サブウェイ辛MAXと兄


 引間 涼



 兄に合うのは億劫だった。連絡することすらもだ。

 だが仕方ない、そんなことは言っていられない。

 俺は俺は兄に電話をかける。兄は電話に出なかった。忙しいんだろう。仕方ないので俺は留守電にメッセージを残す。

「お兄さん、涼です。先日母から様子を見に行くように頼まれたので、近々会って食事でもどうでしょうか?」

 お兄さんと自分で言ってゾクっとする。背中の辺りに軽い悪寒が走る。だが我が家ではこれが通例だった。家族がみんなそう呼んでるのに、俺だけ兄貴とか兄ちゃんって呼ぶのも気まずいだろ?


 いつからだったろうか?小学生の時だろうか?その頃までは俺と兄は普通の兄弟だった気がする。だけどある日ずっと成績が良かった兄に、母さんがIQテストを受けさせた。結果、兄のIQが160くらいあるのが判明した。

 それで母さんは大喜びして、末は博士か大臣かと、教育に熱を入れ始めた。

 それからだったよな。お兄さんと呼びなさいとか言い出して、家族内の会話もなんか気取った感じになっていったのは。

 俺はそれが大嫌いで、お兄さんと呼ぶたびに俺は自分が何か全くらしくない別の人間に強制されているような不愉快な気持ちになった。


 そして兄もその頃からだんだんと変わっていったような気がする。どんどん頭角を表していって、だんだんと距離が離れて、今ではもう兄弟なのに他人みたいな存在になってしまった。


 そして俺はというと、小学校高学年に上がった頃からだんだんと自分がそんなに優秀な人間ではないということに気がつき始めた。

 だけど母さんは俺も兄のように優秀だろうと思って、俺にも英才教育を施そうとした。

 しかし、俺から兄のような輝かしい特性のようなものは逆さに振っても出てこなかった。

 そして俺が中学校に上がる頃になると、母さんも薄々それに気がつき始めたと思う。だけどもうその時には、それまでに俺のために使った塾や習い事などの費用が結構積み重なっていたために、もう引くに引けないって感じになっていて、きっと何か埋もれているに違いないと、ありとあらゆる分野の可能性をほじくり返して、無理やり俺の中から何かを引き摺り出そうとした。


 でも俺の家はよくて中流くらいの家庭だったから、一介のサラリーマンの親父にとって教育費の捻出は厳しかった。

 そのうち母さんと親父は、教育費の出所について喧嘩するようになり始めて、そのうちその攻撃の矛先は俺に向き始めた。あまりに兄と俺が違うから俺が別の男の子供だろうと親父が言い出したのだ。


 確かに俺は親父にあんまり似ていなかったので、俺もその頃もしかしたらそうなんじゃないかと疑ったことがあるのを覚えている。

 結局その疑いは、母方の親戚で埼玉に住む叔父が死んだ時に晴れることとなった。叔父は俺にそっくりだった。それから母さんの実家で昔のアルバムを眺めると、母の隣で若い頃の叔父があの『加藤 諒』っぽいグリンスマイルで笑って写真に写っていた。そしてその遺伝子は母方の爺さんから遺伝していたようだった。覚醒遺伝ってやつだ。

 爺さんも叔父も特に優れた人間ではなかったし、叔父に関していえば、生涯独身で無職で最期は孤独死のような死に方だった。


 それで親父の疑いは晴れて、俺への見方は、とっても残念な遺伝子配合を引き当ててしまった哀れで愚かな子になった。

 母さんはそれから俺に優しくなったが、それは何か哀れみを含んだ溺愛のような甘ったるいぬるい愛情だった。


 そんなことを思い出しながら悶々としていると、コールバックがある。兄からだ。


 兄はまるでどこぞの青年実業家か、若手の国会議員のような堂々としたしっかりとした口調で話した。

「久しぶりだな涼」

 そして簡潔に無駄なく要件を言う。

「来週木曜の午後だったら、時間取れると思うがそれでいいか?」

 俺は少し物おじしながら答える。

「わかりましたお兄さん。それで大丈夫です。」

 俺はそういうと電話外で軽く会釈をする。

 習慣というものだ。

 まるで上司にお伺いを立てる部下みたいに俺は兄に待ち合わせ場所を確認した。


 そして翌週の木曜日、俺は兄との待ち合わせのために東京大学へ向かっていた。兄は東京大学の法学部に在籍していた。

 地下鉄の東大前駅を出るがまだだいぶ時間があった。

 俺は昼飯と朝飯を兼ねて近くのサブウェイに入っていった。

 店内は深いモスグリーンとレンガ模様の壁紙で落ち着いた雰囲気だ。


 俺はタンドリーチキンと、コロコロポテトを注文する。

「パンはどちらになさいますか?」

 俺はフラットブラッドをフットロングで注文する。

 さらに男性店員が聞く。

「トッピングはこちらからお好きなものをどうぞ」

 俺はチーズを足して、パンをトーストしてもらう

 そして店員。

「お野菜、嫌いなものございませんか?」

 俺は片手をあげて紳士的に言う。

「2倍にしてください」

 サブウェイでは無料で野菜を2倍にできるのだ。こういう時に野菜をとっておかないとな。実際俺の中でサブウェイは野菜担当のファースフード店の一つになっている。

 ピーマンにトマト、オニオンがたっぷり乗る。その上に、男性店員が、ピクルス、オリーブ、ホットペッパーを装っていく。

 そして最後に店員が

「ソースは何にいたしますか?」

 と聞く。

 俺は限定用のURLを携帯で見せるながら言った。

「辛MAX!」


 俺は、中央の比較的空いているカウンター席に腰掛けた。

 そして、大きく口を開けてかぶりついた。まだ口を動かすと、殴られたところが少し痛む。

 だがそんな些細な不快感もすぐにかき消される。

 しっかり辛いチリソースが俺の味蕾をを刺激する。

 そこにピクルスやオリーブの少し個性的な味が割り込んできて最後にタンドリーチキンの強烈な匂いが鼻をついてエスニックな雰囲気で混じり合った。

 いいね!


 ガッツリジャンクって感じじゃないけどこれはこれでいい。最近野菜を全くとってなかったのでフレッシュな野菜の味わいが懐かしく感じる。

 2切れあったフラットブレッドをすぐにペロリと平らげた。そして仕上げにトリプルチーズフレーバーのコロコロポテトをペプシゼロで流し込む。

 少し物足りない気がしないではないが、今から兄に会うって考えるといまいち今日はジャンクフードを貪り食う気分にはなれなかった。いつものフラストレーションの溜まったストレスとは違って沈み込むような鬱々しい感じだ。

 そして席を立つとトイレに言って自分がどう見えるかを大きな鏡の前で確認しにいった。


 その日の涼は黒いダメージジーンズを高校の時からずっと使っているGIベルトで引っ掛けていた、同じく黒い上着のNIKEのTシャツには赤色の文字でJUST DO ITと書いてある。そしてその上には大きなワッペンがいくつか付いた少し子供っぽいMA1ジャケットを着ていた。そのミリタリーMIXの服装に、腫れは引いたもののまだ大きく残っている痣や、目の内出血が相まって、鏡に映った自分はなかなかタフに見えると涼は思った。しかし他人から見れば、それは痛々しく怪我した貧相で不健康そうな男に見えただろう。

 斜めがけにしたポーターのカバンに入った銃が洗面台に当たってカバン越しにゴチっと音を立てる。

 凉はその音で自分が銃を持ってきていたことを思い出した。

 あくまでもいざという時のためだ。凉は自分に言い聞かせた。


 東京大学の校内に入るとキャンパスの有名な銀杏並木が黄金に輝いていた。その光景も、地面に敷かれた黄金の落ち葉の絨毯も何かバツが悪いような気分だった。そこを歩いて広場に抜けると兄が友人数名と待っていた。

 もう何年も会っていなかったが一目で兄だと判った。母親似の少し中性的な顔立ちに、聡明な印象を受ける広い額、そこに六分くらいのところで立ち上げて分けられた艶やかな黒髪が揺れている。青春ドラマの主人公って感じだ。

 俺が近づいていくと兄が先に気がついて声をかけた。

「よう」

 自信を感じさせる、落ち着いた朗らかな声だ。

「やあお兄さん、久しぶりです」

 俺もできるだけ自信がありそうなふりをして答えた。

 全員の注目が俺に向く。

 だが俺の顔の怪我を見て、その場は少し凍りつく。

「その怪我どうしたの!」

 最初にその話題に触れたのは取り巻きの女の一人だった。

 俺はかすり傷くらいに答えて見せる。

「いやー、ちょっとね、まあ別に大したことないっす」

 友人の男が尋ねる。

「格闘技かなんかやってるの?」

 俺はなぜか嘘をつく。

「総合格闘技をちょっと齧ってます」

 ヘーっと少しその場が色めき立つのを感じる。

 友人男が続けた

「結構ハードにやってるんだ」

 俺は自分が兄と対極にあるタフな男のように演じていう。

「ええ、まあ」

 兄が言う。

「母さんにあんまり心配かけるなよ」

 兄は弟の怪我くらいじゃ動じないみたいだ。


 すると女が兄に色目を使いなら言う。

「でも秋平の弟だし優秀なんだろうな〜!文武両道って感じ?」

 続けて友人らしき男が爽やかに笑いながら尋ねる。

「君はどこの大学通ってるの?」


 いや俺は…

 俺は…

「ユーチューバーやってますっ!」

 と俺はピースしておどけて言った。

 そして途端に後悔した。

「へー!すごーい!芸能人じゃん!」

 色目女がめちゃくちゃハードルを上げてくる。

 友人男が食いついて言う。

「へー僕もクイズ系のyoutubeやってるんだ、まだ2万人しか登録者いないんだけど」

 自嘲気味に笑って続けた。

「なんていうチャンネル?」

 俺は凍りつく。この状況で三桁に満たない自分のチャンネル名なんか言えるわけがない。

 色目女はフレンドリーでフランクな雰囲気だったが、その眼光は意地悪く俺をずっと観察し続けている。

 友人男はポケットから携帯を取り出し、俺のチャンネルを検索する準備は万端だ。

 俺は咄嗟に言い訳ができずに、数秒間固まってしまった。冷や汗が出そうなる。

「いやー、ちょっと今アカウントが垢BANされてるんすよ」

 咄嗟に出た嘘がそれだった。このタイミングでこう言ったら、虚勢を張ってましたって自分で言っているようなものだ。

 周りの目がサッと冷たい目に変わったのが判った気がした。

 俺のその反応から俺という人間の人となりを見抜いたように女が言った。

「あんまりお兄さんと似てないのね、別のタイプっていうか…」

 俺はさっきまで、タフな 魅力で溢れた男を演じていた。

 少なくともそのつもりだった。

 しかし今はもう、そんな急ごしらえの自意識は消え入りそうになっていた。必死に虚勢を張ろうとする惨めな男がそこにいた。


 そしてもう一人の俺の声が聞こえてきた。

 俺は銃を持っているんだ。

 俺は銃を持っているんだぞ!



 それから、俺と兄は二人で兄の自宅へ向かった。

 兄は大学から徒歩圏内の賃貸マンションで暮らしていた。

 さっきの一件のことには兄は触れず、俺たちは無言で歩いていたが兄が急に尋ねる。

「本当は何の用事だ?」

 嘘がバレないわけがなかった。母さんに兄貴の様子を見てくれといわれたからだという嘘をついたが、そもそも母さんは兄にべったりで、兄の方が頻繁に会話している可能性が高かった。

 俺はというと、東京にきてから家族とは碌に連絡を取っていないし、向こうからもほとんど連絡は来なかった。

「あとで話すよ」

 咄嗟に何も浮かばなかったので俺はそう言う。これ以上兄に嘘をついたところで無駄だと思ったからだ。

 とりあえず兄の家に入って何か証拠なり何なりが見つかれば、あとはどうとでもなる。そう楽観的に考えた。

「そこだ」

 兄が指差した濃いグレーと薄いグレーの二色からなるその5階建てのそのマンションには、小さな中庭が備え付けられていた。俺は兄に続いてオートロックの扉をくぐる。そして5階の奥の兄の部屋に入る。

 兄の部屋は綺麗に整頓されていて、壁には一面に法律関係の本が並んでいた。少し広めのリビングには観葉植物が青々と育っていた。在学中にすでに司法試験に受かっていた兄の生活は悠々自適といった感じに見えた。

 兄と二人で部屋にいるのは居心地が悪かった。さっさと確かめるべきことを確かめて帰りたかった。

 しかし確かめるべきことを確かめると言っても、俺にそのためのプランはなかった。兄との約束まで一週間ほど時間があったから、俺はどうやって確かめようかと方策を練る時間はあった。だが結局、派遣のバイトやら何やらをしていてあっという間にその一週間は過ぎ去った。とりあえず立てた最低限のプランは自宅を見れば何かあるだろうといったくらいのものだった。

 俺は何か『殺している証拠』になるものを探そうとキョロキョロと見回した。

 いや『殺していない証拠』になるものか?

『殺していない証拠』になるものってどんなものだ?

 俺は部屋を見回して考える。殺人犯の部屋の特徴みたいなものがあったりするんだろうか?

 何か隠せそうな場所はないだろうか?

 俺は机の引き出しに目を付けた。大体大事なものって机の引き出しに入れるよな?

 俺はそこで兄が昔から日記をつけていることを思い出した。昔からどんなことを書いているのかずっと気になっていたが、俺はそれをみる勇気がなかった。

 だって自分のことを書かれていたらどうする?愚弟の有り様について呆れ気味に書き連ねてあったらどうする?そういう感情と、人の日記は見てはいけないという微かな後ろめたさが重なって今まで俺は兄の日記を盗み見ることはなかった。

 そこでチャンスが訪れる。

「コーヒーでも淹れようか?」

 と兄が言った。

「いただきます」

 俺がそういうと、兄がキッチンへ消えていった。

 今しかない!

 乗りかかった船だ、ここまで来たら何か少しでも情報を得て帰ろう。

 俺は兄の引き出しを調べに机の横に移動した。

 兄が見えたらすぐに取り繕えるポジションを確保する。

 引き出しを調べようと手をかける。

 しかし1番上の引き出しは鍵が掛かっていた。日記を入れるとしたらここだと思ったんだけど。

 仕方ないので2番目の引き出しを開ける。

 そこにはHBの鉛筆が1ダース目玉クリップが1ダース。それから長めの定規が2本入っていた。それから他のいくつかの文房具がプラスチックのオーガナイザーに整頓して入れられている。

 特に怪しいところはないように見える。

 それから俺はその下の引き出しを調べてみる。

 そこは携帯の充電器やモバイルバッテリーなどが収納されていた。

 特に怪しいところはないように見える。収穫はない。


 その時机の書類の下に敷かれた背表紙に金の文字が光るのが俺の目に入った。Diaryと書かれてある。俺はその日記に手を伸ばした。俺は少し緊張してその日記を開く。

 パラパラと目を通すとそこに書かれていたことは、授業の内容や資格試験のための勉強の進捗といった内容ばかりだった。あまり人間味が感じられないその内容に少し安堵する。

 しかしパラパラとめくっていくと最後の方にパスワードとIDのようなものが書きなぐられているページを見つけた。

 俺はそのパスワードを記録しておこうと思って携帯を出した。

 そうして写真を撮ろうとしたその時。

「おい何してるんだ?」

 と耳元で声がした、俺は驚いて携帯を落とす。


 兄が真後ろに立っていた。

 いつから見ていたんだ?


 兄は怒るでも咎めるでもなく、ただ観察するように俺を見ていた。

 俺はしどろもどろになって、言い訳を探す。

 間抜けに口を開けて数秒間考えていたと思う。


 そうすると兄の方が先に口を開いた。

「なあ涼、何があった?」

 その声は冷徹でまるで俺を尋問しているようだ。

 俺が疑っていることに気がついたのだろうか?

 いっそのこと兄に直接聞いてしまったらいいんじゃないか?でも聞いてどうなる?どう聞く?

「人を殺してるって四次元人に聞いたんですけど本当ですか?」

 俺が兄に尋ねると

 俺は次の瞬間胸を撃ち抜かれて、床に倒れる。

 朦朧とした意識の中で兄を見ると、兄もあの銃を持っている。

 そして兄は俺を見下していう。

「悪いな涼、でも構わないだろ?どうせお前は価値がないんだから」

 俺はそんな場面をシミュレーションしてみた。

 再び兄と目を合わせると、背中にゾクリと悪寒が走る。

 俺は思わず、銃の入ったカバンににじり寄った。

 そして銃を出そうとカバンの中に手を入れた時、ピンポーンとインターホンが鳴った。

 兄は軽く片手を上げて俺に待ってろというジェスチャーを示すと玄関に向かっていった。

 俺は少しよろけて壁に手をついた、もう一方の手にはあの銃の質感が伝わってきた。


 玄関から話し声が聞こえてきた。

 女性の声だ。

「汐梨、今はちょっと取り込んでるんだ」

 兄が言っているのが聞こえた。


 俺はすぐに玄関に出ていく。そこでは、若い女性と兄が話している。二人はただの友達だっていう関係性には見えなかった。

 そこで俺はそこに割り込んで早口で捲し立てた。

「お兄さん、彼女が来るんだったらそう言ってくださいよ」

「僕は邪魔みたいなんで失礼します」

 そう手短にいうと、俺は兄と恋人らしき女性で渋滞した玄関の隙間を強引に突っ切って大急ぎで部屋を出ていった。



 兄の家から足早に離れながら俺は考える。とりあえず行動してみたものの、どうもこのやり方は不味かったらしい。

 実際プラスになった要素は全くない気はする。

 唯一の成果といえば、なんとか撮れたパスワードとIDの写真くらいだが、この写真もブレブレでIDもパスワードも読み取ることはできなかった。なんとか読める文字がTとk、最後がfishに見えなくもない。

 今度は逆に自分が疑ってることがバレた可能性を考えてみる。どうだろう?怪しいとは思われたかもしれない。

 もし俺が疑っていることがバレたら兄はどうするだろうか?冷徹に俺を始末するだろうか?あの時一瞬兄から何か恐ろしいものを感じた気がした。でもそれは…


 俺がそんなことを考えながら上の空で平日の帰宅ラッシュの駅に入っていくと、体格のいい男と肩が思いっきりぶつかった。

 腰の入ったタックルみたいな衝撃で俺はぶっ飛ばされる。男は謝りもしないでそのまま歩き去っていって人混みに消えた。

 俺は何事もなかったかのように起きあがろうとすると、地面にチラシの束が捨てられているのが見えた。いしば探偵事務所と書かれている。

 探偵か。

 相談は無料と書いてあった。

 そうだ、別に俺が調べなくたってその道のプロに頼めばいいじゃないか。

 俺はチラシを一枚拾って立ち上がるとその足でその事務所に向かった。場所はここから歩いて五分くらいの所だ。


ーーーーーーーーーーーーー


 そのオフィスは雑居ビルの7階に入っていた。

 やはり後ろめたい人間も出入りするだろうからこういうのは雑居ビルの一室にあるのが定番なんだろうな。

 アポイントもなしに入っていったが、それほど待つこともなく若いスーツ姿の軽薄そうな男が出てきた。

 ブルーの衝立で仕切られた一室に案内される。俺以外に誰もいないのか事務所は静まり返っていた。

「本日はどんなご要件でしょうか?」

 俺は例のごとく、非現実的な部分を端折りながら、兄が事件に関わってないかという相談をしてみた。

 しかし探偵は眉をひそめて答える。

「すみません、そういった事件性の高いものは警察にご相談ください。」

 成る程、探偵とは言ってもなんでもやってくれるわけじゃないんだな。

「じゃあ身辺調査という形で調べる事はできませんか?」

 俺は質問を変えてみた。しかし探偵は頑なだった。

「その件に関しては警察にご相談ください」

 俺は最初の方向性を間違ったなと思いながら、ふと思いついたことを試した。

 そしてで銃を取り出して言った。

「じゃあコレについて何かわかりませんか?」


 すると担当者の男は話題を変えていきなり別の商材の宣伝を始めた。

「お客様、私たち探偵社は調査業務に特化していますが、それ以外にも様々なサービスを提供しています。例えば、防犯対策やセキュリティの強化など、お客様の安全を確保するためのサポートも行っております。もしもお困りのことがありましたら、いつでもご相談ください。私たちが最善の解決策をご提案いたします。」

 俺はそれでも男の目を見て訴えてみた。

「この銃なんだが…」

 担当者は一瞥もせずに続けた。

「探偵業務には限界がありますが、私たちが提供するサービスには、より広範囲な問題に対処する力があります。例えば、私たちは信頼できるパートナーと協力して、離婚や遺産相続などの法律問題にも対応しております。もしもそのような問題があれば、私たちにお任せください。お客様の問題解決に全力で取り組みます。」

 男は喋り続けた。早口で暗記したような文章で、この銃から意識を逸らすように。


 バタンと男はドアを閉めた。2度とくるなと言わんばかりに。

 俺はそこで自分の致命的な間違いに気がついた。

 俺の銃がこんな風に認識されないなら、兄が同じような手段で殺人を犯していた場合に、それを認識する方法はないじゃないか?

 つまり俺が兄の家に行った時も何かあったかもしれないが、俺はそれを認識できてなかった可能性もある。俺は頭がこんがらがってくる。

 エレベーターの階下ボタンを押す。その周りには他の探偵事務所の広告が所狭しと貼り付けられている。

 そしてその中で少し大きめの古びたステッカーが俺の目飛び込んでくる。

 水色の地にオレンジの文字が消えかかっていた。

 オカルト専門の探偵 水谷 ひろみ



 引間秋平



 汐梨が帰ると私は机の上にあったナイフを拾い上げた。

 机の上に堂々と置かれたこのナイフにもカードにも誰も気が付くことはない。

 このナイフ自体は、M7バヨネットという型のものだった。

 それは確かに四次元と言われたら納得できるような不思議な感覚を持っている。

 それは鞘とナイフに分かれていた、そしてそのプラスチックの鞘はキャンバス地がつながっていて、ベルトに装着できるようになっている。

 少なくともそれは三つのパーツに区分できそうである。にも関わらず、なぜか私はそれを一つの物質として認識する。実際分離して三つと指差して数えることさえできるのに、それが一つの物体だという認識が押し寄せてくるのだ

 鞘を抜いて刀身があらわになると、それは黒く艶かしく光った。

 私はその艶めきに映った自分の瞳をみながら、最初の実験を記憶の中で反芻した。


 そう、ちょうど三ヶ月前だ、私はそのナイフを検証するために少し離れた箕田みた交番に向かった。私は汐梨で実験を始めた後、だんだんとその対象を広げていった。それは自分のこの現象に対する認識の理論値と実測値を近づけていくような作業だった。

 私は検証する。この実行の結果に対する因果の錯誤とでも言うような事象が何人まで機能するのか、組織に対してはどうか、間接的に実行するとどうなるか。そして実験を繰り返すうちに私はこの認識阻害機能がいかに強力か思い知らされる。そして私の行動は大胆になっていった。


 私は交番に歩いて近づいていくと、前に立っていた警官におもむろにナイフを見せた。その刃渡りは165mm、明らかに銃刀法違反だが、警官は何の反応も示さなかった。

 私はそれを確認するや否や、ナイフでその警官の防弾チョッキを切り付けた。しかしその切れ味はその見た目よりもずっと鋭かった。シュッと気持ちよく防弾チョッキを貫いて、そのナイフは中年警官の肉を切った。

 警官はうっと低い声で唸った。なるほど四次元の武器と言われてもおかしくない、確かにこの世のものとは思えないような切れ味だった。

 しかしいかんせん深く切りすぎた。殺人未遂となってもおかしくない。

 警官が私を見つめた。

 私はすかさず言った。

「かまいたちですね」

 そうするとその警官は所内にすごすごと入っていって、同僚に話し始める。

「今日は風が強いからね、カマイタチで服が切れてしまったよ」

 そう言って防弾チョッキを脱いで自分の腹部の傷の処置を始めた。

 そうこのナイフの作用としてももう一つ別の一面があった。

 つまりこの認識できない因果の部分に何かしらの代替となる別の因果を刷り込むことができるのだ。

 私がそれを『かまいたちだ』と言った言葉がそのままその警官の認識となった。カマイタチで防弾チョッキが切れるはずもないんだが、この因果はそのくらいの違和感は吸収してしまうらしい。


 予想よりも大きく切ってしまったため、私は別の警官のところへ行ってもう少し慎重に服だけを切った。

 そして今度は言った。

「私がやりました。」

 警察官は少し当惑していたが、私に促す。

「署までご同行願えますか?」

 ナイフが認識されなくても私が自供して相手が何かされたと認識すれば、傷害罪、公務執行妨害に問われる可能性はあるだろう。

 ただ、ナイフが見えない以上、超常現象を認めない法の立場からは私の行いは不能犯になり不起訴になる可能性も高い。一応私は動画で証拠も残している。『切っていない証拠』だ。その動画に写っていたのはただ何もせずに佇む私と、いきなりわっと声を上げる警察官だけだった。

 まるで事象だけを継承したパラレルワールドのように、そこに映っている映像には原因という因果がすっかりと抜け落ちていた。

 だが警察が本気になれば、証拠を捏造して無理やり私を起訴することも可能かもしれない、その場合どうなるだろうか?

 私は最初に会った時にあのマッカーサーが言ったセリフを思い出す。

「This knife doesn't have any causal effect, excluding the damage of the target 」

「標的の損傷を除いて因果関係に作用しない」と言ったあと、少し区切って言ったのだ。

「so you're safe」と。

 その「お前は安全だ」という言い方には確信的な響きがあった。

 仮に間抜けにも公の場でこのナイフを使って誰かを殺害して、そのまま認識の代替原因を刷り込まなかった場合どうなるのか?

 流石にそこまでやって起訴されてしまえば、そこに因果の糸が見えなくても、検察は証拠を捏造して有罪に持って行こうとするんじゃ無いだろうか?


 警察署に連行された私は取調室に案内された。

 そこで調書の作成が始まる。さあ私はどのくらい安全な立場なのか?

 名前や住所を聞いた後の調書はなかなか進行しなかった。

 取り調べしていた警察官は歯切れが悪い。

「えーっと、今回の現場は箕田交番、ひとつの事件が発生しました。状況を把握するため、私が加害者Aと共に調書の作成を行います。まず、ここには何かがありました。えーっと被害者Bによるとここで…」

 彼はなんとか調書に集中しようとしているように見える

 私の行いに対しての興味や好奇心といったレベルで認識阻害のようなものが発生しているようだった。

 私は彼に協力的に促す。

「私、引間 秋平がナイフで切りました」

 これは十分自白になるだろう。

 私の言うままに警官は調書を書いていく。認識阻害や擦り込み行動が間接的な関係でも有効性を保っているのが確認できる。

 しかし、調書がもう少しで完成すると言うところで突然取調室にもう一人の警官が入ってきた。

 そして取り調べ中の警官に耳打ちする。


 私は程なくして釈放となった。私の見る限りでは誰かから指示が入ったようだった。これは新しい発見だった。

 私は自分の現実認識の限りでこの現象を説明しようと試みる。

 今までの実験の限りではこのナイフには二重の安全装置が機能していた。

 一つに、このナイフはおそらく、民間には降りてきていない、未知の認識阻害の技術を使っているであろうことが考えられた。そしてその認識阻害はカメラなどの機器を媒体とした観察においても同じように働く。これはそこだけ別のパラレルワールドに繋がっていて、認識を入れ替えているとか、そのくらい現代の科学的な常識から飛躍した技術がないと到底不可能に思える様な機能だった。

 そしてその上で二つ目に、彼らは国家権力を左右できる立場でもある。少なくとも警察組織を迅速かつ自在にコントロールできるくらいには。

 そうしてあの諜報員?がマッカーサーの姿を標榜しているとなると、やはりアメリカの情報機関の可能性が高いのではないだろうか?それとも敢えてそのような格好をしているだけて全く別の組織なのか?警察を動かせるとなると、個人じゃなくて組織と考えるのが妥当だろう。私はあのマッカーサーの所属している組織に対して思いを巡らす。しかしいくら考えても確証の持てるような答えは出なかった。


 私はナイフを鞘に戻すと、隣のカードに手を伸ばした。あのマッカーサーが私に渡した司令のカードだ。

 そのカードは上質紙で作られて二つ折りにされていた。

 漂白されて真っ白のその紙は少しツルツルとしていた。私は仕事始めの月曜日のような少しだけ陰鬱な気持ちでそのカードを開く。


 そこには“マクドナルド 青里あおざと店“と書かれていて、その下少し大きなサイズの同じフォントで名前が書かれていた。


 四谷よつや 実春みはる

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