第34話 梅ヶ枝苗、石宬松、石宬稀

◯天空の目

 月の出に合わせるように、封は、一気に上昇した。薄い雲を突き抜けたところで滞空する。

「上がり過ぎや」と言いながら、竹徳利と銛を持った十寸が一気に降下していった。

 封は、月の光を受けきらきら輝く雲の原や満天の星の瞬き、そして、それらを独り占めして輝く自分を堪能するように緩やかに回転しながら、更に上昇した。


「あれは……」

 封は、月の光をわずかに反射する布目川の西側あたりにごく小さな提灯の灯火を見つけた。里に向かう橋を渡り、ヤマノクチの社に向かっている。

「二人いる。社に、入った……」

 封は、にっと笑うと静かに旋回して社の真上に向かっていった。


〇灰斎服

 十寸は、御役所の煙りだしの格子から天井裏に入った。八太夫の言葉通りの間取りを頭に浮かべて天井裏をするすると飛んでゆく。丁寧で確実に目標に向かう十寸の性格がよく出ていた。ほどなく大広間の隅の天井板にずらせるところを見つける。隙間を作り、広間の様子を伺う。中央に一つだけ行灯があり、看護の女中が座っている。女中は足を崩し、畳に伏せてうたた寝している。


 十寸は、女中の寝息に気を払いながら、瀕死の状態で寝かされている五名の灰斎服を見て回る。

「一番下手のはず……」

 十寸は、寝床が移動していることも考えて、念のために焼けただれた者の中で、女を探し出すように言われていた。一体ずつ、頭上を漂っていく。女中はぐっすり眠っている。

 十寸が、行灯近くに臥した男の頭上を通過した時、男の片目だけが、ぎろりと開いた。

 十寸は、一周し、目当ての女が下座の端に間違いなく横たわっていることを確認した。

「梅ヶ枝苗、苗」と十寸が囁くと、苗は無意識にびくりと動き、口をわずかに開いた。十寸は、つま先立ちになって飛嚢を膨らませ、そろそろと竹徳利の澱を流し込んだ。


 重度の火傷を負った肺の奥まで一息に澱が流れ込み、激しく反応が始まる。更に深部の火傷の影響の及んでいない部分が生まれ変わり、養分が流れようとする。だが、同時にその再生は、陰の壺の毒で変質した部分から激痛を生み出した。苗は、弓なりに感電したように痙攣すると、

「ぎゃっ、ぎゃあああああ」と叫び声をあげた。

「ひっ!」と女中が飛び起きた。行灯の光を、少し苗の方に近づけて様子を見、

「お気づきになりましたか」といったん正座になって、片手を畳につき立ち上がろうとした時、目の隅に人影が映った。

 女中が、ぎょっとして振り返ると、そこには、焼けただれたままの灰斎服が布団をはだけて起き上がっている。ただれた顔に片方の目だけが爛爛と輝き、だらりと垂れ下がった頬と開いた口から剝き出しの歯が血をにじませていた。

「きゃあ」と女中が声をあげる。その時には、灰斎服は女中の喉笛に噛み付こうと、襲い掛かっていた。灰斎服は、よけようとした女中の細い右手首に噛みついていた。


 数名の下役人や女中たちが、燭台を持って駆け付け、障子が勢いよく開いた瞬間、女中の手首から鮮血がぼたぼたと零れ落ちた。

「きゃあ」

 一瞬、一同がひるんだ瞬間、十寸の澱によって回復し終えた苗が、女中に飛びつき、帯に刺した懐刀を抜き取った。飛び退きざま、口の端で結びをほどき、柄を順手で握ると、音もなく畳に着地するとばねのように飛び、女中の手首に噛みついている灰斎服の首から頸動脈を切り裂いた。

「ぶばあああ」

 灰斎服は、下あごの筋肉を切られ、女中の手首を離した。苗は、懐刀を中段半身に構えたまま体を沈め、次の攻撃に飛べる姿勢を取った。

 女中は叫びながら倒れ伏した。他の女中が駆け寄り、手ぬぐいを裂いて、手首に巻き血を止め、手当を始めた。

 灰斎服は、下役人たちに押さえつけられながらも、長い時間もがき続けた。

「はっ!」

 下役人たちは、この灰斎服の女中の血を浴びた部分だけが、その痕跡通りにわずかに回復を見せていることに気づいた。灰斎服は、本能的に生き血を浴びようとしたのではないかと思われた。

 下役人の一人が叫んだ。

「ぜ、全員を起こせ!目覚めたら人を襲うやも知れんぞ!!」

 御役所に詰めていた者全員が起こされ、役宅に使いが出された。その頃、十寸は天井板を直し、煙りだしの格子から夜空に舞い上がっていた。


〇辻褄

 封は、社の堂守小屋の真上小泉の手当てが行われた。に来た。飛嚢の複数の下弁から一気に息を吐き出し、同時に飛嚢を折りたたんで棟に舞い降りた。下降気流が急激に流れ、草や枝を一瞬だけざわざわ言わせた。


 堂守小屋では、伊藤忠厚と梅本が、一瞬発生した突風に身を固くし、周囲の気配に耳を澄ませた。

「収まったようだな」

「は、このような空気の震えは初めてでございます。今しばらく様子を見られては…」

「何を気弱なことを。一昨日早朝の柳生の使者から噂が広まったか、その日中に周辺の各藩から見舞いにことよせてこちらの内情を次々と探りに来た上、昨日には幕府から各藩をまたいでの往来が禁止された」

 梅本と忠篤の視線の先には、不安げに手をついて平伏する石宬松と稀(まれ)の母娘の姿があった。

「たまさかこの里を通り抜けようというお二人を見つけた故、この社にお連れ申した。改めてご挨拶致す。拙者当ご領地の手代頭、代官伊藤一厚の一子忠厚と申す」

「手代の梅本智蔵と申します」

「宇治坊城家家来石宬瑞雲の母松と申します。こちらは娘の稀でございます」

「稀と申します」

 松は五十前、稀は十七・八だが、共に色白で線が細く女鹿のような印象で、いかにも旅慣れていない風情だった。

 松は、これまでの経緯を忠厚に語った。兄景雲の失踪に続き、弟瑞雲も音信が途絶え、心労が重なっていたところ、突然主家坊城家から、司家手代としての瑞雲召し抱えの報がもたらされた。家財は、あとで奉公人にまとめて運ばせ、松と稀には司領に急ぎ向かうようにと命を受け慌ただしく出立となった。その折、本人からの書状も渡され、嬉々として道を急いだ。ところが木津川を渡り、柳生藩に差し掛かる頃には、若山伏の怪しげな噂が繰り返し耳に入るようになる。侍の往来が増え不安に駆られながらも、慣れぬ草鞋を進めてきたところ忠厚に声を掛けられたのだった。

 忠厚は、当初二人を庄屋に預けようと考えたが、離れが倒壊したばかりであり、何より目立ってしまう。今安全な場所としてヤマノクチの堂守小屋へと案内したのである。

 忠厚は瑞雲を自らの手で捕縛したことを語った。松と稀は、気丈ながら目を伏せて聞き、

「ご迷惑をお掛け致しました。申し訳ございません」と平伏した。

「いや、それが翌日、司家より使者が見えられ、『坊城家に置かれては、預かり知らぬことなれど、いやしくも当家に仕える者の不始末、司家にて預かり処断致すゆえ、お引渡し願いたい』と口上を述べられたのです」

「ええっ」

 松は、思わず顔を上げた。預かり知らぬとはどういうことなのか解せなかった。忠厚は、松に坊城とこの度の瑞雲の秘薬探しについて話を促した。

「坊城家の秘薬は、それまでにも秘薬の一回当たりの使用量を減らし、混ぜ物をしてきた経緯も災いし、既に信頼を落としつつあったのです。当家でお預かりしたころには、残り乏しく原料探索は火急の使命でございました。当家の先代早雲が亡くなった後、早雲が探索のため、各地の怪異伝承を集めたものが大量に見つかったことがございました。石成家を継いだ景雲は、憑りつかれたようにそれを読みふけるようになりました。詳しくは存じませんが、怪異が秘薬の原料の在処を示すというのです。ある日、坊城のお殿様にお目通りを願い、秘薬探索の許可を得てきたのです。加えて、坊城家に関わりある諸家への紹介状、当座の路銀や各地の通行手形も下されました。景雲の出立から三年、瑞雲もが決意を固めた折はご褒美まで下さって、『坊城家が預かり知らぬこと』などあり得ませぬ」

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