分かるということ

 分かる、ということは、分からない、という状態を失うことだ。

 などと古文に苦戦する中学生を見ながら思った。

 私はすでに古文が分からないという状態を失ってしまっている。初めて千年前の文章に触れたときの困惑は、すっかり色褪せ見る影もない。無論、いまだに読めないものは読めないのだが。学生時代からそうだったが、私は感覚でいい加減に翻訳するタイプであったから、きっちり完璧な訳をするのは苦手なのである。助動詞の意味も、単語の意味も、完璧には覚えていない。ただ、いろいろなメディアに触れて覚えた物語のパターンと、いくつかの例外的な文法事項を記憶して、それでうまいことやりくりしているだけである。

 そんなようないい加減な人間ではあるが、大学で日本史系の学部にいたこともあり、古文には異様にたくさん触れてきた。一年に何十本もの古文書を読み、漢文を読み下し、訳しては直されを繰り返してきた。そうして、古文のあの独特なテンポに慣れ親しんでしまった。大概の物事がそうであろうと思うが、慣れてしまえば案外楽しいものであって、古文のゆったりとした語り口や、小さなヒントを全力で拾い上げて補完してやらねば意味をとれない難解さなんかが、すっかりくせになってしまったのである。(結局量が必要なんだな、と思うのはこういう経験のせいである。あながち間違ってはいないとも思う。)

 こうなってしまえば、もはや初心になど返れまい。

 古文に初めて触れたとき、おそらく私もこの中学生と同じように、困惑し、混乱し、こんなものは日本語じゃない、どうしてこんなものを読まなくてはならないのかと内心苛立ったことだろう。いくら成績のため受験のためとはいえ、今後一生使いそうにない言語を学ばなくてはいけないことに、なんのモチベーションも抱けなかったに違いない(だから助動詞も単語もろくに覚えていなかったのだが)。

 だから時々英語に手を出す。あるいは物理に。ときには数学に。分からない、という感覚を取り戻そうとして、ほんの少しも理解していない分野に手を出してみる。そうしてわざわざ赤子のような無力感を味わって、それでようやく生徒と向き合えるのだ。

 先生でいるためには、生徒でいなくてはならない。そんな風に思ったりもする。

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