第37話 決意の口元
瑞雲は、女中たちを呼び寄せ桔梗を預けると、二人目の焼死体も投げ入れさせた。八太夫は、平伏を装いながら、お袖を思い、はらわたが煮えくり返るような思いでいた。
桔梗は、すぐに意識を取り戻したが女中に支えられながら、下がっていった。田代も目を背けたままで、下役人らに目配せをし、引き上げを命じた。八太夫も立ち上がり、苗に小声で、
「わしらも引き上げじゃ」と言った。苗は無言で頷き、ついてくる。
瑞雲は、壺の中を満足そうに覗き込んでいたが、少し首を傾げた。
「おかしい。もっと激しく肉を溶かし、妖しく輝いて、毒が沸き立っていたはず」
〇剥魂悉苦毒
亜宮殿の細い石段を登り切り、重い扉を出ると、風は爽やかに全身を抜けていった。纏わりついた穢れが、細かく落ちていくようだ。橋を渡り切ると、田代を始め全員が、そばの川で手足を拭った。八太夫や苗もそれに倣う。役人たちから離れて、八太夫は苗に訊いた。
「お前さんは、洞窟の仕事は長ごうてか」
苗は、手ぬぐいを濡らして体を拭きながら無表情に答えた。
「梅ヶ枝家は、代々丿様にお仕えしておりました。もう十年以上前、陰の壺の剥魂悉苦毒と、沸魄散の最適な割合が解明されたと丿様が申され、まず家臣の末子をお召しになりました。それ以来、灰斎服と呼ばれ儀式と武芸、様々な修練の毎日でございました」
八太夫は、ぞっとし、表しようのないつらい気持ちでいっぱいになった。苗の見た目は、元のお袖とそう変わらないため、四、五歳で陰の壺の毒、剥魂悉苦毒(はっこんしっくどく)により、殺害されたことになる。完全に死ぬ寸前に沸魄散で肉体だけが蘇り、魂を剥がされた存魄の者にされて、十年使役されてきたのだ。
灰斎服は、丿の役宅内に暮らすらしく、苗は田代の指図で戻っていった。
◯ありたい姿
長屋に戻ると、お袖が、床板をあげ炭箱を取り出して、封と中を覗き込んでいた。長屋の床は高く二尺以上ある。
「どないしたんや」
「ソと十寸が、泉作るて」
「な、どないしたんや」と言いながら、思わず八太夫も覗き込んだ。薄暗闇に小振りな方の籠が運び込まれている。ソが両手を籠に触れ目を閉じている。じわじわと籠は形を変え、まるで盥のたがのようになって広がり、半月型の泉の枠が出来上がった。
「十寸、お水入れて」
ソの指図で、十寸が床下から飛び出し、水甕から竹徳利に水を入れて戻っていく。ソが歩いて出てきた。八太夫が差し出した手のひらに乗ると、天井を指差した。
「盥やと、水がすぐ傷んで、澱も体もカビまみれ。澱もこのままやと食べつくしてしまう」
ソは、さらりと言ったが、十寸達にとっては死活的な問題だった。
「おお、ほんまやのう。そんなことによう気がまわらなんだ。すまなんだのう」
十寸が、ふわりと戻ってきた。
「おじいは大変そうやからな」
十寸の言い方もごくあっさりとしたものだったが、八太夫は急に自分がこの部屋の中で頼りにならない者になってしまったように感じた。部屋を見渡す。簡素で薄暗い長屋の中は何か殺風景で、そこにお袖と封が無表情で立っている。そうだ。自分たちは、新天地を目指して歩き始めたのではなかったのか。立て続けに起こる出来事に掻き乱されて、本来守るべきものを忘れてしまったのではないか。自分は何をすべきか、何ができるか、その問いが突き付けられたように思えた。
「みんなほんまにすまなんだ。前みたいに魚でも突きにいけたらええのう」
これには十寸が一番喜んだ。八太夫はさっそく厨に出向き、魚取りに出掛ける許可を得た。下役人から稽古用の弓矢としんぐり(魚籠)を借りると、川への道を教わり、ソを床下に隠して全員で出かけた。
「うち魚取りやなんて初めてや」「うちも」
お袖と封はうきうきしている。陣屋を巡る水路に沿って東側の道から、断崖を下る岩だらけの道が続いている。八太夫は、お袖の手をひき足を掛ける場所など教えながら進んだ。かなりの傾斜を下りきるとようやく美しい沢に出た。
陣屋の堀の西側から流れ出た水が滝となって落ちている。それは八十間ほどの落差となっており、噴きあがる水の粒子がキラキラと輝き、ほとんど人が入らない谷の荘厳な見応えと美しさを湛えていた。滝壺がかなりの深さとなって、そこからお袖の膝丈あたりの深さになって本流に流れ込んでいる。本流は、ゆるやかに右回りで北側に流れている。
お袖と封は水に足をつけて遊んでいる。八太夫は岩場を登り、滝壺が見下ろせるところから覗き込んだ。
「おお、おおもんがおるぞ。十寸、やろか」「うん」と十寸が、八太夫の懐に飛び込んだ。
「二人は、魚が流れてきたら掴んでや」と八太夫が声をかけ、矢をつがえる。懐の十寸がぐんと重くなる。
「かっ」と放たれた矢は、一瞬で大型のアマゴを射抜いた。
アマゴは一尺を超え、浅瀬に上がってきたところを封が掬いあげる。見事に頭頂部を射抜かれていた。
「凄いすごい!」とお袖も興奮気味だ。水しぶきを上げ、美しく跳ねる魚を二人がかりで掴まえる。二射、三射し、次々と良型のアマゴが獲れた。しんぐり(魚籠)はものの半刻でいっぱいになった。
「どうじゃ、十ほどはソの泉にもろて、残りは田代様やお屋敷の方にもろうてもろうたら」
一行は笑いながら、帰路に就いた。午前の穢れた世界とまるで違う風景に囲まれている。十寸との獲物を狩る暮らしが心底懐かしく思えた。
〇八太夫の喜び
長屋に戻ると、そっと床板を開ける。ソは、喜んで早速アマゴを泉に浮かべた。白い澱が盛り上がり、アマゴを覆い沈めていった。つい半月前までは当たり前だった様子に八太夫は、ため息をついた。お袖が珍しそうに見入っている。
「後でまた見せたろな、それより厨にこれ持って行こうかい」「へえ」
アマゴは、田代の奥方や女中たちから大変喜ばれた。
「夫婦揃うて担ぎ人足だけのこたあある。あそこは百間谷言うて、めったに人が下りんところや。それを家族で降りてこないにいっぱい獲ってきたてのう」
こうして腕を褒められることも涙がでそうなほど嬉しかった。八太夫は、若い頃の孤独な山猟師としての腕前以上の自分と、初めての家族に囲まれた喜びを感じていた。
〇決意の口元
忠厚は、梅本と相談して、夜のうちに二人を梅本の家に移した。梅本家は梅本と奉公人の老人平八の二人暮らしだ。すぐにでも手を入れねばならぬほどの家だったが、わずかに張り出した地形の先にあり、あまり、里道から覗かれることもなく、背後の密生した藪も人が立ち入りにくいものだった。女が出入りするとおかしな噂が立つとも思われたが、料理や洗濯など平八では賄いきれないことのために女手を呼び寄せた…と理由を考えることにした。
「そ、それでは稀様にはまことに相すまぬが、女中としてしばらく過ごして頂くとして…、松様は、…そう、当家に行儀指南役としてお越し頂いたとすればいかがかのう。当家は、祝言をあげたばかり、行儀指南に人を雇い入れてもなんの不自然もなかろう」
「わ、私が、稀様と、一緒に、暮らすので、ありますか」
梅本は柄にもなく、顔を赤くして少し狼狽えた。母を亡くしてから長く平八との暮らしが続いていた。何度か縁談の話ができかけたことはあったが、家禄の少なさや、朴訥とした人柄も災いしたか、話がまとまることはなかった。
松は、梅本の様子を見て少し安心したのか、
「何から何までご面倒をおかけして、申し訳ございません。昨夜の山怪の言葉がどれほどのことかわかりません。息子瑞雲も本当はどうなっているのか、なんとか見届けなくては死んでも死に切れません」と言いながら、二人に向けて平伏した。稀も頭を下げる。
「必ずお二人の身の安全はお守り申す。頃合いを見て、父上に相談し、陣屋内に匿えればよいが…」
忠厚は、保守的な父と功利的な塩田を思い浮かべて、唇の端を噛んだ。
平伏した稀が、小刻みに震えながら思いつめた表情で小さな蕾のような口を開いた。
「お、お願いがございます」
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