忘川河の守り人

忘川河の守り人

作者 白玖黎

https://kakuyomu.jp/works/16817330647584711728


 妻が忘川河を訪れるのを待つ彼岸花園を管理する見習い鬼使い謝は、古い友人で燈籠師の范から依頼された、猫の迷魂の未練晴らしの手伝いをする中で妻とめぐり逢い、彼女が訪れるその日まで守り人としての使命を果たすと誓う話。


 中国の玄幻小説(東洋風のファンタジー小説)。

 死後の世界を描きながら、未練をテーマにした作品。

 カクヨム甲子園のロングストーリー部門の字数制限をオーバーしているけれども、物語は非常によくできていて、心情に触れている。

 もの悲しさはあるものの、ある意味ハッピーエンドだと考える。

 読み手によっては、アンハッピーと捉える人もいるだろう。


 主人公は、彼岸花園を管理する見習い鬼使いの謝(シャ)。一人称、私で書かれた文体。零は、主人公は猫の迷魂。一人称、僕で書かれた文体。陸の一部は、妻の謝(シェ)。一人称、わたしで書かれた文体。自分語りの実況中継で綴られている。

 人物や情景、状況描写はよく書けているので、冥土や死者から見る現世の様子がうまく描けている。


 それぞれの人物の思いを知りながら結ばれない状況にもどかしさを感じることで共感するタイプと、女性神話の中心軌道に沿って書かれている。

 現世で人間として生を受けていた数十年前。

 家は界隈に名だたる芸術一家で、若くして将来を嘱望された伶人だった主人公の謝(シャ)は、かつては国内外をめぐって、うたとことばを人々に語り歩いていた。

 旅の途中に立ち寄った山村で、女性から白き氷雪の花をもらい、それをモチーフにした歌謡を歌ってほしいと言われる。娯楽の少ない辺境の村では吟遊詩人でさえめずらしい。村娘は花々や鳥獣、天地や自然のあれこれについて知っていた。見聞を広めることは嫌いではなかったので、教えてもらう代わりに得意な歌で応えていただけだったが、気づけば心が通じ合い、村から離れなければいけない頃になったときには手放せなくなっていた。

 両親はみすぼらしい田舎娘を連れて帰ってきたことを嫌がり、主人公も不確かな存在である将来に変な期待をかけられて辟易していたため、バッサリ縁を切り、駆け落ちするように家を飛び出す。

 愛する人のために音楽の道を捨てるなどたやすいことだった。それでも時折、妻は気を使ってか、時間さえできれば数日限りの小旅行に誘われる。妻と同じ景色を見、同じ体験をし、同じ時間を共有する旅が生き甲斐だった。やがて歳を重ねて家族が増え、老いていき、この世を去って先の来世でも二人の関係は限りなく続くと思っていたある冬の日。二人が乗る鉄道に、阿片に酔った狂人の暴走車が衝突した。

 無惨な事故現場から煉獄の花が咲き乱れ、気づけば迷魂となっていた。冥土へ渡っても妻と忘川河を越えたいと思っていたのに、現れなかった。そこでとある鬼使いに未練晴らしの依頼、妻に再び会いたいと。時間の許す限り探し続けるも、見つからず、己の未練を受け入れることのできなかった魂の成れの果てとして、鬼使いとなる。しかも、わざと彼岸花園を管理する見習いを続けているのは、妻がいつか忘川河を渡る日まで待ち続けようと密かに決めていた。

 仕事に勤しむ同朋を遠くから眺め、彼岸花の絨毯で惰眠を貪るある日、本来は上位の鬼使いの務めである仕事の書簡が届き、とある迷魂の未練晴らしの依頼を任せられる。

 隠居して現世で燈籠師をしている范が鬼使いの現役だったとき、迷魂だった謝を未練晴らしの手助けをするも助けることができなかった。以来、一人待ち続けている謝を不憫に多い、仕事をこなして昇格させてあげようと今回の依頼を送っていた。

 とある迷魂が白猫だった頃、足が不自由で外に出歩けない鬼使いとなる前の謝の妻に出会い、月下美人の花を贈る。また、彼女は茉莉花も好きだと知る。「本当はね、わたしよりも上手に歌える人がいるんだけど。でももう、あの歌声は聞けなくなっちゃった」「もうこの世にはいないんだ。事故で亡くなったから。わたしの足も、そのときに怪我したものだから」猫は寄り添っては慰め、きれいな花や石を貴女の枕元に運んでゆく日々が続く。ある日、今までに見たことのない大輪の月下美人を見つけ、持ち去ろうとするも、花屋の店主の逆鱗に触れ、ひどい仕打ちを受けてあっさりと死んでしまったという。

 鬼使い謝は猫の迷魂とともに現世へ降り、燈籠師をしている范の元へ行き、鬼車にのって未練晴らしの想い人の元へと向かっていく。

 その場所に鬼使い謝は見覚えがあった。

「いました。間違いない。あの方が、僕の愛する人です」

 猫の迷魂に言われ、窓から部屋のなかへと視線を向ければ。小ぢんまりとした部屋に初老の女性。ずっと探し求めていた妻の面影があった。猫の迷魂に手をH彼、導かれるまま窓辺に小さな茉莉花と大輪の月下美人も置き、妻と目が合う。

 猫の未練は無事はらされ、小さな球根のようなものだけが残された。

 妻の謝(シェ)は、看護師に「さっき窓の外に猫の姿を見たような気がして。少し前まで、ときどき顔を見せに来てくれた白猫です。それと、若いころに亡くした旦那の姿もあったような……」と話す。

「今は鬼月ですからね。きっと旦那さんが現世まで会いに来ていたんですよ!」

 そんなおとぎ話みたいなというと、「もし本当だったら素敵じゃありません?」と言われる。窓辺を見ると、見覚えのある花が置かれていて、紛れもなく本物。窓の向こうには朝日が顔を出していた。

 冥土に戻った鬼使い謝は球根を埋めると、真っ赤な彼岸花が咲いた。依頼が范だと知り、「ところで、今後はどうする? あたしの権限で、あんたを昇格させてやってもいいんだよ」といわれるも、「私は、あのひとをこの場所で待つと、決めたのですから。それまでは、守り人としての使命を果たしましょう」と答える。

 悲願が実り花と化す死者の国に生え出る花は、どうしても果たさなければならなかった迷魂の悲願を那由他の果てまで映し続ける悲願花である。


 三幕八場の構成で書かれている。

 一幕一場のはじまりは、現世では鬼月(旧暦七月)の頃。数十年も前から霊魂が渡ると今世の記憶を忘れる忘却の河川のほとりで彼岸花園を管理する見習い鬼使いがいた。同じ時期に鬼使いとなった同朋は高位に進み、日々現世と冥土をせわしなくゆき交っている。自分だけは永遠に彼岸花園のかかしであればいいと思っている。

 二場の主人公の目的は、上位の鬼使いの仕事依頼の書簡が届き、目の前に青白い光の白装束の迷魂に「私はこの忘川河に勤める鬼使いの謝と申します。どうやらあなたの案内役を承ったようです」と、未練晴らしの手助けをすることになる。

 二幕三場の最初の課題では、未練を晴らすに当たっての注意事項を迷魂に語る。あくまで迷魂自身で未練を晴らすこと、鬼使いの許可なしに遠くへはいけないこと、現世の人に会っても向こうからは見えないこと、逃亡を測れば強制的に冥土へ戻されること、自由に活動できるのは一夜のみ。迷魂はあまり覚えておらず、ただ愛する人がいてもう一度会いたくて依頼したという。

 四場の重い課題では、数十年ぶりに現世に降り、かつて自身の未練晴らしを手伝ってくれた冥土の高位な鬼使いで、現在は隠居して現世で燈籠師をしている范の元を訪ね、霊魂の行くべき場所の道しるべとなる燈籠を頼りに、あとをついていく。

 田畑に囲まれた田舎道のわきに咲く白い花が鬼使い謝の目に留まる。懐かしい香り。久しく思い出さなかった歌謡かようを鼻で唄ってみると、迷魂が「その歌です。茉莉花をうたったものでしょう」と口を開く。「草花に関する歌謡はそれなりに知っています。彼女がよくうたっていましたから」

 迷魂の言葉に「生前のことです。歌が得意なので、他人によく歌って聞かせていました。特にあのひとは花が好きでしたから」と答えて湿原だったと口を閉ざす。

 五場の状況の再整備、転換点では、迷魂は気づけば冥土の忘川河のほとりにいたと話し、川を渡ろうとすると足がすくみ、橋の手まで途方に暮れていたとき、記憶の種がほころび、先に進む訳にはいかないと思い未練晴らしをしようと思ったという。現世に舞い戻ってからは顕著になってきたという。

 鬼車に乗り込んだあと、自分が何者なのかを知りたいと話す迷魂に、鬼使いの謝は、記憶を完全に取り戻すことを選んでいる時間はないことを伝え、記憶と未練のどちらを選ぶのかは迷魂の自由であるが、いまは燈籠を信じるよりほかなかった。

 六場の最大の課題では、あの人のことを教えてほしいと迷魂に言われ、数十年前の現世で人間だったころ、伶人をし、妻となる女性と出会い、旅先で事故に遭遇、自分だけが冥土に来て未練晴らしの手助けをしてもらったが妻は見つからず、落ちこぼれの鬼使いをしていることを話す。

 三幕七場の最後の課題では、鬼車から降りると、それまで微動だにしなかった燈籠とうろうが再び動き出す。山間にあるのどかな集落。見覚えのある光景が広がっていた。行き着く先の屋敷に見覚えがあった。二人で作り上げた花園があり、妻が好きだと言ったから植えた月下美人が美しい花を咲かせていた。

 迷魂は猫だった生前、足の不自由な彼女に月下美人を送る。茉莉花も好きだったと古い歌謡を口ずさみ、事故でなくなりその時足をけがしたことを聞いた。花屋でみつけた月下美人を持っていこうとすると花屋の店主に殺されてしまい、花を見せたかったと思いながら死んでいったことを思い出す。

 猫の霊魂とともに鬼使いの謝は窓辺に小さな茉莉花を置く。隣には大輪の外科美人もあった。そのとき妻と目が合う。

 妻の謝は看護師に、ときどき姿を見せていた白猫と若いとき亡くした旦那の姿を見たようなと話す。鬼月だから会いに来たのかもと話し、朝日が登る窓辺には花が置かれているのをみつけた。

 八場のエピローグでは、未練が晴らした迷魂は球根に変わり、冥土の植えると真っ赤な彼岸花を咲かす。「初仕事は無事に終えられたかい?」と范にいわれ、依頼書を出したのは彼女だと知る。彼女の権限で昇格もできると言われるが、妻が来るまで待つと決めたので、守り人としての使命を果たすと答える。范は帰っていき、迷魂の悲願が実った彼岸花を見守り続けるのだった。


 構成はよくできているし、主人公の鬼使い謝がどうして落ちこぼれで花園で守り人をしているのかと、彼のもとに初仕事の依頼できた迷魂がどんな未練をもっているのか、大きな謎と小さな謎の二つが物語が進むとともに少しずつ明かされていき、絡まりながら最後は謎が解かれていく展開もいい。終わりは盛り上がっているし、読後感も良かったねと思える出来に仕上がっている。


 本作は未練の話である。

 登場人物全員が、何かしらの未練を抱えている。

 主人公の鬼使いの謝が、猫の迷魂の未練晴らしの手助けをすることで長年会いたかった妻にひと目会うことができ、そのきっかけをくれたのは燈籠師をしている范であった。

 かつて鬼使いをしていた范が、迷魂だった謝の未練晴らしの手助けをするも叶えることができず、ずっと気になっていた。

 当時は、燈籠という便利なものがなかったから。

 だから現世に降りて燈籠師となり、ひそかに妻の消息を探してくれていたのかもしれない。ようやく見つけ、猫の迷魂の依頼をおちこぼれの鬼使いの謝に送ったのだ。

 猫の未練が晴れたことで、亡くした夫のことを思っていた妻も、あの人があの世から会いに来てくれたと思えて嬉しかっただろう。

 鬼使いの謝も、妻が死んだときに迎えようと希望が持てたと思う。

 范としても、手助けできてよかったと安堵したはず。

 これも一つの愛の形。

 読者はもの悲しくも、良かったねと思えるハッピーエンドな作品だ。


 冒頭の書き出しは、冥土の世界を描いている。

「常夜の空から星が降ってきた」ということは、あの世である冥土は常に夜。その夜空から星が雪のように降ってくる。

 そんな彼岸と此岸の境をなす忘川河のほとりで、彼岸花園を管理する見習いをする鬼使いが、主人公である。

 主人公が見ている風景を描きながら、世界の説明をしていく。

 雪のように振ってくる星は本当の星ではなく、「実を結ぶようにふくらんだ光」である「星が落ちれば死人が増える」ので、霊魂の光が、星のように見え、雪のように静かに降り注いでいるのだ。


 同朋がどのような姿をしていたのかわからない。同じ鬼使いだから、主人公と同じ服装をしているかもしれない。だけれども、同朋は高位になっているはずなので、容姿も異なっているのでは。その辺が気になった。

 かわりに、迷魂の描写や燈籠師をしている范の描写、冥土の風景や現世での燈籠流しの様子など、風景や情景描写はよく書けてる。

 そもそも主人公はどんな格好をして現世に降りたのか、気になった。


 さまよえる迷魂は「冥土に相応ふさわしくない、生命の誕生を見ているようで。見上げるほどに大きくなった燐火――もとい、魂の奔流が人の形を成してゆく」と主人公の前に現れる。

 現世は白猫だったのに、どうして人の形になるのだろう。

 魂の奔流は人の形をしているのならば、すべての生物が死んで冥土にたどり着いたとき、人の姿をしていることになる。

 実に興味深い。

 手塚治虫の漫画『ブッダ』に、すべての生命のかたちは人の形をしたものが絡み合うような描写がされていたのを思い出す。すべての生き物の魂は兄弟みたいなもの。猫の魂の形も、人の形をしていてもおかしくないと思える。

 生物の進化の終着は人の形になるのかしらん。だから魂は人の形へと行き着くのだろうか、と思いを巡らせてしまう。


 降る様を、「しんしんと降り注ぐ」と紋切り型で書かれている。

 静かに雪が降る様を表すオノマトペを使う使わないは自由なのだけれども、「夜はしんしんと深まってゆく」でモヤッとした。

 こちらの「しんしん」の場合、夜の時間が深まることを意味していると考える。「時代は移り変わり街灯が増えたおかげで、真夜中でも先は見えるほど明るかった」と続くので、暗くなっていくわけではない。それはわかるのだけれども、この表現で作者がイメージしたものが読み手に伝わるのだろうか。

 どちらにしても、なるべくなら手垢のついた紋切り型のオノマトペを使わないようにすると作品が良くなる。

 作者は、自身がイメージしている情景を、読者もおなじイメージができるよう届けるための表現をすることに心を配らないといけない。

 難しいと感じると距離ができてしまうように、読み手に伝わらないと作品の印象がイマイチになってしまう。

 音もなく降り注ぐでも、夜は刻々と深まったでもいいけれども、世界観に合いながら読み手に伝わる表現を心がけると、独特な世界観に読者を引き込める。

 読んでいて引っかかりがあると、せっかく作品世界に浸っていた読者は現実に戻されてしらけてしまうので気をつけると凄みが増すと思う。 


 主人公の名前が一度しか出てこない。

 書き出しでは、読者の興味を引く出来事とキャラクターの紹介の両方を描いていく必要がある。

 ラノベやライト文芸では、物語よりもキャラクターを優先する風潮がある。

 本作の場合、キャラクターもさることながら物語が重要な作品。だから、世界観に重きをおいて書かれていると考える。それは正しい。一人称の主人公視点で描いているので、感情移入もしやすく、迷わず読んでいける。けれども、読み進めてもなかなか会話文が出てこないし、主人公の名前も現れない。出てくるのは、二千字くらい経ってから。四百字詰め原稿用紙換算枚数だと五枚目のラスト。もう少し早く名前を出してくれたほうが、読み手も作品世界に感情移入しやすくなるのでは、と考える。

 会話文がなかなか現れず、主人公の名前も出てこないとなると、読み手は読むのをやめてしまうかもしれないから。


 ただ、鬼使いとはいえ死者なので、名前に関して希薄になるのかもしれない。

 それでも主人公の謝は、霊魂が渡ると今世の記憶を忘れてしまうという忘川河を渡っていないので記憶はあるはず。

 でも、数十年も彼岸花園管理といいながら、彼岸花の上で寝そべって過ごしていたら自身の名前に希薄さをもってしまうのも無理からぬことかもしれない。

 とはいえ、読み手としては早めに明かしてほしいはず。


 気になるのは、妻の名前も「謝」であること。

 漢字を同じにし、読み方が違うことに意味があるかもしれない。

 このことが、主人公の名前が一度しか出てこないことと繋がりがあるのかしらん。

 合わせて「謝謝」ありがとう、という意味があるのかと邪推する。

 ちなみに、夫は「シャ」。妻は「シェ」と読む。

 夫のは姓で、妻の方は名前なのかしらん。


 旧暦の七月を「鬼月」と呼んでいる。

 鬼は中国語では幽霊を意味する。

 中元節であり、中国の伝統行事で日本でいうお盆にあたる。

 祖先がこの世に戻ってくる為、ごちそうを用意して迎える。 祖先だけがこの世に戻ってくるのなら構わないが、鬼月は地獄の全ての門が開くため、悪い霊もご先祖様と一緒にこの世に戻って来るという。

 仏教の盂蘭盆会(いわゆるお盆)とも重なっている。

 中元節では、お墓参りをした後、燈籠に火を灯し、死者が帰る道を照らす。この際、燈籠は川に流す。

 陰陽の思想から来ており、水は陰となる。昔の人々は、水は神秘的で暗く、死者の魂は水底にあると考えていた。

 ゆえに、中元では燈籠を川に流して死者の魂に「陽の世界へ導く明かり」を提供する。陰の世界から陽の世界への道は暗いため、明かりがなければ道は見つけられず、死者がただしい経路を見つけられないだろうという考えに基づく風習である。

 こうした考えを元にして、燈籠師の范が登場した際、魂が湖に入っていく描き方がされているのだろう。


 とある迷魂の前世が猫だった、ところが面白かった。「僕たちは三年の恩を三日で忘れる、と古くから言われます」と、猫の特性が語られている。

 逆に、犬は三日の恩を三年忘れず、と言われるとか。

 猫だったから前世の記憶もあやふやで、名前や住所、職業を答えられなかったのだ。名前以外は答えられるわけがない。満月に反応するのも、生前が猫だったと気づかせてくれるものだったことがわかる。

「迷魂の後ろ姿は、かなり変わっていた。前世もそういう体質だったのだろう、肌は女性顔負けの白さだった。それも蒼白というよりも、どちらかといえば色が抜け落ちたような純白で。くせ毛なのか、頭の上で左右に跳ね上がった毛先が動物の耳を思わせる。少し長めの髪も死装束も白色なので、どこからが本体なのか衣服なのかわかりにくかった。輪郭がおぼろげなのも相まって、それはまるでつつけばすぐに崩れてしまいそうな、粉雪をかき集めてできた人形のように見えた」

 後ろ姿から、白い猫の片鱗が伺えたのだ。

 とはいえ、迷魂が人の形をしていたのならば、生前は動物だったと思い当たらなくとも仕方がない。


 線路の奥からやってくる九つの目のついた鬼車とは、あやかしが乗車する電車のようなものなのかしらん。

 車内に響く音はわかるけれども、車内はどうなっているのかの描写はない。椅子に座っているのかしらん。横並びならびなのか、向かい合って座っているのか。

 中国に伝わる怪鳥に、鬼車がいる。

 東晋の小説集『捜神記』には「羽衣女」の話がある。 

 江西省のある男が数人の女を見つけた。一人の女の脱ぎ捨てた毛の衣があったので、男がそれを隠して女たちに近寄ると、女たちは鳥となって飛び去った。が、毛衣を隠された一人だけは逃げられなかった。男は彼女を妻とし、後に子供をもうけた。後に女が隠されていた毛衣を見つけ、鳥となって飛び去り、さらに後に別の衣を持って子供たちを迎えに来て、皆で鳥となって飛び去った。西晋代の書『玄中記』によれば、この羽衣女が後に「鬼車」と呼ばれるようになったという。

『太平御覧』には、斉の国(現・山東省)に頭を九つ持つ赤い鳥がおり、カモに似て九つの頭は鳴くという。

「無数の怪鳥に曳かれる鬼車」とあることから、鬼車という怪鳥に曳かれた電車のようなものを総称して、鬼車と読んでいるのだと想像する。

 この際、九つの目から光がでているとあるが、九つの頭がある、もしくは九匹の怪鳥がいることを意味しているのではと考える。


「四方を山々に囲まれた土地で生まれ育った妻が、小洒落た洋服を着てサンドウィッチやらオムレットやらを食べるという未来がどうしても思い描けなかった」とある。

 田舎で育った娘は小洒落た服を着てサンドイッチやらオムレットを食べたっていい。それこそ、田舎でサンドイッチやらオムレットを作っても。

 でもそういうことではなくて、世俗にまみれるように着飾らなくとも、自分の妻はそれだけで美しいことがいいたかったのだろう。

 それだけ妻を愛していたことがわかる。


「彼女と小さな旅をすることが生きがいだった」というところが良い。ずっと新婚旅行に行っているような感じがする。

 田舎娘の妻は、いろいろな場所を旅するのが夢だったのだと思う。だから旅して歌ってきた夫と一緒になったと邪推する。

 結婚したら旅をしなくなるでは、納得いかなかったかもしれない。だから小さな旅に出ようと声を開けては、夫と度にでかていたのだろうと想像する。


 未練晴らしの依頼を出して、探しに行ったとき「彼女と初めて出会った山間へ、しばらくのあいだ世話になった集落へ、結ばれてから居を移した屋敷へ。しかしいくら探せど、健康的で芯の通った凛々しい野花の面影はなかった」と、見つからなかったことが書かれている。しかも「当時は便利な燈籠もなかった」とあり、一夜であちこち探し回るのは大変だっただろう。

 おそらく、怪我をして入院していたのではと考える。

 病院を探せばよかったかもしれないけれど、どこの病院かもわからないでは探しようがない。

 そういった苦労があったから、「あなたはなにも、わかっていない!」と、迷魂が記憶を取り戻す方が重要な気がするといったとき声を荒らげたのだろう。一夜という限られた時間では、未練の相手に出会えないかもしれないから。


 燈籠によって、たどり着いたのは妻と暮らしていた屋敷だった。

 しかも、そこに妻がいて巡り合うのだ。

 ひと目会えただけでも、嬉しかったに違いない。

 けれども、主人公が鬼使いになったあとは現世に降りて探し回らなかったのかしらん。未練晴らしの手助けで飛び回れるのなら、花園の管理をしているより、手助けするついでに現世をさまよい歩いて探そうとは思わなかったのだろうか。

 そういう自由が、鬼使いにはないのだろう。


 猫が送りたかったのは月下美人。

 促されて鬼使い謝が窓辺においたのは茉莉花(ジャスミン)。

 茉莉花の花言葉は「愛想の良い」「愛らしさ」。

 白い茉莉花の花言葉は「温順」「柔和」。

 黄色い茉莉花の花言葉は「優美」「優雅」。

 月下美人の花言葉は「ただ一度だけ会いたくて」「儚い美」「儚い恋」「艶やかな美人」。

 とはいえ、妻にとって茉莉花は、夫が歌ってくれた歌謡を思い出す花として好きなのだろう。

 妻が月下美人を好きだったのは、やはり亡くなった夫にもう一度会いたいと思っていたからなのでは。

 白猫が月下美人を贈った気持ちは、まさしく「ただ一度だけ会いたくて」だった。実に素敵である。


 ちなみに茉莉花の民謡は、中国の民謡の中でも特に広く流布し愛唱されている。作者は不明。

 清朝乾隆帝の時期には江蘇省あたりで歌われていたといわれる。当時の題名は「鮮花調」。歌詞や旋律はバリエーションに富み、曲名も一定しなかったが、一九五七年に南京前線歌舞団が整理し、曲名は「茉莉花」に統一。今に伝わる。

 また京劇はじめ、中国各地の伝統劇では、茉莉花の曲が「打花鼓」「花鼓調」として歌われる。

 江戸時代、日本にも伝わり歌われてきた。江戸時代に伝わった古い「茉莉花」は、西廂記の物語をふまえた長い歌詞をもつ歌である。


『茉莉花』(正調)

好一朵茉莉花

好一朵茉莉花 

滿園花開香也香不過她 

我有心採一朵戴

又怕看花的人兒罵。


好一朵茉莉花

好一朵茉莉花

茉莉花開雪也白不過她

我有心採一朵戴

又怕旁人笑話


好一朵茉莉花

好一朵茉莉花

滿園花開比也比不過她

我有心採一朵戴 

又怕來年不發芽


(日本語訳)

きれいな茉莉花

きれいな茉莉花

庭中に咲いたどの花も その香りにはかなわない

一つとって飾りたいけれど

怒られてしまうかしら


きれいな茉莉花

きれいな茉莉花

雪よりも白く咲いた茉莉花

一つとって飾りたいけれど

笑われてしまうかしら


きれいな茉莉花

きれいな茉莉花

庭中に咲いたどの花も その美しさにはかなわない

一つとって飾りたいけれど

来年芽が出なくなってしまったらどうしましょう


最近よく歌われている『茉莉花』

好一朵美麗的茉莉花

好一朵美麗的茉莉花

芬芳美麗滿枝椏

又香又白人人誇

讓我來將你摘下

送給別人家

茉莉花呀茉莉花


(日本語訳)

一輪のきれいな茉莉花

一輪のきれいな茉莉花

香しく満開にきれいに咲き誇る枝

より白く香る花を人々は讃える

枝を手折って

誰かにあげたい

茉莉花よ 茉莉花


 未練が晴れたら球根となり、冥土の彼岸花となる。

 彼岸花の花園はすべて、未練が晴れた迷魂の成れの果てだったのだ。

「冥土の土を掘るのは初めてだった。しかし花を植えるのには慣れていたので、さほど時間はかからなかった」とある。

 鬼使いが手助けして成功した後、自分で球根を埋めるのだろう。

 でも鬼使い謝は彼岸花園を管理しているはず。

 冥土の土いじりをしたことがないのは、どういうことかしらん。

 守り人といいつつ、昼寝をしているだけなのだろうか。

 土いじりをしていないのに「花を植えるのには慣れていた」のは、生前の記憶かもしれない。


 迷魂の悲願は実り彼岸花と化すその花は悲願花、とかけて表現しているところが素敵だと感じた。

 ひと目会いたいという願いがかなった証に花を咲かせる。

 次から彼岸花の見方が変わる、そんな素敵な作品だ。

 こういうところは上手い、と感服する。


 読後、タイトルをみながら納得。いいタイトル。

 主人公の謝が、妻のことを「あのひと」と呼んでいる。その下りを読んだとき私は、亡くなった幼馴染のことを表現するときに、よく使っていたことを思い出した。名前を呼ぶには憚れるし、かといって口をつぐむわけにもいかない状況から、自然と出たのが「あのひと」だった。いまはもう遠い、二度とは会えぬ忘却の彼方に去りながら忘れ得ぬ人の呼び名に、これほど最適な言葉はないと思ったほどである。

 主人公が妻に会えたのは猫の迷魂のおかげだし、その迷魂の手助けができたのも范のおかげ。三者のお陰で、妻も夫に一目逢えた。

 縁とは、実に不思議で、ありがたいものである。

 来世で会おうとする話はよくあるけれど、あの世で迎える話は珍しい。二人が巡り合って川を渡ると記憶を忘れてしまう。それはちょっと寂しいけれど、想い人に出迎えてもらえる妻はうれしいかもしれない。


 字数オーバーし、推敲が間に合わなかったという点では、読み手を楽しませるに足らない部分もあるかもしれない。それを差し引いて考えても、読者を選ぶかもしれないが、楽しめる作品だった。

 もの悲しさはあるものの、読後感は良かった。


 頑張ったところが以下の三点、とある。

・一文を短く、長くを交互に

・情景描写はこれまでよりも抑え、代わりに心情を描いてみる

・地の文の人称を省く


 ルビも打ってあったし、長文に読点を入れてほしいと思ったところがあった気もするけれど、読みやすかったと思う。

 地の文の人称は、最初から最後まで視点が変わることなく一人称で描くなら、人称を省いてもいい気がした。でも後半、途中で主人公が変わるところがある。心情にこだわるなら、変えないほうが本当はいい。

 現世に生きている妻の視点を入れることによって、読者も他人ごとではないと作品を受け止めることができる。三人称で書くにしても、主人公視点を変えない一元視点で書いていったほうが読み手は読みやすいので、妻が花に気づくのをこっそりと主人公が見ている場面を描いてみせてもよかったのではと考える。

 そうすると、夜明けのタイムリミットがくるので難しいかもしれないけれど、日が昇るギリギリまでは妻を見ている主人公視点で描けたかもしれない。


 情景描写を抑えて心情を描くにしても、心情を読者に伝えるには描写はかかせない。巧みな情景描写は人物の心理を表すから。心情を描くなら、情景描写を生かしたほうがいいと考える。

 情景描写を利用して心情を伝えるには、遠景→近景→心情や、情景→語らい→共感、または、体験→気づき→普遍性の流れで書く書き方がある。

 こういった書き方は、本作でもなされている。

 それでも全体的になんとなくふわっとした印象をおぼえる。登場人物は死者であり迷魂であり、この世のものではない雰囲気が出ているせいかもしれない。

 読者に伝える地の文は六種、「情景描写」「外見描写」「心理描写」「雰囲気描写」「行動・出来事」「説明・考え」がある。

 世界観を描けているけれども、描き足らないところはモヤッと感じた。

 情景描写はエンタメ小説においては長々とした説明をするとテンポが悪くなるので必要ない部分はできるだけ省略。書き過ぎはよくないけれども、本作のような独特な世界観を描いた作品の場合、省略されると伝わりづらくなるところもある。加減がむずかしいけど、手を加えたいところ。 

 主人公の名前が一回しか出てこないのは、作品の流れとして仕方ないかしらん。主語も省いているので、途中で主人公は誰だったかなと迷いをおぼえた。省くのは構わないのだけれど、こちらはバランスに気をつけて手を加えてもいいかもしれない。

 

 他に気になったのは、彼岸花園の管理を数十年していた主人公が未練晴らしの手助けをすることになった際、現世に降りて燈籠師の范から燈籠をもらうことをどうして知っていたのか、について。

 かつて自分が迷魂だったときには、燈籠という便利なアイテムはなかったのに。

 自分が未練晴らしを手伝ってもらったときと、同じ仕事内容もあるだろうけど、新しくやり方が変わった部分もあったはず。書簡に手順や行き方、使い方などが明記されていたのかしらん。少なくとも、主人公が過去に一度くらいは鬼使いとして手助けをしているのなら、気にならなかったかもしれない。

 

 世界観にしろ、物語にしろ、興味深かったし、展開も良かった。

 楽しく読みながら、読んでいてモヤッとしてしまうところは共感から外れたり惜しいなと思ったり、この字数で描く話ではなかったかもしれないとか、推敲されていたら違う印象をもったかもなど、いろいろ考えてしまう。

 シンプルな表現や描写で描くこともできる。そうすると、白玖黎さんがもっている作品の味が薄まりかねない。それは非常にもったいないので、活かす方がこの作品にはあっているし、字数内にまとめることもできそう。どうしたものかと悩ましい。

 作品としては非常に挑戦的で面白く、もの悲しくもあったけれどよくまとまっていたと思うので、楽しむことができた。

 若いときに亡くした夫が鬼月に帰ってきたのを感じ取った妻としては、死が訪れるまで、夫のことを思い続けながら生きなくてはならない。いつまでも夫のことを思い続けられるからハッピーなのか、いつまでも死んだ人のことを思い続けて生きなくてはならないからアンハッピーなのかは、読み手がどちらを受け取るかで変わるところ。主人公にとっては、未練が一つ晴れてハッピーだったと思う。

 できることなら、完成されたものを読んでみたかった。

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