姪に関する伝言

尾八原ジュージ

姪に関する伝言

 未来の僕へ。覚えていたらいい。何のことかわからなかったら読め。


 二〇二三年五月十日、姉さんが突然実家に帰ってきた。突然プロのダンサーになると言い出して両親の反対を押し切り、半ば家出するみたいに東京に出て行ってから五年ぶりの帰郷で、おまけに赤ん坊が一緒だというから僕も父も母も皆驚いた。覚えているだろうか?

 駅に着くと小雨が降っていた。電車からおりてきた姉さんは見る影もないほどやつれていて、胸にピンク色のおくるみを抱いていた。「ひさしぶり」とかなんとか言いながら母さんがおくるみの中をのぞき込んだとき、駅舎の天井に「ひっ」という声が響いたのを、僕はまだ覚えているだろうか。

 おくるみの中にいたのは赤ん坊じゃなくて、藁の塊だった。藁を縛ってまとめて、赤ん坊くらいの大きさにしたものだった。ぎょっとして固まっている僕たちに、「陽菜っていうの。名前」と無表情の姉さんが言った。

 明らかに様子がおかしかったけど、とにかく家につれて帰ることになった。

 姉さんは東京で出会った男と同棲しており、ゆくゆくは結婚もするつもりだったという。でも妊娠を告げた途端に、相手が逃げてしまったらしい。身重の体ではダンサーの仕事もできず、出産後はいよいよにっちもさっちもいかなくなって、捨てた故郷に帰ってきたのだという。帰郷の理由としては納得がいくけれど、肝心の子供が問題だった。姉さんが抱っこしているものは人間の赤ん坊じゃない。藁人形だ。

「とにかく疲れているだろうから、部屋で休みなさい」

 父さんが言うと、姉さんは静かにうなずいて、家を出て行った当時のままの自室に引っ込んだ。それから父さんと母さんと僕での緊急家族会議が始まったのだが、その内容を覚えているだろうか? とにかく姉さんは様子がおかしい。一日も早く心の病院に連れて行くべきだ。満場一致でそう決まった。

 姉さんに「それ赤ん坊じゃなくて藁人形だよ」などと告げて無駄に興奮させるのはよくないと思った。とりあえず「陽菜ちゃん」は人間の赤ん坊のつもりで扱って、極力姉に話を合わせることにしようと決めた。そのことを僕は覚えているだろうか?

 こうして眠れない夜を過ごした翌朝、欠伸をかみ殺しながらキッチンに行くと、父は朝食を作り、母は洗濯物を干し終えるところだった。ダイニングチェアには姉さんが藁人形を抱えて座り、本物の赤ん坊をあやしているみたいにゆらゆらと揺れていた。

「お姉ちゃん、疲れてそうじゃない。陽菜ちゃんのお守りで眠れてないんじゃないの?」

 母さんが声をかける。

「そうなの。抱っこしてないと泣くから大変で」

 姉さんが答える。本当に泣くわけがないのだが、どうやら疲労は本物のようだ。

「代わりに抱っこしててあげるから、ちょっと寝てらっしゃいよ」

 母さんがそう言うと、姉さんは少し渋ったけれど、結局藁人形を預けて部屋に引っ込んだ。そのときのことを覚えているだろうか? 母さんは預かった人形をどこかに置くかと思いきや、姉がやっていたように抱っこしたままゆらゆらと揺らし始めたのだ。

「母さん、姉さんは見てないんだから、そのへんに置いといていいんじゃない?」

 そう言うと母さんは「何言ってんの、この子は下ろすと泣くってさっき言ってたじゃない」と勢いよく反論した。

「まぁ泣くのも赤ん坊の仕事さ」

 父が言った。「そら、わかるかな? じいじだよ〜」

 あのとき心底ぞっとしたことを、僕は覚えているだろうか? 皆がに振舞いだした日のことを。

 父さんや母さんだけじゃない、道端で会った近所の人たちだって、本物の赤ん坊に接するみたいに「かわいいねぇ」とか「小さいねぇ」なんて声をかけてきた。なんの説明もなく、いきなり藁人形を見せられて、あんなふうに反応できるものだろうか?

 僕ひとりが困惑するなか、姉は故郷にどんどん溶け込んでいった。父さんも母さんもすっかりに夢中だ。最初は藁人形に見えていたことなんか、ちっとも覚えていないらしい。

 一月経った今では、姉もずいぶん明るくなった。藁人形を抱いたまま「やっぱり頼る人がいるといいね。帰ってきてよかった」なんて笑ったりしている。陽菜がもう少し大きくなったら仕事を探したいなんて、そんな話もしている。

 最近では、自分一人だけがおかしいんじゃないかと思う。もっとも僕だって、孤立するのが怖くて赤ん坊が見えるふりを続けているのだから、とっくにおかしくなってはいるのかもしれない。

 未来の僕へ。これを読んでいる僕の目には、あの藁人形――陽菜の姿はどう映っているのだろうか? もしかしたらもう、あれが本物の赤ん坊のように見えているのか? 僕が今こうやって悩んでいることも忘れてしまったのだろうか? それならそれでいいのかもしれない。でも僕は、どこかに記録を残しておかなければならない気がして仕方がないのだ。

 だからいつか自分の目に留まるように、こっそりと色んなところに手紙のようなものを書いておく。こうしておけば未来の僕に届くだろうか。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 先日買い取ったばかりの古本をチェックしていたところ、ある文庫本の中表紙に、手書きの文章がみっしりと書かれていた。

 若い男性の遺品である。ノイローゼのために自殺したという。

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