第36話 亜宮殿の姫君
〇傷痕
幕府からの往来止めの通達は、司領にも届いていた。明け方から手付に率いられた下役人が国境に向かうと、そこには隣藩の役人が立っていた。
早朝、暇を告げに来た八太夫に田代は、往来止めが解かれるまで、役宅に留まってはどうかと情けのある言葉を掛けた。八太夫は、戸惑いながらも謝意を伝え、お袖を倣って役宅の手伝いを申し出た。田代に許しを得た時、陣屋から使いが来た。
「亜宮殿から運んだ重傷者に異変が起こっております。急ぎお越しくださいませ」
五名中、二人は死亡。一人が錯乱して女中を襲い、もう一人は奇跡的な回復を示して、その錯乱した者を殺してしまったという。
知らせを受けた瑞雲は、苛立ちを隠そうともせず、役宅を出ようとした。瑞雲は、縁を通り抜けるところで、八太夫の背中を見咎め、軽く意地悪そうな顔で、
「あれに、また壺まで運ばせましょう」と田代に言い捨てていった。田代はにがにがしい顔をしたが、
「六、申しつけたぞ」と顎で促し、陣屋への同行を命じた。
八太夫の着物は、最初のままのぼろである。田代は、手ごろな着替えを女中に命じてあとから来るよう申し付けた。
八太夫は、厨の手前の一間で着替えた。女中の一人が言う。
「あれ、六さん、えらい両足の怪我、こりゃ矢傷かね。気の毒に」
八太夫は、苦笑いしていたが、傷の後は丸く盛り上がり、皮膚が方々に突っ張ったところもあった。矢傷の一本は、足を貫通しており、傷の深さの名残を留めていた
〇戸板担ぎ
八太夫は、再び陣屋から亜宮殿に行く旨をお袖に告げて、陣屋に急いだ。何か瑞雲らの企てを知ることができるかも知れない。陣屋の大広間に入ると、戸板に乗せられた死体が一つ運ばれていくところだ。すぐそばに、なんと苗が真新しい灰斎服に着替えて座っている。髪は全て焼けたところが再生したのか、禿げ頭だが、蜘蛛の巣のような模様の紫色のみみず腫れが広がり、そこここは赤くただれた痕も残っている。それでも救出時の全身が激しく焼けていた姿とは見違える差が生じている。
陣屋の大広間では残りの二人も既に戸板に乗せられていた。瑞雲は、八太夫に、
「そこの灰斎服と戸板を担げ」と命じた。担ぎ上げる配置についた時、司千勝が供を連れて大広間に入ってきた。八太夫らはその場で平伏する。
「生き残りは、たった二人。瑞雲殿も容赦がない」
「恐縮でござる。丿様やご一同の手荒い歓迎に精一杯お応え致したまで。何卒ご容赦を願います」
瑞雲は、慇懃に頭を下げて見せた。瑞雲が身につけた発雷の技「死中求活」を繰り出されては、太刀打ちできない。また、陰の壺を管理するものがほとんど死んだ今、瑞雲に手を出すことは得策ではなかった。司は、苦笑いで踵を返し、意味ありげな口ぶりをする。
「そう、昨夜の幕府よりの火急のお達し、聞き及んでおろう。各国境の往来止め。ご母堂妹御はまだ到着せぬ様子。どの辺りで足止めを食っておられるのか、怪しげなものを持ち歩く者は厳しく取り調べがあると聞くがいかがなものかのう」
この時点で、司は、松と稀を手中にしていない。カマをかけたのだ。今、瑞雲の弱点になる切り札は、家族と最後の「沸魄散」だ。本来、瑞雲を殺した上で、おびき寄せた二人から「沸魄散」を取り上げてしまうという計画が修正を余儀なくされていたのだ。また、瑞雲の表情で、切り札は瑞雲の手にも握られていないことがわかった。
「なにをしている。さっさと運ばんか」
下役人を先頭に、戸板三枚に乗った遺体が運ばれていった。最後の戸板の前は苗、八太夫は後ろであった。
〇亜宮殿の姫君
亜宮殿は、薄暗い中にポツリポツリと油皿の小さな火だけが灯されている。先導役の下役人が持った燭台の火を頼りに、戸板の列はそろそろと進んでいった。下役人は、祭壇の脇に戸板を置かせると、祭壇の篝に火を入れた。火の立ち上がりに合わせて、漆黒の洞窟に明かりが揺らぎながら広がり、陰の壺を浮かび上がらせた。壺は鈍く金色に輝いている。
下役人の一人が、
「おい、瑞雲殿はおらんのか」と、周囲を見渡す。他の下役人も同様だったが、「しっ」と一人が、皆を制した。
「ころーん、ころーん」とかすかに音がする。全員がびくりと周囲を見渡す。洞窟内に反響する軽い音がじょじょに近づいてくる。一同はどこから音が近づくか分からず、同時に激しくなる反響に不安を募らせた。
「ごとん」
突然、祭壇に一人の年若い姫君が現れた。女中を四人従えている。白地に青紫や桃色、赤紫などの無数の桔梗をあしらった振袖に包まれ、青ざめた肌は、丿紫丸のそれとよく似ていた。歳は十五、六だが、二重の大きな目が幼い顔つきとは不釣り合いな謎めいた雰囲気を醸し出していた。桃割れの髪が少し古風な印象だが、金細工の枝垂れ桜を散らしたような簪を長く首元まで垂らし、それが、篝火のゆらめく火に反射していた。
下役人達がざわつき、
「桔梗様じゃ、皆頭が高い。控えよ」と言いながら自身もその場で平伏した。一同に合わせて八太夫も膝をついた。
「桔梗じゃ。亜宮殿の屋形や調度品の数々、捧贄柱も、焼け落ち取り払われて……、一体何が起こったのじゃ、兄上様や、斎服の者達もどこへ。はっ、それは」
桔梗は、戸板に乗せられた黒焦げの死体に気付き、近づいた。思わず目を背ける。
一方、別の抜け穴からやってきたのか、瑞雲が田代や数名の下役人を従えて祭壇の脇に現れた。合図とともに下役人たちは、持っていた松明に一斉に火をつける。周囲の目が瑞雲に注がれる
「恐ろしゅうございますか。桔梗殿。丿紫丸殿は、この私に脱魂存魄の秘法を施された折、誤って陰の壺のしぶきをご自身が受け、壺の下敷きになり毒汁を浴びてしまわれたのです」
瑞雲は、ゆっくりと祭壇を登り壺を挟んで、桔梗たちの前に立った。
「な、なんという恐ろしい……」
瑞雲は、桔梗や女中たちが顔を引きつらせ震える様子を歓喜の表情で見ていた。桔梗はその場に崩れ落ち、女中に支えられている。
「壺もろとも毒汁の中に倒れんとする時、丿殿が自ら私に全ての沸魄散をお授けになったのです」
「そ、そなたは」
「私は、代々沸魄散を護り伝えてきた坊城家の一族にて石成瑞雲。私であればこそ、丿殿はご自身のお役目を私に託されたのです」
「そ、そのような……、ああ、兄上様」
瑞雲は、ことさらにゆっくり桔梗の脇に廻って膝をつき、強く抱きしめた。
「今後は、丿家の養子となり、桔梗様と共にこの家の存続をと司千勝殿直々のお言葉を頂戴し、本日ごあいさつに参りました」
桔梗は、混乱していた。兄の死の事実と共に死ぬ間際に沸魄散を託されたという男、それは、丿・司両家と長く縁のある坊城家の傍流の若者、司千勝からの言葉、何もかもが一度に我が身に押し寄せ、どう判断していいかもわからない。
「桔梗様、これが毒汁と沸魄散を同時に飲んだ何よりの証拠」と言うが早いか、瑞雲は、もろ肌を脱いで、上半身を桔梗の前にさらした。
「ひっ」と、桔梗や女中たちが目を背ける。そこには、首筋や頬骨、眉間から薄紫の不均一な斑模様が全身に浮かび上がり、太い血管も全身に幾筋か顕わになったままだ。
「丿殿より沸魄散を託されなくば、毒汁に浸されたこの体、なぜ生き永らえておりましょうか。私と共に陰の壺を護り、帝につくして参りましょう。よろしいですね」
瑞雲は、着物をただすと改めて桔梗の正面に周り、強く抱きしめた。桔梗は力なく抵抗したが、かまわず瑞雲は耳元で桔梗に囁く。
「丿家代々で継承されていた沸魄散は全てもはや私の身の内に宿ってござる。当家に伝承された残りの沸魄散がなくば、陰の壺の維持もままならず、丿家は断絶。司殿のお指図通りに私と祝言をあげる以外、道はござらん」
瑞雲は力を緩めず、いやさらに強く抱きしめた。やがて、桔梗はぐったりと瑞雲に体を預けた。
瑞雲は、誰にも見えないよう顔を隠してにたりと嗤った。人を騙し陥れ、操る悪意に満ちた顔だった。
八太夫は、平伏したままはらわたが煮える思いで話を聞き、瑞雲の顔をちらりと見た。伊藤家の時とは比較にならない不気味さがあった。
瑞雲は、桔梗を抱くように抱えあげて立たせると、その目をじっと見つめながら、
「さあ、お命じなされ。今は陰の壺の中身を満たさねばなりません」と言った。桔梗は視線をそらすことができず、口添えされるまま、
「戸板に…、載せた、供物を、陰の壺に、捧げよ」と唱えた。
下役人の二人が畏まると戸板を掲げ、壺の口に黒焦げの死体を滑り落としていった。
じくじくと底面に溜まった赤黒い塊が熱を持ち、焼けた鉄と脂が混じったような臭いを上げながら、赤く輝き始めた。
死体が毒汁に触れ、ずぶずぶと音を立てながら沈んでいく。
「永年に渡り丿家がやってきたこと、けして目をそらさずよおく見るのです」
瑞雲は、肩を抱いて壺に桔梗の体を押し付け、陰惨な様子を見せつけた。
「ひ…ひぃぃ」とうわずった声をあげながら、壺中のどろどろの毒汁に醜く溶けていく焼死体を見せつけられ、桔梗はがくがくと震えた。
「私は、この壺が火にかけられぐつぐつと沸き立つ中に浸され、嬲り殺されかけたのです。身をもって、脱魂存魄の法を体得いたしたのです。さあ私と夫婦の契りを交わし、陰の壺を継承して参りましょうぞ」
桔梗は、恐怖と毒の噴気に当てられて、気絶しようとしていた。瑞雲は、肩を抱きながら、桔梗の体をがくがくと揺すり、
「おお!お認め頂けましたか!」と、一人芝居を打って見せた。
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