第17話 知略策謀
老猟師は、三人に経緯を話すと、
「わしの考えが足らんかった。もう逃げなあかん。わかるのう十寸」と言い、手のひらに乗った十寸を見下ろした。
「のう」と十寸達も頷く。
「逃げ方、逃げる先も考えなあかん」
「逃げる先?」と封が聞き返した時、
「誰か来た」と、ソが言った。
老猟師は、洞穴の壁に耳を付けた。ようやく朝霧が消え、探索の手がいらずの山にまで及んだようだ。
「おじい……」
ソが、言う。老猟師が振り向く。ソは、静かに目を閉じ、泉に両手を浸け、口を開いた。
「……このようなところは初めて来たが、もし逃げたならもっと先と考えるほうが適当ではないかのう」
「うむ、夜通し歩けば伊賀、名張。もうこの辺りにはおりますまい」
「近くに潜伏することは」「いや、身寄り頼りも土地も持たぬ身では、捕らわれて仕置きを受けるより逃散するが容易き考え。鈴鹿、大峰、高野山。深山幽谷に潜まれては当分手掛かりはつかめますまい」
ソは、あの小鳥のような声で、手付たちの会話をそのまま復唱していった。老猟師をはじめ、十寸、封も驚いた顔で、その様子を見つめた。
「……下っていった。もうおらん」
「な……なんでそんなんわかるんや」と老猟師が、訊く。
「うち……、地の奥に、こぶの周りにも、いっぱい根を張ってる。根から聞こえた」と、ソが答える。
「お……、おお、前もそんなこと言うてたな。十寸も最初、根が生えとった。けど周りにそんな根ぇて、どこから繋がっとんねや」
老猟師は、洞穴を見渡しながら言った。ソは、泉に視線を落として言った。
「この泉の底、地面の中、ずぅっとずぅっといっぱい根ぇ張ってる。うちは腰から下はぜぇんぶ根ぇ」
ソは、水底に溜まった澱を掬って手の平に盛り、それを見つめながら言った。ソの体は、上半身は泉の水面から上に出ているが、水面下は澱に覆われている。腰から下に足はなく、根が地中深く山の表面広くに広がり、養分や水分を集めているのだ。
老猟師は、これまで知らなかったことが多くあったことに改めて驚いた。知る限りの生き物とはまるで違う。
「そ、そうか、せやから、大きな盥こしらえて根を張らせんようにするんか……。地面に泉作ったら、水分養分をようけ集めて、銛も、十寸や封も作れる。あ!せやから、ここの周りは『崩れた地形や樹木があまり育たぬところ』になってまうんか」
ソは小さく肯いた。
「盥に入れられてた時は、動物だけ摂ってる……。今はいっぱいのもん摂ってる」
「ほしたら、その頃の澱と、今の澱はちょっとちゃうんかのう」と老猟師が言うと、ソは、こくりと頷いた。
老猟師も深く頷いた。我が身に起きた変化を思えば、瑞雲の秘薬の見立ても過小評価であろう。盥で作られたものですら、秘中の秘薬なのだ。そして、それも薄めに薄めて処方され、主家も期待を寄せなくなっているのではないか。さもなくばあのような付け焼き刃の山伏もどきが一人で送り出されるはずがない。
それ故に、瑞雲も強い助力を得られず、秘密を知られる危険を冒して、塩田らに打ち明けざるを得ないのだ。瑞雲には、後がない。
「どんな手ぇで来よるやら…」と、老猟師は呟いた。
◯庄屋の危機
翌早朝、塩田は、庄屋を訪ねた。庄屋は客間の上座に塩田を座らせ、緊張の面持ちで女将に茶を運ばせた。塩田は、しばらく他愛もない話をした上で少し声を潜めて、「お上にあっては」と、話し始めた。
「忠厚様に無事お役目をお継ぎ頂けるようお心砕きなさる日々、いつまでも山伏風情をお屋敷にも泊め置けぬ。聞けば探索も谷の東側、これは庄屋に預けるが良いとお考えの折、昨夜の一件をお耳にされ、お主には余計な世話を掛けたとお気になさっておいでじゃ」
塩田は、意味ありげに口の端を上げ、代官が庄屋に気を遣っていると言いながら、瑞雲を預かれと要求を突き付けた。庄屋は、返答に窮し、
「そ、そのような……」と言ったところで息を詰まらせた。老猟師が秘薬に関わっている恐れがある以上、瑞雲による詮索が繰り返されることは容易に想像できたからだ。塩田は、庄屋の様子に素知らぬ顔で、
「ただ、それでは大飯喰らいを押し付けて、代搔き、田植えと忙しい時に返って負担が増すばかり。お上も気になされてな。そこで、このわしが『庄屋の娘を行儀見習いにお屋敷に上がらせてやってはいかがでしょう』と申し上げたのじゃ」と、畳み掛けた。
「ええっ」と、思わず夫婦が声を上げる。
「お上のお情け、庄屋もさぞ喜ぶと参った次第。ありがたくお受けいたすのう」
「お、恐れながら……、うちの娘は、まだ八つ。一人娘で甘やかし、碌な躾もしておりません」
庄屋は、あまりに唐突な申し出に精一杯の遠慮・断りを述べたが、
「うむうむ、武家の屋敷の躾に作法、しっかり仕込んで頂けるよう、わしからもお願いしてやろうのう」と、言葉を返されてしまった。
庄屋夫婦が顔を見合わせていると、
「御免」と、玄関に瑞雲の声がした。
「おおちょうど話はまとまった。瑞雲殿をここに呼べ」
塩田が、にやりと笑ってみせた。庄屋は、この時、今日の話がすべて代官らの企てであることに気付いた。
瑞雲が、廊下を歩く音が近づく。思わず、音のする方を振り向いた庄屋に塩田が近づき、耳打ちをした。
「のう庄屋、山伏一人、山猟師一人のせいで難儀なことじゃのう。何が一番の早道か、お主であれば分かるはず。助力は惜しまぬぞ……。おお、瑞雲殿これは早い到着……」
うろたえる夫婦を後目に、瑞雲に庄屋での逗留が許されたとし、挨拶をするよう促した。瑞雲も奉公人に聞こえるよう殊更に大きな声をだした。
「皆様のご助力を持って、一日も早く役目を果たし、帰参いたす所存。よろしくお願い申す」
厨の手前では奉公人が集まり、その中心には、不安気に座り込んだ楓とその肩を抱くお袖がいた。
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