一輪の花

みしま なつ

一輪の花【1/1】

オキは、銀色のその花がとてもとても、好きでした。

群れが偶然立ち寄った暗い森でひっそり咲いていたその花は、

たった一輪で、風に揺られていました。

「なぁ、お前の名前は?俺はオキ」

気になって話しかけたものの、返事はありません。

「名前ないんだったら俺がつけてやる。

 そうだなぁ…チノっていうのはどうだ?

 …文句言わないと決まっちゃうぞ。

 …いいんだな、よし、じゃあお前はチノだ」

チノは、ただ風に揺られるだけです。

オキは唸って、続けます。

「…仕方ないか、お前、花だもんな。

 喋れるわけないか。

 でもお前、きれいだな。

 俺、お前みたいな花、初めて見た」

オキはチノに、いろいろな話をしました。

自分が見てきたこと、聞いたこと、感じたこと、

まだ幼いオキの知っていることは少なかったけれど、

チノが何も言わずに聴いてくれるので、オキはたくさん、話しました。

揺れる様が頷いているようで、オキは退屈しませんでした。

「お前って、おとなしいな。

 俺の仲間はガサツでさ、ひとの話なんか全然聴きゃしないんだ。

 …ああ、そろそろ戻らないと、怒られる。

 チノ、また明日来るからな」

夕焼け空を見上げて、オキは群れの中へ、戻っていきました。

そして次の日も、また次の日も、オキはチノに会いに行きました。

チノはいつも穏やかに笑っているかのように揺れて、

オキはその暖かさがとても、好きでした。


けれど、オキは獣の子だったので、群れの移動に従わなければなりません。

チノとの別れは当然、やってきました。

オキは悲しかったけれど、どうにもなりませんでした。

長が行くといえば、行くのです。

群れで生きるということは、そういうことでした。

別れの日、オキは小さなチノに向かって言いました。

「ほんとは行きたくないけど、行かなくちゃ。

 また、いろんな話持って帰ってくるからさ。

 待っててくれ」





そしてオキは、世界を旅しました。

大きな獣に襲われたり、寒さに凍えたり。

動物がたくさんいる豊富な森に行ったり、食べ物がなくてひもじい思いをした谷も、

ありました。

たくさんのものを見て、たくさんのことを、考えました。

その度に、必ず思い出すのが、あの森の、あの銀色。

チノに話してやろう、と思うと、あの森に帰るのが、

楽しみで仕方ありませんでした。




数年経って、オキの群れは再び、チノのいる森の近くまでやってきました。

しばらく滞在するというので、

オキは喜んで、チノのところへ一目散に、駆けて行きました。

数年の間に大きくなった自分を見たらチノは驚くだろうか。

俺だって分からないかもしれないな。

いろんなチノが頭の中に描き出されて、わくわくして、

大地を蹴る脚にも気持ちが飛び乗って跳ねています。



チノの元へ辿り着くと、オキは、目を丸くしました。

チノは美しく輝いていました。

その美しさは、いろいろな世界を旅したオキにも見たことがありませんでした。

「・・・参ったな。驚かせてやろうと思ったのに俺が驚いてる」

苦笑いしながら、オキは傍に横たわりました。

「前よりもっともっときれいになったな、それにちょっと背が伸びたのか?

 俺もでかくなっただろ、大人と見分けつかないくらいになったんだぜ。

 獲物だってひとりで仕留められるようになったし」

オキは旅の経験をチノに話して分けあいました。

チノはやっぱり一言も喋りませんでしたが、

どこか楽しそうに、オキには見えました。

「俺もいろんなところ行ったけどお前の親兄弟は見たことないなぁ。

 珍しいんだな、チノは」

気が付くと、辺りはすっかり暗くなっていました。

もう大人になったので、夜出歩いていても群れにとがめられることはありません。

オキはチノの隣で、月を見上げました。

その光を浴びて、チノは一層美しく輝いていました。

「お前も一緒に行けたらいいのにな。

 そしたら、いろんなもの、感じられるのに」



数日後、オキは再び、旅に出ました。

やっぱり出発の前にチノのところへ駆けてゆくと、オキは言いました。

「近いうちに、俺、一人前に認められるかもしれない。

 そうなったら、ずっと一緒にいられる。

 それまで、俺が帰ってくるまで、待っててくれ」







オキは、夜空を見上げていました。

冬が近いので空気が澄んでいて、星がよく見えました。

こんな日は、月の下で輝いていたチノのことを思い出していました。

「チノ、元気か?

 俺は随分遠くまで来たよ。

 でも、俺ももう大人になったから、群れから離れることになったんだ。

 すぐ、帰るからな、待っててくれよ」

伝わらないとは思っていても、チノが恋しくて、オキは喋り続けました。

「…なぁ、チノ。

 お前、あんな寂しい森で、家族もいないで

 ずっと、ひとりで、寂しいか?」

オキには生まれた時から家族が、群れがいました。

群れの大人に守られ、子供と遊びながら育ってきました。

けれど、チノはひとりなのです。

そう思うと、ちくりと、胸が痛みました。


 チノは生まれたときから、ずっとひとりなんだ。

 俺には仲間がいるけれど、チノにはいない。

 家族がいないチノ。

 ひとりでいる、チノ。

 長い間、何を想うんだろう。


胸の痛みと、激しい鼓動に、オキは居ても立ってもいられなくなりました。

ひっそりと咲いているチノは、今もひとり。

オキは全速力で駆け出しました。

チノが待っている森へ、走っていきました。











花はずっと、待っていました。

ひとり、暗い森の中で、優しい獣が来る時を。

花は喋ることができません。

動くこともできません。

風に揺られ、生き物に翻弄されるものです。

ただ咲いているだけのものでした。

そんな花に、その獣は名乗って、そして名前をくれました。

花は、チノになりました。

チノは、オキがとてもとても好きでした。

チノに語りかけてくれるのはオキだけでした。

オキは、いなくなる前に必ず姿を現して

「待っててくれ」

「帰ってくるから」

と、言ってくれました。

だからチノは、ひとりでも、ずっと待っていました。

雨が降らない日が続いても、大きな木に日の光を取られても、

獣に踏み荒らされても、待っていました。

チノは弱っていました。

花の寿命はとても短いのです。

うんと頑張って、精いっぱい、朝を迎えるようになっていました。

きれいだと言ってくれた花も霞んで、枯れかけていました。

けれど、チノは待っていました。

オキが来るのを、ずっと待っていました。





息を切らして、オキはチノの元へ辿り着きました。

「チノ!」

嬉しくて呼ぶと、チノの光が増しました。

ほっとして、チノの傍へ駆け寄ります。

「ごめんな、チノ。

 ずっとひとりで寂しかったろ?

 もうひとりにしないからな。

 もう、待っててくれなんて言わない。

 ずっと一緒だ」

オキが言うと、チノが光り輝いて、大きく花を咲かせます。

それはまるで月のようでした。

「ああ…きれいだ」

見惚れたオキが溜め息混じりに呟いた時でした。

チノが急速に光を失い、花が、萎れていったのです。

「チノ?…チノ!」

驚いたオキの目の前で

花は、ひらり、ひらりと、ひとつずつその花弁を、落しました。


















「あいつ全然見かけないな」

「ああ…何でも東の森から出てこないとか」

「東の森?なんでまた?あそこは湿っぽくって獲物も少ないっていうのに」

「約束したんだと」

「誰と?」

「そこまでは知らない」

「あいつ、変わりものだったなあ。

 月ばっかり眺めてさ」

「ああ。

 …花のことばかり話してた」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一輪の花 みしま なつ @mishima72

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ