藤原家の弓争い
藤原家の弓争い
作者 江葉内斗
https://kakuyomu.jp/works/16817330662649739706
藤原氏が摂政、関白を独占していた平安時代、権大納言だった藤原道長が、先に内大臣となった藤原伊周と競射に勝ち、のちに摂政となって栄華を極める話。
大鏡「弓争ひ」を元に、面白く仕上げた作品。
歴史を学ぶにしても、物語調にしたほうが理解しやすい。
三人称、藤原伊周視点と藤原道長視点、神視点で書かれた文体。
平安時代、藤原道長が摂政となって栄華を誇る史実をもとにしている。
現在過去未来の順でまとめられている。
メロドラマと女性神話、男性神話の中心軌道に沿って書かれている。
時は平安時代、藤原氏は摂政、関白を独占し、全国の地主が藤原に荘園を寄進。皇室に多くの娘を嫁がせ、天皇をも凌駕する権力を手に入れてもなお成長がとどまることを知らなかった。が、摂関家に生まれた誰もが、摂政・関白に成れるものではない。
安和の変の後、藤原兼道と兼家の兄弟が熾烈な争いの末、兄兼道が死去。
弟の兼家が、西暦九八六年に即位した一条天皇の摂政となる。兼家の娘、藤原詮子は一条天皇の母親である。
兼家が亡くなり西暦九九〇年、長男の兼家が関白を引き継ぐ。
その後関白となった藤原道隆の強引な引き立てから、藤原道長をはじめ三人の先任者を差し置いて、九九四年に藤原伊周が内大臣に任ぜられる。
九九二年に権大納言になったばかりの道長は、年下の伊周に先を越され、兄の道隆も俺を毛嫌いしていることに悔しがる胸の内を、後ろ盾である姉の詮子に打ち明ければ、「今は辛抱するときです。あなたはいずれ、関白に成る男ですから」と励まされる。
そんなとき、伊周が三日後に南院で弓矢の大会をすると言い出す。話を聞いていなかった道長にも噂話が耳に入り、参加することにする。
伊周は十本目の矢をしっかり的に当て、十本中八本的中の成績を残し、伊周の優勝を底にいたすべての人が歓喜で迎えた。特に道隆の喜びぶりはすさまじく、手に持っていた杯を勢い余って放り投げ天井にぶつけて割ってしまったほどである。
そんなとき群衆から道長が現れる。競射は終わったと道隆がいう中、「叔父上、私と勝負いたしましょう」と伊周が言い出す。
道長は九本の矢を的に当て、勝利が確定する。悔しがる中、観客の誰かが「延長戦をしましょう!」と口走る。あと二回だけの延長戦をいいだす伊周びいきの雰囲気に「俺は勝った、伊周は負けた! それでこの競射は終わりだろう!!」声を荒げる道長に、受けてやりなさいと、いつの間にか道隆の隣に座っていた詮子が声を上げる。
「道長、あなたなら何度伊周と競っても勝ちます。二回の延長戦位、受けてあげたらいかがです」
道長は受けて立ち、
「道長の家からミカドや皇后がお立ちになるのなら、この矢よ当たれ‼」といって的に矢を当てる。伊周も、伊周の家からミカドや皇后がお立ちになるのならこの矢よ当たれと弓引くも、的に当たらなかった力なく崩れる伊周。道長は矢を握り、「摂政関白に成れるのならば、この矢よ当たれ‼」と射って真ん中に当ててしまう。
負けた悔しさからか、伊周は何本も矢を放つが、どれ一つ的に当たることはなかった。
半年後、藤原道隆が亡くなる。関白の座は伊周に継がれるものと思われたが、宮中で力を持つのは天皇の母である詮子が「次の関白は、私の兄道兼にやってもらいましょう」と決めた。が、七日後になくなってしまう。次の関白は道長という空気が流れるも、一条天皇は自分と仲が良い伊周が関白に成ることを望み、詮子は関白とほぼ同等の地位である「内覧」に道長を推薦したのである。
ある晩、伊周のお気に入りである三の君ノモトへ花山法王が通っているという噂を耳にし、法王の牛車を矢を射掛ける。だが、法王が会いに行っていたのは三の君の妹であった。このことが露見して、太宰府に飛ばされてしまう。
一〇一六年、道長はついに後一条天皇の摂政となる。後一条天皇中宮威子を始め、四人の娘を天皇や皇太子に嫁がせ、道長の支配体制は揺るぎないものとなっていた。後一条天皇と威子の婚礼の夜、道長の邸宅では壮大な宴会が開かれ、道長が「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることも無しと思えば」の句を読むのだった。
三幕八場で構成されている。
一幕一場のはじまりは、藤原氏が摂政や関白を独占した平安時代。年下の藤原伊周に先を越されて内大臣になったのを悔しがり、応援してくれている姉の詮子に今は辛抱するときといわれる。
二場の主人公の目的では、伊周が三日後、南院で競射(弓矢の大会)をやる話を耳にする道長は参加しようと思う。
二幕三場の最初の課題では、伊周が十本目の矢をしっかり的に当て、十本中八本的中の成績を残す。四場の重い課題では群衆から現れた道長も伊周の計らいで参加し、九本矢を当て勝利する。
五場の状況の再整備、転換点では、道長が勝ったのに、伊周びいきの観客はあと二回の延長を言い出し、終わりだと道長はたらまず声を荒げるも、姉の詮子があなたなら何度競っても勝てるから受けてあげなさいといわれ、応じる。
六場の最大の課題では、「道長の家からミカドや皇后がお立ちになるのなら、この矢よ当たれ‼」と矢を当てる道長に対して伊周は外してしまう。トドメとばかりに「摂政関白に成れるのならば、この矢よ当たれ‼」といって当てる。その後、伊周は矢を何本も放つがどれ一つ当たらなかった。
三幕七場の最後の課題、どんでん返しでは、競射から約半年後、藤原道隆が亡くなり、道隆の弟道兼が関白になるもあっけなく病死し、その後、詮子は道長を「内覧」に推薦する。
その後、法王が自分の気に入っている三の君に会いに行っている噂を真に受けた伊周は矢を射かけたことが原因で太宰府に飛ばされてしまう。
八場のエピローグでは一〇一六年に道長は後一条天皇の摂政となり、後一条天皇と威子の婚礼があった夜、道長の邸宅で催された宴会で、『この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることも無しと思えば』の句を読み、まさに道長の世になった。
本作で描きたいことは、タイトルにもあるように藤原家の弓争いである。
そこだけ描いても道長の凄さや面白さは感じられるけれども、読み手がすべて平安時代の歴史に詳しい人ばかりではないかもしれない。
物語にする場合、冒頭の導入部分には客観的な状況説明である時代背景があった方が読み手は作品に入りやすくなる。だから、読んでいきやすい。
書き出しの「時は平安時代、藤原氏はまさに朝日の如き勢いでその力を伸ばしていた」から、いつの時代、どんな話がはじまるのかと客観的な視点から書き出しているところが良い。
「しかし、摂関家に生まれた誰もが、摂政・関白に成れるものではなかった」と、藤原家の中で起きた権力争いを描いていくことを示唆していく文章をはさみながらカメラワークのズームインしていく感じに、詳しい出来事が説明されていく。
誘っていく感じとがして、興味をもって読んでいける。
藤原兼家の娘、藤原詮子が一条天皇を産んだことで、兼家は九八六年に即位した一条天皇の摂政となる。
「そなたが皇子を生んでくれたおかげで、儂は摂政になれた。これからも兄弟の出世のために頑張っておくれ」は、今後の伏線になっている。
伊周に先を越されたときは、
「そんなに弱気になってはいけませんよ、道長。あなたのお父様(兼家)もまた、辛抱強く機会を狙い、ついに摂政にお成り遊ばされたのを忘れましたか! 今は辛抱するときです。あなたはいずれ、関白に成る男ですから」と落ち込む道長を励ました。
競射で延長線をすることになったときも、
「道長、あなたなら何度伊周と競っても勝ちます。二回の延長戦位、受けてあげたらいかがです」
鼓舞する言葉をかけている。
また、道長を「内覧」に推薦した。
詮子が力添えをしてくれなければ、道長の栄華はなかったことがよくわかるし、天皇の外戚であることがいかに重要だったかが知れる。
衛士が噂するところが物語を面白くしている。
噂話が、道長たちの立場を簡単に説明すると同時に、どんなふうに見られていたかがわかる。
年下に負けているとはいえ、自分よりも官位が上の者に対して呼び捨てはできないので、「内大臣様」と呼ばなければならない。
呼び捨てにしていようものなら、その噂が広まって本人の耳にも入り、嫌味や僻みを受けて出世に響くかもしれない。
姉の言葉を忠実に守って、辛抱しているのだ。
「本日は集まっていただき感謝する。これより競射を行う。最も優秀な成績を収めた者には私から恩賞を取らすぞ‼」と伊周は参加者に話している。
最終的に勝ったのは道長である。
恩賞をもらえたのかしらん。
途中参加だったので、恩賞をもらえるという話はきいていなかったかもしれないし、すっかり機嫌を損ねてしまっていたので、恩賞どころではなくなってしまったかもしれない。
姉上である詮子がいつの間にか道隆の隣に現れている。
いつ来たのだろう。呼ばれていたのかしらん。
弓矢の腕前もそうだけれども、道長がすごいなと思うのは、「道長の家からミカドや皇后がお立ちになるのなら、この矢よ当たれ‼」といって当てるところだろう。
さらにトドメとばかりに「摂政関白に成れるのならば、この矢よ当たれ‼」といって当てる。
武士ではなく貴族なのに。この時代の貴族は、弓矢も嗜んでいたかもしれない。
競射の件から半年して藤原道隆が亡くなる。
藤原道隆は享年四十三歳。現役公卿も一年のうちに八人が亡くなるほど疫病が流行していた。が、道隆の死は疫病とは関係なく、酒の飲み過ぎによる糖尿病と思われる。
ちなみに、伊周に道隆の病中に限ってという条件で内覧の宣旨が下っていた。
宮中で最も力を持つ者は、天皇の母である詮子なのに、道隆の弟で、道長の兄の道兼が関白として選ばれる。
道兼は関白に就任し、伊周は内覧の職を停止される。
しかし、体はすでに病に犯されていた。この年の春から疫病が流行し、道兼も赤斑瘡、いまでいう「はしか」とにかかっていた。五月八日、亡くなる。享年三十五歳。これを称して七日関白という。
筋を通したのかもしれないけれども、もともと病気持ちだとしっていたのかもしれない。数日後に亡くなるのをみこして関白につけたのではと邪推したくなる。
昔は今と違って、食糧事情や住居、医療技術も異なるので、風邪ひとつ引いても一大事だったに違いない。
姉の詮子の働きもあって、長徳元年五月十一日、道長は内覧の宣旨を下される。道兼が死んで三日後のことだった。
それにしても、自分がお気に入りの三の君へ先代の天皇である花山法皇が通っているという噂だけで、矢を射るのはやりすぎだと思う。
どこまでも弓矢でケチを付けてしまうのは、伊周はなんとも哀れである。
一〇一六年に道長は後一条天皇の摂政となる。
九九四年に藤原伊周が内大臣に任ぜられ、「俺はもう関白にはなれねぇのかな……?」と姉に泣きつき、辛抱するよう言われて、二十二年辛抱したことになる。
とはいえ、実際は、一条天皇の時に関白藤原道隆が重態となり、嫡男伊周が道隆が回復するまでの期間限定で内覧をするも道隆は他界して伊周の内覧も停止。
その後、道隆の後を継いだ弟の藤原道兼も他界し、もう一人の弟・道長と伊周が後継関白を争った。一条天皇は道長を内覧として決定を先送りとした。道長も太政官を政治的基盤として維持するために関白就任を望まず、道長が孫の後一条天皇の摂政に就任するまでの約二十年間「内覧左大臣」として最高権力の地位に座り、摂関不在状態が続いていたので、実質道長が二十年間関白をしていたも同義である。
最後に、ある一人が夜風に当たろうと外に出て、「道長様にお祝い申し上げたいのですが」と話しかけてくる一人の貴族を前に、(ああ、本当にこの世は道長様のものになったのかもしれないな)と思うところで幕を閉じているのが良かったと思う。
栄華を極めた道長を、ズームアウトするように客観的視点で描いてまとめることで、読み手も満足する読後感を得られて良かった。
本作は史実どおりではないかもしれないけれども、『学習まんが日本の歴史』の小説版として捉えると、読み物として楽しく学べる作品だと考える。
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