車窓から

ASA

第1話


「俺、なんか朝なのか夜なのか、よくわからなくなるんすよね」

 何を言ってるんだこいつは、と思った。

「何それ、大丈夫?残業のしすぎでどうかしちゃったわけ?」

 煙草を揉み消しながら聞くと、宮下はふるふると首を振った。

「いや、違うっすよ。てか先輩、電子タバコとかにしないんす?身体に悪いですよ」

「たいして変わんないでしょ、そのなんとかコスだって」

「いやいや、違いますよ」


 そんなこと言ったって、まったく喫わない人たちからしたら、五十歩百歩だ。現に、この喫煙所だって廃止を求める運動が社内で起きていると聞いている。

「ほら俺、地下鉄通勤じゃないですか」

「は?何の話?こっちもそうだけど」

「だから、朝か夜かわからなくなる話っすよ」

「ああ、まだその話続いてたんだ」

「続いてますよ!ちゃんと聞いて!」


 宮下は口を大袈裟にへの字にした。子どもか。

「地下鉄に乗ってて、立ってると……まあ運良く座れるときもありますけど、向かいの窓が見えるじゃないですか?」

「うん」

「でも地下鉄だからいつでも真っ暗で、自分とか隣のひとが映ってて、あれ?今って朝だっけ、夜だっけって。会社行くんだっけ、帰るんだっけって一瞬わかんなくなるんですよ」

 それはなんだか、わかるような気がした。

「やっぱり、疲れてるんじゃないの。たまには気晴らしにどこか行ったりしたら?」

「えっ」

 宮下はなぜか目を丸くした。

「まじめな先輩らしくないこと言いますね?反対方向の電車に飛び乗っちゃえ、とかそういうことです?」

「はあ?」


 違う、そうじゃなくて休みの日にとかそういう、と言おうとしているのになんだか宮下は勝手に盛り上がり始めた。

「すべてを捨てて反対方向の電車に……!それか、会社の駅を通り過ぎてどこまでも、とか?たどりついたそこは、海だった……みたいな?」

 あほか、こいつは。

「先輩」

 放っておいたら急に真剣な顔をしてまっすぐにこっちの顔を見てきたので、ちょっと身を引く。

「俺と一緒に、行きます?」

「……は??ええと、朝?それとも夜?」

 びっくりしすぎて、よくわからないことを聞き返してしまった。

「どっちでもいいっす」

「……」

「どうです?」

「……そろそろ戻らないと。打ち合わせ四時からじゃん」


 宮下はちぇ、と若者のくせになんだか昭和っぽい声を漏らしながら、なんとかコスをポケットにしまった。

 ほんとに戻らなきゃ、と思いながらタバコくさい喫煙室のスライドドアを開けると、外から爽やかな空気が入り込んでくる。


 その瞬間、頭の中に浮かんだのは夜の海だった。

 ざあ、と暗い中で波の音がする。空と海の曖昧な境界線。潮の香り。裸足の足の指の間を砂が流れてくすぐったい。


「先輩?」

 不思議そうな宮下の声に、頭を振って、なんでもない、と答えた。

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