第3話 吸血少年、その名はレイ①

「礼太! 何だこの点数は!?」


 ドアごしの大声に、礼太は肩を震わせた。

 服のすそをぎゅっとつかんで、自室のドアをそっと開く。足取り重くリビングへ向かえば、父親が眉間にしわを寄せてソファで待っていた。


「ご、ごめんなさい……」

「勉強したことの半分ぐらいしか分かってないってことだろう! 分からないところがあったら聞けって言ったよな?」


 プリント箱にあった六十五点の算数のテストをにらむと、父親は再び厳しい目を向けてくる。

 胸が苦しい。手のひらが汗ばんでいく。服をさらに強く握りしめて、床を見ながら礼太は声を振り絞った。


「……でも」

「あ? でも・・?」


 「ご、ごめんなさい何でもない」ギリ、と鋭さを増す父の目に、礼太はとっさに口をつぐんだ。


(父さんが勉強を教えてくれる時、もう少し怒鳴らないでくれたら、分からないところも聞きやすいのに……)


 そんな心の声は、口に出せずのどをすべり落ちていく。


「なんであんな簡単なことも分からねえかな……もういいわ。勉強戻りなさい」

「……はい」


 拳を握りしめたまま、礼太はとぼとぼと自分の部屋に戻り、宿題の続きを始めた。

 だが、教科書を読んでも、解き方が頭に入ってこない。

 怒鳴られたあとの頭は、空っぽの真っ白で。


 震える手でえんぴつを握る礼太の耳に、ふと、声が聞こえた。

 扉ごしの、父親の笑い声。

 問題の解けない礼太の部屋に、ソファに横になりがらテレビを見て笑う父の声が遠く響いていく……。





「おはようございます、レイタ様」


 差しこむ月の光に、レイは目を覚ました。

 にじんだ目をこすれば、セバスがこちらをのぞきこんでいた。


「……セバスさん」


 くせでメガネをまさぐって、そういえばそのまま見えることを思い出し、レイは体を起こした。

 窓の外は相変わらず夜のまま。ここは本当に朝が来ないのだろう。


「おはようございます……他のお二人は?」

「ノラは街へ買い出しへ。マイキー様は一度ご帰宅されました」


 「そうですか」レイは一言返すと、今見た夢を思い出して、そっと息をついた。


「どうなさいましたか。顔色が優れませんが……」

「……何でも、ないんです」

「無理にとは言いませんが、何かあれば頼りにしてくださいね」

「ありがとうございます」


 セバスのスミレ色のまなざしが、あまりに優しくて。

 きっと味方だろうけど、まだこの人たちのことをよく知らない。うっかり甘えて食べられないよう、レイはしっかり気を持って、ベッドから下りた。


 セバスが着替えを手伝ってくれようとしたので、レイは慌てて断って、今日もマイキーのお下がりの服を着た。

 ネクタイつきのワイシャツに、黒いガウン。ズボンは一回り大きくてサスペンダーで留めた。

 相変わらず自分が自分じゃないようでちょっとドキドキしているのは、ここだけのナイショだ。


「朝食の準備ができてございます。昨晩お気に召したようでしたので、今朝もカボチャパイを……」


 広い廊下をセバスに連れられ、玄関前ロビーからダイニングに向かっていた時だった。

 ドズン! と玄関が叩かれる。突然の大きな音に、レイは身を強張らせた。


「……レイタ様、早くお部屋へ」

「あ、で、でも……」


 続く激しいノックに、セバスの紫の目が階段を指す。しかしレイは恐怖に足がすくんでいた。

 動けないレイをセバスが抱えようとした、その時。ドアがとうとう破られた。


「っ!」


 床へ突き飛ばされると同時、木材の弾ける音が大きく響く。

 煙が立ちこめる中、起き上がったレイははっとセバスの方を見上げた。が、燕尾服のすそを揺らしただけで、彼は一歩も動いていない。

 白手の片腕が、飛んできたドアを念力のようにぴたりと止めている。それを投げ捨て、セバスは冷たく煙の先をにらんだ。


「こんな早朝に、何用ですかな?」


 普段と打って変わって、セバスの声は鋭かった。それに答えるように響いたのは、何やら聞き覚えのある金切り声。

 レイは思わず言葉を失った。壊れた玄関ごし、羽ばたく巨大な影を見て。


 黒色の丸い体に、ぎょろりとした目。体の半分はあろうかという大口。

 ここへ迷いこんだばかりのレイを追いかけた、昨日の一つ目コウモリがそこにいたのだ。


(まさか、僕を追いかけて……!)


 呆然とするレイへ、コウモリはがぱりと口を開く。

 そこへ赤紫のまがまがしい魔法陣が浮かび、中心から同じ色の閃光が放たれた。


「レイタ様!」


 とっさに飛び出したセバスが、身をていして光を浴びてしまう。

 とたんに鎖の伸びる音がして、彼の体は赤紫の鎖にがんじがらめにされた。


「な、封印術シーリングですと……!?」


 うろたえるセバスへ、次いでコウモリはその口から思いきり怪音波を放つ。

 頭が割れんばかりの高音が響き、レイは思わず耳をふさいだ。

 戸棚は倒れ、シャンデリアは床にまき散る。音波の中心にいたセバスは壁へ強く打ちつけられた。


「セバスさん!」

「馬鹿な……城の障壁バリアまで、破られるなど……」


 ぐったりとうなだれた彼に、慌ててレイはかけ寄った。


「レイタ様、お逃げ下さい……!」

「でも、セバスさんが」


 そこへ、不意に影がおおう。

 振り向くより早く、レイは玄関の外へと放り投げられ、背から地面に打ちつけられた。


「かはッぁ……!?」


 あまりの激痛に一瞬、息が止まった。

 背中が燃える。脈打つたび全身で痛みが主張する。


 咳きこみながら見上げた空に、あのコウモリがいた。

 次いでコウモリは目玉の前に光を集め、一点にしぼったそれを撃ってくる。


「わぁっ、ああぁ!!」


 慌てて飛びのいた地面が、ジュッと煙を立てた。

 そのまま赤いレーザーは、レイを追いかけ草木を焼き切っていく。

 死にものぐるいで走るレイだったが、やがて転びかけた右腕を、細くなった光線がかすった。


「あぐゥッ!?」


 腕から全身へ火が回る。押さえたそこからツゥ、と赤い筋が垂れてきた。

 座りこんで息を切らすレイへ、トドメとばかりにコウモリは急下降をかける。


 迫りくる口を見た、瞬間。全ての動きが、なぜかスローモーションに見えた。

 ぼうっと熱をもつ腕も、目の前の光景も、まるで他人事ひとごとのようで。


──もしも、ゲームや本の世界に行けたなら。


 そう考えるほど、かつてから礼太レイは非現実が好きだった。

 別世界に浸っている間は、嫌なこと忘れられた。


 このまま食べられたら、どうなるんだろう。

 もう帰らなくてもいいんだろうか。


(怒鳴られるくらいなら、いっそのこと……)


 迫る牙をぼんやりと眺めていて、ふと、レイは気がつく。

 えものをねらう金の瞳。その奥にわずかな寂しさがあることを。


(このコウモリ……暴れたくて暴れてるんじゃない。僕の心まで傷つけたい訳じゃないんだ)


 無意識に、レイはすっくと立ち上がっていた。

 不思議と恐れは消えていた。だって、コウモリの目は、物言わぬ助けを求めていたから。

 レイと、同じだったから。


 次の瞬間、ガチリ、と牙が噛み合う。しかしそこにレイの姿はなく、コウモリの背後に彼は立っていた。


「……怖くないよ」


 ぽつり、レイは呟く。

 飢えに理性を失っていたコウモリですら、身震いするほどの気迫で。


「君は、怖くない。君は僕の心まで傷つけるつもりがないから」


 夜の風が吹く。月を隠していた雲が晴れる。

 レイの大きな黒目が、みるみる赤色せきしょくに染まっていく。


「お腹がすいたの? それとも嫌なことがあったの?」

 

 青い月光の下でガウンをはためかせ、半吸血鬼のレイは、腕の痛みも忘れて手を差し伸べた。


「……おいで」


 その姿に、鎖に巻かれたまま玄関へい出たセバスは、目を疑った。

 偉大なる吸血鬼と同じ色の目をした、一人の少年を見て。


「リヒト、様……?」

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