明日また会えたら

帆尊歩

第1話 眠れぬ夜の出来事


眠れぬ夜の出来事だ。

眠れないのは当然だろう。

今日、妻が私に愛想を尽かせて出ていった。

眠れぬ私は、随分長いことベッドの中で寝返りを打っていた。

思いあまった私はベッドから起き上がった。


目の前にトンネルがあった。

これは故郷にあった、海へと続くトンネルだ。

夏になると子供たちは、水着のまま、ここを通って海岸の砂浜に向かった。

私は促されるように、トンネルに入ると遠くに出口が見える。

あそこまで行けば、すぐ海岸へと下る坂道だ。

暗いトンネルを通ると誰かが横にいる。

小さな女の子が私の横を歩いている。

それは小さいときの妻だ。

私たちは幼なじみだったので、小さくてもそれが妻だと分かった。

歩きながら、妻は段々大きくなっていく。

小学生になり、中学生になり、代わりに私が若返る。

トンネルを抜けると、あの頃のままの海岸線が広がる。

妻は高校生だ。

高校の夏服を着ている。

そして私も高校の夏服を着ている。

十七歳の妻は何も言わず、楽しそうに飛び跳ねながら私のまわりを回りながら、私を海へと誘う。

幼なじみの妻を、異性として意識したのはこの頃だ。

お互いに、恋なんてものの存在を知らなかった子供が、恋という物を知った瞬間だった。

妻の全てが愛おしかった。


「あなたにはついて行けません」

「勝手にしろ」

ここ最近会話のなくなった私たちの最後の会話だった。

この後妻は、用意してあったスーツケースを引いて出ていった。

大方実家にでも・・・。

実家?

この町だろう。

でも私の実家はもうこの町にはない。

私は高校を卒業すると、東京の大学に行き、家を出た。

兄貴はしばらく実家にいたが、何を思ったか大きな町で職を得た。

親父が他界してお袋は一人になったが、お袋は知り合いがたくさんいるとかで、ここを離れたがらなかったが、いよいよ体がきかなくなるとそうも言っていられず、兄貴は家を売って、赴任先の施設に入れるためにお袋を連れていった。

だからこの町に私の痕跡はすでにない。


どうしてこうなったのだろう。

確かにこの頃の私は、妻のことが大好きだった。

妻のことを考えるだけで胸がときめいた。

一緒に並んで話をするだけで心が躍り、妻の言う言葉、仕草、触れたもの、全てが愛おしかった。

何かの拍子で妻が私に触れると、自分の体の一部なのにその部分も愛おしかった。


トンネルを抜けると、のびをするように十七歳の妻が気持ちよさそうに腕を広げる。

高校生の妻の腕は細くて白かった。

私の手にはニコンF、高校生としては分不相応のカメラだが親父が中古で手に入れてくれた。

高校生の私は、妻をそのファインダーに納めようとする。

ファインダーの中の妻にシャッターを切る。

まるで妻を愛していると念じるかのように。

そうだ、確かに私は妻を愛していた。

なのになぜ。

いつからだ。

一つの言い争いがあり、どちらかが謝る。

こちらこそと言えば距離は戻る。

でも何を今更という対応をすると距離は一つ広がる。

今度はこっちが謝る。

こちらこそと言われても距離はそのまま、でも何をいまさらと言う対応をすればまた一つ心が離れる。

そうして私たちはとてつもない距離を作り会話をしなくなった。

こんなに仲がよかったはずなのに。

妻は私がファインダーを向けると嬉しそうに手を振り、笑顔で私の顔を見つめる。

こんなに仲が良かったはずなのに。


東京に出た私の代わりに、妻が両親の様子をちょくちょく見に行ってくれた。

その頃には兄貴も家を出ていた。

妻はその頃からうちの娘のようになっていた。

そんな私たちが結婚をするのは当たり前だった。

結婚してからも、妻はよく親父とお袋を気に掛けてくれていた。

それは本来なら、感謝してもしきれないくらいのことなのに、私はそんな事が当たり前のように思ってしまった。

妻に感謝したことはなかった。

あの時、

ありがとうと言うだけで、何かが違っていたのかもしれない。


海岸ではしゃぐ妻が急にこちらを向いた。

少し泣きそうな顔になってこちらを見つめる。

そんな十七歳の妻の顔を、私はカメラに納めようとファインダーを覗いた。

でもそこにいたのは十七の妻ではなく、五十五歳の今の妻の姿だった。

驚いて私はファインダーから目を離す。

そこにいたのは十七歳の妻だった。

でもその顔は酷く寂しそうで、何かを言いたげだった。

そして次の瞬間、来た方角と逆に十七歳の妻は去って行こうとする。

「行かないでくれ」私は叫んでいた。

でも体が動かない。

「行かないでくれ」

私は五十五歳に戻っていた。

「行かないでくれ」

十七歳の妻はたまに私を振り返り、悲しそうな顔を見せながら、去って行く。


そこで目が覚めた。

眠れないはずだったのに、

いつの間にか寝ていたようだった。

眠れぬ夜の出来事は、出来事ではなく、夢だったのか。

私は泣いていた。

明日また会えたら、ありがとうと言おう。

いや出て行った妻には会えないかもしれない。

会えたとしても、何を今更と言われるかもしれない

それでもいい。

何度でもありがとうと言おう。

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明日また会えたら 帆尊歩 @hosonayumu

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