第24話 起死回生

〇月の雫たち

 十寸は、垂直に夜空を飛んだ。ただ、十寸の浮力は、封の力には全く及ばない。もどかし気に見下ろしていた封がやきもきしている。

 薄い雲の中で二人は合流した。封は、十寸の手を掴んで、再び上昇した。誰の目も届かない夜の空の上で、月光に照らされた三角錐が回転しながら各面をきらきらと反射させていた。


〇漆黒の地下牢

 月が、西に傾く。山はしんと冷たい静寂に包まれている。地下牢は、真っ暗闇になってる。

「おじい」

 突然、老猟師の耳元で十寸の声がした。

「ま、十寸……」と、口を開きかけた老猟師のその口に何かが突っ込まれた。ねっとりと濃い味が咥内に広がる。

「こ…、これは…」

「おじい、澱や。もう飲まなあかん」

 老猟師は覚悟を決めて飲んだ。十寸は、口からこぼれた澱を両手で掬うと、老猟師の傷口に塗った。


「はうっ!!」

 まず口の中全体に変化が起こる。細胞の一つ一つが弾け、分裂し、もっとも完全で健全な状態に生まれ変わる。それは連鎖反応を起こし、老猟師の舌、歯茎、粘膜、歯、澱が飲み込まれた咽頭部、食道へと続いていく。それらの消化器官そのものを生まれ変わらせながら、養分が吸収され血液に乗って全身に広がっていく。心臓に血液が戻った次の瞬間、爆発的な勢いで、全身に反応が広がった。

 傷口は、「ぷちゅぷちゅ」と音を立てながら盛り上がり、血管から運ばれた養分によって、全身が細かく泡立つように反応した。

「はっ、はっ、はっ、はっ」

 老猟師は、荒く息をしてその場に置き上がった。先程までの痺れるような感覚や両足の激痛はおろか、年齢ゆえの痛み、強張り、体の重さなど一切のものが消えている。それどころかもっと生命力にあふれていた。

「おじい、おじい」

 十寸が老猟師の胸に飛び込んでくる。

「よしよし、ほんまに心配かけたな」と、十寸を撫でながら、その姿を確かめる。真っ暗闇の中で、先ほどまで見えなかったはずの十寸が、はっきり見え、地下牢の様子もありありとわかることに気づく。老猟師は、湧き上がる高揚感に少し戸惑った。これが「若い」といことだとは気づかなかったが、心そのものが若返ってきていたのだ。

「さて、ここから、どないして出たもんか」

 地下牢は、石壁に囲まれ二寸角の格子がはめ込まれている。いくら若返っても到底打ち破ることは不可能だ。

「おじい」

 十寸は、先ほど老猟師に飲ませた見慣れない細い鶴首のついた筒と、もう一つ陶器のようなものでできた瓶を見せた。器は、格子の隙間を通り抜ける寸法で作られている。

「ソが持たせてくれたんや」

 十寸は、一旦洞穴に戻った時、泉に浸かって意識が同期された直後、この器をソが造ったのだと言う。老猟師は、瓶を手に取り、栓を抜いて臭いをかいだ。特に臭いはない。試しに格子に使われている木に少しかけると、液体が焼けるような異様な臭いを放って、木がぐずぐずと溶けてしまった。

「な、なんちゅう。そ、そうや、十寸、牢の外から鍵に、そっとこいつをかけるんや」

 しゅうしゅうと小さな音がする。老猟師が入り口を二、三度蹴ると、溶けてもろくなった鍵が外れて、入り口が開いた。

 老猟師は気配を確かめながら、牢を出て、お楓の牢に入った。冷たくなったお楓を見つけると、自分の着物を脱ぎ、お楓の着物もいったん脱がせると抱きかかえて、肌同士を合わせた。その上から、自分の着物を羽織る。

 抱きしめたまま牢をくぐると、体温が伝わり強張りが解けたのか、お楓が目覚めた。

「ひぇ」

 老猟師は、慌てて着物の端で口を押え、耳元で、

「お嬢様、わしやわしや。山猟師の八太夫や。体が冷え切っとったんで、抱っこさせてもろてますのや」と、囁いた。

 すぐそばに十寸の気配もする。お楓は安心したか、

「お、おじいさん足は」と聞いた。

「わしはこの通り。十寸のおかげでぴんぴんじゃ」

「ほ、ほんだら、お袖、お袖助けたげてぇ」

 お楓は、暗闇の中きょろきょろと辺りを見渡し、

「お袖もここ連れてこられてきてん。いっぱい血ぃでててん」と訴えた。

「十寸」と老猟師が言う。

「うん」

 十寸は、傍らの牢を指さし、鍵に液体をかけた。何度か勢いをつけて開くと入り口の鍵は壊れた。お楓は、お袖を手探りで探し当てた。

「お、お袖、お袖」

 お楓が氷のように冷たくなったお袖にすがり、着物を揺さぶる。

「げふ……」

 お袖は、まだかろうじて息をしていた。だが、もう声を発することもできないほど弱っている。

「十寸、あの澱まだ残ってるか」

「澱、澱てなんやのん」

 老猟師は、十寸の秘密の一端を漏らしてしまったことに、一瞬顔を曇らせたがこのような事態に、致し方ないと考えた。

「わしの大怪我も、十寸の薬でようなりましたんや。澱っちゅうのは薬のことでございます」

「ま、十寸ちゃん、ほんだら、お袖にも、お袖にも使うたってえ!」

 お楓は、十寸の気配の方に言った。

「……、なんでや」

「えっ」

 お楓は、冷淡な十寸の返事が意外で、思わず聞き返した。

「こいつは、瑞雲の仲間や。お楓を騙して、おじいの邪魔した。なんでこいつを助けるんや」

 正鵠を得た十寸の言葉に、二人は絶句した。

「お、お袖はうちが生まれた時から一緒におってん」

「きっと、瑞雲に騙されとったんや。あいつは人の欲につけこんで操るんや」

 十寸は、しばらく沈黙した。やがて、

「俺は、よう決めん」と言うと、老猟師に鶴首の器を渡した。老猟師は瑞雲によって突かれた箇所に、澱を垂らした。

「もうちっとある。ほれ口に入れたる」

 老猟師は、お袖のあごをつまんで口を開かせ、残りの澱を垂らした。筒を割り、内側にこびりついていた残りも指で掬って舐めさせる。

 冷たくしんとした暗闇の中で、お楓の息遣いだけが聞こえていたが、突然、

「ぐぇ」と、お袖が血を吐いた。よわよわしくだが、全身を波立たせて呼吸をし始める。

「お袖ぇ~」

 お楓は、お袖の背中をさすり、手を探り当ててぎゅっと握った。刺傷部から小さく、「ぷちゅぷちゅ」と音がしている。その後も二度、三度、血を吐くと、少しずつ息遣いが穏やかになっていった。

「間に合うたのう」

 老猟師は、十寸に語りかけたつもりだったが、十寸は何も答えなかった。だが、自分の肩に乗っている十寸の張りつめた感情がどうしようもなく伝わってくる。


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