双頭の神 Two-headed god

三上芳紀(みかみよしき)

双頭の神 Two-headed god

序章.


僕は大学に行かなくなった。夏休みが明け、地元に帰省していた学生は、二カ月ぶりにキャンパスに足を踏み入れ、新鮮な気分を味わっていた。そこに、僕はいなかった。

「杉原って病気にでもなったのか?」

大学では、こんな会話が交わされていたらしい。心配してくれた友人には申し訳ないが、僕は病気ではなかった。心は少し病んでいるかもしれない。でも、今時、心を病んでいない人などいない。体はいたって元気だ。だから、病欠ではない。

夏休みの間に、僕はある宗教に出会った。僕はその宗教に入信した。

これから、ここに記すことは、僕の宗教体験記だ。現在進行形のことだから、結末はどうなるか僕にも分からない。現在進行形の、『僕の宗教ダイアリー』。申し訳ないけれど、今のところ、それしか言えない。


第一部 第一章(薄青色の眼鏡)

一.

僕は夏休みに入ってすぐ、腹痛で倒れた。厳密には胃痛だった。僕は子どもの頃から胃弱だ。自宅の近所のコンビニエンスストアの前だった。コンビニエンスストアの店員が、驚いて店から走り出てきた。通りにいた人が、携帯電話で救急車を呼ぼうとした。その時、

「ちょっと待って!」

とそれを制する声がした。

僕は倒れたまま、顔を上げると背の高い男がいた。男はその場にしゃがむと両手を僕の腹に当てた。

「悲しみを感じます。悲しみがあなたの胃を痛めつけています」

男は言った。

僕は、男が医者なのか、それとも、人が苦しんでいるのにふざけているだけなのか理解できなかった。

周囲も同じだった。

「あなた。医者ですか? だったら、任せますが、違うなら、救急車を呼びたいんですが?」

コンビニの店員が尋ねた。

「医者としよう」

男の返事は皆を困惑させた。

「医者としようって何だよ?」

高校生のカップルの男子が言った。

「医者じゃないってことよね」

カップルの女子が言った。

「お前、ふざけてんなら、どけよ!」

と男子が言った時、僕は思わず声を出した。

「痛みが消えている。あれだけ激しい痛みだったのに消えた」

男が僕に笑顔を見せた。

「今、悲しみが去りましたよ。私が、悲しみを慰めました」

男はこう言った。

皆、困った。言っていることは、インチキだとしか思えない。だが、現実に、僕の胃の痛みが治まったから、皆、何と言っていいか分からなくなった。だから、それ以上、関わらないようにその場を去った。


街路樹のセミの声がうるさかった。

男と僕だけが残った。

道に倒れたままなのも、みっともないので、僕は立ち上がった。Tシャツについた汚れを手ではらい、穿き古したジーンズの汚れもはらった。

男は、夏用の黒のスーツを着ていた。中には白いシャツを着ていた。ネクタイはしていなかった。髪の毛は少し長かった。薄く青色の入った眼鏡をしていた。どう見ても会社員には見えなかった。同時に、他の職業も思いつかなかった。

僕はとにかく、

「ありがとうございました」

と礼を言った。ただ、痛みが消えて落ち着いてくると、本当にこの男が胃の痛みを治したのかという疑問が湧いた。悲しみを慰めたら、胃の痛みが消えた? 何のことだろうと僕は思った。でも、現実に痛みが消えた。それと、僕は気づいた。僕は、その時、いつも抱いている生きることへの違和感も消えていることに。僕が悩まされていることは胃の痛みより、この違和感だった。僕は毎日がとても生きにくい。それには色んな理由があるのだけれど、僕は自分が現実の社会から疎外されている感覚にいつも襲われている。

お前なんか世の中には必要ないよ。いつも、こう言われている気がしている。

それが今、消えた。胃の痛みと同時に消えた。


「随分、顔色も良くなりましたよ。もう大丈夫です」

そう言うと、男は、右手を差し出した。僕は何のことか一瞬分からなかったが、男は握手を求めていた。

僕は、やや抵抗を感じたが、胃の痛みを治してもらった立場上、握手に応じた。それに、違和感も消えていた。これもこの男のおかげかもしれないと思ったから、僕は、右手を出した。

「青沢礼命です」

男は強く僕の右手を握りながら、名前を名乗った。「あおさわ・れいめい」。本名だろうかと疑問に思った。特に「れいめい」というのは違うんじゃないかと思った。そう思いつつ、

「杉原和志です」

と僕は答えた。

青沢は、優しい笑顔になり、

「生きにくさも、胃の痛みと一緒に消しましたよ。どうです? いつも感じている自分の社会へのそぐわなさを感じないでしょ?」

と言った。

僕は、ぼう然とした。

「ポカンと口が開いていますよ。さあ、私と一緒に行きましょう。陽の当たる場所へ。もう日陰を歩くのは終わりです」

青沢は、僕の心の中を知っていた。僕は驚いた。僕は強く惹かれた。何故なら、青沢の言う通り、僕は陽の当たる場所に出たかった。僕はもう陽の当らない場所を選んで歩くような人生にさよならをしたかった。僕は一瞬迷った。そして、その後、僕は彼の運転する車の助手席に乗っていた。


青沢礼命の運転する白のワゴン車は、両側面に「神と真と愛 礼命会」と書かれていた。

僕は、そこから、二つのことを知った。礼命は本名ではないであろうこと。そして、青沢は宗教家であること。その二つを知って、隣で車を運転する青沢を見ると、確かに、彼は宗教家らしい風貌だと僕は納得した。

サラリーマンでもないし、かといって、他の職業も浮かばなかったが、宗教家ならぴったりだと、僕は変に感心した。

それから、僕は、青沢に、これからどこに行くのか尋ねようとした。でも、僕は、尋ねるのをやめた。

彼に任せれば、陽の当たる場所に導いてくれる。そう信じたいと思ったからだ。

ワゴン車は、僕が通った小学校の前を通った。僕は、校庭を見ていたが、夏休みで誰もいなかった。

青沢の声がした。

「私は子どもの頃、病気でほとんど学校に行っていないんです。小学校も、中学校も。当然、高校も大学も」

僕は、その話を聞いて、どう答えていいか分からなかった。

「でも、私はそんな毎日の中で、神様に出会いました。だから、全ては神様に出会うための試練だったのです。私は、神様に選ばれたのです。みんなを幸せにするために、お前を選んだんだと私は、あの時、神様の声を聞きました」

僕は、もっとどう答えていいか分からなかった。ただ、

「病気で学校に行けなかったのは、僕は、気の毒に思います。そんなに良いところだとは思いませんが、ほとんど行けなかったというのは、やっぱり、気の毒です」

とその気持ちは正直に言った。

青沢は、そのことには答えず、

「全ては神様の御心のままに」

とだけ言った。


ワゴン車は、小学校の前を過ぎると、緩やかなカーブを曲がり、次に、僕の通った中学校の前を通った。その時、僕は、中学校を見ないようにした。青沢も気づいていたが、中学校のことには触れず、二人とも無言で中学校の前を走り抜けた。僕は、青沢の顔も見ないようにした。しばらく、二人の間に沈黙が続いた。僕は、沈黙の中で、青沢の運転する車はどこを目指して走っているのだろうと考えた。


二.

沈黙の間、僕は、本当に青沢の力で胃痛が治ったのか。それと、本当に青沢の力で違和感も消えたのかを考えていた。青沢は、車を運転しながら、先ほどの学校のことではなく何か別のことを考えているようだった。


僕にとって、違和感とは人生そのものだ。僕は、協調性がない。だから、集団生活が苦手だ。学校生活が苦痛だ。さっき、青沢に学校に行けなかったのは気の毒に思うと言ったのは正直な気持ちだ。でも、僕のもっと正直な気持ちは、学校はそんなに良いところだとは思わないと言ったことだ。協調性がないから、集団生活が苦手な人は案外いると思う。僕が学校に違和感を覚えたのは、それとはまた違うものだった。僕は割と考えるタイプだ。小学校に入って、すぐに思った。僕たち子どもは、一種の調教をされているのではないかと。何のための調教か? 企業にとって使いやすい人間になるためのもの。もっと大きく言えば、国家にとって有用な人間になるための調教を受けているのではないかと思った。この考えが正しいのか間違っているのかは分からないけれど、小学生で、ここまで考えた僕は、今振り返ってみても、かなり早熟だと思う。こう考えた僕にとって、学校は危険な場所になった。でも、他の子はみんなそんなことは考えず、毎日の授業を受け、秋には元気に運動会で徒競走をした。「全てが調教なんだぞ。みんな危険だ!」。僕は何度もこう叫ぼうと思った。だが、できなかった。そんなこと叫んだって、僕の頭がどうかしていると思われるだけだと分かっていたから。


青沢の運転する車は、丘の上の道を走っていた。僕の住む町が一望できる。真夏の午後の陽ざしが、容赦なく町に降り注いでいた。

僕の学校への疑問は、中学、高校と進むにつれ大きくなるばかりだった。いよいよ高校では、誰とも会話を交わさなくなり、休み時間もずっと一人で受験勉強をしていた。高校生になるまで何の疑問も持たず、調教を受け続けてしまった同級生を僕は軽蔑していた。同時に、絶望していた。もう僕には彼らを助けることはできない。だから、僕は一人で受験勉強をした。

大学に行ったら、何かが変わるかもしれない。少しは自由になるんじゃないか。高校までの窮屈な学生生活とは違うはずだ。そう思っていた。絶望はしていたが、心のどこかで、彼らが救われることを願っていたからだ。ただ、その時、僕がそんなことを考えていたと、当時のクラスメートが知ったら、僕はやっぱり、頭がどうかしていると思われたと思う。大きなお世話だと思われたとも思う。それで、僕なりに一生懸命勉強して、地元では、比較的優秀なP大学に合格した。本当は、社会学部に入りたかったのだけど落ちた。それで、合格した経済学部に入った。経済学部には興味が無かったのだけれど、両親からどうしても受けろと言われて受験したのだ。

僕は大きな勘違いをしていたことに入学して気づかされた。特に経済学部だということも大きかった。

僕は、入学してから、同級生と話をしてみて、大学とはみんなにとって何かということを思い知らされた。大学とはみんなにとって、「就職予備校」だった。同級生はみんな、小学校から高校までの長い調教生活を経て、既にすっかり「企業戦士予備軍」だった。そして、みんな国家にとって有用な人材だった。高校の時、休憩時間に一人で受験勉強をしながら、みんなを救ってやりたいと思っていた僕は、大学に入って、完全に一人だけ浮いていることに気づいた。実際には、小学校に入学した時から、ずっと浮いていたのだろうけれど、僕は気づかなかった。僕は鋭敏なようで鈍感だった。


「杉原さんは、大学生ですよね」

運転しながら、青沢が尋ねた。

「はい。P大学の経済学部の二年生です」

「ほう。それは優秀だ」

青沢は特に表情を変えることもなくそう言った。

「学校は優秀かもしれないけど、僕は落ちこぼれです」

僕の言葉に、

「落ちこぼれっていうのは、枠におさまらない規格外だからです。それだけ、杉原さんの器が大きいということです」

青沢がこう言った。それに対し、僕はこう言った。

「青沢さんは宗教家だから、信者さんを慰めるために、いつもそう言っているのだと思います。だから、僕は信じません」

すると青沢が、

「ほら! そんな視点から、今の私の言葉を捉えられるなんて、普通はできませんよ。杉原さん。あなたは、物事の本質を見極める眼を持っています。だからこそ、生きにくい人生を送っているのです。よかったら、これまでのあなたの人生を話してください」

こう言って、僕の顔を見た。力強い眼だった。確信に満ちていた。僕は、これまでの人生を語った。

「あなたが、おかしいんじゃない。先ほどお話したように、僕はほとんど学校に行っていません。だからこそ、杉原さんの話が本当だと分かります。同時に、学校教育の欺瞞も。杉原さんが言うように、学校教育とは国家による集団調教です」

青沢の声は熱を帯びた。熱を帯びた青沢の声には、人を強く惹きつける力があった。それに、僕は生まれて初めて、僕の持論を全面的に肯定してもらった嬉しさがあった。僕は、青沢を信じると決めた。先ほど、青沢に、車が、これからどこに行くのか尋ねようとして、僕は、尋ねるのをやめた。彼に任せれば、陽の当たる場所に導いてくれる。そう信じたいと思ったからだ。そして、今、青沢を”信じたい”から、”信じる”に僕の心は変わった。青沢は、必ず、僕を陽の当たる場所に導いてくれる。ずっと居場所のなかった僕に、居場所を与えてくれる。僕はそう信じた。


「礼命会とは青沢さんが開祖の宗教ですか?」

僕は、青沢に尋ねた。

青沢は、

「そうじゃない。礼命会は杉原さん。あなたを幸せにするためにある宗教です。主人公はあなたなのです」

と大きな声で言った。車の中に彼の声が響いた。

「我が新しき仲間・杉原和志氏子の入会式を取り行います」

「今からですか?」

「そうです。もうすぐ礼命会の教会に到着します」

「教会に向かっていたんですか?」

「はい。杉原さんと出会った瞬間、この人は特別な氏子となる人だとすぐに分かりました。だから、教会に向かっています」

「僕が特別?」

「特別です。選ばれた氏子です」

僕は、良い意味で特別だった経験がない。常に周囲との隔たりと違和感がある。そういう意味では、ずっと特別だった。要するに、変わり者だ。それが、選ばれた氏子だと言われた。僕は生まれて初めて、自分を認めてもらった。僕はとても安堵した。僕は、僕の居場所を見つけたのだと思った。


僕がそんなことを考えていると、青沢の運転する車は、左に曲がった。タイヤが砂利を踏む音がして車が止まった。僕は我に返り、車の窓から外を見た。

林の中に白い建物が建っていた。建物は、まだ新しく、壁の色が真っ白で清潔な感じがした。これが教会だと思ったが、礼命会の文字はどこにもなかった。真っ白な建物があるだけで、辺りに人の気配もなく、そこは、しんと静かだった。

青沢が車を降りた。僕も車を降りて、彼の後について建物に向かった。


三.

丘の上の道を真っ直ぐ行くと、ゴルフ場がある。というよりも、この丘の上にはゴルフ場しかない。だから、ゴルフをするもの以外が、丘に上がることはない。僕も、僕の両親もゴルフをしないので、僕は、この丘に上ったことがなかった。だから、いつ真っ白な建物が建ったのかも知らない。建物が新しいから、ここ最近に建てられたのだろうと思っただけだ。青沢と僕の靴が砂利を踏む音だけがした。辺りは静かだった。林の中から知らない鳥の鳴き声が聞こえた。僕が鳥の声に気を取られていると、

「杉原さん。あの建物の扉を開けた時から、あなたの入会式は始まります」

そう青沢が言った。

「僕はどうすればいいのでしょうか?」

「何も心配することはありません。神の御心のままに」


建物の中に入ると、僕が想像していたのと違った。僕は、青沢が先ほど、「氏子」と口にしていたから、神道系の宗教だろうし、だから、畳の広間に神棚があることを想像していた。でも、目の前に見えるのは、キリスト教会のようだった。神棚は無く、真ん中の通路を挟んで両側に長椅子が並んでいた。しかも、椅子には多くの人が座っていた。人数では四十人ぐらいだろうか。皆が振り返り、

「先生。お待ちしておりました」

と言った。

「皆様。今日も良い祈りを捧げましょう」

青沢が語りかけると、皆、頭を下げた。

「それと、新しい信者さんが礼命会に今日、入られます。入会式を皆様とともに取り行いたいと思います」

青沢は、そう言うと、僕に自己紹介をさせた。

僕は、これまでの人生で自己紹介をしたことがない。もちろん、簡単な自己紹介はある。新しいクラスになった時とか、アルバイトを始めた時とか、名前を言って頭を下げる程度ならある。それに、せいぜい趣味を加えるぐらいなら。でも、全く知らないこれだけの数の人を前に、しかも、全て特定の宗教の信者を前に挨拶などしたことがない。おそらく世の中のかなりの人が僕と同じだと思う。極めて珍しいシチュエーションだ。ところで、この大勢の人はどうやって、この教会まで来たのだろう? 外に車は止まっていなかった。循環バスがあっただろうか? 僕はそんなことを考えていた。僕なりに緊張を紛らわせていたのだ。僕は緊張しながらも、自己紹介をした。僕は、実は、礼命会という宗教には何の関心もない。でも、どうしても、入信したいと思って僕なりに必死で自己紹介をした。宗教に関心がない僕が入信したい理由は、ただ一つ、僕の生きにくさが消えたからだ。あの違和感が消えた。僕は、それを永続させたい。そのための秘けつのようなものを体得したいのである。青沢から学ぶのか、修行により体得するのかは分からないが、とにかく、そのためには、入信しないわけにはいかないと思った。

だから、僕は、自己紹介をした。

「杉原和志。P大学経済学部二年生です。この町の生まれです。実は今日、自宅の近くの路上で僕は腹痛で倒れました。僕は子どもの頃から胃が弱いので、胃が痛くなることはよくあるのですが、今日は痛みのあまり倒れました。そこに……」

と、ここまで話して僕は迷った。青沢さんと言うべきか、先生と言うべきか。

そして、

「青沢先生が幸運にもおられました。先生は、僕のお腹に手を当てて祈ってくれました。悲しみを慰めてくれました。すると、僕の胃の痛みはすっと消えました。それに、もっと驚くべきことに、僕のいつも悩まされている生きることへの違和感が消えていました。僕は生きにくさから解放されました。だから、僕は入信したいと先生についてここに来ました」

僕は、素直に先生と言っていた。僕は、僕から生きにくさを消してくれた青沢を素直に尊敬していた。皆の前で、自己紹介をしながら、自然に「青沢先生」と言った瞬間、僕自身がそのことに気づいた。僕は青沢を尊敬している。僕は心の中で驚いていた。何故なら、僕は他人を尊敬したことが、これまでの人生で一度もなかったからだ。逆はよくある。僕は人を馬鹿にすることが多い。ひねくれているからだろう。


僕の自己紹介が終わると、信者から大きな拍手が起こった。

「杉原さん。あなたは純粋すぎるんです。だから、生きにくいんです。でも、純粋な自分を失わないでください。私たちと一緒に信仰に励みましょう。そうすれば、あなたは、もっと生きやすくなれます」

年配の男性がそう言った。

「そうですよ。今時珍しい青年です。きっと毎日、生きているだけで、世の中の悪い出来事や、人の悪意が、心に突き刺さってくるような無垢な心をあなたは持っているのです。生きることは厳しいことです。だから、そういったことを乗り越えるために強くならなければなりません。でも、強くなることは人に冷たくなることでも、無関心になることでもありません。礼命会で信仰をすれば、あなたは今のあなたのまま強くなれます」

年配の女性がそう言った。

僕は、二人の言わんとすることが分かった。確かに、僕には、二人から言われるような面はある。ただ、僕はそんなに純粋でもないし優しくもない。それに、僕ぐらいの歳頃の人間には多かれ少なかれそういう面はあるはずだ。だから、返事に困った。「はい」とも「いいえ」とも言えず黙っていた。

「皆さんの励ましに、杉原さんは、何と言っていいか困っていますよ。でも、彼は聡明です。皆さんの言葉の意味をよく理解してくれています。では、入会式を始めます」

青沢が助け舟を出してくれた。そして、入会式に移った。


入会式とは何をするのかと僕は内心怖かった。例えば、僕の人差し指の先をナイフで切って、血を絞り出して信者全員で飲むとか。僕はそんなことまで考えていた。でも当然、そんなカルトチックなことではなかった。むしろ、簡易的すぎると思ったぐらいだった。

教会の正面には、神棚の代わりに、真っ白な紙に描かれた大きな手の絵が飾られていた。握手をしている絵だった。写実的で非常にリアルな絵だった。黒い線だけで描かれていた。色はついていなかった。誰が書いたのだろう? 先生だろうか? 神棚の代わりに置いてあるのだから、もっと抽象化するとか、とにかくこのリアリティは無くしたほうがいいのではないかと僕は思ったぐらいだ。そのリアルな絵の前の台に、僕が自分で書いた僕の名前と生年月日を記した小さな紙を置いて、それから、先生が、その前に立った。左隣に僕が立った。

「一礼、二拍手、一礼ですから。杉原さんも一緒に」

先生が、僕に言った。先生の顔は正面の絵を見ていた。

「では皆様、杉原和志様が、杉原和志氏子として、大いなる慈愛を授かり、授ける人にならんことをともに願いまして、入会の儀としましょう!」

同時に、先生は頭を下げ、その後、大きく柏手を二度、打った。隣にいた僕は、音の大きさに一瞬耳が変になった。

後ろの信者も、一斉に、柏手を打った。そして、皆が礼をした。

「杉原さん。これより、あなたも礼命会の氏子として同じ信仰の道を歩むことになりました。あの絵、つまり、礼命会の心である、『ともに生き、ともに幸せになる』。そのために信仰に励みましょう」

先生は僕を見てそう言った。初めて見る笑顔だった。やや怪しげな風貌と違い素直な笑顔だった。

「杉原さん。頑張りましょうね」

信者が言った。

僕は何を頑張るのか分からなかった。僕の目的は、あくまでも生きやすくなる秘けつを体得することだったから。でも、信者になったのだから、

「はい。何とかやってみます」

と答えた。ただ、頑張りますとは答えなかった。実際、何をどう頑張ればいいのか分からなかったからだ。

「ゆっくりでいいよ。焦らなくて」

他の信者が言った。信者の年齢層は、七十前後だろうか。若者はいなかった。

僕は、ふと我に返った。普段から人と話をしない自分が、中でも、特に話をしない年代層の人たちとこうやって一緒にいても自然でいられることを不思議に思った。それに、いつも襲われる違和感と生きにくさも感じない。

僕は、今、確かに救済されているのかもしれない。先生からは特別な氏子と言われた。そう思うと、僕が最も信者としての資格があるのかもしれないという気さえした。

すると先生が、

「気負わずに。皆でともに幸せになりましょう」

と僕の心を見透かしたように言った。

「はい」

と僕は答えたが、実は、僕には、他者の存在には何の関心も持たないという、とても現代的な欠陥があった。だが、僕は、そのことは隠しておくことにした。何故なら、僕は、僕のことにしか関心がないからだった。


四.

僕の入会式の後、先生の講話があった。僕は、入会式の緊張と疲労でぼんやりしたまま、一番前の列の椅子に座っていた。だが、先生の講話が始まると驚きで目が覚めた。

「皆さん。世界は悲しみに満ちています。涙が世界中の空から降ってきます。涙は乾いた大地に吸い込まれ、決して、大地を潤すことも、人の心を潤すこともありません。乾いた大地、乾いた心、襲い来る空しさ」

先生は、両手を天にかざして、咆えるように訴えた。

「どうですか? 皆さんも、生きていて空しさに襲われるのではないですか?」

信者は皆、頷いた。そして、皆、放心したような表情で先生を見ていた。

「でも、世界には、空しさを感じる余裕もないような切迫した状況にある人が沢山います。その中には子どもも、老人も。世界には絶えることなく紛争があります。銃声に怯えながら、空腹に苦しむ子どもが私には見えます。それに、大飢饉の中、飢える子ども達。私には見えます。子ども達の姿が。お年寄りも見えます。信者のKさんと同じ年齢の人です!」

先生はそう言うと、Kさんを鋭く指さした。

僕は先生が指さす先にいるKさんを振り返って見た。恰幅の良い男性信者だった。八十前ぐらいだと僕には見えた。

「私と同じ年の老人が、飢餓で苦しんでいるんですか? 何故、私は恵まれて、その人は飢餓状態なのでしょう? 先生、神様はどうしてそんな不公平なことをされるのでしょうか?」

Kさんは、涙声で先生に尋ねた。

「試練です。神様は、人類をお試しになっておられるのです。人類は助け合うのか、それとも、憎しみ合うのかを、お試しになっておられるのです。分かりますか? 皆さん」

先生は右手を高らかに上げると、人差し指で天を指さした。神様を指さしていることが僕にも分かった。

僕は、先生の大袈裟な身振り手振りと大声には、疑問を持ったけれど、話の内容には異論はなかった。おそらく、誰が聞いても、同じだと思う。先生の話していることは、世界の現実だからだ。でも、ここから、先生の話に対して、信者の取った行動を見て、僕は、驚くと同時に、そのために、先生はこの話をしたのかと疑問を持った。

信者は皆、こういう行動に出たのだ。彼らは次々と立ち上がり、先生のほうに近づいて行った。先生の隣には、大きな木箱が置いてあった。僕は、ずっと何かと思っていたのだけれど、その時、分かった。木箱の上の蓋は開いていた。そこへ信者は次々と、お金を入れていくのだった。賽銭箱というのとも違う。何故なら、額が違うからだった。百円玉を放り込んでいるのとはわけが違った。分厚い封筒に入った札束。きれいな布に包まれた札束。あるいは、財布からお札を取り出して、そのまま、箱に入れる人もいた。千円札ではなくて一万円札だった。

「お試しになられています~ 神様はお試しになられています~ 本当に人類は助け合うのかを今、天から見ておられます~」

先生は、言葉に抑揚をつけて歌うように話していたが、要は、信者を煽っているのだと僕は気づいた。

「もっと金を出せ、もっと金を出せ」と煽っているのだった。


僕は、これは危険な宗教だと気づいた。何故なら、僕は大学に入学した時、P大学から『学生生活を安心して過ごすためのガイド』というガイドブックをもらって読んでいたからだ。そこには、「キャッチセールスやマルチ商法、宗教の勧誘について」という項目があった。キャッチセールスやマルチ商法については、僕も知っていた。高校生の時、友達と街を歩いていると、アンケートに答えてくれと執拗に声をかけてくる男がいた。「キャッチセールスだよ。何か売りつけるつもりだ」とそれがキャッチセールスだと友達が教えてくれた。マルチ商法も、別の友達の家でテレビを見ている時だった。ある化粧品のコマーシャルが流れると、友達が、「この化粧品って、メジャーな商品だけれど、マルチ商法にギリギリ該当するんだぜ」と教えてくれたことを覚えている。僕の友達は、世間知らずの僕に世の中のことを教えてくれた。でも、宗教には遭遇する機会がなかったので、僕は何も知らないまま進学した。ガイドブックにはこうあった。

「良い宗教とそうでない宗教を区別することは難しいです。人には色んな考え方があり、信仰についても良否を決めることは一概にはできません。でも、一般的に言えることは、高額の寄付を求める宗教には危険な宗教が多いと考えられます」

宗教学者の解説だったのだけれど、僕は、そういうものなのかと、その時は思っただけだった。でも、今、現実に、目の前で、信者が皆、札束をボンボンと大きな木箱に放り込んでいる様子を見て、これは危険だと感じた。そして、入学してすぐに読んだガイドブックのあの一節を思い出し、礼命会は危険な宗教だと気づいたのだ。

僕は、とっさに逃げ出そうとしたが、ふと思った。

『ここで逃げてしまうと、先生が、僕から取り去ってくれた違和感。あの違和感の取り去り方を体得できないままになる』。

そう思うと、僕は逃げるのが惜しくなった。そして、こんなことを考えた。

『僕はここいる信者のようにお金は無い。僕の家にもお金は無い。父と母共働きの家庭だが、それでも、僕一人大学に行かせるのが精いっぱいの家庭だ。寄付の問題は心配する必要はない。つまり、無い袖は振れないのと同じ理屈だ。だから、逃げなくても大丈夫だ。これはここにいる富裕層の信者だけが被害を被っているわけだから、僕は関係ない』。こう考えると、僕は、急に気が楽になった。元々、僕は、他人のことに関心がない。僕は、僕のことにしか関心がない。すると、ボンボンと札束を放り込んでいる信者のことなどどうでもよくなった。


その時、バタンという大きな音がして、木箱の蓋が閉じられた。と同時に、信者が皆、我に返ったように、椅子に戻った。先ほどの放心したような表情ではなくなった。

「では、皆様、今日の礼命会の集いも良い集いとなりました。何よりも、新しい信者さんが入会してくれました。杉原和志氏子です。皆様、最後に大きな拍手を杉原和志氏子のためにお願いします」

先生の声とともに、大きな拍手が僕を包んだ。

僕には、先生に騙されている信者の拍手という認識があったが、先ほど、そのことはどうでもいいと割り切ったばかりなので、純粋に嬉しかった。そんな僕の性格を極めて自己中心的だと非難する人もいる。けれど、先生の言う通り、世界中に悲しみが溢れている今の時代を生きるためには、どこかで割り切らなければならないと僕は思う。何故?って思う人には、僕はこう言いたい。世界中の悲しみを全て背負っていたら、自分が悲しみに押し潰されてしまうじゃないかと。そう考えれば、これは生きるために必要な、人類の、ある種の進化でさえあると僕は思うのだ。


それから、集会が終わり、帰ることになったのだが、皆、どうやって帰るのだろうと思った。すると、僕の予想が当たっていて、駅とゴルフ場の間を往復する循環バスがあった。このバスは、ゴルフ場が開設された時、運行が開始されたが、ゴルフ場にバスで行く人はいない。自家用車かタクシーだ。実際、僕もバスの中で、ゴルフバッグを担いでいる人に会ったことがない。そのことに気づかず、当時の市長は、循環バスを走らせてしまったらしい。おっちょこちょいな市長だと、その話を聞かせてくれた老紳士の信者に僕は言った。

すると、老紳士はこう言った。

「おっちょこちょいな市長さんのおかげで、私たち信者が、この教会に来る交通手段を授かりました。それに、ゴルフ場に勤める人達、例えば、キャディの人達の交通手段もできたことを考えれば、おっちょこちょいが、果たして、おっちょこちょいだったのか? 全てが神の御業だと私は思います」

老紳士にそう言われた僕は、「それはあまりにも好意的な解釈ではありませんか?」と言おうとしたが、やめておいた。僕ももう礼命会の信者なのだから、素直に頷いた。僕はひねくれてもいるけれど、素直なところもある。

それから、信者は皆、バス停に向かったので、僕もついて行こうとした。

すると、

「杉原さん。一緒にいいですか?」

と先生が声をかけてきた。

振り返ると、先生が、僕を乗せて来てくれたワゴン車の運転席の窓から、顔を出していた。

僕は、車のほうに行って助手席に乗った。

僕を乗せたワゴン車は、そのまま教会を後にした。

先生は、僕の様子を窺っていた。先ほどのボンボンと札束が放り込まれる光景を見て、僕がどう思ったか探っているのが、僕にもすぐに分かった。

先生は、「驚いたでしょう?」と優しく言った。

でも、薄青色の眼鏡の奥の眼は笑っていなかった。

僕は、そのことにも気づいていたので、慎重に言葉を選んで答えることにした。


五.

先生が、「驚いたでしょう?」と尋ねた時、僕は、どう答えようか迷った。目の前で、札束が次々と大きな木箱に放り込まれたのである。「気にしていません」と答えるのも変だ。それはむしろ、「気にしている」と答えているのと同じだ。だから、僕は黙った。その沈黙に耐えられなかったのだろう。先生のほうから、また話しかけてきた。

「とても、シンプルに考えればいいと思うんだ。天国にお金は持っていけない。だったら、生きている間に、困っている人のために役立てるべきだと僕は思うんだ。どうだい? この考え方は?」

先生は前を見て運転したままそう言った。

僕は、随分、稚拙な論理だと内心思ったが、

「はい。確かにそうですね」

と答えた。

理由は、その時、僕が適当な答えを思いつかなかったからだが、もう一つ理由があった。それは、その時の先生の様子の中に、気恥ずかしさを感じたからだ。先生は、言ってから、あまりにも幼稚な発言だと自分でも恥かしくなったのだと僕は気づいた。そして、その様子を通して、僕は、先生の素顔を垣間見た。コンビニの前で、胃痛で倒れた僕の腹に手を当てた時の青沢礼命でもなく、教会で信者に札束をボンボンと放り込ませた時の青沢礼命先生でもない、素顔の青沢礼命を僕は見た。そして、僕は彼の素顔に好感を抱いた。だから、同意の返事をした。同情の返事と言ってもいいかもしれない。ところで、礼命は宗教家としての名前だろうから、青沢某という男の素顔を見たということだ。そこから更に、僕は気づいた。彼は、僕が思っていたより若い。僕は出会った時から、五十代半ばぐらいかと青沢のことを思っていたのだが、今、恥ずかし気にちらと僕の顔を見た彼を見て、まだ四十代半ばぐらいだと思った。髪型や、黒のスーツ、そして、薄青色の眼鏡によって、実年齢より、老けて見せているんだ。宗教家という職業柄、信者に対して説得力を持たせるために、そうしているのだと僕は思った。


先生は、それきり前を見て車を運転している。今度は気まずい沈黙を僕が破らなければならなくなった。こういうやり取りが面倒だから、僕は人づきあいが嫌いなのだ。また、マズいことに僕はそういう人の心の機微に妙に敏感なのだ。気づかなければ、そのまま素通りできるものを、気づくから、いちいちその何かを拾わなければない。その煩雑さに僕はいつも閉口する。しかも、知らぬ振りをして拾わずに通り過ぎると、後で自己嫌悪に陥る。僕は、他人に無関心なのに、不必要にデリカシーが発達しているという矛盾を抱えている。これも、僕の生きにくさの要因の一つである。今も、先生の気恥ずかしさを緩和するため、軽いジョークを言わざるを得なかった。

「先生の論理を、社会一般に当てはめてみると、僕と僕の両親は残念ながら該当しません。何故なら、僕の家族は全員、お金に縁がないからです。天国まで持って行くお金なんてありません。現世でいつも金欠なんですから。僕たち家族は、どちらかというと困っている側の人間です」

僕がそう言うと、先生は笑った。さっきの僕の入会式の時にも見せた素直な笑顔だった。車内の空気が和んだ。僕は、これで後から自己嫌悪に陥ることはないとほっとした。


ワゴン車は丘を下っていた。フロントガラス越しにギラギラとした真夏の陽ざしが照りつけた。僕は、ワゴン車についている時計を見た。もう四時だった。僕が胃痛で倒れているのを、先生に助けられたのが、昼過ぎだった。それから、三十分ほど車に乗って、教団の施設に着いた。二時から入会式と集会だった。一時間以上建物の中にいた。今、時計を見ながら、随分、長い時間が過ぎたことを改めて、僕は知った。その間に、宗教に入信までした僕の今日は、果たして、充実した一日と言っていいのだろうかと疑問に思った。先生に誘われた時の、「陽の当たる場所へ」というのは、どうでもよくなってきた。というより、違和感と生きにくささえ消えれば、自ずと、陽の当たる場所に行けるのではないかと僕は思った。だから、入信の目的は、違和感を取り去る方法を体得することだ。突然、宗教に入信してしまった動揺が、今、帰りの車の中で襲ってきた僕は、目的を明確にさせることで、宗教に深入りしないよう自分にセーブをかけていた。

その時、先生の電話が鳴った。


六.

先生は、スーツの内ポケットから最新式のとても薄いスマートフォンを取り出し、電話に出た。

「牧多君。今日は集会に来なかったけど、どうしたんだい?」

先生が電話で話すのを聞きながら、僕は、電話は信者からだと思った。同時に、先生の口調から電話の相手は随分、若い信者のようだと思った。今日、集会に参加していた信者はほぼ全員、高齢者だった。わずかに五十過ぎぐらいの信者が何人かいたが、それ以下の世代はいなかった。だから、それを考えると、電話の相手は、極めて若いように僕には思えた。そんなことを考えていると、いつの間にか、先生は電話を切っていた。

「杉原君。まだ時間はいいかな? 会わせたい人がいるんだけど?」

「今、電話で話していた人ですか?」

「そうなんだ。信者さんなんだけど、君と同い年の青年でね。せっかくだから、会って欲しいんだけど?」

先生の言葉に、既に疲れ切っていた僕は、断ろうと思った。どうせ会っても、会話が弾むわけでもないしと思い、

「今日は、疲れました。だから、また後日に」

と僕は言った。

すると先生は、

「残念だな。彼は生き方が変わって陽の当たる場所で活躍している若者なんだけど」

と言った。その言葉を聞いた僕は、

「少しの時間なら」

と返事を変えた。

僕の返事を聞いて、先生は、前を向いたまま頷いた。

生き方が変わって陽の当たる場所で活躍している同い年の青年。

「牧多」と先生は呼んでいた。

その青年に会って直接、違和感を取り去る方法を教えてもらおうとは僕は思っていない。確かに、今日一日で、礼命会がいかがわしい宗教だと分かったから、それができたらそうしたい。でも、そんなに簡単に教えられるものではないだろう。技術的に難しいという意味と教団の秘密保持という意味の二つの意味で無理だと僕は思った。

それより、僕は、純粋に牧多という青年に関心を持ったのだ。僕はいつも思う。今の時代は、これまでになく生きにくいと言われているけれど、大学に行くと、爽やかに青春を謳歌している若者がキャンパスに溢れている。どこに生きにくさを抱えている学生がいるのだろう? みんな楽しそうだ。もし、楽しそうな振りをしているだけで、本当は生きにくさを隠しているのだとしても、まさか僕が彼らに近づいて行って、「君は本当は生きにくい人生ですか?」と尋ねても教えてはくれまい。ぶん殴られはしないだろうけれど、怒らせるだけだ。というわけで、僕は僕以外の生きにくい人間と直接会ったことがない。だから、牧多という青年に会ってみたいと思った。

先生は僕の返事を聞いて、嬉しいようだった。その証拠にアクセルを踏み込んでワゴン車のスピードが上がった。

ワゴン車は丘を下り、市街地へ入り、しばらく走ると、ビルの地下駐車場に入った。

僕らは車を降り、ビルの一階にあるコーヒーショップに向かった。そこで、牧多という青年と待ち合わせをしていた。

僕は、エアコンの効いたワゴン車を降りた反動もあり、蒸し風呂のように暑い地下駐車場を歩きながら、「牧多君の人生は具体的にはどんな風に生きにくかったですか?」と尋ねてみようかと想像した。それから、悪戯っぽく一人で笑いながら、先生の後をついて地下駐車場の階段を一階に上った。


第二章(ハイカットスニーカー)

一.

大手チェーン店のコーヒーショップはビルの一階のワンフロアが店舗だった。広い店内には僕と同じような夏休みの若者が多くいた。ノートパソコンでレポート課題を作成している大学生。受験勉強をしている高校生もいた。先生は牧多の姿を探した。僕は牧多を見たことがないので、先生が彼を見つけるのを待っていた。すると、

「先生。ここです!」

と大きな声が聞こえた。

フロアの奥だった。大声だったので、イヤフォンをしている高校生は気づかなかったが、ノートパソコンを使っている大学生は、驚いてミスタッチをした。僕は、あれが牧多かと思った。背の高い男だった。


先生と並んで僕は座った。牧多は僕の向かいに座っている。飲みさしのアイスコーヒーとファッション雑誌が彼の前にあった。僕は、その男性向けのファッション雑誌を見て、彼には必要ないだろうと思った。何故なら、彼のファッションは、坊主頭に、黒のTシャツに黒のスリムジーンズ。靴も黒のハイカットスニーカー。Tシャツの胸元にはニューヨークパンクロックの大御所『モンドカウボーイズ』のメンバーが大きくプリントされていたからだ。

「この夏のきれいめカジュアルコーデ」と雑誌の表紙に書かれていたが、目の前のパンク青年には無縁だと僕は思った。

僕が雑誌の表紙を見てそんなことを考えていると、

「杉原和志君。今、入会式を済ませたばかりの信者さんだ。君と同じ年の若者だ」

と先生が、僕を牧多に紹介した。

「初めまして。杉原和志です。P大学経済学部の二年生です」

僕は、牧多を見て挨拶をした。

牧多は、

「いい大学に行ってるねえ。俺みたいな高校中退と違って、頭いいんだなあ」

と僕を見て薄笑いを浮かべながら言った。

僕は、そんな牧多を見ながら、自分の諸々のコンプレックスを僕の学歴に投影されても、答えようがないと冷静に考えていた。時々、こういうことがある。だから、僕は慣れていた。

すると牧多は、

「てなことを、この前までの俺だったら、本気で思っていたんだけど、今は、違うんだ。何とも思ってないよ」

と急に笑顔になった。

「こら。牧多君。新しい信者さんをからかうんじゃない。杉原君。申し訳ない。彼は、入信して、神様のお力で大きく人生が好転したから、嬉しさのあまりつい、悪ふざけをしてしまうんだ。でも、彼は、本当にそれほど大きな神様からのお力をいただいたんだ。奇蹟と言っていいと僕は思う」

先生は、牧多のことを僕に釈明しながら、礼命会が如何に現世利益のある宗教かを伝えたがっていた。そのために、僕を牧多に会わせたかったのは分かっていた。しかし、こんな芝居がかったやり方で伝える必要はないだろう。より噓臭さが増すだけなのに。僕は、先生と牧多が二人組の安っぽい詐欺師のように思えた。これなら、街でよく遭うキャッチセールスの男のほうが、芝居が上手いのではないかと思った。だから、本当はバカバカしくなっていたのだけれど、聞かないわけにもいかないので、

「具体的に、牧多さんに、どんな良いことが起こったのですか?」

と儀礼的に聞いた。


牧多は話し始めた。僕は懐疑的に彼の話を聞いた。

「俺は牧多賢治。君と同じ二十歳だ」

「そうだね。僕はもう誕生日を過ぎたから、満二十歳だ」

「俺も先月、二十歳になった。君と俺はこれまで同じ二十年という時代を歩んできた。そして、これからも、ずっと同じ時代を歩んでいく。俺は明るい未来なんてないと思う。だとすると、君と俺は、同じ暗い未来を見続ける宿命を背負って生まれてきたことになる。同じ年の人間と会うと、俺は、いつもそう思うんだ。哀しいけど、これが、現実なんだってさ」

牧多は、頭が悪い振りをしているだけで、中々、思索的な人物だった。僕は彼の話を聞く気になった。

牧多の実家は、『深々楼』という中華料理店だった。でも僕は、『深々楼』という割と気の利いた名前の中華料理店が、この町にあることを知らない。大体、この町では、中華料理店と看板を掲げていても、入れば、実態はラーメン屋なのだ。ラーメンとギョーザと唐揚げしかメニューにないそんな店ばかりで、まともな中華料理店なんてない。そのことを牧多に言うと、彼は笑った。

「確かに、そうだな。でも、うちは、正真正銘の中華料理店なんだ。オヤジが、老舗の中華料理店で長い間修業をして、ようやく独立した店だから」

「それなら、余計に知っているはずなのに、申し訳ないけれど、僕は知らない」

「そりゃそうだよ。流行らないからずっと開店休業状態の店だもん。どこにあるかも見つけられないし、店の噂も流れない。悪い噂すら流れない。幽霊中華料理店さ」

悲惨な店の状況をあっけらかんと話す牧多だったが、聞かされた僕のほうは、そうはいかなかった。

「君が高校を辞めたのも、店のことが関係あるの?」

他人に無関心な僕であっても、面と向かってこんな話を聞かされたら、さすがに気になった。

僕の質問を聞いて、隣にいた先生は、満足したようだった。おそらく、僕が人並みの良心は持ち合わせていると感じたのだろう。確かに、先生に会ってから今まで、僕は、誰に対しても何の関心も示さなかった。教会で、札束を木箱に放り込む信者を見ても、驚きはしたが、彼らのことを心配する様子は一切なかった。先生は、そのことで、僕に対して、わずかの疑いを抱いていたのだろう。でも、高額の寄付を木箱に放り込ませている張本人は、先生なのだ。にもかかわらず、僕の人間性に疑問を持つとは、つくづく人間とは身勝手だと思う。

そんな先生とは違い、

「違うよ。バカだから勉強についていけなかっただけだよ」

と牧多は、言葉とは裏腹に、自分のことを真面目に心配してくれた人間の存在に感動していた。

僕も、牧多の様子を見て、思ったより、純粋でまともな奴じゃないかと思った。むしろ、僕のほうが、変わっている。先生は、もっと変だと三人を比較評価した。

だが、それは違った。変わり者の僕が礼命会に入会したのと同じく、礼命会に入るだけあって、牧多も世間一般からは、およそ理解されない思想の持ち主だった。彼が、入信して運が開けたという話を聞いて、僕は、そのことを思い知らされることになった。


二.

牧多の父親は、頑固で厳しい料理人だった。牧多は、父親について、元々の性格に加えて、修業先での修業が厳し過ぎてああなったと分析した。

「学校の部活で厳しくしごかれ過ぎて、すっかり人格が変わった、そういう感じあるだろ。あれだよ」

牧多の例え話が上手いので、僕は、牧多は、やはり、頭のいい奴だと思った。

牧多には、兄がいた。牧多と違い愚直な人物だった。兄弟二人とも、小学生の時から、中華鍋を振らされていた。口べたな父親は、それが修業であり、将来どのように役に立つかなどの説明ができなかった。だから、

「その部活の先輩にしごかれ過ぎると、絶対に、後輩にもやってやろうって思うだろ? アニキと俺がその犠牲さ」

と牧多は言った。何の説明もなければ牧多は、そう解釈しても仕方がない。

だから僕は、

「でも、それはちょっと違うと思うよ。お父さんは、純粋に店の跡取りとしてお兄さんと君を子どもの頃から鍛えたんだと思う。それが良いか悪いかは何とも言えないけど」

と妥当だと思われる解釈を伝えた。おそらく彼の父親も、そのつもりだったはずだ。

「だとしても、アニキと俺は子どもの頃から、理不尽にしごかれたんだから、結果は同じだぜ」

と牧多は笑った。彼は、店の経営状態についても、自分の辛い体験についても、明るく話す。僕はそんな牧多が、不思議に思えた。

「牧多君は、辛いことも、全て自分への神様の試練だと捉えるようにしているんだ。だから、いつも前向きなんだ」

僕の気持ちを察した先生が、牧多を擁護した。

牧多の母親は、厳しくはないが変わった人だった。店の接客をしているのだけれど、気の向いた時には、必要以上に愛想が良く、気分が乗らない時には、客が呼んでも返事もしない人だった。ひどい気分屋だった。

頑固で口べたな店主と気分屋の接客係のいる店。

僕は、珍しさという点では際立っていると思った。けれど、僕は、その時、僕の両親のことを思い出した。僕の父は、僕以上に人づきあいが苦手だ。そのため、できるだけ、人との接触を避ける仕事を探して転職を繰り返した結果、今、「何でも屋」に勤めている。「何でも屋」だけに、業務は多岐にわたり、人との関わりの濃密なものもあるらしいが、父がしている仕事は、他人の家の草むしりだ。「こんにちは」と「作業終了しました」以外、ほぼ何も言わなくていいらしい。僕の父は、一年中、他人の家の草むしりをしている。だから、日焼けしていつも真っ黒だ。僕の母も、人づきあいが苦手で、その結果、たどり着いた仕事が、クリーニング店の配達員だ。詳しいことは知らないけれど、母の勤めるクリーニング店は、個人以外に幾つもの会社のユニフォームのクリーニングを委託されていて、配達が忙しく、話をしている暇がないらしい。お喋りな人には、つまらないのかもしれないけれど、僕の母にはよく合っている職場だった。前に、「今日もひと言も喋らなくて済んだ」と母が言っていた。僕の父と母は、恋愛結婚なのに、夫婦間で話をあまりしない。それどころか、僕とも話をしない。だから、僕の家族は、コミュニケーションの少なさに比例して、夫婦関係、親子関係が希薄だ。そのことを考えると、牧多の両親を必ずしも特別視できないと僕は思った。


三.

牧多は、両親を嫌っていた。特に父親が嫌いだった。牧多は中学に入ってから、学校をサボって街を遊び歩くようになった。三年生になったある日、同級生数人と、歓楽街を歩いていた。学生服から私服に着替えていたが、どう見ても中学生だと分かった。警察官二人に牧多達は補導された。そして、交番へ連れて行かれるその時だった。男が警察官を呼び止めた。男は黒のスーツに薄青色の眼鏡をかけていた。先生だった。先生は、警察官二人を牧多らから離れたところに連れて行って、話し始めた。最初は、警戒していた警察官も、次第に先生の話に頷くようになった。最後は、先生が内ポケットから出した名刺を受け取ると、「どうも。ご苦労様です」と言って帰ってしまった。

牧多らは、目の前で起きた出来事に、先生は一体何者だと驚いた。

「警官が帰ったんだぜ。先生は神様だと思ったよ。でも、本当は、先生は神様と俺たちを結ぶ仕事をしている人だった」

牧多は喜んで話したけれど、僕は、

「先生。警官には一体何て言って帰らせたんですか?」

と当然の疑問を尋ねた。

「杉原君。それこそが、神の奇蹟なんだよ」

先生は、肝心なことは言わなかった。僕は気になったが、それ以上、尋ねなかった。

牧多は、

「それより、ここからが本当の奇蹟なんだ」

と続きを話し始めた。

先生が牧多達を助けた後、礼命会に勧誘したが、牧多以外の生徒は、宗教はよく分からないと入信を断った。だが、牧多は即、入信した。入会式は、後日、集会の日ということで、歓楽街の道の真ん中で、入信を誓った。

「俺、先生に出会って必ず人生が変わるって分かったんだ」

牧多はまた嬉しそうに言った。

「それで、本当に運命が好転したんだ? どんな風に好転したの?」

僕は、嬉しそうな牧多を見て、よほど良いことがあったのだろうと思った。そして、僕も、入信したのだから、彼のように何か良いことがあるのだろうと期待して尋ねた。

すると牧多は、

「俺と同じように杉原君にも、すぐに奇蹟が訪れるよ。俺の奇蹟はね、入信してすぐに、オヤジがポックリ死んだことなんだ。脳の血管が破裂してね、入信して一カ月後に突然、死んだんだ。俺、その時、神様は、本当にいるんだって、心から思った。礼命会に入会して本当に良かったって思った。あの歓楽街での先生との出会いは偶然ではなく、神の御業なんだって、本当にそう思ったよ」

牧多の高揚した顔を見ながら、僕は、僕の家族のことを考えた。

僕の家族は、主にコミュニケーション不足が原因で、家族関係が良くない。元々、両親も、僕も、情が薄い。自分のテリトリーに家族であっても人を入れるのを嫌う。そういう人間で構成された家族だから、仕方がないのかもしれないし、変わっているとは昔から思っていた。ただ、牧多の話を聞いて、僕は、僕の父と母が、とても愛おしく思えた。それに、とても良識的な人たちだと思った。だからこそ、僕は、たとえ、いささか変わり者であっても、牧多に比べれば、かなりノーマルだと思った。

そして、

「牧多君。お父さんが急死したことを奇蹟と捉えることには僕は同意しかねるよ」

と僕は言おうと思った。

でも、そこで僕は、牧多の家族関係のいびつさを考えた時、彼のような発想に至るのも、やむを得ないことなのかもしれないと考え直した。僕は何も言わないことにした。

そして代わりに、

「牧多君。その話の続きを聞かせて欲しい」

と言った。

もしかして、僕は、寛容になったのだろうか。だとしたら、入会してから、わずか半日しか経っていないにもかかわらず、僕も神の御業を賜ったのかもしれないと、その時、思った。


牧多は、父親の死後、高校に進学したが、落ち着かなかった。

「何か、俺にしかできないことがある。神様が俺に与えてくださった使命がある。そう思うと高校になんて行ってられなかった」

牧多は、高校を一年で中退した。でも、具体的に何ができるのか分からなかった。教会の集会に参加し、神の声が自らに届くことを祈る日々が続いた。同時に、アルバイトを始めた。店は兄が継いだ。牧多の兄は、父親のように頑固で厳しい人間ではなかった。でも、愚直で真面目なだけの兄が店を継いでも、接客は気分屋の母親のままである。特に何かが変わる訳ではなかった。流行らない中華料理店に関わりたくないこともあり、牧多は、アルバイト先の仲間と共同でマンションを借りて暮らし始めた。アルバイト先は、自動車修理工場だった。まともな自動車修理工場ではなかった。事故車と事故車の破損していない部分を繋ぎ合わせて一台の中古車として違法販売する所謂「ニコイチ」を手がける店だった。ニコイチ車両のほとんどは、海外に輸出された。人目につかない修理工場の奥で、事故でフロント部分が破損した車両と、同じく事故でリア部分が破損した車両を切断し、破損していない部分同士を溶接する仕事を手伝っていた。工場長は、元々、船の溶接をしていたが、素行が悪いのでクビになったらしい。見つかれば捕まる仕事だけに、給料は良かった。牧多は一緒にマンションを借りたバイト仲間の男とよく遊んだ。

「楽しかったぜ。金回りがいいし、気の合う奴ばかりだった」

牧多は屈託のない笑顔で言った。

その笑顔を見ながら、

「それだけの違法行為と信仰は矛盾するんじゃないの?」

と僕は、牧多に尋ねた。

牧多は、まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかったというような驚いた顔で絶句した。

「食べていくためだったから、神様もお許しくださったんだ。お父様も急逝し、お兄様も店の跡を継いだばかり。牧多君は高校を中退。この状況では仕事を選ぶこともできなかった。そのことは神様もご承知くださっていたんだよ」

絶句した牧多の代わりに、先生がそう答えた。

それを聞いて僕は思った。牧多の父親が急死したのは、牧多曰く、「神の奇蹟」で、高校を中退したのも牧多の意志だ。それに、アルバイトを見つけるのが難しくても、車の違法改造販売をやっている自動車修理工場を選ぶことはない。牧多が好きで選んだだけだ。先生の擁護は、全く擁護にもなっていないとそのご都合主義に呆れた。


それから、二年が過ぎたある日、街で牧多は幼なじみの峰崎という青年と偶然再会した。

その頃、牧多は今のパンク青年になっていて、幼なじみでも、彼が牧多だと気づく者はいなかった。でも、峰崎は道ですれ違うとすぐ彼が牧多だと気づいた。

「牧多。久しぶり」

後ろから声をかけられて牧多は驚いて振り返った。見れば、昔と全く変わらない峰崎が立っていた。牧多が峰崎に気づかなかったのは、考えごとをしていたからだった。

「牧多。お父さん。亡くなったんだろ。お気の毒さま」

牧多の父親が死んでもう三年になる。峰崎に言われるまで、牧多は父親のことを忘れていた。

「ああ。もう三年になるよ。それにしても、よく知ってたな。俺のオヤジが死んだこと」

「そりゃそうだよ。僕の家みたいな商売をしていると何でも耳に入ってくるよ。特にお前の家は飲食業だから」

峰崎はそう言った。

牧多はそう言われるまで、峰崎の家業を忘れていた。峰崎の家は地元で大きなスーパーマーケットをチェーン展開している「スーパーミネザキ」だった。峰崎の祖父が会長で父親が社長だった。峰崎はその跡取りだった。今は、地元の国立大学に通っている。

牧多は、峰崎の顔を見ていた。峰崎の顔は、子どもの頃から、分別くさい。若いのに老けっぽい。家業が影響しているのだろうか。若いのに老けっぽい顔を見ながら、牧多はあることが頭に閃いた。

「これが、オヤジが死んでから、二度目の奇蹟だったんだよ。道で峰崎に再会したのも偶然じゃなくて、神様が引き寄せてくれたんだ。それに、俺の頭に閃いたことも、神様が降りてきたんだ」

牧多が、また高揚した表情で話すのを見て、僕は、父親が脳出血で急死したことを奇蹟という男の二度目の奇蹟は、もっと理解できないものではないのかと疑った。

すると先生が、

「杉原君。信じる者は救われるんだよ。彼のここからの話を聞けば分かると思う」

と言った。

先生は、また僕の心の動きを察して言った。先生は、時間が経てば経つほど、そのいかがわしさに気づかされるが、同時に、人の心を読む力が不思議なほどあることにも気づかされる。これが宗教家の力なのだろうかと僕は思った。


四.

牧多の実家の中華料理店は、兄が継いでから、危機的な経営状態に陥っていた。でも、牧多の兄が父親より劣っているというわけではなかった。父親と同じく商売が下手なだけだった。但し、父親と同じく料理の腕は良かった。牧多は、時々、実家に帰ることがあると、兄の作った料理を食べた。父親の味をそのまま受け継いでいた。

「アニキは、オヤジの下でずっと真面目に修業をしてたから、オヤジの味を受け継いでいた。ついでに、商売が下手なのも受け継いでいた。そこで、俺は、峰崎に相談したんだ」

「実家の店が潰れそうなんだ! 助けてくれー! てね」

牧多はふざけて大声を出した。僕は、深刻なはずの身の上話を明るく話す牧多が不思議だった。でも、今、大声を出して笑った彼を見て、暗い環境で育ったことが影響して、彼の心には離人感のようなものがある気がした。それが分かるのは、僕にも同じような感覚があるからだ。僕も、自分の不幸も、他人の不幸も笑うようなところがある。他人の不幸を笑うのは、僕がひねくれているからだろう。でも、自分の不幸まで笑うのは、自分が生きていることに対して、ひどく距離感があるからだと思う。牧多を見ていると、僕より重度の離人感に侵されている気がする。


牧多の計画は、スーパーミネザキに兄の作る中華料理を総菜や弁当として置かせて欲しいというものだった。大声を出してふざけた牧多の口から出た話は、極めてまともなものだったので、僕は意外な気がしたほどだった。

父親が死んだことに同情している峰崎が、協力しないはずがなかった。峰崎は、早速、父親に相談してくれた。数日後、峰崎から電話があり、牧多の兄とともに、峰崎の会社に来てくれと言われた。

「その後は、とんとん拍子に話が進んでさ。アニキの作った料理をスーパーの総菜コーナーに置いてくれるようになったんだ。しかも、弁当も頼まれて。アニキの作る総菜は評判が良くて、置いてくれる店舗も増えて、今じゃ、店のほうは閉めて、調理場を拡張して、スーパーミネザキ一本に絞って、やってる。母さんも、手伝ってるけど、人手が足りないから、従業員まで雇ってるんだ」

牧多は嬉しそうに話した。

「それこそが、神の御業だよ。奇蹟だよ。僕は今日、入会したばかりだから、宗教のことも信仰のことも分からないけれど、それこそが宗教であり信仰だと思う。みんなが幸せになれたから」

僕は初めて、牧多の笑顔と彼の話す事実が一致していると思いながら、そう言った。

素直に僕が褒めたので、

「そうだろ! これって、やっぱり、神の御業だよな。それに、奇蹟だよな。やっぱり、礼命会に入会して良かった」

と牧多も喜んだ。

先生も、

「今日、杉原君に牧多君を引き合わせてくださった神様に感謝するばかりです。礼命会とは何かについて、杉原君にご理解いただけたと思います」

とその場で手を合わせた。


僕は、店の時計を見た。もう七時になっていた。

「長く話をしてもらって申し訳なかったよ。明日も仕事で忙しいんだろ? スーパーって朝が早いから」

僕は、牧多のことを気づかって、帰ろうと思った。

すると牧多が、

「スーパーは朝早いよ。それに、アニキと母さんも早くから仕事さ。でも、俺は何もしないから大丈夫だよ。よかったら、今から飲みに行ってもいいぜ」

と僕の気づかいとかみ合わない返事をした。

「じゃあ。君は全く総菜の仕事には関わってないの?」

「いい大学に行ってるのに、君はバカだなあ。人間、頭を使わないと。俺は、アニキの店と峰崎のスーパーの間を取り持って、コーディネイトしたコーディネーターなの。だから、毎月、アニキの店の売り上げの10%をコーディネイト料としてもらっているわけ。分かる? 大学生?」

牧多は、僕をバカにしたようにそう言った。

あくまでも仮にだけれど、店の売り上げが、月一千万円だとしたら、彼に百万円お金が入ることを考えると、先ほど、素直にこれこそが信仰だと言った自分の発言を訂正したい衝動に駆られた。

そして、実際、「それはちょっと違うと思う」と言いかけた時、

「杉原君。全ては神の御心のままに。近視眼的ではなく、君も神様の眼を養いましょう」

と先生が言った。

そのため、僕は何も言えなくなった。そして、先生を、礼命会の教祖たらしめているのは、人の心を読む特殊な力にあることを改めて感じた。


僕は牧多と別れ、先生の車で、今日、胃痛で倒れたコンビニの前まで送ってもらった。

先生は、別れ際に、

「生きることが、決して、綺麗ごとでは済まないように、生きることに寄り添う信仰も、また綺麗ごとだけでは済みません。どうか杉原氏子が、本当の信仰にたどり着けますように」

と言った。


僕は、あまりにも濃密な一日に頭がパンクしそうで、ただ「おやすみなさい」としか答えられなかった。

真夏の蒸し暑い夜の道を歩き、家に着くと、もう九時だった。雨戸が全部閉まって真っ暗だった。父も母も、もう眠っていた。僕の両親は、僕が帰るのが遅くなると、それを待つのが面倒になって、いつも先に眠ってしまうのだ。二人とも、自分のペースを僕に邪魔されたくないから、いっそ早く寝ようと考える人達だった。

僕は、そのことで両親を薄情だとは思わない。何故なら、僕も全く同じことを考えるからだった。

僕は、玄関の鍵を開けて、そっと家の中に入った。誰もいない家に帰るより、誰も待ってくれていない家に帰るほうが、さびしい。そのことにも、僕はもうずっと前から慣れていた。


第二部 第一章(ダムドール)

一.

八月に入っていた。礼命会に入会してから、しばらく経った頃だった。僕は家を出た。父が僕に対して不満を爆発させたのだ。

「最近、よく出かけているようだが、勉強もしないで何をしているんだ?」

僕は礼命会に入ってから、遅く帰宅することが続いていた。そのことを父は言っていたのだ。

だが、父が不機嫌になったのは、僕のことが原因だとは言い切れない。きっかけではあるけど、父が不機嫌になるのは周期的なものだった。そして、一度、機嫌が悪くなると一月や二月は治らない。その間、母も僕もひどく気を使う。暴力を振るうようなことはないのだけれど、逆に、父自身が突然、泣き崩れたりして、どう扱っていいのか分からないのだ。父の混乱期―と僕は呼んでいる―の終息後、父は必ず転職した。職場でも同じらしく、気まずくなって職場にいられなくなるのだ。父は宿命的に心のバランスが悪い。父の責任ではないから気の毒には思うが、家族にとっては迷惑でもある。僕はその時、父から、色々と聞かれたが、曖昧な返事しかせず、またきちんと話すと約束して自分の部屋に戻った。その間、母はうつむいたままだった。部屋に戻った僕は、眠った振りをして、荷物をまとめた。翌朝、両親が起きる前に家を出た。そして、すぐバスに乗って教会に向かった。朝早いので、教会に先生はいなかった。僕はショルダーバッグからスマートフォンを取り出し先生に電話をした。三十分ぐらいして先生はワゴン車で教会に現れた。


先生に相談したのだけれど、「困ったな。お父さんの混乱期と言われても」と繰り返すだけだった。

僕も切羽詰まっていたから、思い切ってこう言った。

「先生は言いましたよね? 僕は特別な氏子だって? だとしたら、特別な計らいがあってしかるべきだと思うんです。今がその時ではないでしょうか?」

と先生と初めて会った日に言われたことを持ち出した。

事実、僕の何が特別なのか、ずっと気になってもいたのだ。

「君は特別な氏子じゃないか! 今、礼命会の信者の中で、牧多君と杉原君だけが、飛び抜けて若い。若さには未来がある。これ以上に特別なことはない。いや、君たちだけの特権と言ってもいい」

先生は力説した。嘘で言っているのではなかった。でも、僕は、そんなことかとがっかりした。

そういう意味での、特別だったら、入会式の日にすでに気づいていた。牧多のような若者が信者にいることに驚いたぐらいなのだから。

「先生。率直に言います。僕はどこにも居場所がないんです。僕は、今、リサイクルショップでアルバイトをしています。家具と電化製品の中古品を扱っている小さな店です。そこで、僕は、店が買い取った中古の家具の汚れを拭きとっています。他のバイトの店員と一緒に店の裏の倉庫でやっています。みんな、僕と同じで、他人との付き合いが苦手な人間ばかりです。だからこそ、お互い何となく折り合いがつきます。僕の居場所はバイト先と家だけです。でも、父の混乱期により家を出てしまった今、アルバイト先にすら僕はいられなくなりました。家に帰れなくなったからといって、まさかアルバイト先に寝泊まりするわけにもいきません。中古のベッドはありますが、それも売り物です。だから、僕は、もうどこにも居場所がないんです」

「大学はどうなんだい?」

「僕が大学のキャンパスの芝生に喜んで座っていられる人間に見えますか?」

先生は、僕の痛切とも言える訴えを聞いて、さすがに、心が揺れたようだった。

「杉原君も、礼命会の信者である限り、君だけを特別扱いするわけにはいかない。でも、現実問題として、君の居場所がないことを知って、そのままにしておくわけにもいかない。だから、君の居場所を提供する。ついてきなさい」

先生は、教会の奥にある扉を開けて、僕についてくるように促した。

僕は先生の後をついて、暗い廊下を歩いた。教会にはこんな廊下があるのかと思った。突き当りのドアを先生は開けた。僕も後に続いた。中に入ると、書斎のような部屋だった。そして、ベッドがあった。

「もう十年近く前になるが、この教会を建てた当時、私が、書斎として、使っていた部屋だ。ベッドもある。寝泊まりができる。隣にはシャワーとトイレもあるし、小さなガスコンロもある。杉原君が、生活する分には不自由はないと思う。良かったら、この部屋で当分、生活しなさい。もちろん、家賃も光熱費もいらない」

先生は、僕の訴えを聞いてから、急に態度が変わった。軟化したと言っていいだろう。

「杉原君。これが教会とこの部屋の合鍵だから。施錠はきちんとするように」

と言って、僕に鍵を渡すと先生はそのまま教会を出て行った。

ワゴン車が発進する音が、書斎まで聞こえた。僕は、広い書斎に一人残り、これからどうすべきかを考えた。

まず、アルバイト先に電話をした。リサイクルショップの店長が出た。

僕は「大学で夏休みの合宿があるのでしばらく休ませて欲しい」と言った。朝起きたら、僕がいないのだ。いくら親子関係の希薄な両親であっても、僕を探すだろう。その時、まずアルバイト先に行くはずだ。そこにしか居場所がないのは両親も知っているから。

店長は、

「合宿が終わったら、連絡してくれ。その時、まだ店が潰れていなかったら、また来いよ」

と言った。店長は冗談を言う人ではないので、真面目に言っているのかと心配になった。でも、その後、笑ったので、冗談だと分かった。僕は、僕や僕より無愛想なアルバイトにも気さくに接してくれる店長のことを考えた。そして、またアルバイトに戻れるだろうかと不安になった。僕は入信により大事な居場所を失ったのではないか? だとすれば、何のための信仰だろうと思ったが、そこまで考えるのは、やめにした。入信の目的は、またあの違和感に襲われた時、自分で取り去る方法を体得することだけなのだから。それ以上のことを入信に絡めて考えるのは、自分で問題を複雑化するだけだと、こういう状況だからこそ、僕は合理的な思考をするよう努めた。信仰という目に見えないものに過度に依存しないための予防線としても、僕は、そう考えるようにしたのだった。


二.

僕が家を出て、教会の一室で生活することになって、もう半月が過ぎた。今、先生の書斎にある本を読んでいる。他にすることがないからだ。週に一回の集会の日以外、誰も訪れない。おそろしく静かだ。壁一面を占める本棚には、様々な専門領域の本がある。先生は、初めて会った日、自分は病気でほとんど学校に行っていないと言った。もし、それが本当なら、独学でこれだけの本を読んだことになる。凄まじい努力だ。でも、学校に行っていないというのは本当だろうか? 僕は、先生を知るにつれ、どこまで信じていいのか分からなくなった。

本棚には、特に宗教関連の本が沢山ある。仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの本から、『○○教祖の生涯』という新興宗教の本まである。僕は『○○教祖の生涯』という本を少し読んでみた。

「明治三十年△△県の農家に次男として生まれる。早世した長男の代わりに家業を継ぐ。十八歳の時、二つ年下の”さと”と結婚。四男三女をもうける。三十歳の時、作農の最中、神がかりになる。以後、○○の力を頼り、村人の相談が絶えなくなる。巨岩を軽々と持ち上げ、村のものを驚かせることも度々ある。三十五歳の時、○○教を興し、教祖として布教に励む。五十歳の時、流行り病に倒れるも、この時、二度目の神がかりになる。信者大きく増え、いよいよ教会において、祀り事行えなくなり、神殿の建築に取りかかる。病抜けた○○の神力は増々大きくなり、全国より神力を頼って来る人々により、○○は、ご神さまとして、九十歳にて病没するまで広く崇められる。後世においても、その神力は……」

僕は、そこまで読んで、神がかりって何だろうと思った。本には、神がかりについての説明はない。僕は、自分のスマートフォンを取り出して、神がかりを調べた。色々な意味があったけれど、この文脈で妥当なのは、「神が人に乗り移ること。そして、その人を通して神の意志を伝えること」なのだろうと思った。本には、当たり前のように書かれているけれど、神がかりなんて、本当にあるのだろうかと思った。


その本を戻して、また本棚を見ていると、心理学の本、精神医学の本、そして、マインドコントロールの本があった。僕は、反射的に富裕層の信者が、先生の話を聞く時、放心したような表情になることを思い出した。富裕層の信者は、先生にマインドコントロールをされているから、あんな状態になるのだと思った。ただ、詳しくは知らないので、断定はできない。集会の時の先生の話に魅了されて、皆、ああいう状態になることもあり得る。確認のため、本棚からマインドコントロールの本を取り出して読んでみたのだが、マインドコントロールをされているかどうかの判断は、専門家ではない僕にはできなかった。だから、何とも言えなかった。そこで、僕自身のことを思い出してみた。先生と出会ってからのことだ。僕は、マインドコントロールをされたとは思えなかった。あるいは、マインドコントロールと洗脳は違うらしのだけれど、本に書かれているような、先生が僕を洗脳した場面も思い浮かばなかった。僕を暗室に閉じ込めて、恐怖映画のような映像を流しながら、先生が僕の耳元で「杉原さん。礼命会を信仰しなければ、あなたは地獄に落ちます」と押し殺した声で囁いているような、かなりステレオタイプだけれど、そんなエピソードは先生と僕との間には無い。これからも無いだろう。では、牧多はどうだろう? 彼も無いだろう。そこから、僕の考えは違うところへ移った。寄付のことだ。牧多は高額の寄付をしている。その点で、富裕層の信者と共通している。僕は寄付をしていない。寄付をしてないのは僕だけだ。けれど、先生は僕に寄付を求めない。何故だろう? 初めて会った日に僕が先生に言ったように、僕も僕の両親も金欠だからだろうか? それで、先生は僕を憐れんで寄付を求めないのか? だとすれば、僕は少しみじめな気持ちになった。僕は本を本棚に戻した。要するに、僕は暇だった。することがないから、色々と考えてしまうのだ。


それから、広い書斎の中を見て回り、木目が綺麗なアンティークデスクの上に、小さく光るものが幾つもあるのを見つけた。僕は机に近づくと小さく光るものを手に取った。ペンダントだった。五百円硬貨ぐらいの楕円形のペンダントは、銀色に輝いていた。そして、絵が描かれているのだが、これが、教会の正面に置かれている、あの手の絵だった。写実的に描かれた握手をする手の絵は、銀色のペンダントから浮き出てくるような立体感があり、生々しさを感じさせた。

「気持ち悪いペンダントだな。でも妙に力強いから、ご利益はありそうだけど」

僕は思わず呟いた。

先生のことだから、信者に法外な値段で売りつけているのだろうかと僕はペンダントを見ながら思った。後で知ったのだが、その通りだった。


その時、教会のほうで声がした。

教会に入ると、牧多がいた。

「先生から聞いたよ。お前、教会に住んでるんだってな。随分、熱心な信者だぜ」

牧多は、僕の事情を知っていて、そうからかった。

「こっちは大変なんだよ。入会して、ご利益どころか、こんなことになっているんだから」

僕はそう言いながらも、牧多が、からかってくれて気が楽になった。実は、一人で、けっこう悩んでいたのだ。

牧多は、僕に差し入れを持って来てくれた。大きな紙袋を僕に渡した。中を見ると、カップラーメン、パン、飲料水、菓子など食料品が沢山入っていた。僕は牧多を書斎に案内した。先生からは、僕以外は誰も書斎に入れないようにと注意されていたが、牧多ならいいだろうと案内した。牧多も、教会の奥にこんな部屋があるのかと驚いていた。

それから、書斎で話をした。

しばらくして、牧多は言った。

「実は、車を買ったんだ。新車だよ。今日も、その車でここまで来たんだ」

僕たちは、教会の広場に止めてある牧多の車を見に行った。

僕は、牧多は兄の店の売り上げをピンハネ―そう言っていいだろう―しているだけに、高級なヨーロッパ車でも買ったのかと思って表に出た。

広場に牧多の車が止まっていた。ヨーロッパ車ではなく国産の小型車で、地味な紺色のハッチバック車だった。

僕は、牧多も僕と同い年の若者であることを改めて、痛感した。

僕たちは、生まれた時から、世の中にお金のない時代を生きている。お金は富裕層信者のような一部の人間だけが持っている。僕らは、贅沢を知らない。だから、牧多のように、いざ、お金が入っても、どうしていいのか分からないのだ。牧多も兄からピンハネしているお金のほとんどを貯金しているのだろう。派手にパッと使うという発想がない。堅実というより、僕と一緒で、不況慣れしているのだと僕は思った。

牧多が運転席に座り、僕は助手席に座った。

「どうだ。いい車だろう」

「堅実で、いい車だ。経済の循環が良くないのが分かる」

「難しい話しをするなよ。それより、このまま行きたいところがあるんだ。いいか?」

僕は、軽くドライブをするのだと思って、「いいよ」と言った。

だが、牧多の行きたいところとは、軽く遊びに行くところではなかった。彼は、今日、初めから、僕をその場所に連れて行くために車で迎えに来たのだった。

僕は、彼が僕と同じように不況の世の中に生まれた世代であっても、僕と違って、実の兄からピンハネをするズル賢い若者だということを忘れていた。

僕を乗せた地味なハッチバック車は、僕をその場所に連れて行くべく、急速度で教会を発進した。


三.

牧多の車には、ラジオとエアコンの装備以外は何もついていなかった。僕は、ラジオをつけた。天気予報が流れた。八月の天候はこれから、例年より涼しくなるとのことだった。半月以上、教会にいる間に、天候まで変わった。僕は、リサイクルショップのことを思い出した。いつまたバイトに戻れるだろうかと思った。そして、父のことを考えた。まだ機嫌が悪いままだろうか? そろそろ、「何でも屋」も辞める頃だろうかと思った。でも、その時、大学のことは、全く思い出さなかった。自分の中の優先順位が著しく低いからだろう。牧多のドライブは、僕の予想と違った。僕は、その辺りを一回りして教会に戻ると思っていたのだが、丘を下り街に出て、更に、どこかへ向かっていた。

「牧多。どこまで行くんだ?」

「もうすぐだよ」

牧多は、どこへ行くとは答えず、車を走らせ続けた。駅前を通り抜け、繫華街も抜けたところで、牧多は、車を止めた。駐車場ではなく、古い商店街の入り口辺りに車を路上駐車した。僕は、牧多に駐禁の切符を切られるのではないかと言ったが、こんなところには警察も来ないと彼は答えた。確かに、閑散とした商店街だった。牧多が、商店街を奥に進むのでついて行くと、ある店に入った。僕は、店には入らず、看板を見た。『ダムドール』と書かれていた。看板を見て気づいた。僕は、この店を知っていた。この店は、町に一件しかないパンクファッションの専門店だった。割と有名で、僕と同じように実際に訪れたことはないが知っている人間が多い。入り口の窓ガラスに、「タトゥー、ピアッシング 専門店への取り次ぎ承ります」と張り紙があった。僕はそれを読んで、少し緊張しながら、店に入った。


店には、置いてあるはずの商品がなかった。牧多が着ているようなパンクバンドのプリントTシャツも、ダメージジーンズも何もなかった。あるのは商品の置かれていない棚だけだった。そのため、狭い店内のはずが、ガランとして広く見えた。

「杉原。この人が店長さん」

牧多の声がするので、僕は店の奥を見た。

牧多と並んで立っている女がいた。

背の高い牧多と並んでも、それほど変わらない感じがする細くて身長のある女だった。

年齢は不詳。僕らより上で、先生よりは下だということぐらいしか分からなかった。

髪の毛は整えていないが、それがそのまま無造作な髪型だった。薄手の白の長袖シャツに細い黒のネクタイを緩く締めていた。下は細身の黒のジーンズに同色のショートブーツを履いていた。

「初めまして。店長の水越賀矢です。といっても、店の中は空っぽなんだけどね」

と彼女は、笑いながら僕に挨拶をした。しわがれた声のせいもあってか、全体に虚無的な感じのする人だった。でも、笑うとくしゃくしゃの笑顔になった。その落差を僕は彼女の魅力と捉えた。牧多も、好ましい様子で、彼女の笑顔を見ていた。

自己紹介の苦手な僕は、早口で自分の名前と大学名を言って終わらせた。そして、それをごまかすかのように、

「商品がないのは、何故ですか?」

と彼女に聞いた。

すると彼女は、

「この店をね、教会にしようと思って。どうしてかっていうと、私、神がかりになったから」

と言った。

あまりにも、当たり前のように言うので、僕も思わず、「そうですか」と当たり前のように返事をしそうになった。だが、その時、僕の頭に、書斎で読んだ本が浮かんだ。それから、スマートフォンで調べた「神が人に乗り移ること。そして、その人を通して神の意志を伝えること」が頭に浮かんだ。

僕は、牧多を見た。相変わらず笑顔で、水越賀矢を見ている。ということは、彼女が神がかりになったことも、神がかりとは何なのかも牧多は知っているのだと思った。知っていて、僕を彼女に会わせるために、この店に連れて来たのだと思った。では、僕を彼女に会わせる目的は一体何なのだろうと疑問に思った。それと、一番疑問なのが、水越賀矢だ。「私、神がかりになったから」と当たり前のように言う彼女は、果たして、どうなのだろうかと僕は思った。

そこで僕は、

「神がかりというのは、神様が乗り移ることだと思うのですが、だとすれば、今、水越さんに神様が乗り移っていると理解して大丈夫でしょうか?」

と彼女に聞いた。

すると水越賀矢は、それまでとは一変して、

「大丈夫? 神様が私に乗り移っているのよ? それが大丈夫でいられると思う? 私は、今、神様の意志を皆に伝え、皆を導かなければならない神命を果たさなければならないと焦っているの。牧多君に、今日、あなたをここに連れて来てもらったのも、一刻も早く神命を果たすためなの。私は、神がかりになったにもかかわらず、まだ何もできていない!」

こう叫んだ。

牧多は、水越賀矢に向かって頭を深く下げていた。先生にすら不真面目な態度で向き合う時のある彼が、彼女には深く頭を下げる。それだけ、牧多は、水越賀矢に傾倒している。僕はそう思った。

それに、僕も、水越賀矢に対して何かを感じていた。書斎であの本を読んだ時と同じで、彼女の神がかりが本当かどうかは分からないが、それでも、彼女自身は本気でそう思っている。店を教会にしようとまでしているのだから。つまり、収入を断ってまで“神命”を果たす覚悟なのだから。本気になった人間の力は侮れない。危険な伝播力を持つからだ。事実、牧多は彼女に傾倒している。僕も、色々と理屈を並べているけれど、彼女の危険性に魅力を感じている。特に虚無的なところから、一気にボルテージが上がって叫ぶ姿に、一種のカタルシスを感じた。そして、一体、彼女が僕に何を期待しているのか、これから話を聞いてみようと思った。


四.

水越賀矢は、壁にもたれて話をした。僕たちは、店の真ん中にある木製の商品棚に腰をかけて話を聞いた。牧多が、いつも買うTシャツが、陳列されていた棚だった。僕は、牧多と一緒に腰をかけている木製の棚や水越賀矢の隣にある空っぽになったガラスのショーケースの中古の買い取り価格を無意識に計算していた。空の棚やショーケースを見ると反射的に買い取り価格を計算してしまう。リサイクルショップでアルバイトをしている習慣だった。特に高価なものではなかったが、商品棚やショーケースは汎用性があるので、案外よく売れる。だから、買い取り価格も悪くない。そんなことを考えながら、僕は彼女の話を聞いた。


「神がかりになったのは、今年の春だった。地獄絵のような夢を見たの」

彼女は、そう言うと瞳を閉じた。

彼女は、店の二階を住居にしている。店舗と同じ狭い部屋だった。小さな台所にシャワー室とトイレ。それに、畳の間があるだけだった。彼女は、春先に風邪を引いて、病院にも行かず働いていたため、高熱を出して寝込んだ。その夜、熱にうなされながら彼女は、神の声を聞いた。「若者を救え。時代の中で、若者は苦しんでいる」と神の声が繰り返し聞こえた。その内、目の前に地獄絵のような光景が現れた。沸騰して泡が噴き出す血の池に、多くの若者が溺れていた。若者の「助けてくれ!」という叫び声が聞こえてきた。彼女は、どうすれば、血の池で溺れている多くの若者を助けられるのか知りたいと思った。「知りたいか?」と神の声がした。水越賀矢は「はい。知りたいです」と答えた。そう答えた瞬間、「よし!」という神の声とともに、神が彼女の体に入った。彼女は、はっと目が覚めた。夢だったのかと思った。だが、すぐに夢ではないと思った。彼女は、雨戸を閉めないまま寝込んだため、朝の陽ざしが窓から入ってきた。汗をかいたためか、熱がすっかり下がっていることに気づいた。

「熱が下がったのは、汗をかいたためではない。神の力だ」

彼女は、そう呟くと布団から出て立ち上がった。

そして、水越賀矢は右手を畳につけると、「えい!」と逆立ちをした。彼女は、右腕一本で逆立ちをした。そのままの状態で一時間が過ぎた。朝日が窓から降り注ぐ中、彼女は、自分が神がかりになったことを知った。


僕は、彼女の話を聞いて、そんな話は嘘だと一蹴することはできなかった。信じることもできなかったが、教会の書斎であの本を読んだため、全く否定することもできなかった。「巨岩を軽々と持ち上げる○○教祖」の話。本棚にあった他の新興宗教の教祖に関する本にも同じようなエピソードがあった。大牛を指一本で持ち上げたとか、奇蹟を示すエピソードが幾つも載っていた。だから、何も言わず、彼女の話の続きを聞くことにした。牧多も、何も言わず水越賀矢の話を聞いていた。僕よりも、肯定的な表情に見えた。


水越賀矢は、僕や牧多と同じこの町で生まれ育った人間だった。僕よりも家族関係は悪く、経済面でも、僕や父親が生きていた頃の牧多の家よりも悪かった。そんな環境で育った彼女は、牧多と同じく高校を一年で中退し、仕事を転々とした後、この店を始めた。『ダムドール』という店名は、ある日突然、閃いたという。それを聞いて、僕は、神がかりも彼女の閃きの一種ではないかと思った。要するに、思い込みの類ではないかと疑った。彼女は希薄な人間関係と貧困の中で育った。自分の人生が、いつも薄い不幸に覆われている気がしていた。パンクロックを中学の時、同級生の部屋で聴き、そんな日常から逃げるように、のめり込んでいった。高校を中退してから、知り合いの運送会社に何年か勤めた。事務の仕事から、トラックの洗車までする雑用係だった。無目的な日々が流れた。そんなある日、パンクファッションの店を持つと決心した。そして、運送会社を辞めた。

「運送会社の雑用係では、いつまで経っても、開店の資金は貯まらない。だから、辞めた。それから、早く多くお金を稼ぐために、道路工事、水道管工事、ビルの建設工事をやった。家屋の解体作業もやった。女だから、からかわれることも、作業中にお尻を触られることもあったけど、セクハラだって抗議している暇もなかった」

彼女は、皮肉っぽく笑った。

牧多も笑った。僕は気まずくてうつむいた。

三年の後、彼女は今の店を開店した。それから、長い歳月が流れ、彼女の店は、パンクロックに詳しくない僕ですら知るほど、地元では有名な店になった。

「店を始めてもう十五年になる。私なりに頑張って、ここまで来た。もっとやれる気がする。でも、私は、若者を救うという神命のため、この店を閉じる」

彼女は、商品が無くなり、ガランとした店内を見渡しながら言った。僕は、その様子を見て、彼女に後悔がある気がして尋ねた。

「お店の営業を継続しながら、若者を救うための活動もできるように思うのですが? 何故、店を閉店するんですか? 教会にする必要は本当にあるのでしょうか?」

僕の問いに、

「私だって、できれば、そうしたい。でも、神様の声が聞こえる。店を閉じ、そこを教会にせよって。だから、そうするしかない」

と彼女は答えると、瞳を閉じ、手を合わせて天に向かって拝んだ。

背が高く虚無的な感じのする水越賀矢が、一心に手を合わせ、神に拝んでいる姿は矛盾している気がした。でも同時に、とても神秘的だった。だから、僕はそれ以上、彼女に問うのをやめた。


五.

僕は、水越賀矢の代わりに、牧多に問うた。

「水越さんの今日までのことはある程度分かったけど、それが、僕や牧多にどういう関係があるんだ? 何故、牧多は、僕をここに連れて来たんだよ?」

僕と牧多は、礼命会の信者なのだ。牧多の行きつけの服屋の店長であっても、水越賀矢の神がかりと何か関係があるのだろうか? 僕の疑問は当然のものだった。

すると、牧多に代わって、水越賀矢が僕の質問に答えた。

「今日、牧多君と杉原君に来てもらったのは、私を礼命会会長青沢礼命氏に紹介して欲しいからなの。そして、私は礼命会の信者になり、この店を礼命会ダムドール支部として、青沢礼命会長に認めてもらわなければならない。それが神命の大きな一つだから」

彼女の話を聞いて、僕は、あまりに突拍子のない話に自分の耳を疑った。でも、牧多は、水越賀矢の話を聞いて頷いていた。だから、今の彼女の話も既に知った上で、僕をここに連れて来たことが分かった。僕は、水越賀矢のことはよく知らないから、何とも言えないが、僕より遥かに信者歴の長い牧多が、神がかりにあった女性が、礼命会に入信したいと言っていることの矛盾に気づいているのかと彼を疑った。

だから僕は、

「牧多。水越さんは神がかりになったんだぞ。つまり、水越さんには、礼命会の握手の神様とは別の神様が乗り移っている。だから、礼命会に入ったら、信仰する神様が二人になるんだよ。分かるか?」

と僕は、水越賀矢にも聞こえるように言った。

牧多は、僕の話を聞いても何も答えなかった。

水越賀矢が、また牧多に代わり言った。

「実はね、そのことで相談があって、杉原君に来てもらったの。牧多君が言っていたように、あなたは頭がいい。来てもらって良かった」

僕は、変に僕を持ち上げる水越賀矢の言葉と態度に、警戒心を抱いた。

「警戒しないで。若者を救うためなんだから」

彼女はそう言ったが、

「神がかりのあなたが、若者を救うためにすることは、普通なら、あなたが教祖として宗教団体を立ち上げることだと思うんですが?」

僕は警戒心を解かず、こう尋ねた。誰が考えても、おかしい。

「その通り。私も神様の声を聞いた時、嘘かと思った。でも、それから、じっくり考えて、こういうことだと思ったの」

「神様の声は、全部は教えてくれないんですか?」

「与えた神命について自分で考えろってことよ。でなければ、本当の信仰の実践にはならないから」

僕は水越賀矢の答えるのを聞きながら、不親切な神様だなと思った。

若者を救うのが喫緊の課題なら、彼女に全部教えて実践させたほうが、早くみんなが救われるのにと思った。ただ、あくまでも、彼女の神がかりが本当だったとしての話だが。

僕がそんなことを考えていると、水越賀矢は、

「神様が、何故、礼命会に入信しろと言ったか。私はこう考えている。私が、今、教団を開いて若者を集め始めても、そう簡単に人は集まらない。何故なら、誰も知らない宗教団体だから、怪しい、あるいは、恐いと思われる。それに比べて、礼命会は、特にこの地域では、十分に認知されている。だから、神様は、二つの神を信仰する矛盾を承知で、礼命会の信者として若者を集め、救えと伝えたんだと思う」

と独自の論理を展開した。独自の論理だと僕が言ったのは皮肉で、これは神様の意志というより、彼女が考え出した手っ取り早い信者獲得の方法だと思ったからだ。

だから僕は、

「勧誘活動をする時も、礼命会の信者として。勧誘して入信した信者は、みんな、礼命会の信者になります。つまり、全部、礼命会の実績になりますよ。神様はそれでいいとして、水越さんはそれでいいんですか? 悔しくなりませんか?」

と僕にしては随分、露骨に皮肉を言った。

「杉原。水越さんに失礼だぞ」

牧多が僕を注意した。坊主頭でにらまれると凄味があった。

僕は、牧多に凄まれたからではなく、言いすぎたと反省して、彼女に謝った。

すると水越賀矢は、

「杉原君の指摘の通りだから、怒っていない。でも、若者を救えという神命を果たすためには、この方法しかない。神様の声もそう言っている。私もそう思う。だから、私は、どれだけ批判をされてもやりたい。杉原君。協力して欲しいの」

と僕に訴えた。そこにはいい加減な気持ちはないと思った。

それと、僕自身、礼命会に入会するまで知らなかったのだけれど、実は、彼女の言った通り、礼命会は地域に随分と根づいているのであった。先生は、高額の寄付を集めて、一体、何に使っているのだろうと、僕は疑いも込めて思っていたのだが、ある日、その疑問が解けた。先生は、地元の福祉施設や老朽化した市の美術館や図書館の改修工事に教団から寄付を行っていた。僕は新聞の地方欄に、先生が、改修する美術館の前で、市の関係者と一緒に写っている写真付きの記事を見つけた。家を出る数日前、朝刊を読んでいた時のことだった。

「宗教法人礼命会会長青沢礼命氏が、この度の市の美術館改修工事に寄付をする。青沢氏はこれまでにも、福祉施設、図書館などに寄付をしており、地域への貢献により、市としては表彰を検討しているとのことだ」

僕は、先生は、思ったよりずっとまともな人だと見直した記憶がある。本当は、高額の寄付を何か良からぬことに使っているのではないかと疑っていたからだ。そして、写真や記事の大きさからも、礼命会の地域での認知度が伝わって来た。だから、水越賀矢の言うことには、一定の説得力を感じた。そこで、僕は尋ねた。

「協力って、具体的に何をすればいいんですか?」

それを聞いた水越賀矢は、

「協力してくれるのね。これで神命が果たせます」

と近づいてきて、僕の手を強く握った。痩せているのに強い握力だったので僕は驚いた。

牧多は、

「杉原なら、協力してくれると信じてたよ。連れてきて良かった」

と屈託のない笑顔で言った。

その笑顔を見ながら、僕にしてみれば、狭い店内で、二対一で協力を迫られて断れるはずがないと思った。

それにしても、十五年続けた店を閉めてまで、彼女の言う神命を果たそうとしているのである。そこから、水越賀矢が本気の人であることを改めて、確認し、僕は彼女に対して、常時、一定程度の警戒が必要だと思ったのだった。


六.

僕が、水越賀矢に協力を約束した後、牧多が話しをした。そこには不思議な偶然があった。彼女の神がかりに、わずかだが信憑性を与える内容だった。

僕が、家出をした日のことだった。特に買いたいものもなかったが、牧多は『ダムドール』を訪れた。いつもの牧多なら、そういうことはしない。牧多は目的がないと行動しない人間だった。

水越賀矢は、ずっと『ダムドール』に通っている牧多のことは、よく知っていたが、彼が礼命会の信者だとは知らなかった。礼命会の信者は中高年層であることを知っていたから、よけいに牧多と礼命会に関係があるとは思わなかった。

彼女は、神がかりになってから、神命を果たしたいと焦っていたが、礼命会との接点が見いだせず困っていた。神命であると同時に、現実問題として、礼命会の協力を得ないと動けないと思った。彼女は、十五年間パンクファッション専門店の店主としてやってきた。そこから、「神の声により、若者を救う行動」へ飛躍するのは彼女でなくても難しい。だが、彼女は神命に従い店を教会にする準備はした。結果、店に商品がないまま開店する日々が三カ月続き、客が誰も来なくなった。来なくなった客は、店が倒産したのだろうと去っていく客と、彼女が何をしているのか分からないから怖くて逃げた客の二種類だった。

彼女は、空っぽの店内で、考えごとをしていた。そこに牧多が来た。彼が来たことは知っていたが、他の客と同じで、すぐ帰っただろうと思っていた。すると、牧多の声がした。

「礼命会に入って、俺に奇蹟が起ったんだ。オヤジはポックリ死んだし、俺がアニキの商売を繁盛させて、俺も繁盛。礼命会がなかったら、今の俺もない。店長。困っているなら、礼命会に入りなよ」

水越賀矢は、顔を上げずにその声を聞いた。というより、話の内容に驚いて顔を上げられなかった。牧多の顔を見るのが恐ろしかったのだった。『私にも、もう奇蹟が起った』と彼女は思った。

そして、牧多に頼み、礼命会の詳しい話を聞かせてもらった。


僕は、そこまでの話を聞いて、確かに、神がかり的な話だと思った。

「神がかりに懐疑的な僕ですら、偶然ではなく何かの力が作用している、そんな気がしました。ところで、水越さんは、すぐに礼命会に入会すればいいのではないでしょうか? 牧多の紹介だからすぐに入れます。僕は何故、必要なのでしょう? ここに来て、協力するのが嫌になったということではなくて、僕は必要ない気がしますが?」

僕は、潔いというより諦めがいいので、本当に、彼女に協力することにためらいはなかった。それより、現実に、僕は要らないだろうと思ったのだ。

「必要なの。杉原君。そして、牧多君の二人が。牧多君に聞いたわ。礼命会に若者はあなた達二人しかいないって。私は、若者を救う神命を果たさなければならない。そのためには、どうしても若者の協力が必要なの。例えば、礼命会の高齢の信者の中に、今を生きる若者と同時代感覚を持った人がいれば、その人にも協力してもらう。でも、それは無理なことだって分かるでしょ? 年齢により人は考えることが違う、世代間ギャップ、その他、無理な要因は幾らでも挙げられる。だからこそ、あなた達二人が必要なの。あなた達二人は特別な存在なの」

水越賀矢の言葉が、先生の言葉と重なった。

先生も、僕たち若者信者二人は特別な存在で、勧誘の際、特別な氏子とまで言った。僕は彼女の話を理解した。

そこで、

「それなら、尚更、今から、先生に連絡して、僕たちと一緒に先生に会って、入会しましょう。入会式は後日にして。牧多がそうだったらしいです。正式に入会して、先生に、僕たち二人が必要な理由を説明すればいい」

僕は、せっかちではない。そうではなくて、この状況は一刻も早く改善すべきだと思った。完全に開店休業で収入ゼロの状態。礼命会に入会するなら、今すぐすべきだと思った。

「待って。そうしたいんだけど、さっきも話したように、私には、私の神が本当はいる。それなのに、礼命会に入る。色々な問題が生じると思うの。そこで、もう少し綿密な打ち合わせをしてから、青沢先生に会いたい。つまり、三人だけの協力体制を作りたい。これは入信後も。いいかしら?」

要するに、彼女の話は、礼命会に内緒で僕たちだけに動いて欲しいことがある。そういうことだった。

僕は考えた。そして、

「牧多、これでいいと思う?」

と彼に尋ねた。

牧多は、

「この店、見てみなよ。潰れる寸前だよ。俺は昔の自分の経験から放っておけない」

と言った。

それを聞いて僕は、

「そうだな。じゃあ、改めて協力を約束します」

と彼女に言った。

水越賀矢は、

「ありがとう。無理なことばかり言ってごめんなさい」

と深く頭を下げた。


牧多の車で僕は教会に帰った。車の中で牧多は、あの店で買ったTシャツの中で一番好きなTシャツの話しをした。ドイツのパンクバンドで、エレキギターの代わりにシンセサイザーを使っているバンドのものだと言った。Tシャツには、シンセサイザーから手足が生えていて、犬に追いかけられて逃げているイラストがプリントされている。牧多はそう言って笑った。

「メンバーの一人が描いた絵なんだけど、いいセンスしてるんだ」

牧多はその後も、そのバンドの革新性を延々と話したけれど、僕はそのバンドを知らないので、答えようがなかった。だから、その間、適当に相槌を打ちながら、水越賀矢のことを考えた。彼女の話には嘘がある。あるいは、大事なことを話していない。そのことは分かっていた。でも、悪化していく一方の店の経営状況を知って、拒否はできなかった。そして、どうしても拒否できないところに宿命的な何かを僕は感じた。宿命とは不可避的なものだからだ。でも、そんなことは全く考えずドイツのパンクバンドのことを話し続ける牧多に、僕たちは逃げられないかもしれないぜ、と僕は心の中で呟いた。


七.

牧多が、礼命会に入会したい知り合いがいると先生に伝えたのは、僕が水越賀矢に会った次の日だった。「すぐにでも、お会いしましょう」と先生は言ったが、先生は忙しく、実際に会えたのは、翌週の集会の日の午前だった。先生は、午後に集会のあるこの日しか教会にいなかった。

牧多の車に乗せてもらって初めて教会を訪れた水越賀矢は、広場に立って深呼吸した。

「丘に上がるだけでも、空気が違うのね。風も涼しい」

そう言う彼女は、天気予報通り涼しくなったのに合わせて、黒の薄手のジャケットを羽織っていた。ヨレヨレのジャケットだったけど、彼女が着るとサマになっていた。牧多は、落ち武者の生首のイラストの黒のTシャツを着て、左耳に天狗のピアスをしていた。不気味だけれど、何故か、よく似あっていた。僕は、書斎を出て教会の入り口から、広場にいる二人を見ていた。まるで、パンクバンドのヴォーカルとベーシストだなと思った。もちろん、ヴォーカルは水越賀矢である。

僕は、先生に言われた通り、二人を面談室に案内した。それから、三人で先生を待った。面談室は、信者が個別に先生に相談をする部屋で、テーブルと椅子以外は何も置いていてない部屋だった。話に集中できるため、信者の相談以外にも、先生はこの部屋をよく利用する。先生は、教会で集会の準備をしてから来る。それまでの間、牧多は、ピアスを外して、天狗の鼻を触っていた。特に意味はないようだった。水越賀矢は、目をつむっていた。止まっているのかと思うほど静かな呼吸だった。僕は、先生のことを考えていた。先生は、どこに住んでいるのか分からない。家族がいるのかどうかも分からない。僕は、先生には家族はいないだろうと思った。その根拠は、僕が初めて、先生に会った日に僕を乗せてくれたワゴン車にある。ワゴン車の側面の「神と真と愛 礼命会」の文字は、良い意味ではなく目立つ。そのワゴン車を先生は、プライベートでも使っている。家族がいたら、あの車に乗るのを嫌がるだろう。だから、先生は独り身だと思った。


そんなことを考えながら、牧多と水越賀矢と一緒に、僕は面談室で先生を待っていた。すると、先生が面談室に入ってきた。水越賀矢を見ると、にこやかな笑顔を見せて自己紹介をした。

水越賀矢は既に、先生の顔を知っていた。彼女も新聞の記事を読んで、先生の顔を知っていたのだ。新聞の写真と同じく、やや怪しげな人物だと思った。先生は、僕と同じで、店の名前は以前から知っているけれど、オーナーの水越賀矢のことは初めて知った。無気力ではなくて脱力感のある女性だと思った。

それから、少し話をした。先生が、礼命会について説明した。丘の上の教会は建設されて八年ということだった。その時、正式に教団も設立されたと先生は言った。わずか八年で、ここまでになったのかと僕は改めて驚いた。

先生の説明を聞いていた水越賀矢が尋ねた。

「礼命会には教典はないのでしょうか?」

「そうですね。教典はありません。『ともに生き、ともに幸せになる』。これが唯一の教えです。この教えにのっとり、私は集会で話します。その講話が講話集として記録してあります。講話集を参考に信仰を深めていただければと思います」

彼女はその説明を聞いて、何かじっと考えていた。

僕は先生の話を聞いて、講話集って、あの「世界は飢餓に襲われている!」という寄付を煽る話のことかと思った。そして、何故か、僕が恥ずかしくなった。


牧多の紹介でもあり、話してみて、問題のある人物でもないので、

「入会の手続きをしましょうか。幾つかの書類にサインをするだけの簡単な手続きです」

と先生は、入会の手続きに入ろうとした。

その時、

「すみません。私からも少しお話があります。聞いていただけますか?」

水越賀矢は言った。あらかじめ先生に了解してもらわなければならないことが沢山あった。

先生は、手を止めて彼女を見た。

まず牧多が話し出した。まるで彼女のマネージャーのようだった。ただ、昔から通っているパンクファッション専門店の店長として彼女と知り合ったことと、店を閉じるつもりでいることの二つだけだった。本質に関わる話は、水越賀矢本人が先生に説明することだと牧多はそこまでで話をやめた。そして、水越賀矢が本題を先生に話し始めた。静かに丁寧に説明をした。彼女のしわがれた声には、それだけで説得力があった。

だが、当然と言うべきか、先生は、彼女の話を聞きながら、「分からないなあ」と首をかしげるばかりだった。特に、神がかりになった彼女が、礼命会に入会することについては、

「二重信仰を必ずしも否定しないけれど、あなたが、あなたの言う通り神がかりになっているのなら、それは無理です。礼命会に別の神様がそのまま入って来ることになる。あなた自身が神も同然なのだから」

と言った。先生は、宗教家だけに、彼女が神がかりになったと話しても、特に驚かなかった。

「そのことは分かっています。でも、神様が礼命会に入信せよとおっしゃるんです」

彼女が震えるような声で訴えると、

「あなたに乗り移った神様が、別の宗教の神様の信仰をしろと言う? 頭が混乱する」

先生は困惑していた。それでも、

「立ち上げたばかりの宗教団体より、ある程度認知されている礼命会に入って若者を勧誘するほうが、多く人が集まり、多くの人が救えるということには一定の理解を示します。苦しむ若者を救うことが何よりも大事だと。そのことは分かります」

と彼女の考えに理解も示した。

だが、先生は、結論は出せなかった。部分的には否定はしても、全否定はしない。先生は何かに迷っていた。

僕は、先生を見ながら、先日、牧多が話してくれたことを思い出していた。

それは、書斎に彼が遊びに来た日のことだった。その時、牧多の話を聞いて、長い付き合いだけあって先生のことをよく知っていると僕は改めて思ったのだった。


八.

僕は、腕組みをして目をつむって考え込んでいる先生の心の中が見えるようで、変な感じがした。実は、先生が何に悩んでいるかについて、僕は既に知っていた。水越賀矢に会った日から数日後に、牧多が教会の書斎に遊びに来て僕と話をした。その時、牧多が、先生が、水越賀矢と初めて会う日に悩むであろうことを予測した。中学三年の時に入信して以来、長い年月を先生と過ごし、加えて、非常に勘の鋭い牧多には先生の考えることが分かった。

「先生は世間の目を必要以上に気にする人だ。だから、最近、新聞に取り上げられて知名度が上がっている礼命会に若者がいないことを気にしている。高齢富裕層ばかりを信者にして食いものにしていると思われることを恐れている。半ば事実なだけに、よけいに心配している。だから、若者受けしそうな水越さんの入会の申し出には心を動かされるはずだ」

牧多は、その日、綺麗に刈った坊主頭を撫でて、さっぱりした顔で言った。

「先生は若者の勧誘が苦手なの?」

「それ以前に、若者の勧誘なんてしたことがないだろう。俺たちは例外。だから、特別な氏子だ」

「何故、若者は入れないんだろう?」

「それは知らないけど、とにかく、世間の評判を上げるために、寄付をしていたら、予想以上に知名度が上がってしまって、今度はそのために若者層の入信を考えなければならなくなった」

牧多の説明に僕は、

「先生って、意外と苦労性なんだな。やらなくてもいいことをやって、やらなくてもいいことを増やしている」

と言った。

「はっきり言ってその通り。そこで問題は水越さんの入会を、根が真面目な先生が認めるか? 神がかりを入信させるという掟破りを先生が自分に許せるかだ」

僕は、牧多の的確な予測に感心し、同時に、その頭脳をピンハネではなく、もっとまともなことに使うべきだと思った。


水越賀矢を真ん中に挟んでその隣にいる牧多を見た。彼はにやにやしていた。自分の予測が当たったと思っているのが分かった。僕は、笑うのは良くないと思いながらも、牧多の言ったことが図星なのだと思った。

長い沈黙の後、先生はようやく眼を開くと、こう言った。

「私にも神の声が聞こえました。あなたを礼命会の信者として入会を認めよと今、神の声が聞こえました。あなたが神がかりになっていようとも、若者たちを救うため、礼命会に入会させよという神の声が聞こえたのです。水越賀矢氏子。今日から、あなたは礼命会の信者です。さあ、世界の幸せのためにともに信仰を!」

そして、先生は立ち上がると、面談室のテーブル越しに彼女に笑顔で頷いた。

僕がこれまで見た中で、最も噓っぽい先生の笑顔だった。当然だった。どう考えても神の声ではなく、彼女の話を聞いて、先生が自分で考えた結論を話しただけなのだから。

それから、僕は、先生の噓っぽい笑顔を見ながら、先生は、本当は彼女を入れるのには強い抵抗がある。でも、若者層の信者欲しさに折れたんだと思った。


先生の言葉を聞いた水越賀矢が、

「ありがとうございます。きっと青沢先生なら、ご理解いただけると思っていました。いえ、きっと礼命会の神様からのお声が届くと思っていました。世界の幸せのためにともに信仰をさせていただきます」

と答えた。こうなることに確信を持っていたことが分かる、落ち着いた話しぶりだった。

そして、礼命会への入会の手続きが済み、水越賀矢は、この時、礼命会の信者になった。

僕も、同じだったが、礼命会の書類の手続きは簡単だった。氏名と住所と電話番号を書くだけだった。家族構成や学歴、職歴など一切書かない。牧多が理由を教えてくれた。家族構成など、色んなことを細かく書かされると家族や職場にも入信の勧誘があるのではないかと敬遠されるからだということだった。それを聞いて、僕は大いに納得した。僕の場合、僕が入信したことが両親に知られること以上に、万が一、父が入信したら、もっと困る。父は悩みが多い。だから、そうならないとも限らない。


先生に案内され、僕たちと一緒に、水越賀矢は教会を見学した。午後から、彼女の入会式がある。

正面にある握手をしている絵を見た彼女は、

「神様は、青沢先生の思い出ですか?」

と先生に尋ねた。

先生は、「信者様の解釈のままに」と曖昧にしか答えなかった。

僕は、改めて、そういえば、あの絵は一体何だろう? 先生が描いたのだろうかと思った。

彼女は、絵をしばらく見てから、

「礼命会の神様も歓迎してくださっていることが私にも分かりました」

と言って、先生のほうを振り返った。

その時の彼女は、それまでの、ぼんやりとした虚無的な表情とは違い、くしゃくしゃの笑顔だった。

僕は、この前と同じく、その笑顔を魅力的だと思った。先生も、その笑顔に人を強く惹きつける求心力があることに気づいた。そして、彼女を入会させたことに初めて納得したのが僕にも分かった。


それから、午後になり、水越賀矢の入会式が行われた。神がかりの入会式である。何か不測の事態があるのではないかと思ったが、何事もなく入会式は終わった。気づいたことと言えば、富裕層信者が、毛色の違う信者の入会に驚いたことぐらいだった。

入会式が終わって席を立とうとすると、隣に座っていた牧多が、

「おめでとうございます」

と呟いた。

僕は、驚いて牧多を見た。

牧多は目を閉じて、正面に立つ水越賀矢に向かって手を合わせていた。牧多は、既に水越賀矢を神として崇めていた。元々、パンクという共通項があったにせよ、わずか半月で水越賀矢に牧多はここまで傾倒している。僕は、彼に声をかけられず、左耳の天狗のピアスが、鈍く銀色に輝くのを黙って見つめるしかなかった。


第二章(勧誘活動)

一.

『ダムドール』の看板は、元々は、紫色に黒字で書かれていた。今、看板は白地に塗りかえられ、その上に、『礼命会ダムドール支部』と黒字で書かれている。牧多が商店街の向いの乾物屋から借りた梯子を上って、看板を白のペンキで塗った。次に、水越賀矢が梯子を上って文字を書いた。看板を立てかけたままの状態で、梯子に上ってペンキ筆で書いたのだが、書家が書いたのかと思うほど達筆だった。その間、乾物屋の店主の他に商店街の人々が、牧多と彼女が梯子に上ってペンキを塗るのを見ながら話をしていた。

「水越さんは、服屋をやめて礼命会の支部をここに作るのか? 礼命会って宗教団体だよな?」

「そうだ。でも、礼命会なら、この前も新聞に出てたけど、地域に色々と貢献しているし、真面目な宗教団体だから安心だよ」

商店街の店主同士の会話を聞いて、僕は、彼女が、僕らに懇願してまで礼命会に入会した意味を実感した。

僕は、パンクファッション専門店として、十五年も繁盛した店をやめてまで、宗教家に転身する彼女の決断には未だに疑問を感じる。繫盛していた服屋から転業したのが『礼命会ダムドール支部』である。理解できる人は極めて少ないはずだ。でも、自分で宗教団体を立ち上げるのではなく、礼命会の支部として宗教活動を始めた彼女の判断が、正しかったことは、この時、認めた。商店街の店主同士の会話は、知らない宗教団体だった場合は、怪しいから出て行ってもらうという意味にも受け止られたからだ。


水越賀矢の入会式から、一カ月が過ぎ、九月半ばになっていた。店の看板を塗り直す以外にも、店内にあった商品棚を処分した。商品棚は、僕のバイト先のリサイクルショップではなく他の店で買い取ってもらった。バイト先に顔を出せる状況ではなかったからだ。買い取り値はまずまず妥当だった。更に、先生が、ダムドール支部を訪れた。「神入れ」の儀式のためだった。神入れとは、礼命会にある握手の絵と同じ絵を、支部に置き、先生が、祈りを捧げる儀式だった。それにより、ダムドール支部にも、礼命会の神が宿ることになる、と僕たち三人は先生から説明を受けた。先生が、商品棚もなくなり本当に空っぽになったダムドール支部の奥に、木の台と、その上に絵を置いて祈りを捧げた。僕たち三人は、先生の後ろで絵に手を合わせた。先生の祈りはくぐもった声で何を言っているのか分からなかったが、絵のことを“握り手様”と何回も呼んでいるのが分かった。皆、あの絵は、握り手様というのかと手を合わせながら思った。

儀式が終わってから、僕は、

「先生。あの絵は握り手様と言うんですね。どのようなご神体なんですか?」

と改めて尋ねた。

「礼命会の心である、『ともに生き、ともに幸せになる』です」

と先生は笑顔で以前と同じことを言った。

「そうではなくて、いわれと言うか、つまり、この絵は何ですか?」

僕は少し苛立ちを覚えながら尋ねた。

「信者様の解釈のままに」

予想はしていたが、先生は、やはり、何も答えなかった。

僕は諦めた。気にはなるけど、知らなくても特に困らない。


僕たちは、儀式が終わった後も、立ったまま話をした。椅子がないのだ。服屋の時から、狭い店内に椅子を置くスペースはなかった。あれば、リサイクルショップには売らずに、そのまま置いておいたのだが、そもそも無いから仕方がない。何もない部屋でコンクリートの床に立って僕たち四人は立ち話をした。

建設中のビルで話をしたら、こんな感じなのかなと僕は思った。九月半ば、爽やかに晴れた日だったが、ダムドール支部の中には、陽の光は入らず、コンクリートの床は、ひんやりと冷たかった。握り手様の絵以外、何もないこの場所に、やがて信者が集まるのかと想像しても、僕には、実感は湧かなかった。そして、家を出てから、ずっと教会の書斎で生活する僕は、既にP大学の夏休みが明けて、定期試験が実施されていることを思い出した。試験を受けない僕は、かなりの確率で留年する。にもかかわらず、僕は、何の不安も感じていない。今、先生、水越賀矢、牧多と一緒にいるこの時間が、僕のリアルな時間だと思える。あの違和感と生きにくさに襲われる大学生活に戻る必要がどこにあるのかとさえ、最近は、思うようになってきた。両親からは、時々、スマートフォンに電話がある。僕は電話には出ない。両親も出ることを期待していない。電話が繋がることで、安否確認をしているのだろう。最初、スマートフォンの着信音が一回鳴って、すぐに切れたので、いたずら電話かと思った。でも、着信履歴に自宅の表示があった。それからも、時々、着信音が一回だけ鳴り、見ると、着信履歴に自宅の表示がある。気になるのなら、直接、探せばいいのにと思うのだが、それはしない。もしかしたら、それが、僕の両親なりの精いっぱいの愛情表現なのかもしれない。僕は、そう解釈しておくことにした。


二.

神入れの儀式の後、先生は、水越賀矢に、

「只今より、礼命会ダムドール支部長である水越賀矢氏子は、賀矢先生となります」

とうやうやしく言った。

「入会したばかりなのに、先生とは、おそれ多いことです。ありがとうございます」

水越賀矢は握り手様の絵に向かって手を合わせた。

「賀矢先生か。先生、いいネーミングセンスですね」

牧多が先生を見て言った。

「私が命名したのではありません。神様です」

先生は訂正したが、牧多は聞いていないようだった。

先生も、特に気にせず、水越賀矢に尋ねた。

「今後のことなのですが、賀矢先生は、どれくらいの人数の若者層信者を集めるつもりですか? 支部への活動資金を支給するに際して、勧誘活動の規模により活動費も変わってくるため、事前にお聞きしておこうと思いまして」

彼女は、

「ありがとうございます。資金援助までしていただけるとは嬉しい限りです」

と感激した。

服屋を閉めての転業、しかも、宗教団体である。普通はしないことだ。そのため、彼女は収入が無くなった。感激するのは当然だと思った。それと、僕は、先生の新たな一面を発見した。お金のない僕に寄付を求めない。これは先生の憐憫の情だろう。僕の立場からすると、憐みの目で見られているわけだから、辛くもあるけど、それに加えて、今、水越賀矢に躊躇なく資金援助をする話しを聞いて僕は思った。先生は、生まれ育ちが良いのだと思う。裕福な家庭に育った。これは僕の個人的見解なのだけれど、そういう人の中には鷹揚でケチではないケースが見受けられる。もちろん、一概には言えないけど。それと、支部には資金援助をしてしかるべきという考えが、しっかり定着していることから、宗教家になる前の仕事は、かなり、堅い職業だったと思う。具体的には分からないけど、「当座の活動費は、支部で立て替えといて。後で清算するから」と言っておいて、しない。そういういい加減な職業ではなかったと思う。ただ、高齢富裕層信者に、ごっそり寄付をさせることについては、疑問は残る。


水越賀矢は、先生に礼を言った後、何人若者層信者を集めるかを答えた。

「二十人です」

その答えに、みんな、戸惑った。

「賀矢先生。少ないんじゃないですか?」

と牧多が三人の気持ちを代表して言った。

次いで先生が、

「私も、正直なところ、牧多君と同じ感想なのですが、賀矢先生のことですから、合理的な根拠のある人数だと思います。それをお聞かせください」

と言った。

僕は何も言わなかった。ただ、もう随分長い時間立ちっぱなしなので足が痺れてきていた。

すると、牧多がすかさず、

「話が長くなりそうだから、前の乾物屋で椅子を借りてくるよ」

と言って、支部を飛び出して行った。

牧多はよく気がつくなと思った。そして、僕は彼のように気がつかない自分への言い訳の言葉を考えていた。その言葉が思い浮かぶ前に、牧多が丸椅子を四つ重ねて持って来た。

「改装が完成するまで、椅子は返さなくてもいいそうです。他にも不自由しているものがあれば、遠慮なく言ってくれって。あの店の大将。良い人ですね」

牧多は、自分も飲食店の息子だからか、人づきあいにも慣れている。

僕は、色々と言い訳の言葉を考えていたのだけれど、『彼は商売人の息子だから、かなわなくて当然』という言葉が思い浮かび、それを落としどころにした。


牧多が椅子を並べ、四人が車座になって座った。先生、水越賀矢、牧多、僕の順で丸椅子に座った。

水越賀矢が、話し始めた。

「何故、二十人なのか? 神命としか言いようがありません。ただ、私なりに考えたことをお話します」

僕は、その話を聞いて、彼女は既に礼命会に入会したのだから、神命とは、彼女の神様か握り手様か、どっちからのものだろうと思った。先生を見たら同じことを考えているのが分かった。釈然としない顔をしていたからだ。

それでも、黙って続きを聞くと、

「私が考えるのは、支部が狭いからだと思います。キャパシティの問題です」

と彼女は言った。

確かにその通りだが、あまりにも当たり前のことに身も蓋もない気がした。

けれど、先生は違った。

「それならば、本部、つまり、丘の上の教会を利用すればいい。教会の収容人数は百名です。今の信者の集会日とは別の日に若者層だけを集めて集会をすればいい。そうだ。ダムドール支部は同時に礼命会青年支部にしましょう。そして、賀矢先生は、ダムドール支部長とともに青年支部長を兼務しましょう」

と水越賀矢の発言をきっかけに、より発展的な提案をした。

「青年支部という案には賛同します。ただ、二十人は神命なので増やせません。あくまで、支部の狭さは私が考えた理由です。とはいえ、実際に、服屋を長く営業していた経験から分かるのですが、ここのスペースだと座って講話を聞く場合、二十人が限界です。仮に三十人だとした場合、全員が立って聞かなければなりません」

「礼命会の今の信者数は、賀矢先生が入会した今、総人数は九十二人になりました。でも、実際に、教会に足を運ぶ人数は、一度の集会に五十人前後です。平均年齢が高いので、なかなか来られない人もいます。そこで、私が、その信者数との兼ね合いから導き出した青年部の人数は、五十人です。毎回の集会に集まる信者数と同数を考えていました。どうでしょうか? 賀矢先生の神様と、握り手様との間での折衷案的な数字と考えてみては?」

先生はそう提案した。

僕は、先生の提案から、彼女が今、言っている神命は、礼命会入会前のものだから、彼女に乗り移った神様の声だとようやく分かった。でも、神命で礼命会に入会したのだから、先生の提案も、あながち否定できない。神命と神命の折衷案なんて変な感じだが、そもそもは、彼女の神様が言ったことに端を発している。

「折衷案という表現が適切かどうか分かりませんが、礼命会に入ったのだから、柔軟に対応していくつもりです。ただ、二十人という人数でいきたいと、これは、私自身が希望します。ダムドール支部において、どれだけやれるか、挑戦してみたい。青沢先生のお力をできるだけ借りずに、私が、一人の宗教家として、どれだけやれるのか、試してみたいのです。ですから、若者層の獲得信者数は二十人でお願います」

そう言うと、水越賀矢は、先生に頭を下げた。

「分かりました。賀矢先生の宗教家としての熱意と志を尊重します」

先生は、脱力感のある水越賀矢に、これだけの情熱があることに驚いた。僕も同じだった。それから、たった一人で『ダムドール』を立ち上げて、十五年も店を続けたのが彼女だったことを思い出し、これが、水越賀矢という人の本質なのだと、僕も先生も改めて気づいた。

でも、牧多は違った。

「賀矢先生。勧誘活動の計画を教えてください。賀矢先生のために、すぐに二十人集めます!」

と牧多は、先ほどの水越賀矢の熱意にうたれていた。

僕は、その様子を見て、集まって来る若者が、牧多のように血の気が多く、のめり込みやすいタイプばかりだったら、嫌だなと思った。何故なら、そういう要素の一切ない僕は、浮いてしまうからだった。


三.

十月一日の今日、水越賀矢と牧多と僕はV大学の近くにいる。十月一日にV大学の近くにいる理由は、彼女のメモに従って、つまり、神命に従って、そうしているからだった。

先生に、若者層の信者を二十人集めると彼女が宣言したあの日、若者層勧誘の具体的な方法を先生は知りたいと言った。だが、水越賀矢は教えることはできないと拒否した。理由は、やはり、神命だった。先生は、少し怪訝な顔をしたが、「青年部は賀矢先生に任せたのだから」と了解した。そして、先生は帰った。


その後、彼女は、牧多と僕に一枚のメモ用紙を見せた。

彼女の手書きのメモは、こんな感じだった。


・10月1日13時15分から20分間。V大学西門付近

  ↓

・10月30日16時01分から30分間。駅前広場

・11月4日9時47分から10分間。Q公園

  ↓

・11月22日11時42分から20分間。G大学東側道路付近

・12月1日12時10分から15分間。~


こういう風に、日付、時刻、場所が書かれていて、数えたら二十個あった。最後は、十二月一日だった。

「賀矢先生。これは何ですか?」

牧多が聞いた。

「このスケジュール表通りに勧誘活動をする。スケジュール通りに勧誘活動をすれば、必ず、二十人の若者が集まるから。そして、その若者たちは、必ず、礼命会に入会する」

彼女の話を聞いて、僕は改めてメモを見た。二十カ所あるということは、一カ所で一人の若者が勧誘に応じ、入会するということだ。そんなに簡単に勧誘から入信に至ることなどあるのだろうかと僕は思った。しかも、一カ所で複数人ではなく、必ず、一人だけが勧誘に応じるというのは、かえって難しいと思った。もちろん、ゼロ人という可能性もないことになっている。僕は、それらを水越賀矢に尋ねた。

彼女は確信を持って答えた。

「全ては神の御業です。神に不可能はありません」

僕も、彼女がそう答えるのを分かっていて聞いた。実際に勧誘活動を始める前に、言質を取っておきたかったのかもしれない。


牧多の小型車はV大学の西門の手前にある古本屋の前の空きスペースに止めた。牧多は、大きな紙袋を右手に下げていた。中には、勧誘のビラが入っていた。礼命会本部に残っていた、昔、先生が勧誘に使っていたビラを再利用した。先生から、勧誘の具体的な方法を尋ねられて、教えられないと断っておきながら、ビラは先生のものを使わせもらうというのは、虫が良すぎるのではないかと僕は思った。だから、牧多が、教会にビラが残っていることを覚えていて、流用しようとアイデアを出した時、僕はそう言った。

けれども、牧多にこう反論された。

「勧誘活動費は全額、本部が負担してくれるんだから、残っているビラを使って、少しでも、経費を抑えたほうが、先生に負担をかけなくて済むぜ」

僕は彼の言葉に、また自分への言い訳を探した。『彼は商売人の息子だから、こういうことにも長けている』。


先生から快諾を得て本部から持ってきたビラは、青空の写真と礼命会の文字しかないシンプルなデザインだった。十年ほど前に印刷したもので、教会が建つ前だったから、漠然とした青空の写真を使ったそうだ。先生は、講演会の開催場所と日時を、その都度、手書きで書きこんでいたという。先生にも、そんな苦労の時代があったのだと僕は思った。

僕たちも三人で、ビラに「ダムドール支部、住所、電話番号」の三つを書き込んだ。


牧多が、西門付近まで来ると、

「じゃあ、一人、百枚で」

と紙袋からビラを取り出し、三等分して、水越賀矢と僕に渡した。

西門は小さな出入り口で、正門と違い警備員もいなかった。僕らは、そこで待つことにした。十三時十分だった。僕は、

「十三時十分だと、午後からの授業が開始されたばかりで、学生はみんな教室の中だと思う。現に今、構内に学生の姿が見えない。この状況では、勧誘活動はできない」

と言った。

「大丈夫よ」

水越賀矢が言った。

また、神の御業があると彼女は言うのだろうと思いながら、僕は西門に近い学舎のほうを見た。その時だった。学舎から、学生がどっと出てきた。軽く百人はいた。P大学と違ってV大学はマンモス大学だった。

そのまま、西門に流れて来る学生がいた。

「神の御業よ」

彼女が言った。

僕は驚いた。

牧多は、

「さあ。勧誘開始だ!」

と学生にビラを配り始めた。

キャンパスの真ん中にある時計台を見ると、十三時十五分ちょうどだった。

「杉原君も、開始して。二十分しかない。時間厳守で。時間オーバーしたら、神の力が消える」

水越賀矢もビラを配り始めた。

「時間をオーバーしたら、カボチャの馬車にでも戻るのかな」

僕は、そう呟いた。そして、ビラを配り始めた。

P大学でサークルのビラを渡されそうになっても、僕があっさり断っているように、僕らが配るビラもあっさり断れた。牧多は、敏捷さを活かして、西門付近にいる学生に次々とビラを渡そうとしたが、皆、断られた。水越賀矢も同様だった。僕は、一つのことに気づいた。学舎から流れて来る学生が、皆一様に機嫌が悪い。何故だろうと、観察していると、こんな会話が聞こえてきた。

「講義が休講になるなら、事前に掲示板に貼っておいてくれよなあ」

「講義が始まるのを待ってたら、事務員が入ってきて、教授は急用で今日は休講です、なんて初めてだな。病気だろうか?」

「知らねえ」

男子学生二人がそう話しながら、僕の前を通り過ぎた。

突然の休講と、普通なら、講義中でいないはずのこの学生の集団。僕は、休んだ大学教授が急病だったら、気の毒だとは思いつつ、偶然にしては、あまりにも出来過ぎている。これが神の御業かと思った。

その間も、牧多は走っていた。

「俺みたいに幸せになれますよ」「俺も俺の家族も貧乏から抜け出せたから」「オヤジも天国で喜んでると思う」

牧多は、極めて個人的な体験に基づく勧誘の言葉によって、学生にビラを渡そうと頑張っていた。

水越賀矢も、「みんな、一度、読んでみてください」とビラを配っていたが、誰も受け取らなかった。

あっという間に時間が過ぎ、十三時三十四分になった。

水越賀矢は、マズいと思った。もう後一分しかない。

その時、牧多が、「騙されたと思って、一度、ダムドール支部においでよ」とビラを渡そうとした。

相手は、男子学生だった。彼はビラを受け取った。そして、ビラを見て、

「ダムドールって、前はパンクの服屋でしたよね? 今、礼命会の支部? 一度、行ってみようかな」

と言った。

その瞬間、時計台の針が十三時三十五分を指した。


彼は、この後、支部を訪れ、礼命会ダムドール支部の信者第一号になった。

「全ては神の御業」。水越賀矢の言葉を信じるとは言い切れなかったが、僕は、反論の言葉が思い浮かばなかった。


四.

僕たちは、メモに書かれたスケジュール通りに勧誘活動を行った。

十一月四日は、Q公園に行った。勧誘活動が、九時四十七分から十分間しかなかった。しかも、雨が降っていて、公園には誰もいなかった。僕は、絶望的な状況だと思った。十一月の雨は冷たかった。誰もいない公園で、僕たち三人は、傘をさして、ぼんやりと立っていた。残り二分になった時、犬の散歩をする女の子が公園に入ってきた。彼女は僕たちを見ると、

「普段は、犬を公園に入れることはないんですが、何故か、今日は、この子がどうしても公園に入りたいって言うので」

と言った。

彼女は、公園内は犬の散歩が禁止されているのに、犬を連れて入ってきたことの釈明をしていたのだった。でも、僕たちには、その言葉は、犬が彼女を僕たちのところに導いてくれたと聞こえた。犬はトイプードルで水色の雨ガッパを着せてもらっていた。水越賀矢が、雨に濡れたビラを彼女に渡した。彼女は牧多と僕と同い年ぐらいだった。

「ダムドールが、服屋から宗教団体に変わった?」

彼女も、ダムドールを知っていた。それから、興味深そうにビラを見ている彼女に水越賀矢が、

「いつでも遊びに来て。その時、お話しましょう」

と言った。

水越賀矢のしわがれた声を聞くと彼女は、

「はい。そうします」

と素直に返事をした。ポカンとした表情で背の高い水越賀矢を見上げていた。彼女は後日、支部を訪れて入信した。ダムドール支部の信者第二号だった。


僕たち三人は、順調に、そして、その都度、神の御業を感じさせる不思議な勧誘活動を続けた。ちなみに、僕は、パチンコ屋の換金所付近での勧誘、深夜の居酒屋の店内での勧誘、交番前での勧誘、この三カ所の勧誘活動の成功に、最も神の御業を感じた。それぞれが、とてもリスキーだったから。十九人の信者の獲得に成功した。入信した若者信者の男女比は、男十人、女九人だった。そして、いよいよ十二月一日になった。僕たちは、最後の勧誘場所を訪れた。

出発前には、

「二カ月間。順調な勧誘活動ができたのも、全て神様のおかげです」

「その通りです」

と、水越賀矢と牧多は、ダムドール支部の握り手様を拝んだ。

水越賀矢は、黒のチェスターコートを羽織っていた。牧多は、黒のバイカーズジャケットを着ていた。背中に手足の生えたシンセサイザーの絵がペイントされていた。彼が自分で描いたものだった。

僕は、紺色のダウンジャケットを羽織って、部屋の隅にいた。支部の中は、陽の光が入らないため、外より寒い感じがした。僕は、最後の勧誘場所のことで困っていた。水越賀矢がメモを見せてくれた時、見落としていたのだけれど―彼女の書く文字はとても小さい―、最後の勧誘場所は、P大学だった。しかも、僕の在籍する経済学舎前である。僕は、もう約五カ月も大学に行っていない。この状態で、構内には入りにくい。そこで、二人に、そのことを打ち明けると、「近くで待っていればいい」と言ってくれた。


僕は経済学舎が見える東門の辺りで、二人の様子を見ていた。


P大学はV大学のようなマンモス大学ではないこともあり、警備員が常駐していることもない。従って、二人が構内に入っても、注意されることはない。もちろん、時間に制限がある。あまり長い時間、うろついていたら、学生課の職員がやってきて追い出される。かつて誰でも大学のキャンパスに自由に出入りできた時代があったらしいが、今は、そんなに平和な時代ではなくなった。


十二時十分から十五分間の勧誘時間だったが、水越賀矢と牧多が、十二時過ぎに経済学舎の前に立つと、一斉に学生食堂に向かう学生が出てきた。牧多は、思わず、ビラを渡そうとして、水越賀矢に制された。フライングになるところだった。それから、少し待ち、十二時十五分になった時には、今度は、もう学生はいなくなっていた。

「神命に従い、神命を信じ」

「はい。それにしても、みんな、昼飯です」

諭す彼女に牧多は言った。牧多は、いっそ学生食堂に入っていってビラを配ろうかと思ったらしい。最後の勧誘活動も成功させれば、二十カ所全てで成功する。彼には、その思いがあった。焦りと欲だろう。

水越賀矢は、突然、学舎の前にあるベンチに座った。

東門付近にいる僕からも、それが見えた。

「牧多君。勧誘活動はやめましょう。そして、空を見上げましょう」

牧多は、仰天したが、傾倒する彼女の言葉だけに従った。

牧多も空を見上げた。

水越賀矢は言った。

「空は広い。空を広くしているのは、空自身でもあり、空自身でもない」

「何のことですか?」

「心は広い。けれど、心を広くするのも狭くするのも、それは心の持ち主。あなたの心は今、どう?」

彼女に言われて、

「狭いです。焦ってしまって、狭くしていました」

牧多は、気持ちが落ち着いた。同時に、学生食堂に入っていったら、大変な騒ぎになったと思った。職員に取り押さえられただけじゃ済まなかったかもしれない。

「欲するけど、欲しない。この気持ちが大切」

「はい」

その時の牧多には、彼女の言葉がよく分かった。

すると、

経済学舎から一人の女子学生が出てきて、

「すみません。そのビラ、一枚もらえますか?」

と牧多に言った。

「礼命会ダムドール支部って知ってるんですか?」

牧多の質問に、

「いえ。知らないんですが、お二人が、あんまり気持ちよさそうに空を眺めているんで、私もそんな風になれるかなと思って」

と女子学生は言った。先ほどから、二人を見ていたらしい。

「ありがとうございます」

牧多は立ち上がり、ビラを渡すと女子学生に頭を下げた。

「神の御業は全てのところにある」

水越賀矢は呟いた。

僕は、東門から隠れるように、その女子学生の顔を見たが、知らない学生だった。

水越賀矢が、女子学生に分からないように僕に向かって頷いた。僕は少し恥ずかしくなった。

彼女は、すぐにダムドール支部を訪れ、入信した。

これで、二十人全員の勧誘が無事に成功した。


二カ月間、三人で勧誘活動をし、それが全て成功したことは、水越賀矢と牧多と僕に自信を与えた。信者の男女比も、十人と十人でぴったり同数になった。偶然とは思えない。個々の勧誘活動においても、不思議な体験をした。僕は、深く宗教を信仰する体質ではないと思うけれど、その僕をして、この勧誘活動を通じた、神秘的な体験は、神の力ではないのかと思わされた。そして、短時間の勧誘活動は、神の試練、神による修行だったのではないかとさえ思ったほどだった。物事にのめり込みやすく既に水越賀矢に傾倒している牧多が、更に、水越賀矢に傾倒していったのは当然のことだった。だが、牧多のこの傾倒に対して、僕は、内心、危うさを感じていた。僕は、信仰に限らず、何事に対しても一定の自制があってこそ、良好な関係が得られると考える人間だったからだ。


第三章(選良)

一.

僕たちが、勧誘活動を始めた時から、先生は、僕たちの活動と並行して、ダムドール支部創設の行政上の手続きや、信者幹部への説明を行っていた。先生は、教団幹部に相談する前に、水越賀矢の支部創設の申し出に対して許可を出してしまっていた。そのため、事後承諾になったのだが、先生が、三人の役員に話しをすると、三人ともすぐに了解した。役員は礼命会の信仰の次世代への継承の必要性を日頃から感じていたからだった。これは、信者全体に言えることで、むしろ、先生が、若者層の信者を増やさないことに懸念を抱いていたそうだ。僕が入信した時に、これから、若者層の信者の獲得を本格的に始めるのかと期待をしたが、僕一人だけで途絶えしてしまったので落胆していたということだった。

このことは、僕が日中の勧誘活動を終えて、教会の書斎に帰ってきたある日の夜に、先生が尋ねて来て話してくれた。ダムドール支部を訪れても、僕たちがいないことが多いので、書斎にいる僕に話をして、それを水越賀矢と牧多に伝えるように先生は言った。

その時、ふと気になって僕は先生に尋ねた。

「先生は、最近、とても忙しくて、ほとんど教会にいませんが、何をされているのですか?」

普段、先生のことについて、尋ねることはしないのだが、僕は尋ねた。

先生は、僕の質問に答えてくれた。おそらく何の他意もない素朴な疑問だったからだろう。

「教会に来られない信者さんの家を回っているんだよ。高齢のため、病気などで教会に来られない信者さんが多いから」

先生は言った。

僕は、先生は偉いと思った。でも、本当の目的に気づいた。先生は、寄付の回収に回っているのだ。百人近くいる信者だが、教会に来られるのは半数ほどである。残りの半数は家にいる。こちらから出向いて、説教の一つでもしない限り、寄付が回収できない。要するに、礼命会の出張サービスをしているのだ。

僕は、ただ先生らしいと思っただけで、それ以上の感想は抱かなかった。それだけ先生に慣れてしまったということだろう。


そんな風に、本部の先生、支部の僕らがそれぞれ活動をしているうちに、十二月一日になり、二十人の若者信者を獲得した。その一週間後に、礼命会ダムドール支部において、合同入会式が行われた。支部の中には、演台とパイプ椅子があった。演台もパイプ椅子も、昔、先生が使っていたものを丘の上の教会からワゴン車で支部に運んだのだった。

車を運転しながら先生は言った。

「いずれ信仰が受け継がれるため、演台とパイプ椅子は保管しておくようにと神様のお声がありました」

適当に言っているだけだとすぐに分かった。先生はバレる嘘を平気でつくのが半ば趣味になっていた。


礼命会会長青沢礼命、ダムドール支部長兼青年部長水越賀矢、礼命会幹部三名、そして、若者信者二十名が集まり、午後から、入会式が行われた。牧多と僕は、礼命会若者層の信者の先輩ということで、挨拶をさせられた。僕は、「みんなで一緒に信仰を深めましょう」と心にもないことを言った。牧多は、いつもの、「入会したら、父親がポックリ死んで運が開けた」という話を力説した。若者信者は皆、戸惑っていた。

先生は、役員の存在を意識して、信仰の次世代への継承について話した。水越賀矢は、勧誘活動を通して、改めて、神の存在を感じたと話した。当然だが、自分が神がかりだなどとは言わなかった。

そして、二十名全員の入会式が終わり、拍手が起こった。


更に、その後、ダムドール支部における初めての集会が行われた。先生と幹部は、青年部のことは水越賀矢に一任したということで、入会式後に退席していた。水越賀矢が、教祖代理として二十人の若者信者に話しをした。牧多と僕は、信者の正面に立っている彼女と同じ側の部屋の隅に座って様子を見ていた。

僕は、勧誘活動の間、必死だった。そのため、勧誘した若者信者の顔は覚えているけれど、名前は知らなかった。名前を覚える余裕がなかった。牧多も同じだった。だから、僕たちは、今、水越賀矢が作成した名簿を見ながら、二十人の信者と照らし合わそうと思った。僕が名簿を手にしていた。


・礼命会ダムドール支部信者名簿

G大学

法学部二年・城戸順次 法学部三年・多河俊作

経済学部一年・村口周治 経済学部四年・大邨哲也

社会学部二年・小沼治美 社会学部四年・杉川美華

理工学部一年・井坂見代 理工学部三年・藤野道江


V大学

経済学部三年・古林達也 経営学部二年・石本信弥 社会学部四年・奥沢賢二

法学部二年・河岸君江 経済学部三年・野崎晴香 理工学部四年・細田須美


J大学

法学部三年・宮村静二 法学部四年・平塚秀尚

経済学部二年・二上利香 社会学部一年・由川千枝


P大学

経済学部二年・森野香々美 社会学部四年・村端謙一


僕たちは、名簿を見てすぐに気づいた。

二十人の信者のうちの約半数の八人が、G大学の学生だった。学部は法学部もいれば理工学部もいたが、勧誘した信者のうち約半数がG大学の学生だった。G大学は非常に優秀な国立大学である。僕なんかは、受験しようとすら考えたことがなかった。それと、世間でよく言われるのは、G大学の学生の家庭は、裕福な家庭が多いということである。受験のために金のかかる塾に通わせ、金のかかる私立の中高一貫の進学校に通わせるだけの財力のある家庭の子どもしか合格できない。これは、エリート大学全般の傾向だと思うけれど、G大学もそうだった。

「G大学って頭のいい金持ちの学生ばっかりなんだろ?」

牧多が、僕が持つ名簿を一緒に見ながら、そう言った。

僕は頷いた。

「それと、残りの信者のうちの六人がV大学の学生だ。G大学に次いで多い」

と牧多に言った。

牧多は、名簿を見ながら、

「最初の信者の獲得に成功した大学だ。でも、G大学とV大学、J大学もそうだけど、こんなに同じ大学に信者が集中しているんだったら、一回の勧誘活動で、まとめて八人、六人って信者獲得に成功させてくれれば良かったのに」

と、僕が考えているのと同じことを言った。

牧多の言うように、まとめて勧誘できていたら、二カ月の期間が短縮できた。だが、そこのことを水越賀矢に言うと、きっと「それが神命だから」と言うだろうと、僕は思った。

そんなことを考えていると、

「V大学の学生も頭のいい金持ちなのか?」

と牧多が尋ねた。

「いや、普通の学生の通う私大だけれど、就職に強いんだ。だから、人気がある。マンモス大学の強みなのかどうかは、はっきり分からないけど、それもあると思う」

と僕は答えた。

ちなみに、僕と同じP大学のあの女子学生は、「P大学経済学部二年森野香々美」と名簿にあった。僕たちから、少し離れた場所に座っていた。短く切った髪が、よく目立った。僕は、同じ学部の同学年にもかかわらず、彼女のことを覚えていないことについて、彼女に対して申し訳なく感じた。彼女のせいではないのだ。それは、やはり、僕が他人に極めて関心が低いからだった。社会学部四年の村端謙一は、学部も学年も違うため、勧誘の時が初対面だったと考えていいだろう。そう考えると、今、緊張して座っている彼の顔を忘れず覚えていることは、僕にしては上出来だった。彼は、駅前のロータリーで勧誘した。循環バスに乗る寸前に僕がビラを手渡したのだ。彼は、そのままバスに乗って市街地に消えた。数日後、支部を訪れ、入信したのだった。


牧多と僕は、そんな風に名簿と集まった信者を照らし合わせていたのだが、

「みんな、健康的で今時の若者ばかりだ。輝いている」

僕は、パイプ椅子に座る若者信者たちを見て、思わずそう呟いた。皆、希望に満ちているのが分かった。

「本当だよな。もっと深刻な表情の奴とか、暗い奴とかが集まるのかと思ってた。俺たち二人が、一番、それっぽいかも」

牧多も言った。僕と同じことを考えていた。

集まった若者信者は、頭がいい上に、皆、清潔で、おしゃれだった。何故、この場にいるのかが不思議だと僕は思った。悩みなど、あるのだろうか? 男子も女子も流行りの髪型に、服装も流行りのものだった。僕は紺色のダウンジャケットに穿き古したジーンズ。髪は書斎の鏡を見て自分で切っている。更に、牧多のパンクファッションは、皆とは比較の仕様がなかった。

それから、勧誘した若者全員が、大学生だったことに、僕は改めて、何かしらの力を感じざるを得なかった。大学で勧誘した若者は分かるが、雨の日に犬の散歩をしている女の子が大学生である確率は高いとは言えないはずだ。水越賀矢が本当に神がかりなら、その力をもってして、彼女は、何故、大学生ばかりを二十人集めたのだろう。若者を救うのなら、工務店で働く若者であってもいいはずだし、靴屋で働く若者であってもいいはずだ。だが、それではダメなのだろう。何か明確な目的があるから、大学生二十人なのだ。しかも、エリートで金持ちのG大学の学生が約半数もいる。僕には、その目的は分からない。ただ、青沢礼命が、高齢富裕層を信者にしたのと、水越賀矢がエリート大学生を信者にしたのを比べる時、水越賀矢の目的には、異質な何かを感じた。同じ礼命会の中にあって、全く意志の異なる二つの神が存在する、そんな気さえ僕はした。それは、果たして宗教団体として存在し得るのか? 僕は、そんな疑問を抱きながら、初めての集会が始まるのを待っていた。


二.

水越賀矢は、少し傷みのある演台の縁に手をかけていた。彼女は、今日も、黒のチェスターコートを着ていた。コートの下も、いつもと同じく白のシャツに黒の細いネクタイを緩めて締めていた。その姿は、神父のように見えた。

椅子に座った学生たちは、彼女の姿に緊張した。背筋を伸ばし、きりっとした顔で水越賀矢を見た。二十人の若者信者たちの凛々しい姿に、僕はより自分が貧相に思えた。

水越賀矢は、彼らに向かってこう挨拶した。

「改めて、ご挨拶申し上げます。ダムドール支部長兼青年部長の水越賀矢です。あなた達とともに信仰を深める喜びと、あなた達に、より良い信仰をしていただくよう日々の信仰の実践を指導していく重責を、今、感じています。あなた達、二十人の信者は、神様に選ばれた栄えある信者です。自らの意志で入信したのではなく、神様に導かれて入信したのです。あまたいる若者の中で、わずか二十人の中に選ばれた栄えある信者です」

そして、彼女は若者信者たちの顔を一人一人見た。

みんな、先ほどの緊張した表情から、誇らしげな表情に変わっていた。

それを確認してから、次に、彼女は、こう言った。

「でも、同時に、恥ずべきことでもあるのです。あなた達を神様がお導きになった理由は、あまたいる若者の中で、あなた達二十人が最も弱い若者だからです!」

信者たちの動揺する声が僕のところまで聞こえてきた。

「賀矢先生。最も弱いとはどういうことですか?」

G大学の信者の一人が尋ねた。

水越賀矢は、こう答えた。

「ここにいる二十人は、みんな、恵まれすぎている若者だから」

「恵まれすぎている?」

「そう。あなた達二十人は、みんな、お金持ちの家に生まれたお坊ちゃん、お嬢さんです」

僕は、水越賀矢の言葉を聞いて、G大学の学生だけじゃなくて、全員、金持ちなのかと思った。

牧多も、「富裕層の子どもたち」と呟いて、彼らを見た。

でも、当の若者信者二十人は、驚いていなかった。むしろ、そのことを見抜かれたからか、後ろめたいような表情を浮かべていた。

「高学歴富裕層信者のみなさん。改めて、こんにちは」

水越賀矢は、右手で髪をかき上げながら、そう言った。そして、その右手をいきなり僕のほうに向けて指さし、

「彼のお父さんは、一年中、他人の家の草むしりをしてお金をもらっている。そして、お父さんが周期的に精神のバランスを崩すのを嫌って、彼は今、家出中です」

と言った。僕は、何を言い出すんだと思ったが、更に、彼女は、牧多を指さし、

「坊主頭の彼のお父さんは、腕のいい中華料理人だった。でも、商売が下手だった。だから、店にはいつも閑古鳥が鳴いていた。それが、ある日、脳の血管が破裂して、お父さんは死んだ。それは、彼が礼命会に入会して一カ月後のことだった。彼は奇蹟が起ったと喜んだ。実際、以降、彼の人生は好転し始めた」

と言った。牧多は、「この前、少し話しただろう?」と笑っていた。彼は離人感が強いので、こういう時、かえって喜ぶのを僕は思い出した。

更に、水越賀矢は、

「そして、私の父親はアル中のギャンブル中毒で、私が中学生の時、借金取りに追われて逃げる途中に、車にはねられた。彼のお父さんと同じようにその場で死んでくれたら良かったのに、植物人間になって、未だに、生きている。奇蹟は起こらなかった」

と自身の父親についても語った。

「みんな、どう? ろくでもない父親ばかりでしょ? そんな親の下に生まれると苦労ばかり。でも、一つだけ良いことがある。それは、ろくでもない親の下に生まれた子どもはタフになるっていうこと」

水越賀矢は、演台の縁に手をかけ、二十人の信者を見渡した。

僕は、みんなは、僕のことを笑っているのではないかと思いながら、様子を見たが、そうではなかった。

僕のことを笑っている者もおらず、牧多と水越賀矢の話に恐怖を覚えている者もいなかった。

その代わりに、若者信者は皆、僕たち三人を、どこか憧憬を感じさせる目で見ていた。

「兄貴の店とスーパーミネザキの間で総菜を売る契約をさせたんだ。俺がコーディネーター。だから、毎月売り上げの10%を俺が兄貴からコーディネイト料として受け取っているわけ。オヤジが死んでなかったから、今も貧乏だった。考えただけでゾッとするよ」

牧多は、二十人の信者に、例のコーディネイト料の話を聞かせていた。

みんな、ためらいがちに笑っていたが、そこには、牧多への媚も感じられた。

彼らの様子を見ていて、僕は、気づいた。

これから、水越賀矢が何をしようとしているのかは分からない。

でも、彼女が何かをする際に、利用するのは、彼ら金持ちの子ども達が持つ特有の「罪業感」であるということだ。彼らが持つ罪業感とは、ひと言で言えば、「自分だけ恵まれていていいのだろか」という、僕から言わせれば、とてもナイーブな感情のことだ。もちろん、金持ちに生まれても、罪業感など抱かない者も沢山いる。だが、金持ちの中には―特に思春期の頃―、「世の中には貧困な人が沢山いるのに、自分だけ金持ちでいいのか」と貧困に苦しんでいる人に対して、金持ちである自分に罪の意識を感じる者がいる。欧米なら、社会的成功者は、寄付をすることにより、あるいは、ノーブレスオブリージュのように、貴族階級には果たすべき義務があることにより、この罪業感が軽減できるのかもしれない。でも、この国にはそれがない。しかも、この国の貧富の差は広がるばかりであり、ここにいる若者信者の罪業感は増す一方であるはずだ。


二カ月もの期間をかけて、懸命に勧誘した若者たちは、金持ちで、しかも、罪業感のあるナイーブな若者ばかりだった。それはつまり、彼らの弱みであり、そのことをこれから、水越賀矢が、どのように利用するかを考える時、僕には、どうしても、ポジティブな想像はできない。だとすれば、僕は、既に彼女の片棒を担いでしまったことになる。僕は、片棒を担いでしまった人間として、水越賀矢を監視し、彼らを守る義務があると思った。他者に関して、無関心な僕が、この時は、何故か、まともな正義感を抱いた。何故だろう? それはおそらく、彼らを守ることにより、僕自身のプライドを守りたいからだと思った。僕の家は、ストレートに言えば、貧乏だと思う。でも、だからといって、金持ちを妬んでいるとは思いたくないし、思われたくもない。そのためには、彼らを守ることを通じて、僕は金持ちに対して、何のコンプレックスも抱いていなことを自分自身に証明したいのだ。本当は、こんなことを考えている時点で、僕はコンプレックスを抱いているのかもしれない。でも、純粋に正義感を抱いた僕が存在するのも事実だ。人の心は多面的で複雑である。大事なのは、どの面を切り取るかだと僕は思う。


三.

初めての集会が終わり、少し日が過ぎ、クリスマスも近づいたある日のことだった。朝から、水越賀矢は牧多の車で街に出ていた。その間、僕は支部で留守番をしていた。商店街には冷たい風が吹いていた。空は暗くて陰気な日だった。商店街はクリスマスセールもしていない。しても誰も来ないからだろうか? 風は、ダムドール支部の中にも吹き込んできた。服屋の時代からの引き戸をそのまま使っているのだが、古くなって隙間ができている。その隙間から、冷たい風が入ってきた。僕は、支部の真ん中に置いてある石油ストーブの前に座っていた。ダウンジャケットにマフラーまでしていたが、それでも寒かった。演台と握り手様の絵を置いてある木の台、そして、部屋の隅に、事務机があるだけだ。人がいないと何も無いのに等しい。寒くて当然だった。赤く燃えるストーブの火を一人でぼんやり眺めながら、僕は、ダウンジャケットのポケットから、アクセサリーを取り出した。安物の銀のペンダントだった。ペンダントトップは、蜘蛛らしいのだが、単価を下げるため、デザインを簡略化しすぎて、蜘蛛に見えなくなっていた。かといって違う何かにも見えなかった。僕が、今、ペンダントトップを蜘蛛だと分かるのは、服屋から教会に改装している時に、水越賀矢から教えられたからだった。このペンダントは、彼女が、パンクファッション専門店の『ダムドール』を経営している時に、仕入れた品物だった。彼女自身、後になって何故、こんな売れない商品を仕入れたのか不思議に思ったと言った。仕入れ値が安かったこともあるが、商売をしていると、時々、勘が狂う時がある。その実例だと言って、僕と牧多にこのペンダントを見せた。ペンダントもリサイクルショップに売ろうとしたが、神の声が聞こえ、売らないまま、二階の住居の押し入れにしまってあると彼女は言っていた。更に、牧多が、「何個ぐらい残っているんですか?」と何気なく尋ねたら、「五百個ある。今、押し入れの一角を占領されている」と彼女は答えた。

僕は、その話を思い出しながら、改めて、ペンダントトップを眺めていた。

「蜘蛛っていうより、ヤツデの葉みたいだな」

そう呟いてから、僕は、ペンダントをポケットに戻した。

それから、もう一度、呟いた。

「売れなかったものを、もう一度、売ろうとしても、売れないだろう」


午後から集会がある。昨夜、水越賀矢が信者二十人に支部に集まるように連絡をしたのだ。僕は、午後からの集会で、彼女が、若者信者たちに何を話すか知っている。何故なら、昨日、本部に水越賀矢と牧多が、先生を訪ね、そのための話し合いをしたからだった。僕は、昨日は風邪気味だったので、話し合いを欠席して、書斎で休んでいたのだけれど、話し合いが終わってから、先生が僕のところに訪ねてきた。そして、話し合いの内容を教えてくれたからだ。というより、先生は、僕に愚痴を言いに来たと表現したほうが正確かもしれない。

僕が、ソファーで横になっていると、話し合いを終えた先生が書斎に入ってきた。夕方になっていた。水越賀矢と牧多が教会に訪れたのが昼過ぎだったから、随分長い時間、話をしていたことが分かった。先生は、アンティークデスクの椅子に腰かけた。そして、スーツの内ポケットから、ペンダントを取り出した。チェーンを持って、ペンダントを揺らしながら、

「これ、どう思う?」

と僕に尋ねた。

「それ、知ってます。賀矢先生が服屋の頃に仕入れたけど、売れなかったペンダントですよね」

僕がそう答えると、

「それを若者信者二十人に売って歩かせるんだって」

と先生は言った。そして、顔の前で揺らしているペンダントを眺めていた。

「まさか、信者を使って、売れなかった在庫をはかせるつもりですか?」

「そんなことはしないさ。そうじゃなくて、彼女曰く神命だ。修行の一つだそうだ」

先生の答えを聞いて、あの時、神の声が聞こえたから、リサイクルショップにペンダントを売らなかったと彼女が言ったことを思い出した。

それから、先生と水越賀矢は長く話し合いをした。水越賀矢は修行の必要性を訴え、先生は、そのやり方は、精神主義、根性論になるのではないかという指摘をしたが、結局、彼女に譲る気配がないため、先生が折れた。

次に実際的なことを話し合った。売って歩くなら、いくらでこのペンダントを売るのかを話し合ったのだ。

「彼女も、長年、服屋を流行らせただけあって、値段には慎重だったよ。法外な値段で売って歩いては、礼命会のイメージが悪くなる。一旦、イメージが悪くなると、取り返しのつかないことになるかもしれないと言っていたから」

先生は、そう言った。それを聞いて、先生は、今もアンティークデスクの上にある握り手様の銀のペンダントを、信者に法外な値段で売っているじゃないかと僕は思った。そして、先生の顔を見ていた。

僕の視線の意味が伝わったらしく、

「この握り手様のペンダントは、あくまでも信者に買ってもらっているものだから。彼女の売ろうとしているペンダントは外部の人相手だから。決定的に違うよ」

と慌てて釈明した。

「で、いくらで売ることになったんですか?」

僕は、肝心のことを尋ねた。

「一個。三千円」

「高すぎる。そんなペンダントが三千円なんて。誰も買いませんよ!」

僕は、水越賀矢がいないこともあってか、思わず大声で本音を言った。

「そこが大事な点だと彼女は言うんだ。売れないものを売る苦労を信者は買うのだ。若いうちの苦労は買ってでもしろと言うように。これこそが修行なんだって力説したよ。やっぱり、根性論だと思ったけど、それを言い出すとまた長引くから」

「先生が、折れたんですね」

と僕が言うと、先生は、ため息をついて頷いた。

それから、僕を見てこう言った。

「それにしても、君は、賀矢先生とずっと一緒にいるけど、変わらないね。話がしやすいよ。牧多君は、随分、賀矢先生に傾倒している。彼女の隣に座っている姿は、秘書兼ボディーガードみたいだった」

「普段は、前と一緒ですけどね。運転手までしているし、責任感でそうなっているのかもしれません」

僕の言葉を聞くと、先生はほっとしたようだった。

そして、

「牧多君のことをよろしく頼むよ。彼とは長い付き合いだから。それとダムドール支部のことも、気になることがあったら、僕に教えて欲しい。彼女の立場もあるから、あまり僕が立ち入り過ぎるのも悪い」

それだけ僕に言うと、先生は、書斎を後にした。

去り際に、

「これ、明日の集会で使うだろうから、持って行きなさい」

と僕に蜘蛛のペンダントを渡した。

僕は、誰もいなくなった書斎で、ペンダントを眺めながら、水越賀矢と先生の間に、早くも微妙なズレが生じてきたことを考えていた。


四.

十二時近くになっても、水越賀矢と牧多は戻って来ない。僕は支部を出て近くにある弁当屋で、生姜焼き弁当とインスタントの味噌汁を買って帰って来た。ストーブの上のやかんの湯で味噌汁を作ると、弁当を食べた。昨日、風邪気味で寝ていたので、まともに食べていなかった僕は、お腹が空いていた。閉め切った部屋には、豚肉の生姜焼きとインスタント味噌汁の匂いが充満した。空腹が満たされた僕は、そのまま眠った。まだ熱っぽいせいと朝早く牧多が迎えに来たせいだろう。

僕は夢を見た。犬と猫が登場する夢だった。犬はボーダーコリー、猫はアビシニアンだった。

僕の目の前をボーダーコリーが走り抜ける。次に、アビシニアンが走り抜ける。次に、ボーダーコリーが走り抜ける。このように、ボーダーコリーとアビシニアンが交互に走り抜けるのだが、何度かに一度、ボーダーコリーの次に、またボーダーコリーが走り抜けた。ボーダーコリーの次にボーダーコリーが続くのは、一定の間隔ではなく不規則な間隔だった。でも、僕は、その不規則性の中に、実は、何か規則性があるのではないかと懸命にボーダーコリーとアビシニアンが走り抜ける姿を見ながら考えていた。そのうちに、アビシニアンの次にアビシニアンが走る現象まで起きた。もはや、お手上げだった。その時、体に強い痛みを感じて目が覚めた。体の痛みは、パイプ椅子に不自然な格好で眠っていたために生じた背中の痛みだった。


僕が目を覚ますと、目の前にパイプ椅子に座る信者たちがいて、演台には水越賀矢と牧多がいた。

僕は不思議に思った。パイプ椅子は若者信者たちが、並べたのだろう。でも、僕は、眠る前、支部の真ん中に置いてある石油ストーブの近くにパイプ椅子を置いて、弁当を食べていた。それが、今、支部の隅に石油ストーブとともに移動している。僕がそのことを考えながら、みんなの様子を眺めていると、近くにいる信者が小さな声でこう言った。

「集会が始まる前に、何人かで、ストーブと一緒にそっちに移動させました」

パイプ椅子を並べる時、僕が邪魔だから、何人かの信者で、僕ごと椅子を担いで移動させたのだ。そう言えば、眠っている時、体が揺れていた記憶があった。わざわざ僕を乗せたまま椅子を移動させなくても、起こしてくれれば、一緒にパイプ椅子を並べるのを手伝ったのにと僕は思った。

僕は、彼を見た。彼の顔と名前は覚えていた。何故なら、彼は、記念すべきダムドール支部第一号信者であるV大学経営学部二年の石本信弥だからだった。彼は緊張していた。他の信者も極度に緊張していた。P大学の森野香々美も、緊張していた。彼女は、勧誘の時、空を眺めながらのんびりとしていた水越賀矢と牧多を見て、入会したのである。今、彼女は騙されたような気持ちでいるのではないだろうかと僕は思った。

それから、僕は、何故、彼らが僕を担いで椅子を移動させたか分かった。極度の緊張状態にある時、人間は、不合理な行動を取ることがままある。彼らがそうだったのだ。水越賀矢が現れる前に、パイプ椅子を並べなければならないのに、支部の真ん中に石油ストーブと居眠りをする僕がいたのである。緊張している上に彼らは焦った。結果、僕を起こせばいいだけだったのに、僕ごと椅子を担いで移動させるという普通ならあり得ない選択をした。緊張がそうさせたのだ。風邪気味とはいえ、居眠りをしていた自分を、僕は、彼らに申し訳なく思った。それにしても、水越賀矢とは、彼らにとって、それほど恐ろしい存在になってしまったのか? 否、彼女が恐いのではなく、彼女の先日の話、つまり、「罪業感」の話が、彼らが日頃から抱いている後ろめたさを見事に突き刺したということなのだろう。かなりシビアな家庭環境で育ってきた僕には分からない、金持ちの深層心理であった。


既に演台には、水越賀矢が立ち、若者信者たちに説教をしていた。

「あなた達。外の空気に触れたことはある? あなた達。外の世界の厳しさを知っている? あなた達。純粋培養のままで、社会に出られると思う? あなた達。そんな甘えん坊で、優秀な企業人になれると思う? あなた達。そんな弱虫で、国家に貢献できる有用な人材になれると思う?」

水越賀矢のしわがれた声は、G大学、V大学、J大学、P大学、全ての信者の心に突き刺さった。

そして、僕は、水越賀矢の口から、「国家に貢献できるか?」という言葉が出たことに、あやうく声を出しそうなほど驚いた。それは、僕の持論、「僕たちは、教育を通じて国家に有用な人材となるべく調教されている論」と正反対の理論だったが、まさか、彼女の口から、国家という言葉が出るとは思わなかったからだ。

すると、僕の近くに座るV大学の石本が訴えた。

「賀矢先生に言われなくても、僕たちは、内心、ずっと悩んでいます。温室育ちの僕たちが、大学を卒業して、厳しい社会で生きていけるのか? いつも不安でなりません。企業人として、まともにやっていけるか? 国を背負うなんて考えただけでも、その重圧に押し潰されそうです」

その訴えに、他の信者からも、

「先生。そうなんです。自覚はあるんです。でも、どうすればいいのか分からないんです」

と同じ訴えの声が上がった。

その声を聞くと、水越賀矢は、

「牧多氏子。神様のペンダントをここに持って来てください」

とすぐ近くに控えている牧多に言った。

牧多は、木箱を抱えて演台の上に置いた。木箱の側面には、「礼命会」の文字があった。僕はその箱を見て、先生が本部で集会の最後に、信者に寄付をボンボンと放り込ませる時に使う箱の少しサイズの小さいものだと分かった。しかも、中には、今から、若者信者たちに売らせる蜘蛛のペンダントが入っているのである。あまり良い印象が持てないのは当然だった。

牧多が演台に木箱を置くと、水越賀矢は後ろに下がった。

そして、牧多が、彼女に代わり、

「ここからは、礼命会最初の若者層信者である俺、牧多賢治が説明します」

と話し始めた。

「皆さんが、社会に出ることを不安に思っていることは、当然であり、このままでは最悪の現実となります。社会の厳しさにもまれて、皆さんは木っ端みじんに砕け散るでしょう」

いつもの愛嬌のある牧多ではなく、冷たく彼は話した。

「君に、そんなことが断言できるの? 君だって、私たちと同じ年ぐらいでしょう?」

G大社会学部四年の杉川美華が、反論した。四年生だけに、より切迫感があった。

「俺には、皆さんのような学歴も、裕福な経済力もありません。それに、恥ずかしながら、気まぐれで高校を一年で辞めてしまいました。でも、その分、社会に出たのが早い。しかも、皆さんのようなエリートコースではなく、社会の底辺を生きてきました。例えば、高校を中退してから、ニコイチを手伝って金をもらっていました。ニコイチ。あなたに分かりますか?」

牧多は、逆に杉川美華に尋ねた。

「ニコイチ? 分からないけど?」

「ニコイチとは、事故車と事故車の破損していない部分を繋げて、一台の自動車に仕上げて販売する違法行為です。二台の破損した車から、一台の使える車を作るので、ニコイチと言います。他にも、サンコイチ、ヨンコイチもあります。見つかれば、即、逮捕されます。でも、金は儲かりました。出来上がったニコイチ車両は、足のつかないように外国に売り飛ばしました。今も、その車が、異国の地で元気に走っている姿を想像すると、何故だか、俺は、切ない気持ちになります。頑張れよって」

牧多が、遠い眼をして話をした。

二十人全員が、彼の話の現実性に、黙ってしまった。同時に、牧多の生きる世界に対して、自分たちの生きる世界が守られすぎていることに負い目を感じていた。僕は、水越賀矢が、牧多にニコイチの話しをさせたのは、それが狙いだと分かった。エリート信者たちは、牧多が過去に犯した違法行為を、タフさと錯覚してしまっている。彼らのような世間知らずな若者には、往々にしてある錯覚だった。

それから、少しして、

「君みたいに、タフになれってことだね。でも、一体どうすれば?」

J大法学部三年の宮村静二がため息まじりに尋ねた。まんまと水越賀矢の策略にはまっていた。

「ため息をつくことはありません。皆さんは、神様に選ばれた二十人です。このペンダントを見てください」

牧多は、そう答えると、木箱から、蜘蛛のペンダントを一つ取り出した。

信者は、彼が取り出し掲げたペンダントを見た。そして、その不可解なデザインに何か深い意味があるのだと考えていた。だが、不可解なデザインに意味があるのではなく、不可解なデザインのペンダントを使って、水越賀矢が、これから、彼らにあることをさせようとする意図にこそ深い意味があるのだと僕は思った。僕は、牧多の斜め後ろでうつむいている水越賀矢をじっと見ていた。彼女は、今日の集会の学生信者の狼狽ぶりに、とても満足しているのが分かった。何故なら、彼女は、薄っすらと笑っていたからだった。


五.

牧多は演台から離れると、木箱を抱えて、信者たちの席を回り始めた。そして、木箱からペンダントの入ったビニール袋を取るように指示した。信者たちは、目の前に立つ牧多の姿を恐々と眺めながら、ペンダントの入ったビニール袋を手にした。

その様子を見ながら、

「一つの袋にペンダントが二十五個入っています。全部で五百個あります。このペンダントを街に出て、皆さんが売るのです。値段は、一個、三千円です」

と水越賀矢は言った。

「これが、三千円? 高くないか?」

思わず、石本が呟いた。その呟きは、静まり返った部屋に響いた。

彼は慌てて、

「すみません。僕はアクセサリーとかつけないので、よく分からなくて」

と苦しい言い訳をした。

僕も高いと思った。というより、高くなっていると思った。以前、彼女が、このペンダントを見せてくれた時、「あんまり売れないから、仕入れ値を割ってもいいから、最終的に、一個、三百円で売った」と言っていた。三百円でも、売れなかったものを、その十倍の三千円で若者信者たちに売って歩かせるのだろうかと僕は思った。

その間に、牧多がペンダントを全ての信者に配り終えた。そして、演台のところに戻ってきた。

牧多は、水越賀矢に一礼した。

彼女は、並んで立つ牧多の肩に手を置き、

「宮村氏子の言う通り、牧多氏子のように、皆さんにタフになってもらいます。厳しい社会を生き抜くには、綺麗事だけじゃ生きていけない。泥にまみれてみて、初めて、分かることが沢山ある」

彼女の言葉に、皆、牧多を見た。

革ジャンに背の高い坊主頭のパンク青年のようになることが、タフさを意味することではないのは分かっているけれど、それにしても、あまりにも住む世界の違う牧多のようになれと言われて、皆、戸惑っていた。

その時、

「ペンダントを売って、そのお金はどうするんですか? 教団のお金になるのでしょうか? 私は、そのペンダントの原価は、とても安いように思います。それを三千円で売って、高い利益を得て、しかも、それを教団の資金にするというのは、許されることなのでしょうか? 所謂、霊感商法のような詐欺行為に該当するのではないでしょうか?」

一人の女子学生の声がした。

僕は、声のするほうを見ると、P大学の森野香々美だった。

「さすが、神様に選ばれた一人、森野香々美氏子です。おっしゃる通りです。でも、教団の資金にはしません。五百個を売った総額百五十万円は、日頃から、慈善活動をされている青沢礼命先生にお願いして、児童養護施設に寄付をします。だから、森野香々美氏子も、他の皆さんも、安心して、このペンダントを売り歩いてください。教団の資金稼ぎではありません。これは慈善活動です」

水越賀矢は、そう説明した。

だが、

「それにしても、原価より高く売り過ぎるのが事実なら、何だか、やましいな」

と男子学生の信者の声がし、

「そうだよなあ」

と言う声も複数聞こえた。

すると、水越賀矢が、

「あなた達。私の話、つまり、神様のお話を聞いていたの? 綺麗事だけじゃ生きていけない。泥にまみれてみて、初めて、分かることが沢山あるって言ったでしょ? 理屈は要らない。泥にまみれなさい」

とピシャリと彼らの疑問を封じてしまった。更に、

「ヒヨコのままでは、社会に出られないから、今、あなた達のお尻についている殻を取ってくださると神様が、おっしゃっている。それとも、それを拒否して、お尻に殻をつけたヒヨコのままで、厳しい社会に出るつもり? そうしてもいいけれど、あなた達、きっと、厳しさに耐えかねて、死ぬわよ。誰かを助けたいと思うなら、まず自分が強くなること。そのためには、多少ダーティーなこともしなければならない。人生とはそういうものなの」

水越賀矢の言葉は、若者信者たちの弱点をついた。

「そうだな。強くなるためには、多少ダーティーなことも必要か」

僕の近くにいる石本も、そう呟いた。

みんなが、納得した様子を見て、牧多が、水越賀矢に代わって、再び話し始めた。

ペンダントの売り方の具体的な説明だった。

水越賀矢と牧多は、いつの間に、こんなに上手く役割分担をするようになったのだろうと僕は思った。

牧多は説明を始めた。

「必ず三千円で売ること。もし、もっと高くで買う人がいたら、その金額で売ってもいいけど、まず、いない。それより、売れないからといって、勝手に値段を下げない。それと、期限は来年の二月末まで。売る地域は、どこでもいい。この町を出て、日本中、世界中を売り歩いてもかまわない。要は、売れさえすればいい。やり方だって、売れさえすれば、何をやってもかまわない」

そこで、

「さすが、牧多氏子。言うことにリアルな響きがある。でも、売り方は慎重に。逸脱した行為は、礼命会の信用を落とすことになる。だから、あくまでも、常識的な範囲内で」

と水越賀矢が、訂正をした。

信者からも声が上がった。

「売る期間も、常識的じゃない気がします。このペンダント二十五個を二月末までに売るなんて、無理です。残り、二カ月半もない。しかも、一個、三千円ですよ?」

G大理工学部三年の藤野道江だった。

その声に対して、水越賀矢は、逆に問うた。

「藤野氏子は、確か、大学院へ進んで、研究員になるはずだけれど、あなたは、常識にとらわれていて、画期的な研究成果が出せると思う?」

「確かに、研究に関しては、常識にとらわれていてはいけない部分が多いと思います。でも、今は、ペンダントの売り方の話です」

「あなたが、将来、研究者として、大きな成果を出すためにこそ、このペンダントを二カ月で売るのです。不可能を可能にしてこそ、人間は、大成する。それは、研究者でも企業人でも同じ。皆さん。常識を捨てなさい。神様を信じなさい。二カ月で売れると信じて売れば売れるのです。振り返って考えなさい。私と牧多氏子、杉原氏子は、あなた達、二十人を一カ所の勧誘場所で必ず一人ずつ勧誘した。複数人でもなくゼロ人でもなく。そして、皆、入信した。その期間も二カ月だった。奇蹟です。私たち三人は奇蹟を起こしました。あなた達にも、奇蹟は必ず起こせます。さあ、御託を並べるのは終わりにして、ペンダントを売りに今すぐ町に出なさい!」

最後は、水越賀矢の力技で押し切った感があった。でも、僕も、二十人の若者を二十カ所で勧誘した事実を考えると、彼女の言葉に説得力を感じた。ただ、勧誘とペンダントを三千円で売るのを比較することが適切なのかどうかは分からなかった。


若者信者二十人は、水越賀矢の迫力に気圧されるように、町に出て行った。引き戸を開けると、冷たい風が吹き込んできた。彼らは、どこに向かっていいのかも分からないまま、とにかく町に出て行った。実際のところ、町に出たというより、水越賀矢に町に放り出されたという表現のほうがぴったりきた。僕は、ずっと石油ストーブの前で温まっていた分、吹き込む風をより冷たく感じた。だが、同時に、頬に当たる冷たい風を心地よくも感じた。時刻は、二時半だった。水越賀矢と牧多は、開け放たれた引き戸の所に立って、それぞれの思う方向に歩く信者たちを見ていた。そして、僕は二人の後ろ姿を見ていた。黒の長いチェスターコートを羽織った水越賀矢と、背中に手足の生えたシンセサイザーが描かれたバイカーズジャケットを着た牧多が並んで立っていた。僕は、二人の後ろ姿から、彼らに強い親和性を感じた。そして、それは、牧多が、より水越賀矢の影響下に入ったことを表していると思った。元々、困っていた水越賀矢を礼命会に誘ったのは牧多である。でも、今、牧多は先生を離れて、水越賀矢に傾倒している。つまり、牧多は、礼命会を離れて、水越賀矢の神を信仰しているということだと僕は思った。危険を感じる。でも、どうすることもできない。僕は自分の無力さを感じた。わずか数カ月の間に、牧多は大きく変わった。水越賀矢の力だ。今、町に出た二十人の若者信者も、もうすぐ彼女の力によって、大きく変わるのだろうか? どんな風に変わるのかは分からないが、牧多の変化に危険を感じている僕は、信者の変化にも危険を感じないわけにはいかなかった。僕は、冷たい風に当たり、クリアになっていく頭の中で、そんなことを考えていたのだった。


第四章(苦行)

一.

一月も下旬に入ったその日、僕は買い物に出た。食料品と日用品を買いに出かけた。教会の近くのバス停からバスに乗って街に向かった。年末年始も家には帰らなかった。スマートフォンには大晦日に自宅からの着信履歴があった。僕は家に帰りたくないというより、書斎での生活に慣れてしまって、もう帰ることを忘れていた。現実問題として、自宅の二階の僕の部屋は狭い。勉強机とベッドと洋服ダンスを置いてしまうと、もう余分なスペースがなくて息苦しい。それに比べて、書斎は広い。暖房の効きが良くないこと以外は不満の言いようがない。


バスは空いていた。席に座って色んなことを考えた。

牧多は、青年部の活動で忙しい。年が明けてから、まだ一度も、教会には来ていない。牧多が来たら、車に乗せてもらって街に出ようと思っていたのだが、来ないのでバスに乗った。実は、僕は青年部の活動に参加していない。新年の集会には参加した。牧多にも会った。やはり、水越賀矢の秘書兼ボディーガードのような感じだった。ペンダントを信者に配布した時から、水越賀矢は隠していた本質をむき出しにした。そして、次の集会では、礼命会ダムドール支部神訓と書かれた紙を信者に配布した。


・礼命会ダムドール支部神訓

一 苦行から決して逃げるべからず。

二 苦行は生涯が苦行と思え。

三 大いなる苦行によってのみ大いなる楽土あらん。


僕は、これを読んで、すぐに教義だと思った。そして、礼命会には、『ともに生き、ともに幸せになる』この教え一つしかないことを考えると、この神訓は、神がかり水越賀矢の教義だと思った。このことは、すぐに先生に伝えなければと思い、何度も電話をしたが、電源が切られていた。先生は、“礼命会出張サービス”の時、スマートフォンの電源を切っている。説教の妨げになるからだった。だから、神訓の件は伝えられないままになっている。

青年部は、ペンダントを配布して以降、頻繁に集会を開いている。最低週に二回は集会を開いている。本部と同じように週に一回という決まりはないようだが、水越賀矢は先生に全く報告していない。支部には信者が常時出入りしていて、いつも誰かがいる。牧多からも集会の案内のメールが送られてくるが、あまり頻繁なので、僕は、面倒でメールを読むのも無視している。でも、実は、面倒なだけが理由ではない。

青年部の雰囲気に僕は馴染めないから避けている。本部の、のんびりとした雰囲気と違って、青年部はノルマの厳しい健康食品の販売営業部のような雰囲気がする。僕は、昔、割の良いアルバイトだと思って、健康食品会社でバイトをしたことがある。青年部には、その時の営業部と同じ雰囲気がある。ただノルマが厳しいだけではなくて、営業部長が𠮟咤激励するのである。

「○○君。君ほどの優秀な社員が、これだけの売り上げであるはずがない。田舎のお母さんが聞いたら、びっくりすると思う。君、お父さんを早くに亡くして、母一人子一人で育って来たんだろ? もっと頑張って、お母さんに楽をさせてあげよう。君は田舎では神童って呼ばれていたんだろう? お母さんの自慢の息子の君ならできる。できないって思っているから、君の高い能力が発揮できていないんだ。お母さんのために必ずやる! この気持ちでいこう」

𠮟咤激励というより褒め殺しのような言葉をかけていた。

社員は、号泣していた。

僕は、気味が悪いので、すぐにそのバイトを辞めたが、不思議だったのが、この号泣した社員に限らず、褒め殺しに遭っている社員全員が、本気で泣いて、本気で反省していることだった。休憩室で偶然、社員が集まっているところに出くわしたのだけれど、「部長があんなに期待してくれているのに、俺たちはダメだ」と語り合っていたのだ。そして、本気でやる気を出していた。社員全員の目が据わっていたことを僕は今もはっきりと覚えている。

そして、今、水越賀矢がやっていることは、それに酷似している。「優秀なG大学の小沼治美氏子。あなたがペンダントを一つも売れていないなんて、かえって、奇蹟よ。心の底から売れると信じて売っていないから売れない! 小沼氏子。信じることを信じなさい!」

「ペンダント」の部分を、「万病滅飲料」に置き換えたら、あの時の営業部長そのままだ。僕は、水越賀矢に強い疑問を抱くようになった。彼女は若者を救うんじゃなかったのか? それから、これが、マインドコントロールではないのかと強い危機感を抱いた。だが、僕は、若者信者を守ると自分に誓ったにもかかわらず逃げてしまったのだ。僕の中での言い訳は、あの健康食品会社の社員と同じく若者信者も水越賀矢の褒め殺しに対して、本気で感動し、あるいは、反省しているのである。この関係性が生じている最中に、「君たちは、賀矢先生にマインドコントロールされているよ」とは、とても言えなかった。僕は、ひとまず撤退したという気持ちでいる。

そのため、僕は、年末年始はほとんど書斎にいたのだった。青年部の活動に参加していたら、逆に、ほとんどダムドール支部で過ごしていたと思う。本当は、青年部の様子を先生に報告するためにもダムドール支部に行かなければならないのだけれど、そういう訳で、僕は退避している。だから、牧多ともほとんど会わないし、こうやって今、バスに揺られているのであった。


僕は、家を出て以来、先生の好意で、家賃も光熱費も無しで書斎に住まわせてもらっているけれど、今から買いに行く食品などの生活費は貯金を切り崩して買っている。バイトで貯めたお金が減りつつある中で、僕は、これからのことを考えたが特に何も思い浮かばなかった。年が明けたからといって、一緒に現実が好転することなどないのだ。それならば、年を重ねるごとに世の中は良くなっていくはずではないか。でも、現実はむしろ、悪くなっていないか? 僕は真理を発見したと思ったが、誰でも知っていることだと思い直した。

その内、バスが駅前のバス停に止まったので、僕はバスを降りて、駅の近くにあるスーパーに向かって歩いた。

その時だった。

僕は、駅からスーパーに向かう道の真ん中で、トラブルになっている三人を見た。年配の男と若い男が口論になっていたのだが、若い男は青年部の男子信者だった。更に、青年部の女子信者が男子信者を止めていた。

僕は、三人のいる場所に向かって走った。

僕は、声を出さずに走った。いたずらに声を上げると、周辺の人まで気づく。まだ今は、ごく近くの人だけしか気づいていない。礼命会の名を汚してはいけないということではなくて、騒ぎが大きくならないようにと僕は配慮した。僕には、その時、それだけの冷静さがあった。


二.

駅からスーパーに向かう道の真ん中で、年配の男と青年部の男子信者が口論になっていた。男子信者を女子信者が止めている。近くに駆けつけて、改めて、はっきりと分かった。男子信者はV大学の石本信弥だった。女子信者はP大学の森野香々美だった。僕は、ペンダントを年配の男に売ろうとして喧嘩になったのだとすぐに分かった。

「石本君。落ち着いて。森野さん、どうしてこんなことに?」

僕が現れたことに、二人は、ひどく安堵したようだった。僕は、礼命会の先輩として彼らから過剰な信頼を寄せられている。相手の男は、僕を見ると、仲間が加勢に入ったと思ったのか、更に語気を強めた。というより、更にキレた。男は、地味な背広を着た普通の男だった。そんな風に怒鳴り声を上げるようには見えなかった。

「何で、こんなもんが、三千円もするんだって聞いてるんだよ? 原価と仕入れ値を教えろ。詐欺だ。今から、そこの交番に連れて行くからついて来い。三人とも、法の裁きを受けろ。若いからって世の中甘く見てんるじゃねえ!」

と、その男は、僕らに背を向けた状態で、我を忘れて激高し始めた。そのため、男は、僕たち三人の存在を忘れているのが分かった。

石本と森野香々美は、あまりの男の怒りの激しさに顔面蒼白になってその場に立ちすくんでいた。僕は、彼らに、そっと耳打ちした。

「今から三人が三方向にバラバラに逃げよう。そうすれば、混乱して追いかけて来られない」

二人は、僕の声を聞いて頷いた。少し顔に血の気が戻った。

そして、三人が一斉にバラバラの方向に逃げた。

男は、僕らが逃げてからも、しばらくそれに気づかず、怒鳴っていたが、背後に僕らの気配がないことに気づくと、

「どこに行った! お前ら、必ず、見つけ出して……」

そこまで叫んだが、周囲の目に気づき、それ以上、言うのをやめた。それから、その場を逃げるように立ち去った。

僕は、男がいなくなったのを確認してから、同じ場所に戻った。それから、しばらくして、二人も戻ってきた。男は必ず、自分が恥ずかしくなって逃げることが分かっていたので、二人にも、同じ場所に戻って来るように伝えてあったからだ。


それから、僕たち三人は、駅の近くのハンバーガーショップに入り、ホットコーヒーを飲みながら話をした。

二人は、僕の前に座った。僕はいつもと同じ紺のダウンジャケットに穿き古したジーンズ姿だった。それに対して、石本は、グレーのダウンベストを着て、その下は黒のタートルネックのセーターを着ていた。髪は短くて清潔感があった。彼のダウンベストは、高価なダウンベストだった。胸元にブランドのロゴがついていた。

隣に座る森野香々美も、高価なベージュのロングコートを着ていた。白のシンプルな丸首のセーターに髪は短く、石本と同じで、特別おしゃれをしているようには見えないけれど、実は、金がかかっているタイプだった。

僕は、二人を見ながら、青年部の信者は、二人と同じ感じであることを思い出した。みんな、生まれ落ちた時からの金持ちなのだ。だから、おしゃれをするのにも、余裕がある。間違っても成金趣味にはならない。

それから、僕は、思い切って、森野香々美に、実は、僕は、君と同じP大学の経済学部の同級生だと打ち明けた。

すると彼女は、

「知ってるわよ。だって、学舎でよく顔を合わせるじゃないの? でも、杉原君、最近、見かけないけど?」

と答えた。

僕は、彼女が正しいのだと思った。それほど生徒数の多くないP大学なのだから、同級生の顔は覚えていて当然なのだ。また、彼女のように他者に関心のある人間は、名前だって前から覚えている。僕は、これまで一生懸命隠していたつもりだった自分が恥ずかしくなった。

そこで、話題を変えようと、

「そういえば、石本君と森野さんは二人でペンダントを売り歩いているの?」

と尋ねた。

石本が答えた。

「去年のクリスマス過ぎだった。僕が、ペンダントを売り歩いていたら、森野さんが男にからまれていてね。それを助けたんだ。それで、森野さんにどうしたのか聞いたら、男に、ペンダントを買ってくれって頼んだら、買ってやる代わりに俺の車でドライブしようって男の車に連れて行かれそうになっていたんだ」

続けて、森野香々美が答えた。

「それで、私が、石本君に一緒にペンダント売りをして欲しいって頼んだの。女子学生の信者は、ある程度、セクハラのようなことを受ける危険は感じていたけど、まさか、連れ去られそうになるとは思っていなかった。だから、これは一人では危ないと思って」

僕はその話を聞いて、他の女子学生の信者も大丈夫だろうかと思って、そのことを聞いた。

すると、

「私から、残りの九人の女子にも連絡をして、できるだけ男子と組んで活動するようにしている」

と森野香々美が答えた。

僕は、知らない間に、青年部の信者同士で、連携が生まれていることを知った。また、そのことを知らない自分を再び恥じ、話題を変えたのはやぶ蛇だったかなと思った。

だから、僕は、今、質問すべき質問をしようと心がけた。

そして、まず、

「車で連れ去られそうになったり、さっきのような“キレる大人”のような男と喧嘩になったり、そんな人間ばかりに出会うの? だとしたら、そこまで苦労して肝心のペンダントは何個ぐらい売れたの?」

という質問をした。

二人の表情が急に暗くなった。

そして、石本と森野香々美が同時に、

「ペンダントは、まだ一つも売れていません」

と言った。

僕は、あんまり二人が落ち込んでいるので、

「売り始めて、一カ月と少しが過ぎたぐらいだ。売れてなくても仕方ないよ」

と二人を慰めた。すると、また二人同時に、

「ということは、もう残り、一カ月しかないということです。どう考えても、二十五個なんて売れません」

と言った。

僕は、答えようがなかった。確かに、その通りだった。

そして、気まずい沈黙が続いた後、石本が、ダウンベストのポケットから、例のダムドール支部神訓を取り出し、テーブルの上に置いた。


・礼命会ダムドール支部神訓

一 苦行から決して逃げるべからず。

二 苦行は生涯が苦行と思え。

三 大いなる苦行によってのみ大いなる楽土あらん。


二人は、この神訓に従って活動しなければならないと言いたいのだろう。全く売れないペンダントを残り一カ月も苦行と思って売るつもりだと。でも、僕は、そのことより、この神訓は、やはり、どう読んでも教義だということが気になった。礼命会の教えは、『ともに生き、ともに幸せになる』これ一つだ。だが、水越賀矢の神訓も、教義だ。つまり、彼女は、礼命会に入会したにもかかわらず、神がかり水越賀矢の教義を作り出している。だとすれば、ある鳥の巣の中に違う鳥が卵を産みつけるように、彼女は礼命会の巣の中に違う卵を産み落としているのではないか? そして、違う卵は、本来の卵より先にふ化して、ひな鳥は、すぐに本来の卵を巣の外に落とす。僕は、彼女が教団を乗っ取るつもりかと疑った。だが、判断材料が少ない。僕は、とにかく現状の把握だけに努めることにした。


三.

「それで、さっきの質問のもう一つの答えだけど?」

僕が、テーブルの上のダムドール支部神訓を見て考え込んでいると、石本の声がした。

「えっ? 何だった?」

と僕が言うと、

「さっきのキレる大人みたいな人間ばかりかっていう質問の答えだけど、イエスだよ」

と石本が言った。

「毎日、声をかけると、あんな人ばっかり。どうして、みんな、すぐ怒り出すのかしら? しかも、自分でも抑制が効かなくなる」

森野香々美が石本の答えを補足した。

僕は答えた。

「誰もがキレる時代だからね。不況、格差社会、その他に希望が見えないとか。とにかくそういう時代なんだろう」

「杉原君は、さっきみたいなことによく遭遇する?」

森野香々美が尋ねた。

僕は、バイト先のリサイクルショップでの話をした。リサイクルショップに来る客にも、キレる客はけっこういる。一番、多いのが買い取り価格を伝えたら、「そんな安値で売れるか!」と怒り出す客だ。こういう客には、不満ならば、他のリサイクルショップに行ってくれとすぐ帰ってもらう。変に話し合いをすると、怒ればもう少し値がつり上げられるかと、ごねられる危険性があるので取りつく島を与えない。次に多いのが、この前、買った家具に傷がついていたというもので、中古品だから当たり前なのだけれど、このことに激怒する客がいる。所謂、ブチ切れる客だ。こういうタイプはバイトでは対応できないので、店長が対応する。中古品なんだから、傷があって当たり前だという事実を最終的に認識させるまでに、相当時間がかかる。その間、客はずっとブチ切れている。店長は粘り強く説得しているが、心の中は、激しい徒労感に襲われているだろうと僕はいつも気の毒に思う。科学的根拠は分からないけど、キレる客は男のほうが圧倒的に多い。

こんな話を、二人にした。

「なるほど、それで、杉原君はさっきも的確な対応が取れたんだ。慣れているんだね」

石本が感心して言った。

森野香々美も、頷いた。

「僕は、アルバイトは家庭教師しかしないんだ。両親からそう言われていて。アルバイトをするために大学に行かせているわけじゃない。アルバイトをするなら、これまで学んできたことを活かせる家庭教師にしなさい。それも、あなたと一緒に次代を担うような優秀な高校生の家庭教師をしなさい。こう言われているから、杉原君のようなアルバイトはしたことがないんだ。だから、キレる大人なんて生まれて初めて遭遇したよ」

森野香々美も、

「私も家庭教師と進学塾の講師だけ。だから、ああいう大人に遭ったのは初めて」

と言った。

僕は、リサイクルショップのバイトは好きでやっているんじゃなくて、生活費の足しにするために仕方なくやっているんだと思った。だから、二人に感心されるのは、ちょっと違うなと思った。それにしても、二人は、世間との接点が少ないと思った。裕福な家庭、大学、家庭教師、進学塾、生活圏がこれだけしかないのだ。雑菌は極めて少ないけれど、それでいいのかなと思った。

僕が二人の顔を見ながら考えていると、

「でも、僕は頑張るよ。賀矢先生に言われたように、僕は世界一弱い若者だ。杉原君のようなタフさは全くない。このペンダント売りの修行を通して、自分を鍛える。そして、厳しい社会で通用する大人になる」

石本が言った。自分に言い聞かせていた。

森野香々美も、

「私も同じ。神訓にある通り、一.苦行から決して逃げるべからず。二.苦行は生涯が苦行と思え。三.大いなる苦行によってのみ大いなる楽土あらん。だから、逃げない」

と言った。彼女も自分に言い聞かせていた。


石本と森野香々美の顔は、やつれていた。頬がこけ、眼窩もくぼんでいた。石本も森野香々美も、美男美女だった。知らない人が見たら、お似合いのカップルだと思うだろう。でも、眼ばかり光っていて、全身から疲れが出ているのが僕には分かった。何故なら、僕にも昔、同じような経験があったからだ。

僕が中学生の頃だった。僕も、もう世の中のことを十分に理解できるようになっていた。その頃、僕の父は、転職を繰り返していた。今、考えると、精神状態が影響していたことが分かる。でも、その頃は、母も僕も、そこまでは分からなかった。次の職場なら続くだろうという家族の期待を裏切り転職を繰り返す父に、母も僕も失望していた。中学生だった僕は、とにかく僕が頑張らないといけないと思った。何を頑張ればいいのかは分からなかったけど、とにかく、学校に行って授業を受けて、休み時間は友だちと元気に遊んで、帰宅したらすぐに宿題をしていた。母はそんな僕を見て、「頼もしいわね」と喜んでいた。

でも、僕は無理をしていた。そうやって元気に振る舞う毎日の中で、僕は、瘦せ始めた。ちゃんと食べているんだけど、頬がこけ、眼窩がくぼんできた。そこで、中学生の僕なりに考えて、気づいた。僕は父のことでひどく落ち込んでいるのに、無理に明るく振る舞っているため、徐々に、気持ちと態度の間に乖離が生じてきたのだった。そして、落ち込んでいる気持ちに反して明るい態度を取る不自然さが、僕の健康を害し始めたのだと気づいた。僕は、そのことに気づいてから、無理をするのをやめた。気持ちの通り、暗い中学生になった。友だちはいなくなり、成績も下がったが、自分の気持ちに嘘をつかなくなって楽になった。そして、僕の頬は元通りふっくらとし、くぼんでいた眼窩も元に戻った。僕は、それ以来、今日まで、自分の気持ちに噓をつかないようにして生きてきた。だから、石本と森野香々美の気持ちがよく分かると同時に、危険な兆候だと思った。

水越賀矢の褒め殺しのような𠮟咤激励とペンダントを売り歩く先々でのトラブル。二人とも、辛いに決まっている。でも、それを前向きに捉えている不自然さが、二人の健康を害し始めている。あの時の僕と同じだ。

僕は言った。

「あんまり無理することないって。ペンダントだけど、他のみんなも、売れていないだろうし、賀矢先生だって、全部売りなさいって言ってるけど、実際には、それは無理だって分かっているって」

それに対して、石本は、むっとした表情で、

「賀矢先生が内心そう思ってくださっていても、社会に出た時に、それでは負け犬になる。僕は、僕自身、賀矢先生に指摘される前から、僕の弱さを知っていた。杉原君や牧多君のような強さが僕にも必要なんだ。僕は僕自身が必要だと思うから、この修行を続ける」

こう反論した。

僕は、それ以上、何も言わないことにした。感情的になっている彼には、今、何を言っても、無駄だからだった。本当は、僕には、もっと言いたいことがあった。それは、二人が大事にしているダムドール支部神訓は、礼命会の教えではないということだった。でも、今の石本の様子を見て、それを僕がここで言っても、信じてもらえないだろうと思った。それと、ここで言うには、問題が大きすぎると思った。先生に相談すべきことだ。だから、僕は言わないことにした。

そして、その代わりに、

「外は寒いから、修行で無理をしないように。それと、何かあったら、僕に連絡をしてくれ。今日のようなことが、またあったら大変だから」

と二人に優しい言葉をかけると、僕の連絡先を二人に教えて僕は彼らと別れた。

二人は、僕の対応に感動していた。

入会して、こんなに優しくしてもらったのは初めてだと、二人とも涙ぐんだ。

僕は特別優しくはない。僕は、二人が、僕のあの程度の優しさに涙ぐんでしまうほど、過酷な状況に追い込まれているのは、水越賀矢が意図的にそう仕向けているからだと思った。

ハンバーガーショップの前で二人と別れ、雪がちらつき始めた街を歩きながら、

「水越賀矢の目的は何だろう?」

と僕は呟いた。

水越賀矢の本当の目的が分からない。パンクファッション専門店として順調な経営をしていた彼女が、店を閉めてまで、始めたのが教団支部である。ペンダント五百個を全て売らせて、その金を持ち逃げするようなことはない。割が合わなさすぎる。もっと、違う目的があるはずだ。それも、危険性のある目的が。青年部の活動を知った上で、そこに安全性を感じる人はいないだろう。僕は、ダウンジャケットのポケットから、スマートフォンを取り出した。そして、先生に電話をかけた。だが、先生の電話は電源が切られていた。先生は、礼命会出張サービスの最中には電源を切っている。諦めて、本来の目的であったスーパーに寄って買い物をした。そして、今頃になって、若者信者二十人のことが、本当に心配になりだした。僕は、自分が避けていた分、今になって、取り返しのつかないことになっていたらどうしようかと焦っているのだと、自己保身的な心の作用を恥じた。


四.

次の日、僕は礼命会ダムドール支部に向かった。昨日、書斎に帰って冷蔵庫に生鮮食品を入れた後、僕は、若者信者のことを考えた。そして、一旦、彼らがどうなっているか心配になってしまったら、実際に、見に行くしかないと思った。彼らが取り返しのつかないことになっていたら、どうしようかと焦る気持ちが、彼らを思うからであれ、自己保身的なものであれ、こういう状態になったら、じっとしていられないのが人間であり、行動に移すしか解決法はないと僕は思った。


昨日も牧多からメールが届いた。集会の案内だった。今日の三時から開始だとメールにあった。僕は、バスに乗って商店街に向かった。バスの中で、昨日、出会った石本と森野香々美のことを考えた。二人は今日の集会にも出席するはずだ。大学は、まだ冬休みだけれど、もうすぐ授業が始まる。彼らはちゃんと大学に行くのだろうか? 他の若者信者も同様に大学に行くのだろうか? 僕自身が、ずっと大学に行っていないにもかかわらず、僕は彼らのことが気になった。何故だろう。おそらく深刻さが違うからだ。僕は、色々自分の中では理由があっても、要するに、行きたくないから行っていないだけだ。でも、彼らの場合、水越賀矢の支配下にあり、ペンダントを売るため、大学に行く時間も惜しいと休んでいる可能性が大きい。これは僕よりはるかに深刻だ。僕は、何故、今日、自分が支部に行こうと決めたかの理由がバスに乗ってから分かった。人は行動してから、その意味が分かることがある。今が、それだと僕は思った。


バスを降りた後、僕は、商店街を少し入った場所からダムドール支部を見ていた。支部の入り口を見ていると、人が出たり入ったりしている。皆、青年部の信者だった。閑散とした商店街の一カ所だけ、人の出入りが頻繁にあると目立つ。目立つだけならいいが、何故か、不審者が頻繫に出入りしているように見える。理由は信者同士が会話をしていないからだと思った。離れた場所から見ていていも、皆が無言で出入りしているのが分かる。率直な感想として、不気味に思えた。

ダムドール支部になる前、つまり、まだ、パンクファッション専門店の『ダムドール』だった時に、僕は、牧多の車に乗せられて初めてここに来た。わずか半年前のことだ。今、若い信者が出たり入ったりしているダムドール支部を見て、その様変わりに驚いた。商店街の人たちはどう思っているのだろう? 当初、商店街の店主たちは、礼命会だから安心だと言っていた。でも、今の不審な雰囲気のダムドール支部を受け入れているとは、僕には思えなかった。そんなことを考えているうちに三時になった。僕は、ダムドール支部に向かった。


支部に入ると、以前は整然と並べられていたパイプ椅子が無くなっていた。演台もなかった。握り手様の絵は、あるにはあったが、隅に追いやられていた。信者は皆、車座になってコンクリートの床に直接座っていた。その中心に水越賀矢がいた。牧多は、部屋の隅に立っていた。工事現場で着るような分厚い黒色の防寒着を着ていた。珍しく坊主頭が伸びていた。それだけ忙しいのだろうと僕は思った。僕を見るとパイプ椅子を一つ用意して僕のところに持って来た。

「ありがとう。みんなは、冷えるんじゃないか?」

僕は牧多に礼を言ってから、直接床に座っている信者のことを尋ねた。

「大丈夫だよ。お前が来なくなってから、ずっとこのスタイルでやってるから」

牧多は関心のない様子で言った。

「誰の提案?」

「誰だったかな? G大学の男子信者かな。もっと賀矢先生と語り合うために椅子を取っ払おうって。さすが、頭のいい奴は、いいアイデアを出すよ」

牧多はその話は嬉しそうにした。そして、すぐに元の場所に戻った。あの場所は、彼にとってはボディーガード的なポジションなのだ。

新年の集会以来、牧多に会っていなかったが、彼は特に変わっていないことに僕は安心した。牧多は水越賀矢に深く傾倒している割には、彼自身の人格にはその影響が認められない。やはり、水越賀矢が言うように彼がタフだからかだろうか?


そんなことを考えていると水越賀矢が信者たちに語り始めた。

彼女の服装もいつもと違った。黒のライダースジャケットに中も黒のセーター。下は黒のジーンズに同色のショートブーツを履いていて、黒一色だった。更に、彼女は、サングラスまでかけていた。レンズが真っ黒なサングラスだったので、僕は、この薄暗い部屋で、あのサングラスをかけると前が見えないのではないかと思った。ただ、彼女の今日の服装には、よく似合っていた。だから、彼女が視覚的な効果を意識してサングラスをかけていることが分かった。

「礼命会ダムドール支部信者の皆さん。ペンダントの売り上げは、未だにゼロです。あなた達は、本当に一生懸命にペンダントを売っていますか? 神様は、売り上げを児童養護施設にいる子ども達に寄付してあげたいと願っています。お父さん、お母さんのいない子どももいれば、複雑な事情があってお父さん、お母さんとは一緒に暮らせず、施設で生活している子どももいます。あなた達と違って、我慢することばかり。学校では施設の子どもだということで、いじめられる子もいるでしょう。何故、僕は、何故、私は、他のクラスメイトと同じようにお父さん、お母さんと一緒に暮らせないんだ? 毎日、そんな悩みを抱えながら施設で暮らす子ども達のために、贅沢に生まれ育ったあなた達ができることは、ペンダントを売って、その売り上げを、少しでも彼らの生活の助けになるように寄付することです。それが、金持ちの子女に生まれ、貧しい人々の幸せを吸い上げて、ぬくぬく暮らすあなた達、若者富裕層信者がなすべき贖罪なのです」

水越賀矢の言葉に皆、沈黙するだけだった。

僕は、彼女は若者富裕層信者の痛いところを上手く突いていると思った。若者富裕層信者が抱いている「罪業感」を彼女は見事に突いている。

そう僕が思っていた時、信者の中から、

「でも、必死で売っているんです。それでも、ペンダントは売れないんです」

という声がした。

聞き覚えのある声に、僕は、それが石本信弥だとすぐに分かった。

彼は、水越賀矢の真正面に座っていた。隣には森野香々美が座っていた。

背の高い水越賀矢は、床に直接座っている目の前の二人を見降ろしながら、

「牧多氏子。私に例の資料を下さい」

と言った。

牧多は、事務机の上から数枚の紙を手に取ると、水越賀矢のところに静かに歩み寄り、彼女に渡した。そして、また元の位置に素早く戻った。

「石本氏子は森野氏子と二人でペンダトを売り歩いています。それは、女性である森野氏子を様々な危険から守るためです。そして、他の氏子も、同様の理由で、男女一組になってペンダントを売り歩いています。これは、氏子の自主的な判断として尊重されるべきと私は考えています。大変けっこうなことだと思います」

水越賀矢は、牧多からもらった資料を見ながら、突然、そう言いだした。

真っ黒なサングラスのため、彼女の表情が読み取れなかった。だから、今、彼女がどういう気持ちでいるのか分からなかった。

石本も同様に、

「賀矢先生。突然、そのお話をされるのは、何故でしょうか? 僕はどうしてもペンダントが売れないことを訴えているのですが?」

と水越賀矢の意図が分からず、恐る恐る尋ねた。

水越賀矢は、「これだ」と、資料の一点を右手の人差し指でさした。

そして、資料を読み上げ始めた。

「一月四日。午後六時十分。場所は、冬休み期間中のV大学の時計台前のベンチ。石本信弥氏子と森野香々美氏子は、熱い接吻を交わした。暗闇のため、人目につかないこともあってか、寒い中にもかかわらず、約十分間、そのままの状態であった」

森野香々美が、悲鳴を上げた。

他の信者は、驚きの声を上げた。中には、笑っている声もあった。

「賀矢先生。それは何ですか? 僕たちの行動を監視してるんですか?」

と石本は、猛烈に抗議した。

水越賀矢は、笑った。目元はサングラスで見えないが、口元がニヤリとした。

「正月早々、お熱いこと。恋愛は大いにすべきです。人を好きになることは素晴らしいこと。だから、非難しているわけじゃない。ただね、神様は信じていることを忘れないで。よもや、あなた達のようなエリート信者が、恋にうつつを抜かして、ペンダント売りを疎かにするはずがないって。神様はそう信じている。どう? 石本氏子、森野氏子?」

彼女の問いに、森野香々美は泣き出してしまった。

石本は、

「すみません。気が緩んでいました。頑張ります」

と暗い声で呟いた。

水越賀矢は、ニヤリとした口元を見せ頷いた。

僕は、牧多を見た。

今、無表情で支部の隅に立つ彼が、石本と森野香々美の行動を監視したのだ。そして、先ほどの件を水越賀矢に報告した。牧多は、水越賀矢の秘書兼ボディーガードに加えて、諜報係なのだと僕は思った。

僕は、一見、以前と変わらず、僕に接する牧多は、実は、彼女のためには何でもするというところまで傾倒しているのではないかと思った。そう考えると、以前と変わらない彼の態度は、意図的に演じられたものなのかもしれないと思った。僕は、今の瞬間まで、牧多に心を許し何でも話してきたことを思い、ぞっとした。もしかして、それも、全て水越賀矢に報告されているかもしれないと思ったからだった。


五.

石本信弥と森野香々美は、水越賀矢に行動を監視されていた。そして、それを、皆の前で暴露された。実際に、行動を監視しているのは牧多だ。彼は水越賀矢の諜報係だ。僕は、礼命会ダムドール支部とは、礼命会の支部ではない。それどころか、宗教団体ですらない。もし、宗教に該当するなら、それはカルトではないのかと思った。水越賀矢のやっていることは私刑ではないのか? 僕は様々な疑問が頭に浮かんだが、それを言葉にして出す勇気はなかった。


「笑っている人。笑っている場合ではありません。次は、これです」

水越賀矢は、再び、資料の一点を指さした。

信者は、皆、はっとした表情になった。

「G大学の大邨哲也氏子とJ大学の二上利香氏子。一月二日。XY神社に初詣に行った帰り、そのまま二人はどこかへ姿を消した。どこへ消えたのでしょう?」

水越賀矢は大邨哲也と二上利香のほうを見た。

二人も並んで座っていた。

「どこだっていいじゃないですか! 何故、そんなことまで賀矢先生に干渉されなければならないんですか? 映画ですよ。初詣の後は映画を見に行ったんだ」

大邨哲也は、反論した。

「そうです。どこへ行こうとかまいません。たとえ、それが映画館であっても、遊園地であっても、そして、人に言えないような場所であっても、かまいません。問題は、あなた達二人が、礼命会ダムドール支部の信者にもかかわらず、XY神社に詣でたことです。これは、二重信仰です。礼命会ダムドール支部信者として許されるものではありません」

水越賀矢の言葉に、大邨哲也も二上利香も、あ然とした。

「だったら、最初から、あなた達のしたことは二重信仰になるって言えばいいじゃないですか?」

「かまをかけられたみたいだ。入会する時にも、二重信仰の話なんて聞いていない」

二上利香と大邨哲也は水越賀矢を批判した。

僕も、「二重信仰を否定するものではない」ということを、青沢礼命が水越賀矢に直接話していたことを覚えている。水越賀矢が青沢礼命に初めて会って、礼命会に入会したいと話した時のことだ。礼命会開祖の青沢礼命が二重信仰を否定しないのに、彼女は二重信仰を否定している。やはり、ダムドール支部は、礼命会ではないということではないのか? 僕がそんなことを考えていると、突然、水越賀矢が、僕を見て、

「杉原氏子。気づいたでしょう? 彼らが今、座っている並び方を見て」

と言った。

僕は、内心気づいていた。けれど、何故、それを僕に言わせるのだと思いながら、問われたのでやむを得ず、

「男女一組ずつの形になっています。おそらく、ペンダント売りの修行で、コンビを組んでいる人同士が並んでいるのだと思います」

と答えた。すると更に、

「コンビ? コンビでいいかしら?」

と彼女が尋ねるので、

「カップルだと思います」

と僕は仕方なく答えた。

その答えを聞くと、水越賀矢は、

「そうです。さすが、杉原氏子。青沢礼命先生に直々に入信を勧められた若者。ここにいる富裕層若者信者とは違う。信仰に一心に打ち込み、恋愛に惑わされることもなく、神の道を追求する杉原氏子には全てがお見通しです。皆さん。同じ若者として、この差をどう捉えますか?」

と信者たちに問うた。

僕は、青沢礼命もいい加減なことを言う時があるけれど、水越賀矢も、相当にいい加減なことを言うと呆れた。僕は、信仰に打ち込んではいない。恋愛も、恋愛以前に、生きることにすら無気力な僕が、到底、恋愛などできるはずがないだけだ。僕は水越賀矢が言うようなストイックな人間ではない。


水越賀矢の問いかけに対して、V大学法学部二年の河岸君江が答えた。

「杉原氏子には、杉原氏子の信仰があり、私たちには私たち一人一人の信仰の仕方があると思います。杉原氏子のようにストイックな信仰をするには、私は、まだ信仰が浅すぎます。いつか、そうなりたいと思いますが、今は、まだ無理です。そして、他の若者信者も同じだと思います」

彼女の答えを聞いて、僕は、その通りだと思った。僕がストイックな信仰をしているというのは、全くの嘘なのだけれど、仮に僕がそういう信仰をしていたとしても、河岸君江の答えに賛同すると思った。水越賀矢は、全てにおいて性急すぎる、僕はそう思った。

それに対して、水越賀矢は、また資料に目をやり、

「十二月二十九日夜。河岸氏子が、毎日のペンダント売りのため疲れて風邪を引いて自宅で寝込んでいる間、J大学法学部四年の平塚秀尚氏子は大学の友人数名と合コンに参加しました。相手はS女子大の女子学生です」

と答えた。

河岸君江の顔は、真っ赤になり、

「先生。どうか私の答えに対して、意見を述べてください。今、そんなことどうでもいいじゃないですか? でも、平塚君。本当なの?」

と取り乱してしまった。

彼女の隣に座っている平塚秀尚は黙ってうつむいていた。


僕は、水越賀矢が、牧多に命令して信者二十人を監視させ、集めた情報を使う目的は、こうやって自分に都合の悪い意見を言う人間を黙らせるためのものだと分かった。屈服させる、服従させるため。確かに、一時は、黙るだろう。でも、誰も彼女にはついて来ない。水越賀矢は、宗教家としてやっていくのは不可能だと思った。あまりにもタチが悪いからだ。二十人の信者のことも心配しなくても、皆、水越賀矢の本質を見て、幻滅しただろうから、支部は消滅するだけだ。支部が消えるのだから、もう案じることはない。だから、帰ろう。僕が、そう思った時だった。


水越賀矢が、二十人の若者信者に向かってこう言い放った。

「要は、本気で生きているかどうかなの。あなた達、全てが甘いのよ。いつも最後は誰かが助けてくれる。いつも最後は何となく許される。世界は何となく動いている。この国も誰かが何とかしてくれる。その考えがこの国をダメにしたのよ! あなた達。そのことには十分に気づいているでしょ? だったら、これからこの国を背負うあなた達が、本気にならなくてどうするの? あなた達が本気を出さなければ、児童養護施設の子ども達だけじゃない。この国の全ての子ども達が、貧困児童になる。食べるものも、まともにない。教育もまともに受けられない。もう今、そうなりかかっているじゃない。立ち上がれ。飼い馴らされた子羊たち。野生の狼になれ!」

サングラスを外し、眼をむいて彼女は叫んだ。

支部の中に彼女のしわがれた声が大きく広がった。彼女は手にした資料を放り投げた。紙が舞った。そして、紙がパラパラと床に落ちた。

先ほどまで、彼女に恐怖と敵意を抱いていた信者たちが、その叫びを聞くと、立ち上がって、眼に涙を浮かべて水越賀矢に握手を求めた。

「賀矢先生。僕たちにそのことを伝えるために、あえて、売れるはずのないペンダント売りの修行をさせたんですね」

「賀矢先生。私たちは、甘いって十分に認識しています。でも、逃げてしまいます。恋愛も逃避でした」

「この国を背負う。今、その覚悟ができました」


二十人の信者に囲まれながら、水越賀矢は、

「みんな、分かってくれて、ありがとう」と言った。それから、高らかに「一.苦行から決して逃げるべからず。二.苦行は生涯が苦行と思え。三.大いなる苦行によってのみ大いなる楽土あらん」

と礼命会ダムドーム神訓をそらんじた。

それを聞いた信者は皆、

「はい。野生の狼になるために。この国を背負うために。頑張ります!」

と言った。


その光景を見ていて、僕は、水越賀矢は宗教家としてやっていくのは不可能だという先ほどの見解を訂正した。彼女のやり方が、タチが悪いことは訂正しない。ただ、少なくとも、明確な目的があって、そのために、あらゆる方法を駆使していることが分かった。他者を屈服させて満足しているような次元の低いものではなく、彼女にはもっと大きな目的があるのだ。ただ、それが、国を背負う若者作りであるとは、僕は、額面通りには受け止めない。何故なら、僕は、二十人の若者信者のようにナイーブではないからだ。

彼女の最終的な目的は何だろう?

僕は、若者信者に囲まれて、珍しく笑顔を見せる彼女を眺めながら考えていた。


六.

一月の冬休み明けの学年末テストも僕は受けなかった。留年が、ほぼ確定した。僕は、大学を辞めようかと考えながら、街を歩いていた。支部の集会から、約一カ月が過ぎた。二月も中頃に入っていた。この冬は特別に寒い。僕は、いつも着ているダウンジャケットとマフラーに加えて、黒いニット帽を被っていた。僕は、いつものバス停でバスを降りて、ダムドール支部に向かっていた。昼過ぎだった。この前の集会の水越賀矢を見て、また彼女のことが分からなくなった。基本的には、ネガティブに捉えている。ただ、特筆すべき才能があることも事実だ。だから、彼女への最終的な評価は保留になっている。この前の集会で、僕がショックを受けたのは、牧多が、水越賀矢の諜報係として、若者信者の行動を監視していることだった。僕は、想像以上に、そのことに傷ついている。また、牧多への不信感も強い。でも、考えてみると、これだけ、深く傷つき、不信感を抱くのは、それだけ、牧多を友人として信頼していたからだと僕は気づいた。僕にしても、牧多にしても、礼命会の若者信者として、先生に紹介されて出会った。だから、厳密には、友人ではなく信者仲間かもしれない。僕も、そう認識していた。けれども、先日のことがあって、逆に、僕は、牧多を友人として認識していると知った。僕は、自分が考えていた以上に、牧多を友人として、信頼し、また、頼りにしていたことを知ったのだ。今日、支部に向かうのは、もう一度、牧多と話をして、彼への信頼を取り戻せないか試みるためだった。できれば、牧多に諜報係をやめるように説得をする。それも考えている。人間関係に非積極的な僕が、こんなことを考えながら、頬を切るような冷たい風が吹く街を歩いている。まがりなりにも、教会の書斎で寝起きしている日々が、僕に、人としてあるべき良い影響を与えているのだろうか?


それから、僕は、先生のことを考えた。いつ電話をしても、先生が電話の電源を切っているのは、礼命会出張サービスの利用信者が増えてきたからだった。電話が繋がらないので、集会が終わってから、直接、先生に青年部のことを相談しようと僕は思った。そして、この前、本部の集会が終わってから、先生に声をかけた。その時、いつ電話しても電源が切られているので、今、直接、話をしたいのだと先生に話すと、先生は、出張サービスの利用信者が増えてきたことを説明した。

「君だから、本当のことを言うけど、礼命会の高齢化で、教会の集会に来る信者の数が減っている。つまり、その際にもらう寄付の額も減っている。そこで、苦肉の策として、信者の自宅を回って説教をすることにした。このアイデアは我ながら、グッドアイデアだった」

信者が皆、帰った後の教会は、広くて寒かった。いつも一人の信者が気を使って集会の帰り際に、暖房のスイッチを切って行く。だから、僕たちが話している間に教会の温度は、みるみる下がっていった。

先生は、教会を見渡しながら言った。

「この寒さが、状況を変えたんだ。冬になって、今まで教会に来ていた信者も、外に出るのが億劫になったらしくて、みんなが、自宅に来てくれって言うようになってね」

それから、先生は、ほとんど毎日、信者の家を回っているのだと言った。

それに対して、僕は、

「礼命会出張サービスですね」

と言った。

「グッドネーミングだって言いたいところだけど、複雑な心境だ」

そう言って、先生は皮肉っぽく笑うと、その場を去ろうとした。

僕は慌てて、

「先生! 僕の話は出張サービスのことじゃないんです。僕の話は、青年部のことなんです」

と先生の後ろ姿に声をかけた。

先生は振り返り、

「青年部のことは全て君に任せるよ。よろしく頼む。僕は忙しい」

とだけ言い残し、急いでその場を走り去った。

前に、先生は、支部のことで気づくことがあったら、自分に連絡してくれと僕に頼んだではないかと思った。だが、今の先生は、出張サービスにより寄付を回収することで頭がいっぱいなのだ。落ち着きのない様子から分かった。先生は良い人の部類に入るとは思う。でも、拝金主義的な傾向が強いところは良くないと、走り去る先生の後ろ姿を見ながら僕は思った。


先生のことを考えているうちに、僕は、ダムドール支部のある商店街の入り口に着いた。支部を見ると、珍しく信者の出入りがなかった。牧多と話をするにはちょうどいい。僕は、支部に向かった。水越賀矢が支部にいても、信者がいないなら、彼女も、以前のままだろうと思った。彼女は、本質的には理性的な女性だからだ。僕は、水越賀矢の信者の前での振る舞いは、多分にパフォーマンスであると思っている。だから、諜報係に関する話だけしないようにすればいいと思った。

支部の引き戸を開けると、牧多が、事務机に向かっていた。水越賀矢はいなかった。信者も一人もいなかった。

牧多は、メモ帳を見ながら、それをノートパソコンに入力していた。

彼のキーボードのタッチは正確で、僕は、牧多は何でもできると思った。彼は器用なのだ。ただ、残念なのは、彼の器用さは、彼を健全な方向に導いていないことだと思った。ニコイチ、コーディネイト料、諜報係……。器用貧乏というのとも違う。何と言えばいいのだろうと僕は複雑な思いで彼を見ていた。

すると、「入力完了」と僕を見て牧多が言った。

そして、彼は入力したデータをプリントアウトした。

僕は事務机のところまで行った。そして、彼が印刷した紙をまとめている姿を見ながら、以前と変わらないと思った。自分の知らない牧多の暗い面を知った衝撃は、今の僕にはなかった。おそらく、一カ月という時間の流れが、解決してくれたのだろう。目の前の牧多は僕の知っている牧多だった。

そこで、

「キーボードのタッチが上手いな」

と僕は牧多に言った。

「これぐらい簡単だよ。半日で完璧にできるようになった」

牧多はそう答えた。やはり、いつも通りの牧多だった。

僕は安心した。そして、

「今日は、賀矢先生はいないんだ?」

と尋ねた。

「知らないんだよ。プライベートには干渉しないから」

と牧多は言った。

僕は、これもいつも通りの牧多だと思った。深く傾倒しているはずの水越賀矢であっても、あっさりプライベートには干渉しないと言える冷静さ。年齢は離れているけれど、水越賀矢は女であり、牧多は男だ。たとえ恋愛感情ではなくても、それに近い感情を抱いても不思議ではない。だが、牧多は、そういう人物ではない。僕は、彼が諜報活動をしているところを想像した。私情を挟まず、黙々と信者たちを追跡する彼の姿が浮かんだ。僕は、諜報係をやめさせる説得をするのは、今日は、諦めようと思った。

僕の様子も気にせず、

「杉原。見てみろよ」

と牧多は言って印刷した資料を僕に渡した。A4用紙で十枚あった。

僕は、読んですぐ、諜報活動の記録だと分かった。読んでいいものかどうか困っていると、牧多は、立ち上がって、すぐ、自分の手に取り戻し、

「面白いんだぜ」

と言った。

今日の牧多は、黒の防寒着ではなく、いつものバイカーズジャケットだった。この前伸びていた坊主頭もきれいに刈られていて、そこからも、いつもの牧多であることを僕は実感した。

僕たちは、支部の真ん中にある石油ストーブの近くにパイプ椅子を置いて座った。牧多は、資料を目で追っていた。そして、「これがいい」と言って、資料の一カ所を読み始めた。

「一月二十三日。藤野道江、奥沢賢二組。橋の上で、金を持っていそうな年配の夫婦に無理にペンダントを売ろうとして、ペンダントの入った袋ごと川に放り投げられる。その後、二人で川に入ってペンダントの入った袋を探す」

そう読み上げると、

「一月の川は冷たかったみたいだぜ。途中で、奥沢が気絶しそうになって、藤野に抱えられていたから。だらしない男だぜ」

と自分の感想を加えて、笑った。

僕は、悲惨な話だと思った。それと、藤野、奥沢の二人が気の毒だと思った。

「次はこれだな。かの有名な石本、森野香々美組だ。また、トラブってたよ。犬の散歩中の老婦人にペンダントを買ってもらおうと、石本が近づいた途端、石本、突然、犬に噛まれる。老婦人曰く、普段は大人しい犬で、こんなことは初めてだと詫びる。ちなみに、犬は、ボストンテリアで名前はマルちゃん」

そう牧多は読み上げると、また、牧多は笑った。今度は爆笑した。

僕も石本と森野香々美のことは割と知っているだけに、何となく滑稽に思えたが、爆笑はしなかった。

まだ、牧多は笑っていた。笑いすぎて目に涙を浮かべていた。

僕は、その牧多を呆れて見ていたが、大事なことに気づいた。

これが、牧多なのだ。彼は、離人感が強いため、自分の不幸も笑うし、他人の不幸も笑う。良くも悪くもそこに悪意はない。だから、諜報活動についても何の罪の意識もないのだ。彼には申し訳ないが、人としての大事な何かが欠けているのだった。

牧多が信者を追跡していることに、陰湿さはない。それは、父親が死んで大喜びした時と同じで、彼はそういうパーソナリティなのだ。僕は、楽になった。友情に変わりはない。要は、僕がどれだけ彼の解離性を許容できるかなのだ。ただ、限度はある。犯罪性が著しい場合は、僕は一市民として、警察に通報する。でも、それは無いと思う。石本が犬に噛まれたぐらいで涙を浮かべて爆笑するのが牧多である。少し変わっているけれど、概ね普通の青年だ。僕は、ほっとした。これなら、一カ月も悩んでいないで、すぐに牧多に会えば良かったと思った。そして、それからも、牧多が読み上げる信者の記録を石油ストーブの前で、僕は聞いたのだった。


七.

僕の一方的な問題だったのだけれど、それでも、牧多との友情の復活に僕は安堵した。そして、石油ストーブの前で、僕は、牧多が資料を読み上げるのを聞いていた。ただ、読み上げられている資料は、あくまでも諜報活動の記録だ。どれだけ、リラックスした気持ちで聞いても、内容の不穏さに変わりはなかった。

「キレられた」「胸ぐらをつかまれた」「追いかけられた」「警察に通報されそうになった」

こんな言葉ばかりだった。

世の中のかなりの人が、常に苛立ちを抱えている。僕は牧多が読み上げる記録を聞きながらそう思った。

ひと通り、記録を読み終えた牧多が、僕とは少し違う角度の意見を述べた。


「石本信弥、森野香々美組。大邨哲也、二上利香組。平塚秀尚、河岸君江組。城戸順次、小沼治美組。村口周治、井坂見代組。多河俊作、野崎晴香組。村端謙一、由川千枝組。奥沢賢二、藤野道江組。古林達也、杉川美華組。宮村静二、細田須美組。これ全部が、コンビじゃなくてカップル。恋人同士。ていうより、恋人同士になるように仕向けられた。ペンダント売りを通じて。そう思うだろ?」

「確かに、そうだな」

僕も、同意見だった。

「ということは、遡って、信者の勧誘の段階から、男女同数の十対十になるように賀矢先生は勧誘した。あるいは、神命がそうさせた。だとしたら、目的があるだろ? 何だと思う?」

「確かに、賀矢先生が勧誘のスケジュール表を見せた時には、信者二十人だということは分かったけど、男女比までは分からなかった。でも、実際には、男女十人ずつの同数で、しかも、全員が恋人同士になった。最初から、そうするように決まっていたとしか思えない。それは僕もそう思う。ただ、目的って聞かれると何だろう? ペンダント売りのため? でも、ペンダント売りを恋人同士でやってるけど、何の効果もない。それどころか、悲惨な結果だ」

僕も疑問に思っていたことを率直に話した。

「そうなんだよ。惨憺たる結果なんだよな。これが、恋人同士になってから、急激にペンダントが売れるようになったのなら、分かるんだけど、ずっと超低空飛行のままだから、俺も不思議に思ってさ。ただ、賀矢先生のことだから、もっと深い目的があるんだとは思うけど」

その言葉から、水越賀矢に傾倒している彼でさえ、毎日、若者信者を追跡して、実際に、惨憺たる結果を目の当たりにしているだけに、さすがに、疑問が湧いたのだろうと僕は思った。

だから、僕はさりげなく、

「何事も適度な距離を置いたほうが、良好な関係が維持できると思う。だから、牧多も、あまり入れ込まないほうが、かえって、色んなことが見えてくると思う」

と水越賀矢と青年部に深入りしすぎるなと忠告した。

それを聞いた牧多は、

「俺は別に何にも入れ込んではいないんだ。ただ、毎日、同じことの繰り返しで、飽きてきただけさ。誰か、いっぺんにドーンとペンダントを売り切るとか、そんな場面を見てみたいだけなんだ。俺は何よりも退屈が嫌いなんだ」

と眠そうな顔をして言った。僕の忠告が退屈だという意味だろう。

僕は、それ以上何も言わなかった。言えば、牧多がよけいに不快に思うだけで、逆効果だと思ったからだ。


牧多との友情を再確認できた。実際には、友情というより、牧多は前から、ああいうパーソナリティだと再確認しただけだったけど、それでも安心した。諜報係をやめさせる説得は、今日は諦めた。それでも、十分収穫のあった時間だった。だから、僕は満足して支部を後にした。

ただ、支部を出てから気づいた。僕には、することがなかった。牧多のように青年部の仕事は手伝っていない。書斎に帰っても、特にすることはない。先生の本棚には、難しい専門書ばかりで、暇つぶしに読めるような小説はない。時計を見ると、まだ三時だった。僕はしばらく迷ってから、P大学行きのバスに乗った。僕はP大学が懐かしくなったわけではなかった。大学を辞めるかもしれないから、その前に、きちんと見ておこうと思ったのだ。最後に、僕がP大学を訪れたのは、昨年の十二月一日、信者勧誘の最後の日だった。森野香々美を水越賀矢と牧多が勧誘した時のことだけど、僕は、東門の辺りから三人の様子を覗いていただけで、構内にすら入らなかった。最後に構内に入ったのはいつだっただろうか? 僕は、そんなことを考えて、P大学に行くことにした。それと、気になっていることもあった。両親のことだ。学期末試験を受けず留年が、ほぼ確定した時だった。僕は、何故、両親が、スマートフォンに着信履歴しか残さず、直接、僕を探さないのか意味が分かったような気がした。P大学の学費は両親が出してくれている。学生生活にかかる諸々のお金は、バイトをして僕が自分で出している。自宅から通学しているからこれで何とかなっている。学生ローンと批判されている奨学金も借りずに済んでいる。でも、両親の負担が大きいのは事実だ。僕が大学に行かなくなって、父と母はこう思ったのではないか? 『我々が大学に進学するよう強く勧めたけれど、もしも、お前が、それほど大学に魅力を感じていないのなら、辞めることには反対しない』。僕は、両親が、スマートフォンに着信履歴だけ残して、探さないようにしているのは、こういうことなのではないかと思った。つまり、直接会って話をした場合に、僕が大学を辞めると言うと、学歴で苦労している両親としては、僕の中退を認めるとは言えないと思うのだ。でも、本音は、家計も苦しいし、僕が大学に行く気がないなら、自分で決めて辞めて欲しい。こう思っていると僕は気づいた。暗に辞めろと勧めているわけではない。ただ、暗に辞めてもいいと伝えているのだと僕は思ったのだ。だから、僕は、改めて、P大学に行ってみようと思った。大学を辞める決断をするかもしれないのに、肝心の大学の姿すら忘れかけているようでは、さすがに良くないと思ったのだ。


バスは、支部から三十分もかからず、P大学に到着した。P大学は大きくない大学なので、街中にある。だから、支部ともそれほど離れていない。これが、V大学だとマンモス大学なので、山を切り拓いたところにあり、市街地から離れている。僕はバスを降りて、東門に向かった。途中、牧多が言った水越賀矢のプライベートには干渉しないという言葉が思い出された。あの間、彼女はどこに外出していたのだろう? 昼飯でも食べに行っていたのだろうか? だとすれば、チェスターコートであれライダースジャケットであれ、それらを着た水越賀矢が定食屋には入れないと僕は思った。目立ち過ぎる。僕が、定食屋でアジのフライ定食を食べていた場合、風景の一部として溶け込むほど似つかわしいだろう。彼女にしても、服屋の『ダムドール』を閉店した頃は、今と同じようなファッションだったが、特に周囲から浮いていなかったことを僕は思い出した。要は、服装の問題ではなく、宗教家水越賀矢になってから、彼女のカリスマ性が強くなってきたということなのだ。同じ宗教家青沢礼命には、彼女のようなカリスマ性はない。比較して、優劣をつける問題ではないが、当然、信者への求心力は、水越賀矢のほうが強い。僕はそんなことを考えながら、東門から構内に入った。


八.

一月末に試験が終わると、大学はそのまま春休みに入った。だから、構内を歩く学生の姿はまばらだった。僕は、経済学舎の入り口前のベンチに座った。勧誘の時、水越賀矢と牧多が並んで座っていたベンチだ。あの時は、東門からこのベンチを遠目に見ることしかできなかった。でも、今は春休みでほとんど学生がいないので、堂々と座った。それに、このまま大学を辞めてしまうかもしれないのだから、今更、人目を気にする必要もないと思った。

ベンチに腰かけ、これからのことについて考えていると、学舎から、出てきた学生に声をかけられた。

「杉原君も補講?」

森野香々美だった。

僕は、思わぬ場所で思わぬ人物に出会ったと驚いたが、考えてみれば、彼女とは同じ大学、同じ学部の同級生なのだから、ここで会うほうが自然なことだと気づいた。

そして、

「補講って何?」

と彼女に尋ねた。

彼女は、僕の質問に苛立ちを感じたようだった。そして、「ここでは寒いから食堂で話しましょう」と学舎の地下の食堂に僕を連れて行った。

「補講は、環境経済学の補講のこと。杉原君も補講を受けに来たんじゃないの? 私は“あの活動”で講義を休みがちになっているから焦っている。特に環境経済学はテキストにはない新しい情報が講義の都度、教授から伝えられるから、学期末試験も分からないことが多かった。そしたら、不幸中の幸いで、他にも試験が出来ていない学生が沢山いたから、急遽、春休み中に、教授が補講を実施してくれているの。実際には、試験の結果だけだと、落第者が多く出過ぎるから、慌てて、救済策で補講を実施したらしいけど」

森野香々美の苛立ちは、僕の呑気さよりも、自身の置かれている状況に対してだと分かった。

そして、「あの活動」とは「ペンダントの売り歩き」のことだと頭の中で変換した。

それと、学生食堂のテーブルに向かい合わせで座っている彼女の服装を見て、今日も、高価なものを着ていると僕は思った。光沢のあるグレーのダウンコートは、とても暖かそうだった。中には薄手のセーターを着ているだけだった。相変わらず、頬はこけているが、ペンダント売りの最中ではないだけに、彼女は落ち着いていた。

ダムドール支部とは違い、本来、僕らがいるべき大学という場所で彼女と向き合いながら、改めて、僕は格差という問題を実感した。僕が、高校三年の時、大学受験用に買ったダウンジャケットを未だに着ているのは、僕が服装にあまり関心がないこと以上に、生活費の節約の必要性からであった。対して、森野香々美には、生活費の節約の必要性という問題は、おそらく存在しないだろうと僕は、彼女の服装を見ながら、そんなことを考えていた。

それから、格差を実感させる源である彼女の家の生業を尋ねた。

森野香々美は、父親の勤める会社の名前を言って、その会社の役員をしていると説明してくれた。だが、僕が、その会社を知らなかったので、話はそこで終わってしまった。おそらく、かなり大きな会社なのだろうけれど、僕が知らないために、そのことが伝わらなかった。経済学部の学生なら普通は知っているはずの会社らしい。それが分かったのは、僕が知らないことに彼女が不思議な顔をしていたからだ。

そのため、そこで話が途切れてしまった。僕は分からないなりに、自分の失態を気まずく思っていた。

その時だった。

「杉原君。ペンダントってどうすれば、売れるの? コツとか秘けつはあるの?」

と今までと違い、彼女が深刻な表情で尋ねた。

「知らないんだよ。だって、ペンダント売りなんてしたことないから」

僕は、正直にそう答えた。

ただ、その答えに、あるいは、僕の答え方に、彼女はショックを受けたようだった。

「だったら、もっと早くそう言ってくれればいいのに」

「聞かれない限り、言えないよ。賀矢先生の今やっていることに差し障りがあるかもしれないし」

「それにしても、私たちが、苦しんでいるのを見て、可哀そうだとか助けてやろうとか、思わないの?」

「それは思っているよ。でも、僕もやったことがないのに助けようがない。手伝ったら、ルール違反だし、仕方ないよ」

「そう言われれば、そうだけど。それにしても……」

森野香々美は、そこで言葉に詰まってしまった。

僕は、かなり、薄情だと思う。ただ、若者信者が全員、僕に何かを期待していることの誤りにも気づいていたから、今、あえて、突き放すように彼女に話した部分もあった。二十人の信者は全員、真面目すぎる。そして、恐ろしくナイーブだ。はっきり言って、甘いと僕は思う。

彼女は気を取り直して、

「牧多君も、ペンダント売りをしたことないの?」

と尋ねた。

「ない。僕も牧多も本部の信者だから。ペンダント売りは、賀矢先生が、ダムドール支部を立ち上げて、初めて勧誘した信者の君たちに実践させている修行だ」

「じゃあ、誰に聞けば、ペンダントの売り方が分かるの?」

「賀矢先生は、ついこの前まで、服屋をやっていたから、ペンダントの売り方も分かるんじゃないかな? もっとも、賀矢先生に聞いても、教えてもらえないだろうけど。本部の青沢先生も、ペンダントを売ったことはないだろうし。つまり、誰も知らないのと同じだね」

僕の答えに、森野香々美は、しばらくぼう然としていた。でも、少ししてから、

「世の中ってそんなものかもしれない。私、人を信じ過ぎるところがあるから。それと頼り過ぎるところも」

と言った。

「君が悪いわけじゃないよ。恵まれた環境がそうさせたんだ。だから、賀矢先生が修行をしてくださっているんだから」

と僕は、後半は本心ではそう思っていないけど、一応、そう言っておいた。

すると、彼女は、

「修行中に、何で、こんなことしているんだろうって思うことがよくある。大学を休んでまで、ペンダントを売っているなんて、おかしいって。でも、やめられないの。やめると、とても大きな不幸に陥る気がして怖いから。それに、こうやって辛いけど、頑張っていれば、とても大きな幸せ、つまり、世間知らずな私が、一人前の大人になれる気がして」

こう言った。

僕は、彼女の話は、彼女の偽らざる思いであり、同時に、残りの十九人の若者信者にも共通する思いなのではないかと思った。

僕は、彼女には言わなかったが、率直な感想として、やめても、不幸にもならないし、頑張っても、幸せにはならないと思った。それは、水越賀矢にそう思わされているだけだ。以前に先生の書斎で読んだ本にマインドコントロールについて、洗脳と併せて解説があった。マインドコントロールとは、言葉、行動、態度で人の気持ちをコントロールすること。洗脳とは、暴力、罵りなど恐怖を伴うことがあり、人の考えや思想を根本的に変えること。僕が、先生に出会った頃、ステレオタイプな想像をしたけど―先生が、僕を暗室に閉じ込めて、恐怖映画のような映像を流しながら、僕の耳元で「杉原さん。礼命会を信仰しなければ、あなたは地獄に落ちます」と押し殺した声で囁く―、あれが洗脳のようだ。森野香々美も、他の信者も、水越賀矢にマインドコントロールをされているのではないかと僕は思った。専門家ではない僕が、詳しく分析はできない。でも、やめると大きな不幸に陥るという恐怖は、人の行動を左右するのにかなり大きな影響がある。僕は、これは、やはり、先生に相談しなければいけないと思った。先生は、青年部のことは、君に任せたと言ったけど、そういう訳にはいかない。とても、僕の手に負える問題ではないからだ。先生に事情をきちんと説明しよう。そうすれば、先生も、事の重大さを理解してくれるはずだ。

僕が、先生のことを考えていると、森野香々美が、一緒に帰ろうと言った。

誰もいないキャンパスを二人並んで歩いた。冷たい風に、枯れた芝生が小さく揺れていた。

彼女は、環境経済学の話をしながら、初めて補講を受けたと言って笑った。彼女は優等生なのだ。

彼女が、楽しそうに話すのを隣で聞いていて、僕は、自分が大学を辞めようかと考えていることは話さないことにした。それから、彼女が、僕をとても頼もしく思っていることも、それは、彼女の勘違いなのだと思ったが、そのことも言わないようにした。そして、ふと彼女は石本とどんな風に接しているのかと思った。

石本への嫉妬だろうかと僕は思った。もしかしたら、それもあるかもしれない。

ただ、それより、二人の間に、本当に恋愛感情はあるのか? そんな疑問が僕の中に浮かんだのであった。信者全員の前で、十分間の熱い接吻を交わしたと暴露された二人だが、その行為と感情が、常にイコールだとは言い切れないだろうと僕は思った。そして、他の九組の若者信者のカップルに対しても、同様の疑問が浮かんだ。

全てが水越賀矢の意志の下にあるのだとすれば、彼らは選ばれた栄えある若者ではなく、二十人の犠牲者なのではないのか? 僕は、そんなことを考えていた。そして、途中から、自分の考えに没入して、森野香々美の話が聞こえなくなっていた。


九.

P大学で偶然出会ったあの日以来、森野香々美は頻繁に、僕が以前に教えた連絡先にメールを送って来た。電話の時もあった。内容は、ほとんどが悩みごとの相談だった。悩みごととはペンダント売りのことに限らず、今、大学を休みがちであることや、将来への漠然とした不安などであった。僕は彼女の話を電話で聞きながら、石本には何も相談しないのだろうかと、やはり、二人の交際に疑問を抱いた。それと、これだけ悩みがある中に、ダムドール支部に入会したことが原因のものが少なからずあるため、何のための信仰なのだろうと、そのことも疑問に思った。信仰により、かえって悩みが増えているのではないか?


二月末日が、若者信者がペンダントを売り歩く最後の日だった。僕は、支部には行かなかった。行っても、暗い気持ちになるだけだと分かっていたからだ。一つも売れなかったペンダント。うなだれる若者信者の姿。彼らを罵る水越賀矢。そして、その間、ずっと無表情な牧多。見たくないと思った。

朝早く、森野香々美からメールがあった。

「夕方から支部で最終日の総括を行うけれど、一つも売れなかった。賀矢先生に何と言われるだろう?」

メールにはこうあった。僕は、何も返信しなかった。彼女と大学で偶然会ったのが、二月の中旬で、あの日から二週間近く、毎日、彼女の悩みを聞き続けてきた。悪いとは思ったけど、もうこれ以上、彼女につき合ってはいられない。僕は彼女の恋人でもないし、お守りでもない。悩みを相談するなら、石本にすべきだ。僕はそう思うと、スマートフォンの電源を切った。それから、バスに乗り、街に出て一日教会には戻らなかった。

その日から、森野香々美からのメールも電話もなくなった。彼女も気づいたのだろう。


三月に入ってからも、寒い日が続いた。僕はその日の午後、教会の長椅子に寝転んでいた。広い教会の大きな暖房を僕一人だけのために使っていた。僕は教会での生活に慣れ、自宅の生活より贅沢になった。言わば、堕落したのだ。普通は教会での生活で禁欲的になるはずなのに僕は反対だ。それだけ、僕の家は生活を切り詰めているということになる。僕は、大学を辞める考えが強くなっている。禁欲的な生活をしなければならない要因に、僕の学費がある。一年留年すれば、その分だけ、その生活が長引く。それより、大学を中退して今すぐ働いたほうが両親のためにもなる。父も母もそのことを望んでいることが薄っすらと伝わってくる。ところで、僕は、大学を辞めることを考え始めてから、ある重大な問題について改めて、考えている。僕は決して忘れてはいないのだ。僕が、社会で生きていく上で、生きにくさと違和感が大きな障壁になっていることを。そもそも、礼命会に入会した理由も、違和感を取り去る方法を体得したいからだということも。今日も、教会の長椅子に寝転んでそのことを考えていた。一番前の長椅子に寝転ぶ僕の目の前には、握り手様の絵がある。御神体の前で寝転ぶ僕は不信心者だった。

そして、僕には、全く緊張感が欠けていた。僕は、確かに堕落していると思った。ただ、僕は気づいていた。僕は、今の書斎の快適な生活を失えば、社会に違和感を覚えて生きる僕に戻る。そして、常に疎外感を覚えながら人生を生きることになる。そんな僕が、若者富裕層信者を見ていて常に思うことがあった。僕は社会から疎外されているのに対して、彼らは全員、社会から浮いているのである。そして、少なくとも二十人の若者信者はそのことに自覚的である。だからこそ、必死で、修行をしているのだ。タフになりたいと彼らが願う具体例は、僕や牧多だ。彼らは、僕たちのようにタフになりたいと願っていると同時に、僕たちのような庶民になりたいと願っているのだ。彼らは、そのことは決して、口には出さない。階層を下げたいと口にするなど恥ずかしいことだと考えているからだろう。それともう一つ、生まれ育ちを今更、変えられないという現実を知っているからである。あくまでも、仮定の話だが、富裕層出身の森野香々美と庶民層出身の僕が結婚したとしても、彼女は庶民にはなれない。たとえ、僕の自宅に同居して、生活のレベルを落としてみたところで、彼女は僕と同じ庶民にはなれないのだ。金持ちの家に生まれ育った彼女は生涯、富裕層の人なのだ。しかし、若者信者は皆、そのことを分かっていながら、社会に出るまでに、修行を通じて、“庶民性”を獲得したいと思っているのだ。

社会から常に疎外されている感じを抱きながら生きる僕と、社会から常に浮いている感じを抱いている彼ら。

違うけれど、どこかが似ている。どちらも“もの悲しい存在”なのだ。


僕は、先日、森野香々美からの連絡を拒否するため、スマートフォンの電源を切ったことを悔いた。普段、僕は、もう少し緩やかなはずだった。それが、性急に連絡を拒否したのは、やはり、石本への嫉妬だろうか? 彼女は、特に怒ってはいないだろうけれど、それでも、連絡はしにくい。僕は、長椅子から体を起こした。そして、暖房のスイッチを切ると教会から直接外に出た。牧多に電話をした。彼は出なかった。でも、ダムドール支部に行こうと思った。ちょうど教会前にバスが来たので乗った。僕は、今、若者信者がどのような状況にあるかを牧多に尋ねようと思った。森野香々美を始め、彼らはどうしているだろう?


バスが支部近くのバス停に着いた。僕はバスを降りて、支部に向かった。

支部に入ると、今日も、牧多がノートパソコンに向かっていた。

「さっき、電話くれたんだな。出られなかった。ごめん」

パソコンの画面に向かったまま牧多が言った。

水越賀矢は今日もいなかった。私用だろうか? でも、そのことを牧多に聞いても、プライベートには干渉しないと言われるだけだから、何も聞かなかった。

牧多は、今、支部の毎月の経費をパソコンに入力して、本部の青沢礼命に報告している。その他にも、文書の作成や細々としたこと一切を任されている。水越賀矢の秘書とボディーガードは、彼が自認しているだけだ。諜報係は実際にやっているが、人に言える仕事ではない。ただ、彼の事務処理能力は、ダムドール支部に限らず、一般の会社のどこでも通用する能力だ。そして、牧多も僕も、出会った頃は、二人ともいい加減な青年だったが、牧多は、この事務の仕事を通じて、社会人として自立していっている。それは、兄とスーパーミネザキの仲介をして、毎月コーディネイト料をもらっていると自慢していた頃の彼とは違ってきた。働く喜びを覚えたのだと僕は思う。その証拠に水越賀矢に頼まれていない仕事も自分で見つけてやっているからだ。僕は牧多の成長を目の当たりにして、取り残されていく自分を感じたのと同時に、若者信者が目指している目標は、牧多だと思った。

世慣れているのと同時に、社会性も高い。おそらく、若者信者は外見に惑わされてパンクな牧多ではなく、平均的な僕を無意識に目標にしている。そのことを僕は知っていた。でも、人はそう簡単には分からないと僕自身思った。そして、

「牧多。今、若者信者の状況はどうなっている?」

と彼に尋ねた。

「このデータの入力が済んだら説明するから、ちょっとだけ待ってくれ」

牧多はパソコンの画面に集中しながら答えた。

彼の答えを聞いた僕は、職員室に担任を訪ね、小テストの採点が終わるまで待たされた小学生の頃を思い出した。

現に、僕は、しばらく立って待っていた。

パソコンの入力が終わった牧多は、立ち上がると、僕の横を通り抜け、引き戸を開けて外に出ようとした。

「状況の説明は?」

と僕が尋ねると、

「今から俺とドライブに行こう。状況の説明には、それが一番の方法だから」

と牧多は言った。

牧多の言葉に従い、僕は彼の車に乗ってドライブに出た


十.

どこの町にも、高級住宅街というものが必ずある。僕は、この高級住宅街を見るたびに、私たちは、あなた達のような貧乏人とは一緒に暮らせません。金持ちは金持ち同士仲良く暮らしますというメッセージが発せられているように感じる。僕のひがみ根性を差し引いても、そういう部分はあると思う。でなければ、わざわざ、金持ち同士が一つの集合体として住む意味がないではないか? その逆に、貧困層の人たちが住む場所もある。古い家が建ち並び、大きな地震が来たら倒壊するのではないかと思われるような古いアパートがある、そんな住宅街である。ここでは便宜上、貧困住宅街と呼ぶ。更に、町には高級住宅街でもなく、貧困住宅街でもない中間層の住宅街があり、これが町のかなりの部分を占めている。僕の家も、内実はともかく、一応、この中間層住宅街にある。そして、大都市部、農村部などは別にして、町というものは、概ねこのように構成されていると僕は考えている。


今、牧多の車に乗って、僕たちは、貧困住宅街を走っている。貧困住宅街が町の中心地にあることはない。町の外れの辺ぴなところが多い。今、彼の車も町の外れを走っている。

僕が、何か聞こうとすると、牧多は、

「もうすぐ分かるから」

と言って車をゆっくりと走らせている。

助手席の窓から古いアパートが見える。ほとんどの部屋が空いているのが分かる。人が借りている部屋のベランダには、洗濯物が干してあったが、紳士用の黒の靴下とタオル二枚だけが風にたなびいていた。僕は、それを見て、さみしい気持ちになった。そして、視線を車の前方に戻した。

その時だった。

見覚えのある若者二人が、歩いている姿が目に入った。

石本信弥と森野香々美だった。

「あの二人。何をしてるんだ?」

僕は思わず声に出した。

「またペンダントを売ってるんだ。但し、今度は賀矢先生に教えてもらった必ず売れるやり方で」

そう答えると、牧多は車を路肩に止めた。

そして、黒のキャップを目深く被った。諜報活動時、いつも被っているのだろう。

「ここって、貧困な人が住んでいる地域だけど、ここで、一個三千円のペンダントが売れるのか? 売るなら、金持ちの住む地域のほうがいいんじゃない?」

僕は牧多に現実的な質問をした。

「金持ちの住む高級住宅街でも売り歩いている。同時に、ここでも売り歩いている。賀矢先生の提案でターゲットを絞ったんだ。ターゲット、つまり、売る相手は高齢者のみ」

牧多がそう答えた。

僕が、何故、高齢者なのかを質問すると、牧多は、

「高齢者にとって若者信者は孫ぐらいにあたる。その孫ぐらいの若者が、ペンダントを買ってくださいって頼んで来たら、つい買ってしまうだろ」

と言った。

「孫ぐらいの男女がペンダントを買ってくださいって来たら、多少、心は動かされるかもしれないけれど、実際には、一個三千円するんだから、買わないだろう。説得力に欠けるな」

僕は石本と森野香々美がどの家に売りに入るか物色している様子を見ながら言った。

奇妙な光景だった。

二人とも、高価なダウンベストとダウンコートを着て、カバンも靴も全てが上等で輝いている。その二人の歩く住宅街は朽ちたように何もかもが灰色にくすんでいる。そのため、二人の姿だけが周囲からくっきりと浮き出しているのだ。そして、そのコントラストは、彼らがそこにいることのそぐわさなさを表していた。彼らは、日頃、どこにいても、怪しまれることのない存在なのに、ここでは、逆に不審者に見えた。

僕が二人を見ながら、そんなことを考えていると、

「ご明察。そこで、もう一つ、賀矢先生の大事な提案があるんだ。それは、『このペンダントは、私たちの信者仲間のご両親が小さな工場で作っていたペンダントです。先月、工場が火事で焼失してしまい、残ったのはこのペンダントだけです。どうかペンダントを買ってください。そして、信者仲間を助けてください』。この言葉を添えて売るんだ」

と牧多が言った。

僕は、牧多の説明を聞いて、

「それは全部嘘じゃないか。ただでさえ、高すぎる値段で売っているのに、そんな嘘をついて売るなんて完全な詐欺だ。そんなことダメだ!」

と叫んだ。叫んだ僕自身が驚くほど大きな声だった。

だが、僕の抗議は無視して牧多は、

「孫ぐらいの若者二人の存在に、この話を添えれば、どうだ? ペンダント、売れるだろう?」

そう言って笑った。

僕は、牧多に抗議しても無駄なのだと思い出した。彼は、いい奴だけれど、心の大事なところが、欠けているのだ。だから、水越賀矢に抗議しなければならないのだと思った。

更に、牧多は笑顔で、

「貧困なこの住宅街の高齢者と、高級住宅街に住む高齢者には、それぞれ、メリット・デメリットがある。貧困な高齢者の家は、簡単に訪問できる。鍵をかけていない家も沢山ある。それがメリット。ただ、金が無いから、ペンダントを沢山は買ってもらえないというデメリットがある。対して、高級住宅街の金持ちの高齢者は、訪問しようと思っても、セキュリティが厳重で、なかなか本人にまでたどり着けない。これがデメリット。でも、メリットは、金があるから、一度に沢山のペンダントを買ってくれる可能性が高い。そして、双方の高齢者に共通するのは、高齢者は総じて、若年層中年層に比べて、涙腺も財布のヒモも緩いことだ」

こう話した。

僕は呆れた。高齢者に対してかなり偏見が入っている。高齢者と言っても、牧多の言うように一括りに捉えられるものではない。ただ、振り込め詐欺がいつまでも絶えないように、彼の言うことを否定もできない。

そして、僕は、

「それは全部、賀矢先生が考えたのか? 悪質だよ。若者信者に向かって、生きるためには多少のダーティーさも必要だって言ってたけど、多少どころか、ダーティーそのものだ」

と牧多に言った。

でも、牧多は不思議そうな顔をしているので、彼に言ってもダメなのだとまた僕は思い出した。

それから、石本と森野香々美に再び目を遣ると、一軒の平屋の家に入って行くところだった。玄関の引き戸が空いて、高齢夫婦が、二人と話をして、彼らを嬉しそうに家に招き入れていた。石本と森野香々美が中に入ると引き戸が閉められた。

僕は、森野香々美のことが心配になった。P大学で偶然出会ってから、二週間ぐらいの間、延々とメールと電話で悩みごとを聞かされただけだったが、それでも、そのことは、僕が思っていた以上に、彼女を身近な存在にしていた。僕は一瞬、車を降りて彼女を止めに行こうかとさえ思った。今度のペンダント売りは詐欺行為だ。全くの嘘を言ってペンダントを売るのだから。

その時、牧多が、

「でも、俺にも、分からないことがあって」

と言った。先ほどまでと違い、彼の声のトーンが落ちていた。

僕は石本と森野香々美から牧多に視線を移した。

牧多は話を続けた。

「賀矢先生は、若者信者十組を競わせると言ったんだ。どの組が一番早くペンダントを売り切るかを競わせる。期間は三月一日から三月三十一日の一カ月。その間に、どれだけ売り上げるかを競う。但し、どの組かが、五十個全部売り切ったら、その時点で全て終了」

僕はそれを聞いて、

「競争心を煽るのは確かに有効だろうな。でも、競争なんだから、一番になった組には何か特典がなければならないけど、賀矢先生は何て言ったの?」

こう尋ねた。

すると、牧多は、

「それが、問題なんだよ。一番になった組には、神様から“永久の夫婦の幸せ”が約束されるって言ったんだ。そしたら、若者信者が、『私たちは、つき合ってはいるけど、結婚なんてまだ全く考えていません』て言って、全員ビックリしてさ」

とその時の状況を説明した。

若者信者が、水越賀矢にそう言うと、彼女は、

「修行中に、恋人同士になった二人が、神縁で結ばれていないはずがない。十組全員が、神様からの永久の夫婦の幸せを約束される資格があります。夫婦になり、妻は子どもを沢山産み、この少子化の国家を再び繁栄させる幸せを頂けるのです。そして、夫は良く働き妻と子を養う幸せを頂けるのです。あなた達は、必ず、幸せになれます。いや、幸せになれないはずがありません。神様がついているのです! 但し、怠けてペンダントが売れなかった組には、天罰があります。神様は厳しくもあります」

そう言ってから、ダムドール支部神訓をそらんじたと牧多が話した。

牧多によると、その時の、彼女の目つきは、尋常ではなかったということだった。

僕は、水越賀矢の話にちょくちょく出てくる、保守的な言葉が気になった。前にも感じたけれど、パンクファッション専門店『ダムドール』の店長であった彼女の中に保守的思想性が、あることは意外だった。思想的には、パンクは、元々は、ラディカルである。でも、職業や属性で人を判断してはいけない。彼女が生きてきた人生の中で育んだ思想は、保守的であれ革新的であれ否定されるべきではない。良否の判断は、社会全体においてなされるもので、それは次元の違う問題だと思う。それにしても、理解できないのは、永久の幸せとか天罰のことである。

そのことについて、信者の反応を、更に牧多に聞くと、

「そりゃ、みんな、訳が分からないさ。でも、賀矢先生って、二十人の信者勧誘の時に見せた神がかり的な面があるだろう? だから、永久の幸せより、天罰が怖くて、その話が終わると、全員、支部を飛び出してペンダント売りに向かったよ」

一月に、水越賀矢に放り出されるように信者がペンダント売りに出た時は、彼女に並んで牧多も、支部の引き戸の所から信者を見ていたことを僕は思い出した。黒のチェスターコート姿の彼女に並んで立つバイカーズジャケットを着た牧多。その時の彼は、水越賀矢との間に強い親和性を感じさせた。でも、今の話を聞くと、今回、信者が飛び出して行った時、水越賀矢の隣に牧多は並んでいなかったことが、容易に想像がつく。彼女に傾倒している牧多ですら、ついていけなくなってきたようだった。

僕も思う。

水越賀矢は、結局、若者信者に何がしたいのか?

ただ、苦行を与えてそれを喜んでいるだけなのだろうか?

でも、そんな人物だとも彼女が思えないことは、素顔の彼女に接したことのある僕自身が、よく分かっている。

それだけに、より僕には、彼女の真の目的が分からないのだった。


十一.

石本と森野香々美が、先ほど入った家から出てきた。玄関で何度も頭を下げている。

牧多の車の中から見ても、二人が笑顔で話しているのが分かる。

そして、玄関の引き戸を閉じてこちらを向いた。

牧多と僕は、彼らに見つからないように、姿勢を低くした。

牧多はハンドル越しに、僕はダッシュボードから少しだけ顔を出して二人を見た。

石本と森野香々美は、先ほどとは一転して、暗い表情になっていた。そして、うつむき加減に歩き始め、僕らの車が止めてあるのとは反対の方向に歩いて行った。

僕たちは姿勢を元に戻した。

「売れたんだな」

牧多が言った。

「売れなかったんじゃないのか?」

僕が尋ねた。

「売れて自己嫌悪に陥っているんだ。二人には、まだ良心がある証拠だな」

そう言って、牧多は笑った。

彼が笑うのをとがめても仕方がないので、僕は、彼の言葉の意味を考えた。あの古い家に住む老夫婦には、どう考えても生活の余裕はない。彼らにとって、三千円は、例えば、何日分の食費にあたるだろう? そう考えた時、僕も、ペンダントを売ってしまった事実は問題だが、二人が自己嫌悪に陥ったことは、まだ人として、まともな証拠だと思った。そして、牧多に、

「同じ状況で笑顔になる信者はいる?」

と尋ねた。

「G大学の村口周治、井坂見代組だな。この二人は、この貧困な高齢者の多い住宅街でも相当ペンダントを売ったよ。売れるたびに、家から出てきて、笑顔で握手してたぜ。G大学って頭いい分だけ、考えてることが少し違うのかな?」

牧多はそう言った。

僕は、どう答えていいのか分からず困ったが、それより、この前まで、水越賀矢の言うことに対して、絶対的に従っていた信者達の心に濃淡が生まれてきたことを感じた。石本と森野香々美は、貧困な高齢者にペンダントを売りつけたことで自己嫌悪に陥っている。対して、村口周治と井坂見代は貧困な高齢者にペンダントを売りつけた後、成功の喜びで握手をしている。この正反対の気持ちは、水越賀矢に対しても、同様の感情を抱かせているはずだ。石本と森野香々美は水越賀矢に対するネガティブな感情として。村口と井坂は水越賀矢に対するポジティブな感情として。水越賀矢はそのことを把握しているのだろうか? 彼女は、強力なマインドコントロールではないにせよ、若者信者達の心を操っている。その場合、全ての信者の心をコントロール下に置いておかないとマズいのではないか? 疑問を抱く信者が生まれたら、その信者がきっかけになって水越賀矢の支配が崩れるのではないか? 僕は、ここでも水越賀矢に疑問を持った。

そのまま僕が黙っていると、牧多は、

「これを見てみろよ」

と彼のスマートフォンの画面を見せた。

画面には若者信者カップルの簡単な一覧表があった。そして、その後ろに数字があった。


G城戸順次・G小沼治美 28

G村口周治・G井坂見代 26


G多河俊作・V野崎晴香 17

G大邨哲也・J二上利香 15

V奥沢賢二・G藤野道江 13

V古林達也・G杉川美華 13

V石本信弥・P森野香々美 5

J平塚秀尚・V河岸君江 4

P村端謙一・J由川千枝 4

J宮村静二・J細田須美 3


僕は、一覧表を見ながら牧多に、

「この名前の後ろの数字は何?」

と尋ねた。

「ペンダントを売った数だよ。G大学の城戸、小沼組と村口、井坂組が他の組を引き離してトップ争いを繰り広げている。それに続く組も、G大学の学生信者が入っている組ばかりだろう? だから、考えてることが少し違うのかなって思ったんだよ」

僕は、牧多に一覧表を見せられて、その説得力に、牧多の言いたいことが分かった。

「今、この表を見て、すぐに思ったことだけど、G大学の学生信者は子どもの頃から、受験競争を続けてきたから、それがペンダント売りであっても、競争になると奮起するんじゃないかな? さっきも言ったけど、競争心を煽る効果が、G大学の学生信者には如実に現れるんだと思う」

僕は、G大学同士の組の抜きん出た成績と、上位の組に必ずG大学の学生がいることからそう思った。そして、その推理は当たっていると思った。G大学の学生は、小中高時代は“受験マシーン”と揶揄されるほど勉強してきた学生ばかりだからだ。

そして、僕は、持論である『僕たちは、教育を通じて国家に有用な人材となるべく調教されている論』を話した。

最初、牧多は、僕が一体何の話をし始めたのかと怪訝な顔をしていた。

でも、

「G大学の学生は、国家に有用な人材となるための教育を受ける以前に、受験競争に勝つためだけに競走馬のように調教されてしまった。だから、相手が貧困な高齢者でも、競争となると、良心の呵責を感じることなくペンダントを売ることができてしまうんだと思う」

と僕が話すと、

「なるほどね。杉原の国家云々の持論は別にして、教育というものは恐ろしいな」

と牧多は頷き、そう答えた。

僕は、やはり、彼は頭がいいと思った。彼は、僕が話の核心を言わずとも既に理解していた。

それから、僕は、

「それにしても、三月も、まだ十日も経っていないのに、城戸、小沼組と村口、井坂組は驚異的な売り方だけど、実際、どうやって売ってるんだ?」

と彼に尋ねた。

「今の杉原の話を聞いて分かったんだけど、とにかく、競争することが楽しいんだと思う。だから、貧困な住宅街も高級住宅街も、片っ端から回っている。家の中で売っているところまでは見られないから分からないけど、結局、奴らの元気さに高齢者も乗せられるんじゃないかな? それで、つい買ってしまう」

「元気さと言っても、信者仲間の工場が火事に遭いました。この話を元気には話せないだろう?」

「だから、迫真の演技で高齢者に話すんじゃないか? 涙とか流しながら」

牧多の話を聞きながら、改めて、一覧表を見ると、石本と森野香々美は、五個ペンダントを売っていた。二日に一個売れたか売れないかのペースだ。嘘までついて売っているにしては、売れていない気がした。彼らの中にある良心がペンダントを売ることを鈍らせているのだろう。先ほどの自己嫌悪に陥っている姿からもそのことが分かった。そして、それは、むしろ人として良いことなのだが、二人の姿は憐れでもあった。僕は複雑な気持ちで、森野香々美の名前を見た。僕は思った。まともな心を持った人間が、報われないのが、社会の実相であるとしても、少なくとも、宗教においては、まともな心を持った人間が報われるべきではないのか? そうではない宗教に、果たして、どれだけの正当性があるのかと礼命会ダムドール支部への疑問を大きくしたのだった。


第三部 第一章(青天の霹靂)

一.

貧困住宅街で、石本と森野香々美を車の中から“監視”して、その後、牧多とペンダント売りについて、色々と語り合い、宗教論まで考えた僕だったが、次の日から、事態が大きく変わった。そして、僕は、そのことを青天の霹靂だと思った。でも、実際には、違ったのだ。突然、起こったことではなくて、起こるべくして起こった当たり前の事態だった。それが、間もなく大きな騒動に発展していったのだ。そして、使うべき表現としては、青天の霹靂ではなく、自業自得であることを礼命会の信者の一人として、僕自身も、理解しなければならなかったのだった。


教会には固定電話が一つ置いてあるが、滅多に鳴ることはない。でも、貧困住宅街で石本と森野香々美を監視した翌日、その固定電話が鳴った。

僕は、昼飯を食べてから、しばらくぼんやりしていたこともあり、電話が鳴った時、それが電話の呼び出し音だと気づくまで少し時間がかかった。それから、走って教会の電話を取るまでに、かなりの回数呼び出し音は鳴っていたが、それでも、電話は切れなかった。それだけ、伝えるべき必要性のある電話だったということだ。僕が電話を取ると、信者の平村さんからだった。平村さんは、マンションを沢山所有している。

「杉原君かい? とんでもないことだよ。礼命会青年部の信者が、私の家にペンダントを売りに来たんだ。あれは一体何だね?」

電話の声は怒っていた。僕は、日頃、温厚な老紳士の平村さんが怒る姿を想像しながら、今までこういう苦情の電話がかかって来なかったことが、むしろ不思議だと気づいた。

若者信者は、高級住宅街も回っているのである。高級住宅街には高齢富裕層信者が住んでいる。当然、今回の平村さんと同じ事態が多数発生していてもおかしくないのである。既に発生しているけれど、信者が若者信者に同情してペンダントを買った上で、それを内緒にしているのだろうか? 僕がそんなことを考えながら、平村さんに、

「先生の携帯電話に至急連絡して、平村さんに電話をさせます」

と答えた。すると、

「携帯電話に繋がらないから、教会に電話をしたんだよ。先生は、説教に回っている時、電源を切っているだろう」

と平村さんは言った。僕は平村さんから、当然のことを教えられ、その通りだと思った。電話の電源を切られていることで、僕が一番困っているのに何故か、忘れていた。

「先生に連絡がついたら、私の家に電話をくれるように伝えてくれ」

と言って平村さんは電話を切った。

その後、僕は、先生のスマートフォンに電話をしたが、やはり、繋がらなかった。

同じ日に、もう一件、信者の竹野婦人からも電話があった。内容は平村さんと同じだった。

夜、先生に連絡がついたので、僕が、平村さんと竹野婦人から青年部のペンダント売りへの苦情の電話があったと伝えると、先生は、「お二人に連絡するよ」とだけ答えて電話を切った。でも、実際は、連絡しなかった。

それから数日の間に、同様の電話が続き、同じように、先生に電話で伝えると、「連絡するよ」とだけ答えて終わった。この時も、全く連絡をしなかった。


そして、それから数日後、再び平村さんから電話がかかってきた。

「先生から、連絡はありましたか?」

と尋ねる僕に、平村さんは、

「連絡なんてして来なかったよ。それより、君、今朝の新聞は見たかね? 大変だよ。あのペンダント売りのことが記事になって載っているんだよ! 礼命会がこれまで積み上げた社会的信用もこれで全て消えた。それどころか、危ない新興宗教のレッテルを貼られて終わりだ。いや、レッテルじゃなくて事実だ! 実際に、ペンダント売りをやっているんだから。礼命会は危ない宗教なんだ」

と電話の向こうで叫んだ。

僕は平村さんの話を聞いて、この前に続いて、このことも起こって当然のことだと思った。つまり、青天の霹靂ではなく、自業自得だということだ。ペンダント売りの第一弾でさえ、どうかと思う活動だったのに、更に、第二弾では、高齢者をターゲットにして嘘の話で情に訴え、ペンダントを売っているのである。更に、第一弾は、売り上げゼロで、実害もゼロだったが、第二弾は、既にかなりの数のペンダントが売れているのである。つまり、詐欺的行為が、既に発生しているのである。これが、マスコミの目にとまらないはずがなかった。

僕が電話を切った直後から、教会の電話が鳴りっぱなしになった。

僕は、信者からの苦情の電話よりも、圧倒的に嫌がらせの電話が多いと判断し、コンセントから電話のコードを抜いて、固定電話の電源を切った。

それから、スマートフォンを手にし、「礼命会 詐欺 ペンダント売り」これらの言葉を入力してSNSを検索したが、まだ、広がりは見せていなかった。ただ、SNSは何かのきっかけで、突然、爆発的に拡散する。そうなったら、小さな宗教団体礼命会などあっという間に潰されるだろうと想像し、僕はぞっとした。そして、肝心の新聞を読みたいと思ったが、教会に新聞はない。今、僕が書斎で生活しているけれど、元々、教会は生活の場ではないし、集会も週に一度開かれるだけだから、新聞を購読する必要がない。僕は、バスに乗って駅前のコンビニに行って、新聞を購入して読もうと思った。そのため、くたびれたダウンジャケットを着て出かけようとすると、教会のチャイムが鳴った。誰が来たのだろうと思いながら、僕は書斎から教会に戻った。そして、ドアの前で、誰だか尋ねた。

「FT新聞の記者の瀬木と申します。少しお話を伺いたいと思いまして」

ドアの向こうから、男の声がした。

FT新聞といえば、地元の有力紙だ。いい加減な新聞社ではない。だから、よけいに僕は、ペンダント売りが、マスコミから深刻な捉えられ方をしていることを知った。それに、まさか新聞社の取材が来るとは思わなかった。それは、映画か小説の中に出てくるものであって、僕の生活には生涯、無縁のものだと思っていた。

僕が、そんなことを考えていると、時間が過ぎていた。そのまま放っておくわけにもいかないのでドアを開けた。

そこには、地味なスーツを着た男が立っていた。浅黒く日焼けして敏捷な感じがした。

「あなたは、礼命会青沢礼命先生の書生ですか?」

その男がいきなり聞くので、

「まず名刺を下さい。本物のFT新聞の人かどうか分からないから」

と僕は言った。

「なかなか、マスコミ対応もしっかり教育されていますね」

瀬木と名乗る男は皮肉っぽく笑って名刺を僕に差し出した。

僕は、本当は気が動転していて、ただ、とっさに名刺と言っただけだったのだが、我ながら、良い対応だったと思った。名刺には、「FT新聞社会部記者 瀬木昌司」とあった。本物のFT新聞の記者だと分かった。

僕は瀬木に、「先生は不在だから、取材のしようもないです」と伝えると、彼は「君でもいいから、少し伺いたいことがあるのだが、いいですか?」と言った。僕は「入会して間もない信者だから、質問されても、大して答えられないから時間の無駄になる」と答えた。すると、瀬木は、

「ただ一方的に、こちらが情報を聞くだけが記者じゃない。君、今、情報が少なくて、現状がどうなっているか分からなくて不安でしょう? だから、私からあなたにも知っている情報を提供します。ギブ・アンド・テイクです」

と言った。

さすが、こちらの弱みをよく知っていると思いながら、僕は彼を教会に入れた。


僕は教会に暖房を入れて、瀬木を教会の長椅子に座るように言った。

瀬木は、一番前の椅子に座った。握り手様の絵の真ん前だった。そして、興味深そうに絵を見ていた。

「写真撮影は禁止ですよ。御神体なんだから」

僕がそう言うと、

「このリアルすぎる絵は何の絵ですか?」

と瀬木は尋ねた。

僕はそのことには答えず、彼の近くに立ったまま、「質問をどうぞ」と言った。

「君は、けっこう意地悪だね。マスコミ対応も教育されたんじゃなくて、生まれつきの性格だな」

と苦笑いした。

そう言われて、「僕は杉原和志です」と名前だけは教えた。

本当は意地悪ではなくて、瀬木のペースに巻き込まれないために、僕の警戒心がそうさせたのだった。

「杉原君。今、スマートフォンを持っているなら、礼命会 ペンダント売りのワードを入れてSNSを検索してごらん」

瀬木が言った。

僕は、先ほども検索したけれど、と思いながら、検索してみると、拡散し始めていた。まだ氾濫するほどではないが、先ほど検索してから、わずか二十分ほどの間に、もうこれだけ拡散している。

『礼命会がこれまで積み上げた社会的信用もこれで全て消えた』

平村さんの電話での嘆きが、現実になりつつあることを、僕は、スマートフォンの画面を見ながら実感した。

そして、瀬木は、スマートフォンを見る僕の様子をじっと窺っていた。


二.

先生がいないため、瀬木は僕に取材をした。

僕は、瀬木と距離を置いて長椅子の端に座って質問を受けた。

「ところで、青沢先生はどこに?」

「高齢の信者さんの中には、病気などで教会まで来られない人がいるので、先生は、その信者さんの家にまで行って説教をしています。今もそうだと思います」

「新聞に記事が出て、問題が広がっているこの時に、信者の家に行っている? そんなはずないよ。行った先で、説教をしている暇があったら、事態を収束しろって言われるだけだ。ちなみに、信者の家に説教に行くのは、寄付の取りっぱぐれの無いように、こっちから回収に行ってるってことだね」

瀬木はそう言うとメモ帳にそれらのことを書いた。

僕は、自分の不用意な発言を反省した。瀬木は、やはり、頭の切れる記者だった。だから、それからは、何を聞かれても、「それは、先生しか知りません」とか「僕は、まだ入会したばかりで分かりません」とか、そんな答えしかせずにいた。

すると、瀬木が、

「質問しても、はぐらかしてばかりだから、こちらが知っていることを話すから、それについて何でもいいから答えるようにお願いします」

と言った。

そして、瀬木は、

「まず、青沢礼命こと、本名青沢紀秋氏は、G大学医学部卒業後、同大学付属病院に精神科医として勤務していた。だが、ちょうど十年前に突然、病院を辞めて、その後、礼命会の設立に至った。この青沢氏が、精神科医を突然、辞めて、宗教家に転身した時のことで、君が何か知っていることは?」

と言った。

先生と初めて会った時、病気で学校に行けなかったと話したことは嘘だと分かっていた。それにしても、先生は精神科医だったのか? だとしたら、瀬木の言う通り、何故、宗教家に? 僕は二重、三重にショックを受けた。

その様子を見ていて、瀬木は、

「医者だったことも知らなかったようだね」

と言った。

僕の動揺は大きかった。瀬木は、すかさず、

「君は今日の朝刊の記事を見たかい?」

と聞いてきた。

「いえ。ここには新聞がないので読んでいません」

僕は動揺したまま答えた。

「そうか。今日の朝刊の礼命会の記事は、FT新聞一紙しか載せていない。だからといって、スクープ記事という訳でもない。まだ事件という段階でもないし、普通なら、記事にはしない。でも、他の新聞社も載せるかどうか検討はしている。理由は、慈善活動で有名な礼命会が起こした問題だからだ。そして、FT新聞社に関しては、すぐに掲載することにした。何故なら、これまで、礼命会の慈善活動の記事のほとんどを我が社が掲載してきたから。今回のような問題についてだけ記事にしないと、礼命会と何か特別な関係があるのではないかと誤解される。そのことを懸念して載せた」

瀬木はそう説明した。それから、カバンから新聞を取り出し僕に渡した。

僕は瀬木に言われた通り、記事を見た。社会面ではなく地方欄の小さな記事だったが、「最近、礼命会信者が、高齢者をターゲットにして、原価の安いペンダントを高値で売り歩いている疑いがある」と書かれていた。

僕が記事を深刻な表情で読んでいると、瀬木が、

「僕が書いたんだけど、君の表情を見ていると、かなり、正確に書けているようだな」

と言った。

「さあ、僕には分かりません」

瀬木は揺さぶりをかけてきたが、僕は平静を装った。

すると瀬木は、

「ペンダントを売り歩くには、相当の忍耐力と何か目標がないといけないと思うんだが、それは、青沢先生が、精神科医としての知識を応用して、信者にマインドコントロールをかけているからだろうか?」

と言った。

僕はその言葉にムッとして、

「先生は、精神医学をそんな風に使うような人ではありません。だいいち、ペンダント売りは、本部ではなく、支部の問題です。もちろん、先生にも責任はありますが、直接の責任はありません」

と思わず言ってしまった。

瀬木はにやりと笑い、

「直接の責任者は水越賀矢だね。でも、彼女は、パンクファッション専門店『ダムドール』の店主だった人だ。彼女に、マインドコントロールをかけることができるのか? それが知りたい。君は実際に、彼女がマインドコントロールをかけているところを見たことは?」

と問うてきた。

僕は、答えに窮した。そして、

「僕は入会したばかりなので、分かりません」

と言った。

瀬木は、僕の答えを聞いて、ふっと笑った。そして、

「とりあえず、社に戻るよ。でも、何かあったら、名刺にある連絡先に連絡して欲しい」

と言って、取材から解放してくれた。僕は彼の簡単な揺さぶりの前にあっけなく敗北した。

帰り際、彼は僕にこう言った。

「身辺を嗅ぎまわられて君も気に入らないと思う。ただ、現実に、原価が数百円もしないペンダントを一個三千円で買わされているお年寄りがいる。中には、十個まとめて買ったお年寄りもいるらしい。工場が焼けたとかいう嘘の話に騙されてだ。取材をして、今、把握しているところでは、取り返しのつかないような被害金額はない。でも、礼命会は福祉施設を中心に寄付を行うことで有名になった宗教団体だ。その原資が、お年寄りを騙して得た金だったとしたら、僕は許せない。礼命会の慈善は偽善であり、本性は詐欺集団だったのかと憤りを感じる。君は、直接関係していないようだけど、同じ教団の人間として、責任を感じて欲しい。そして、被害に遭ったお年寄りのために、気づいたことがあったら連絡してくれ」

そして、瀬木は教会を去った。


僕は、最後に瀬木に言われたことが、胸に重く響いた。確かに、僕は、直接は関わっていない。でも、青年部が詐欺活動を行っている限り、礼命会全体が、詐欺組織である誹りは免れない。僕は、最初、捨てようかと思っていた瀬木の名刺をポケットに入れた。

先生は逃げている。でも、僕も逃げている。書斎での暮らしは逃避だ。もう動かなければならない時が来たのだ。僕はそう感じた。

そして、牧多に電話をした。

青年部から先生が逃げているのなら、僕だけでも青年部、つまり、水越賀矢に立ち向かおうと思ったのだ。


三.

牧多が電話に出た。様子を聞くと、支部周辺に新聞記者が数名いるとのことだった。やはり、本部ではなく、問題は支部にあることが把握されていることが分かる。

「若者信者はどこに?」

「俺が、全員に、メールをして、とにかく自宅待機をするように指示した。家にも、記者が行くかもしれないけど、絶対に、取材に応じるなって伝えておいた。それと、何かあったら、俺に連絡するように指示した。こういう時は、指示系統をしっかりすることが大事だから」

牧多は冷静で頼もしかった。普段、若者信者を軽く見ているようで、いざとなると守る。こういう時、彼は感情ではなく責任感で動くのだと思う。その点において、諜報活動と矛盾しない。コインの表と裏なのだ。

「賀矢先生はどこに?」

「朝刊を見て、すぐに身を隠したようだ。どこに隠れているかは俺にも分からない」

牧多の声は少しさみしそうだった。

僕には、その気持ちがよく分かった。日頃、あれだけ緊密に連携して動いているのに、非常時に、連絡がつかない。どこにいるかも分からない。本当なら、こんな時こそ、どこに隠れているか教えて欲しい。牧多はそう思っているのだ。僕と先生の関係とは全く違う。

「牧多は今、どこにいるんだ?」

「杉原と初めて会ったコーヒーショップがあるだろ? 今、あそこにいるんだ」

牧多は声をひそめて言った。

僕も、今からそこに行くと言って、教会を出た。バス停にある風雨にさらされて腐食した時刻表を見ると、教会前にバスが来るまで、まだ三十分も待たなければならなかった。僕は待っていられないから、タクシーを呼ぼうと思った。

そして、スマートフォンでタクシー会社を探していたら、静かに僕の近くに車が止まった。

僕が、気づいて顔を上げると、ワゴン車が止まっていて、ボディーの側面にガムテープが貼られていた。僕が、事態が呑み込めず、じっとそのガムテープを見ていると、

運転席から、

「神と真と愛 礼命会の文字が見えるとマズいから、ガムテープを貼って隠したんだ」

と先生の声がした。

ようやく事態を理解した僕は、

「先生!」

と声をひそめつつ叫ぶという矛盾した形で喜びを表した。

車から降りた先生を見ると、先生は、いつもの黒いスーツの上着を脱いで、代わりに、明るいベージュのコートを羽織っていた。そして、先生を特徴づけていた薄青色の眼鏡も外していた。これまでの印象が強いために、眼鏡を外して、上着を替えるだけで別人のようになった。変装としては非常に効果が大きかった。

僕の視線を感じ、

「私は新聞や講演会のポスターで顔が知られているからね」

と変装の必要性を先生自身が説明し、「ところで、杉原君は、どこへ行くんだい?」と尋ねた。

僕は、先ほど電話で聞いた牧多の状況を伝え、今から、コーヒーショップに行くことを話した。

「すぐに助手席に乗りなさい」

先生は、僕を車に乗せると、周りの様子を窺いながら、静かに車を走らせ始めた。

その様子を見て僕は、

「今、FT新聞の瀬木という記者が教会に来ました」

と先生に伝えた。

僕の話を聞いた先生は、

「数日前、私は彼の取材を直接受けたよ。説教が終わった帰りのことだった。おそらく記事になると言われた。これまで、礼命会の寄付活動の記事を中心的に掲載してきたのがFT新聞だから、ネガティブな問題だけスルーすると何らかの関係があると疑われかねないから。そう説明していた。今日の記事を書いたのは、彼だな。これまでの寄付活動の記事のうち、幾つかを書いたのも彼だ。真面目な男だ。でも、こういう場合、厄介な相手になる」

そう言った。

僕は、先生がG大学付属病院に勤める精神科医だったということを瀬木から聞いたと言いたかった。でも、何故かためらわれた。

そこで、僕はこう言った。

「先生に初めて会った日、僕が腹痛で路上に倒れ込んでいるところに、先生が駆け寄ってきて、僕の腹痛と日頃からの生きにくさと違和感を一度に治してくれました」

先生は、僕の唐突な話しに、

「確かに、そうだった。でも、それが何か?」

と聞いた。

僕は、話を続けた。

「つまり、僕はこう思うのです。腹痛が神経性の胃炎であることと、その胃炎の原因が僕の厭世的な気分から来ることを見抜いて、先生は、僕に、一種の暗示をかけたんです。具体的には、僕の腹に手を当てて、呪文のような言葉を繰り返し、胃痛を治したんです。突然、道の真ん中で、そんなことをされて、僕は、ビックリして胃の痛みが飛んでしまったのだと思います。更に、胃痛から解放された瞬間ならば、その軽快感で、違和感も消えていて当然です。先生はその瞬間をとらえて、腹痛と違和感を同時に取り去りましたと言いました。そう僕に言うことで、僕に暗示をかけたのだと思います。専門家でないとできません。でも、先生ならできます。何故なら、先生は精神科医だからです」

そう話した。

この話は、先ほど、瀬木が、先生が精神科医だと言ったことから、気づいたことで、僕は、デタラメを言ったわけではない。もちろん、僕は先生と違って精神科医ではないから、細かなところは間違っているかもしれないが、先生が僕にしたことは、こういうことだったと思う。そして、今、それを先生に話した。

「いい分析だ。ほぼその通りだ。ところで、私が精神科医だったという話は、さっきの新聞記者から聞いたんだね。他人の過去を勝手に調べて、勝手に喋る。困った人たちだ」

先生は、特に怒ってはいなかったが、そう不満を述べた。

そこで、僕は話した。

「僕もそう思います。ただ、あの瀬木という記者は帰り際にこう言いました。身辺を嗅ぎまわって気に入らないと思うが、現実に、原価が数百円もしないペンダントを一個三千円で買わされているお年寄りがいる。中には、十個まとめて買ったお年寄りもいる。工場が焼けたという嘘の話に騙されて。僕は、直接関係していないようだけど、同じ教団の人間として、責任を感じて欲しい。そして、被害に遭ったお年寄りのために、気がつくことがあったら連絡してくれと。僕は、その言葉を率直に受け止めました。そして、逃げていてはいけないと思いました」

先生は、その話を聞いて、

「確かに、そうだね。私も、私自身の中で、ずっと考えていたことを今朝の記事を読んで気づかされた。私は、大学病院を辞めてから、どこまで逃げ切れるのかを試していた気がするんだ。人間は、現実から、どれだけ逃げられるのか。現実を見ることなく、生きることができるならば、それは人間にとっての最も大きな苦痛から逃れられることであり、私は、できれば、医者を辞めてからの人生を生涯、逃避のままで終わらせたかった。そんなことを考えていたんだ。それが、今朝の記事を見て、逃げた続けた結果が、新聞記事になってまで大きな現実として私に突きつけられたと気づいた。そして、もう、そんな幻想に生きるのはやめようと決めたんだ」

そう話した。僕が、これまでに聞いた先生の話の中で、初めて真剣に話された内容だった。そして、その話を真面目に話す先生から、かつては、精神医学に真摯に向き合っていた精神科医だったとことが伝わってきた。それだけに、礼命会教祖への転身の謎はより深まったけれど、そのことは、ここでは聞くのを控えた。新聞記事にまでなっている目の前の現実に、まず向き合うために。


ビルの地下駐車場に車を止めて、先生と僕はコーヒーショップに向かった。

初めて、この店で牧多に会ったのは、わずか八カ月ほど前のことだ。その時も、先生について、地下駐車場から一階のコーヒーショップに向かった。

日中、胃痛で道路に倒れているのを先生に助けられ、そのまま、教会に連れられて行き、入会式をして、礼命会に入会した。その帰りに、牧多にこのコーヒーショップで初めて会って、礼命会に入会したら、父親が死んで運が開けたという話を聞いた。そのボリューム過多の一日の出来事の全てを、僕は鮮明に記憶している。訳の分からないことばかりだったけど、面白かった。でも、その面白さは、現実から逃げていたからこそのものだったのではないかと今の僕は思う。そして、礼命会が逃げてきた現実が、水越賀矢という一人の人間の姿を借りて、今、襲いかかってきているのだと僕は思った。彼女のしていることは良くない。でも、彼女に関わらないことにより事態を悪化させたのは、礼命会代表青沢礼命であることも忘れてはいけない。そして、高齢富裕層信者全員、それに、牧多にも僕にも責任があるのだ。

瀬木に言われた、「同じ教団の人間として、責任を感じて欲しい」という言葉をかみ締めながら、僕は一階への階段を上っていた。


四.

コーヒーショップに先生と僕が入っていくと、牧多は、初めて会った時と同じ奥の席に座っていた。そして、僕たちの姿を確認すると、一瞬、困惑した表情をした。僕は、先生が薄青色の眼鏡を外して上着も替え、変装をしているためだと思った。でも、そうではなかった。

先生と僕が席につき、コーヒーを注文し終えると、牧多は、いきなり、

「先生の本業は、医者なんですか?」

と聞いた。

「瀬木という記者から聞いたのかい? 君に直接、電話がかかってきたのか?」

先生は、瀬木の動きの速さに当惑しながら、牧多に聞き返した。

「そうです。杉原が電話をくれる前に、その男から電話がかかってきました。俺は支部に一人でいました。記者が何人かいるから、外にも出られない。そしたら、知らない電話番号の電話がかかってきました。普通なら、取らないんですが、こういう状況なので、もしかしたら、賀矢先生が、別の携帯でかけてきたかもしれないと思って取りました。すると、男の声で、FT新聞の瀬木と申します。取材をさせてくださいって言われました」

と牧多が説明した。

「牧多の電話番号を勝手に手入したんだな」

僕はそう言って、瀬木が目的のためなら何でもやる男なんだと非難した。

すると、牧多が、

「でも、情報もくれたよ。その一つが、先生がG大学医学部出身の精神科医だってことさ。それで、先生が精神医学の知識を使って信者にマインドコントロールをかけたんじゃないか? それとも、賀矢先生がマインドコントロールをかけられるのか? あなたなら、見たことがあるんじゃないですか? 賀矢先生の側近なんでしょ?ってね。俺、そんなことより、先生が精神科医だってことに驚いて、もっと詳しく教えてくれって言ったら、十年前に大学病院を辞めた。それ以上のことは言えないって」

と電話の内容を話した。

「その記者が牧多に電話で話したのと全く同じ内容の話を教会に来て僕にしたよ。僕から情報を聞き出すために揺さぶりをかけたんだ。牧多にも揺さぶりをかけるために同じことを言っただけだ」

僕が、そう話すと、

「でも、俺は別に揺さぶられた感じはしなかったけど。それより、しつこく教えてくれって聞いてたら、向こうから電話を切ったぜ」

牧多は笑って言った。

牧多の答えを聞いて、僕はあの程度の揺さぶりに反応してしまった自分を反省した。

「それに、電話を切る前に、取材のお礼だからって、外に出る方法を教えてくれたよ。君は若くて体力もある。外にいる記者は、日頃から運動不足な中年の男の記者ばかりだ。正面突破すればいい。店を出て一気に走り抜ければ逃げ切れるからって。教えてもらった通り、やったら、あっという間に逃げ切れて、今、ここでコーヒーを飲めている。案外、いい奴なんじゃないか?」

考え込んでいる僕の顔を見て、また牧多は笑って言った。

先生も笑って、

「群れないところは、彼の良いところだな。完全に単独主義だ。周りからは仲間意識がないって嫌われてそうだけど、私も、群れるのが嫌いだから、その点は評価する」

そう言った。

そこから更に、牧多は、先生に質問した。

「先生と出会って、もう五年以上になりますが、ずっと分からないことがあります。初めて会った時、中学生の俺たちを補導しようとした警察官から助けてくれました。あの時、警察官が先生に頭を下げていたのは、医者としての先生に頭を下げていたのでしょうか? あの頃、まだ礼命会は今ほど世の中に知られていなかった。だから、さっきの記者の話を聞いて、そう思ったんですが?」

先生は、牧多の質問に、

「昔のことをよく覚えているね。私は、自分がしたことなのに、まるっきり忘れていた。補導されそうになっていた君たちを見て、警察官に言ったんだ。私は、G大学付属病院の精神科医で、今、青少年の心理を研究していますって。保護者と学校の了解を得て、仮に、ここにいる中学生が不登校だった場合、どんな心理に基づいて、どんな行動をするのか試みてもらっています。だから、学校をサボっているのではなくて、大学病院の研究に協力してもらっているんです。警察官に、そう話したんだ。そして、退職してからも、まだスーツのポケットに入っていた大学病院の名刺を警察官に見せたんだ。まるっきりの嘘だったけど、無事、君たちを助けられた。嘘は良くないけど、この場合は、噓も方便ということにしてくれればありがたい」

そう答えた。

「先生。その嘘のおかげで、確かに、俺たちは助かりましたが、何故、そこまでして俺たちを助けてくれたんですか? 結果的に、礼命会に入会したのは俺だけでしたが、もしかして、神命で、俺を礼命会に入会させるために、そうしたんですか?」

牧多は真剣に先生に尋ねたが、先生は、

「神命だなんて、賀矢先生の影響を受けすぎだよ。私は、はっきり言って、神命なんて無いんじゃないかと思う。牧多君と杉原君の二人を、高齢富裕層信者しかいない礼命会に入会させたのには、特に意味はないんだ。神命でもない。二人を入会させて、若者信者の獲得に利用しようとか、そんな考えもなかった。ただ、何となくなんだ。もう少しきちんとした言葉で言えば、”偶然性”なんだ。私は、人生には、計画は成り立たないと思っている。全て偶然の積み重ねだと言ってもいいぐらいなのではないかと思う。偶然、牧多君が補導されそうになった所に遭遇して、助ける気になった。偶然、コンビニの前で倒れた杉原君を助けようと思った。では、偶然とは何か? 何の思惑もなく、君たち二人を、私が助けたいと思ったその気持ちだと思うんだ。そして、そのことが全てなのだと私は思う」

そう言った。

僕には、先生の言うことが分かる気がした。牧多にも、先生の言いたいことが伝わっているのが分かった。

でも、牧多の質問は、まだ終わらなかった。

「青年部の信者にG大学の学生が多いんですが、杉原に教えてもらいました。G大学はエリートの国立大学で、金のかかる進学塾に通って、金のかかる私立の中高一貫制の進学校に行ける人間しか入れないって。先生も、金持ちのエリートですか?」

牧多の質問は直球だった。

先生は戸惑った。僕はその様子を見て、

「牧多。瀬木っていう記者も病院を辞めたことしか話せないって言ったんだから」

と自制を求めたが、

「だから、先生に直接、聞いているんじゃないか」

と反論された。

先生は、牧多に、

「君が言うようにG大学の学生のかなりの部分が、金のかかる進学塾に通って、金のかかる私立の一貫制の進学校を卒業している。そして、私も同じだ。つまり、私の家は金持ちだ。大金持ちではないけれど、確かに、金持ちだと思う。でなければ、進学塾にも一貫制の進学校にも行けていないからね」

と話した。

僕は、想像していた通り、先生の家は金持ちであり、先生は育ちの良い人であることを知ったが、それよりも、牧多に再び自制を求めた。

「牧多。先生のことについては、これぐらいにしよう。それより、青年部の問題を解決することを三人で考えよう」

だが、牧多は、

「先生。どうして、大学病院を辞めて、礼命会を立ち上げたんですか? 何があったんですか? 医者は、二度とやらないんですか?」

とまた質問をした。しかも、一番聞きにくいことであった。

それに対して、先生は、

「話すと長くなる。今度にしよう。今は、杉原君の言うように、ペンダント売りの問題の解決に専念しよう」

と言った。

すると牧多は、

「五年間、ずっと気になっていたんです。先生は教祖になる前、一体何をしていたんだろうって。だって、突然、現れて、警察官に頭を下げさせて引き返させたんですよ。そんなことができる人はいないです。杉原だって、そう思うだろ?」

と僕に聞いた。

僕は、牧多に言われて考えた。確かにそうだった。僕の場合も、腹痛で倒れた僕に駆け寄ってきて、腹痛と生きにくさと違和感をいっぺんに取り去ったのである。牧多の比ではない。それを考えたら、牧多が先生の過去に強い関心を示していることは、むしろ、当然だと思った。それと、彼は、僕も内心、同じ気持ちでいることを知っていて、僕の分まで尋ねてくれているのだと気づいた。無遠慮を装って、僕の分まで先生に質問をしてくれている牧多を見ながら、僕は、彼が、よく気がつくことを思い出した。そして、以前は、彼は商売人の息子だからという言い訳でごまかしたが、今、その限界を感じた。成育歴の影響から、彼は、心の大事なところが少し欠けていたとしても、彼はとても繊細なのだ。そして、僕は、目立って欠けた部分が無くても、生来、繊細さに欠ける人間なのだ。つまり、鈍感なのだ。僕は、牧多の心の欠けたところを、もう欠損部だと捉えるのをやめようと思った。誰もが不完全なのだ。彼にも、僕にも、良いところもあれば、足りないところもある。それが人間なのだと僕は考えを改めたのだった。


五.

数日後、先生は、FT新聞記者の瀬木に電話をして、「礼命会のこの度の騒動をお詫び申し上げます」という謝罪広告を載せるべきか尋ねた。先生は、本質的なところで、瀬木を信頼していた。それは、僕も同じだった。瀬木は、事件を作って記事にしたいわけではない。彼は、これ以上、被害を出したくないのだ。だから、先生は、瀬木に電話をした。電話に出た瀬木は、先生には何も尋ねず、問いにだけ答えた。そして、事態が収束していない今の段階で謝罪広告を載せるのは拙速だと止めた。それより、被害に遭った高齢者の割り出しをして、直接、謝罪に向かうべきだと言った。現実問題として、被害額は大きくないようだが、放置していてはいけない。まず、被害に遭った高齢者の割り出しをすべきだとアドバイスをしてくれた。突然、本部に現れて僕に取材をしたり、牧多の電話番号を無断で入手したりと、とにかくすばしっこい男であることも事実だが、この真摯なアドバイスが瀬木の本質だった。


先生と牧多と僕は、教会本部にいた。水越賀矢はどこかに隠れている。そう遠くない所から事態の推移を見ているのだろう。支部の周辺には記者がいるのだが、本部には、あの日、瀬木が訪ねてきただけで、記者はいない。問題の中心が支部にあることを記者が把握していることが分かる。でも、瀬木のように本部に来れば何かしらの情報を得られると思うのだけれど、何故、支部に集中するのだろう? 僕はそのことを先生に尋ねた。すると、先生は、

「賀矢先生のカリスマ性だと思うよ。君が言うように、青年部の問題でも、本部にも来れば何かしら得られるはずだが、記者は本能的に察知しているんだと思う。彼女にニュースバリューがあることを。そして、残念ながら、私には、ニュースバリューがない」

と笑って言った。

先生に、笑って話せるだけの余裕が生まれたことを僕は理解した。新聞記事が出てから数日、先生だけでなく、僕も何が起こっているのか、よく分からないまま毎日が過ぎていた。

ペンダントを売った高齢者のリストは、支部に行けばあると牧多が言った。

「若者信者が、ペンダントを売った相手の情報を支部にメールで送って来た。ただ、ペンダント売りの競争中に送って来たから、名前だけとか、名字と住所だけとか断片的な情報が多かった。それを俺が調べてきちんとしたリストにしておいたけど、まさか、こんな形で役に立つとは思わなかった」

と言って牧多は驚いた。

「牧多の事務処理能力の高さのお陰だよ」

と僕は素直に褒めた。

「おだてるなよ」

牧多は笑った。彼の笑顔を見るのも数日ぶりだった。


牧多をおだてたわけではなく、実際に彼がリストを作ってくれたので、支部のパソコンを見れば誰にペンダントを売ったのかが分かる。でも、今は、周囲に記者がいるため、支部に行けない。

そこで、先生は提案した。

「本部の集会は事態が収束するまで休みにしました。信者の皆さんには、既に連絡済みです。再開できた時に、信者の皆さん全員に改めてお詫びをします。その上で、まず、青年部の信者がペンダントを売りに行った礼命会本部の信者の皆さんの家にお詫びに行くことにします。理由は、誰が青年部の信者に来訪されたかが既に把握されているからです。それから、支部に行けるようになってリストが手に入ったら、リストにある高齢者の家にお詫びとペンダントを購入した額を確認して全額返金することにします」

先生は、全て言い終わると、そのまま、一人で教会を出て行こうとしたので、牧多と僕は先生に言った。

「俺は、青年部のペンダント売りに直接関わっていたから、先生より、罪が重いです。だから、先生よりも俺のほうが謝罪しなければなりません。一緒に連れて行ってください」

「僕も直接はペンダント売りに携わっていなくても、青年部の集会に参加して、事情をよく知っています。でも、止めることをしませんでした。だから、僕も一緒に」

先生は、僕たちの話を聞くと、静かに「そうだね」と頷いた。


ワゴン車で移動中、僕は助手席で、ダムドール支部神訓を読んでいた。ダウンジャケットのポケットに入っていたのを見つけたのだ。三月も中頃になり、ダウンジャケットを着ているのも、そろそろ暑くなってきた。牧多は、後ろの席で、スマートフォンを操作していた。彼は、SNSは拡散していないと言った。だが、まだ、どうなるか分からない。

僕は、神訓の「一.苦行から決して逃げるべからず。二.苦行は生涯が苦行と思え。三.大いなる苦行によってのみ大いなる楽土あらん」を先生の隣で読み上げた。

先生はそれらを聞きながら、

「明らかに、教義だな。でも、彼女にそのことを言えば、礼命会の教え『ともに生き、ともに幸せになる』の解釈ですと言うだろう。今、行っている修行も、ともに幸せになるためのものだ。そう言うだろう。彼女は、最初に会った時、経典がないと私が言ったのを聞いて、じっと考えていたのを覚えている。経典がないから、解釈で埋める余地がある。今、思えば、そう考えていたんだ。それにしても、恐ろしくストイックな神訓だ。まさに水越賀矢そのものだ」

そう言って、じっと水越賀矢について考えていた。


礼命会高齢富裕層信者の家々を回ると、誰も、特に怒っていなかった。村平さんも、竹野婦人も、他の信者も、「礼命会の信用を落とさないように」ということだけを言って、後は、先生と世間話をしただけだった。

信者たちの様子を見た牧多は、車の中で、

「金があると、人に優しくなれるのかねえ」

と皮肉を言った。

僕は、お金があれば、大学を辞めずに一年ぐらい留年できることを考え、

「優しくなれるかどうかは分からないけど、余裕が生まれるのは確かだな」

と言った。そして、青年部の問題が片づいたら、礼命会も大学も辞めて、仕事を探そうと決めた。何故、そう決めたのだろうか? もしかしたら、先生が、十年前に精神科医を辞めて宗教家に転身したことを知って衝撃を受けた余波だろうか?

その時、車が止まった。邸を囲む高い塀が見えた。信者の家だった。

信者は、宗田さんという、初代の礼命会信者総代だった。宗田さんに謝罪をすれば、青年部がペンダント売りに訪れた本部信者への謝罪が終わる。

以前に、牧多から教えてもらったのだけれど、先生が教会を建てられたのも、それを機に、宗教法人礼命会を立ち上げられたのも、宗田さんからの寄付があったからだということだった。教会の建設費の半分を宗田さん一人で出したということだった。ただ、どうしてそれほどお金があるかについては、牧多も分からないと言っていた。謎の多い人でもあった。それと、夫婦二人で礼命会の会員だったが、数年前に、妻を病気で亡くしてから、信者総代を辞めて、最近は、あまり教会にも顔を出さなくなったということだった。


インターフォンを押して、門から中に入ると、庭の木は全て取り払われて、畑になっていた。そして、宗田さんは畑仕事をしていた。高い塀に囲まれているので、外から見た時、大きな邸が建っているのかと思っていたけれど、実際には、平屋建ての日本家屋が、庭の奥に静かに佇んでいた。その分、庭が広く、その広い庭を畑にしてあるのだが、僕は、小柄な老人の宗田さん一人だけで、畑仕事をできるのだろうかと思った。

畑の中に東屋が見えた。庭が畑になる前、庭園の中にあった時は、趣のある建物だったと思われるが、今は、畑の真ん中で孤独に耐えているように見えた。

東屋で僕たちは、話をした。宗田さんも、他の信者と同じように、「礼命会の信用を落とさないように」と言った。牧多はそれを聞いて、退屈そうな顔をした。

だが、宗田さんは、礼命会の創設に大きく関わった人物だけに、もう少し話をした。

「青沢先生。この問題を解決するにあたって、頼れる人はいますか?」

まず、こう話した。

「FT新聞の記者に瀬木という男がいるんですが、彼が今回の新聞記事を書きました。私は分からないことがあった時は、彼を頼ろうと思います」

先生は、瀬木の名前を出した。確かに、謝罪広告を載せるかどうか彼に尋ねていた。でも、それは新聞に関することだからだと思っていたが、それ以外のことでも瀬木を頼ると先生は言った。

「非は礼命会にあるが、この問題を世間に知らしめた新聞記事を書いた記者を頼る? これは、興味深いことです。そんなに見どころがある人物ですか? 瀬木という記者は?」

宗田さんは尋ねた。

「本部に二名しかいない若者信者の一人、杉原氏子に瀬木記者が言ったそうです。今回の問題に、君は、直接関係していないとしても、同じ教団の人間として、責任を感じて欲しいと。私は、その朝、瀬木記者の書いた記事を読んで、青年部の問題だからと逃げていることに気づかされました。私は、真剣に取り組むことから逃げていたのです。私は常に冷笑的でした。瀬木記者の記事で、そのことに気づかされ、杉原氏子から聞いた話で、瀬木記者がそういう思いを込めて記事を書いたことを知りました」

先生は、宗田さんに真剣に語った。先生の言う通り、先生はいつも冷笑的だった。それが、先生らしさだと僕も肯定してきたところもある。でも、今回のような事態に、冷笑的な姿勢では対処できない。つまり、シニシズムには限界があるということだ。そのことを先生は、瀬木の言葉から気づいたのだろう。

先生の話を聞いた宗田さんは、

「その人なら大丈夫ですね。ただ、青沢先生は、もう礼命会の教祖ではいられなくなるかもしれないですよ。あなたは、冷笑的と表現したが、開祖のあなたが一番ご存知なように、礼命会とは心地よい諦めの世界へ人を導く宗教なのですから」

そう言った。

先生は、

「はい。シニシズムを脱した私には、もう教祖を続けるのは難しい。私も、今、そのことを考えています」

と答えた。

その答えを聞いて、宗田さんは頷いた。

僕たちは、宗田さんに挨拶をして東屋を離れた。東屋に一人残った宗田さんは、さみしげに見えた。


第二章(双頭の神)

一.

青年部の信者がペンダントを売ろうとした礼命会本部信者への謝罪を終えた次の日のことだった。ダムドール支部の周りにいた記者がいなくなった。新聞に記事が掲載された後、早い段階で、大部分の記者はいなくなっていた。この問題は大した事件に発展しないと見切りをつけたのだろう。でも、わずかに記者が残っていた。本部信者への謝罪を終えた次の日、牧多が、支部の様子を見に行くと、わずかに残っていた記者もいなくなっていた。牧多は、教会に戻り、先生にそのことを報告し、僕たちは話し合った。

先生は、「支部に行こう。瀬木記者からアドバイスをされたように、パソコンにあるリストを見て、すぐに被害者への謝罪と返金をしよう。そうすれば、この問題は事実上、解決する」と言った。牧多も僕も、先生の意見に賛成した。そして、僕たちは、ワゴン車に乗り、支部に向かおうとした。その時だった。先生の電話が鳴った。先生がスマートフォンをコートのポケットから取り出して見ると、瀬木からだった。


「青沢先生。一つ気になることがあるので、お伝えします。支部の近くに残っていた記者は引き上げさせました。他社も同様です。その意味では、もう支部を訪れても大丈夫なのですが、別の意味から、できれば、支部を訪れるのは、夜間にしたほうがいいと思いまして」

瀬木はそう言った。先生が、瀬木の言う別の意味を尋ねると、瀬木は、それについて説明した。

「ダムドール支部のある商店街の住人が、今回の問題で、礼命会に対して非常に憤りを感じています。支部に張りついていた記者でさえ、そのとばっちりを食らったぐらいの憤りです。うちの記者も、『いつまで、商店街をうろうろしているんだ。営業妨害だ』と怒鳴られました。今の状況で礼命会代表のあなたが支部を訪れることは、かなりの危険が予想されます。だから、訪れるなら、商店街がシャッターを下ろしてからの夜間にしたほうがいいと思います」

瀬木の説明を聞いた先生は、

「ありがとう。そうするよ」と言って電話を切った。

そして、牧多と僕に瀬木の話の内容を教えてくれた。

「情けない話だが、そもそもの原因は全て私の無責任さにある。それにしても、瀬木記者の電話がなかったら、大変なことになっていた。間一髪とはまさにこのことだ」

先生は、安堵の表情を浮かべてから、深いため息をついた。

僕は、素直に瀬木に感謝した。彼は、やはり、全てを平和裡に解決したいのだと思った。

僕たちは、一旦、車を降りて夜を待つことにした。


夜になり、僕たちは、ワゴン車に乗って商店街に向かった。

牧多が、後ろの席で、スマートフォンを見ていた。SNSをチェックしているのだろう。僕も、さっきチェックしたのだけれど、拡散どころか、霧散していた。もうSNSを心配する必要はなくなった。僕は思った。これから支部に行って、パソコンにあるデータをメモリーカードに移し、その場で、プリントアウトする。そのリストを持って、三人で被害に遭った高齢者の家を回って謝罪と返金をすれば、先生の言った通りこの問題は解決する。ゴールが見えてきた。僕はほっとした。

その時、牧多が後ろの席で、

「SNSは、もうこの問題を忘れたな」

と言った。やはり、SNSのチェックをしていた。それから、牧多は、

「先生。ところで、気になっていたんですが、賀矢先生が、ペンダントの売り上げは、先生が知っている児童養護施設に寄付をすると若者信者に話したんですが、それは、本当でしょうか? 先生を疑っているわけでも、賀矢先生を疑っているわけでもないんですが、若者信者はその話を信じてペンダント売りを始めたところもあるので、その話が万が一嘘だったら、今、自宅待機までさせている、あいつらにどう説明していいか分からないから」

と先生に話した。

「牧多君にも、杉原君にも色々と心配をかけて申し訳ない。児童養護施設の話は本当だから、どうか安心して欲しい」

と先生は答えた。

そして、その話を聞いた僕は、ふと疑問が湧いた。

「賀矢先生は、信者仲間の工場が焼けたという嘘によって集めたお金を、本当に児童養護施設に寄付しようと思っていたのかな? 悪意と善意が混在した行為だ。それでも、寄付するつもりだったとしたら、賀矢先生は、かなり変わった人だと思う。金持ちの高齢者から騙した取ったお金を児童養護施設の子ども達のために寄付する? 義賊を気取ってた? それも違う気がする」

僕の話を聞いて、先生も牧多も、黙った。二人も、確かに変だと思ったようだ。


コインパーキングに車を止めて、僕たちは、夜の商店街を静かに歩いた。牧多が、夜七時には、どの店も閉まっていると言ったが、念のため、更に一時間遅らせて八時に商店街に着いたのだが、真っ暗だった。商店街には、夜でも、少し灯りがあるのかと思っていたが、全くの闇夜だった。僕たちにとっては、都合が良かった。でも、商店街としては、果たしてこれでいいのだろうかと僕は思った。

ダムドール支部の前まで来た。

牧多がジーンズのポケットから鍵を出し、店の裏に回ってドアを開けようとした。

すると、

「あれっ? 鍵がかかっていない」

と牧多が言った。

そして、そのままドアを開けると、支部の中には灯りがついていた。

僕たちは、水越賀矢がいるのだと思い、緊張した。

でも、中をのぞくと、水越賀矢ではなく、石本信弥と森野香々美がいるのが分かった。

僕たちは、意外な人物二人がいることに驚き、同時に、ほっとした。

二人は、僕たちに気づいていなかった。

そこで、先生が、

「君たち、どうしたんだ?」

と尋ねると、振り返った森野香々美が、

「青沢礼命だ!」

とひどく驚いた。

当然だった。先生は青年部の入会式で挨拶をしたきり、以降、一度も、青年部の信者に会っていない。森野香々美が、ひどく驚いたのも当然だった。僕も、先生が二人のことを覚えているのに驚いたぐらいだった。

先生も、少し気まずく感じたようだったが、改めて、彼らに尋ねると、

「ペンダントを売ったお年寄りの名前と住所を支部のパソコンから調べようと思って来ました。そして、その人たちの家を回り、お金を返して、謝ろうと思っています」

と石本が答えた。

それに対し、牧多が、

「君たちが、送ってきたメールには、ペンダントを売った相手の名前だけとか、名字と住所だけとか、断片的な情報しかなかったからな。俺がきちんと調べて全てリストにしてあるから、大丈夫だよ」

と言った。

すると、森野香々美が、

「私と石本君が送ったメールには、名前も住所も全部書いてあったと思う。ペンダント売りの競争もしたくなかったから、急いで売り歩く気もなかったし。それに何よりも、ペンダントを売ったお年寄りに申し訳なくて、せめて売った相手の名前と住所だけでも、きちんと控えておこうと思ったの。後で何かの役に立つ気がして。実際に、そのメールさえ残っていれば、二人で謝罪と返金に行けたんだけど。実は、新聞記事を見たあの日、怖くなってメールを削除してしまったの。でも、警察に捕まることが怖くなったから、隠蔽しようとしたとかじゃなくて、目が覚めた気がしたの。今まで、私は何をやっていたんだろう? 私は、何故、必死に詐欺まがいのことをやっているんだろう? そう思って怖くなったの。石本君も同じ。そして、他の青年部の信者の多くも同じ気持ちになってメールを削除したって聞いた。でも、謝罪と返金をするためには、送信したメールのデータが必要なことに気づいた。それで、支部に来たの」

と答えた。

僕は改めて、森野香々美を見た。今日は、黒のパーカーに同色のジーンズを穿いていて、闇夜に紛れるためだと思った。石本も同じような服装だった。

僕は、彼女に尋ねた。

「データが必要で支部に来たのは分かった。ところで鍵はどうやって開けたの? それと何故、夜のこの時間に?」

「鍵は前から壊れてるのよ。ドアノブを強く二、三回捻ればすぐに開く。みんな、知ってる。知らないのは、賀矢先生と牧多さんぐらいだと思う。それと、この時間帯に支部に来たのは、商店街の店が閉まってからしか無理だと思ったから。少し前から、商店街まで偵察に来てたの。そしたら、新聞記者に商店街の人が、商売の邪魔だってもの凄い剣幕で怒鳴っているのを聞いて。私たちのことで記者に八つ当たりしているのが、すぐに分かった。だから、夜遅くにしか来られないと思って」

森野香々美の話を聞いて、牧多はドアの鍵が壊れているのか確認に行った。

先生は、

「今の話で確認したいんだけど、新聞記事を読んで怖くなったのと同時に、目が覚めたって言ったけど、逆に考えると、目が覚めるまでは何を恐れていたと思う?」

と問うた。

「そう聞かれて思いつくのは、とても大きな不幸に陥る気がしていたことです。私はそのことを恐れていました」

そう答える森野香々美は、今、先生に問われて、改めて、気づいたようだった。

僕は、彼女の言葉を、P大学の食堂でも聞いたことを思い出した。

そして、先生に、

「彼女や他の信者は、賀矢先生にマインドコントロールをされていたんでしょうか?」

と聞いた。

先生は、慎重に言葉を選んで答えた。

「新聞記事を一回読んだショックで、目が覚める程度のものをマインドコントロールと呼んでいいのかは難しい。でも、賀矢先生の意志に従って行動していたのだから、賀矢先生にコントロールされていた。この場合、私は、賀矢先生の存在そのものに行動が強く影響されていたように思う。例えば、恐い父親、恐い母親の無言の意志に子どもが敏感に反応するように。ただ、賀矢先生が恐い親と同じだということではないよ。それより、それだけ、賀矢先生は強いカリスマ性を持っているということを私は言いたいんだ」

その話を聞いて、森野香々美だけでなく、石本も深く納得した。彼らは、先生が精神科医だとはまだ知らない。僕は、彼らと違い、先生の話を、精神科医青沢紀秋としての見解として聞き、その見解を話す先生が、宗教家青沢礼命としてより、はるかに活き活きとしていることに気づいた。僕はそのことを少しさみしく感じながらも、同時に、本来の先生の姿を見て嬉しくも感じた。その時、僕は、とても複雑な気持ちになった。


二.

牧多が、裏のドアの鍵を調べて戻ってきて、

「ちゃんと鍵がかかるけどなあ」

と呟きながら、ノートパソコンの電源を入れた。そして、若者信者がペンダントを売った高齢者のリストを、すぐにプリントアウトし、データをメモリーカードに保存した。これで、作業は完了した。後は、実際に、ペンダントを売った家々を回って、謝罪し返金すればいい。僕は、本当にゴールが近づいてきたと思った。

「リストにある家々を回って、謝罪と返金が終わったら、瀬木記者に報告しよう。そうすれば、彼がこの前の記事の続報として、この問題は収束したという記事を載せてくれる予定になっている」

先生も、自ずと表情が明るくなった。

それから、ワゴン車で、石本と森野香々美を自宅まで送ってから、先生と牧多と僕は、再び、教会に戻って話し合いをすることにした。そして、支部を出ようと皆がドアの前まで来た時だった。

ドアの鍵がカチャリと開く音がした。

外から鍵を開けたのだ。石本たちのように左右にドアノブを強く捻って鍵を開けたのではない。鍵を持っている人物は、牧多以外に一人しかいない。

その人物がドアを開けて支部の中に入ってきた。


ペンダント売りの問題を起こした張本人である礼命会ダムドール支部長水越賀矢だった。

水越賀矢は、一番前にいた牧多と目が合った。

彼女は、さすがに、少しやつれているように見えた。

それでも、彼女は、生命力のみなぎった目で牧多をじっと見つめながら言った。

「牧多君。今後は、あなたが支部の管理を全てすることになるはずだから教えておくわ。裏のドアの鍵は、かけるのにコツが要るの。ドアノブを少し左に捻った状態で、鍵をかけると、その後、ドアノブを強く捻っても、鍵は開かない。だから、勝手に青年部の信者が出入りすることもできなくなる。支部は古い建物だから、色んなところに傷みが出ている。でも、それを劣化と捉えるか、味わいと捉えるか。古いロックンロールのレコードを聴いた時に、ノイズ音が入るけど、それを劣化と捉えるか、味わいと捉えるか。私は、それに似ている気がするの。牧多君。あなたはどう思う?」

水越賀矢は、一方的に話し終えると、牧多の答えを待たず、部屋の中に入ってきた。

そして、僕たちから少し離れた場所に立った。彼女が若者信者に話をする時に、いつも立つ場所だ。真上にある蛍光灯の光の加減で、顔色が青白く見えた。服装も、いつもの黒ではなく、光沢のある紫のライダースジャケットを着ていたが、青白い顔と相まって、彼女の持つ虚無的な雰囲気が、より強く感じられた。中に着ているTシャツには、夭折したパンクロッカーのモノクロの顔写真が大きくプリントされていた。その顔が、僕たちをにらんでいるように見えて、不気味に思われた。


牧多は、青白い顔の水越賀矢に尋ねた。

「賀矢先生。今まで、どこにいたんですか?」

「某所に隠れていたの。偶然だけど、あなたに、最後にさよならが言える機会ができて良かった。忘れ物を取りに来たのよ。昔、来日したギタリストのジミー・ガルシアから貰ったサングラスがあってね。それを取りに来たの。その来日公演の後、ヨーロッパ公演中に彼は変死した。だから、大事な遺品でもある」

そう言うと、彼女は、二階の住居スペースに行こうと階段に向かった。

「賀矢先生。ちょっと待ってください。最後ってどういうことですか?」

先生が、慌てて、水越賀矢に声をかけた。

彼女はその声に立ち止まって振り返ると、

「だから、さよならです。礼命会本部を叩き潰してやろうと青年部を作ってペンダント売りをやらせましたが、失敗でした。新聞記事になったまでは良かったけれど、大した話題にもならず、SNSも拡散せず、すぐにしぼんでしまった。私の負けです。青沢先生。青年部のことはお願いします。青年部を継続するか、廃止するか、先生の好きにしてください。二階には私の生活品は何もありません。先日、夜中に全て処分しました。サングラスだけ大事だから別の場所に置いておいたら、持って行くのを忘れました。それを取りに来ただけです」

礼命会を叩き潰すという驚くべき話を淡々とすると、彼女は、また二階へ行こうとした。

「礼命会を叩き潰すということは、私、あるいは、礼命会に恨みがあるということですか? だとしたら、その恨みをはらすために、青年部を作った。そして、新聞沙汰になるために、若者信者にお年寄りを騙してペンダント売りをさせたということですか?」

先生の問いに、

「その通りです。けれど、私の神通力が弱かったのか、若者信者が、根性無しの集まりだったためか、失敗しました」

水越賀矢はそう答えると、石本と森野香々美のほうを見た。二人はうつむいた。

「若者信者は、あなたに利用された被害者です。そして、青年部を監督していなかった私の被害者です」

先生は、二人に非がないことを明らかにすると、

「それより、何故、礼命会に恨みがあるのかを教えてください」

と言った。

「そうですね。何も言わないまま、さよならするつもりでしたが、今、ここで会ったのは、偶然ではなく、神縁なのかもしれない。ならば、神様が全て話せとおっしゃっているのでしょう。全てお話しましょう」

水越賀矢は、そう言って、話し始めた。


水越賀矢は、パンクファッション専門店『ダムドール』の経営が、十五年目に入った時、喜びよりも疲れに襲われた。人気がある店だとはいえ、小さな店だ。儲けも少ない。いつ倒産するかもしれない。安心できる日は一日もなかった。彼女は、四十歳になっていた。そのことには、特に抵抗はなかった。歳を取ることをやたらと恐れる者が多い世の中に、疑問を感じていたほどだった。『人間、いつかは、どうせ死ぬんだから、そんなこと、どうでもいいはずだ』というのが彼女の本心だった。それよりも、彼女は、四十歳になっても、『ダムドール』を続けなくてはならず、六十歳になっても、同じく店を続けなければならないことに、ぼう然とした。彼女は、パンクファッション専門店『ダムドール』で成功した。けれども、『ダムドール』を続ける以外、糧を得る手段がない自分にも気づいた。運送会社を辞めて、肉体労働を続け、必死で金を貯めて始めたのがこの店だった。長い年月の中、喜びは疲れに変わっていった。そして、十五年目に入った時、彼女は全てが空しくなった。

そんな時だった。いきつけの喫茶店で、コーヒーを飲みながら、新聞を読んでいると、地方欄に大きく、「礼命会より城跡公園の改修に寄付」という記事を見つけた。読んでみると、長年、市民に親しまれている城跡公園が、老朽化のため、存続の危機にあるが、この度、礼命会代表青沢礼命氏より、高額の寄付の申し出が市にあった。これにより、城跡公園は存続可能となった。青沢礼命氏は、「少しでも市民の皆様のお役に立てることを嬉しく思います」と述べたとあった。記事としては、何の問題もなかった。ただ、水越賀矢は知っていた。礼命会というのは、代表の青沢礼命が、高齢富裕層信者を集めて、高額の寄付をさせている拝金主義的な宗教団体だということを。

「商売柄、沢山の噂が耳に入ってきた。あなたのやっている礼命会のことも。ほとんど宗教活動なんてしていない。いい加減な講話を信者に聞かせては、高額の寄付を集めている。そして、金持ちの年寄りを食い物にしているという悪評が広がり始めたから、慌てて、慈善活動を始めただけ。私は、その新聞記事を読みながら、あなたのように、金持ちの年寄りを騙して、大儲けして、町に高額の寄付までしている人生は、私たち庶民の生活を愚弄していると思った。少なくとも、私の人生を愚弄していると思った。だから、礼命会を叩き潰してやろうと思った」

水越賀矢は、青沢礼命にそう言った。

青沢礼命は、彼女の話を聞いて、

「たったそれだけのことで、人気店だった『ダムドール』を閉店したうえ、青年部まで作り……」

と呟いた。そして、

「あなたが、不快に感じたことについては、お詫びします。他にも多くの人が同じ思いを抱いていると思います。ただ、礼命会を潰すために、長年、経営してきた店を閉じることが、果たしてできるのでしょうか? あなたを愚弄していると感じる宗教団体を潰そうというだけのために、愛着のある店を閉じられるとは私は思わない。あなたは、本当は何を考えて、こんな行動に出たのですか?」

先生はそう尋ねた。

「その質問に答える前に、青沢先生。あなた、少し会わない間に変わりましたね。以前のあなたなら、私がいくら批判しても、ヘラヘラ笑って答えなかったはずです。何かあったのですか? まあいいでしょう。それよりも、現実に、私は行動した。そして、失敗した。だから、私は夜逃げ同然で逃げる。これが全てです。そして、それだけです」

水越賀矢は、それだけ言うと、二階に忘れたサングラスを取りに行こうとした。

彼女は、ひどくさばさばしていた。負けてすっきりしたということだろうかと僕は思ったが、それも違う気がした。彼女は、先生の質問にまともに答えていないのだ。だから、感情的にもならずにいられる。水越賀矢は、誰からも理解されないまま、逃げることだけを考えていることに気づいた。とても孤独な人だと僕は思った。


三.

「賀矢先生。まだ、二階に上がるのは早いです。私の話は終わっていません。ここからが、本題です。繰り返しになりますが、いくら不愉快に感じたとしても、その宗教団体を潰すだけのために、私は、あなたが、愛着のある店を閉じられるとは思いません」

二階に行こうとする水越賀矢に、先生が言った。

話は終わったと思っていた水越賀矢は、不機嫌な表情になり先生を見た。

「新聞記事が出てから、牧多君と杉原君に、賀矢先生の集会での若者信者への説教が、どんなものだったか教えてもらいました。幾つか興味深い点がありました。それが、今回の青年部設立に深く関わることではないかと私は考えています」

「何が言いたいのか、はっきり言いなさい」

水越賀矢は苛立ちを見せた。

先ほどまで、感情的にならずにいられた彼女に変化が現れた。

「彼らから、あなたの説教の内容を教えてもらいました。国家に有用な人材、国家の繁栄、永久の夫婦の幸せ、夫はよく働く、妻は子どもを沢山産む、これらの言葉を聞いて、私は、最初、あなたはナショナリストかと思いました。でも、私はそうは思いません。そこで、国家に有用な人材、国家の繁栄は、若者信者に国を背負って立つ必要があるというプレッシャーをかけ、彼らの不安を煽り、あなたに、すがるようにするための言葉だと思いました。つまり、あなたが本来抱く思想とは違うということです。更に、そこから考えて、夫は仕事、妻は子どもを産むも、あなたの思想ではないと思いました。ただ、『永久の夫婦の幸せ』については、分類ができないのです。分類ができないということは、この言葉だけは、あなた自身の思想である可能性が高いということになります。但し、『永久の夫婦の幸せ』という言葉では、まだ漠然としています。そこで、私は、『夫婦』という言葉だけを取り出して考えてみました。すると、あなたの求めるものに辿り着くように思えました」

先生の話を聞いた、水越賀矢はニヤリと笑った。

「青沢紀秋さん。あなたが、十年前まで、G大学の付属病院で精神科医をしていたことは調べて知っています。彼らから聞いた私の説教を基に精神分析をしようとしているのでしょうが、そんなもの聞く必要はない」

彼女がニヤリと笑うのを見て、僕は、青年部の集会で若者信者にサディスティックに説教をしていた彼女を思い出した。そして、無意識に体が震えた。

その水越賀矢に対して、先生は次のように話した。

「精神分析は難しい専門領域です。私は、あまり得意ではありません。それよりも、賀矢先生。今から杉原君の話を聞いてください。彼が以前、私に話してくれた家族旅行の話です。杉原君、申し訳ないけれど、話してくれるかな?」

僕は突然、先生にそう言われて驚いたが、以前、ワゴン車に先生と二人で乗っている時に、僕が先生に話した思い出話のことだと分かった。だから、「いいですよ」と了解した。

そして、僕は、子どもの頃の思い出話を話し始めた。

水越賀矢は、怪訝な表情を浮かべながらも僕の話を聞いた。


僕が、小学校三年生の時のことだった。その頃も、僕の家は経済的な余裕はなかったけれど、父が、僕が一度も、旅行に行ったことがないことを可哀そうだと言って、家族三人で一泊二日の旅行をした。でも、前日から、父の精神状態が悪くなったため、母は旅行をやめようと父に言った。父は、今更、中止できない。旅館もキャンセル料を取られると言って旅行に行くことを譲らなかった。翌日、朝早くから、電車に乗って、目的地に向かった。初夏の爽やかな陽の光が車窓から入ってきた。母と僕は、「気持ちいいね」と言ったが、父は、陽の光が眩しいと頭を抱えてしまった。僕は、こういう時は何も言わないのが一番だと知っていたので、黙っていた。でも、母は、前日に中止にしようと言ったのを、父が譲らず、旅行に出た結果、電車に乗ってすぐに頭を抱えたものだから、その様子に、ひどく腹が立ったようだった。だから、普段なら、母も黙っているのに、この時は、「だから、中止にしようって言ったでしょ。今からでも、家に帰りましょう」ときつい口調で言った。すると、父は席を立つと、僕たちから離れた席に座り、ひと言も話さなくなった。それから、観光地に行く特急電車に乗り換えても、違う席に座った。指定席ばかりなので、車掌に注意されると、デッキにずっと立っていた。母も、その時には後悔していたが、父が一旦、ああなるとどうしようもなかった。父自身が、落ち着きを取り戻すまで、黙って様子を見ているしかなかった。旅館に着いてからも、僕たち家族が滞在する一階の部屋は沈黙に支配されていた。母と僕は、父を置いて、どこにも行くことはできなかった。一人にしておくと何をするか分からない気がしたからだ。何時間も、沈黙が支配する部屋に夜が訪れた。夕食の時間だった。食事を運んで来た旅館のおばさんが、僕たちの部屋が異様に静かなことに気づいた。そして、気を使って地元の名所の話を少ししたが、すぐに逃げていった。

夕食の時、僕は極度に緊張していた。そして、普段なら、しない失敗をした。慣れない浴衣を着ていたこともある。僕は浴衣のたもとを湯呑みに引っかけて、お茶を机の上にこぼしてしまった。それを見た父が、僕の腕をつかむと旅館の庭に引きずり出した。庭には池があり、鯉が泳いでいた。父は池まで僕を引きずっていくと、「気が弛んでいるからだ。気が弛んでいるからだ」と言いながら、僕の頭をつかんで、池に僕の顔を何度も何度も沈めた。母が、やめさせようとしても、父の異常な力にはかなわなかった。そのうち、一階の隣の部屋の宿泊客が、異変に気づいて、庭に飛び出してきて、止めに入ってくれた。海釣りに来た男性客三人だったので、父をはがいじめにして止めた。父は、その後、警察に連れられて行った。二階から様子を見ていた宿泊客が通報したのだった。僕と母は二人で旅館の部屋で寝た。次の日、父を警察に迎えに行った。

「和志。すまなかった。ちょっとお父さん。調子が悪かったみたいで。もう大丈夫だから」

父はそう言って笑った。

父が笑うことは滅多にないので、僕は貴重なものを見た気がした。

その後、三人で、砂浜を歩き、名所の洞窟の前で、他の観光客にカメラを渡し、記念写真を撮って帰ってきた。

以来、一度も、家族旅行には行っていない。母は、二度と行かないと言っている。


僕は、水越賀矢に家族旅行の思い出話をした。そして、父の名誉のために、「暴力を振るう人ではないんです。この時一度だけです」と補足した。

水越賀矢は、

「杉原君。あなた、普通の男の子だと思っていたのに、そんな深刻な家庭で育ったの?」

と言った。

そういえば、彼女と僕は、牧多を介してしか、話をしていなかったから、僕の家庭の詳しいことは彼女は知らないんだと思った。それに、僕がこの話をしたのは、牧多と先生だけであり、僕自身も、よほど信頼できる人間にしかこの話をしないことに気づいた。つまり、僕自身の中でも、相当深刻な思い出だと認識していることをこの時知ったのだった。


四.

僕の家族旅行の話を聞いた水越賀矢は、彼女が本当にしたかったことは何なのかを話した。それまで、頑なに話すのを拒否していた彼女が、僕の家族旅行の話を聞いて本当のことを話す気になったのだ。つまり、僕の家族はそれだけ壮絶な家族だということになる。僕は改めて複雑な気持ちになった。

「私が、『ダムドール』を閉店して、『礼命会ダムドール支部』まで設立し、若者信者にペンダント売りをさせた目的は、礼命会を潰すためじゃない。それは、表面的な目的だった。本当の目的は、私の心から抜け落ちている『親の愛情』を埋めるためだった。私はずっと分からない。何故、私は生まれてきたのか? 父親は、酒と博打しかない。母親は、生活費を稼ぐのに必死。私は二人にとって邪魔な存在だった。それなら、私なんて産まなければ良かったのにと思うけど、現実に、私はこの世に生を受けてしまった。一度でいい。非の打ちどころのない恋人同士を見てみたかった。私のやり方がおかしいことは分かっていた。それでも、ただ優秀なだけじゃなく、世の中を強く生きていけるタフさをあわせ持った恋人同士を見たかった。そんな二人なら、社会の厳しさに負けず、将来、二人は結婚し、幸せな家庭を築けると思った。社会の落後者として酒と博打に溺れた私の父親と、それに振り回される私の母親と違って、愛情のある家庭を築けると思った。現実に結婚までを私は見届ける必要はない。ペンダント売りに勝ち抜いた恋人同士を見られれば、それでいいと思った。目の前に、大きな可能性を持った恋人同士が存在することを確認できれば、私の中にも確信が持てる気がしたから。私の人生に空洞のように抜け落ちている父親と母親からの愛情を確かめられる気がした。結婚が絶対などとは思わない。むしろ、私にとって結婚など意味のないものとしか思えない。それより、私は、私の心の中から、ぽっかりと抜け落ちた両親からの愛情を埋めることで、何故、自分がこの世に生まれてきたのか? その意味が分かる気がした。一度でいいから、私の父親と母親とは対極にある男女を見たかった。そして、そんな男女が本当にいることをこの目で直に確かめたかった。そうすれば、私は、私の生きる意味が初めて分かる気がしたから」


水越賀矢の告白に、誰も何も言えなかった。特に石本と森野香々美の驚きが大きかった。二人にとって水越賀矢とは、カリスマ宗教家であり、絶対的な存在であっただけに、生身の人間としての痛切な思いを聞かされて、そのギャップにどう対応していいのか分からないようだった。牧多と僕は、二人のように動揺はしなかったが、彼女にどう声をかけていいか分からず黙っていた。そのため、沈黙が続いた。

先生が沈黙を破った。

「パンクファッション専門店『ダムドール』の成功でも、あなたの心の穴は埋めることはできなかったんですね。何かを補うための行為、代償的、補償的行為には、やはり限界があるということなのでしょうか? 特に愛情を他の何かで補うことには限界があるのでしょうか?」

先生は、沈黙を破ったが、更に彼女に問うていた。

問われた水越賀矢は、

「青沢先生。それは、私のこと以上に、ご自分の精神科医としての経験への疑問なのでは?」

と先生に言った。

先生は「はい。その通りです」と答えた。

そして、自らの体験を話し始めた。水越賀矢に聞かせるべき話だと思ったからだった。そして、僕たちに、自分の過去を打ち明けるべき時が来たと思ったからだった。

「私の親族に、医者はいません。皆、経済人です。同族経営の会社です。そして、高校の頃までは、私もその一員になるつもりでした。私が高校の頃、特に会社の業績が良く、それは社長だった父の才覚でした。父は新しい事業を次々に手掛けるものの、才気走った人間ではなく、慎重で穏やか人間でした。一個人としても、経営者としても、バランスの取れた人間でした」


そのように話し出された先生の話は、悲劇的な話であると同時に、不思議な話であった。先生でなくても、同じ体験をしたら、精神科医を辞めると僕は思った。まず、先生を襲った大きな悲劇は、先生のお父さんが、先生が高校二年の時、自殺したことだった。何の予兆もなく、ある日突然だった。

「父は、数年前に祖父から社長職を譲り受けたのですが、そのことで大きなプレッシャーを感じているようにも見えませんでした。また、心身ともに健康な人で、大きな悩みを抱えていることもなかった。遺書もありませんでした。その代わりに、三日後が私の誕生日だったので、私のために誕生日プレゼントを用意してくれていました。私が以前から欲しいと言っていた腕時計でした。高価なものだったので、高校生だった私が自分で買うことはできないものでした。父の書斎の机の引き出しに入れてありました。亡くなってから、遺書を探している時に母が見つけました。子どもの誕生日プレゼントを用意して、誕生日の三日前に、自ら命を絶つ父の心が理解できず、遺された者は皆、混乱しました」

先生は、そう話すと、誕生日プレゼントが、父の形見になった腕時計を見せた。

いつも先生の左腕に巻かれている時計だった。以前から、趣味のいい時計だと思っていたけれど、まさか、先生のお父さんからの最後の誕生日プレゼントだとは思わなかった。普通の高校生は欲しがらないシックなデザインの時計だった。今の先生によく似合う。高価なものだとは思うけど、僕は、ブランドの時計とかそういうものに縁がないので、具体的な価値などは分からなかった。

「私は、G大学の経済学部に進む予定だったのですが、医学部に進路を変えました。精神科医になって父が一体何を考えていたのか? 何故、自ら命を絶ったのかを知るためでした。その話をすると、母も他の親族も反対できませんでした。私には兄がいて、既に兄がG大学の経済学部に在籍していたので、会社は兄が継ぐのだから、私には、望む通りにさせてやろうということになりました。そして、医学部を目指し勉強をし、G大学の医学部に進むことができました」

先生の話を聞きながら、僕は、先生の人生は、暗いエリートとして、本格的にスタートしたのだと思った。自殺した父の真意を見つけるために精神科医を目指したなんて、あまりにも暗い動機だと思った。

すると、水越賀矢が、

「青沢先生。それで答えは見つかりましたか? 悲壮な覚悟で精神科医になって、それでも、お父様の真意が分からなければ、永遠に先生は解放されないままです。先生自身が、答えを見つける前に、限界になってしまった。そして、精神科医を辞めたのでは? そんな風に考えてしまいますが?」

と尋ねた。

「確かに、あのまま働いていたら、実際に、そうなったかもしれないと思います。でも、私が医者を辞めたきっかけは、もっと奇妙な出会いからでした。十年前のことです。大学病院で働く私は、ある患者を担当することになりました。入院患者でしたが、私は、最初の診察で、その人、仮にUさんとしますが、Uさんに会って驚きました。自殺した父に非常に似ていたからです」

「容姿が似ていたということですか? それとも、全体的な雰囲気ですか?」

森野香々美が先生に尋ねた。

石本も、先生の話に強い関心を抱いていた。

先生は、二人を見ながら、

「父は丸顔で中肉中背の体型だったけど、Uさんも同じだった。顏はそれほど似ているわけではなかったけど、話し方や笑い方、驚いた時の表情がとても父に似ていた。だから、容姿も雰囲気も似ていたということだろうね。穏やかな紳士だった」

それから、先生は、どうしても、診察のたびに、死んだ父に再会しているような気持ちになったと言った。そして、診察以外の時でも、Uさんのことを考えることが多くなった。

「Uさんは、それほど、重い病気ではなかったのですが、治療経過が良くないということで民間の病院から大学病院に移ってきた人でした。それから、大学病院で、チームを組んで、Uさんに集中的に治療を行うと、病状は良くなりました。気持ちも安定して、退院の目途も立ちました。私は、何故、父が突然、自ら命を絶ったかは、その時も、まだ分かりませんでした。でも、Uさんの病状が改善し、退院の目途が立ったことで、自分の心の重荷が軽くなったように思いました。もし、父が本当は深く悩んでいて、自分が、あの時、高校生ではなくて、精神科医だったら、父を助けることができたのではないか? 医者としてのキャリアを積めば積むほど、思い詰めるようになっていました。医者になった当初は、必死で父の死の謎を追いかけていました。それが、キャリアを重ねて自分に余裕が出てくると、今度は、父の死を私自身の責任にして、自分を責めるようになりました。あまりにも、父の死による心の傷が深かったため、自分を責めることでしか、その傷を癒せなかったということだと思います」

目の前で話す先生は、完全に精神科医青沢紀秋に戻っていた。

「その後、Uさんは無事退院しました。退院の日でした。ご家族が迎えに来て、デイルームに一緒にいる時に、Uさんは、奥さんからメモ帳とボールペンを借りて、絵を描いていました。そして、退院するUさんを見送るため、デイルームに向かった私に、『私の病気が良くなったのは、青沢先生と私の強い信頼関係があったからです』。Uさんは、そう言って、私と握手をしました。そして、その時、描いた絵を私にくれました。Uさんと私の手が力強く握手をしている絵です。それが握り手様の絵です」

水越賀矢も、他のみんなも、突然、先生の話が、礼命会の御神体の握り手様に移ったので、十年前から今に舞い戻ったような感覚に陥った。

「先生。五年間、ずっと気になっていた握り手様の由来が分かったことは、ありがたいけど、その後、Uさんはどうなったの?」

と牧多が皆の気持ちを代弁した。

先生は、少しためらってから話した。

「Uさんは、退院して、三日後に、自殺した。父と同じで首を吊って自殺した」

誰もが、言葉を失った。

「私は、父の自殺により精神科医になりました。そして、大学病院で出会った父に似たUさんも、自殺しました。私は医者を辞めました。主治医としての責任を取るためでした。でも、本当の理由は、その時、神によって審判を下されたからです。Uさんとは神が私を試すために使わせたもう一人の父だったのではないでしょうか? 父は救えなかったが、精神科医になったお前なら、もう一人の父であるUさんを救えるのか? そのための使者がUさんだったのではないでしょうか? 私にはそうとしか思えません。私はそれまで神を信じたことはありませんでした。でも、Uさんを救えなかったことにより皮肉にも、神を信じるようになりました。私は神の審判に従い医者を辞めました。そして、無力感に苛まれたまま宗教家になりました。冷笑と諦観の世界に生きる宗教家青沢礼命になったのです」


先生の話も、水越賀矢と同じく、壮絶なものであった。先生は、父の死の真相を知るため医師を志し、更に、先生の父に酷似したUさんの死という奇妙な出来事に挫折した。そして、そのために、礼命会開祖青沢礼命になった。先生の神の審判の話については、僕は、肯定できない。でも、先生が苦悩のあまり導き出した一種の虚構だと思うから否定もできない。僕は、先生が、決して、シニシズムの人ではなく、精一杯生きてきたけれど、それを超える過酷な出来事のために、そうならざるを得なかったことを知った。だから、僕は先生を否定できないどころか、大学にも行かず、教会の書斎で寝起きをし、毎日を惰性のように生きている自分を恥じた。そして、僕も、もう今の生活を卒業する時が訪れたと思った。


最終章

一.

今、礼命会ダムドール支部、つまり、かつての、パンクファッション専門店『ダムドール』の建物は、空きテナントになっている。青年部が廃止になったわけではない。丘の上の教会本部に統合されたのだ。そして、本部と支部合同で集会をしている。もちろん、個々に行う活動もある。例えば、青年部が初夏に予定している登山活動だが、高齢信者にはさすがに登れない。


そして、教祖青沢礼命は、もう礼命会にはいない。先生は、今、遠い街の精神科の病院で医師として働いている。その病院が、自死予防の研究で実績のある病院だからだった。

あの晩、最後に先生は言った。


「神から審判が下った。そう考えていた私でしたが、ペンダントの問題を通じて、私は、その考えに逃げていたのだと気づきました。父が何故、自ら命を絶ったのかは分かりません。これからも分からないかもしれません。でも、入院患者のUさんが、退院後、三日目に自ら命を絶った理由は、私の診断が間違っていたからです。退院するほど、まだ病状は良くなかった。それなのに、私が、Uさんの状態の良い時ばかりを見て誤った判断をしてしまったのだと思います。また、Uさんが父に似ていたことは、全くの偶然です。そこに何も意味はない。父と関連づけることは誤診に繋がる危険がありました。実際に、私が退院の判断を誤ったのも、父と関連づけたからかもしれません。その可能性を私は否定できません。そして、私はその過ちを心に刻んで、精神医学の世界に戻ります。私には、科学に基づいて人を助けるという使命があると思うからです」


ペンダントの件も、無事解決した。翌日、先生、牧多、僕、石本と森野香々美、そして、ペンダント売りの問題の張本人である水越賀矢も加わって、みんなで分担して、高齢者の家々を謝罪し返金して回った。やはり、高額ではなかったこともあり、スムーズに謝罪と返金が終わった。それから、すぐに先生が、瀬木に電話をして、無事解決したことを伝えた。瀬木は次の日の朝刊の地方欄に記事を載せてくれた。記事には、新設した青年部の修行の一環のつもりだったが、配慮が足りなかった。礼命会信者が高齢者宅を一軒ずつ訪問して謝罪と返金を済ませた、とあった。

水越賀矢は、記事を読みながら、

「城跡公園の記事も、この瀬木という人が書いていた。この前のペンダントの記事も同じ。今日の収束記事も瀬木記者。何の因縁か知らないけど、結局、この人は私の人生に、良い影響を与える人なのか、悪い影響を与える人なのか、どっちなのかしら?」

と呟いていた。

隣にいた僕は聞こえないふりをした。


そういえば、先生は去り際にこんなことも言っていた。礼命会に高齢富裕層信者が集まったのは、先生が意図したものではなく、先生が医者を辞めてから、訳も分からず街頭で説教をしているうちに、集まったそうだ。何に惹かれたのだろう? 先生はこう言った。先生自身にとって、最もできないことを街頭で話していた。世界中の貧困をなくすとか、紛争地の子どもを助けるとか、心が痛むけど、実際に、何かできるかと問われると、答えられないことばかりを話していた。先生自身はその時、置かれた状況の無力感を表す意味で話していた。人は人を救えないのだと。でも、集まった高齢富裕層は、こう思ったようだ。彼らは間もなく満たされたまま人生を終える。その緩やかな終焉の中で、世界中の悲劇に触れることにより、心にわずかでも痛みを感じられれば、自分の良心は最後まで消えていないと思える。満たされたまま終わりを迎える自分に幾らかの後ろめたさを感じている彼らにとって、良心を失っていないという証が心の痛みであり、それを与えるのが礼命会であった。だから、礼命会とは、彼ら信者にとって、心地よい諦めの世界だった。何も感じないより、ほんのわずかでも心の痛みを感じたほうが、たとえ、自分は世界に対して無力であったとしても、善人ではあったと思えるから。そう先生は言った。

僕は、その話を聞いて、やはり、貧乏人には無縁の話だと思った。死活問題に絶えず追われている人間には、自分が、善人か否かなんて考えている余裕はないからだ。そして、僕も、そんな余裕のない人間だと思った。


水越賀矢が礼命会の新代表になった。

先生から代表就任を頼まれた時、困っていたが、

「高齢富裕層信者は、本当は、あなたのような人生経験が豊かな人の話が聞きたいのです。私は、医療という特殊な世界だけしか知りません。講話も自ずと退屈になります。結果、私は、世界中の悲劇という話ばかりに逃げてしまいました。礼命会をあなたの力で生まれ変わらせてください。十五年間のパンクファッション専門店『ダムドール』で経験したことを話してあげてください。信者の中には、今でこそ、富裕層になっているけれど、若い頃は苦労した人も沢山います。是非、その人たちのためにも、あなたの人生を伝えて欲しいのです。そして、いずれは、高齢富裕層、若者富裕層だけではなく、誰もが信者になれる礼命会にしてください。偶然にも、高齢富裕層信者が集まったことから、あえて金の力を信じるようにすれば、誰よりも、私自身が救われるのではないかと思うようになりました。でも、当たり前のことですが、お金は人を救ってはくれません。それに、教祖の私が救われたい宗教なんて宗教として成立していません。礼命会は、まだ本当の宗教団体とは言えません。あなたの力で、悩み、迷う人を真に救って欲しいのです。そして、礼命会を本当の宗教団体にしてください」

先生のこの説得により、彼女は、強く心を動かされた。

そして、先生は、続けて、この話をした。

「私には、二十人の若者信者をあんな風に集める不思議な力はありません。科学的にも解明できない力であり、それを神力と呼ぶのかもしれませんが、私にはその力がないだけに判断できません。でも、私は、その不思議な力を人の幸せのために役立てるのに最も相応しい場所は、礼命会だと思います。あなたの中の神が、あなたに若者を救うために、礼命会に入るように告げたのが、本当かどうかは分かりません。でも、どんな動機にせよ、あなたは、礼命会に入ることを望んでいました。その時、牧多君から礼命会への入会を勧められましたが、あなたを礼命会に導いた神は、あなたの中の神ではなく、礼命会の神だったと私は思います。あなたの心の奥に秘めた礼命会への思いを知った上で、礼命会の神は、神がかりのあなたを受け入れたのです。二つの神が一つの教団に存在すること、つまり『双頭の神』の宗教になることを覚悟して、礼命会の神は、あなたを受け入れたのだと思います。理由は、心に負った深い傷に苦しむあなたを救うためと、あなたが、礼命会の二代目教祖として相応しい人物だと見抜いていたからだと思います。礼命会の神は、手と手を強く握り合った信頼の神である握り手様です。『双頭の神』になった時も、きっと、あなたと私が、信頼し合う関係になることを信じて見守っていてくれたのだと思います。水越賀矢さん。お願いがあります。私の代の握り手様は、シニカルな意味合いが強く、信頼の神とは言えませんでした。是非、あなたが二代目教祖となり、真に握り手様を、信頼の神にしてください」

この話を聞いた水越賀矢は、

「私は、礼命会に導かれ、そして、私は、礼命会の神様に救われたんですね。感謝の言葉もありません。同時に、私は、礼命会を利用し、若者信者に詐欺まがいのことをさせてしまいました。それにより、礼命会の信頼を傷つけてしまいました。私は、本来、礼命会には二度と関わってはいけないはずの人間です。でも、青沢先生のお話を聞き、私、水越賀矢は、礼命会二代目教祖を青沢礼命先生から継ぐことを決意しました。私は、私自身の人間的な成長を通して、握り手様を真に信頼の握手の神様にすることを生涯の目標とします。そして、それが同時に、私の贖罪であると考えます」

と二代目教祖を継ぐことを決意した。


そして、それは、教祖青沢礼命が、精神科医青沢紀秋に戻ることも意味していた。

先生は、この後、すぐにいなくなってしまった。遠い街の病院は、自死予防という難しいテーマに取り組んでいるだけに、なかなか医療スタッフが集まらないからだった。

先生は、急いで遠い街に行ってしまった。

そのため、先生は、薄青色の眼鏡を教会に忘れていった。

先生がいなくなってから、握り手様の絵の前に薄青色の眼鏡があるのを僕は見つけた。

「牧多。先生が眼鏡を忘れていった。どうしよう?」

僕が牧多に尋ねると、

「違うよ。先生は、わざとここに置いていったんだよ。そして、俺たちのことを見守ってくれてるのさ」

と言った。

牧多は、薄青色の眼鏡をそっと手にした。それから、しばらくの間、僕らは黙って眼鏡を見ていた。


二.

僕は、四月の新年度を前に大学の学生課に行って、定期テストを二回受けなかったことを話し、これからどうすればいいか相談した。すると、学生課のベテランの女性職員は、僕の成績表と単位取得表を持って来て、じっと見た。そして、まだ、わずかだが、四年で卒業できる可能性があると言った。ただ、夏休みを始め長期休暇の間にある特別講義や補講に沢山出席する必要があると言った。普段も、夜間部の授業と重なる時間帯に補講を受けないといけないと言った。かなり大変だが、それ以外に方法はないと言った。僕はやりますと言った。

彼女は微笑んで、

「誰にでも失敗はあります。何もかもが嫌になる時もあります。でも、人は必ず救われます」

と言ってくれた。まるで、宗教の教えのようだと僕は思った。

僕は嬉しかった。そして、礼を言って学生課を後にした。


森野香々美が、電話をしてきた。大学のことを心配してくれているのだった。

僕が、まだ四年で卒業できる可能性があると言うと、安心してくれた。

彼女は、石本と交際を解消し、友だちに戻った。他の信者も、交際を解消し、友だちに戻った。

僕は、森野香々美を始め、青年部の信者は全員辞めるのかと思ったのだけれど、みんな残った。

森野香々美にそのことを聞くと、

「みんな同じ境遇で悩んでいるのよ。そんな友だち中々できないから」

と言った。

境遇とは、金持ちの家に生まれたことだった。

一見幸せそうに見える彼らも、やはり、心細いのだと改めて僕は思った。

僕も、四月から大学の経済学部に戻る。でも、不安だった。

僕は、先生が教団を去る時、残していってくれた言葉を思い出した。

「生きにくさと違和感は苦しいと思う。でも、杉原君が生きにくさと違和感を覚えるのは、君が、それだけ生きることを一生懸命に考えているからなんだ。適当に流してしまえば楽なことを君は流さない。じっと考える。深く考える。だからこそ、一つ一つのことが、ゴツゴツと君の心にぶつかるんだ。それが、君の生きにくさと違和感の正体なんだ。辛いけれど、悪いことじゃない。今は苦しくても、将来、きっと君の役に立つことだ。だから、無理に変えようとしなくていい。今のままでいいんだ」

僕は、先生の言葉を信じて、再び大学へ行くことを決意したのだった。


僕は、今、経済学舎の入り口前のベンチに座っている。

春休みも終わりが近づいて、学生の数が増えている。頻繁に学生が学舎に出入りしている。

牧多が、彼の兄の中華料理店で事務職として正式に働き始めた。

そのことで、僕が焦ることはない。彼の能力は知っていたから。ただ、少しさみしく感じた。彼が正式に事務職に就き、僕が大学に戻るということは、お互いに違う道を歩み始めるということだからだ。

僕は、大学に戻ったら、いずれ礼命会は辞めると思う。

僕が、この八カ月間で分かったことは、僕は、体質的に宗教を必要としない人間だということだ。無神論者だということではなく、それ以前に、僕は何かに頼ったり、すがったりする必要のない人間だということが分かった。だから、礼命会の会員である理由がないのだ。それで、辞めるわけだけど、僕は、この八カ月間のことを決して、忘れない。先生のこと、牧多のこと、水越賀矢のこと、そして、青年部の信者のこと。他者に無関心な僕が、これほど人に関心を持って接したことは生まれて初めてだった。そして、もしかしたら、もう二度とないかもしれない。だからこそ、僕は、この八カ月間のことを忘れないために、この長いダイアリーを書いた。僕が、礼命会を通じて出会った人たちとの記録、それが、『僕の宗教ダイアリー』だ。

僕は、これからも、人生の灯として、また、人生の羅針盤として、このダイアリーを読み返すだろう。


最後に、宗教を必要としない僕が、神を持ち出すのも変だけど、礼命会を通じて出会った人たち、そして、このダイアリーを読んでくれた人たちに、神のご加護のあらんことを祈り、終わりにしようと思う。

心からの謝意を込めて。

さようなら。



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双頭の神 Two-headed god 三上芳紀(みかみよしき) @packman12

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