沈殿

草森ゆき

沈殿

 夜のために生まれてきたような人だった。暗がりがやけに似合う佇まいは初めて出会った五歳の頃──あちらは十歳の頃──から何も変わらず、ひたすら輪郭線が夜だった。話し始めてもそれは同じだった。鼓膜が拾う声は何を話していても抑揚がなく、緩やかで、人を眠くさせていた。朝や昼には気配自体がひどく薄まった。

 親が再婚して俺の兄になった人は、そんな人だった。

 俺は義兄さんが好きだったし、ある意味誰よりも嫌いだったし、どちらを伝えたとしても同じ言葉が返ってくるのだとわかっていた。


 久々に踏んだ故郷は相変わらず澱んでいた。県内でも有数の田舎であり、バスの本数が少なく、田んぼか荒れ果てた売地ばかりで、住居は隣接していない。風だけは心地良かった。梅雨入り前の晴れ間の中、俺は黙って道を歩いた。誰にもすれ違わない。

 バス停から実家まで、三十分は歩いた。実家に向かう細道は舗装すら曖昧でひび割れている。その隙間から、雑草が顔を出していた。実家の庭の方が綺麗だ。あの人が手入れをしているからだ。丁寧に敷かれた砂利の合間に、玄関に向かう敷石が続いている。

 未だに引き戸の玄関扉は施錠されておらず、開けると無意味に広い三和土が見えた。靴はほとんどない。草臥れたサンダルだけが、隅の方で蹲っていた。乾いた粘土のような臭いがした。古民家の独特な香りだった。義兄さん、と靴もないのに呼び掛けた。仕事に行っている時間だとは知っていた。

 中に入り、居間に向かった。ところどころほつれている畳の上に座り込み、鞄を下ろして息をついた。横目を送った先には昔と変わらない時計があった。スマホで確認すると、時間はかなり遅れていた。

 義兄さんが帰ってくるまで数時間あった。俺は寝転がり、ざらついた畳に頬を押し付けて目を閉じた。枯れた藺草の香りがした。懐かしさがむごかった。


 俺が高校生で、義兄さんが大学生の頃だった。虐められていたわけではないが所謂いじられ役だった俺は、級友の悪ふざけにより自転車をパンクさせていた。ハンドルを押して、歩いて帰った。近場の高校を選び、自転車通学を選び、いじられ役として適当に馴染む立場を選んだことを、一番後悔した時間だった。

 講義が午前で終わっていたらしい義兄さんと、途中の道で出会った。義兄さんは義兄さんで実家から通える距離の大学に行っており、駅からの帰り道だった。

「どうしたんだ、お前」

 義兄さんは自転車を降りて、聞いてきた。俺が黙っていると、視線は俺の自転車のタイヤに向いて、勝手にすべてを察していた。

 義兄さんは俺の隣に並んで歩き始めた。駅からでも、家までは一時間近く歩くことになる道程だった。

「先、帰れよ」

 俺が言うと、義兄さんは黙って首を振った。結局そのまま、俺と義兄さんは歩いて家に向かった。

 母さんと義父さんが交通事故で死んでいる間、俺と義兄さんはろくに話もせず呑気に歩き続けていたわけだった。

 遺体の損傷は酷かった。ガソリンが燃え上がって両親ごと丸焼きにした。帰宅した俺と義兄さんはけたたましく鳴る電話に引っ張られて、病院に向かうしかなかった。パンクしていない義兄さんの自転車に二人乗りで跨って、重い夜の中を二人で走った。田舎道は誰にもすれ違わない。俺と義兄さんは二人きりみたいだったし、本当に二人きりになった。骨ごと燃えた両親は血の繋がらない兄弟だけを残して消えた。


「……帰ってたのか」

 話し掛けられて、覚醒した。辺りはぼんやりと暗かったが、唐突に明るくなって一瞬目が痛んだ。何度か瞬きしてから身を起こす。電気紐を掴んだままの体勢で、義兄さんが俺を見下ろしていた。

「いくら帰れって言っても、ろくに返事もしない癖にな……」

 義兄さんはぼやきながら俺の近くに腰を下ろした。相変わらず、夜のように薄暗い男だった。でもこの雰囲気を眺めに帰ってきたのだ。義兄さんもそれは、わかっている。

 束ねた長髪がざらりと肩を滑り前へと回った。俺が前髪を掴んで引っ張ったからだ。数本抜けて指に絡んだが構わず更に引いて呻き声を聞いてから持つ場所を変えた。長い髪をゴムごと掴んで、眉を寄せている義兄の頬を一度殴った。

 俺はこの人のことが好きだが、同時に激しく嫌いで、それは母と義父がいなくなったあの日からずっと続いている。恐らく一生続く。

 そうしなければ俺が義兄さんを義兄さんと呼ぶ理由が消え失せる。

「釘、好きか?」

 聞いてみると、義兄さんは一瞬目を見開いた。大体はいつものことだから一瞬だった。好きではない、と暗闇の淵のように呟いたきり、義兄さんは黙って目を伏せた。


 両親が亡くなったあと、俺だけが親戚に引き取られる方針もあると打診された。そう言った親戚の意図は知らないし興味もなかったが、高校がずいぶん遠くなるためあまり芳しくはない提案だった。

 俺の態度を見たのか、それ以外なのか、義兄さんがそれを断った。家族が二人になったのだし、自分が義弟の面倒を見ると言い切った。親戚やら、近所の住人やらは、義兄を立派だと誉めそやした。実際に立派だ。血縁ですらない、偶然で弟になっただけの俺を大学まできちんと世話をするなんて、俺が義兄さんの立場だったなら、言えたかどうか定かではない。

 だから俺は怒った。沸騰するような怒りではなく、ゆっくり降り積もる澱のような怒りだった。義兄さんを嫌いだと思った。まったくの偽善で言ったわけでも、外部評価を軸にして言ったわけでも、家族の絆がどうと内面的な感情で言ったわけでもないと、俺だけが気付いたから、嫌いだと思った。

 こいつ責任を感じてるのか。パンクした自転車を引きずって歩いている俺を放置して帰れば両親がまだ在宅している時間に家へと辿り着いたということを、そうしていれば義兄さんはもうすぐ俺も帰ってくると二人に告げて、四人で買い物に出るかという話になったり偶には外食するかと決まっていたり、とにかくこのような悲惨な未来にはならなかったってことを、義兄さんは何通りも空想して苛んで責任を感じてせめて俺だけは守るというような責任感ゆえの無責任で世話するって言ったんだなと、俺だけはどうしても気付いてしまった。

 二人きりになった実家の中で俺は初めて義兄さんを殴った。人を殴ったこと自体初めてで、俺の手は一発入れただけでじんと痺れて骨が軋んだ。義兄さんは驚いていたけど、二発目を下腹部に放り込んだ時には気付いたようだった。俺が怒っていることに。

 でも多分、違う怒りだと思ったのだろう。なんでお前と二人きりなんだよという、母を返せよという、やり場のない怒りの捌け口が自分しかないのだろうと勘違いしたと思う。そういう類の無抵抗だった。義兄さんは黙って俺に殴られて、蹴られて、一度咳き込みながら吐いた。何も食べていなかったようで、ほとんど胃液と唾液だけの滑った液体を畳の上にどろりと溢して、涙の滲んだ両目で俺を見上げた。匂いを覚えている。据えた吐瀉物と褪せた畳と、噎せ返るような湿気の籠りを覚えている。夏だったのか俺と義兄さんの汗だったのかはもうわからない。


 ホームセンターで買ってきた釘は先端の尖りが一番鋭いものを選んだ。ついでに買ったハンマーは小ぶりの使い勝手が良い家庭用にした。俺が手を差し出すと、義兄さんは躊躇いもせずに乗せた。遠慮なく握り込む。これから踊りでもするような、妙な体勢だ。

 義兄さんの手はいつも冷たかった。煙草を吸う人間は指先が冷えやすいと聞いたことがあるが、義兄さんはもう煙草をやめているし、初めて手を引かれたのはどちらも未成年の頃だからその限りではない。

 掴む場所を手首に変えて引っ張った。居間の机に掌を置かせ、手の甲は左手で上から押さえた。人差し指でいいか聞いた。義兄さんは何を思ったのか、親指と答えた。俺は義兄さんの親指の下に、その辺りに転がっていた消しゴムを挟んだ。

「義兄さん」

 爪と肉の間に釘の先端を添えながら口を開いた。

「俺、義兄さんのこと好きだよ」

 話しながらハンマーを振り下ろした。ぶつりと皮膚と肉の割れる音が小さな振動として伝わった。義兄さんはうぐ、と面白くない呻き声を漏らしただけで無言だった。嘘だと思っているとはわかった。

 もう一度振り下ろす。数ミリだけ沈んでいた釘は一気に半分めり込んで、爪越しに銀色の胴体が見えた。肉が爪の内側で脈打って、熟れるようにじりじり赤くなっていった。釘を伝って血が落ちる。それは音もなく畳の上へと吸い込まれていった。

 釘をもう一本取り出して、少し考えてから小指の下に消しゴムを敷いた。義兄さんは額に汗を滲ませながら俺を見たけどやはり無言で、いつまでこんな贖罪ごっこの忍耐が続くんだろうなと俺は思う。釘は爪の間ではなく第一関節の少し上に当てた。強く押し付けるとそれだけで皮膚が破れて血が滲み出し、皺に沿ってゆっくりと広がっていく。骨を貫けるかわからなかったが、出来るだけ力を込めて振り下ろした。何かが割れる鈍い振動が釘を支える指越しに感じ取れ、耳元で義兄さんは叫んだ。声量をどうにか落としたのだろうが、確かに悲鳴だった。義兄さんは肩で息をしながら突っ伏して、机の上に顔を伏せた。

「義兄さん、次はどの指がいい」

 俺は三本目の釘を義兄さんの顔の横に置きつつ聞いた。

「どこでもいいよ。逆の手でもいい。でも一応、利き手じゃない方がいいだろ。仕事に支障が出過ぎると良くないし、俺別に、義兄さんが心底憎いからやってるわけじゃないし。いや、憎いと言えば憎いけど。でもなんだろうな、こうでもしないとやってらんねえんだよ。義兄さん、俺おかしい?」

「おかしいけど、おかしくない」

 掠れた声で返事が来た。義兄さんは怠そうに顔を傾けて、黒い瞳で俺を見た。夜みたいな人だった。俺の周りをゆっくり闇に変えていって、暗がりの中に沈殿させてくるような人だった。

 三本目の釘は手に取らず、半分ほど釘の埋まっている親指を掴んで引いた。卓上から出るように手を置かせて、ハンマーを握り直してから釘の表面をなぞったところで、義兄さんは予測できたらしく息を詰めた。俺は親指を逆の手でしっかり固定し、浮き出ている釘を狙って振った。力んでしまったが狙いは外れなかった。義兄さんは今度こそ、近所にも聞こえそうな叫びを上げた。

 勢いよく剥がれた爪は俺の頬に当たってから机の上に転がった。生の肉がこびりついたままの爪は魚の鱗に少し似ていて、思いのほか白かった。錆びた鉄の臭いがする。義兄さんの親指は、血液とむき出しの肉で赤かった。

「義兄さん」

 呼び掛けると義兄さんは、擦り切れた声で俺の名前を呟いた。俺は黙ったまま、置きっ放しの釘を人差し指の爪の間に押し当てた。

「来年もまた来るよ」

 言い切ってから釘を殴った。義兄さんは溺れたような息を吐いてから何かに向けて謝ったけど、俺は聞かないふりをした。

 そうするしかなかった。この人のところに来る理由がこれ以外、どこを探しても見当たらない。



 兄弟になったばかりの頃、義兄さんに手を引かれて神社に続く田舎道を歩いたことがあった。確か秋で、夕方で、辺りは輪郭の判然としない暗がりで、義兄さんだけは暗くなるに連れて景色に馴染んでいった。暗いところで一緒にいるのが一番好きだった。一人っ子だった俺は母親を義父に取られたような気になっていたから、周りが何も見えなくなる夜の中でも俺の手を引いてくれる義兄さんが好きだった。

 にいさん、おれ、にいさんが好きだよ。

 二人きりの境内の中で俺は言った。義兄さんは本当に少しだけ口角を上げて、俺の頭を何度か撫でた。

「きょうだいだから、好きでも嫌いでも、いっしょだよ」

 義兄さんはそう答えた。夜の中にその台詞は沈んでいって、俺の中に澱みとして残った。あの日の夜の中に俺はいる。親が消えようが消えまいが、俺は義兄さんのことを愛しているし憎んでいるし兄弟だからずっと一緒にいようと思っているし、そうするしかないくらい何かが壊れて直らない。

 直らないんだよ、なあ義兄さん。

 早くここから出してくれ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

沈殿 草森ゆき @kusakuitai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ