスポーツをするという約束をして入学する。部活をやめたら、約束を破ることになる。そこで、何が起きるかというと、その生徒自身よりも、これまで高校が、その中学校のために設けていた推薦枠を減らすことがあり、学校間の関係が悪くなるなど、問題が波及する可能性が大きい。「お前のせいで、推薦枠が減らされた」「お前のせいで、後輩がスポーツ推薦で進学できなくなった」。本人より周囲に迷惑をかけることは、非常に辛い。そして、この辛さを巧妙に利用しているのが、スポーツ推薦のシステムなのかもしれない。同時に、学力的な問題もある。スポーツ推薦の生徒は、これまで、スポーツに大部分の力を注いできた分、学業が疎かになる傾向にあるうえ、そもそも、一般の受験では合格できない学力の高校にスポーツ推薦で進学している場合もある。だから、その生徒が、部活をやめるということは、これまでスポーツ推薦の生徒に対し、学校側から与えられてきた一定の配慮がなくなるということになる。そうなると、ただの勉強のできない一生徒になってしまう。そして、勉強についていけなくなり学校をやめざるを得なくなる。俺は、この二つの条件に該当する。つまり、バスケットボール部を退部したら、高校もやめなければならない分類の生徒なのだ。

だから、万引きで捕まってバスケットボール部を退部させられた時に、高校もやめると校長と教頭に言った。勉強についていけなくなり留年するような惨めなことになる前に、自分から高校もやめると言った。


それは、一週間自宅謹慎した後、校長室に呼び出された時のことだった。

保護者もできれば同伴でと言われたが、俺の家は共働きなので、一人で学校に行った。部活の顧問は、大木田という俺より背の高い国語の教師で、大学卒業までバスケットボール選手として活躍していた男だった。その大木田が、

「むしゃくしゃしていたから、万引きをしたそうだが、俺にはお前がむしゃくしゃしている風には見えなかった。でも、そんなことを考えても今更、どうしようもない。うちの高校のバスケットボール部が不祥事に対して厳しいことは、お前もよく分かっていると思う。残念だが、即、退部だ。以上」

こう言って、俺は退部になった。

GF高校のバスケットボール部は昔、全国大会に出場が決まり、一回戦が行われる前日に、部員が暴力事件を起こして出場停止になった。それ以来、暴力沙汰、飲酒、喫煙、万引きなどの問題が発覚したら即退部という決まりになった。厳格にすることにより不祥事を抑止する意味があるらしい。

そして、俺はその厳格な決まりを逆に利用して、バスケットボール部を退部した。だから、この段階では計画は成功していた。何故、俺がそこまでしてバスケットボール部をやめたかったのかという理由は、シンプルだった。俺は、バスケットボールが好きではなかったからだ。かといって、嫌いでもない。でも、とにかく好きじゃないバスケットボールをこれ以上続けることはできないと限界が来ていた。そこで、万引き騒動を起こして退部した。それに、スポーツ推薦のこと以外に、普通にやめさせてくださいと言っても、そう簡単にやめられなかったということも万引きをした大きな理由だった。

俺は、GF高校のバスケットボール部の中で、中心選手の一人だった。背も高い。動きも速い。何よりもシュートの得点率が高かった。バスケットボールに限らず球技において勝つためには得点すること。これしかない。どれだけディフェンスが良くても、点を入れなければ勝てない。だから、得点率の高い俺は貴重な戦力だった。日頃、部員を褒めない大木田が、残念だと言ったことは、俺への最初で最後の褒め言葉だったと言える。つまり、自分で不祥事でも起こさない限り、俺は部活をやめられなかったのだ。ただ、自ら不祥事を起こすといっても、暴力沙汰は嫌だった。例えば、見ず知らずの他校の生徒に喧嘩を売るなんて俺にはできない。それに、俺は自分にそれほど腕力があるとも思わない。喧嘩をして散々殴られて負けるのも嫌だった。痛い上に格好が悪いからだ。そこで、万引きを選んだ。そして、計画通り、部活は即退部になったのだが、学校をやめることを校長と教頭に申し出ると意外な答えが返ってきた。

「部活は諦めてもらうしかない。でも、毎日、バスケットボールに打ち込んできた力をこれからは勉学に注いでみようじゃないか。道村君」

教頭が言った。そして、隣にいる校長がうなずいた。

自分の役目が終わった大木田が、校長室を出て行った。その後、俺は、校長室のソファーに座らされ、目の前にいる二人の話を聞かされた。

教頭が説明した。

「率直に言いますが、スポーツ推薦で入学した生徒が、所属するクラブを退部した場合、少なからず、勉強についていけずに退学します。クラブ活動中は、その学力の不足分を部活動の評価で補って進級させていますが、部活動をやめると学業の不足分をフォローできないため最終的に留年という事態に陥ります。そして、学校にいづらくなって、中退するということです」

教頭の説明を聞きながら、今更、そんな話をしなくても、スポーツ推薦の生徒だけじゃなく、他の生徒もみんな知っていることだと俺は思った。だから、学校もやめるつもりなのに、何が言いたいのだろうと思った。俺は、バスケットボールをすることの意味が分からなくなっていたのと同時に、高校に通う意味も分からなくなっていたから、高校もやめようと思っていた。そんな俺には、話の続きを聞く意味もないとしか思えなかった。だから、ソファーから立ち上がって、校長室から退出しようと思った。

すると、教頭が、慌てて俺を再びソファーに座らせ、

「GF高校は私学です。スポーツ部をやめた皆さんをフォローアップするために、私学ならではの柔軟な対応ができるのです。道村君。バスケットボールは諦めても、学校は諦めてはいけません」

と言った。その言葉を聞いた俺が怪訝な顔をすると、

「要するに、本来、進級するには点数が足らなくても、そこを補習やレポート課題を履修することで補うことができるようにしたということだよ」

と校長が言った。校長はこの高校の創設者の孫にあたる人物だった。年配の恰幅のいい男で口ひげを生やしていた。

「そんな制度ありましたか? 初めて聞いた。みんな、退部してから少しして学校もやめっていったと思うけど」

俺がそう言うと、

「生徒の将来が心配になってね。そんな風にやめっていった生徒たちのことがね」

と校長が言った。

俺はその言葉を聞いて、嘘だと思った。校長は、そんなことを考えるような人物ではない。彼の興味は、所有しているイギリスの高級車にしかないからだ。それと、邸の広い庭でやっている贅沢なガーデニングだけだ。

ただ、俺は、退部と同時に高校もやめるつもりだったのが、校長と教頭の二人からいきなり説得されたために、断れなかった。虚を突かれた感じだった。そして、俺の計画は、中途半端な結果に終わった。


今、俺は、二階の窓際の席から外を見ている。五月の青空が広がっている。英文法の授業だったが、俺は聞いていなかった。俺は、校長と教頭が何故、俺が高校をやめるのを引きとめたかの理由について隣のクラスの生徒が教えてくれたことを思い出していた。校長室で説得された日から数日後のことだった。

「隣町のZT高校が、一昨年から、理数科コースを新設しただろ? 予想以上の人気で、生徒がそっちに流れているんだ。GF高校は、はっきり言ってスポーツ以外に売りのない高校だから、焦ってるんだよ。万が一定員割れでもしたらって。だから、スポーツ推薦の生徒もやめていかない対策を取った。ずばり言えば、人数確保。そういうことらしいぜ」

この生徒は、情報通だった。だから、この話も間違いのない情報だと思った。だとすると、俺は、ZT高校が理数科コースを新設したために高校を中退しないという結果になったのかと思った。

「こういうのって、風が吹けば桶屋が儲かるって言うんじゃないのか?」

俺は、高校生らしくない言葉を小さく呟いて、そのまま青空を眺めていた。


三.

俺は、教室で完全に黙殺されている。万引き犯ということで、誰も関わりたくないのだ。それに、バスケットボール部を退部になったのに、何故、学校も退学しないのだと、クラスメイトは疑問に思っている。彼らも、学校が、スポーツ推薦の生徒が部活をやめても、学校までやめなくていいという救済策を作ったことを知らないのだった。何故なのかを、俺に面と向かって尋ねる奴はいない。みんな、俺が恐いのだろう。ただ、陰では俺のことを「三色ボールペン」と呼んでバカにしている。でも、仕方がない。万引きをした俺が悪いのだから。それに、学校もきっぱりとやめるべきだった。そう考えながら、昼休みの今、窓際の席から、校庭でサッカーをしている生徒たちを眺めていた。教室には昼休みも受験勉強をしている生徒が数人いるだけで、とても静かだった。

しばらく校庭を眺めていると、傍に人の気配がするので俺は振り向いた。

すると、津江野が立っていた。


津江野は、俺と同じで、不祥事を起こしてバスケットボール部を退部させられた同級生だった。去年の冬休みだった。他校の生徒と喧嘩をした。そして、即退部になったのだが、津江野は、スポーツ推薦ではなく一般入試で進学した生徒だったので、退学の問題は出なかった。俺も、その時、退部だけで、津江野に退学の問題が出なかったことを不思議に思わなかったことを覚えている。

「お前。孤独にふけってるのか?」

津江野が聞いてきた。

「暇なんだよ」

俺は答えた。

「無理すんなって」

そう言って、津江野は笑った。

津江野は上の前歯の真ん中の一本が無い。去年、喧嘩した時、殴られて折れたのだった。俺はその笑顔を見た。歯がある時は、精悍な感じのする顔だったのに、今は、妙に間が抜けている。でも、それが、かえって、危ない印象を与えると思った。キレると何をするか分からないような感じだった。実際、以前から、津江野にはそういう所がある。

「何の用だよ?」

「お前が、万引きしたコンビニってさあ、俺が喧嘩したコンビニなんだな。あそこのコンビニってバスケ部と縁があるな」

津江野は、大きな声でそう言った。

静かな教室にその声が響いた。受験勉強をしている数人の生徒の動きが一瞬止まった。その後、皆、平静を装っていたが、教室に不自然な静けさが広がっているのが分かった。

「外に出よう」

俺は津江野を連れて学校の中庭に向かった。


二人で中庭のベンチに並んで座った。

「五月の青空はきれいだな」

そう言って空を見上げる津江野を見て、俺は改めて気づいた。

「お前、金髪じゃないか?」

「金髪じゃない。ほとんど金髪だ」

津江野はそう言って、また前歯の無い笑顔を見せた。

「校則違反じゃないか? 注意されるだろう?」

俺が尋ねると、津江野は、こんな話をした。

津江野は、部活を退部になった頃から、少しずつ髪を茶色くしていたが、担任も、生活指導の教師も何も言わないので、徐々にエスカレートして、気づいたら、金髪になっていた。それでも、何も言われない。というより、明らかに見て見ぬ振りをしている。何故だろう? ということだった。俺は、すぐに隣のクラスの情報通が教えてくれた「人数確保」の一環だと思った。校則を緩めているのだ。そして、俺が、退学しなかった事情と合わせて、津江野に説明した。

その説明を聞き終わると、津江野は、

「学校側の事情なんて、どうでもいいから、お前は学校をやめるべきだったんじゃないのか? 今、中途半端だろ!」

と怒鳴った。

俺は、反論できなかった。

すると、津江野が、

「そうは言うものの、もう済んだことだし、いいんじゃないか。それより未来を考えようぜ」

と笑顔で言った。

俺は、津江野ほど頭の回転が速くないから分からなかったが、これは、津江野なりの励ましだった。教室にも、俺を心配して見に来てくれたのだ。ただ、分かりにくいし、誤解を招きやすいと思った。こういう所が、津江野がトラブルを起こす要因だと俺は思った。去年の他校の生徒との喧嘩も、こういう所に原因があったのではないかと思った。


昼休みが終わって、津江野と別れ、俺は自分のクラスに戻った。みんなが、好奇の目で俺を見ているのが分かった。さっきの津江野の「同じコンビニだ」が広まったのだとすぐに分かった。

俺は、いつもはクラスメイトの視線を無視しているのだが、この時は、こう言った。

「あいつが言ったように同じコンビニかどうか確認するのに、今日の放課後、二人でコンビニに行くんだ。興味がある奴は一緒に行こうぜ」

みんな、驚いて自分の席について黙った。

俺も自分の席についた。

俺は、みんなに言ったように、放課後、津江野とあのコンビニに行くことにした。

理由はない。あるとすれば、あまりにも暇だったからだ。


放課後、津江野と俺は、コンビニに向かった。俺たちが問題を起こしたコンビニは駅前にある。学生もサラリーマンも利用する、よく流行っている店だ。俺が、この店で万引きをしようと決めたのは、これだけ流行っている店なら、日頃から、被害も多いだろう。それだけに、万引きに対する対策も厳しいと思ったからだった。要するに、捕まりやすいと思ったのだ。だが、実際は、店員が追いかけてくるのを待つために、俺はゆっくりと夜道を歩かなければならなかった。あの夜の太った男の店員はいるだろうかと、俺は店の近くから店内をのぞいていた。

隣にいる津江野は、

「ZT高校の生徒と店の中で、すれ違いざまに肩がぶつかったんだ。お前ぐらい体の大きい奴だったけど、ここで引けないと思ってさ。あいつが、俺より小さい奴だったら、喧嘩にならなかったかもな。でも、ZT高校って、ちょっと頭いいからって生意気だから、結局、喧嘩になっていたかもしれない」

そう言った。

その話ぶりから、津江野が後悔していることが伝わってきた。

だから俺は、

「もういいじゃないか。行こうぜ。腹が減ったよ。何か食って帰ろう」

と津江野に言った。

そして、俺は思った。俺の場合は、計画性を伴った確信犯であり、しかも、万引きは窃盗だ。れっきとした犯罪なのだ。でも、津江野の喧嘩は衝動的であり、俺ほど悪質じゃない。にもかかわらず、退部になった。俺は津江野が可哀そうになった。

俺は、促すように先にコンビニを離れて歩き始めた。

すると、津江野が追いかけてきて、

「そうなんだよ。飯を食っていくんだよ。そのためにお前を誘ったんだ」

と先ほどとは一転して、いつもの笑顔で津江野が言った。

「コンビニを見に来たんじゃなかったのか? 他に寄るところがあるのか?」

「その通り。部活を退部になったお前の苦労は、同じく部活を退部になった俺にしか分からないからな」

津江野はそう言って俺の前を歩きだした。


コンビニから五分ぐらい歩いたところに、洋食屋がある。古い歴史がある店ではないが、俺が子どもの頃には既にあった。だから最低でも、二十年ぐらいの歴史はある。『洋食屋 かねしげ』という木製の看板が、歳月分の風合いを出している。店の外装も内装も木調で統一されている。俺たちは店に入った。高校生でも気軽に入れる庶民的な店だ。

「いらっしゃいませ」

と年配の男が出迎えた。この男は俺も知っている。子どもの頃、両親に連れられて店に訪れていた時には、いなかったが、いつ頃からか、見かけるようになった。いつ訪れても、白い長袖シャツにネクタイを締めて、ブレザーを羽織っている。真夏でも同じだ。堅苦しい店ではないから、そこまでする必要はない気がするが、いつ訪れても同じ服装だった。俺は昔から、何故か、この男のことが気になっていたから、よく覚えている。ちなみに、他は大学生のバイトばかりで、真夏ならTシャツにジーンズ姿だった。ユニフォームもないのである。店長なのかと思ったが、店長は、子どもの頃から知っている気さくな男だった。店の名前である兼重が店長の名字だった。店長は、接客もして、厨房にも入って忙しく働いている。

「空いているから、お好きな席にどうぞ」

男はそう言った。

男は、いつも髪をきれいに整えていて、顔立ちも良かった。ただ、うつむいていることが多く、顔を上げると目つきが鋭いことが分かった。

俺たちは、奥の席に座った。俺はあの男のことが気になっていた。だが、その後、唐突に、津江野が言った話を聞いて、俺は、驚いてあの男のことも忘れた。

津江野はこう言った。

「バスケ部をクビになって、死ぬほど暇だろ? 俺、今、この店でバイトしてるんだ。お前も働かないか?」

あまりにも唐突だったので、俺は、津江野が、よほど俺のことを心配しているのか、それとも、何かたくらみでもあるのかと疑った。そして、津江野の顏を見た。また笑っていた。上の前歯の抜けた笑顔を見ると、何かをたくらんでいるとは思えなかった。俺は、津江野の言うように死ぬほど暇だった。だから、とりあえず話を聞いてみようと思った。


四.

ZT高校の制服は、グレーのブレザーに男子は紺色のズボン。女子は紺色のズボンとスカートから好きなほうを選べるようになっている。デザインは、おしゃれであり、更に、女子の選択権を考慮している点で、時代感覚がある。それに比べ、GF高校は、男子は詰襟、女子はセーラー服であり、今時、あまり見かけない制服だった。ZT高校は、新設した理数科コースのことでも分かるように、何事においても、時代に乗り遅れないように努力をしている。それに対して、GF高校は、何事においても、時代に乗り遅れている。しかも、五月の今、まだ詰襟を着ることが強制されている。衣替えは六月一日と決まっている。六月一日より前でも、六月一日より後でもいけない。時代に乗り遅れているうえに融通が利かない。いや、融通が利かないから、時代に乗り遅れているのか? 俺は鶏が先か卵が先かのようなことを考えていた。俺も、津江野も、暑いから、詰襟を脱いで、半袖のカッターシャツ一枚になっていた。GFと胸のポケットに刺繡が入っている開襟シャツだった。こういうシャツも今時、珍しい。詰襟は、店の隅にあるコート掛けに吊るしてある。注文はもう済ませた。時刻は夕方の四時だった。


しばらくして、男が、俺たちが注文したスパゲティナポリタンを運んで来た。

そして、ナポリタンの皿をテーブルの上に置いてから、

「ソースがシャツに飛ぶといけないので、こちらを」

と言って、不器用な手つきで紙のエプロンを俺たちに渡した。

それから、すぐにテーブルを離れた。その際、チラッと俺の顔を見た気がした。男は注文を取った時にも俺を見た。

俺は、不思議に思いながら紙のエプロンをつけた。

すると、既にエプロンをつけてナポリタンを食べ始めていた津江野が言った。

「大邨さん。お前のことを、俺が連れてきたバイト候補だって分かってるから、緊張してるんだよ」

「それで俺の顔を何度も見てたのか。あの人、大邨さんっていうんだ。副店長?」

「店長の次のポジションだけど、役職は分からない。店長の親戚か友だちみたいだぜ」

俺も、スパゲティを食べ始めた。そして、食べながら、俺がアルバイト候補と知っているなら、あの男が、直接、俺にバイトの内容を話すなりすればいいのにと思った。


GF高校は、アルバイト禁止であった。アルバイトをしていることが発覚した場合、停学処分になる。例外はない。この過剰な厳しさも、時代に即していない表れだった。

津江野は、俺にアルバイトの説明を始めた。

「俺はこの店の厨房の奥で皿洗いをしている。厨房はフロアーから見えるところにある。でも、皿洗いの場所は、フロアーから見えない。だから、皿洗いのバイトをしていても、学校にバレない。最高だろ! 一緒にやろうぜ!」

津江野は、頭の回転が速い。そして、津江野のように頭の回転の速い人間は、かなりの確率で、せっかちだと俺は思う。

俺は、津江野の顔を見ながら、

「時給とか、バイトの時間帯とか、細かいことを教えてくれよ。そうじゃないと決めようがない」

と言った。

津江野も、自分のせっかちなのに気づいて笑った。

そして、

「大邨さん。お願いします」

と振り返って男を呼んだ。

すると、男がテーブルまで来た。そして、津江野の隣に座った。

「大邨と申します。店長の兼重の代わりにアルバイトの説明をします。採用についても任されているので、条件が合えばこの場で決定できます」

やっぱり、この男が、バイトの説明を担当していて、呼ばれるのを待っていたんだと思った。

「食べ終わってからで、いいのに。津江野君はせっかちだな」

大邨さんも言った。

「GF高校二年生の道村孝次です」

俺は挨拶をした。

「改めまして、大邨政男です。よろしくお願いします」

大邨さんはそう言って頭を下げた。声が低いのが印象的だった。

大邨さんは、俺たちが、ナポリタンを食べ終わってからアルバイトの説明を始めた。

皿洗いは基本的には業務用の食器洗浄機にかける。でも、油汚れのひどいものは、手洗いする。それをやって欲しいと説明した。時間帯は、夕方から閉店の夜十時までだと言った。その時間帯の人が足りないので、今、バイトを探していると言った。時給は〇〇百円。酒も出す店なので、実際に店が終わるのは、深夜近くになることもある。その場合、手当てがつくと言った。

俺は、バイトをしたいと思った。死ぬほど暇だった。しかも、俺は金がない。バイトをすれば、この二つが解消される。まさに一石二鳥だと思った。

「アルバイトをしたいんですが?」

俺は、大邨さんに言った。

「引き受けてくれるかい? ありがたい。皿洗いは結構重労働なんだ。君のような丈夫な若者じゃないと務まらない」

大邨さんは嬉しそうに、そう言ってから、隣に座る津江野を見て、

「津江野君に頼んで良かった。君たち二人のような、いい若者が集まってくれて、私は嬉しいよ」

と言った。

そして、俺は採用になった。俺の出勤日を調整するから、早いうちに履歴書を持って来て欲しいと大邨さんに言われた。俺は大邨さんに頭を下げて店を出た。

津江野も一緒に店を出た。津江野は、今日はバイトに入っていなかった。


「大邨さんが、最後に、俺たち二人のこと、いい若者って言ってたけど、俺たちって、いい若者なのかな? 体力はあるけど、世間的には、いい若者の分類に入らないんじゃないか?」

津江野と並んで歩きながら、俺は言った。大邨の最後の言葉が気になった。

その話を聞いて、津江野は言った。

「出来が悪いから、大邨さんには、いい若者なんだよ。あの店のバイトって、XZ大学の学生ばかりなんだ」

XZ大学はエリート大学だった。

「そうなのか。それを先に言ってくれれば、良かったのに。居心地が悪そうだ」

俺はXZ大学の学生が苦手だった。駅で見かけることがあるが、見るからに頭が良さそうで、おしゃれで、そして、どこか嫌味な感じがした。全員ではないだろうし、俺のひがみ根性も入っているだろうが、それが、XZ大学の学生への一般的な評価でもあった。

「俺も、一人で大変だったんだよ。味方が欲しくて、お前を誘ったんだよ。だから、XZ大学のことは隠してたんだ」

津江野は悪びれもせずに、そう言った。

そう言われると、返す言葉がなかったから、「まあいいか」と俺は言った。

すると、津江野が、今度はこう言った。

「バイトの話が決まったから、もう一つ教えるけど、大邨さんって、昔、ヤクザだったんだ。正式には、元暴力団員だな」

その言葉に俺は驚いた。

「そんな大事な話しこそ、先に教えてくれよ!それも隠してたのか?」

俺は抗議した。XZ大学の学生のことより、はるかに衝撃的だった。元暴力団員とはいえ、かつては暴力団員だったのだ。

「大邨さんのプライバシーもあるだろ? バイトに採用されなかった場合、その人間が、知ることじゃない」

津江野はきっぱりと言った。

確かに、筋は通っている。ただ、俺の立場で考えた場合、どこか不公平な気がした。

「仕事中にぶん殴られたりしないだろうな?」

「そんなことする人だったら、とっくにクビになってるよ。ほぼ普通の人だよ」

「ほぼ?」

「ああ、ほぼだ。ほぼ普通の人だが、普通に戻れないところがある。あの人のトレードマークって分かるか?」

津江野に言われて、俺はしばらく考えた。そして、

「夏でも長袖シャツを着ていることかな。一年中同じだよな」

「その通り。じゃあ、その理由は?」

津江野は、更に尋ねてきた。

俺は、またしばらく考えて、「分からない」と答えた。

「お前なら、分かると思ったけど、意外と世間知らずだな。入れ墨だよ。入れ墨。入れ墨を隠すために長袖しか着られないんだよ」

「あの人、入れ墨を入れてるのか?」

「ああ。背中から、腕までびっしりと。しかも、背中には、弁天様の大きな入れ墨が入ってるんだよ」

「弁天様? お前、見たのか?」

「いや、噂だけだ。見たことはない」

津江野の言葉を聞いて俺は、

「そんなの嘘だよ。どうせ、XZ大学のバイトの学生が広めた噂だよ。元ヤクザっていのも、噓なんじゃないか?」

俺は、急にバカバカしくなってそう言った。

すると、津江野は、

「店長は一年中、Tシャツだろ? 火を使うから店の中はいつも暑い。でも、その店の中で、大邨さんは真夏でも長袖シャツにブレザーだぜ。不自然じゃねえか?」

俺は津江野の指摘に黙ってしまった。

それから、俺は、

「まあ、別にいいや。もうバイトも決めてしまったから。考えても仕方ない」

と言った。本心だった。暇が無くなり、金が稼げるのだ。文句はない。

すると、津江野が、

「さすが、道村だ。部活やめるために、わざと万引きした男だけのことはある」

と言った。

「お前、知ってたのか? 俺、誰にも言ってないぞ」

俺の慌てた様子を見て、津江野は皮肉っぽく笑いながら、

「少し考えれば分かることだ。気づかない奴らが、マヌケなんだよ」

と言った。そして、立ち止まると、

「ほら。俺とお前の人生を変えたコンビニだ」

と言って、あのコンビニを指さした。

俺たちは、コンビニの近くまで戻ってきていた。

「指をさすな。俺を捕まえた店員が気づく」

あの夜、俺を追いかけてきた太った男の店員が、ゴミ袋を持って店の外を歩いていた。

「あの店員に捕まったのか。あいつ、俺が喧嘩した時、俺だけをはがいじめにしたんだ。だから、俺は顔を殴られて、歯が折れた」

「そうだったのか」

「別に、もういいんだけど」

そう言うと、津江野は、俺を見て笑った。

笑うと、やはり、上の前歯の真ん中の一本が無かった。

俺も津江野も、あのコンビニだけでなく、あの店員とも縁があるんだなと俺は思った。

そう思うと、あの店員が憎めなくなった。

それから、大邨さんのことを考えた。

俺たちと同じ年の頃、あの男は、俺たちと同じような平凡な青春を過ごしていたのだろうかと思った。背中に大きな弁天様の入れ墨が入っているのだとしたら、大邨さんの人生が、平凡ではなかったことは確かだと俺は思った。


第二章(ルーディー)

一.

皿洗いの仕事は、大邨さんが言ったように重労働だったが、ずっとバスケットボール部で鍛えてきた俺には、たいしたことはなかった。退部になってから、体を動かしていなかったので、ちょうどいい運動になった。

アルバイトが決まった日の翌々日、俺の携帯に大邨さんから電話があった。「明後日の金曜日からアルバイトに来て欲しい。履歴書を持参して五時前に店に。汚れてもいいズボンと靴も持参して」。これだけ言うと、大邨さんはすぐに電話を切った。大邨さんは電話が苦手なようだった。

俺は、言われた通り、金曜日に『洋食屋 かねしげ』に行った。学校の帰りに少し時間を潰して、そのまま店に行くとちょうどいい時刻だった。でも、念のために、家に帰って学生服から私服に着替えて店に向かった。万引きで退部の次は、アルバイトで停学。さすがに、両親に悪いと思った。津江野は、その日、バイトは休みだった。デートだと言っていたが嘘だ。津江野は緊張して女子と上手く喋れない。デートができるわけがなかった。


店内に入ると、大邨さんではなく店長の兼重さんが待っていた。いつも着ている白い厚手のTシャツにグリーンのエプロンをつけていた。はっきりとした笑顔も印象的だった。仕事中、常に笑顔でいるために、笑顔が固定化された、そんな感じの笑顔だった。店長は俺の履歴書を受け取り、記載事項を確認すると、店内にいる従業員とアルバイトに俺を紹介した。

「GF高校の道村孝次君です。津江野君の紹介で今日から、アルバイトを始めてもらいます。よろしくお願いします。道村君からもひと言挨拶をお願いします」

兼重さんに言われて、

「GF高校二年生の道村孝次です。よろしくお願いします」

俺は頭を下げた。

すると、厨房から、

「津江野君の同級生か。ルーディーがまた一人増えたね」

と男の声がした。XZ大学の男子学生のようだった。

俺は、意味は分からなったが、バカにされていることには気づいた。

でも、何も分からないままのふりをして、もう一度、「よろしくお願いします」とみんなに挨拶した。

これが、津江野だったら意味が分からなくても、怒っていたと思う。だが、俺は、津江野より少しだけ大人だった。

そして、店にいたみんなが、少し俺を認めたようだった。

隣にいた店長が、俺の肩を叩いた。店長を見ると笑顔でうなずいた。


俺は、店から支給された白のコック服を上に着て、下は、部活で使っていたジャージと古いスニーカーに替えて、店長と一緒に皿洗い場に入った。

店長から説明があった。

「最新の食器洗浄機なら、油汚れも皿に焦げついたチーズもあっという間に落としてくれるんだけど、うちの店のは古いから、先に油汚れや焦げついたチーズをたわしで洗わないと、食器洗浄機にかけても残るんだ。だから、汚れた皿をたわしで洗ってください。それから、店が空いている時は大丈夫だけど、店が混んでいる時は、食器の数に限りがあるから、足りなくなってくる。そのため、急いで洗って、食器洗浄機にかけてください。できあがった食器を厨房の食器棚にもどすこと。慌てると食器を落として割ってしまうから、慎重かつ迅速にお願いします」

「慎重かつ迅速にですか? 矛盾している気が」

俺が言うと、兼重さんは笑った。

そして、

「まず、食器洗いの見本を見せるから」

とゴム手袋をつけて大きな流し台にあった皿を洗い出した。

「洗剤はこれを使って、手が荒れるので手袋は必ずしてください」

と説明しながら、チーズの焦げついたグラタン皿を兼重さんはあっという間に洗い終えた。

次に、スパゲティナポリタンの皿を洗った。ケチャップソースと油があっという間に取れた。それから、それらの食器を食器洗浄機にかけた。自動洗浄と自動乾燥が、すぐに完了し、兼重さんは蓋を開けて食器を取り出した。乾燥した食器を厨房の所定の場所に置きに行った。俺も一緒に行った。

その間、俺は、兼重さんを見ながら、違うことを考えていた。

俺の記憶だと約二十年の歴史がこの店にはあるが、その長い年月の中で、兼重さんは、皿を一枚洗うのでも、これだけ早くきれいに洗い上げる技術を習得したのだと思った。それから、たまに店に来ると、店長の兼重さんが、厨房に入り、注文も取り、料理も運んでいる姿を見る。全てが機敏であり、それらも長い年月の中で培ったものだと思った。そこで、俺はふと思った。それにしても、兼重さんの年齢は幾つぐらいだろうかと。見た感じでは、兼重さんは四十過ぎだ。そうすると、店を始めたのが、二十歳過ぎということになる。二十歳過ぎで挑戦するには、この店は、規模が大きいと思う。場所も駅前の繁華な場所にある。テナント料もそれなりにするはずで、その若さでは無理な気がした。かといって、五十を過ぎているようには見えないから、四十代後半ぐらいだろうと思った。兼重さんは、若く見える。そこから更に、大邨さんが兼重さんの親戚か友だちだと津江野が言ったことを考えた。大邨さんは、五十代半ばぐらいに見え、実際にも、そのぐらいの年齢だと思う。友だちだとしたら、同級生ではない。親戚なら、従兄だろうか? 少し歳が離れている。

すると、再び、皿洗いをしている兼重さんから、

「こういう感じで、お願いします」

と俺に、たわしが渡された。

渡された、たわしは、濡れていて生温かった。お湯で洗っているからだった。

俺は、ゴム手袋をつけて、たわしで早速、グラタン皿を洗い始めた。この店は、スパゲティナポリタン、クリームコロッケ、チーズグラタンなどの懐かしい洋食がメインの料理だった。特にチーズグラタンは人気があった。

兼重さんは俺が皿を洗う様子をしばらく見てから、

「じゃあ。ホールに行くから。分からないことがあったら、いつでも、呼んでください」

とホールに向かった。


厨房の奥にある皿洗い場に、一人になった俺は、食器を洗い続けた。そして、元暴力団員の大邨さんを、友だちであれ、親戚であれ、兼重さんが雇うことになったのには、やむを得ない事情があったからだろうと思った。どれだけ仲の良い友だちであっても、あるいは、親戚であっても、自分の店に従業員として元暴力団員を雇う場合、それに伴う困難があるのは、高校二年の俺にも分かった。大邨さん個人の問題もあるだろう。同時に、社会の偏見もあるだろう。しかも、本当かどうかは分からないが、大邨さんは背中に大きな弁天様の入れ墨を入れている。そして、そのために、真夏でも長袖シャツを着なければならないのなら、それだけ強く社会の目を気にして生きていることが分かる。そこから、大邨さんを雇う兼重さんの負担も非常に重いことが分かる。

俺はうつむいて、食器を洗い続けた。そして、

「弁天様の代償は大きい」

と一人、呟いた。


二.

俺の両親は共働きで、俺に兄弟はいない。俺は、自分の家族のことを聞かれるとこう答える。事実だからだ。

でも、意図的に省略していることがある。俺の両親は共働きといっても、それぞれが違う会社に勤めているのではなく、二人で進学塾を経営している。そこの部分を言いたくないから、俺は、共働きという言葉だけしか使わない。俺の両親は、元々、二人とも、中学校の教師だった。父親は数学の教師で母親は英語の教師だった。だから、俺は、元中学の教師の子どもで、今は、進学塾の講師の子どもだった。

この話をすると、誰もが意外な顔をする。俺と勉強とが無縁だという意味で意外なのだと思う。

俺はそれが嫌で誰にも言わないようになった。

それに、俺自身も、自分の親が教育者であることが意外で仕方がない。だから、言わないようにしている。


『洋食屋 かねしげ』に向かう道を少し遠回りすると、雑居ビルがある。そのビルの二階と三階を借りて、両親は進学塾を経営している。小さなビルだから、二階と三階を合わせても、それほどの人数は入れない。少数精鋭、個別指導の進学塾だから、それで良い。小学生、中学生、高校生、浪人生が対象になる。入塾のためのテストがある。俺も小学生の時、塾に入れられた。入塾のための学力テストで点数が足りなかったのに、無理やり入れられた。俺は、子どもの頃から、とにかく勉強をしなかった。元気だったと言えば、そうなのだが、落ち着きがなかった。だから、机に向かうのが嫌だった。父親と母親は、進学塾の講師の子どもである俺に勉強をさせたかった。世間体がある。塾生や塾生の保護者に示しがつかない。だから、何としても勉強をさせようと必死だったが、俺が、全く言うことを聞かないために、いつ頃からか、諦めた。そして、小学校の高学年から、急に背が伸びた俺は、中学校に入って、背が高いからというそれだけの理由でバスケットボール部に入部した。元々、運動神経が良かったから、一年生でレギュラーになった。両親は、その俺を見て、ほっとした。「あの子は、勉強よりスポーツが好きだから、思い通りにさせてやろう」という言い訳が見つかったからだ。

実際に、知り合いに俺のことを聞かれると、

「うちの子は、バスケットボールに夢中で、他のことには関心がなくて」

と父親も母親も、笑顔で話した。

だから、中学の時、バスケットボール部に入ったことは、そういう意味でも、良かったのだと思う。でも、万引きまでして退部になった今、改めて、考えると、俺は何のためにバスケットボール部に入ったのか分からなくなる。


最近、子どもの頃のことをよく思い出す。理由は、バイト先で、XZ大学の学生に囲まれているからだった。そして、そこに津江野の存在があるからだった。

津江野は、今、金髪で前歯が一本無い高校生だ。誰が見ても、かなり危ない青年だ。でも、実際の津江野は、高校はスポーツ推薦ではなく一般入試で進学している。バスケットボール部に在籍していた頃も、かなり成績が良かった。コンビニで喧嘩をして部活を退部になってから、やる気をなくして成績が落ちた。もし、喧嘩をせず退部になっていなかったら、今も、優等生だったはずだ。

XZ大学を目指すことも、以前の津江野なら、必ずしも、不可能ではなかった。その津江野が、バイト先で、XZ大学の学生に直に接するのだ。複雑な気持ちになるのは当然だった。

その姿を見て、僅かだが、俺も複雑な気持ちになる。俺には、XZ大学を目指す学力はない。でも、俺も、子どもの頃は、そうなるように両親から期待を受け、勉強もさせられた。過剰な期待と過度な勉強量だったかもしれない。でも、俺は、その期待を裏切ったことを今になって思い出すのだ。

そして、バスケットボールよりずっと前にも、俺は知らぬ間に、一つの可能性を捨てていたことに気づいた。


俺は、皿洗いのアルバイトに向かっていた。いつもの道ではなく、遠回りをして、両親の塾が入っている雑居ビルの前を通った。二階の窓に『パーフェクト進学研究会』と印刷された紙が貼られている。

「昔の名前のほうが良かった」

俺は、そう呟きながら、塾の前を通り過ぎた。

最初は、『道村進学塾』だった。それが、ある時、『パーフェクト進学研究会』に変わった。両親によると、変更の理由は、気概が伝わらないということだった。


XZ大学の学生から見れば、津江野と俺なんて、何も考えていない人間にしか見えないだろう。でも、実際には、色んなことを考えている。俺が部活を退部になって、両親が一番ショックだったのが、俺が大学もスポーツ推薦で進学できる可能性があったのに、俺自身の手でその可能性を潰したことだった。津江野は勘がいいから、俺がわざと万引きをしたことに気づいた。でも、俺の両親は、俺がわざと万引きをしたことを俺の性格から見抜いた。


「極端な行動を取る時ほど、お前は冷静に何かを考えている」

退部になった日の夜、父親からそう言われた。


俺は、子どもの頃、勉強という可能性を捨て、バスケットボールを選び、今、バスケットボールと、それを通じて見えた未来を自らの手で潰した。

皿洗い場で、次々と運ばれてくる皿を洗いながら、俺は、ずっとそのことを考えていた。今日は、津江野は休みで、店長は外出していた。皿洗い場は完全に俺一人だった。俺の手は止まっていた。一人だと、少しでも、洗う手が止まるとすぐに皿がたまる。

「新入りのルーディー。お仕事の手が止まってるぜ。皿が大渋滞で悲鳴を上げてるよ~」

厨房から皿を運んで来たXZ大学の男子学生が言った。

俺が初めてバイトに入った日に、俺をからかったあの学生だった。縁崎といった。


あの日は、俺は冷静だった。でも、今は違った。深刻に考えているところを茶化されたため、俺は、カッとなった。それに、退部になって以来、鬱積していた思いが爆発した。俺は、たわしを床に投げつけて、縁崎に駆け寄った。まだ部活をやめて間もないから脚力も落ちていない。たわしを投げつけたら、次の瞬間には、俺は縁崎の前にいた。厨房にいた学生は皆、驚いた。縁崎もいきなり俺が目の前に立ったので、驚いた。縁崎は決して背が低いほうではないが、俺が、背が高いため、自然と俺が縁崎を見下ろす格好になった。縁崎は危険を感じた。逃げようとした。だが、俺は、縁崎の胸ぐらをつかんだ。

そして、

「バカにしやがって。俺にだって色々あるんだ!」

と叫ぶと、右の拳で縁崎の顔を殴ろうした。

その時だった。

「やめろ!」

という低い声がした。

大邨さんが、厨房と皿洗い場の境のところに立っていた。俺は無視した。

すると、再び、大邨さんの声がした。

「人を殴って解決するのか?」

俺は、その声を聞いて、動けなくなった。

大邨さんは、いつもと違った。真剣だった。

縁崎は逃げようとしたが、俺が強い力で胸ぐらをつかんでいるため逃げられなかった。

大邨さんが、ゆっくりと近づいてきた。そして、俺の右の拳を両手でつかんだ。それから、

「人を殴っても、後悔するだけだ。殴られた相手は、君のことを恨まなければならなくなる。誰も幸せにはなれない」

と言った。

その言葉に、俺は全身の力が抜け、拳を降ろした。縁崎が逃げた。胸ぐらをつかんでいた左手の力も緩んだためだった。大邨さんは俺の拳から両手を離した。強い力で握られていたため、俺は右の拳が痛かった。

「よく思いとどまった」

大邨さんは俺を見て言った。

「褒められることじゃないですよ。俺のことを殴ろうとしたんですよ!」

縁崎が大邨さんに抗議した。

大邨さんは、縁崎を見て、

「君は、何故、道村君、そして、津江野君をからかうんだ? 君が、エリート大学生だからバカにしているのか?」

そう尋ねた。

縁崎は慌てた。それから突然、

「いえ。違います。違うんです。俺、大学の友だちがいないんです。だから……」

こう言った。

厨房にいたXZ大学の学生たちが、気まずそうな顔をした。中には笑っている者もいた。それに気づいた大邨さんは、XZ大学の学生たちに、「そのまま仕事を続けて」と言うと、休憩室に俺と縁崎を連れて行った。


六月の夜は静かだった。休憩室の窓からは、夜の闇の向こうに国道を走る車の灯りが幾つも小さく見えた。休憩室にはカーペットが敷いてあり、真ん中に小さなローテーブルと部屋の隅にテレビと小さな冷蔵庫が置いてあるだけだった。

俺たちはテーブルについた。

大邨さんは、冷蔵庫から清涼飲料水の缶を二本取り出すと、俺と縁崎の前に置いた。大邨さんは、ブレザーの内ポケットから煙草を取り出した。ショートホープだった。ライターで火をつけ、しばらく煙草を吸った。それから、もう一度、ブレザーの内ポケットに手を入れ、面倒くさそうに携帯灰皿を出して、灰を落とした。

「休憩室も禁煙だが、ちゃんと携帯灰皿を持っているから見逃してくれ」

と言って俺と縁崎に向かって笑った。

俺は、大邨さんの笑顔を初めて見た。人懐っこい笑顔だった。


それから、大邨さんは、言いにくそうな様子で、

「縁崎君に大学の友だちがいないことは、実は、店長も俺も薄々気づいていた。バイト仲間から疎外されているから分かっていた。それで、道村君や津江野君にちょっかいをかける。要するに、かまって欲しいということだ。幼稚なやり方だけど、それだけ、君は、さみしいということだろう」

と縁崎に言った。

縁崎は黙ってうつむいていた。

沈黙が続いた。

俺はたまりかねて、

「余計なことさえしなければ、別に悪い奴だと思わないけど」

と言った。

縁崎が、ようやく話した。

「大学の学生たちの責任じゃないんだよ。俺自身の問題なんだ。大学に入って、しばらくしてから気づいたんだけど、俺、この大学に合ってない。俺、この勉強がしたいんじゃないって思った。それからは、自分と周りとの折り合いをつけるのに必死になった。でも、いつ頃からか、折り合いがつけられなくなった。そしたら、一人になっていたんだ」

縁崎は、先ほどまでの憎たらしい青年ではなく、純粋で哀れな青年になっていた。彼の素顔だった。

大邨さんは、煙草をくわえたまま黙っていた。

俺は、縁崎の話を聞きながら、俺自身のことを言われているように感じた。


煙草を携帯灰皿で消した大邨さんが、

「難しい問題だから、簡単に答えが出せることじゃない。ただ、一つ言えることは、道村君、さっき、縁崎君を殴っていたら、恨みしか残らず、彼が本当はひどく悩んでいることは分からなかった。そのことだけは覚えておいて欲しい」

そう言った。

俺は、その言葉にうなずいた。

窓の外を見ると、国道を走る車の灯りが、先ほどより多く明るく見えた。渋滞しているからかもしれない。だが、遠目には、とても美しく見えた。


三.

俺が縁崎を殴ろうとして、大邨さんに止められたあの日から、数日が過ぎた。店は定休日だったので、津江野と俺は、学校の帰りによく立ち寄るゲームセンターにいた。ゲームセンターには、クレーンゲームとプリクラしかない。客はあまりいない。ゲームセンターなのに静かだ。隣に喫茶コーナーがある。GF高校の生徒は下校時に喫茶店代わりにここに寄る。自動販売機が並んでいて、イスとテーブルが幾つかある。

テーブルについた俺は、あの日、気づいたことがあったと、向いに座る津江野に言った。

それは、ひと言で言えば、人には色んな顔があるということだった。

あの日まで、縁崎は憎たらしい大学生という認識だけだった。そして、大邨さんは、元ヤクザ、本当かどうか分からないが、周囲では、そう認識されているし、俺もそれだけの認識しかなかった。それが、変わった。

縁崎は、真面目な若者であり、そのために、大きな悩みを抱えている。縁崎のもう一つの顔だった。素顔と言っていいかもしれない。大邨さんには、とても優しい顔があることを知った。たとえ、大邨さんが元ヤクザであり、今も、その恐い顔を持っていたとしても、あの日、見せた優しい顔がある。俺は、自分が何も見ていないことに気づいた。

そして、俺は、津江野に語った。

「津江野。お前も、本当は、悩んでいることは知っている。同じバスケットボール部の部員だった時からの長いつき合いがあるからだ。そう考えると、津江野の場合と、縁崎と大邨さんの場合では少し違う気がする。でも、人には色んな顔があるという点では三人とも同じだ。そして、俺は、人というものを、あまりにも知ろうとしていないことに気づかされた。大邨さんが、人を殴っても後悔しかしない。恨みしか残らないと言って俺を止めてくれたんだ。俺は、大村さんに感謝している」


俺は普段、あまり喋らない。でも、話す時はよく話す。ただ、冗談はあまり言わないし、熱く語る傾向がある。それを笑う奴が結構いる。でも、津江野は真面目に聞いてくれる。だから、安心して話ができる。

今も、津江野は、

「大邨さんは、いいこと言うな。俺もコンビニで喧嘩をする前に、その話を聞いていたら」

とやや深刻な表情で答えた。

そこで、俺は津江野に、

「そのことは、もう忘れようぜ」

と言った。

すると、津江野は次にこう言った。

「大邨さん自身は、後悔するほど人を殴ってきたのかな? だとすれば、それだけ多くの人に恨まれているのだろうか?」

俺は、津江野の話に内心、幾らかのリアリティを感じたが、こう言った。

「大邨さんが、ヤクザかどうかなんて、誰も本当のことを知らないのに、憶測だけで色々言うのはやめようぜ」

「じゃあ、一年中、長袖を着ているのはどうなる?」

と津江野は言った。

俺は黙るしかなかった。

津江野が、

「すまん。道村に聞いても分かるはずがないのに」

と謝った。

「この話はやめようぜ。堂々巡りみたいになる」

俺はそう言った。津江野もうなずいた。

そして、二人とも席を立とうとした。


そこに、GF高校の女子生徒が何人か入ってきた。

顏だけ知っている同級生ばかりだったが、一人だけ顔も名前も知っている生徒がいた。

元女子バスケットボール部の加辺真気だった。

「加辺。膝の調子はどうだ?」

俺は、声をかけた。

他の女子生徒が、俺と津江野を見てヒソヒソ話をした。それから、クスクス笑いをした。特に意味はなかった。

加辺は、他の生徒に何か話した。すると、他の女子生徒は俺たちから離れたテーブルについた。加辺は俺たちのテーブルについた。

そして、すぐ俺に向かって、

「道村君こそ、大丈夫なの? 高校二年になってから、非行に目覚めたの? だったら、随分、遅咲きよね」

と言った。

加辺は、俺の万引きのことを言っていた。万引きをした俺に怒っているのだった。加辺は正義感が強い。加辺真気は、津江野が暴力沙汰で部活を退部になったのと同じ頃、練習中に、膝の靭帯を断裂してバスケットボール部を退部した。膝の手術は成功して、日常生活には支障がないが、激しい運動はできなくなった。津江野や俺の場合と違って、怪我による退部だから同情されるべきものだった。

「加辺。道村にも、色々事情があったんだよ。俺に免じて許してやってくれ」

津江野が、そう言って歯の無い前歯を見せて笑った。

「万引きにどんな事情があるのよ。でも、まあいいよ」

加辺は津江野の間の抜けた笑顔を見て、そう言った。


俺は、津江野の笑顔を見て、思い出しことがあった。

津江野は、女子と話をするのが苦手だが、例外的に、加辺とは気軽に話ができることだった。その理由は、加辺にあった。二人が、まだバスケットボール部に在籍していた頃、加辺は、度々、男子バスケットボール部の練習に参加して、男子と一緒に練習していた。その時、津江野ともよく話をしていた。だから、今、こうやって津江野は加辺と気軽に話ができる。加辺が、男子の練習に参加することには、女子の部員の大部分が反対していた。男子と一緒に練習することに反対していたわけではなかった。長身で運動量の多い男子と練習することには利点もある。女子が反対したのは、男子と女子では顧問の教師が違い、練習方法も試合のプレースタイルも大きく違ったからだった。それでも、加辺は男子の練習に参加した。その必死さに、男子、女子両方の顧問の教師も、やめろと言えなかった。加辺は常に必死だった。俺のように、高校に入ってから、バスケットボールをやっている意味が分からなくなった人間から見ると、異様に思えたほどだった。加辺自身は、バスケットボールを上手くなりたいと思って必死になっているだけだった。だが、俺と同じように、異様に思った人間が他にもいたし、もっと大多数の人間は、ただ目立ちたいからだろうと思って加辺を見ていた。特に女子の部員から、冷ややかな視線が送られていた。加辺は、髪を非常に短くしていた。男子と一緒に練習していると一瞬、男子と見間違えるほどだった。ただ、加辺は背が低い。バスケットボール選手としては、致命的に背が低かった。だから、男子の部員の中にいると極端に背が低くなるから、少し見ていると、女子だと分かった。背も低いし骨格も違う。加辺は背の低さを何とかカバーできないかと必死で男子と練習していたのだ。だが、それが誤解を招き、その誤解を解くために、加辺は、更に男子に混じって練習した。

俺は、加辺のようなタイプが元々苦手だった。特に、俺自身が、バスケットボールを続けていくかどうかで悩んでいた時だったから、はっきり言って、鬱陶しかった。

だが、ある日のことだった。俺たち男子が練習していると、隣の女子が練習しているコートで、騒ぎが起こった。加辺が膝を抱えて倒れていた。女子の顧問が加辺を車に乗せて、急いで病院に向かった。それが、俺が、コートの上で見た加辺の最後の姿だった。その後、加辺は手術を終え学校に戻ってきてが、バスケットボール部には退部届を出した。それからも、学校が終わるとすぐにリハビリのため病院に通い続けた。

加辺が膝の靭帯を断裂したことにより、彼女は身長が低いことをカバーしたくて男子と一緒に練習していたのであり、決して、目立ちたかったのではないと、ようやく誤解が解けた。

「真面目にやってただけなのに、誤解してて悪かった」

俺に、そんな女子の声が聞こえたことがあった。

だが、俺は、あの時、むきになって男子との練習を続けた加辺自身が、自分の膝に過度な負担をかけたことも怪我の大きな要因だと思った。だからといって、加辺が悪いということではなかったが、そこが、加辺の人間的な課題だと俺は思った。そして、他人のことだと、冷静に分析できるのに、俺がバスケットボールをやっている意味すら分からなくなったのは何故だろうと、その時、考えたことを今、思い出したのだった。


「道村? 聞いてるか? 今度、三人で映画見に行かないか?」

津江野の声に、俺は我に返った。

「今、やってる映画で、人の希望を食べ続けて、どんどん大きくなっていくモンスターの話があるでしょ? あれが見たいのよ?」

加辺が言った。

俺は加辺の顔を見た。相変わらず正義感と負けん気の強い顔をしていた。ただ、髪の毛は以前のように極端に短くはなくなった。加辺は平均的な女子のショートカットになり、普通の女子生徒に見えた。

俺は言った。

「映画を見ている間に、必ず、寝てしまうんだ。だから、二人で行ってくれ」


二人は、俺も一緒に行けばいいのにと言った。そして、津江野のスマートフォンで映画の宣伝を見ていた。俺は、ふと思った。俺のバイトの初日に、津江野がデートだと言ったのは、嘘ではなくて、加辺と遊びに行ったような気がした。だから、映画には一緒に行かないと言った。それに、離れた席にいる加辺の友だちの女子生徒たちが、津江野と加辺が、楽しそうにスマートフォンを検索しているのを見て、ヒソヒソ話をしていた。このヒソヒソ話には意味があると俺も思った。

俺は、二人を置いて、一人、ゲームセンターを出た。そして、駅に向かった。加辺の髪が少し伸びたことで、彼女からバスケットボールの匂いが消えたことに俺は気づいた。この前、バイト代が入った。俺も、使い古したバスケットシューズをスニーカー代わりに履くのをやめて、普通のスニーカーを買おうと思った。そうすれば、バスケットボールを少しでも過去のものにできる気がしたからだった。そして、俺は、電車に乗って街へ向かった。


四.

使い古したバスケットシューズを普段履きにしている。バスケットシューズに限らず、競技用のスポーツシューズは高価だ。底が擦れてバスケットシューズとしては使えなくなっても、すぐに捨てるのはもったいない。だから、普段履きにしている。でも、最近、バスケットシューズを履いていると違和感を覚える。万引きをして退部になった時に、履くのをやめようかと思った。だが、部活は退部になって、学校は退学にならなかった中途半端な気持ちを反映してか、そのまま履き続けた。それが、アルバイトに慣れるに従って、違和感を覚えるようになった。

そして、先ほど髪が伸びた加辺真気を見て、俺も、靴を買い替えようと思った。

バスケットシューズを履くのをやめれば、バスケットボールを少しでも過去のものにできるかもしれないと思ったからだ。


電車を降りて、駅の改札を出ると、大きなチェーン店の靴屋に向かった。スニーカーから紳士婦人用の革靴、そして、子ども用の運動靴まで何でも売っているどこの街にもある靴屋だ。俺は今まで、こういう靴屋で靴を買ったことがない。いつも、学校の近くにある競技用品を専門に取り扱っているスポーツショップを利用していた。陸上、野球、サッカーのスパイク、そして、バスケットシューズも、ファッションではなく競技用のものが置いてある専門店だった。店員に相談して、じっくりと選ぶ必要があり、時間も金もかかる店だ。だから、入るには、それなりに覚悟のいる店だった。そのため、前から、そういう覚悟を強いられることのない気軽に靴の買える店に入りたいと思っていた。俺は、チェーン店の靴屋に入って、一人でスニーカーを選んでいた。店員に相談するといっても、サイズの合うスニーカーはないかと尋ねるだけだ。後は、「お似合いですよ」と店員が褒めるだけだ。どのスニーカーを試しに履いても、「お似合いですよ」と言う。いい加減と言えば、そうだが、バスケットシューズを選ぶ時にあった、もしかしたら、このシューズを選ぶことが、次の大会の勝敗を左右するかもしれないといった緊迫感がないのが楽だった。俺は、白のシンプルなデザインのスニーカーを買った。バスケットシューズは色やデザインに目立つものが多く、以前から、こういう素っ気ないぐらいシンプルなスニーカーを履いてみたかった。そして、それまで履いていたバスケットシューズは靴屋に引き取ってもらって、新しいスニーカーで街を歩いた。新しい靴を買った喜びと新しい靴を履いて歩く喜びはあったが、バスケットボールを過去のものにできたようには思えなかった。中学校から高校二年までの長い年月を費やした日々が、靴を履き替えるだけでリセットされることはなかった。


俺はそのまま、しばらく歩いて、おしゃれなカフェに入った。一度も入ったことのない店だった。俺は、普段ゲームセンターの喫茶コーナーかハンバーガーショップにしか行かない。店員が、GF高校の開襟シャツを着た高校生が入ってきたので、しばらく見ていた。男子高校生が一人で入る雰囲気の店ではなかった。奥の席に通された。アイスコーヒーを注文した。少しして、アイスコーヒーが運ばれて来てテーブルの上に置かれた。薄い水色のグラスに水滴が沢山ついていた。俺は、自分の習慣を変えてみようと思った。スニーカーに履き替えただけでは変わらないのなら、他にも、やってみようと思った。そして、カフェに入ったが、やはり、何かが変わったとは思えなかった。でも、別にかまわなかった。


スニーカーに履き替えてから日が過ぎた。俺に変化はなかった。七月に入り、俺ではなく周囲に変化が生じた。縁崎が変わった。というより、本来の自分を取り戻した。以前と違って落ち着いている。津江野や俺をからかわなくなった。そして、卑屈な感じが消えた。自然とXZ大学の学生から疎外されることもなくなった。そのためか、津江野や俺も、XZ大学の学生とつき合うようになった。改めて、彼らと話をするようになって気づいたことは、XZ大学の学生は、常に何かを恐れているということだった。何かとは、社会のエリート階層からふるい落とされることへの恐怖だろうか? 俺には、そんな気がした。

俺は、両親の指導する塾に通う生徒は、自ら進んで、ふるい落とされることを恐れるゲームへ参加するプレーヤーになりたいように思う。そのために、わざわざ、塾にまで通う。塾ではプレーヤーになるためのトレーニングをする。俺の両親はトレーナーだ。俺は、両親を教育者ではなく調教師のように思った。二人は、理想の教育を求めて中学の教師をやめてまで塾を開いた。だが、両親の思いとは違い、二人は、教育者ではなく調教師だったとしたら? 俺は奇妙な感覚に襲われた。


ある日の晩だった。

俺は、両親と夕食をとっていた。俺がバスケットボール部に所属していた頃、両親と食事をとることはほとんどなかった。両親は夜間に塾で生徒を指導している。俺も夜遅くまで練習だった。だから食卓を囲むことはほとんどなかった。だが、部活をやめてから、俺が、バイトの休みの日、食事をともにすることがある。

その時だった。父親が唐突に言った。

「孝次の同級生に、女子バスケットボール部を怪我で退部した加辺さんという生徒がいるだろう? 最近、彼女が、うちの塾に入ったんだ。一生懸命に勉強している。彼女は伸びる」

父親は、だから、俺にも塾に入れという意味で言ったのだが、俺は、それより、加辺真気が、両親の塾に入ったことに嫌な感じがした。嫌な感じとは、自分の家の庭をのぞかれているような感じだった。

「沢山、塾があるのに、わざわざ、同級生の親がやっている塾になんて入らなくていいのに」

俺は、呟いた。加辺真気に対して呟いたつもりだったが、

「うちの塾が一番いいって選んでくれたんだから、誇りに思いなさい。問題を起こして退部になった後、すぐに学校に禁止されているアルバイトを始めて。本当に退学になりたいの? 怪我でクラブを続けられなくなったら、次は勉強に切り替える。あなたも、加辺さんを見習いなさい」

と目の前の母親に説教をされた。

俺が、津江野に誘われてバイトを始めた時、両親には何も言わなかった。しばらくしてから、バイトをしていることを伝えた。事後承諾だった。両親は、本当はアルバイトをやめさせたかったが、万引きをして退部になったばかりの俺を刺激しないほうが良いと考え何も言わなかった。あれから時間が経ち、不満が噴き出してきた。

そこで、俺は、

「『パーフェクト進学研究会』の塾の名前からでは、俺の両親の塾だって、加辺も知らなかっただろ? 講師が道村って聞いてから、俺の父さんと母さんだって分かってビックリしてただろ?」

と話を逸らせた。

父親は、

「そうなんだ。道村君のご両親って、この塾の講師なんですか? 以前は中学校の先生だったんですかって驚いていたよ」

と喜んで言った。

母親もすぐ、

「中学校の教師だったことに、より信頼を抱いてくれたみたいよ。中学校をやめてまで塾を開いたんですかって」

そう言って自慢した。

俺は、両親のことを教育者ではなく調教師だと考えていた時だったので、両親が喜んで話す姿を複雑な気持ちで見た。それから、加辺真気も、津江野と同じで、スポーツ推薦ではなく一般入試で進学していたことを思い出した。でも、加辺真気なら、スポーツ推薦だったとしても、うちの塾に入っただろうと思った。

髪を少し伸ばして、バスケットボールの匂いは消えたが、頑張り屋であることは、変わらないと俺は思った。この前、津江野と一緒に三人で話した時、加辺真気は、少しは変わったのかと思ったが、人間の本質はそんなに簡単に変わるものではないと俺は改めて思った。


俺と同じバスケットボール部をリタイアした加辺真気が、目標を進学に切り替えたことは、やはり、気になることだった。俺は、進学するつもりはない。どこに行くのか分からないまま、とりあえず、『洋食屋 かねしげ』に居場所を見つけた俺だが、それも借りの居場所だ。この先のことは何も見えていない。だから、父から加辺真気の話を聞かされて僅かだが動揺した。


七月に入ってから、皿洗い場が蒸し風呂のように暑い。汚れた食器を洗うためのお湯が、狭い皿洗い場の温度と湿度を上げ、蒸し風呂のようになっている。

俺と津江野が並んで汗だくになって皿洗いをしている時だった。

暑さを紛らわすため、俺は津江野に尋ねた。

「前に、加辺と見に行くって言ってた映画には行ったのか?」 

すると、津江野は、

「ああ。行った」

と答えた。

「面白かったか?」

俺が尋ねると、津江野は、

「ああ。面白かった。それに、映画の帰りに、俺、『パーフェクト進学研究会』に入ったんだ」

と言った。

俺は驚いた。でも、津江野は、加辺真気と違って、『パーフェクト進学研究会』が、俺の両親の経営する塾だと以前から知っている。

だから俺は、

「俺の両親のやってる塾だって知ってて入ったのは、加辺に誘われたからなのか? 父親から聞いたんだよ。加辺が、塾に入ったのを」

と尋ねた。

すると、

「勉強をするきっかけが欲しかったんだ。このままじゃダメだってずっと思ってた。だから、映画の帰りに加辺真気から、お前の両親の塾に通い始めたって聞いて、俺も行こうって決めたんだ。だから、誘われたわけじゃない」

津江野が言った。

皿洗いの手を止めて、そう語る津江野の横顔は、金髪で前歯が無くなっていても、それ以前の優等生の頃の津江野の表情に戻っていた。俺は、津江野の横顔を見て、加辺真気と同じで、自分の目標を進学に決めたのだと思った。

スニーカーに履き替えてから、偶然にせよ、周囲の人間に次々と変化が生じたことによって、俺自身は取り残されたようになった。前に進むはずが、後退している気がした。

「津江野。頑張れよ」

俺は、そう言った。

それだけしか言えなかった。


五.

加辺真気と津江野が、両親の塾に入ったことを知ってから、取り残されていく感じに、俺は焦りを覚えていた。夏休みに入る前のそんな日だった。その日はバイトもなく、帰って少し休もうと考えながら、体育館の近くを通った。俺は、蒸し風呂状態の皿洗いに疲れていた。退部になって以降、俺はできるだけ体育館に近づかないようにしていた。男子、女子両方のバスケットボール部が練習しているからだった。今も怒っている男子部員がいる。そして、女子部員の好奇の目に晒されることが分かっていて、体育館には近づけない。それに、俺自身、部活をやめたことに後ろめたい気持ちがあった。だが、その日は、加辺真気と津江野のことを考えていて、つい、体育館の近くを通った。

すると、体育館のほうから大きな声がした。

「道村!」

バスケットボール部二年生の江田沢だった。

江田沢は、バスケットシューズのまま体育館を飛び出し、俺のほうに向かって走ってきた。

「大きな声を出すなよ。みんなが見てる」

目の前にまで来た江田沢に言った。

江田沢が振り返ると、体育館の入り口に男女両方の部員が集まって、こっちを見ていた。

「すまん。場所を変えよう」

江田沢が言った。

江田沢は、背は俺と同じぐらい高く、技術的にも、江田沢にかなう選手はいない。江田沢は中学生の時に、この街に転校してきた。俺たちの街の人間は、大部分が、中学校の部活動からバスケットボールを始めるが、江田沢が生まれた街は、バスケットボールが盛んで地域にクラブがあり、小学生の時から既に本格的にバスケットボールを始めていたので、その差は大きかった。俺は中学生の時、他の中学にいた江田沢を地元の大会で見て、動きのスムーズさに驚いた記憶がある。江田沢は、レッグスルーやバックチェンジといったテクニカルなドリブルを多用する。フリースローも確実に決める。フリースローを外すと味方の選手が落胆する。大きな落胆ではないが、軽い失望がある。江田沢はフリースローを外さない。皆の期待を裏切らないのだ。ただ、江田沢がフェイクパスをする時、あまりにも巧妙なため、相手のチームの選手だけでなく、味方のチームの選手も、江田沢が誰にパスを回してくるか分からず、パスを受けられないことがある。そんな時、江田沢は、冷たい目でパスを受けそこねたチームメートをにらむ。その時、顧問より怖い存在だとみんなが思う。江田沢はそんな奴だった。その江田沢が、こんな風に大声を出して走ってくるのは珍しい。江田沢は常に冷静だからだった。


そして、中庭のベンチに座った。江田沢は俺の隣で、Tシャツにバスケットボール部のグリーンのジャージをはいていた。

「道村。お前が退部になってからずっと考えてたんだけど、やっぱり、分からない。お前、これからだったじゃないか?」

江田沢は真面目な表情で俺に聞いた。普段の少し人を見下した感じで話す江田沢とは違った。

俺は、いい加減に答えられないと思いながらも、

「これからって、何のことだよ?」

と聞いた。江田沢の言っていることが分からなかったからだ。

「お前。忘れたのか?」

江田沢は俺の言葉に驚いた表情になり、

「春の大会の予選のことだよ。YA高校との試合だよ」

と続けた。

俺は江田沢に言われて、ようやく思い出した。


俺は忘れていたのだが、春の全国大会の地区予選で、俺たちの学校は、YA高校と試合をした。YA高校は全国大会に何度も出場している強豪校で、GF高校は、YA高校戦で連敗記録を更新し続けていた。

地区予選は、海の近くにある地元の体育館で行われた。三月中旬の暖かい日で、試合前、俺たちは、近くの浜辺に行って小さなカニをつかまえたり、子どものように砂の城を作って波に崩れるさまを見たりして遊んでいた。一回戦でいきなりYA高校にあたるので、負けてすぐ帰ると思っていたからだった。

試合が始まった。YA高校の選手は体格が違った。高校生には見えない筋肉質な体だった。

予想通り試合開始から、YA高校の一方的な攻撃が続いた。相手の五人はコートを広く使った。動きに余裕があった。鋭いパス回しでボールを触ることもできなかった。個人技も上手かった。ドリブルもボールが手に吸いつくようで、フェイントをかけられるとあっさり抜かれてしまう。そこから、YA高校の選手は、ドリブルシュートへ、あるいは、スリーポイントシュートへと自在にシュートを打ち分けた。

GF高校のチームは、一年生の江田沢と俺の二人がスタメンに入っていた。顧問の教師が、江田沢と俺にYA高校の強さを経験させるために選んだのだった。だが、経験の少ない二人を出場させるということは、負ける前提だということでもあった。

上級生は完全に諦めていた。そして、俺も諦めていた。試合前に浜辺で砂の城を作っていたのは俺だった。

でも、江田沢が言った。

「最初から諦めているから負けるんだ!」

上級生はその言葉にはっとしたが、動きは変わらなかった。

でも、俺は、江田沢の言葉に反応した。頭ではなく体が勝手に反応した。

江田沢だけ、YA高校の動きについていけていた。だが、江田沢一人ではどうにもならない。そこへ、俺が加わった。江田沢が、YA高校の速いパスをカットすると、ドリブルで速攻をかけた。俺も走った。江田沢と俺の速攻には、YA高校の選手も追いつくのに必死だった。俺に江田沢からの高速のパスが投げられた。速すぎてボールを受けると両手が痛いほどのパスだった。YA高校の選手がすぐ俺のところに来る。もたついていると、YA高校の選手にタイトなディフェンスをされて動けなくなる。俺はすぐスリーポイントシュートを打った。ボールは綺麗な弧を描きバスケットリングにあたらずゴールした。ボールがネットを通過するシュッという音だけがした。その音からスウィッシュと呼ばれる気持ちのいいゴールだった。一瞬、コートが静まり返った。YA高校の選手が、俺を見た。みんな、江田沢のことは知っていた。だが、俺のことは知らなかった。

GF高校には、江田沢の他に、もう一人、道村という選手がいる。

この試合から、GF高校の道村孝次としてだけでなく、将来有望な選手として江田沢と並んで、俺の名前が広まった。

試合そのものは負けた。

江田沢と俺の二人だけで、YA高校の五人と戦った試合だった。勝てるはずがなかった。

だが、勝敗以上に意味のある試合だった。

YA高校の選手だけでなく顧問の教師も、試合後、江田沢と俺に握手を求めに来た。

そんな試合だった。


にもかかわらず、俺は、今、江田沢に言われて、ようやく、その時のことを思い出した。何故、忘れていたのだろう? 俺のバスケットボール人生最大の出来事なのに?

俺は、そのことを不思議に思いながら、

「思い出したよ。でも、もう退部になったから、過去のことだ」

そう言って、俺は、ベンチを立とうとした。

すると、江田沢が、

「何故、バスケットボールを捨てたんだ?」

と言った。

俺は、

「大袈裟だよ。それに、今さら、何を言っても仕方ない。じゃあ、俺は行くぜ。お前も練習に戻れよ」

とベンチを立った。

江田沢は俺の背中に向かって、

「お前には十分なポテンシャルがあったのに、いつも全力を出さなかった。それが、あの日の試合で、お前は初めて本気を出した。俺は、お前が本気を出してくれれば勝ち続けられると思った。俺とお前を軸にしてチームを新しく組み立てれば、これから、もっと強くなる。そう信じてたんだ。お前だって、あの日、自分が持っている力がどれぐらい大きいか分かっただろ? それなのに、何故、わざと退部になるように万引きをしたんだ? 教えてくれ? お前に何があったんだ?」

そう叫んだ。

俺は、振り返った。津江野だけでなく江田沢も、俺の万引きの真相に気づいていた。

江田沢は真剣な顔をして立っていた。俺は、江田沢の話を聞きながら、俺自身も気づいていない重要な問題を指摘されている気がして、言葉が出なかった。

『バスケットボールを捨てた……』

俺は何も言わず逃げた。みっともないとは分かっていたが、江田沢にどう説明していいか分からなかった。俺自身、混乱していたからだった。

俺は、いつもの出入口とは反対にある、自転車置き場の自転車用の出入口から外に出た。俺は、試合前に浜辺で遊んでいた俺と、試合後の俺が変わったことを江田沢の話から今、気づかされた。そこに俺の分岐点があったのか? 分岐点はコンビニの万引きではなかったのか? だとすれば、俺は大きな思い違いをしているのだろうか? 加辺真気と津江野の入塾への焦りは、そのことと関係があるのだろうか? そもそも、俺は、何故、万引きをしたのだろう? 楽になれるはずだったのではないのか? だが、今の俺には、万引きをする前に想像していたのとは違って、大きな迷いがある。俺は逃げるしかなかった。


第三章(パーフェクト)

一.

子どもの頃、両親が思い詰めている姿を見た。中学校の教師をやめて塾を開く時のことだ。人は思い詰めている時、既に答えは出ているのだと、俺は、その時の両親を見て思った。二人は既に中学校をやめて、塾を開く結論が出ていた。でも、現実の問題がそれを許さなかった。現実とは、主に経済的な問題である。今の俺には、あの時、両親が何故、思い詰めていたのかが分かる。俺と違って頭のいい二人だ。公立の中学の教師として共働きをして得られる十分な収入と、安定した生活を捨てることの意味は頭では分かっていたはずだ。でも、頭で分かっていることと、実際に経験することは違う。つまり、両親は、どうしても、経験したかったのだ。たとえ、一人息子を平均より裕福に育てられる環境を捨ててでも、塾をやってみたかった。二人同時に公務員の職を捨ててでも、塾をやってみたかった。その結果、収入が大きく落ち込んで、生活が不安定になると分かっていても、やりたかった。何故なら、頭で分かっているだけでは、人はどうしても納得できないことがある。実際に、やってみて、初めて納得することがあるからだ。時に、人には、そういう抜き差しならない状態があり、それが思い詰めることだと、子どもの頃、俺は思った。そして、俺は、両親のように思い詰めることの無い人生を送ろうと決めた。思い切って、中学の教師をやめて、塾を始めて以降の両親の苦労を見て、そう決めた。俺自身も、急に生活が苦しくなったことを、身をもって知っている。だから、思い詰めることの無いように心がけてきたはずだった。それが、高校二年生の五月に万引きをした。バスケットボールをする意味が分からなくなった。そして、どうしていいか分からず、思い詰めた結果、万引きをして部活を退部になった。両親の塾の開校と比較するのは不適切かもしれないが、俺は、万引きをすれば、退部になり、退学になると頭では分かっていた。そのために、万引きをしたのだ。でも、現実には、学校側の事情で退学にはならなかった。しかも、部活は退部になったが、果たして、それで良かったのか分からなくなってきた。塾を開いてからの両親と同じだと思う。

俺も両親も、予想と違う結果の連続に戸惑いながら生きているからだ。


夏休みに入った。俺は、そんなことを考えながら、皿洗いをしていた。加辺真気と津江野が両親の塾に入ったことは、次第に気にならなくなってきた。頑張り屋の加辺真気は、バスケットボールができなくなったら、その努力を勉強に向けることは自然のことだからだ。津江野も、本来、優等生であって、金髪にしたのは部活を退部になってからである。だから、津江野もこうなるのが自然だと気づいたからだった。ただ、江田沢の話は、ずっと気になっている。現実に、バスケットボール部を退部になってから、あんな話をされても、今更、どうしようもないと思うが、それでも、引っかかるものがあった。


俺は昼間の時間帯にもバイトに入っている。夏休みだから、夜だけでなく、昼もバイトに入るようになった。店長の兼重さんから頼まれた。夏休みは、XZ大学の学生の中で下宿生が帰省するため、バイトの数が減る。そうなると、地元のXZ大学の学生と俺と津江野しかアルバイトがいなくなる。そのため、臨時のアルバイトの募集をして、既に何人か働き始めた。まだ増やすということだった。津江野が、『パーフェクト進学研究会』に通い始めたため、皿洗いのバイトが俺一人になる日が増えた。皿洗いには、新しいバイトではなく縁崎が入った。

「俺が手伝うよ」

縁崎はそう言って、皿を洗い始めた。

「ありがとう。助かるよ」

俺は、縁崎に礼を言った。そして、縁崎の変化を改めて感じた。

並んで皿を洗いながら、縁崎が、

「津江野は塾に通い始めたから、バイトに入れないって店長から聞いたけど?」

と言った。

「元々、進学するつもりだったんだ。色々とあって、ちょっとやる気をなくしてたんだけど、また、やる気になったんだ」

俺がそう言うと、

「それは良かった。二年生の夏休みからなら十分に取り戻せる。で、塾はどこに行ってる?」

縁崎は尋ねた。

俺は、少しためらいつつ、

「パーフェクト進学研究会っていう小さな塾。縁崎さんは知らないだろ?」

と言った。

「有名だよ。XZ大学の学生にも受験の時、通ってた学生がいるよ。俺も、同級生から誘われて違う塾に入ったけど、その前には、パーフェクト進学研究会に行こうかと思ってたんだ」

俺は、縁崎の話を聞いて、地元の進学塾の中では、両親の塾は有名なのだと改めて知った。

「でも、パーフェクト進学研究会はハイレベルな指導をすることを塾の方針にしているから、遅れを取り戻したい津江野はついていけるかな?」

縁崎は呟いた。

実は、俺も、そのことを心配していた。だが、津江野は、そのことを知った上で塾に入ると言った。それに、同級生の加辺真気もいるから大丈夫だと、俺は何も言わなかった。でも、加辺真気も含めて大丈夫だろうかとも思った。俺が、黙って二人のことを考えながら皿を洗っていると、

「そういえば、パーフェクト進学研究会って夫婦でやってるんじゃなかったかな? 二人とも元教師だった気がしたけど。道村、知ってる?」

と縁崎に聞かれた。

一番、聞かれたくない質問だった。だから、塾の名前は出したくなかった。俺は、どう答えようか迷っていた。すると、大量の使い終わった食器が運ばれてきたので、その質問には答えずに済んだ。助かったと思った。その代わり、縁崎が夕方からバイトに入ったその日は、夏休みの中で記録的に忙しい日だった。だから、俺たちは、それから、深夜近くまで、ひと言も会話を交わす暇もなく皿を洗い続けた。仕事が終わって、ゴム手袋を外そうとすると、汗でゴム手袋が手に密着して外せなかった。そのため、縁崎が俺のゴム手袋をはがし、俺が縁崎のゴム手袋をはがして、ようやく、俺たちは、皿洗い場を後にした。


縁崎と皿洗いをするようになって、縁崎が何に悩んでいるのかを知った。縁崎が、大学に入って自分のしたい勉強ではなかったと前に言ったのは、当然だった。何故なら、縁崎は文学部に入って英米文学の勉強がしたかったのに、経済学部に入ったからだった。でも、事情を聞くと、やむを得ない気もした。俺の家も経済的な余裕がないが、縁崎の家も一人っ子の縁崎を大学に進学させるだけで精一杯だった。進学に際して、縁崎が、英米文学を研究するために文学部に進みたいと言うと、両親から就職の役に立つのか? と問われた。縁崎はどう答えていいか分からなかった。就職のために大学に進学するのではないと思ったからだった。縁崎は正しい。だが、両親から、苦しい家計から学費を捻出して進学させるのだ。就職に役に立つ学部に進んでくれ。卒業したら安定した会社に就職して二人を安心させてくれと言われた。縁崎はその言葉を聞いて、文学部をやめて経済学部を受験した。経済学部に合格し、就職のためと割り切って大学に入学したが、勉強をするにつれ、これは違うという思いが強くなり、次第に周りの学生からも孤立するようになったのだと俺に教えてくれた。


俺は、縁崎の話を聞いて、金というものが、人生に与える影響の大きさを改めて考えた。俺の両親も、理想を抱いて中学の教師をやめてまで塾を開いた。経済的に苦しくなることは覚悟していた。でも、現実はそれ以上に過酷だった。俺は覚えている。両親が教師の頃、休日には俺を連れて遊園地に行ったり、動物園に行ったりしたことを。だが、塾を始めてから、俺はどこにも遊びに連れて行ってもらえなくなった。遊園地に遊びに行く金もなくなった、ということではなくて、年中無休に近い状態で働き続けなければならなくなったということだった。両親には申し訳ないが、俺は、その生活の変化を考えるたび、「貧乏暇なし」という言葉が思い浮かぶのだった。


縁崎は、あの日、大邨さんの熱い思いに触れて、生き返ったと言った。孤立する中で、生きた心地を失っていたのが、全身に再び、血が通った気がしたと。ただ、経済学部で学ぶことへの疑問は解決していないと言った。「一辺に何もかも解決はしないな」と隣で皿洗いをしながら、縁崎は苦笑いした。

俺は、縁崎の苦笑いを見て、それでも、この前まで、苦悩する自分を隠すために俺や津江野をからかっていた時より、ずっといいと思った。素直に他人に悩みを打ち明けられるようになったのだから。


定休日の今日、俺は、縁崎のその話を思い出しながら、街を歩いていた。

そして、俺は何に悩んでいるのだろうかと思った。江田沢に体育館の前で言われた「バスケットボールを捨てた」という言葉が、ずっと引っかかっている。自分では、そこまで大袈裟に考えていなかった。ただ、もうこれ以上、バスケットボールを続けるのは嫌だ。それだけだったつもりだった。でも、江田沢の言葉が、ずっと気になる。ということは、俺の中に、「バスケットボールを捨てた」という言葉が大袈裟ではないほどの、強い思いがあるのだろうか? 俺には分からなかった。


俺は自分の内面を深く見つめるのが苦手だ。理由は、面倒だから。俺は考えるのをやめた。そして、今から、津江野と加辺真気に会いに行くことに考えを切り替えた。昨日、津江野からメールがあった。「店が定休日の明日会えないか?」とのことだった。加辺真気も一緒に三人で会おうということで、俺は、今から、二人に会いに行く。『パーフェクト進学研究会』の近くの喫茶店で会う。夏期講習の講義が終わった後に会うから、三時半に約束した。


真夏の午後の厳しい陽射しの中を歩いていると、『パーフェクト進学研究会』の前にさしかかった。津江野と加辺真気が、雑居ビルの中の教室で、俺の両親の講義を聴いている。もうすぐ講義が終わる時間だった。俺は、一瞬、立ち止まったが、再び喫茶店に向かった。その場で待とうかと思ったが、それには、あまりにも暑かったからだった。


二.

喫茶店は、『パーフェクト進学研究会』の近くにあり、両親が休憩に来ることもある。でも、今は夏期講習が忙しくて来られない。だから、津江野からこの店を指定された時、了解した。古い喫茶店だった。改装をしていないから、店内の壁は煙草の煙で変色したままだ。テーブルもイスも、時代遅れのものが置かれている。でも、常連客が多い。両親によると旨いコーヒーを飲ませるからだということだった。ただ、俺にはコーヒーの味は分からないから、古い喫茶店という認識しかない。


俺が、席について、すぐに津江野と加辺真気も店に入ってきた。二人とも、薄手のパーカーを羽織っていた。塾で長い時間勉強をしていると冷房で体が冷えるから、パーカーを羽織っているのだった。そして、二人とも塾のテキストの入った重そうなカバンを持っていた。その姿を見て、俺は、二人が進学を目標にして塾に通っている受験生だということを実感した。バスケットボール部をリタイアした津江野と加辺真気の姿は、もう無かった。


俺はアイスコーヒーを、二人はホットコーヒーを注文した。

「二人とも、塾の勉強はどう?」

俺は尋ねた。

「塾はハイレベルな授業だけど、それは覚悟してたから」

加辺真気が言った。

津江野は、

「喧嘩してバスケットボール部を退部になってから、やっと勉強で勝負する気になったんだ。難しくても、やるしかない」

と言った。

俺は二人の覚悟を聞いて、二人は大学に合格すると思った。元々、基礎学力のある二人が、覚悟を決めて両親の塾に入ったのだ。ハイレベルな授業にも、努力してすぐに追いつく。そうすれば、自ずと結果は出る。津江野と加辺真気は、自分のすべきことを今、している。俺は、二人が入塾した時に感じた焦りは、このことなのだと改めて思った。二人のことは気にならなくなったと思っていたのは、嘘だと気づいた。俺は、自分のすべきことが分からない。そのことに向き合いたくなかったのだ。

俺は子どもの頃から、さみしいと感じたことがなかった。両親が中学の教師をやめて、塾を始めてから帰宅が遅くなり、一人の時間が長くなった。その時でさえ、さみしいとは思わなかった。中学に入ってからは、高校で退部になるまで、バスケットボール部の活動で忙しかった。だから、さみしいと感じる暇もなかった。それが、今、津江野と加辺真気の二人から、覚悟を決めて塾で勉強していると聞かされて、初めて、さみしいと感じた。

俺の中で、二人はバスケットボール部リタイア組として特別な仲間だと捉えていた。その二人が、リタイア組を脱して、新たな進路についた。俺は取り残された思いだけでなく、自分には何も目標がないことに改めて気づかされた。


「道村君のご両親って、指導は厳しいけど、真面目で良い人ね」

「俺もそう思う。道村のお父さんとお母さんのような人が、本当は、学校の先生であるべきなんだ」

加辺真気と津江野が、俺の両親を褒めているのが、聞こえてきたが、それは、塾での両親についての二人の共通の感想であって、俺に向かって語られているのでないと思った。俺は、二人の声を遠く感じた。

その後も、しばらく話をしたが、二人が何を言ったか、俺自身が何を言ったか、全く覚えていない。

ただ最後に、

「道村。元気ないな? 疲れてるのか?」

と津江野に聞かれた。

「ああ。店が忙しいし、この暑さだからな」

俺は答えたが、本当は、それほど疲れていなかった。

津江野と加辺真気は、塾に戻ると言った。講義が終わると、教室は自習室として利用できる。戻って、自習室で、もう一度、勉強すると言った。俺は、「頑張れよ」と言った。そして、俺たちは別れた。


「頑張っている人に頑張れと言うのは酷なことです。だから、頑張れとは言わないように」。中学の時の担任が、そう言っていたのを俺は思い出した。確かに、そうだなと思った。ただ、代わりに何て言えばいいのかを担任は教えなかった。だから、未だにどう言えばいいのか分からない。もし、あの時、担任の教師が教えてくれていれば、今、津江野と加辺真気に「頑張れよ」と言わずに済んだのにと俺は思った。


俺は、本当は、二人と同じ方向に帰るはずだったのに、反対方向に向かって歩いている。仕方がなかった。でも、そのことが、俺と二人の運命を端的に表している気がした。俺は、左に曲がった。このまま進めば、かねしげに着く。喫茶店と塾とかねしげは、近い距離にある。定休日の今日まで、店に行く必要はないのだが、運命に抗いたいと思った。道を左に曲がって、定休日の店に行くことで、俺の運命が変わるはずはない。だが、俺は歩いた。汗でTシャツが肌に張りついていた。その時、俺は、むきになっていた。


店に着くと、シャッターが開いていた。入口の自動ドアも開いたので、俺は中に入った。薄暗い店内に、大邨さんの姿が見えた。テーブルについて、何か冊子を読んでいた。

俺に気づいた大邨さんは、俺の顔を見て、

「道村君。定休日にどうした? 何かあったのか? 顔色が悪いんじゃないか?」

と言った。

「いえ。近くまで来たら、店が開いてたんで」

俺はそう答えた。

そして、津江野にも、同じようなことを言われたので、津江野と加辺真気のことでショックを受けたのが、人目にも分かるほどなのだと自覚した。

俺は大邨さんの向かいに座った。大邨さんは、厨房に行って、オレンジジュースをいっぱいに入れた大きなグラスを持って来てくれた。

「飲みなよ」

大邨さんが目の前に置いてくれたグラスを手に取り、俺はオレンジジュースを一気に飲んだ。グラスから少しジュースがこぼれたが、気にせず、飲み干した。生き返ったと思った。

「顔色が良くなった。もう大丈夫だ。暑いから気をつけろよ」

大邨さんが笑った。

それから、大邨さんは、

「今日は、店長が内装を新しくしようか検討しているから、内装業者と俺と三人で、さっきまで店で話をしてたんだ。それから、店長が壁紙のサンプルをもっと見たいって内装業者に言って、二人で工務店に出て行ったきりなんだ」

と何故、今日、店にいるかの説明をした。先ほど読んでいた冊子は、壁紙の見本だった。

俺は説明をする大邨さんの声を、先ほどの二人のようには遠く感じなかった。

「ところで、ここまで来たんだから、道村君は何か店長に話すことでもあったんじゃないか? 言づけできることならするけど?」

大邨さんが言った。

やはり、目の前で話している声が、はっきりと伝わってきた。

俺は、そのはっきりと聞こえる声を信じて、先ほど、津江野と加辺真気と会い、二人が進学に進路を決めたことで、生まれて初めて、さみしいと感じたと打ち明けた。大邨さんは静かに話を聞いてくれて、俺は次第に落ち着いた。


「津江野たちから、取り残されていく感覚に襲われて、俺は生まれて初めてさみしいと思いました。それで、さっきまで気が動転していました。でも、大邨さんに話を聞いてもらううちに気づきました。自然の感情が湧いただけだということに。でも、そうだとすると、俺が、今まで一度もさみしいと思わなかったのは、何故でしょうか? そのほうが変じゃないかって気がします」

大邨さんは、取り立てて意味をなさない俺の質問にも、きちんと答えてくれた。

「別に変じゃない。道村君が、生まれて初めて、さみしさを感じた理由は、君が、これまでの人生を、それだけ幸せに生きて来られた証だろう。満たされた人生を送っている時に、さみしさは感じないものだ。自分は満たされた人生を送っているのに、孤独でさみしいという人がいたら、それは、経済的には満たされていても、精神的には満たされていない場合が多い。そして、世の中の実態は、経済的にも、精神的にも満たされていない人が圧倒的に多い。誰もが、不幸だということさ」

大邨さんは、普段、あまり喋らない。だが、実は、能弁で含蓄のある話をする人だ。縁崎と俺を諭したあの晩も、そうだった。無口ではなく無駄口をきかない人だ。

そして、大邨さんの話を聞いた俺は、

「俺は、子どもなんですね。知らないことばかりだ」

と言った。

大邨さんは、

「まだ若いんだから、そんなもんだよ」

と慰めてくれた。

そして、ブレザーの内ポケットからショートホープと携帯灰皿を取り出して、ライターで火をつけた。

「店内禁煙だけど、今日は定休日だから勘弁してくれ」

と俺に笑って言った。

俺は、あの日の夜の休憩室を思い出した。

「俺が縁崎さんを殴ろうとしたのを止めてもらった晩のことは本当に感謝しています。縁崎さんも、あの晩のことがきっかけで立ち直りました。大邨さんは、あの時、殴られた人間は、ずっと相手のことを恨まなければならなくなると言いました。凄く実感のこもった言葉でしたが、大邨さんの実体験に基づく言葉だったんですか?」

俺は、大邨さんに尋ねた。

「それは、俺が殴ったり殴られたりする世界に棲んでいたかってことかい?」

と大邨さんが言った。

そういう意味ではなかったのだが、そう受け止められて当然だと、俺は慌てた。

そして、

「いえ。そういうことではなくて、とても説得力があったということです」

と訂正した。

大邨さんは、俺の釈明を聞いて笑った。俺はその様子を見てほっとした。

それから、大邨さんは、

「実は、あれは昔、ある人が言った言葉で、それを真似したんだよ。一度、言ってみたいとずっと思っていたのさ。それなりにサマになっていただろ?」

と照れくさそうに言った。

俺は、それを聞いて、今度は「組長の言葉ですか?」と聞きそうになったが、これは、釈明の余地がないと黙っていた。

それから、大邨さんは、

「ところで、俺が、君に最初に尋ねなかったのが良くなかったんだが、津江野君がバイトの面接を受けに来た時、喧嘩をしてバスケットボール部を退部になったから時間が空いてます。だから、雇ってくださいって言ったんだ。それから、津江野君が、俺に、道村君を紹介した時、同じ部活の仲間だったって言ってたけど、君もバスケットボール部を退部したのか?」

と唐突に聞いてきた。

大雑把な人だと思っていたが、それも違った。おそらく、あの面接の時は、人出が足りなかったから、細かいことを聞かないまま即採用したが、後々そのことが気になっていたのだ。俺は、本来、面接の時に言うべきことだったのだからと観念して、万引きの件を打ち明けた。

大邨さんは、しばらく考えてから、津江野が喧嘩をして部活を退部になったのと同じで、俺も部活を退部になるという処分を既に学校側から受けていたから解決済みとして問題視しないと言った。それに、店としても、人出不足のため、GF高校がバイト禁止なのを知っていて、隠れて雇っているから偉そうなことは言えないと苦笑した。

それから、

「バスケットボール部を退部になるために万引きをした? 事情があったにせよ、随分、乱暴なことをしたな。それに退学まで覚悟していたとは、独りで思い詰めていたんだろう。君には誰か相談できる人はいないのか? 失礼だけど、親御さんは、どういう人だ?」

と尋ねてきた。

俺は、一番聞かれたくない質問だが、これも観念して、

「今、津江野ともう一人の同級生が通っている塾の経営者です。同時に、父親と母親それぞれが、数学と英語の講師をしています」

と答えた。

更に、大邨さんに聞かれて、『パーフェクト進学研究会』と塾名を答えた。

「この店から近い所にある塾じゃないか。地元では有名な進学塾って聞いたことがある。ご両親は講師になる前は何をしていたのかな?」

大邨さんは、更に、関心を持ったらしく尋ねてきた。

「二人とも、公立の中学校の教師でした」

俺は答えた。

すると、大邨さんは、

「中学の教師か」と呟いた。そして、「君は退部になるために万引きをした」と、先ほど問題視しないと言ったことを再び口にした。特に怒っている様子ではなかった。ただ黙って、大邨さんは、何かを考えていた。


三.

かねしげの薄暗い店内で、大邨さんと話をしてから数日が過ぎ、八月に入った。あの日、大邨さんは、俺の両親が元中学の教師だと知ってから、黙って何かを考えていた。そこに、店長が内装業者と一緒に戻ってきたので、話が途切れた。あの時、大邨さんは何を考えていたのだろう。俺は打ち合わせの邪魔になるので、店長と大邨さんに挨拶をして店を出た。


俺は、江田沢のところに向かっている。

夏休み前、江田沢に体育館の前で呼び止められ、その後、二人で中庭のベンチで話をした。「バスケットボールを捨てたのか?」と言われ、うろたえた俺は、その場から逃げてしまった。謝らなければいけないと思っていたが、決心がつかなかった。それに、また江田沢から同じ質問をされても、やはり、俺は答えられない。俺自身、どう答えていいのか分からないからだった。それでも、今日、江田沢に会いに行く決心がついたのは、大邨さんのお陰だった。

あの日、大邨さんに江田沢のことは話していない。内心、話したいと思っていたのだが、その前に、店長が帰ってきた。でも、大邨さんの存在が俺を心強くしている。もちろん、大邨さんが元暴力団員だと噂される人物だからではない。大邨さんに指摘された通り、俺には誰も相談できる人間がいない。両親とは全く話がかみ合わない。兄弟もいない。バスケットボール部リタイア組として仲間だと思っていた津江野は塾に通い始めてしまった。そんな俺にとって、大邨さんと二人きりで話をしたことには大きな意味があった。大邨さんと長く話をする中で、俺には、気づいたことがある。一つは、大邨さんが、所謂カタギの世界とは違う世界で生きてきた人だということだった。それが、暴力団なのか、詐欺集団なのかは分からない。ただ、一般社会の人間とは違う特有の雰囲気があると俺は思った。もう一つは、それにもかかわらず、常識的なことをよく知り、常識的な判断のできる人だということだった。頭の良い人だということは分かっていたが、あまりにも長く一般社会とは違う世界で生きてきた場合、普通は、ズレが生じるはずだと思うのだが、大邨さんには、それが無い。だから、両親に相談できない俺は、それに代わる一社会人として大邨さんを頼ることができる。元ヤクザであるはずの大邨さんは、平凡な高校生である俺の進路相談と人生相談にまで乗れる。普通はないことだと思う。そして、それが、俺には心強いことであり、江田沢に会いに行く決心もついた。


江田沢にメールをしたら、「練習は午前中で終わった。午後は運動公園のバスケットコートにいる」と返信があった。江田沢は、時間があるといつも自主練習をしている。今日は、珍しくそれほど気温が上がらず、爽やかな夏の午後だった。俺は、運動公園の中に植えられた常緑樹の木陰を歩きながら、江田沢のいるバスケットコートに向かった。


江田沢は、一人で屋外のバスケットコートで練習をしていた。今日は気温が上がっていないからいいが、真夏の午後に屋外のバスケットコートで練習をすることは、脱水症や熱中症になる危険がある。それを避けるため、江田沢以外は誰もいない。夏休みに入って三年生が引退して、正式にキャプテンになった江田沢は、更に練習量が増えている。江田沢はシュートの練習をしていた。ダブルクラッチ、ユーロステップ、ステップスルー。相手選手をイメージしながら、これらのシュートの動きを確認をしていた。それが終わるとフリースローの練習に移った。

俺は、コートの傍に立ち、その様子を見ていた。

江田沢は、静かにボールをゴールに向かって放った。

ボールは美しい弧を描き吸い込まれるようにゴールに入った。

それを見とどけ、俺は江田沢に、

「少し休めよ。ぶっ倒れるぞ」

と言った。

江田沢は、俺の声に気づいた。

そして、

「コートを独占して、一人で好きなだけ練習できるからいいよ」

と言って笑った。

それから、バスケットボールを拾うと俺のほうに向かって歩いて来た。

額の汗が陽の光に輝いていた。


俺たちは、木陰のベンチに座った。

来る途中に買ってきたスポーツドリンクを江田沢に渡した。

「ありがとう」

と言って、江田沢はスポーツドリンクを飲んだ。そして、

「この前は悪かった。お前が驚いて当然だった」

と俺に謝った。

「逃げた俺も問題だよ。それに、今日も、まだ、あの日の答えは見つからないまま来たんだ」

俺は正直に言った。

すると、江田沢は、

「『バスケットボールを捨てたのか?』だよな。もういいんだよ。あれは俺が勝手に描いていた夢だったから」

と言った。ただ本心ではないことが、残念そうな様子から分かった。

気まずい沈黙が続いた。

俺は何か言わなければならないと思った。

「本当は俺も万引きをして後悔してるんだ。勉強もできない俺がバスケットボールボール部を退部になって何をしたらいいのか分からないんだ」

江田沢は驚いた表情で俺を見て、

「退部になった後のことは何も考えずに万引きをしたのか?」

と言った。

「退学するつもりだったのが、学校の方針が変わって退学せずに済んだ」

「確かに、スポーツ推薦は、少し前まで退部は退学を意味した。それなら、退学になった場合のことは考えていたのか? こういう言い方は語弊があるかもしれないけど、俺はお前のことだから、事前に後のことまで計画を立てて万引きをしたんだと思っていたんだが?」

「何も考えていなかった……」

俺の答えに江田沢は呆然とした。そして、

「道村。俺もスポーツ推薦で入ったから、お前が部活をやめにくかった事情は分かる。それに、お前の得点率はチーム一だった。抜け出せるものじゃなかった。悩んで追い詰められていたんだろう。ただ、退学を覚悟で、万引きまでしたのは、バスケットボールを捨てるためだったのか? やっぱり、俺は、そのことが知りたい」

と尋ねた。

「分からないんだ。バスケットボールが嫌いなわけじゃない。ただ、俺は、両親から勉強をさせられるのが嫌でバスケに逃げた。それが、スタートだった。だから、江田沢のように真っ直ぐにバスケットボールに向き合ってこなかった」

「きっかけは、そうでも、五年近くも、厳しい練習にたえてこられたんだぞ。そして、春の全国大会の地区予選で、お前は将来有望な選手として認められたんだ。好きじゃなかったら、できなかったことだ」

俺は江田沢の言葉に何も言えなかった。

俺が黙っていると、江田沢が、

「道村。結局、お前が、万引きをしてまで退部した理由は何なんだ?」

と言った。

「分からない。でも、もしかしたら、怖くなったのかもしれない。俺は今まで本気でバスケットボールに向き合わずにやってきた。それが、春の大会の予選で、俺は脚光を浴びた。嬉しかった。でも同時に、俺はこれから本気でバスケに向き合わなければならないと思った。今までと違って、逃げは許されないと思ったら怖くなったのかもしれない」

俺は江田沢と話す中で、初めて自分の気持ちに気づいた。

俺は怖くなって逃げた。それだけだったのだ。

俺の話を聞いた江田沢は、

「たったそれだけのことだったのか? 何故、俺に相談してくれなかったんだ。そんなことだったら、ひと言、俺に相談してくれていたら、万引きなんてせずに済んだのに!」

と悲鳴のような声をあげた。

俺は、その声に驚いた。確かに俺は安易だった。だから、今、何をしたらいいのか分からなくなっている。自業自得だ。ただ、そのために、江田沢が、これほど悲嘆にくれることは、理解できなかった。

「江田沢、どうしたんだ? 大丈夫か?」

俺が声をかけると、

「道村。俺が描いていた夢を聞いてくれるか?」

と江田沢が言った。

俺は、うなずいた。


江田沢の夢は、春の全国大会出場だった。この春の地区予選ではYA高校相手に、江田沢と俺は健闘したが、チームは惨敗した。江田沢は来年の春の大会を目指していた。江田沢が、来年の全国大会に出場できるという思いを抱いたのは、あの日、俺が本気を出したからだと言った。

「お前が、いつ本気を出してくれるか待っていたんだ。これだけは、周りがいくら言っても、どうにもならない。だから、待っていたんだ」

今まで、いつも全力を出し切らないまま終わる俺が、YA高校戦で、初めて試合開始から終了まで全力を出し切った。その時、夢が叶うかもしれないと思った。そう江田沢は言った。

「江田沢。俺のことを過大評価しているよ。俺にはそんな力はなかった」

俺の言葉に、

「いや、俺だけじゃなく、お前も本気を出せば、チームは変わった。今の二年生のメンバーもようやく力をつけてきた。キャプテンの俺がチームを引っ張ってもっと強くしなければならない。だが、一人でチームを引っ張るのは無理だ。やる気はあっても限界がある。でも、二人ならできた。だから、本気を出したお前と、二人でチームを引っ張っていけば、必ず変わっていた」

と江田沢は説明した。説得力があった。確かに、江田沢と俺以外の二年生は、力をつけてきたが、もう一歩のところにあった。

そして、江田沢が、

「それに、夢を叶えたかったのは、俺の個人的な問題もあったんだ」

と言った。

「個人的な問題?」

「俺は、高校でバスケットボールを終わりにしなければならない。だから、次の春の大会が最後になるんだ」

「江田沢。お前、スポーツ推薦で大学に進学する話があるじゃないか? もうほぼ確定しているはずだぞ。どういうことだよ?」

「俺は大学に進学できなくなったんだ。父親が悪い病気に侵されて、ずっと入退院を繰り返している。治療法すらはっきり分からない病気なんだ。それで、俺は、大学に行くのは無理になった。だから、俺にとって、最後のバスケットボールを全国大会で終わらせたかった。一回戦敗退になってもいい。みんなと一緒に全国大会に出場して、一生の思い出にしたかったんだ」

江田沢の話を聞いた俺は愕然とした。

俺は、自分が犯した過ちの本当の意味をこの時知った。俺が犯した過ちは、万引きをしたことだけではなく、もしかしたら、それ以上に、江田沢のバスケットボール人生最後の夢を潰してしまったことかもしれなかった。

「江田沢。俺は、お前の夢を潰してしまったんだな……。何て言えばいいのか。俺は……」

俺は、江田沢に、謝ろうとしても、言葉が出てこなかった。何故なら、俺は、謝っても済まない過ちを犯してしまったからだった。


四.

運動公園からの帰りの江田沢は、変に優しかった。江田沢はチームメイトのミスを厳しく叱責するが、同時に、何が間違っていたのか、どうすればいいのかを的確に助言してくれる。だから、チームメイトからも顧問からもキャプテンに推薦された。部活以外でも、江田沢は同じだった。

だが、あの日の江田沢は、俺に、

「仕方ない。忘れようぜ。お前も追い詰められていたんだし、俺の夢も一人で勝手に描いていただけだからさ」

とだけ言って、去って行った。

俺は去って行く江田沢の後ろ姿を見ながら、江田沢の心の中の異変を感じた。


それから一週間ほど過ぎた日のことだった。俺は江田沢のことが、気になったまま、その日も朝からバイト先に向かった。途中、空を見上げると太陽が雲に覆われていた。台風が近づいているらしい。昨日までの暑さから一転して、少し肌寒く感じる日になった。俺は、沈んだ気持ちで、かねしげに出勤した。仕事が始まる前、いつも店長がコーヒーを入れてくれる。俺は店長が入れてくれた熱いコーヒーを飲んでようやく気持ちがくつろいだ。大邨さんも、バイトの学生も、コーヒーを飲んでいた。すると、まだ準備中にもかかわらず、津江野と加辺真気が店に飛び込んで来た。塾から慌てて走ってきたらしく、二人とも息を切らせていた。皆、何事かと入り口のほうを見た。

コック服を着た俺が、二人のところへ行った。

「どうしたんだよ? 塾の講義中じゃないのか?」

尋ねる俺に、

「それどころじゃないんだ。江田沢がいなくなったんだ!」

「昨日から家に帰ってないんだって。今、江田沢君のお母さんから電話があったの」

津江野と加辺真気が言った。

「いなくなったって、家出? まさか、事故に遭ったとか?」

俺は、とっさにそう言った。だが同時に、江田沢は家に帰らず、一人で、どこかにいる。そして、その原因を作ったのは、俺だと気づいた。


とにかく、津江野と加辺真気の話を聞くことになった。

XZ大学の学生は、店長の指示で開店の準備を始めた。店長と大邨さんは、心配して、一緒に二人の話を聞いてくれた。

「塾の講義中は、携帯の電源を切るんだけど、今日は、忘れてたんだ。そしたら、さっき電話がかかってきて、慌てて、携帯を見たら、江田沢の自宅からだったんだ」

津江野が話した。


一限目の英語の授業で小テストをやっている最中だった。静まり返った教室に津江野の携帯の着信音が鳴り響いた。講師である俺の母親にも、他の生徒にもにらまれた。津江野は、慌てて電話を切ろうと携帯を取り出した。発信元が江田沢の自宅とあった。津江野は不審に思った。普通なら、江田沢の携帯から電話がかかってくる。何故、自宅なのだろうと思い、携帯を持って教室を出た。そして、電話に出ると、江田沢の母親からだった。

津江野は、退部になる前、よく江田沢の家に遊びに行った。だから、江田沢の母親とも面識がある。それにしても、江田沢の母親が自分の携帯に直接電話をかけてくるとは何事だろうと思った。すると、

「光哉が昨日から帰って来ないの。津江野君。どこか、あの子が行きそうな場所を知らない?」

と江田沢の母親が言った。

津江野が、詳しく話を聞いた。江田沢は部活が終わって帰宅してから、部屋に入ったきり、出て来なかった。夕方になり、母親が部屋を覗くと、いなかった。いつの間にか、外出していた。携帯に電話をしても電源が切られている。母親は、江田沢の父親の看病があるため、その場を離れられず、江田沢の帰りを待った。母親は看病の疲れから、父親の傍らで、つい眠ってしまった。目が覚めたら、夜が明けていた。しかし、江田沢は帰って来なかった。もう一度、電話をかけたが、電源は切られたままだった。母親は、ようやく一人息子の異変に気づいた。


「家出じゃないですか!」

津江野は思わず、声を上げてしまった。

加辺真気が、その声を聞いて驚いた。授業が終わって、何があったのか様子を見に、廊下にいる津江野のところに来ていたからだった。そして、二人は、そのまま、俺のところに飛んで来たのだった。

「だからって、突然、俺のところに来てられても」

俺の言葉を聞いて、津江野と加辺真気は、塾に近いことと、江田沢も含めた共通の友だちということだけで、俺のところに来たことに気づいた。でも、江田沢が、帰宅しなかった原因は、俺にあるはずだ。そう考えると、津江野と加辺真気が、俺のところに来たことは、的外れなことではなかった。


開店時間が近くなり、店長が大邨さんに、

「家出の可能性があるし、急を要する問題です。彼らの話を聞いてやってください」

と頼んだ。そして、俺たちは休憩室に場所を移した。

ローテーブル越しに、大邨さんは、初対面の加辺真気に「大邨政男と申します」と丁寧に挨拶をした。加辺真気は恐縮していた。加辺も、大邨さんの噂をそれとなく知っていた。それから、大邨さんは、津江野に、江田沢の母親が、学校には連絡したのか、警察に捜索願を出したのか確認した。津江野は、江田沢の母親が、担任と部活の顧問に連絡すると言っていたこと、捜索願については何も言っていなかったことを伝えた。大邨さんは、うなずいた。

それから、

「それで、問題の江田沢君なんだが、どんな青年なんだ?」

と俺たちに尋ねた。

「バスケットボール部のキャプテンです。他校でも有名な選手です。真面目で練習熱心で部員からも頼りにされています」

津江野が言った。

「バスケットボールしかない。江田沢君は、そういう人です。女子部員も、彼を尊敬しています。でも、真剣に打ち込み過ぎているところに、近寄り難い感じもします。もう少し余裕を持ったほうがいいと、みんなが思っています」

加辺真気が言った。

大邨さんは、二人の話を聞いて、

「真面目すぎるから、思い詰めすぎた結果ということか。でも、何を思い詰めていたんだろう? 家へ帰らないほどショックなことがあったのだろうか?」

と言った。

津江野も加辺真気も、思い当たることがなかった。

「江田沢の変化っていっても、俺も、加辺も、それに、道村も、部活をリタイアしたから、今のことまでは、知らないからなあ」

津江野が、そう呟いた。

でも、俺は、知っている。それどころか、江田沢の家出の原因を作ったのは俺だ。俺は、罪の意識に耐えられなくなった。そして、自分でも無意識に、

「俺が悪いんだ! 江田沢が家出をしたのは、俺のせいなんだ。俺があいつの夢を潰したんだ!」

と俺は叫んだ。

すると、大邨さんが、

「道村君。君が何かを知っているなら、落ち着いて話してくれ。慌てちゃいけない。江田沢君のために、落ち着いて話すんだ。それが問題解決の手がかりになる」

と言った。その低い声に俺は安心した。

「よし。大丈夫だな」

大邨さんは、うなずいた。

「道村。ゆっくり落ち着いて話せばいいぞ」

「みんなで協力すれば、江田沢君は、すぐ見つかるわよ」

津江野と加辺真気が、そう言った。

俺は、この前、さみしいと感じたことは、随分、独りよがりだったと思った。二人は、俺のことを変わらず友だちだと思ってくれている。だからこそ、俺は話さなければならないと思った。何故なら、江田沢のことにも、俺の独りよがりな思い込みがあるかもしれないと思ったからだった。


落ち着きを取り戻した俺と、津江野と加辺真気に、

「喉が渇いただろう。気が利かなくて悪かった」

と大邨さんが、冷蔵庫から、清涼飲料水を取り出してくれた。

三人とも、一気に飲み干した。


俺は何から話そうかと考えていたが、ふと、

「江田沢のお父さんが、悪い病気だって聞いたんだけど、どんな病気なんだろう? 治療法もはっきり分からない病気だって、あいつは言ってたけど」

と二人に聞いた。

津江野が答えた。

「俺も詳しくは知らないけど、前に江田沢から聞いた話では、特別な治療を受けるために、その都度、遠い街にある大学病院に入院しなければならないそうだ。それでも、治るかどうかは分からない難しい病気らしい」

その話を聞いた加辺真気が、

「気の毒ね。でも、江田沢君のお父さんの病気と今回のことと、どんな関係があるの?」

と俺に尋ねた。

「お父さんの病気のために、江田沢は大学進学を諦めるんだ。今の話を聞いて、治療費の問題が大きいんじゃないかと思った。バスケットボールも高校までで諦めなければならなくなった。だから、高校でのバスケットボールが、江田沢にとって、最後のバスケットボールになる。そして、江田沢は、次の春の全国大会出場に全てをかけていたんだ。でも、俺が、万引きで退部になったことで、あいつの全国大会出場の夢が消えてしまった。俺がいなくなったことで、全国大会出場は不可能になったと、あいつは思っている。俺にそんな力があるとは思わないが、あいつは本気でそう思っている。だから、絶望して家出をしたんだと思う」

俺は話した。

加辺真気が、

「江田沢君が、絶望して、家出をしたのなら、まさか、死ぬつもりなんてことは?」

と青ざめた顔で言った。

「家出と決めつけるのは、まだ早い。例えば、悩んで街を歩いているうちに、一晩、経ってしまっただけかもしれない。だから、極端なことは考えないようにしよう。ただ、全く可能性がないとは言えない。急ごう。道村君。続きを詳しく話してくれ」

大邨さんが、そう言うと、俺に話の続きを促した。

俺は、万が一、江田沢が死ぬようなことがあったらと頭によぎった。だが、大邨さんの言う通り、極端なことは考えないようにした。それに、江田沢は死なない。今、打ちひしがれながらも、次のチャンスをつかもうとしている。江田沢は諦めない奴だ。そのことは、俺が一番よく知っている。


第四章(ブルース)

一.

大邨さんが、江田沢の母親と電話で話をしている。津江野が江田沢の母親に電話をした。その後、大邨さんに電話を代わった。大邨さんは津江野のバイト先の人間だと自己紹介した。大邨さんと江田沢の母親は一面織もない。そもそも、大邨さんは江田沢のことも、今日、俺たちの話で初めて知ったばかりだ。でも、大邨さんは、母親に、江田沢の昨日の様子や行きそうな場所を詳しく尋ねている。普通なら、江田沢の母親は驚くと思うのだが、緊急時だけに、大邨さんの質問に電話の向こうで懸命に答えているのが伝わってくる。母親は江田沢の父親の看病のため、江田沢を探しに出られない。頼れるのは、大邨さんしかいない。警察に届けようと考えていたところ、津江野から電話があり、大邨さんに代わった。話してみると、的確な質問をするので、母親は、大邨さんに江田沢を探してもらうことにしたのだった。俺も大邨さんが質問するのを聞いていて、職業的な経験を感じた。職業は、刑事、興信所、ヤクザと幾つもある。大邨さんが、どれに該当するかは今更、言うまでもないが、とにかく頼りになると思った。


「江田沢君のお母さんに確認したら、江田沢君は何も持たずに家を出たそうだ。所持金も僅かだから、遠くには行っていない。そこでだが、みんな、彼が行きそうな場所は分からないかな? 人間は嫌いな場所には行かない。思い入れのある場所、あるいは、思い出のある場所に行く。どうだろう?」


津江野も加辺真気も、これだと特定できる場所はなかった。

「江田沢はバスケットボールが全て。だから、バスケットボールに関係した場所になるはずだけど、沢山あり過ぎて分からない」

「色んな場所が思いつくけど、これだって特定できない」

津江野と加辺真気は言った。


俺はすぐに思い出した。

海の近くにある体育館。そして、春の浜辺。俺の作った砂の城が波に崩れるさま。俺たちが、はしゃいでいる時、江田沢は黙っていた。あの時も、江田沢は、俺が、本気を出すのを待っていたのだ。

そして、YA高校戦。他たちのチームメイトが諦める中、江田沢と俺だけ、最後まで諦めなかった。惨敗したけど、俺は生まれて初めて本気になった。江田沢の高速パスを受けて、俺はすぐにスリーポイントシュートを打った。ボールは綺麗な弧を描き、リングに当たらず静かにゴールした。あの瞬間、俺は目の前に広がる風景が変わった。俺に見える風景は、いつもくすんでいた。それが、雲が晴れたように明るくなった。江田沢は、ずっと俺が本気を出すのを待っていた。その間、江田沢が見ていた風景も、くすんでいたはずだ。俺は、江田沢を待たせ続けて、ようやく、雲が晴れたと思ったら、すぐにどん底にたたき落とした。俺は、改めて、自分の犯した罪の大きさを知った。

そして、

「俺には江田沢のいる場所が分かります。海の近くにある体育館です」

と静かに言った。

大邨さんは、俺の様子を見て、

「その場所は、江田沢君にとっても、道村君にとっても、思い出の場所なんだな」

と言った。その低い声が、俺の罪の意識を僅かだが、和らげてくれた。


体育館までは、少し距離がある。大邨さんが、店のワゴン車で俺たちを乗せて行くと言ってくれた。俺たちは、休憩室を出ようとした。その時、津江野の電話が鳴った。津江野は、江田沢の母親からだと思って携帯を見た。すると、塾からだった。電話に出ると、俺の父親だった。

「授業中に抜け出して、すみません。大事な用があって。今、加辺さんもいます。二人で道村君のバイト先に来てるんです。実は、俺たちの友だちが昨日から帰らないんです。それで、集まって相談してるんです」

津江野は、俺の父親に事情を説明した。

だが、俺の父親は塾の講義以上に重要なことなどこの世にないと考えている。母親も同じだ。その上、俺に会うために授業を抜け出したと聞いて、父親は激怒した。津江野の携帯から俺の父親の怒鳴り声が聞こえた。そして、そのまま電話が切れた。

「道村のお父さん。今から、ここに来るって」

津江野が、怒鳴り声の意味を皆に伝えた。


俺は、父親に似て背が高い。だから、休憩室に入ってきた父親を見て、大邨さんは驚いた。それと、俺の父親は老けて見える。年齢は店長と同じぐらいなのに、大邨さんより歳が上に見える。白髪頭なのとおしゃれをしないからだ。母親も同じだ。似たもの夫婦と言えば、そうなる。父親は孝三という。母親は次子という。俺が産まれた時、父親と母親の名前から一文字ずつ取って「孝次」にした。悪い名前ではない。だが、父親も母親も、「簡単に命名できた。五分しかかからなかった。時間が節約できた」と得意げに俺に言う。二人とも致命的に変わっている。そのことを津江野も加辺真気も、まだ知らなかった。


「津江野君も加辺さんも、バスケットボールは挫折した。そして、勉強にかけると決めた。入塾の面接の時、そう言ったはずだ」

俺の父親は二人に言った。父親はローテーブルの隣の空間に一人で正座をして話している。大邨さんが、自分の座っている場所を譲ろうとしたが、「いえ、結構です」と固辞した。その時、大邨さんは、やりにくい人だなという顔をした。

「授業を抜け出してすみませんでした。でも、サボるとかそういうことじゃなかったんです」

「バスケットボール部時代からの友だちが、家出をしたかもしれないんです」

津江野と加辺真気が説明した。

その説明を聞いた俺の父親は、

「時間の無駄だ。人生は短い。分かりますか? 私の息子に会っている時間はない。無駄だ。友だちを探している時間もない。無駄だ。君たちがするべきことは一つ。何だね?」

と言った。

「俺たちが、するべきことは勉強です。でも、いなくなった友だちを探すことは無駄ですか? もしかしたら、死のうとしているかもしれないんです。道村先生。それでも、無駄ですか?」

父親の話に驚いた津江野は、そう尋ねた。

すると、俺の父親が、

「人生には二つの生き方しかない。意味のある人生を生きるか。それとも、無意味な人生を生きるか。この二つしかない。君たちは意味のある人生を送るために勉強をしている。万引きをして部活を退部になって無意味な人生を送っている私の息子に会いに来ている場合ではない。友だちは他の誰かが見つける!」

と言い切った。

津江野と加辺真気は、父親の発言にショックを受けた。塾では、父親は持論を述べる時間がないから二人は知らなかった。でも、俺は聞き飽きていた。これが、俺の父親の教育論であり人生観だ。津江野と加辺真気は、教壇で話す俺の父親の姿しか知らない。しゃれっ気がなく、白髪頭で長身の父親が、黒板を背景に熱心に授業をする姿は、いかにも塾の講師らしくて好感が持てる。その熱心さを情愛の量と錯覚するのも無理はない。何よりも父親にも母親にも悪意がない。二人の持論は彼らなりの善意に基づいている。そして、善意の父親から無意味と言われた俺は思う。五分で俺の名前を命名できた両親にとって、目的を持たずに生きる俺は、存在そのものが無駄なのだろうと。津江野と加辺真気は、俺のことを心配して見たが、俺は平気だった。というより諦めていた。


それまで黙って話を聞いていた大邨さんが、突然、俺の父親にこう言った。

「話が長くなるのなら、俺たちと一緒に海の近くの体育館に行きましょう。そうすれば、車の中で、みんなで話し合いができるし、友だちの江田沢君のところにも行けます。これほど時間を無駄にせず、有効に活用できる方法はありません。まさしく道村君のお父さんの信念に沿っています」

俺の父親は、大邨さんの提案に、

「私は一人も塾生を見捨てません。だから、二人をここに迎えに来ました。塾にいる生徒には、急遽、問題集を解かせています。戻って通常の授業をしなければなりません。でも、二人が戻らないとなると、私は、どうすればいいのか?」

と自分の発言の矛盾に戸惑った。

そこに、加辺真気から、

「道村先生に聞きます。塾生を見捨てない先生は、死ぬかもしれない友だちを見捨ててもいいと思いますか?」

と言われた。今度は、父親は反論できず、仕方なく、了解した。

俺たちはワゴン車に乗り、大邨さんの運転で体育館に向かった。

俺は助手席に乗った。大邨さんが車を発進させる時、

「お前も、苦労してるんだな」

と言った。

エンジンの音で聞こえないぐらい小さな呟きだったが、俺には確かに聞こえた。

大邨さんを見ると、その横顔は、何故か、さみしげだった。


二.

大邨さんの運転するワゴン車は、海の近くの体育館に向かっていた。後ろの座席では、津江野と加辺真気が、俺の父親に江田沢のことについて説明していた。俺は、海岸沿いを走る車から窓の外を見た。曇り空にもかかわらず、海を泳ぐ人の姿が見えた。浜辺には鮮やかな色のビーチパラソルと海水浴客が見えた。その景色に、俺は、あの日から、季節が流れたことを感じた。


じっと海を見ている俺に、大邨さんが声をかけた。

「体育館の思い出を教えてもらえるかな?」

俺は、うなずいて春の地区予選のYA高校戦の話をした。

津江野も加辺真気も、もう退部していたから、初めて聞く話だった。

「道村。凄いな。江田沢と二人だけで戦ったのか? みんなに認められて当然だ」

「でも、江田沢君の期待も大きくなっていただけに、急に道村君が退部した時のショックも大きかったんだと思う」

後部座席で話を聞いていた津江野と加辺真気が言った。

そして、

「キャプテンの江田沢君に、そこまで期待してもらっていたのに、お前は、万引きをして退部になったんだ。彼が失望して家出をしたのも当然だ!」

と父親が怒鳴った。

確かにその通りだった。俺には反論の余地がなかった。

すると大邨さんが言った。

「道村さん。今、その話をするのはやめましょう。これから江田沢君に会って彼を説得します。その参考になる話だけにしましょう」

「なるほど、それは一理ありますな。孝次の話まですると混乱するばかりだ」

指摘されて気づいたのだろう。父親は、俺のことを持ち出すのをやめた。


ワゴン車は広い駐車場に入った。体育館のあるこの場所は、俺の街にある運動公園より遥かに規模の大きい総合運動競技場だった。体育館の他に陸上競技場、野球場、サッカー競技場、競泳用プール等の設備があり、いつも、何かの競技が行われ、駐車場まで声援が聞こえる。だが、今日は静かだった。駐車場にも、僅かしか車が停まっていない。皆、車から降りた。見回しても、人の姿がない。加辺真気が、近くにある掲示板を見に行った。理由が分かった。

「施設は、もうお盆休みに入っている」

加辺真気が振り返って、皆に言った。

俺と津江野も掲示板を見に行った。お盆までにはまだ数日あるが、お盆を含めた一週間が休みになっていた。「お盆休みの間に施設のメンテナンス作業を実施します。よろしくお願いします」と掲示板にあった。

「ここにいるはずだったんだ」

「でも、これじゃあ文句は言えない」

俺と津江野は掲示板を見ながら呟いた。


車の近くに大邨さんと並んで立っていた俺の父親が、

「だから、無駄だと言ったんだ。津江野君、加辺さん。この時間は本来勉強に充てる時間だった。無意味なことをすると無駄が生まれる。無駄なことをすると無意味な時間を過ごす。分かったでしょう。それが、今回、唯一、君たちが学んだことです。二度と同じ過ちを犯さないように。では、道村君のお父さん。我々を塾まで送り届けてください」

と、大邨さんに当てつけるように言った。


俺は、子どもの頃から、父親が物事を断定的に否定する姿を見てきた。その矛先が俺に向けられることもあった。津江野と加辺真気は、塾での指導に熱心な父親しか知らない。だから、先ほどの休憩室に続いて、自分達の行動を強く否定する父親を見て驚いた。正しいか否かではなく、自分の気に入らないことは、全て否定するのが俺の父親だ。否定された側は、普通は、萎縮するか諦める。でも、大邨さんは違った。

「探してもいないのに、無駄かどうかは分かりません。道村さん。友だちの無事を願う息子さんの言葉を信じてあげましょう。私は、孝次君の言葉を信じます。いや、江田沢君と孝次君の友情を信じます」

大邨さんは、俺の父親を見つめた。

「そういう言い方をされると……。私も二人に現実は厳しいということを知って欲しいだけで、何でもダメだって言っている訳じゃないですから……」

と父親は渋々、承諾した。

俺の両親は、仕事柄、物事を論理的に考え、理詰めで話すことは得意だ。でも、情に訴えられることには慣れていない。だから、大邨さんから、「……息子さんの言葉を信じてあげましょう」と言われた父親は戸惑った。そして、大邨さんに従った。


俺たちは、体育館に向かった。俺は内心、大邨さんが、父親の不快な物言いに怒るのではないかと心配していた。だが、大邨さんは、全く違う反応をした。父親の情に訴えたのだ。義理人情の世界に生きてきた人だからだろうかと思った。でも、今、江田沢について、津江野と加辺の高校生二人に話を聞きながら自然に歩く姿を見ていて、それも違うと俺は気づいた。大邨さんは、休憩室に俺の父親が入ってきた時から、観察していたのだ。やりにくい人物だと気づいた時から、父親の人間性を観察していたのだ。理由は、先ほどのように、扱いにくい父親をコントロールするためだ。大邨さんは、世間知らずの俺の父親とは全く違うと思った。


体育館の前まで来たが、当然、扉には鍵がかけられていて、誰もいなかった。俺は、この体育館で、チームメイトが諦める中、江田沢と二人で、YA高校相手に健闘したことを思い出した。

「ここで、YA高校相手に、俺は生まれて初めて本気を出した。俺以上に、江田沢は、そのことが嬉しかったんだ」

俺は、あの日のことを思い出して呟いた。

津江野も、加辺真気も、黙っていた。

大邨さんも、黙っていた。

俺の父親だけ、こう言った。

「お前が、いつもと違うことをしたから、おかしなことになったんだ」

まんざら否定できない気がした。


誰もいない運動競技場にいるのは、気持ちの良いものではなかった。無人の街にいるような錯覚を覚えた。不自然なほど静かだった。俺たちは競技場の中央にある時計台の下にいた。そこからは、陸上競技場、野球場、サッカー競技場が見渡せた。

「どの競技場も鍵がかけられている。だが、江田沢君は、必ず、どこかにいる」

大邨さんが言った。

「でも、鍵がかけられているなら、競技場に入れないのだから、いないということでしょう」

俺の父親が言った。その通りだった。これは文句ではなかった。

俺たちは、大邨さんの顔を見た。

「みんな、真面目だな。体育館は確かに施錠されて入れない。でも、屋外施設なら、塀を乗り越えて中に入れるだろ? 江田沢君は、道村君と同じぐらい背が高いらしいじゃないか。だったら、簡単だ。ただ、問題はどの競技場に江田沢君がいるかだ。 道村君と津江野君なら、塀を乗り越えて競技場に入れるが、江田沢君が隠れているのとは違う競技場に入ろうと塀を登った場合、その音に気づいた彼が逃げてしまう。そうなったら、捕まえられない。相手はバスケットボール部のキャプテンだ」

大邨さんは、俺たちに説明した。言われてみれば、確かに、その通りだった。でも、俺たちには思いつかなかった。真面目だからだろうか? それより、俺は、大邨さんが、過去の職業によるものかは分からないけれど、こういうことに長けているからだと思った。

そして、

「よく分かりました。ただ、そうなると、今からどうしていいか、よけいに分からなくなりました」

と俺は大邨さんに言った。

みんなも、時計台のある場所から競技場を見渡し黙っていた。

野球場のスコアボードの上の時計が見えた。時計の針が少し遅れていた。時計台の針は正確に午後一時をさしていた。お盆休みの間のメンテナンス作業で時刻は調整されるだろうかと俺は思った。

その時だった。

運動競技場のどこかから小さな音が聞こえてきた。

普段の運動競技場なら、あらゆる競技の音や歓声でかき消されてしまう小さな音だった。

トーントーントーンという乾いた音の連続だった。

聞き覚えのある音だった。

それは、津江野、加辺真気、俺の三人がずっと聞き続けてきた音、そして、今は聞く機会を失ってしまった音だった。

「バスケットボールの音だ」

加辺真気が言った。

「江田沢だ。江田沢が、競技場のどこかでバスケットボールをついているんだ。場所はどこだ?」

津江野が言った。

俺は、その音を聞きながら、江田沢のいる場所を考えた。すると、忘れていたある記憶が鮮やかに蘇った。そして、バスケットボールをつく音は、陸上競技場から聞こえてくると分かった。津江野にも、加辺真気にも、分からなかった。でも、俺には分かった。あの日、陸上競技場で一つの奇跡が起こったのだ。その奇跡を見ながら、江田沢が、俺に本気になる秘訣を教えてくれた。俺は突然、記憶が蘇る不思議さを感じながら、陸上競技場に向かって走り出した。


三.

俺は陸上競技場に向かって走った。江田沢が、バスケットボールをつく音は陸上競技場から聞こえてくると分かったからだ。津江野が追いかけてきた。

俺に追いついた津江野が、

「どうして、陸上競技場って分かるんだ?」

と聞いた。

俺には、ある光景が蘇ったのだ。春の全国大会の地区予選の日のことだった。体育館に向かう俺たちは、相手がYA高校ということから、完全に負け試合に臨む気持ちで歩いていた。江田沢は、そんなチームメイトに苛立ちを感じていたが、相手が上級生だけに強いことも言えなかった。そこで、顧問から既に江田沢とともにスタメンに選ばれていた同級生の俺にだけ、「負ける気で試合に臨むなんて俺には理解できない」と本音を言った。

ただ、その時の俺は、上級生と同じで、実力に差があり過ぎるからと、内心、諦めていた。

そんな俺たちが、陸上競技場の前を通った時だった。スタンドから大きな声援が聞こえてきた。何だろうとGF高校のバスケット部員が陸上トラックに目をやった。

一万メートル走のラストだった。二人の男子の高校選手が、文字通り、デッドヒートを繰り広げていた。どちらの選手からも、絶対に自分が勝つという気迫が、俺たちにも伝わってきた。そして、最後に、二位だった選手が一位の選手を抜いてゴールした。スタンドから驚きの声が上がった。陸上競技場全体もどよめいていた。上級生の一人が、何が起こったのか陸上競技場に行って関係者から詳しい話を聞いてきた。勝った選手は、陸上競技ではあまり有名ではない高校の無名の選手だった。でも、この大会から自分は生まれ変わって勝つんだと試合前に宣言して、本当に勝ったということだった。

「勝つって宣言して、勝てるなら、俺も何度でも勝つって言うよ」

上級生はそんなことを言った。

俺には負け惜しみに聞こえた。

すると、江田沢が、

「あの選手は、とてつもない量の練習をしたんだと思う。でも、それに加えて、どうしても勝ちたいという思いがあったから勝てた。勝ちたいという思いが、一位だった選手より強かったから逆転できたんだ。逆に言えば、どれだけ多くの練習をしていても、勝つ気持ちが無ければ勝てない。つまり、何よりもまず勝つという強い思いが必要なんだ」

と俺に言った。

その時、俺は江田沢の言葉の意味が半分ほどしか分かっていなかった。でも、俺たちの試合の開始前、「最初から諦めているから負けるんだ!」と江田沢が叫んだその瞬間、俺にも、江田沢の言葉の意味が分かった。そして、俺は生まれて初めて本気を出した。


俺は、YA高校戦の記憶が鮮烈すぎて、その直前の陸上競技場での出来事を忘れていたのだ。

「津江野。細かい説明は後でするから、まず、あの陸上競技場の柵を二人で乗り越えよう。モタつくなよ。江田沢が逃げてしまう」

走りながら、俺は津江野にそう言った。

俺の確信のある声に、津江野は江田沢が陸上競技場にいることを悟った。

「よし。江田沢は逃がさない。走るぞ。二人で競争だ」

津江野の言う通り、二人で競争して陸上競技場まで走った。風を切るような感覚が俺には久しぶりだった。時計台から、陸上競技場までそれほどの距離はない。でも、こんな風に全力で走ったのは退部になってから一度もなかった。俺は息が上がった。

「これぐらいで息が上がるなんて、情けない。前は、どれだけ走っても、何ともなかったのに」

俺の言葉に、

「俺も、今ではパーフェクト進学塾の塾生だ。久しぶりに走ったら、足がつりそうになった。俺たち二人とも、もうバスケ部じゃないってことだ。だからこそ、江田沢はリタイアさせちゃいけない」

津江野は、そう言うと目の前にある俺の身長より少し高い柵をよじ登り始めた。

「そうだな。江田沢にはバスケットボールしかない。あいつだけは中途半端に終わらせちゃいけない」

俺も、そう呟くと柵をよじ登った。二人とも、あっという間に柵を乗り越えた。そして、競技場の中に飛び降りた。

「大邨さんが言ったように、簡単に中に入れた。柵の意味がないんじゃないか?」

「本当だな。俺たちが背が高いにしても、これじゃあ意味がない。そして、江田沢も同じように簡単に中に入って今、ここにいる」

津江野と俺が、そう話しながら、辺りを窺っていると、先ほどと同じトーントーントーンという音が、上のほうから聞こえてきた。

俺たちは上を見た。すると、メインスタンドの真ん中に江田沢が立っていた。コンクリート製の通路のところで、バスケットボールをついていた。コンクリートにあたるバスケットボールの音は、普段、体育館で床にあたる音よりも、遥かに乾いていた。それは、今の江田沢の気持ちを表しているように俺には思われた。


「道村、津江野。どうして、俺がこの運動競技場にいるって分かったんだ? それに、どうして、俺が陸上競技場に隠れているって分かったんだ?」

江田沢の声は、メインスタンドから離れている俺たちに、はっきりと聞こえた。誰もいない陸上競技場は、それだけ静かだった。

「その答えは、お前が一番分かっているはずだ」

メインスタンドにいる江田沢に向かって俺が言った。

江田沢は返事をしなかった。

津江野が言った。

「江田沢。お前、バスケットボールだけ持って家出したのか? 着替えも何も持たずに?」

江田沢は、また返事をしなかった。

江田沢は運動公園に自主練習に行って、そのまま帰らなかったのだ。でなければ、バスケットボールだけということにはならない。江田沢は、それほど思い詰めているのだと俺は思った。

その時、突然、大邨さんの声がした。

「どうしてここにいるのが分かったか? 君と道村君の思い出の場所だからだ。そうだろ? 道村君から教えてもらったよ。俺は大邨政男。道村君と津江野君のバイト先の人間だ。君のことを探してくれと君のお母さんからも頼まれている。江田沢君。お父さんは難しい病気だそうだな。お母さんは、看病疲れで眠っていて、君が家を出たことに気づかなかったと言っていた。お母さんは、今、きっと眠ってしまった自分を責めている。そして、君はそのことを分かっている。分かっているけど、家に帰れないぐらい悩んでいる。でも、一人で悩んでいても、解決はしない。どんどん深みにはまるばかりだ。君のことを心配してここに集まったみんなと一緒に考えよう。そうすれば、必ず、解決するはずだ」

大邨さんが、俺たちが乗り越えた柵の向こうから、メインスタンドにいる江田沢を説得していた。その隣には、加辺真気と俺の父親が並んで立っていた。


江田沢は、突然の大邨さんの説得に驚いた。俺と津江野のバイト先の人間といっても、見ず知らずの男であることには変わりない。ただ、大邨さんの説得には反論のしようがなかった。それに、隣にはかつて膝の怪我でバスケットボール部をやめざるを得なかった加辺真気がいた。今の江田沢には、加辺真気の存在は切実な意味があるように思えた。更に、江田沢も面識のある俺の父親がいた。大事な塾の講義を抜け出してまで探しに来てくれたのかと驚いた。

江田沢は動揺した。そして、メインスタンドを下りて、裏の出入り口の鍵を開けた。しばらくすると、江田沢、そして、大邨さん、加辺真気、俺の父親がメインスタンドに姿を現した。

大邨さんが江田沢に話しかけた。江田沢がうなずくのが見えた。

すると大邨さんが、

「道村君も津江野君も、スタンド席に上がってくるように」

と俺たちを呼んだ。


俺と津江野はメインスタンドに上がった。メインスタンドの中央の通路のところに江田沢とみんなが並んでいた。

江田沢は俺たちが現れると目を伏せた。

俺も気まずく感じ、声をかけられなかった。

でも、津江野が、

「江田沢。ここに、一晩中いたの? 寝る場所は? まさか通路に横になって寝たのか?」

と言った。

「メインスタンドの下が通路兼用具置き場になってるんだ。だから、高飛び用のマットの上で寝たんだ」

江田沢は、どぎまぎしながら答えた。

「クッションがありすぎて眠れなかっただろう?」

「確かに。そうだったな」

江田沢は、思わず笑った。

みんなも、ほっとして笑った。

津江野は、別にわざと江田沢の緊張を解こうとして言った訳ではない。津江野は、真面目なのだ。だから、純粋に江田沢が、競技場で一夜を明かしたことに関心を持っただけだった。でも、その変わらない様子が、江田沢を安心させた。

「まあ、細かい話は後にして、とにかく座ろう」

大邨さんが、みんなに言った。

江田沢と加辺真気が、通路の近くの席に座った。津江野は、その場に座ると、すぐ江田沢の母親に電話をした。無事に江田沢は見つかった。これから、江田沢と話し合うから、すぐには帰れないが心配しないでくれと伝えた。そして、江田沢に、「自宅に連絡しておいたぜ」と言った。江田沢は、「すまない」と頭を下げた。


俺は、何となくその場に立っていた。ほっとして疲れが出たのだ。俺の父親は、江田沢のことを知っている。一年の頃、俺の家に遊びに来た江田沢と話をしたことがある。父親は江田沢のことを「バスケット・エリート」と呼び、高く評価している。今も、「見つかって、良かったですな」と言っている。

大邨さんは俺の隣にいた。そして、

「ところで、江田沢君が、陸上競技場にいると分かった理由は?」

と俺に聞いた。

俺は、あの日の一万メートル走の話をした。皆が俺の話を聞いていた。

津江野が言った。

「勝ちたいという気持ちがもっと俺にもあったら、喧嘩なんてしなかったのに」

その場に気まずい沈黙が生まれた。

すると、江田沢が、

「過ぎたことはもういいよ。お前は、今、勉強を頑張っている。それでいいじゃないか」

と優しく言った。

「ありがとう」と津江野は言った。だが、津江野も俺も加辺真気も、何となく物足りなかった。それは、江田沢の優しさの中に諦めを感じたからだった。

そして、江田沢が深く傷ついていることを俺は改めて感じた。


四.

陸上競技場のメインスタンドに上ってみると、右手に海が見えた。海岸沿いの道を車で走った時に見えた浜辺は、建物に隠れて見えない。鮮やかな色のビーチパラソルも海水浴客も見えない。海だけが見える。曇り空のため、海に陽の照り返しはなく、波のうねりだけがある。俺は波のうねりを見ていた。


大邨さんの提案で、俺たちは、江田沢に色々と質問するのは後にした。江田沢は、競技場で一夜を明かした。疲労と空腹がある。それに俺たちへの警戒心も、まだあるはずだ。そこでまず、加辺真気が持っていたパンとミネラルウォーターを渡した。加辺が塾で昼休みに食べるつもりだったものだ。江田沢は、昨日の昼から何も食べていない。だから、むさぼるようにパンを食べた。少し離れたところから、俺がその様子を見ていると、大邨さんが近づいてきて、「みんなに見つかったことで、かえって、ほっとしたんだよ。それで、自分でも、急に腹が減っていることに気づいたんだ」と言った。

江田沢を見ると、確かに、表情が和らいでいた。


それから、俺は、また海を見た。俺も江田沢が見つかったことで、とりあえずは、ほっとした。だが、この後、江田沢を説得しなければならない。説得できなければ、江田沢は帰るとは言わないだろう。でも、改めて考えてみると、何をどう説得すればいいのか? 俺は退部になった。そのことで、江田沢は春の全国大会に出場できなくなったと絶望した。そして、家を出たはずだ。ただ、俺が在籍していたとしても、出場できる可能性は低かった。でも、俺が退部になったことで、更に、出場の可能性が低くなったのも事実だ。その事実を前にして、俺は、江田沢に何と言えばいいのか? 諦めずに頑張れなどとは言えるはずもなかった。

そんなことを考えながら、海を見ていると、後ろから俺の父親の声が聞こえてきた。俺は振り返った。

「江田沢君。久しぶりだね。君のことについて、ここに来るまでに話は聞いたよ。でも、その話はまた後にしよう。それより、まず、ご闘病中のお父様に、お見舞い申し上げます」

父親がまともなことを言ったので、俺は、良かったと思った。とんでもないことを言い出すと収拾がつかないのが、俺の父親だ。

パンを食べ終わった江田沢も、

「ありがとうございます」

と礼を言った。俺の父親の気遣いに感謝していた。

俺の父親は、江田沢と加辺真気の近くに座っていた。講師という仕事柄、毎日、若者と接しているため、二人のすぐ近くに座る姿も自然だった。俺は、普段あまり良い感情を抱いていない父親を、少し見直した。


父親は話を続けた。

「江田沢君。私は元中学校教諭として、君の悩みに少しだけ助言をしようと思います。まず、孝次のことを高く評価してくれてありがとう。ただ、孝次は、子どもの頃、勉強が嫌で逃げたように、バスケットボールも、逃げたんだと思う。君のようにキャプテンという重責を担える人物には分からないと思うが、学年が上がるにつれて責任が大きくなってきたから逃げた。万引きまでして退部になった理由は、そんなところだろう。だから、孝次に過度に期待していたということで、諦めて欲しい」

俺は、江田沢が何を思い詰めているかを皆に話した時、俺自身が、バスケットボールが怖くなって逃げたことは話しそびれた。だから、その後、車の中で、津江野と加辺から、説明を受けた父親もそのことは知らない。にもかかわらず、父親はほぼ言い当てた。やはり、父親だけに俺の性格をよく把握していた。江田沢は答えに困っていた。江田沢は、俺から直接話を聞いている。だから、父親が俺の性格からほぼ真相を言い当てたと分かった。だが、それだけのことでしかなかった。それだけのことで諦められるなら、悩んで運動競技場で一夜を明かしたりはしない。


だが、父親は、江田沢の様子も気にせず、更に、話を続けた。

「中学校教諭時代、私も、運動部の顧問をしたことがあります。その時の経験から、江田沢君にお尋ねします。今、同級生の二年生の実力が、次の春の全国大会への出場には未だ達していないと聞きました。そこで、今の一年生の実力はどうですか?」

俺の父親の問いに江田沢は、

「ポテンシャルは高いと思います。ただ、まだまだです」

と答えた。

すると、父親は、

「ということは、現時点では、まだまだだけど、ポテンシャルは今の二年生より高いということですか?」

と更に尋ねた。

「単純に比較はできませんが、そうかもしれません」

江田沢は、父親の質問に当惑気味に答えた。

江田沢の答えを聞いた俺の父親は、

「今の話から、全国大会出場の秘策が見つかりました。二年生と一年生を総入れ替えするのです。スタメン、レギュラーともに江田沢君以外は全て一年生にしなさい。二年生は外しなさい。そうすれば、必ず、全国大会に出場できます」

と強く断言した。静かな陸上競技場に、俺の父親の声だけが響いた。


江田沢は、あ然として何も言えなかった。

「父さん。何を言い出すんだ」

代わりに俺が、父親に向かって言った。そして、また俺の父親が、おかしなことを言い出したと慌てて父親の近くに向かった。江田沢の説得は、この後、大邨さんがする。父親の話を止めなければ。そう思いながら、俺が父親に近づくと、

「心配するな。思いつきで喋っているんじゃない。根拠のある話だ」

と父親は言った。


それから、俺の父親は俺も知らない話をした。

俺がバスケットボール部を退部になった時、俺が、退部になるために、わざと万引きをしたと父親は見抜いた。そして、父親なりに心配し、俺の部活動がどんなものだったのか顧問の大木田に尋ねに行ったと話した。

顧問の大木田は、元中学教師、現塾の講師である俺の父親を同業者と捉え、父親の質問に詳しく答えたようだった。もちろん、学校関係者以外に話してはいけないことまで話したわけではない。

「大木田先生に教えてもらったが、今の一年生のスポーツ推薦から、合格基準が厳しくなったそうだな」

父親が俺に尋ねた。

俺は、そういうことに無頓着なため、

「ああ。そうだったと思う」

としか答えなかった。すると、

「そうです。今の一年の入試の時から運動部全体でスポーツ推薦の合格基準を上げました。身体能力、スポーツ技術力、学力、人格、その他の項目の全てを厳しくしました。目的は運動部が強くなるためです」

と江田沢が、代わりに説明した。

更に、津江野が、

「GF高校はスポーツが売りの割には、中途半端な成績しか残せてないからな」

と言った。

「確かに、そうよね。GF高校はスポーツで知名度がある高校でイメージは悪くない。ただ、結果を残せてないから、徐々に、人気が落ちている。そして、ZT高校が理数科コースを作ったのをきっかけに、生徒が流れたという問題が発生した」

加辺真気はZT高校に生徒が流れた経緯を話した。

俺は、ただその説明を聞いて納得するばかりだった。

俺の父親は、

「さすが、キャプテンの江田沢君。そして、我が塾生の津江野君と加辺さんだ。情報収集能力に秀でた者は人生の勝者になれます」

と三人を褒めた。

それから、俺を見て、

「情報収集能力のないお前なりに、今の三人の話を聞いて、何か閃くことはないか?」

と聞いた。

俺が、ぼんやりしていると、今度は、大邨さんが、

「一年生の中で、即戦力になる生徒を試合に出すようにする、でしょうか?」

と言った。

「俺もそう思いました」

江田沢が言った。そして、

「現に今、一年生も試合に出すようにしています。ただ、やはり、まだまだです」

と続けた。

すると、それを聞いた俺の父親が、

「江田沢君。早急に二年生と一年生を総入れ替えするんだ。これまでより厳しい基準のテストに合格した一年生が、二年生より優秀なのは当然です。テストは公平かつ正直なのです」

と言った。

それに対して、江田沢が、

「受験のペーパーテストでも、学生の本当の力は測れないと言います。それと同じで、スポーツ推薦のテストだけで部員の力は測れないと思います」

と反論すると、

「生意気なことを言うんじゃない! 私は塾の講師の前には中学の教師だったんだ。だから、そんなことは言われなくても分かっている。分かっていて言ってるんだ!」

と父親は声を荒げた。

俺は慣れていたが、父親の近くにいる江田沢と加辺真気が、恐怖心を抱いたのが分かった。すぐに大邨さんが、

「道村さん。落ち着いてください」

と自制を促した。

相手は、悩んだ挙句、家を出て、運動競技場で一夜を明かした高校生です。俺には、大邨さんが、そう訴えているように思えた。そして、俺の父親には、その思いを受け止める感受性はないことを俺は知っていた。俺のために、顧問の大木田に会いに行った父親は善人だ。でも同時に、俺の父親は、その善意によって人を傷つける、そういう厄介な人物だ。つまり、かなり独善的なのだった。


五.

俺の父親は、「顧問の大木田先生から聞いたところによると」と言っては、大木田が話すはずのないことばかりを話した。大木田は、無愛想で生徒を褒めることもないが、実力主義で、公平な人間だった。実力さえあれば、一年生でも積極的にスタメンで出場させる。江田沢がそうだった。それに、春の全国大会予選で、俺がスタメンに抜擢されたのも、大木田が実力主義だからである。俺の父親のように、入試の基準が厳しくなったというだけで、二年生と一年生を総入れ替えしろと言うほうが、偏りがあると俺は思った。テスト偏重主義だ。そして、江田沢も同じことを思っているのが表情から分かった。でも、相手が俺の父親だけに遠慮して言えないのだった。

そこで俺が、

「二年生と一年生を総入れ替えするなんて、大木田先生が認めない。それに、決めるのは大木田先生で、江田沢じゃないから、言っても仕方がない。父さん、もういいよ」

と言った。

江田沢が、ほっとしたのが分かった。

津江野と加辺真気も、やっと終わったという表情をした。

大邨さんは、一応、無関心を装っていた。

そして、俺は、それをきっかけに、そのまま江田沢と話をしようとした。まず、家に帰らなかった原因は、やはり、俺にあるのかを確認して、その他にも幾つか大事なことを尋ねようと思ったのだ。

だが、父親が立ち上がって、通路にいる俺の前まで来た。そして、俺を怒鳴りつけた。

「孝次! お前が全ての原因なんだろう。お前は、子どもの頃から、ずっとそうだ。お前の出来の悪さが、周りを混乱させるんだ。勉強から逃げ、今度は、バスケットボールから逃げた。何故、逃げるか分かるか? お前は元々、出来が悪いから逃げるんだ。逃げるから、ものにならないんじゃない。お前は生まれつき出来が悪いんだ。世の中には、出来る人間と出来ない人間の二種類しかない。そして、お前は出来ない人間なんだ。何よりもまずそのことを自覚しろ。そうでないと、江田沢君のような被害者が、これからも生まれ続ける!」

万引きをして退部になった俺に、父親が苛立ちを感じていることは分かる。でも、ここまで言われるとは思わなかった。そして、俺は鬱積していた思いを爆発させた。

「確かに、俺はバスケットボールが怖くなって逃げた。でも、それは、子どもの頃から、父さんに、お前は出来が悪いと言われ続けて、本当に俺は出来の悪い人間なんだと諦めていたからなんだ。そんな俺が、突然、春の全国大会の地区予選で、将来有望な選手として注目を集めたんだ。その時の俺の気持ちが、あんたに分かるか? 俺は訳が分からなくなったんだ! それで怖くなって逃げたんだ!」

俺は自分の思いをぶちまけた。俺は、ある時期から、自分が何故、怖くなったのかについて気づいていた。でも、出来が悪いと否定され続け、諦めの中に生きてきた俺は、それを言うことすら諦めていたのだった。俺は自分で思っている以上に抑圧されていた。

俺に反論された父親は、更に激怒し、

「江田沢君を除いて二年生は全員出来が悪い人間の部類だ。お前も、他の二年生と同じだ。お前がまだ部に在籍していたら、出来る一年生と総入れ替えにされていたんだ。将来有望だなんて勘違いするな!」

と滅茶苦茶なことを言った。

江田沢が、慌てて立ち上がると通路にいる俺と父親のところまで来た。そして、本来、説得される立場の江田沢が、俺と父親を説得した。

「俺が家に帰らなかったのには、確かに、道村のことがあります。でも、父親の病気のことで、悩んでいたこともあるんです。だから、喧嘩をやめてください」

津江野と加辺真気は、何も言えず、俺と父親を見ていた。

すると、大邨さんが、俺と父親のほうに来て、

「道村君も、道村君のお父さんも、もうやめましょう。病気のお父さんのことで悩んでいる江田沢君の前で、父子喧嘩をするのは残酷です」

と言った。

俺は、その言葉にはっとして、江田沢を見た。そして、「江田沢。すまん」と言った。だが、父親は止まらなかった。

「あなたは、何者ですか? 何故、真夏に上着を着てネクタイまで締めているんですか? あなたは、あの店の店長ではありませんね。私は店長の顔を知っています。そんな堅苦しい格好をして、あの店のオーナーですか? あなたは、どうも怪しいですな」

こう大邨さんに難癖をつけた。

俺たちは、大邨さんが怒るのではないかと思った。

しかし、大邨さんは怒らず、

「私が何者かと問われれば、私は、あなたの言う出来の悪い人間です」

こう言った。

それを聞いた俺の父親は、

「何ですか、それは? バカにしているんですか? ちゃんと名前と職業を言いなさい」

と言った。

すると、大邨さんは、

「大邨政男。職業は、元暴力団員。現在は『洋食屋 かねしげ』の従業員。今は、カタギの人間です」

と言った。

大邨さんは怒らなかった。だが、もっと恐いことを言ったと俺は思った。

俺の父親は、それを聞いて、

「元暴力団員ですか。暴力団とは反社会的勢力のことですか? 所謂、ヤクザのことですか?」

と、大邨さんに確認した。

そして、

「そうです。全部合っています。ヤクザです」

と、大邨さんに言われた。

大邨さんは、俺の父親に呆れ気味だった。俺の父親を黙らせるには、これを言うしかないと思った。だから、元暴力団員だと自らの過去を明かしたのだと俺は思った。


大邨さんと対峙する形になった俺の父親は、

「脅しですか? 私は屈しませんよ」

と言った。それに対して、

「いえ、違います。先ほどの質問にお答えします。真夏に上着を着ている理由です。理由は入れ墨がシャツから透けて見えるのを隠すためです。私は背中から腕まで入れ墨があります。だから、真夏でも、半袖シャツは着られません。長袖シャツを着ていても、入れ墨が透けるので上着を着ています。確認が必要なら、お見せしますが?」

大邨さんはそう言った。

「やっぱり、脅しじゃないですか? そんなこと無理に答えてくれなんて私は言っていません」

父親の言うことも事実だと思った。傍で聞いている俺たちも、大邨さんが恐い。

「違うんです。何故、私が入れ墨を入れたのか。そのことをどうしても道村さんに聞いて欲しいから、入れ墨のことを明かしました」

「私に、あなたが入れ墨を入れた経緯について聞く必要があるのですか? 失礼ですが、私は、以前は中学の教師、今は塾の講師をしている関係上、暴力団や入れ墨との関わりは全くありません。そして、これからもありません」

これも父親の言う通りだった。だとすれば、大邨さんが、自らの過去を俺の父親に明かしたことは、脅しになるのだろうかと俺も思った。黙らせるということは、つまり、そういうことになるのではないか?

すると、大邨さんが俺の父親に、

「道村さんには関係がなくても、私には関係があります。何故なら、亡くなった私の父は中学校教諭だったからです」

と言った。大邨さんの声には切実な響きがあった。

俺の父親も、そのことに気づき、

「なるほど、そうですか。お父様は、生前は中学校教諭をされていたんですか? だとしても、その事実が直接、私に関わってくることはないと思います。とはいえ、お父様が私と同じ中学校教諭であったことを知った今、大邨さんと私との間に全く関係がないとは言えなくなりました」

と冷静さを取り戻した。

父親の返事を聞いて、大邨さんは、江田沢に言った。

「江田沢君と話しをするつもりでここに来たけれど、道村君と道村君のお父さんも交えて、ゆっくり話しをしたほうがいい気がするんだ。江田沢君。いいかな? 道村さんも、それでいいでしょうか?」

江田沢は、「はい。分かりました」と返事をした。

俺の父親も、「それが、江田沢君のためになるのなら、どうぞ」と返事をした。

俺は、黙っていた。せっかく江田沢を見つけたのに、父子喧嘩をしたことが恥ずかしかったからだった。


大邨さんは、自分が噂通り元暴力団員であり、背中に大きな入れ墨を入れていることまで明らかにした。その理由が、江田沢と俺の悩みを解決するためにあるのなら、そこには、どんな接点があるのか? 万引きをしてバスケットボール部を退部になった高校生と背中に入れ墨を入れた元暴力団員。俺には全く想像もつかなかった。


六.

八月の午後二時の陸上競技場は、普通なら、炎暑のため、競技選手も長くはトラックにいられない。メインスタンドも同じである。だが、今日は曇り日で、少し肌寒いほどだった。グランドからメインスタンドに冷たい風が吹いてくる。俺と大邨さんと父親は、スタンド席に並んで座った。江田沢と津江野と加辺真気は、三人の前の通路のコンクリートの上に直接座った。向かい合わせになるには、それがちょうど良かった。冷たい風が直接当たり、Tシャツ一枚の俺は寒いと思った。津江野も加辺も江田沢も同じだった。父親はそういうことは気にしない。そして、大邨さんは、

「夏が、毎日、今日みたいな日だと楽なんだけど。汗をかかないから、シャツから入れ墨が透けない。だから、上着も着なくて済む」

と言った。

俺たちは、何と言っていいか分からなかった。すると、俺の父親が、

「暑さと入れ墨の関係は分かりました。でも、ネクタイは外してもいいんじゃないですか?」

と言った。

「そうでした。今朝、江田沢君がいなくなったって聞いて、慌てていたので、外すのを忘れていました」

大邨さんが、父親に言われた通り、ネクタイを外した。

その様子を見て、「俺のために、すみません」と江田沢が謝った。

その間、俺の父親は、満足そうに大邨さんを見ていた。助言を素直に受け入れたからだった。父親は、暴力団や入れ墨といった世間一般に恐れられるものに恐怖を感じないようだった。俺の父親は、決して、度胸があるわけではない。それより、精神の有り様が普通とは違うのだと思った。


それから、大邨さんが俺と津江野を見ながら、

「君たちが、バイトに入ってからずっと思い違いをしていることを教えるよ。俺の背中の入れ墨は、弁天様じゃないんだ。昇り龍なんだ」

と言った。

俺と津江野が驚いた。そして、津江野が臆せず聞いた。

「弁天様の入れ墨じゃないんですか?」

「弁天様っていうのは、バイトの学生が広げた噂だよ」

大邨さんは答えた。

考えてみれば、大邨さんの背中に入れ墨があるかどうかも分からないのに、弁天様なんて言えるはずがなかった。俺は、ようやくそのことに気づいた。そして、そのことを津江野に言った。

それから、バイトの面接の帰り、津江野から聞いた弁天様の入れ墨の話をすぐに信じた自分を思い出した。

「本当だ。俺も何で信じたんだろう?」

津江野も、XZ大学の学生から教えられた噂をすぐ信じた自分を思い出した。

「噂っていうのは、そういうものさ。根拠がなくても広がる。そして、みんなが信じるのが噂だ。ただ、俺の場合、全く根拠がない訳じゃない。弁天様じゃないけど、入れ墨は入れている。それに元暴力団員だ。広まった噂に対して、それは違いますとは言い切れない。だから、俺にとって、噂ほど厄介なものはない。そのために、俺は自分の生まれ育った街を離れて、俺を知る人のいないこの街に来た。そして、かねしげに世話になって、もう五年になる」

大邨さんは、これまでを思い出すかのように言った。

今度は、俺一人が驚きの声を上げた。

「大邨さん。あの店に、まだ五年しかいないんですか? 大邨さんは、俺が子どもの頃から、かねしげで働いていると思っていたんですが?」

それを聞いた大邨さんが笑って言った。

「俺が道村君の子どもの頃から、かねしげで働いていたら、俺は随分前にヤクザの世界から足を洗ったことになる。そうだったら、良かったんだけど、現実はそうじゃない。道村君は思い違いをしているんだと思う。俺があの店に世話になる時に、かねしげで長く働いていた中村さんという人が退職したんだ。偶然だけど、俺と入れ替わりのようになった。中村さんはホール係でいつもブレザーにネクタイをしていた。俺は中村さんに倣ってブレザーにネクタイを締めるようにしたんだ。だから、道村君の言っているのは、俺じゃなくて退職した中村さんのことだと思う」

俺の父親も言った。

「お前が子どもの頃、あの店で見た人は、私も覚えている。お前が子どもの頃に、その人は、既に今の私より歳が上だった。もし、その人が大邨さんだとしたら、今の大邨さんは、もっと歳を取っていないとおかしい。アルバイトを始めてから毎日、大邨さんと顔を合わせているのに、気がつかなかったのか?」

俺はその通りだと思った。それから、子どもの頃から見ていた中村さんを思い出そうとしたが、もう思い出せなかった。大邨さんの印象が強すぎて消えてしまったのだった。繋がっていると思っていた子どもの頃からの思い出が突然、断ち切られた気がした。俺は少しさみしく感じた。そして、人間の記憶とは、自分で考えているほど当てにならないと思った。


大邨さんは江田沢を見て話し始めた。

「初めて会ったばかりの君に、私から話すことがあるのかと疑問に思うかもしれない。現実に、この前、道村君から、彼のお父さんが中学の教師だったと聞かされるまでは、私から君に話すことはなかったと思う。それは私が、自分の父親のことを忘れていたからだ。人は忘れるからこそ生きられる。そんな風に言われることがある。私も父親のことを忘れていたことで気持ちが楽だった。亡くなった父には申し訳ないけど、そんな父子だった」

大邨さんは、そこまで話したところで黙った。

俺は、中村さんを忘れたことをさみしく感じたばかりだった。でも、大邨さんの話を聞いて、記憶の性質よって、忘れることの意味合いは変わるのだと思った。

そして、道村が、

「俺の父親は、今、病気で苦しんでいます。ただ、病気になる前は、明るくて、子どもにも優しい人でした。だから、俺は父親を尊敬しています。それに、教師ではありません。大邨さんのお父さんの話をするのなら、道村と道村のお父さんにするべきじゃないでしょうか? さっき、大邨さんも道村のお父さんにそう言っていたと思います」

と、大邨さんに言った。

大邨さんは答えた。

「江田沢君の言う通りだ。道村さんに聞いて欲しいと言ったのは、私の父も教師だったからだ。ただ、これから話すことは、江田沢君にも聞いて欲しい。そして、ここにいる、みんなにも聞いて欲しい。私が、道村君のお父さんが教師だと知ったのは、八月に入ってすぐの定休日だった。用事があって私は店にいた。そこに、道村君が現れて、二人で色んな話をした。その時、彼のお父さんが中学の教師だったと知った」

俺はその話を聞いて、塾の近くの喫茶店で津江野と加辺真気に会った日のことだと思った。そして、みんなにそのことを説明した。

すると津江野が言った。

「あの日か。同じ方向に帰るはずなのに、お前だけ、反対方向に向かったから、不思議に思ってたんだ。かねしげに行ってたのか」

俺の父親は言った。

「塾の近くのあの店まで来ているのなら、孝次も夏期講習にも参加したらいいんだ。私と母さんで猛特訓してやるのに」

そして、俺をにらんだ。

真面目に言ったのだが、みんなは、冗談だと思って笑った。その場が少し和んだ。


それから、大邨さんは、立ち上がって少し歩き、通路に立って話し始めた。

「道村君と話をしていて、その最後に彼のお父さんが中学の教師だったことを教えられたんだ。そして、その時、私は自分が逃げていると感じた」

大邨さんは、この街で生きるようになり五年になる。入れ墨は消せないものの、ヤクザの世界から足を洗い、知り合いの紹介でかねしげに勤め始めた。優男の大邨さんは、店にいても周囲から浮くこともなく、すぐに店に馴染んだ。そして、歳月の流れとともに、大邨さんは、自分にとって暗い記憶である父親のこと、そして、暴力団員だったことを忘れるようになった。

あの日も、店の中で、一人、壁紙の見本を見ていた大邨さんは、二つの暗い記憶を忘れていた。ヤクザの世界から足を洗って五年、もう過去は記憶の中から消えていた。その時だった。俺が店に現れた。そして、話の最後に父親が教師だったと明かした。それを聞いた大邨さんは、たとえ自分が忘れていたとしても、過去は消せないと思った。教師であった父親のこと、暴力団員であった事実、これらは歳月が流れても消えることはない。歳月の流れとともに、遠い過去にはなるだろう。でも、事実が消えることはない。そう思った。そして、大邨さんは考えた。自らの過去を隠して五年の歳月を過ごしてきたが、それで本当にカタギの人間になったと言えるのだろうか? みんなに自分の過去を明らかにして、その過去も含めた自分を認めてもらってこそ、ようやく、自分はカタギの人間になれるのではないか? そして、その時、初めて、自分は一市民として本当に社会に受け入れられるのではないのだろうか?


「だから、私の話を聞いて欲しいんです。皆さんに話を聞いてもらったことで、果たして、私は過去を清算できるのかどうかは分かりません。でも、試さずにはいられないのです。もしかしたら、江田沢君や道村さんに話をするというのも、口実で、本当は、私がみんなに話を聞いてもらいたい。それだけなのかもしれません。私は自分の過去と決別したい。たとえ、背中の入れ墨は消すことができなくても、私は、この入れ墨を入れる前の平凡な男、大邨政男として、もう一度、生きてみたい。そのために、私が、自らの過去を打ち明けられるのは、今、この場所しかない、そう思うのです」


大邨さんが、こんなに感情を露わにして話すのを俺は初めて見た。

誰も、何も言えなかった。俺の父親も、黙ってうつむいていた。

俺は、本当は大邨さんの過去は知らないままでいたかった。あまりにも違う世界の話が出てきた場合、今はその世界の人ではないと分かっていても、これまでのようには大邨さんに接することができなくなる気がしたからだ。それでも、同じ教師の下に生まれた子として、どうしても知りたいことがあった。それは、何故、背中に入れ墨を入れたのか? だった。 俺には、それが教師の子にとって、対極にある行為に思えたからだった。


第五章(弁天)

一.

大邨さんは、先ほどまで立っていた場所に腰を下ろした。津江野と加辺真気と同じように通路に直接座った。そして、皆から少し離れた場所で話し始めた。大邨さんの低い声は、俺たちのところにまでよく届いた。


「私の父は、子どもの頃から絵を描くことが好きで、絵画教室に通い、中学に入ってからは、美術部にも所属して絵を描いていました。当然、周りも父の将来の夢は画家だと知っていました。高校の時には、絵画コンクールに油絵を出品し、最優秀賞に選ばれました。この受賞で父も自信を持って美大に進学すると祖父母に言ったそうです。この話は祖母から聞きました。夢を持つ一人息子の姿に自分も誇らしい気持ちになったそうです。祖父はその時、何も言わなかったそうです。高校二年生の終わりに、突然、祖父は父に教師になれと言いました。祖父は町会議員でした。小さな町でしたが、昔のことでもあり、町会議員に大きな力がありました。また、祖父は家族の中でも、絶対的な存在でした。祖父が教師になれと言えば、それに逆らうことはできませんでした。祖父はそれまで父が画家になることに賛成も反対もしていませんでした。それが突然、教師になれと言ったのは、町議会で、町の小中学校の教員不足が問題になったからでした。ちょうど大学に進学する前だった父を教師にさせようと考えたのです。父が子どもの頃から絵画教室に通っていたことも、コンクールで最優秀賞を受賞したことも、美大に進学したいと言ったことも、祖父は全て無かったことにしました。祖父はそういう人でした。父の夢は、祖父のひと言で消えました。父は祖父の言う通りに地元の大学の教育学部に進学しました。祖母によると、本来、父は明るく活発な青年だったそうです。それが、大学に通うようになってからは、いつも青ざめた顔をして、笑うこともなくなり、祖父母と会話を交わすこともほとんどなくなったそうです。特に中学の数学の教師が足りないため、父を数学の教師にさせようと教育学部に進学させた祖父でしたが、父のあまりの変わりように、美術の教師になってもかまわないと言ったそうです。好きな絵を教えながら、自分も好きな絵を描くことができるからです。祖父がそんな風に、ある意味で、妥協案を出すことなどないことで、それだけ、父の変化は深刻だったのだと思います。でも、それに対して、父はこう言ったそうです。『数学の教師が不足しているから、私は教育学部に進学しました。だから、美術の教師にはなりません』。その時の父の言葉には、祖父への恨みが込められていたと祖母は言っていました。父は画家になる夢を潰した祖父への当てつけのような意味で数学の教師になるつもりだったのではないかと私は思います。私は父のこの時の心境を考えるたび、既に父の心は、倒錯していたと思うのです」


「父は母と見合い結婚をしたのですが、それも全て祖父が決めました。母は父が何を考えているか分からず、ずっと苦労していました。子どもの頃のことで、はっきりと覚えていることがあります。父の書斎には、沢山の本がありました。父の仕事の影響なのか、私は小さい頃から本をよく読んでいました。その日も、何か面白い本はないかと書斎の本棚を見ていて、あることに気づきました。画集など絵に関する本がないのです。私は、父が画家になりたかったことを祖母から聞いて知っていました。だから、不思議に思って父に尋ねました。最初、父は、絵本がないと私が言っていると思って、お前でも、まだ絵本を読むことがあるのかと笑いました。でも、私が絵に関する本がないと言っているのだと気づくと、絵の話は二度とするなと激高しました。以来、私は父に絵の話はしなくなりました。そして、その時、思いました。今も父は画家になれなかったことに強いこだわりがある。だから、絵に関する本を一切置いていないのだと。それに、絵画コンクールで最優秀賞を受賞したことがあるほどなのに、父は一切絵を描きませんでした。ずっと不思議に思っていたのですが、この時、その意味も分かりました。画家への執着が未だに強くあり過ぎるから、かえって、絵が描けないのだ。私は、父が、過去に固執していることを知りました」


「才能のある人が、それを発揮する機会を失った時、その後の人生が抜け殻のように感じる場合があると思います。私の父もそうだったのだと思います。私の父は人生が充実していた過去にすがりました。人は現在を生きるものです。過去を生きることはできません。でも、父は過去を生きようとしました。父はずっと不可能に挑戦していたことになります。その結果、父は現在と過去の自分の板挟みになりました。教師として現在を生きる日常と過去を生きる自分との間にズレが生じたのです。このズレを埋めるために父はアルコールに頼るようになりました。学校が終わってから、無理をして現在を生きた自分を、過去の自分に戻すためにアルコールを飲む必要がありました。飲むことで、ようやく本来の自分が取り戻せた気になったのだと思います。それだけ、自分の中に大きなズレを感じていたのでしょう」


「父は、元々は、つき合い程度にしか酒を飲むことはありませんでした。それが、私が中学生の頃には、泥酔して帰宅することが、ほとんど毎日になりました。でも、そのうちに素面で真っ直ぐ帰宅するようになりました。もう酒を断ったのかと思いましたが、違いました。教師という仕事柄、世間の目を気にして外では飲まないようになったのです。家に帰ってから、大量の飲酒をし、毎晩、アルコールの海に沈んでいきました。でも、不思議なことに朝になると、きちんと学校に行き、生徒に数学を教えていました。町には二つの中学校があり、私の通った中学校と、当時、父の勤めていた中学校は別だったので直接、父が授業をしているところは見たことはありませんでした。それでも、小さな町だったので、私の父が真面目な教師だということは、人づてによく聞きました。しかし、それは学校での話であり、父は、次第に酔って家で暴れるようになりました。父は酒乱になったのです」


「私が高校生になった頃には、夜、父が酔って暴れるのは日常的になっていました。テーブル、椅子、食器棚は破壊されていました。母に暴力を振るうようになりました。私にも暴力を振るおうとしました。私は、逃げました。家を飛び出し夜の町を走って逃げたことも何度もありました。依然として、昼間はきちんと仕事をしていましたが、父の酒乱の噂は校長や教頭の耳にまで届いていました。注意もされたようですが、勤務中は酔っておらず、仕事も真面目にしているため、学校側も、どう対処していいのか困っていたようです。父は、酔って暴れる時、暴言も吐きました。母への激しい暴言。私への激しい暴言。酔っていたからと許されるような範囲ではありませんでした。そして、『俺は、本当は画家になっていたんだ。お前たちなんて、俺の家族になれるような人間じゃなかったんだ』。このことを必ず口にしました。私が高校三年生になったばかりのある日、母は耐えかねて実家に帰りました。私は、大学に進学するつもりはなかったのですが、父の酒乱に負けたくないという思いから受験勉強をしていました。酒乱の父親のいる家庭で育ったことによって、非行に走るようなことにはなりたくなかったのです。他人からそんな風に蔑まれることには耐えられなかったからです。でも、ついに限界が訪れました」


「夏休み前の夜のことでした。私が受験勉強をしていると、酔った父が私の部屋に入ってきました。私が勉強をしているのを見ると、『お前の頭ではいくら勉強しても、大学には入れない。無駄なことはやめろ。お前は俺と違って、生まれつき出来が悪い』。この言葉を聞いた時、私は椅子から立ち上がって衝動的に父を突き飛ばしました。父は倒れてタンスに頭をぶつけました。そのまま動かなくなったので、死んだのかと思いました。でも、気を失っていただけでした。すぐに体を起こすと猛然と私につかみかかってきました。取っ組み合いの喧嘩になりました。私はそれまで父と喧嘩になることを避けてきました。そのために、夜の町に飛び出して逃げてきました。でも、この時、私は、生まれて初めて、父を殴りました。父は昏倒しました。そのまま床に仰向けに倒れました。私は、怖くなりました。母はいない。そして、父は息子に殴られて気絶している。その家の静けさが怖くなりました。私は、これまで感じたことのない恐怖を覚えました。私は、自分の勉強机の引き出しから僅かの貯金を取り出すと、家を飛び出しました。そして、そのまま私は故郷を捨て、大きな街に出ました。そこで、ある男に出会いました。この男に出会ったことで、しばらく後に、私は、ヤクザになりました」


二.

俺の父親が、大邨さんに、大きな街というのは具体的にはどこのことなのか? 差し支えなければ教えて欲しいと言った。大邨さんは、それにうなずき街の名前を言った。大きな街とはある地方都市のことだった。俺の住むこの街から遥か遠くにあるため、俺は名前しか知らない街だった。


「家を出てすぐに電車に乗りました。夜の車両にはほとんど乗客はいませんでした。高校生の私が一人で乗っているのは明らかに不自然でした。車掌は私に気づいていたはずです。でも、関わるのが面倒だったのでしょう。車掌は何も言わず私の前を通り過ぎました。私は深夜にその街に着きました。私は故郷には二度と帰らない。この街で生きると決意しました。街では、深夜営業の食堂に住み込みで働くようになりました。歓楽街の裏通りにある水商売の人たち相手の店でした。家出した未成年を雇ったのはその店だけでした。情けをかけた訳ではなく、人出が足りなかったからでした。しばらくすると、私は、店に来る常連と話をするようになりました。その中に、藤代という男がいました。私より少し歳が上なだけの青年でした。髪を短くして精悍な顔をした男でした。いつも高価なスーツを着ていて、一目見てカタギの男ではないと分かりました。ただ、暴力団員ではないようで他の常連客と気軽に話をしていました。私が、仕事が休みの日でした。街を歩いていると後ろから声をかけられました。振り返ると藤代が立っていました。秋になっていました。私は給料で買った安物のセーターを着ていました。藤代はその日も高価なスーツを着ていました。そして、私の身なりを見てから、『まともに食ってないだろう? 旨いもん食わせてやるよ』と言いました。食堂のまかないしか食べていない毎日だった私に、藤代は分厚いビフテキをご馳走してくれました。それから、私に、何故、この街に一人でいるのか、故郷の親御さんはどうしているのかと聞きました。私は酒乱の父から逃げてきたと話しました。すると、藤代は目に涙を浮かべて同情し、俺も、父親の暴力から逃れるためにこの街に来たと言いました。『俺とお前は同じ不幸な境遇に生まれたんだ。でも、負けちゃいけねえぜ。俺のことを実の兄と思って頼ってくれ。俺はお前を実の弟と思って何でも力になるから』と藤代は言いました。私は地獄に仏とはこのことだと藤代の言葉に感謝しました。それからしばらくして、私が働いていた食堂に父が来ました。警察に私の捜索願は出さず、父が休みの日を使って一人で探し続けていたそうです。理由は、実の父親を殴って逃げた息子をどうしても自分の手で捕まえたかったからでした。実際に、食堂に入ってきてそう言いました。店主がそれを聞いて気味悪がって、私に店の外で父親と二人で話し合って来いと言いました。私と父が、近くにある喫茶店に向かっている時でした。突然、目の前に藤代が現れました。そして、『兄貴の俺に相談せずに、父親と話し合いなんて、俺のことを信じてないのか?』と言いました。私は突然、現れた藤代に驚いて何も言えませんでした。でも、父は藤代に、関係ない人間が口出しするなと言いました。すると、藤代が、『俺にとって政男は本物の弟としか思えない。俺も政男もろくでもない親父を持った不幸な兄弟だ。ごちゃごゃぬかすと俺にも覚悟がある』と言って、さっと上着を脱ぎました。そして、シャツも脱ぎ捨てました。藤代の背中には大きな龍の入れ墨が入っていました。私の父は、あんたヤクザかと怯えた声で言うと、そのままその場を逃げ去りました。昼間の歓楽街に人はまばらでした。でも、皆が藤代の背中の入れ墨を見ていました。私も生まれて初めて見る本物の入れ墨に驚いていました。藤代は私にこう言いました。『驚かせて悪かった。でも、入れ墨ってもんは、こんな風に弱いものを助けるためにあると俺は思っている』。私は藤代の侠気に魅了されました。藤代こそ本物の男だとその時から、心酔するようになりました。それからは、食堂の仕事以外の時間は、藤代の舎弟のようについて歩きました。そして、いつか自分も藤代のような男になりたいと思うようになりました。そんなある日、藤代が、お前に会いたいと言っている人がいると私に言いました。藤代が、親のように慕っている人だと言いました。そして、お前の男の器量を見極めるために、二人きりで会いたいそうだと言われました。私は藤代に言われた通り、指定された場所に行きました。そこは、歓楽街の近くにある暴力団の事務所でした」


「私は事務所の中で、生まれて初めて暴力団員に会いました。私のような非力な青年が事務所に入っただけでも、皆、緊迫し私をにらみつけました。部外者は全て敵と見做されるのだと知りました。今でも、その時のことが印象に残っています。組長の部屋に通されました。組長は、組員と違い、優しく私に接しました。私のことは藤代から聞いて全て知っていました。そして、こう言いました。『大邨君。君のお父さんが、近いうちに、また君を訪ねてくるはずだ。かなり強引なところのある人らしいね。逃げていても限界がある。それに、男は何事にも逃げてはいけない。君は藤代みたいな男になりたいか?』。私は素直に、はいと答えました。すると、組長は、『大邨君なら藤代になれる。そのために、君も背中に入れ墨を入れなさい。金のことは大丈夫。私が出す。君はうちの組に入って本物の男として生きろ。そして、いずれ藤代を超える男になるんだ』。組長の言葉に圧倒された私は、すぐに『男になります』と返事をしました。事務所を訪れた時から、緊迫した雰囲気にのまれ、更に、暴力団の組長と二人きりで話をしました。その状況で冷静な判断ができる人間はいないと思います。でも、その時、私は、間違った判断はしていないと思いました。だから、私はすぐに暴力団の組員になりました。その後、組が金を出して入れ墨を入れました。この時、私は、正真正銘の暴力団員になりました。その直前まで、深夜営業の食堂で働いていた家出青年が、僅かの期間で、暴力団員になりました。私は、入れ墨を入れてから、何故、藤代がいつもスーツ姿なのか理解しました。今の私が常にブレザーを着ているように、入れ墨を隠すためだと知りました」


「背中には迷わず龍の入れ墨を入れました。藤代への憧れです。弱いものを助けるための龍の入れ墨。そして、入れ墨に恥じない侠気のあるヤクザになりたい。そう思って暴力団員になりました。でも、暴力団とは悪いことをする集団です。法律に触れることをするのが仕事です。そこに侠気や正義はありませんでした。私は藤代に憧れるあまり、肝心なことを忘れて暴力団に入りました。しかも、考えてみれば、藤代はカタギではありませんが、暴力団員でもありません。私は、その頃になって、ようやくそのことに気づきました。釈然としませんでした。藤代に会いたいと思いました。会って話をしたいと思いました。でも、藤代は一箇所にとどまっていない男で、中々、会うことができませんでした。そんなある日のことでした。暴力団にはシマと呼ばれる縄張りがあります。自分の組のシマを越えて活動することには、危険が伴います。それでも、必要がある時は、他の組のシマにも足を踏み入れます。ちょっとしたもめごとがあり、私は兄貴分の組員と他の組のシマに出かけました。もめごとはすぐに解決しました。我々は、組に帰ろうとしました。その時でした。藤代が、私と同じ年頃の青年をかばうような形で立っていました。藤代の目の前には、青年の両親らしき中年の男女がいました。藤代はパッと上着とシャツを脱ぎ捨てると啖呵を切りました。『まともにこいつの悩みも聞いてやらないあんたらに、親を名乗る資格はない。俺はこいつを実の弟のように思っている。俺たちは冷たい親の元に生まれた不幸な兄弟だ』。私は、不思議な気持ちになりました。そして、嫌な気持ちになりました。でも、その気持ちの正体が何なのかは分かりませんでした。兄貴分の組員が、それを教えてくれました。『藤代はスカウトマンって呼ばれてるんだよ。組に入れられそうな若い奴を探しては、ああやって、勧誘するんだ。あいつは組員じゃないから、うちの組のシマを越えても多少は多めに見てもらえる。そういう事情からも、あいつは、正規の組員にはならないんだ。そう言えば、お前も藤代にスカウトされたんだったか?』。私はその時、騙されたと思いました。藤代は最初から私に目をつけて近づいてきたのでした。父を追い返したのも、言わば、藤代得意のパフォーマンスを見せるためでした。私は簡単にそのパフォーマンスに魅了され、組長に会い、組員になりました。しかも、入れ墨まで入れてしまいました。ちなみに、あの日以来、父は私に会いに来ることはありませんでした。私は、すぐに組を抜けようと思いました。でも、そこには、大きな障壁がありました。背中に彫った龍の入れ墨です。そして、私は、知りました。暴力団が入ったばかりの組員に入れ墨を入れさせるのは、二度と、カタギの世界に戻れなくするための古典的な手段だということをです。私は、全て仕組まれた通りに罠に嵌まったのだと、その時、ようやく気づきました」


三.

俺は、大邨さんが騙されて暴力団に入ったことに衝撃を受けた。しかも、入れ墨まで入れたことに。更に、衝撃を受けたのは、自らの過去を語る大邨さんが、普段の大邨さんとは別人のようなことだった。しかも、そのような人物を演じている訳でもない。俺は前に、大邨さんをカタギではない世界で生きてきた人特有の雰囲気のある人だと解釈した。だが、今、目の前で自らの過去を語る大邨さんを見て、俺は、自分がいかに一面的にしか人間を見ていないかを思い知らされた。今の大邨さんは、おそらく、俺と同じ数学教師の息子としての大邨政男なのだろう。人間は多面的だ。ヤクザの大邨政男も、今、俺の目の前で語り続ける大邨政男も同一人物だ。そして、大邨政男が多面的な人物であるのは、それだけ、複雑な人生を歩んできた結果なのだろう。俺は自らの浅い人間観を悔いた。


「暴力団員になってからの三十年間、後悔しかありませんでした。騙されて入ったから、やめさせてください。暴力団にそんなことが通用するはずがありません。やるしかありませんでした。でも、実際には、腕力もない。体も大きくない私は何の役にも立ちませんでした。仕事といえば、兄貴分の組員の昼の出前をまとめて電話で注文すること。煙草とスポーツ紙と馬券をまとめて買いに行かされること。そんなことばかりでした。要するに、使いっぱしりでした。何年かして、私は事務の仕事を任されました。また、経理も任されました。父親が数学の教師だと藤代から聞いて知っていた組長が私にやらせました。あまりに非力なので、暴力団員としてやらせる仕事がなかったからでしょう」


「経理の仕事を通じて、私が、とても数字に強いということが分かりました。組長も組員も、そして、私自身も知りませんでした。ただ、経理といっても、普通の経理ではありませんでした。表に出せない金の出入りを暗号化して記録する作業でした。とはいえ、複雑な作業を私は正確に行い、そのことで、組の中に居場所ができました。そして、ちょうどその頃、この国はバブル経済に突入しました。私が、暴力団員として生きてきた中で、最も記憶に残っている時代です。それは楽しかったということではありません。狂乱の中、絶望感に襲われていた記憶です。他の組員が上手く扱えない株式の運用を私がしました。そして、巨額の利益を組にもたらしました。投資関連の仕事は全て私に任されました。更に、ここでは言えない悪質な方法を使って金を儲けました。私は組員から、錬金術師と呼ばれ崇められました。組長に次いでナンバー2になりました。私は、今まで自分をバカにしてきた兄貴分を見返せたことが痛快でした。夢中で金儲けをしました。金が金を生み出しました。私は、サメのように長い高級外車を乗り回し、高価なスーツに身を包み、毎晩、湯水のように金を使い遊びました。しかし、そんな日々の中、私は、絶望感に襲われていました。それは父と私のことでした。父は画家になれず、失意の中、数学の教師になりました。私は騙されて暴力団員になりました。同じく失意の日々を生きていました。そして、バブル経済という時代の波に乗り、使いっぱしりからナンバー2にまで、私は、のし上がりました。でも、私は気づいていました。私が抜きん出て数字に強いのは、父の数学の才能を受け継いでいるからだということにです。父は数学の教師になったことが不本意でも、決して、数学の授業を疎かにしませんでした。父は生徒のためにいつも真剣に授業に取り組んでいました。私はどうでしょう? その才能を受け継いだにもかかわらず、狂ったように金儲けをしていました。しかも、法に触れることまでして金を儲けていました。錬金術師ではありませんでした。私は金の亡者でした。私は父から受け継いだ才能を悪用しました。私は毎晩浴びるように酒を飲みながら、同時に、凄まじい自己嫌悪と自殺衝動に襲われていました」


「そんな生活が何年か続いたある日、私ではなく、私をスカウトした藤代が自殺しました。私と同じ自殺衝動に駆られたとしか思えない死に方でした。自分の住むマンションの屋上から飛び降りたのですが、大きなバラの花束を抱えて飛び乗りました。部屋には遺書の代わりのつもりだったのか、飼っていた熱帯魚の魚拓がテーブルの上に置いてありました。熱帯魚は壁に釘で刺してあったそうです。藤代は死ぬ前の日まで、翌週に届く予定だった最新の高級外車の話を周囲にしていたそうです。高額の車でしたが、藤代はキャッシュで購入したと自慢していたと知り合いから聞きました。異様な自殺の仕方に警察は薬物の使用を疑いました。でも、遺体から薬物は検出されませんでした。私は、私を騙した藤代を見返してやりたいという思いが何よりも強くありました。バブル経済を背景に私は藤代を超えたと思いました。その途端、藤代は自殺しました。私の中で何かが消えました。そして、その直後、バブル経済が崩壊しました」


「バブル経済が良かったなどとは決して思っていません。ただ、バブル崩壊後は何もない毎日が続きました。それは平穏な日々ではなく、虚無的な日々です。裏の世界に生きていた頃のほうが世の中のことがはっきりと見えていた気がします。表の世界に無事に戻れて五年になる今、そう思うことがあります。おそらく、社会の当事者になれなかったからだと思います。疎外された者の目で見たほうが物事の本質がはっきりと見えるのかもしれません。バブルが崩壊して随分年月が経ってからのことです。ある日、街を歩いていると知らない男が声をかけてきました。私は反射的に身構えました。危害を加えられるのかと思ったからです。ヤクザになってから身についた習慣でした。男は興信所の人間でした。男のほうも、私に殴られるのではないかと恐れていたそうです。当然でした。暴力団員に声をかけるのですから。男は言いました。私の父が危篤の状態にあるのだと。そして、母から私を探すよう頼まれたのだと。私に殴られたあの夜の父の顔が浮かびました。私は数学の才能を悪用しなかった父を思い出しました。私は母の顔を思い出しました。私は、父と母に私を恥じました。そして、父に謝らなければならないと思いました。興信所の男に父の入院している病院の名前を聞きました。故郷にある一番大きな病院でした。私は電車に乗ってそのまま故郷の病院に向かいました。電車を降りると、二十年以上離れていた故郷に帰ったことにも気づかないまま、父の入院する病院までタクシーを走らせました。病室で父に会いました。意識が混濁していて、私のことは分かりませんでした。声をかけても、返事はありませんでした。病室には子どもの頃の私の写真が飾ってありました。私はその写真を父の手に持たせようとしましたが、父の手には力が入らず、それはできませんでした。それから暫くして、父は息を引き取りました。私は、父に謝ることができませんでした。父は以前より痩せていました。病気は肝硬変でした。母は、私に、父は随分前から、お酒をやめようと努力していた。それは、私に会ってあの夜のことを謝りたいからだったと言いました。そして、これを機会に、このままこの町で生きなさいと言いました。私は、混乱していました。母の話もほとんど耳に入っていませんでした。私はこう思っていたのです。『私は父から譲り受けた数学の才能を悪用して、多くの罪を犯した。その罪を私の代わりに父が死をもって償わされたのだ。本当は私が死ななければならなかったのに、私が自ら命を絶たなかったから、父の命が奪われたのだ』。そう思うと、私は、自分の罪深さに発狂しそうになりました。そして、病室を飛び出し、再びあの街に逃げました。私は逃げてばかりの弱い人間なのです」


四.

「街にはいくつか暴力団がありました。その中で、私の所属した暴力団と以前から対立する暴力団がありました。何度か小規模な衝突はあったのですが、抗争までには発展しませんでした。それが、今から七年前、市民を巻き込む大きな抗争が勃発しました。抗争が勃発した具体的な原因はありませんでした。長い不況で組員の生活と心が荒んだ結果、抗争が勃発したのだと思います。ヤクザの社会も一般の社会と同じなのだと思います。当時、私は高齢になった組長に代わって、組を取り仕切る立場にありました。白昼、市街地で発砲事件が発生しました。組長が懇意にしているバーが襲撃されました。組長の懇意の店とあって組員は一斉に飛び出して行きました。こういう時、私は、皆を止めなければなりませんでした。危険だからです。事実、敵対する組は、我々を動揺させる狙いで、誰もいない昼間のバーを襲撃したのでした。でも、その時の私は何故か、組員の先頭に立って組を飛び出し市街地に向かいました。抗争が収束せず、焦っていたのかもしれません。私は暴力団事務所から市街地への近道を通りました。廃工場が並ぶ人気のない通りでした。ここは、待ち伏せされて狙われる危険があるので、通らないよう私が組員になった時から教えられていた道でした。私はそのことも忘れて、廃工場の前を走っていました。すると、突然、右腕をつかまれ、もの凄い力で私は一つの廃工場に引っ張り込まれました。見ると、体の大きな若い男が立っていました。暴力団員としてはまだ経験が浅いらしく、私を目の前にして真っ青な顔をしていました。男は上着の中から隠していたドスを抜きました。そして、私に逃げる隙も与えない速さで体ごとぶつかってきました。次の瞬間、私は左の腹が猛烈に熱くなったように感じました。ドスが私の左の腹に深く刺さり込んでいました。血が大量に流れ始めました。私はそれを見て、自分はこのまま死ぬと確信しました。経験上、ヤクザの仲間で腹を深く刺された者は、ほぼ即死していたからです。私は、意識が薄れていく中で、どこかほっとしていました。これで楽になれる。そして、父のところに詫びに行けると思いました」


「死んだはずだった私は、病院の一室で目覚めました。そこには、医師も看護師もいませんでした。代わりに、私のことをずっと気にかけてくれていたベテランの刑事が枕元に立っていました。緊急手術が無事成功して一命をとりとめたと教えてくれました。そして、廃工場の前を偶然通りかかった人が、私が倒れているのを見つけて救急車を呼んでくれたと教えてくれました。やはり、死んでいてもおかしくなかった傷だったそうです。発見が早かったのと私がしぶとかったから助かったのだとその刑事は笑って言いました。ただ、現実には、私は内臓に大きな損傷を負いました。今もその後遺症があります。私のかねしげでの仕事ぶりが良くないのは、生来、私がなまくらなせいもありますが、後遺症のためもあります。それから、刑事は真顔になり、『これで一度死んだと思ってやり直さないか?』と私に言いました。私は、『やり直すと言っても、ヤクザはどこまで行ってもヤクザです』と答えました。すると、その刑事は、『だから、ヤクザから足を洗うんだ』と言いました。そんなことはしたくてもできないと私が言うと、刑事は驚くべき話をしました。『三日後に、双方の暴力団関係者の一斉捜査を行うことになっている。総動員体制で臨むから、今、お前の病室の前にいる二人の警察官も駆り出され、誰もいなくなる。だから、その日に、お前は病院を抜け出せ。死ぬはずの傷を負っても生きていたお前だ。逃げられるだろ?』と刑事は言いました。私は、『できます。ただ、どこに逃げればいいのか、分かりません』と言いました。すると、刑事は、『俺の息子が、ここから遠く離れた街で、洋食屋をやっている。俺の近くにいるのが嫌だから遠くに店を出した親不孝者だ。でも、それがちょうど良かった。洋食屋 かねしげっていう店だ。これが、息子が俺にくれた店の案内だ。地図も載っている。三日後、隙を見て逃げ出せ。そして、この店に行って働かせてもらえ。あいつには俺から電話をしておく』。そう言って、かねしげの案内を渡してくれました。その刑事は、店長の兼重さんのお父さんの兼重刑事でした。ずっと暴力団対策課に勤めるベテラン刑事でした。店長の兼重さんのような優しい感じではなく、一見、ヤクザより恐い感じの人ですが、素顔は優しい人です。私は、最後に尋ねました。何故、警察の内部情報を明かしてまで私を逃してくれるのか? それに私を逃した後、兼重刑事は大丈夫なのか? 兼重刑事は言いました。まず現実問題として、今は捜査のことで手一杯で、私一人が逃げても、それを重要視している余裕はないということでした。更に、その状況下では、兼重刑事が私を逃したなどという発想は誰にも湧かないということでした。それから、兼重さんは続けて話しました。『俺は今年で定年になる。長年、刑事として生きてきて、一番悲しいことは、ヤクザの世界から抜け出そうとしても、抜け出せない奴が大勢いることだ。本当は、ほとんど全てのヤクザがそうだと思う。 私は暴力団員が楽しくて仕方がありませんなんて奴は一人もいないはずだ。みんな、生まれ変わったら、普通の人生を歩みたい。でも、どうしても、カタギに戻れない。だから、諦めてヤクザの世界に生きているんだと思う。だが、大邨、お前なら抜け出せる。昔からお前を見てきた俺には分かる。背中に入れ墨を入れていても、お前はカタギの世界の人間だ。無理をしてヤクザであろうとしている。お前は、殴ったり殴られたりが嫌いだろ? それでいいんだ。ヤクザには向いていなくても、普通の社会で生きられるからだ。人を殴っても、後悔するだけだ。殴られた相手は、お前のことを恨まなければならなくなる。誰も幸せにはなれない。そんな世界にずっといてはいけない。カタギに戻れ。そして、幸せになるんだ』。私は兼重刑事のこの言葉を一生忘れません。実際に、一斉捜査の日、病室の前に警察官は立ちませんでした。その前夜、兼重さんが病室を訪れて置いていってくれた服に着替えました。私の着ていた血まみれのスーツは事件の証拠品として警察に保管されていました。兼重さんが、用意してくれた服は紺色のジャンパーにグレーのズボンでした。当時、私が着ていた派手なスーツと違い、その服装だと、病室を出て廊下を歩いても、入院患者の面会に来た家族にしか見えませんでした。さすが、刑事だと思いました。服装が人に与える印象に敏感でした。私は、面会に訪れた家族を装って病院を抜け出しました。そして、近くの駅で電車に飛び乗りました。それから、初めて、この街に降り、かねしげを訪れました。五年前のことです。その時、店長の兼重さんにどんな顔をして挨拶をしたらいいか悩んでいたら、店長が、『父から電話で聞きましたよ。あの頑固者の父が気に入る人だから、大邨さんには、よっぽど大きな魅力があるんだと楽しみに待っていました』と言ってくれました。その言葉を聞いた時、私は、もしかしたら、やり直せるかもしれないと思いました」


かねしげで、XZ大学の縁崎を殴りそうになった俺に、大邨さんが言った「人を殴っても、後悔するだけだ。殴られた相手は、君のことを恨まなければならなくなる」。この言葉は、大邨さんをカタギの世界に戻すために兼重刑事が言った言葉だった。それを、とっさに、大邨さんが使ったのだと知った。あの時、大邨さんからこの言葉を投げかけられ、すんでのところで俺が正気を取り戻した理由が分かった気がした。


五.

大邨さんは、自分の過去を打ち明けた。ヤクザの世界に入るきっかけ、ヤクザとしての人生、最後にヤクザの世界を抜け出してこの街に来たいきさつ。大邨さんが、俺たちに特に伝えるべきだと思ったことを取り上げて話した。それでも、二時間以上過ぎ、時刻は夕方になっていた。台風の接近で風が強くなっていた。この場所を離れなければ危険になってきた。

「私の過去についてお話しました。このことで、私の過去が果たして清算されるのかどうかは、分かりません。ただ、先ほどもお話しましたように、試みずにはいられませんでした。そして、試みを終えた今、良かったと思います。とても長い話になり誠に申し訳ございませんでした。でも、皆さんにお聞きいただいて、私はとても楽になりました。この街に来て五年、穏やかな毎日を過ごす中で、誰かに私の人生を知って欲しいという思いが強くなっていました。でも、誰でも良いわけではありませんでした。」

そして、最後に、これだけは、伝えさせて欲しいと、江田沢と俺に話しをした。

江田沢には、「バスケットボールを諦めずに続けて欲しい」と言った。


「私の父のことを思い出して欲しい。父はたとえ美大に進学できなくても、美術教師にならなくても、数学の教師をしながら絵が描けたはずだ。美大に行って専門の教育は受けられなくても、絵画コンクールで最優秀賞を受賞したんだ。自分で努力すれば、いくらでも上達したはずだ。にもかかわらず、父は祖父への当てつけの意味で、絵を描くことを自ら封印してしまった。もし、絵を描いていたら、父は、数学の教師である自分と、画家を目指した自分との折り合いをつけるのに、それほど悩むことはなかったはずだ。江田沢君を見ていると、真面目すぎるところが父に似ていて危い気がする。大学にスポーツ推薦で進学できないのなら、きっぱりとバスケットボールをやめて社会人になる。江田沢君は、こういう風に考えそうな気がする。君なりにけじめをつけたいという意味で。だとすれば、そんなに堅苦しく考えないで欲しい。もし、大学に進学しない場合でも、街には社会人が主催するバスケットボールの同好会があると思う。君は、そんな中途半端な遊びのような形では、バスケットボールはできない。こんな風に考えてしまうかもしれない。でも、それでは、せっかくの君の可能性の芽を自ら摘んでしまうことになる。とにかく、バスケットボールを続けることだ。続けるうちに、必ず、次に繋がる。そして、何よりも毎日生きがいを持って生きられる。君にとってバスケットボールは生きがいだ。絵画という生きがいを失った時、父はアルコールに溺れた。私は、江田沢君のお父さんの病気の回復を願っている。君の将来もまだ決まっていない。大学に進学できる可能性も十分にあると思う。その上で、この話をする。君の人生にとってのバスケットボールの意味を、もう一度、見つめ直して欲しい。そして、どんな状況でも、自分の考え方次第で人生は変わると信じて欲しいからだ」

大邨さんの話を聞いて、大邨さんが、江田沢と自分の父親を重ねていた理由がよく分かった。

それから、大邨さんの話を聞いた江田沢が、

「大邨さんのお話を聞いて、驚くことばかりでした。俺には、完璧主義なあまり、一つでも上手くいかないと全て放り出してしまうところがあります。それと、もし、高校を卒業して就職する場合、社会人になるんだから、もうバスケットボールはやめようと考えていました。大邨さんに言われたように、けじめをつけるつもりでした。でも、それでは、自分で自分の人生の可能性を狭めていくことになる。お話を聞いて、はっとしました。それに、けじめをつける必要なんてないんだと今、気づきました。 でも、大邨さんのお話を聞くまで、真剣にそう考えていました」

そう言った。

「江田沢。真面目だからこそ、お前はみんなからも信頼されている。でも、度が過ぎると窮屈になるぜ。バスケットボールをやめるなんて考えるなよ。お前にとってバスケットボールはお前の人生そのものなんだからさ」

津江野が江田沢に優しく言った。

加辺真気も、江田沢に言った。

「女子の部員も、江田沢のことをいつも心配している。私は、もしかしたら、江田沢君は真剣に取り組みすぎて、いつの間にか息切れしているのかもしれないと思う。この辺りで、少し休憩しましょう」

二人の言葉を聞いた江田沢は、笑顔になった。そして、黙ってうなずいた。


それから、大邨さんは俺を見て言った。

「道村君。私は君のことも心配している。だから、今から話すことをよく覚えておいて欲しい」

江田沢の説得に総合運動競技場まで来て、俺のことも心配されていると言われ驚いた。そして、少し心外だった。

「道村君。さっきは、長い時間、私の人生を聞かせてしまってすまなかった。ところで、君は、私が、自分の人生の中で最も後悔していることは何だと思う?」

大邨さんは、俺に質問をした。そう質問されて、俺は、少し心外に思ったことも忘れて、すぐに答えた。その答え以外浮かばなかったからだ。

「後悔していることは、やはり、騙されて入れ墨を入れてしまったことでしょうか? 入れ墨を入れていなければ、ヤクザの世界をすぐに抜け出すこともできたかもしれないからです」

「私自身も、当時、そう思った。確かに、それも事実なんだ。でも、ある時、私は気がついた。そして、それは、もっと簡単なことだったんだ。それに、誰にでも、起こり得ることだったんだ」

大邨さんは、そう言って、俺に続きを話し始めた。

「それは、父を殴った夜のことなんだ。私は電車に飛び乗って街に向かった。でも、本来なら、私の取るべき行動は、実家に帰っていた母のところに行くことだった。そうすれば、意地になって、いつまでも、父と暮らしていた私を心配していた祖父母も喜んだはずだ。学校も近かったから、そのまま母の家に移り住んで高校に通っていれば、大学にも進学できただろう。それなのに、何故、電車に乗って街に向かったと思う?」

「そう言われると、街に出たかったからとしか……。分かりません」

「答えは、私が甘かったからなんだ。街に出れば何とかなる。大きな街だから、出てしまえば働くところもあるだろう。とにかく、出てから考えたらいい。俺は若いんだから、何とかる。この考えが甘かったんだ。道村君。君が万引きをした時のことを思い出してみて欲しい。何とかなると思っていなかったか? とにかく、やってみて、後は何とかなると思っていなかったか?」

俺は、大邨さんにそう言われて、ぞっとした。図星だった。俺はあの時、何とかなると思っていたから、わざわざゆっくり歩いて店員に捕まったのだ。

「そうです。何とかなると思っていました」

「でも、私と同じで、道村君の場合も、普通なら、万引きなどせず、まず人に相談したはずだ。ご両親が難しかったら、江田沢君、津江野君、加辺さん。親しい友人が三人もいる。それなのに何故、君は万引きをしたのか? それは私と同じで、君が甘かったからなんだ。幸いなことに、君は、甘い見通しにもかかわらず、助かった。高校を退学にならなかった。もし、君が学校を退学になっていたら、私と同じで、藤代のような男が近づいてきただろう。君は体も大きい。昼間することがなくて、街をふらふらしていたら、必ず、目をつけられる。相手はプロだ。言葉巧みに君をヤクザの世界に引きずり込む。私の場合、母の実家に行かず街に出て、藤代に目をつけられ、ヤクザの世界に入った。それから、ヤクザの世界を抜け出すまでに三十年かかった。それも、”円満退社”じゃない。殺されかけて入院して、そこで店長のお父さんの兼重刑事に逃がしてもらって、ようやくカタギの世界に戻れた。私の三十年は何だったのかと考える時、それは、ヤクザの世界に生きた三十年だったとしか言えない。入れ墨と一緒で消せない過去だ。道村君。私のこの話を、決して、忘れないで欲しい。でも一方で、私と違い、君には高校を退学にならかったという幸運がある。何故だと思う? 私はこう思うんだ。君には高校でやるべきことがあるから、退学にならなかった。つまり、君には与えられた使命があるのだと私は思う。これ以上は言わなくても、もう分かるね?」

大邨さんの最後の問いかけに、俺は答えた。

「俺は、バスケットボール部に戻ります。江田沢のために。そして、バスケットボール部のみんなのために戻ります」

大邨さんは俺の答えを聞いて、うなずいた。

俺は、大邨さんが自らの過去を打ち明けた最大の理由が、俺にあったことに納得せざるを得なかった。俺は自分の甘さを反省するしかなかった。

そして、俺が黙って自分を省みていると突然、

「大邨さん。孝次のことをそこまで心配してくださって、何と申し上げて良いのか……」

と俺の父親の声がした。父親はハンカチで涙を拭いていた。

「大邨さんのお話を聞き、これまで、妻と私が子どもに対して言ってはならないことを数多く言ってきたことに気づきました。深く反省しています。ただ、言い訳になりますが、孝次が、中学の時にバスケットボール部に入って、すぐにレギュラー選手になったと知り、妻と私は地元の大会を見に行きました。その時、初めて孝次がバスケットボールをしている姿を見ました。つまらなそうに勉強をしている時と違い、実に生き生きとバスケットボールをしていました。そればかりでなく、孝次の中に才能を見ました。そして、その姿は輝いて見えました。妻と私は誇らしく感じました。それが、いつ頃からか、孝次は部活を真面目にやらなくなりました。身体能力に恵まれているからでしょう。一生懸命に練習をしなくても、試合に出られるし、それなりの結果も出せるため、バスケットボールに真剣に取り組まなくなりました。私は腹が立ちました。塾で一生懸命に勉強しても、成績が伸びず、苦しんでいる生徒が多い中、高い身体能力があるために、かえって、本気を出さない息子に対してです。そして、つい、きつい言葉を浴びせてしまいました。孝次にも内心、葛藤があったことにも気づかず、私は、親として、教育者として、情けない限りです。私は子ども達の何を見てきたのかと今、愕然としています」


そう言って、涙を流す俺の父親に、大邨さんは、こう言った。

「色々と偉そうなことを言ってすみません。私の父も道村さんと同じ教師だったこともあるからでしょうか。重なるところがあります。道村さんも私の父も、真剣であったがために、かえって、見えなくなってしまっていたところがある気がします。もう少し、楽に生きてもいいんじゃないかと思います」

俺の父親は、何かを言おうとしたが言葉が出なかった。代わりに、深くうなずいた。


それから、風がまた強くなり、雨も混じってきた。大邨さんは、皆にメインスタンドの通路から下に降りるよう促した。そして、急いで駐車場のワゴン車に乗り込んだ。大邨さんの運転する車が、再び海岸線沿いを走った。海に人の姿は、もうなかった。突然、強い雨が降り始め、フロントガラスを雨粒が激しく叩いた。俺は雨粒の音を聞きながら、先ほど言われた使命について考えていた。俺にしかできないことをやることだと思った。そして、俺は覚悟を決めた。


最終章(リスタート)


・八月二十日

運動競技場での出来事があったあの日から、しばらく経っていた。店が始まる前、店長の入れてくれたコーヒーを俺は落ち着いた気持ちで飲んでいた。そこに、ボストンバッグを持った大邨さんが現れた。

「大邨さん。旅行に行くんですか?」

俺は尋ねた。XZ大学の学生たちも大邨さんを見ていた。

「故郷に帰るんだ。母に会って、それから、父の墓前に参ろうと思う。ここ最近、色々と考えさせられることがあって、そうしようと決めたんだ」

それを聞いて、俺は、運動競技場でのことだと思った。

それから、俺は大邨さんの服装を見た。紺色のジャンパーにグレーのズボンだった。せっかく故郷のお母さんに会うのに、その服装でいいのだろうかと俺は思った。だが、俺は考えを改めた。大邨さんは、五年前のあの時、兼重刑事が渡してくれた服装をそのまま真似しているのだと気づいた。大邨さんの故郷は、田舎町だという。これぐらい地味でなければ目立つのだと思った。

「道村君のアルバイト最後の日に、私はいないから、挨拶に来たんだ」

俺のアルバイト最終日は、八月三十一日だ。その日は、大邨さんは帰郷しているため、わざわざ今日、出発する前に俺に会いに来てくれたのだった。

「父の墓参りをしてくるよ。私は、父に別れの挨拶もしていないまま今日まで来てしまった。ずっと気になっていたんだけど、やっと決心がついた。私の人生に一つの区切りをつけてくる。そして、私は、この街で本当の再スタートを切る」

そう言うと、大邨さんは俺に右手を差し出した。俺たちはしっかりと握手をした。

店を出て去り際に、大邨さんは言った。

「道村君。江田沢君を助けてやってくれ。俺は君たちが、全国大会で活躍する姿を是非、見たい」

俺は黙ってうなずいた。そして、そのために越えなければならない壁があると思った。


・八月二十五日

俺と父親は校長室にいた。そして、父親が、校長と教頭と顧問の大木田に話しをした。事前に学校に連絡をしていたので、既に用件は伝わっていた。俺をバスケットボール部に復帰させて欲しいということだった。教頭が話した。

「現実的なお話をします。我が校は現在、運動部全体の強化を方針にしています。道村君の退部処分は、バスケットボール部の戦力ダウンに繋がった結果になりました。その点において方針と矛盾しています。また、道義的な観点からも、退学を防ぐサポートを整備したことは良い制度であると自負していますが、そもそも、不祥事即退部という処分のあり方そのものを見直すべきではないかという疑問が学校内に生じました。そこで、結論を述べますが、道村君の部活復帰は可能だと考えられます」

俺も父親も、教頭の話を聞いて安堵した。

だが、教頭が、俺たちの様子を見て、「まだ続きがあります」と言った。

「復帰の可能性はありますが、その場合、道村君をこれから再び指導することになる部活顧問の大木田先生の意見を尊重しなければなりません。大木田先生が、どうしても引き受けられないということになると、我々も、それ以上のことは言えません」

そう言って校長とともに大木田を見た。

大木田はルールを大事にする。特例や例外は嫌いだ。今も、不本意な表情をしている。その表情を見て俺は、これは無理だと思った。

その時、父親が大木田に言った。

「大木田先生。全ては父親である私に責任があります。私は孝次に、『お前はダメだ。お前は生まれつき出来が悪い』。こんな言葉を投げつけて孝次の意欲を低下させてきました。本当に出来の悪いのは父親の私です。その私のために、孝次は、百パーセントの力を発揮できないまま退部に至りました。大木田先生。百パーセントの力を孝次が発揮できれば、キャプテンの江田沢君とともに、必ず、GF高校のバスケットボール部を全国大会に導きます。何卒、もう一度、チャンスを与えてやってください。お願いします」

大木田は応接椅子に座る俺たちとは別に、少し離れたところに丸椅子を置いて座っていた。そして、父親の訴えを聞いた大木田は腕組みをした。それから目を閉じた。そのまま時間が過ぎた。皆、緊張して大木田を見ていた。長い沈黙の後、ようやく大木田は目を開けた。

そして、俺を見て言った。

「道村。良いお父さんを持って幸せだな」

それから、

「復帰には一つ条件がある。今度は決して逃げないこと。守れるか?」

こう言った。

「はい。絶対に逃げません。もう一度、よろしくお願いします」


俺はバスケットボール部に復帰が決まった。


・八月三十一日

夏休み最後の日であり、俺のアルバイト最後の日だった。俺は、店長に「今日が最後になります。短い間でしたがお世話になりました」と挨拶した。夜の九時だった。その日は、昼間は混んだが、夜は比較的空いていて、俺が挨拶した時も、厨房のXZ大学のアルバイト学生全員が、俺に声をかけてくれた。その日は、縁崎は休みだったが、縁崎と仲の良い男子学生が、「縁崎には、俺から、お前のことを伝えておくよ」と言ってくれた。その他の学生からも、

「やめるのか。さみしくなるなあ。金髪のあいつも最近、全然、バイトに入らないし」

「XZ大学の学生ばっかりになると、大学の延長みたいでつまんない」

と言われた。

不愛想な俺でも、案外、嫌われていなかったのだなと思った。

そして、

「ありがとうございました」

と全員に頭を下げた。


最後に、俺は、店長にどうしても確認したいことがあって聞いた。店長は答えてくれた。この街に店を開いたのは、店長が修業した店が、この街から少し離れたところにある店だからだった。その関係で、この街に店を構えることになったのだった。そして、店長のお父さん―当時の兼重刑事―から、遠方だからちょうど良いと、大邨さんを預かってくれと言われた時、断ろうとは思わなかったのかと尋ねた。そのことを俺は知りたかったのだった。

店長は迷いなくこう言った。

「前のホール係の中村さんが退職する時だったから、ちょうど良かったって思ったよ。父に確認したら、スマートな感じの人だって分かったから、適任だって。それだけさ」


・九月一日

朝、顧問の大木田と一緒に体育館に向かった。

俺の前を歩きながら大木田は、

「俺が情に流されたのは、生まれて初めてだ。不思議な感じだな」

と言った。

俺は何と答えていいか分からなかった。

体育館に入ると、バスケットボール部の部員がいた。

江田沢は喜んだ。

「道村が復帰できるなんて。これで春の全国大会に行ける!」

「そうだな。今度こそ、本気を出して俺も頑張るよ」

俺も江田沢の期待に応えることを誓った。

他の部員は、

「道村。久しぶり。またよろしくな」「思った通りだ。お前なら戻って来ると思ってた」「道村先輩。またよろしくお願いします」

といった風に、皆、退部になる前と変わらなかった。

だが、一旦、練習が始まると、以前とは違った。俺が抜けたことで戦力ダウンしたと言われたことが、みんなのプライドに傷をつけ、その結果、奮起したのだ。今まで通りやっていては、みんなに置いていかれると俺が焦ったほどだった。実際に、以前なら、入ったシュートを俺は何本か外した。ブランクと焦りだった。俺自身は課題が見つかった。だが、このチームなら、本当に江田沢の夢を叶えられると思った。


九月一日は、始業式と午前中の授業だけで終わった。俺がその後、部活があるのを知っているので、一限目の後の休憩時間に津江野と加辺真気が教室に訪れた。二人とも、塾の夏期講習を最後まで受講したことで自信がついたように見えた。

今日も、夕方から塾で講義があると津江野が言った。

大邨さんの前で涙を流し、大木田に俺のために必死で部活への復帰を訴えた父親の姿を見た俺は、塾でも何か変化があったのではないかと期待して二人に尋ねた。

加辺真気が答えた。

「特に変化はないわよ。この前も言ってた。『テストの結果は公平で正直です。もし、その結果に嘘があると疑うような人は、自らの努力を怠って駄々をこねているわがままな幼子と同じです』だって」

俺はそれを聞いて、「人間、そんなに簡単に変われるものじゃないんだな」と言った。

すると、津江野君が、

「あれが、お前のお父さんの良いところじゃないか」

と笑って言った。


午後からすぐに、バスケットボール部の練習が始まった。

俺は練習を通して自分が変わったことに気づいた。

俺は常に本気を出しているのだった。江田沢に約束したからではない。俺は、校長室で教頭から言われたことがある。復帰はさせられるが、万引きという不祥事は事実として残る。だから、以前のようにスポーツ推薦で進学できるかどうかは分からない。各大学によって、その事実をどう判断するかは違うし、全ての大学が否と判断する可能性もあることを留意しておいて欲しいと言われた。

俺は、それを聞いて、江田沢と同じ立場になったと思った。江田沢も、進学できるかどうか分からない状況でバスケットボールをしている。以前の俺だったら、動揺しただろう。でも、今の俺は、一瞬も気を抜くことなく本気でぶつかっているのだった。

大邨さんの影響だと思った。ヤクザの世界に入ったことはどうしようもなかった。でも、最後には、そこから抜け出した、大邨さんの生きざまに俺は影響を受けた。そして、俺は変わったのだ。


練習の最後に、ミニゲームをした。俺は、江田沢から、高速パスを受けた。俺は力まず、ベストなフォームでスリーポイントシュートを放った。ボールは手を離れ美しい弧を描いた。そして、リングに当たらず、そのまま静かにゴールした。ネットをボールが擦るシュッという音だけがした。あの時と同じだった。スウィッシュが決まった。

俺は、あの日のYA高校との試合を思い出した。

俺は、もう逃げないと思った。

あの時の俺と、今の俺は違う。

俺も、今、本当の再スタートを切ったのだ。


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弁天様ブルース 三上芳紀(みかみよしき) @packman12

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