第6章 私と彼女と石のつゆざむ 3
「この幽霊みたいなお姉ちゃんに謝りなさいッ!」
父親らしき男性が少年を叱りつける。その背後でじっとこちらを見つめているのは恐らく母親だ、彼女たちは水族館の謎に包まれた舞台裏であるところの医務室にいた。
声の第一印象に反し、少年はスポーツチームのレプリカユニフォームを着用しており、サッカーとかが得意そうで爽やかな風貌だが、同時に地味で気弱そう、という、相反する奇妙な印象をワカとクロエに与えた。
「いいえー、そんなに謝らないでくださーい、余所見してたこの子も悪いんですー、服のクリーニング代だけ出して下されば十分ですからー、SNSとかで拡散するつもりは毛頭ありませんしー」
クロエが能率を最重視したマシンのように示談交渉を進める。
水族館の関係者はと言えば私たちは小学校の学芸会の石です。いるだけです。観察者です。といった体で呆然と佇んでいる。
「SNSとかでの拡散は絶対にやめてください、人生が終わりますから……くれぐれも……」
父親はペコペコ平身低頭の態で何度も懇願した。
一方ワカは、医務室のありふれた白いベッドに腰掛けて顔を拭きながら、ぼうっと壁の染み眺めていた。消毒液の香りが立ち込めていて、薬品棚にずらりと並んだ瓶の中に自分が入り込んでしまったような錯覚を抱く。ここは何から何までガラスの檻に閉じ込めて観察、研究をする趣向の場所なのでは?ワカは少し薄ら寒さを覚えた。
「いやあ、それにしても、驚きましたわ」
いつの間にかクロエの事を、どうせ学生か勤め人の類いだろう、と嘗めてかかったのか父親が饒舌になった。
ワカに歩み寄って気安く話しかけてくる。
─なんとなく違和感。なぜ見ず知らずの自分に馴れなれしく出来るのだろうか? ワカは怪しまれたくなかったのでとりあえず証明写真のような作り笑いを浮かべておく。
「ではこの子は、少し風邪気味で体調が良くなくて我が息子の飛び出しに気付かなかったのですね!なるほど、なるほど、私どもの落ち度ではないと、はぁ、よかったです!、まさかな!と肝を冷やしましたよォ~~~」───水族館だけに。
夫の渾身のギャグに後ろで控えていた母親が我慢できずに肩を震わせている。対して少年は、つまんねえの、と言わんばかりの表情を浮かべてワカの顔をちらと伺った。
目が合った瞬間、ワカの背筋に電流が走った。この子『息子の役割を演じてるんだ』
一度、そう見ると全てがおかしく見えてくる。
絵に書いたように平凡な家族、なんか気品ただよう父親と淑やかそうな美人の母親、お洒落な格好をし男の子……その全てが急に不気味なチームに感じられ始めた。
「いーえー、おかまいなくー、そんな事よりそろそろお暇いただけると助かるんですけどー」
ワカは気が付いた。───クロエが、キレかけている。
普段なら絶対使わないであろう口調が入り混じり始めている。いや、職場ではこうなのか?知らないけど。しかも語尾が伸びてるし。
「……では私どもはこの辺りで」ぺこりと会釈して三人は医務室を引き揚げて行った。
彼らの気配が消えてからしばらくして。
「……大丈夫か?」
「…私が自分のお金で買った一張羅が台無しになりました」
「…バカ、お前の体のほうだ、何だよその言い回し……」
「……冗談言えるくらいには元気ですよ、まだやれます」
ワカは立ち上がったが、足元がふらついたので慌ててクロエが抱き止めた。
本当に調子がよろしくないのか、彼女は平時よりも華奢で小柄に見える。ミュージシアムショップでも併売されている奇妙なデザインのTシャツとショートパンツから覗く彼女の細い手足は、くたばりかけの吸血鬼のよう、青白くて生気がまるで無い。
「…あいつら何者だったの、あんたの友達?」
「まさか」
「じゃあさ、なんであんなにも距離感が近かったんだよ?後で『オソレちゃん』みたいにウチに訪ねて来てもしらねーぞ」
「詳しい詮索は…」
「酸っぱい、しかも強烈に」
ワカが言い終わらないうちに彼女の髪に顔を埋めていたクロエが言う、どうやら身体検査を兼ねていたらしい。この御仁、やはり抜け目がない。
「お母さんとか、学食のお姉さんが作る、酢の加減がイカれちまってる酢の物くらい酸っぱい匂いがする」
何という例え……。ワカはクロエの例えに思わず呆気にとられる。
ところでクロエさんのお母様ってどんな方なんですか?
あなたは母の日にカーネーションとか贈るようなタマでもないでしょう。
私の見立てでは奇天烈な格好をした人物、というところですが……。
ワカの何気ない問いかけに対し、クロエは、どこか決まり悪そうな顔をして、言った。……いねーんだ。と。
その一言で大体を察したワカはそれ以上何も聞かなかった。
。───いっしょだな、アタシら。
ポツリと呟いた彼女は普段の彼女らしからぬ、頼りなさげで弱々しい雰囲気だった。 つづく
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