第49話 揺るがぬ存在

〇奈落の惨劇

 亜宮殿には、水が押し寄せる音と、びしっ、びしっと岩盤が割れる不気味な音が響いている。勢いの衰えた篝火が心細く燃えている。陰の壺は、明滅しながら、霧のようなものを吐き出し始めた。それは、脈打つように明滅する濃淡のある黄褐色で、湿気を含んだ重い空気の中を漂いながら、壺の表面を這い下り、祭壇に広がっていく。霧はじわじわと菌糸状になり、更に広がっていった。

 じょじょに水位が増す中、ぼこりと青白い右半身が浮かび上がった。再生の力を使い果たした瑞雲だった。全身に広がる紫色の血管がぼんやりと光っている。右腕がびくりびくりと動き、手が岩肌にすがり、指を立てた。

「ごぶぅぁ…」

 大量に失血して蒼白となった瑞雲が、顔を辛うじて水面から覗かせた。左腕から腹部、下半身にかけては、封の銛によって吹き飛ばされて跡形も残っていない。

「こ…れま…で…」

 体内の沸魄散を使い果たし、漆黒の水底に沈みかけた体に、自ら恐怖や死肉を喰わんとして陰の壺が発した黄褐色の菌糸が絡みついていく。陰の壺は、これまでも恐怖や怒り、絶望などを見えないほどの黄褐色の粒子にして、瑞雲や灰斎服らから吸い取っていたのだ。今、その粒子は霧、菌糸となって、餌を嗅ぎ付けた粘菌のように数を増し、瑞雲の朽ちかけた体を引きずり上げていく。ずるずると祭壇へと引き込まれることに気づいた瑞雲は、

「こ…、この体、食らうか…。ふ、ふふふ…」と、力なく笑った。

 薄れていく意識の中、瑞雲の目の前に、大量の菌糸が集まっている様子が見えた。白い手足の肉片のようだが、その断片は大根や山芋のように白い繊維になっている。

それらは、変わり果てた封の体だった。


 瑞雲は、かっと目を見開き、まさに最後の力で肉片に噛み付いた。死に瀕してこそ発揮された「死中求活」に違いなかった。破滅と再生の激痛が瑞雲の全身を貫き、瑞雲を漲らせていく。青白く放電しながら、全身が再生し、更に肉片を貪っていく。陰の壺の菌糸は、全ての肉片を瑞雲に捧げ、霧状に戻り四散した。


〇「もう……飛べない……」

 封の銛によって穿たれた穴によって生じた亀裂は、司領の陣屋やその周辺の土地に壊滅的な影響を与えつつあった。だが、それは司氏が入植して以来、手を加え、変え続けたこの土地の修正力が働いたとも言えた。

 八太夫とお袖は、崩れる陣屋の表門を飛び出した。陣屋や役宅を囲い、堀のように流れる水路は、細くも豊かな水量があった。この大量の水が亀裂に流れこんでいく。陣屋内では、屋敷の礎石が不均一に沈み、柱や梁に激しい軋み音を生じさせていた。

 陣屋の大屋根が、屋敷の中央部からめりこむように、激しい音を立てて崩れ落ちた。役宅にも土煙が沸き、倒壊が発生している。

 人々が見守る中、亜宮殿に通じる入り口に青白い閃光が走った。


「まだか…」

 忠厚は、思わず呟いた。傍らに控えた梅本、稀、苗、そして各藩の使者らは、同様に落胆の色で頷き、洞窟の入り口に目を凝らした。八太夫とお袖は、最も後ろでその様子を眺める。青白い閃光は強弱を繰り返しながら、時折入口の外まで雷光が走った。


 次の瞬間、封が一撃目に岩山に開けた穴を突き抜けて、空を貫くほどの激しい稲妻がほとばしった。空気はびりびりと震え、大地も同心円状に突き上げるような振動を起こし、再び、細かい雨が降り出した。緩やかに亜宮殿のある岩山から吹く風に乗って、雷特有の香ばしい匂いが広がった。

「復活されたと推察いたします」と、苗が短く言った。

「も、もはやこれまで。国境まで下がり、援軍を待って反撃するしかあるまい」

 忠厚は、全員に、また自分に言い聞かせるように言った。一同も黙礼で返した。道を退く忠厚らは、里への街道に出る辻に差し掛かる手前で、わきに控えていた八太夫とお袖にすれ違った。

「お主にも、色々と訊かねばならぬことがありそうだな」

 梅本も立ち止まり、太刀の鞘に手をかける。瞬時に高まった緊張を察知した苗が、八太夫の前に割り込んだ。苗の太刀は、灰斎服との劣勢を覆したほどの腕前だ。じりじりと忠厚と梅本が左右に広がって、逃げ道を塞ごうとする。

 その動きを苗が牽制するため、太刀を抜こうと右手に力を入れた瞬間、亜宮殿に向かう重い扉が、重い破裂音をたてて吹き飛んだ。高く舞い上がり、木の葉のように落ちていく。次の瞬間、激しい「死中求活」が洞内から放たれ、全員の頭上を轟音とともにほとばしり抜けていった。

 全員が、身を沈める。空気が焼ける香ばしい匂いが吹き抜けたあと、八太夫らの目の前に、

「ぼとり」と、白い塊が落ちた。それは、復活した瑞雲の雷撃に貫かれて飛嚢を失い、右側頭部に更に損傷を負った十寸だった。

 十寸は、引き裂かれた飛嚢を片手で押しのけながら体を起こし、悔し気に震えながら岩山の入り口を見上げた。

「も、もう……飛べない……」


「ま、十寸!」

「十寸ちゃん!」

 十寸は、その場を見渡す。太刀が光り、互いが向き合っている様を見ると、震える足で白い銛を杖にして立ち上がった。十寸は強い怒りの表情で、八太夫や苗、忠厚、梅本の様子を見上げて、言った。

「何してんねん!」

 忠厚らは、その剣幕に気圧された。十寸は、自らの銛をほぼ失い、飛嚢を無くしていても瑞雲という的を撃つことのみを考えていた。自らを「矢の役」「銛に身を移して的に向かうだけ」とする揺るがない十寸の存在がそこにあった。だからこそ、太刀を向け合う人間に怒りを覚えたのだ。

「我らは、国境まで下がり軍勢を立て直すのだ。お前も我らが連れていく。大人しく同道せよ」

「まだや!!すぐ来る!!」

 十寸は、左腕で岩山を指差した。忠厚らが振り向く。侍らから悲鳴に似たどよめきが起こった。絶望に何人かが、膝を折る。

 そこには、全身に広がる紫から紅色に明滅する血管を脈打たせて、復活した魔物瑞雲が巍然として屹立していた。


うずくまる人間に目もくれず、十寸が言う。

「梅本!」

 自分の名前が呼ばれたことに驚き、梅本は、十寸の方を振り向いた。

「俺を懐に入れて、これを撃て」

 十寸は、白い銛を梅本に突き出した。十寸の右手は、銛の薄緑の帯の部分を握っており、手が緑に染まっていた。

「おお!そうか!」

 八太夫の脳裏にこれまで十寸と過ごした全てが蘇る。目を病み、生活もままならない中、十寸を育てるために川魚や蟹を獲っていた。その様子を見ていた十寸が同じことを言ったのだ。

「十寸は、銛に乗り移って……、的を…瑞雲を撃つ、撃つと申しております!!」

「この期に及んで戯言を…、第一この距離では到底…」という忠篤を制して梅本は、矢を抜き出して鏃を引き抜く。ぴたりと白い銛が押し込めることに気づいた。

「過たず狙え!俺が貫く!」

 十寸は、意味有りげに八太夫に頷いて、肘辺りまで緑になった腕を振る。

「お前は二度おじいの足を射た。三度瑞雲の胸も射た。次は、一度で俺が貫く!」

「むっ」

 梅本は、意味を取りあぐねた。

「俺が絶対当てる!狙いだけつけて、弓引けぇ!!」


 お袖は、着物の裾を引き裂いて糸を作り、稀は、その糸で矢と銛を瞬く間に括り付けた。


「梅本様」

 稀は、梅本の前に跪き、両手で十寸の矢を梅本に差し出した。

「社での言葉も、先程兄上から逃れたのも、爆発から逃れたも、この子たちあればこそ…。人と道理は違えども、身を捨てての願いと見受けました。どうかお聞き届け下さいませ」

「稀様…」

 稀は、矢を差し出したまま平伏した。八太夫、お袖も平伏する。


「その矢、賜った!」

 梅本は、片膝を付くと、十寸を手のひらに乗せ懐に入れると、早速矢をつがえた。

「時間は、稼ぎまする」

 苗は、崩れかけた土塀に駆け上がり、左右に飛びながら、岩山の入り口に現れた瑞雲に迫っていく。その僅かな間に、忠厚らは、梅本を隠す目隠しのため、人垣を作った。横に大きく広がって、的を分散させた。

 八太夫は、稀とお袖を伴って水路の法面に下がる。


 「お、重い」

 梅本は、大きく変わった矢の重心を確かめながら、二度、三度と構え直した。

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