第50話 凱歌
「ふふ、また小細工を…、一人でなにほどの…」
瑞雲は、苗の動きを目で追い、狙いを澄まして死中求活を放った。
苗は、瑞雲の視線を横にずらすよう、土塀から、一気に水路を飛び越え、すり鉢穴に一瞬隠れた上で、崩落した橋の影に隠れた。直後、真後ろに飛び、田の畔を背走する。
瑞雲が、苗の背中に死中求活を放った時、梅本の引き絞った弦から指が離れ、矢が放たれた。
矢は、放物線を描きながら真っ直ぐ瑞雲に向かったが、半分にも到達せぬところで下を向き始める。
瑞雲は、矢を馬鹿にしたように一瞥すると、苗がぬかるんだ田に飛び退いて難を逃れた様子を見て、
「愚か者め。自ら足を重くするとは」とにやりと笑い、とどめの一撃を撃とうと構えた。
十寸が身をやつした矢は、一旦地面すれすれになったままで、加速していく。
瑞雲は両拳を握り、死中求活の構えを取った。
十寸は、的に向かって、あたかも墜落するように更に加速していく。
一方瑞雲は、苗の動きに、つい先ほど十寸に翻弄され稀を取り戻された記憶が重なった。
「お、囮?!」
瑞雲は、激しい恐怖に駆られ、咄嗟に空を見上げた。空には何もいない。十寸らの攻撃は必ず上から来るものという思い込みが、瑞雲を狂わせた。次の瞬間、封に銛を落とされた時に感じた、ぞくりとする熱い、ただし今度は蜘蛛の糸のように細く強い「張力」とでも表現されるような感触が瑞雲を貫いた。
「ごっ!」
瑞雲の下顎から、十寸の白い矢が頭蓋に突き刺さった。
音もなく、浮き上がるように瑞雲は後ろ向きに倒れた。
「当たったあ!!」
どよめきが湧き上がる。だが、派手な爆発などは起こらない。
瑞雲は、矢を掴み無造作に抜き捨てた。どくどくと血が噴き出し、激痛が走る。だが、封から取り込んだ大量の沸魄散が肉体を再生し始める。青白い発光と放電が全身に広がる。程なく出血は、止まった。だが、矢傷の痛みと再生の激しい反応だけではない強い放電発光が続いている。
瑞雲はゆらりと体を起こした。投げ捨てた矢を見る。鏃がない。
「まさか!」
十寸の白い銛は、下顎から頭蓋の内側に突き刺さって、瑞雲の頭部に残っていた。封の肉体を形成していた純粋な万障沸魄散と凝縮されたカビが反応し、爆発的に増殖していく。沸魄散のみに繁殖する固有なカビが最適な培地を得て、血流に乗り、瑞雲の全身に広がっていく。
しん、とした空気が岩山と領地全体に広がっている。誰一人何が起こっているかわからなかった。地の底から不気味な唸り音と振動が続いている。
瑞雲は片膝立ちになると、慎重に周囲を確かめながらゆらりと立ち上がる。再び、入口に立ち、人間たちを恐れおののかせるためだ。下顎の肉に指を敢えて突っ込むと、頭蓋内に残った銛の尾を摘まみだして見せようとしたが、指先で掴んだはずの銛の尾は、手応えもなくぐずりと崩れた。
「まともな武器ではなかったのか」と瑞雲が、疑問を浮かべると同時に、崩れた銛の尾であった万障沸魄散が、周りの傷を強力に治癒し始める。
じょじょに、岩山一帯の異常は深刻さを増していた。陣屋内では、底が割れた池の水が抜け、その地割れが屋敷の床下に伸びていく。
地割れの下に走っている泥流が基礎の土をじょじょに削り、アリジゴクのようなすり鉢状の穴があちこちに現れ始めた。床を支えていた礎石が次々と吸い込まれていく。陣屋は中心部に寄り掛かるように、地下空洞に沈もうとしている。それは、書院の床の間裏からの秘密通路の位置にも相当している。
土埃りが舞い、材木が軋み折れる音が鳴り響き、ねじれるように陣屋は倒壊した。
忠厚らも瑞雲でさえも、その光景をただ眺めるしかなかった。岩山の裾から続く土塀も所々が既に崩れ、残っていた部分も基礎が崩れる様子と調子を合わせるように、まるで長い屏風を連続して倒すように倒壊していく。水路を挟んで、陣屋側に被害が広がっていく。
苗は、地鳴りと崩壊が進む中、瑞雲の死角からじわじわと距離を詰めた。岩山は陣屋の敷地も含めて三尺以上沈下し、がらがらと落石も発生している。苗は、岩山側の張り出した松の枝に飛び移り、岩肌に取りついた。
陣屋の敷地は、地面がそこここで割れ、沈んでいく。地割れの底には泥が浸み出し、さらに地盤を脆弱にしていく。
苗は、ぐらぐらと揺れ続ける岩山を慎重に這いあがり、瑞雲の背後に迫った。瑞雲は崩落の様子に気を取られているようだ。苗は、気配を殺してゆっくりと太刀を抜いた。当たり前の一撃ではすぐに再生され、死中求活で反撃される恐れがあるが、両腕を深く切りつけ首を取れば、いかに魔物と言えども命を奪えるのではないかと考えた。じわじわと姿勢を整え、太刀を振りかぶる。
亜宮殿の中でも、崩落が続いていた。内部からも岩石が崩れる音が響く。その振動が高まり、岩山の頂上突端部が、ぐらりと崩れ、轟音と共に陣屋の庭園に落下した。
苗は、その瞬間を狙い、瑞雲の背後から右腕に太刀を浴びせた。
右腕は、ぐずりと腐った木の幹に斧を打ち込んだような感触で骨の途中で止まる。腕からは濃い小豆色に近い液体が噴き出した。
ゆっくりと瑞雲が振り向く。
「ああっ!!」
その顔には、浮き出た血管に沿って、無数の薄緑の斑紋が浮き出していた。斑紋は重なり、層状になって分厚くなってゆく。また瑞雲の肉体の深層にまで浸透している。斬りつけた腕の切断面もどろりとした液状になって滴るほどになっている。
「こ…これは、苔…、カビ?」
沸魄散を培地に繁殖するカビは、万障沸魄散の威力によって、瑞雲の体内で爆発的な増殖を起こしていた。それが同時に、沸魄散を著しく消耗・分解していく。沸魄散を吸い尽くされた瑞雲の体は、剥魂悉苦毒だけが残り、その毒性で滅菌消毒が進む。
時間が経過するに従い、瑞雲はその存在そのものを分解され、事切れていた。
苗は、刀を構えたまま瑞雲を背後から蹴り倒した。
瑞雲は、腰の辺りからぼろりと崩れ落ちた。そこには毒の酸によって変色したカビと中和された汚泥が残るだけだった。
〇凱歌
「お…!お…!!おーーーーーーーーー!!!」
苗は、両腕を高く突き上げた。
侍ら、そして領民らからもどよめきと歓声が湧く。
「な、何が起こったのだ??」
梅本は、懐を開き、十寸を掴み出そうとした。忠厚、稀も覗き込む。
「…こ、これは………」
梅本が、掴みだしたものは、びっしりとカビに覆われた干からびた白い野菜のようなものだった。それは、梅本の手の中でぐずりと崩れ、ばらばらと地面に落ちた。梅本の手には、かつて庄屋の娘楓が十寸のために縫った着物だけが残った。
「八太夫!!」
忠厚が振り向く。しかし、八太夫とお袖はもう姿を消していた。
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