蛙が跳べるようになるまで

蛙が跳べるようになるまで

作者 向乃 杳

https://kakuyomu.jp/works/16817330661785378752


 逃げた夫を憎む母に憎まれて育ち、兄弟喧嘩の末に叔父に引き取られ、憎しみから葬儀にも参加しなかった俺は、姿を消した右後ろの足が不自然に曲がっている蛙「スリー」と片足少女の幻影に惑いながら葛藤に終止符を打ち、母の七回忌へ行く決意をする話。


 私小説。

 原稿用紙百枚にまとめて芥川賞に応募したらどうだろうと考えてしまう。本当に高校生が書いたのかと感服する。

 今まで考えるばかりだった主人公は、見違えるよう変わって、明日に向かって跳びだしていく。そんな希望をみつけたように感じられた。


 主人公は、捨てられた憎い男の置き土産として生まれ、叔父の家に身を置いた男。一人称、俺で書かれた文体。自分語りの実況中継で綴られている。比喩、隠喩表現が良いなと思う。


 男性神話の中心軌道に沿って書かれている。

 やるだけやって父は行方をくらませ、母に憎い男の置き土産として「あいつに似ていて寒気がする」と、ないがしろにされて生まれ育った主人公は、母は子の自立を願って無知うるのだと勘違いしてきたが、小学三年の夏に間違いだと突きつけられ、小学四年の時に母と住んでいた都会のビル群に埋もれたボロアパートから、叔父の住む田舎に羅列するボロアパートの一角へと移され、田舎の人情を知って幾分楽に人間関係を構築し、無下にされた過去を忘れていった。

 中学の時、右後ろの足がうまく使えない蛙を見つけ、「スリー」と名付けて持ち帰る。湿らせとけ、と叔父は脱脂綿を渡してくれた脱脂綿が置かれた学習机の上をうろちょろできても、どこかへは行けない。自身を哀れな両生類に重ねてみるようになる。

 三年前から、学校の窓のへりに腰掛ける片足のない少女を見ていた。

 歳月の中で、過去を受け入れ母を恨むようになっていた。その母がタバコの煙で肺を悪くしたと叔父から聞くも、心配する感情がわかなかったし、一度も見舞いには行かなかった。母のがんが進行し、危篤状態にあると深刻な面持ちで話す言葉に生返事をするうちに、夫に逃げられ、息子を奪われ、世界だけに苦しめ続けられた母は一人で死んだ。

 母の葬儀を決める際、親子を引き合いに出してくる叔父と揉める。「憎しみを下らない主張に隠すな。おまえも葬儀に出るんだ」平手を受けた頬を右手で拭い、「憎しみ? それを俺に植えつけたのは、誰なんだかなあ」胸ぐらに飛びかかろうとしていた。長い沈黙の後、「悪かったな」叔父は何とも哀しそうな顔を見せ、それっきり葬儀の話どころか、母の話すら持ち出さなくなった。

 いつの間にかスリーが姿を消した。その後、全寮制の男子校に進学を決め、家を出る頃になってもスリーは現れることはなかった。

 男子校を卒業するもやりたいこともなく大学に行くも、講義は退屈で、アルバイトも長続きしない。

 名も知らぬ女が寝ている隣で、スリーはなぜ飛び立つことができ、自分はできないのかを考え、先駆者の幻影を探し惑う。

 女から見ていた夢の話を聞かされる。五年前の十六のとき、中学まで真面目に勉強し、高校は地元の進学校に入るも授業進度についていけず不良の仲間入りをしたが、後悔はない。今と昔を切り離す。いまの自分にはなにもないと女の言葉に、自分が気にしていることを触れられると、かつて見た少女と重ねてしまう。

 さっさと女を部屋から追い出すと、閑散とした部屋のソファーに、片足を両手で来るんだ、少女を見た。

 スリーになるべきではないのか悩んでいると、少女は立ち上がって部屋を飛び出す。急いであとを追う。T字路に出、角を曲がった後、しばらく直線が続く。処女とは十メートルとは萎えていなかったが足を止めた。小さくなる少女の背中をじっと眺めて振り返ると少女とは逆、伸びている道へと歩き始める。

 あの頃抱いた少女への憧れが薄れていく気がした。しばらくして、右後ろの足が不自然に曲がっている蛙のミイラを見つける。

 少女の選んだ道と対局の道で見つけたことに意味があると感じ、長年の葛藤に終止符が打たれる。ミイラを拾い上げてジャージのポケットの入れたら跳べると思えた。

 来月で母の七回忌を迎えることを思い出し、毎年墓に花を供える叔父には黙って初めて墓参りに行くことに決める。叔父はどんな顔をするだろう。殴られるかもしれないが、それでもいいと思う。足が軽くなった気がしたので、帰りも走っていくことにするのだった。


 書き出しが印象的である。

「俺が叔父の家に身を置いたのは小学四年生の時だった」

 慣れない場所で、これまでとは全く違う環境で生活していくことを意味している。

 引き取られたのだろう。

 けれども、引き取られた本人にとっては荷物のように預かってもらうことになっただけ、とりあえず厄介になる感覚だったのだろう。


 母親に悪態をつかれながらも、主人公は「母は子の自立を願って、あえて鞭を打つのだと、俺は健気に『勘違い』をしていた」と、肯定的にとらえていて「哀しみや怒りを覚えることはなかった」とある。

 

「愛とは受け手が勝手に解釈するものと心得ていた俺にとって、それは周知の事実というか、改めて言うには取るに足りないことであった」とする考えは面白い。

 どう受け取るかは、受けて本人の自由なのだから、間違ってはいない。だから、母親がしているのは愛のムチだと受け取るのは、たとえ勘違いであってもいい考えだと思う。


 実際のところ、母親は主人公のことを愛していたのだろうか。

「もろもろの兄弟喧嘩の後に」とあるので、母親の兄弟と、主人公について揉めたのだろう。

 子供を愛せない母親だったのか、働く気がなかったのか、逃げた男に捨てられたことがあまりに許せず、タバコを吸って自暴自棄になっていたのか。

 少なくとも、母の兄弟たちはそう見えたから、主人公をどうにかしようと話し合いが持たれて、叔父が引き取ることとなったと想像する。

「兄弟喧嘩」とあるので、母親は主人公を手放したくなかったのだろう。それが憎しみでも、お腹を痛めて生んだ子には変わりがないので、愛していたと思いたい。


「想像できるだろうか。田んぼ三、四個分の一本道の先に校舎がそびえ立つのだ」

 容易に想像ができる。

 子供の頃の通学路はまさにそうだったので、周りは田んぼや畑が広がり、細い道を列を作って学校へ向かう。スクールゾーンと行って、車が入ってはいけない時間帯ではあるものの、たまに車が通過することもあったし、雨の日なんてあちこちから蛙が鳴いては飛び出し、車に踏み潰された跡を良く見たものである。

 具体的に書かれているから、作品から現実味を感じてくる。

 

 授業についての表現が、かなり独特で興味深い。

 国語の授業は、「内面を理解することが目的だと謳っておきながら、実際は印刷された膨大な文章の一部を手書きのものに移行する作業に過ぎない」

 英語の授業は、「言語というものの持つ幅を狭め、会話表現としてではなくあくまで用意された模範解答に合わせて学生の脳を矯正する時間だ」

 言い得て妙である。

「これらを、勉学を怠るための言い訳と誤解してほしくない。本質を与えないくせにレッテルだけで教育を主張している学校への、ささやかな抵抗である」

 最終的にはテストで点を取るための授業内容なので、たとえば国語を使ってコミュニケーションをより円滑に図る実践的な授業や、多言語に置き換えて他の授業を受けることで理解できるのかを試すなど、実践かつ応用が授業には不足している。

 そういうことも含めていいたいのだろう。

 こういう内容を読むと、灰谷健次郎の『すべての怒りは水のごとくに』を思い出す。三年間中学校に行かなかった女子中学生の手紙で、学校は勉強が忙しくて「勉強以外のもっと大切なことを、自分が納得行くまでとことん考える時間がありませんでした。だからなにかに疑問を持つ時間もなかったです」とかかれ、なにかに疑問を持ち、とことん納得行くまで考えるのが授業ではないのかと、教師に問いかけている。

 本作の主人公も、同じような考えをしているのだ。

 

 片足のない少女が窓のへりい座っているのを、主人公は三年間見ている。右後ろ足が不自由な蛙に「スリー」とつけて持ち帰っている。

 この少女とスリーは、主人公の両親を象徴していると推測する。

 夫に逃げられた母親は少女を、逃げ出した夫はスリーを。

 別れてそれぞれ片親になったことを、片足の不自由さで表現しているのではと考える。

「彼女は俺よりも一階上にいた。俺が少女を見ることはあっても、少女が俺を見ることはない。彼女はいつ見ても変わらずそこで、楽しそうに足をぶらぶら揺らしていた」

 主人公は母親をいつも見ていたけど、母親は見てくれなかったのではと思えてくる。

 校舎の窓のへりに座るのは危険であり、下手すると落ちて死んでしまう。母親は自雑願望があったかもしれないし、主人公を道連れに死のうと考えていたのではと邪推してしまいそうになる。

 父親が蛙なのは面影がないため、もはや人ですらないのだろう。

 いつかは帰ってくる、という思いがあるから、蛙なのかもしれない。


 三年間、少女を見てきた主人公は、母を憎みきれていないのだろう。「歳月の中で、俺は自らの過去を客観的に受け入れ、真っ当に(とは言いたくないけれ)ど母を恨むようになっていった」にもあるように、「とは言いたくないけれど」とエクスキューズをつけている。

 それでいて、「俺はとうに母への愛を浪費してしまったのだと気づき、寂しかった」とある。

 ということは、昔のように愛のムチと捉えてでも母親を慕っていた気持ちは今はもう枯れ果て、「見舞いに行かなかった」ことに後悔をにじませているのだと思えてくる。

 それでいて、自分は悪くない、愛そうとしていたけど愛想が尽きたのだと言い訳をしている。

 愛は無償なので、与える側も与えられる側も、与えるものも、なんら思惑がない、邪な考えや気持ちがないものなのだ。

 だから、浪費したから見舞いにいかない、というのは良いわけだし、愛じゃない。


 叔父と喧嘩したとき、「憎しみ? それを俺に植えつけたのは、誰なんだかなあ」と口にしている。

 叔父が引き取ることにならなければ、悪態つかれながらも愛のムチだと思って母親と一緒に暮らせていたかもしれない。主人公にとっては、そのほうが幸せだったのかもしれない。

 叔父はそれがわかっていたから謝ったのだろう。

 でも、主人公は二発目を覚悟している。

 つまり、自分がわがままを言っているのを理解しているのだ。

 母との関係は良いものではなかったと理解している主人公としては、叔父に甘えているのではないだろうか。

 叩いてでもいいから、互いに気持ちをぶちまけあえたら、荷物のように叔父に預かってもらっている関係ではなく、もう少し親密になれたかもしれない。

 のちに、「感情表現が苦手な叔父は、一体どんな顔をするだろう」とあるので、主人公は叔父がどういう性格でどんな考えをしている人か良くわかっていたのだ。

 主人公は人をよく見ている。

 

「おそらく人生で最も輝かしい現在を力いっぱい生きれないのは、過去から俺を引く煩わしい糸が伸びているからだろう。それを振り切ることも、もう随分前に根気が尽きてやめた」ここの煩わしい糸というのは、しがらみかしらん。

 過去に囚われて動けなくなっている。

 そんな主人公は、名も知らぬ女と寝ている。

 逃げた父親と同じようなことをしていると思ったから、「俺を震撼させ、俺は膝から崩れ落ち、争えない血を嘆く」のだ。


「スリーはなぜ飛び立つことができたのか。なぜ、俺にはそれができないのか」は、父親は母親から逃げ出せて自分はどうしてできないのかと悩んでいるのだろう。

 そんな主人公に、年の差がさほどない女が話す内容が、良いと思う。

「でもあたし、後悔してない。昔のことは今と切り離すの。仲の悪かった親も、うるさい教師も、あの何もない街も、付き合ってきたオトコも。今のあたしには、なーんにも関係ない」

 男は過去を引きずり、女は今を生きるもの。

 今を生きるという生き方は、後悔せず、昔は昔、今は今と割り切る生き方だ。

 主人公と女、それぞれ考え方と生き方が違うことを描いており、人間がよく書けている。


 しかも女がタバコを吸う時の「女の口からはかつての優等生としての人格が、煙となって溶けていくように見えた」表現が良い。

 溶けていくから、昔と今を切り離せる。

 同時に、主人公の目には女が母親との面影とダブって見えていたのでは、と思えてくる。

 母親もよくタバコを吸っていた。ひょっとしたら、逃げた夫の嫌なことを忘れるために吸っていたのかもしれない。


「俺の視線はとうの昔に、レースカーテンの隙間から見える家の群れに寄せられていた。今さらこの女に反論する気はなかった。俺なんてそれこそ、この女には何の関係もない。しかし、それ以上聞きたくはなかった」ここの書き方が良い。

 遠景のレースカーテンの隙間から見える家の群れをみてから、近景の女をみての、主人公の心情の語りで胸中を描写していく。

 この順番で心情を描くと、深みがよりまして来る。


「俺がこの世で最も気にしているようなことに触れられると、俺は否でも応でもあの少女と重ね合わせてしまう」

 あの少女とは、中学時代にみてきた、幻影の片足のない少女。

 母の幻影だろう。

 女と寝たことで父の血を嘆き、それでいて、女を捨てて逃げ出すかといえばそれもできず。タバコを吸う女の話から母を思い出し、女を追い出しても少女の幻影をいる。

  

「俺は悩む。俺はスリーになるべきではないのか」

 ここでも象徴は実際の両親ではなく、父性性、母性性のことかもしれない。母性とは包含、父性は切断を象徴している。

 スリーになるべきではないのかと悩むのは、過去と決別すべきではないのか、といっているのだと餡がえる。

 少女を追いかけるので、過去を追いかけているのだ。

 

 T字路に出て、もう少しで追いつけたのに足を止めている。

 なぜ止めたのか。

 おそらくT字路だったから。

 いままでは角を曲がりながらも、一本道だったに違いない。それがT字路に出て少女が走っていく道とは別の道が現れたからだろう。

 他の選択肢もあるのではないかと思えて立ち止まり、逆の道を進んでいくと、スリーを彷彿させる蛙のミイラを見つけた。

「結論づけるのは流石に勝手すぎるだろうか。しかし、少女の選んだ道の対極にこれがあったこと、ただそれだけで十分に意味があると、俺は感じた」ように、過去との決別の道をようやく選択できたのだ。

 だから長年の葛藤に終止符が打てたのだろう。


 憎むとか恨むとか、そういうのはもう終わり。

 七回忌を迎える母親の墓参りをする、そして叔父と再会する。

 何かしらの思惑があるのではなく、素直に思えたのだろう。

 だから「ひょっとしたら殴られるかもしれない。だが、それもいい」と思えたのだ。


 読み終えて、主人公は蛙だったのかと考える。なぜ蛙が跳ぶかはしらないけれども、俗っぽく考えるなら、あしたへジャンプするために蛙は跳ぶのだ。

 主人公はようやく、明日へと踏み出せたのだ。 


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