第35話 駆け引き、あるいは山怪の警告

 松は、細かく震えている。稀は、松の手を握りしめた。

「なんと……。司家の使者は、瑞雲殿を護送駕籠にて譲り受け、司家へと戻っていかれました」

 忠厚は、自分が言った「それでは辻褄が合いませぬ」という言葉を思い出した。

「そ、その瑞雲から、文が参ったのです。『この度、これまでの秘薬探索がついに認められ、坊城家と縁深き司家にて仕官が叶った。褒美として、また、忠誠の覚悟を示す上でも、二人で、急ぎこちらへ参られませ』と」

 松は、秘薬を持ち出すという下りは省いて伝えた。文中には「家宝の能面は肌身離さずお持ちになり、家財は奉公人に運ばせられませ」となっていた。

 能面の面の一つに十寸髪、十寸面というものがある。能面は秘薬を示す符丁に他ならなかった。能面は一尺四方の桐の箱に納められ、今は風呂敷に包まれて稀が背負ったままである。

 秘薬は信頼が落ちつつあるとはいえ効果そのものが失われたわけではない。秘薬は莫大な金高に換算できる品でもあった。

「左様でございますか。護送駕籠で送られたものが、翌日には仕官が叶い、国元から家族を呼び寄せるとは。いかにも慌ただしく不自然なこと。時を同じゅうしての往来止め。特に女は厳しく取り締まるようとのお達しでござる。これはお二人を瑞雲殿に引き合わせたくないのか、お二人を呼び寄せることに何か特別な意味があるのか……」

 稀は、少し首を傾げるように、自分が背負ったままの秘薬に目を落とし、風呂敷の結び目を手でなぞって言った。

「特別な意味……。母上様、あの書状は誠に兄上様がお書きになったのでしょうか」

「何を言うのです」

 松は、娘の言葉が全ての違和感を解くように思えたことに、足元が崩れるような恐怖を感じた。懐から書状を取り出し、月明かりにかざす。

「こ、これは確かに息子の筆です。瑞雲が私たちを呼び寄せてくれたのです」

 松の言葉には、すがるような響きがあった。稀は、母の表情を見て「書かされたのかも知れません」と言う言葉を呑んだ。

 忠厚は、稀の表情から稀が呑んだ言葉を測り、稀を見つめて何度か頷いた。梅本はずっと板戸の隙間から、無言で表をうかがっている。


 沈黙が続いた。


〇月光浴

 封は、身動き一つせず棟にじっと立っている。月光が差し込み、封の裸体を照らしている。封は、両手を広げて光を浴びながら会話に耳を傾けていた。


 十寸は、夜空に舞い上がっていた。見渡しても封はいない。今夜は風が少ない。思い切って、十寸は更に高度を上げた。薄い雲に近づく。銛についた結露を舐めて水分を補う。十寸の飛嚢は、限界近くまで膨らんでいた。


 上空には僅かながら風が舞っている。十寸の体と飛嚢では、安定が保ちづらい。

「……もう、しんどい」

 諦めて戻るか、体勢を不安定にしてでも銛を手放して更に高度を上げるかを決めようとした時、月の光が届く山の斜面にきらりと反射するものが目に入った。

「あっ」

 十寸は、一気に飛嚢の下弁を開いて滑空し、封を目指した。急降下に従って、そこが八太夫のいた社であること、その棟に封が留まり、両手で月の光を浴びていることがわかった。


〇駆け引き、あるいは山怪の警告

 急降下の直後、空中で停止するには、最後にもう一度飛嚢に息を満たさねばならない。十寸は、最後の水分でいきんだ。体に急制動がかかり、落下速度が落ちる。檜皮葺の屋根に軽い音を立てて十寸は着地した。

「ん……」

 梅本は、頭上のかすかな音に気づいた。それはムササビが屋根に降りたような軽い音だった。それ以降、音や気配はない。梅本は蔀戸の隙間を覗いた。そこは月明かりが境内に届き、社の屋根の影が形を成していた。

「はっ!」

 屋根の一直線の影に、子供のような影が立っている。影は何か漂ってきた物を受け止めるように手を動かした。

 梅本は、ぎょっとすると気配を殺して弓矢を取り、板戸に手をかけた。この所作を見て、忠厚、松、稀は緊張し身を固くした。忠厚は梅本に目配せすると、囲炉裏の火に水を掛ける。部屋が闇に包まれた。

 音を殺して、梅本は板戸を開き、境内に飛び出して矢をつがえた。

「ああっ」

 社の棟上には、月の光を逆光に浴びて立つ裸体の封がいた。金冠月食のように体の線が光で縁取りされ、輝いている。そこが神社であったことも手伝い、梅本には女神が降臨しているように感じられた。足が震え、膝をついて弓を下げた。

 忠厚らは、小屋の中から梅本の様子にただならぬものを感じた。三人は、小屋を出ると梅本の視線を辿って社を見上げ、息を呑んだ。忠厚らにとっては初めて見る姿だ。

「う、梅本殿、あれは」

「ひ、百貫の大石を落として庄屋の離れを破壊し、瑞雲の右手足を貫いた山怪です。我々の話を屋根で聞いていたのです」

 十寸は、もう飛ぶ力が残っていなかった。隠れるように封の肩に乗り身を強張らせた。封も十寸が降りてきたことで飛び立つ機会を失い、八太夫の両太股に矢を命中させた梅本を間近に緊張を高めた。この距離なら容易く自分の飛嚢が射抜かれてしまう。

 やがて封は、梅本が自分に見惚れていることを見て取り、慎重に静かに口を開いた。

「瑞雲は、呪いの壺と脱魂存魄の法で自分から魔物になってしもうた。秘薬と呪いの壺で、どんな命にも従うもんを作ろうとしてる」

 松と稀は、びくりとした。松は、

「秘薬は、あらゆる病、怪我を癒す霊薬!そのような恐ろしいものを作るものではありませぬ!」と声を振り絞った。

 封は、たじろいだ。だが十寸が、封に耳打ちする。封が再び口を開く。

「『俺は今見てきたんや!司の陣屋、大広間で、黒焦げの死体が蘇って女中を襲って暴れたんや!行ったらあかん!』」

「俺?」

 四人に一瞬の違和感があったが、警告は強く伝わった。

「もう行こ」と十寸が囁く。封も小さく頷く。入らずの山の池でやっていたように、立ったままで背後に倒れる。境内にいた四人には、突然月の光が差し込み封が消えたように感じられた。

「おおっ」

 封は、背中から倒れ込みながら、背中の臍から勢いよく息を吹き、体を捻じると、飛嚢を一つ膨らませて、裏の木立の隙間に入り、上昇して山の木々の上を舐めるように飛んだ。二つ、三つと飛嚢を膨らませ国境の山に来たところで、一気に上昇し、雲に紛れた。風の流れに合わせて旋回しながら、田代の役宅の真上に向かう。

「よう機転利いたな。あれおじいの足を射た侍やろ」

「うん……。怖かった」

 封は、飛嚢を畳みながら急降下していく。表門横の長屋に降り立つ頃には、封の胸は、元通りになっていた。 


〇八太夫の変化

「ただいま」

 煙出しから十寸の声がする。

「お帰り。心配しとったで」

 八太夫が、天井板に梯子をかけて登って来ていた。

「ヤマノクチの社で、封が……」と言いかけた十寸と封は、息を呑んだ。そこには、大ぶりの盥に水を張り、澱の粉を溶いて、中央にソが浸っていたのだ。タガが緩み傷んでしまったものをソの力で修繕し、八太夫が水を汲んで拵えたのだ。

 十寸と封は、先を争うように盥に入り、澱に身を浸した。心地よさげにくつろぎながらも、入らずの山を出てからの記憶が共有されていく。

 落ち着いたところで十寸は、苗の件を伝えた。また、封が灯に気付きヤマノクチの社に行ったこと、そこでの話を伝えた。

「瑞雲が家族に秘薬を運ばせて……。変じゃのお。貴重な秘薬じゃ。運ぶなら重々護衛もつけるやろ。それが母と妹の女二人。秘薬が目当てやったら、瑞雲程の若い者、せいたら(急いだら)一日で行けるとこ。自分で行ったほうがええやろ」

 八太夫は、月明かりだけのほの暗い天井裏で、首を傾げた。

「けど、『司家にて仕官が叶った。褒美として、また、忠誠の覚悟を示す上でも』言うてたで」と、十寸が言う。実際は封が聞いたことだが、封はまるで猫がくつろぐように盥に横たわり、全身に澱を摺り込んでいる。

「ほんだら、司の代官への献上品っちゅうことやな……。けど、そらえらい手回しが良過ぎるで。司領に入った日のうちに文がつかんとなあ。女の足なら二日でちょうど。罪人が急に仕官、それも陰の壺の差配もする程にとは……」

 八太夫は、澱の力すなわち沸魄散、それも巻き物の記述にある、最も高純度な万障沸魄散の力で、若返っている。老人らしい思考だったものが、若く柔軟な深い考えを持つようになっていた。それは、十寸によって、澱を目に垂らされた時から始まっていたかも知れない。その変化に八太夫自身が気づくことはなかった。以前は、老い先短いことから、十寸に獲物を獲る力を身につけさせ、別れるつもりでいた。今は、共に生き延びようとしつつ、お袖や苗に救いの手を差し伸べるなど、周りに関わろうという意識が備わりつつあった。これは孤独な若者時代の反動とも言えた。

 八太夫は、梯子を下りお袖のそばに横たわった。

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