結婚について

『兄から「三日に彼女を連れていく」というLINEがあった。私はバイトがあって結局会わなかったが、兄の(おそらく)嫁へ向けるべき顔が分からず、困惑をしばらく引きずった――他人たちと「家族」の言葉でくくられる違和感というものを初めて実感した。』

 これは三年前の年末につづった日記の文章である。私は日記というものをこまめに書くタイプではなく、何かどうしても書いておきたいことがあったときにのみペンを執る人間であるから、相当の衝撃を受けたであろうことがうかがえる。それから一年後、すなわち去年の三月に兄はこの人と結婚し、そして先日、第一子が誕生した。余談だが、兄の結婚式の前日、私はコロナウイルスに感染したため出席できなかった。出席後に感染が発覚したのでなくてよかったが、さすがに少々悔やまれる。

 さて、兄の結婚について。今ならもう少し正しく認識できるような気がする。三年前に私が感じた“違和感”は、おそらく他人たちと家族になるために発生したものではない。私自身には何の変化もない。私が急に他人たちと家族になったわけではない。

 変化が起きたのは兄のほうだ。兄の所属先が三重になったことを、私は違和感だと捉えたのだ。兄がもともと所属していた、私と同じ家族A。奥さんの所属先である家族B。そして、兄と奥さん自身が新しく作成した家族C。この三つが突然、兄の上で重なることになった。そのせいで兄自身の輪郭がぼやけたように思えたのであろう。兄が他人になるように思えてしまったのだろう。それを私自身の違和感だと誤認したのである。

 我々兄弟の仲は決して良くはない。むしろ悪いほうだと思う。私自身、兄のことは――私よりもよっぽどまともな人間だという点で尊敬こそすれ――まったく好きではない。嫌いだと明言するほどではないが、好きだとは口が裂けても言えない。

 それでも家族なのである。家族なのであった。私の所属する家族Aには常に兄がいたのだ。生まれた時から。それが、これからは、場合に応じて家族Bや家族Cへ所属を移動し、家族Aからいなくなる。

 無論、完全にその存在がなくなるわけではない。そんなことは分かっている。繰り返しになるが、兄はその所属先が三重になっただけなのだ。AとBとCに等しく存在し、自由に行き来できるようになっただけだ。コミュニティが広がることは基本喜ばしいことである。素晴らしいことである。私が覚えた違和感だって、じきに消えてなくなることだろう。

 だが、かつてこのような違和感を抱いたのだ、ということだけは覚えておきたいと思う。これはきっと、家族の解体と再構成に関わる心の動きとして、リアルな質感を持つものであろうから。

 結婚といえば、先日わが親友から結婚するとの報告をもらった。

 そのときに私は泣いたのだった。兄の結婚報告を聞いた時とはまたまったく違う感覚だった。電話越しに話を聞きながら、自然と涙があふれてきて、涙声にならないように必死になった。

 ところが、一通り会話を終えて、冷静さを取り戻してから、ふと私は「あの涙は何だったのだろう」と考えてしまったのである。

 塾の国語ではこう指導する。

『登場人物の言動・仕草・態度・表情には、かならず気持ちの変化が伴う。原因となる出来事があり、それによってある気持ちが生じたから、それが言動や表情に出るのだ』

と。

 この理屈に従えば、さて、私が涙を流した時の気持ちというものはいったい何だったのだろう?

 泣く、という動作の裏にある気持ちは多岐にわたる。マイナスの感情なら、「悲しい」「つらい」「苦しい」「寂しい」「悔しい」「切ない」などが、プラスの感情なら「嬉しい」「感動している」などが挙げられよう。

 今回の場合、出来事が「親友が結婚すると聞いた」であるから、マイナスの感情は発生していなさそうである。かといって、「嬉しい」という感情は何となく違うような気がした。いや、誤解がないように明記しておくが、もちろん嬉しくはあった。たいへん喜ばしく思った。祝福する気持ちでいっぱいになって、どうかこの素晴らしいわが唯一の親友が素晴らしいパートナーとともに幸せな人生を歩んでほしいと心から願った。そのためならろくに信じていなかった神に信仰を誓い、すがりついてもいいと真剣に思った。

 だが。この「祝福する気持ち」と「涙」とは結び付かないような気がするのである。

 晴れやかに「おめでとう!」と笑って、温かく「よかったね!」と微笑んだなら、そこに涙を伴うことはないのではなかろうか。涙が流れるにはそれ相応の理由が必要になると思う。

 では、なぜ、私は涙を流したのか?

 “よくあるパターン”にあてはめるならば、「まだ同じ学生のように思っていたのに、いつの間にか大人になっていたことに気が付き、もう戻れないように感じて切なくなった」とか、「友人が人生の伴侶を得たことについて、その幸せの大きさをわがことのように感じ、胸がいっぱいになった」とか、「友人が離れていってしまうように(自分が置いていかれるように)感じて寂しくなった」とか、そんなようなことが考えられる。

 しかしいずれもしっくりこない。確かに友人と話しているときは学生気分になるが、だからといって大人になったことを忘れたわけではないし、私は現状に満足しているから、過去を思って切なくなることもない。友人が幸せであろうことは想像できるが、わがことのように感じるまでではない。友人の幸せはあくまで友人のものであり、私がしゃしゃり出るのは筋違いのように思われる。私と友人はもともと適度な距離を保っていたから、今更離れていってしまうように感じなどはしない。その程度のことで泣くほど寂しがるならば、我々はとっくに友人でなくなっていただろう。

 ああ、いよいよ分からなくなってきてしまった。

 分からないなりに、現時点での仮の結論だけ下しておきたい。兄の時のように、三年後くらいにもう一度考察し直して、そこでより正確な結論を出すかもしれないが。

 思うに、いやこれは当然のことかもしれないが、人間の感情とは小説に表せるほど――国語のテストにできるほど――単純なものでなく、もっと複雑に交錯するものなのであろう。私は嬉しくて、感動して、寂しくて、切なくて、そうして泣いたのだろう。どれもどこかしっくりこない、いずれも微妙に違う気がする、というのは、すべての要素を少しずつ持っている、ということと類似しているだろうから。涙につながるあらゆる感情を少しずつ有して、こんがらがって混乱した心があの時の私の気持ちだったのだ、ということにしておく。一旦。

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