第16話 追う者、逃げる者

〇白い澱の力

 老猟師は、夜闇に紛れて堂守小屋に急いだ。藁枕の中身を確かめ、懐に入れると、簡単に身の回りのものと食べ物をまとめ、以前住んでいた山の家に向かった。

 星明りを頼りに歩いていると、ふと、なぜ先程あんなに体が動いたのか、今もこのような闇の山中を進めるのか疑問が湧いた。血気盛んな若い頃であればまだしもこのような老いた体で…と、考えたところで、以前十寸に澱を垂らされ、目を治してもらった時のことが浮かんだ。

「こ、こんなに効くんか……」

 老猟師は、十寸が言った「治す」が怪我を治療することと考えていたが、老いによる衰えすら「治す」ことに驚いた。

 老猟師は、家で火を起こし、簡単な煮炊きものを拵えて食べた。腹ごしらえしながら、考えをまとめていく。追手はすぐここまでくるだろう。すぐにでも十寸達を逃がさねばならない。ただ、十寸が素直に応じるか。共に逃げねばならないか。一体どこに逃げればいいのか。自分が足手まといになるのではないか…。老猟師の考えは次々と巡り、終わりがなかった。

 連日の早朝からの山歩きに加えて、今夜の出来事も重なり、いつの間にか老猟師は、囲炉裏のそばで眠っていた。


〇奸臣塩田万兵衛

 夜明けを待って、陣屋(代官所)の年寄り役塩田万兵衛が、二人の手付土田・三浦を連れて庄屋に駆け付けた。塩田は、瑞雲との挨拶もそこそこに昨夜からの二人を含む四人に社と、老猟師の山の家の探索を命じた。

 四人を片目で見送りつつ塩田は、瑞雲に囁いた。

「して、堂守がいかがした」

 瑞雲は、簡単に経緯だけを伝え、

「生け捕りにして締め上げねばなりません」と付け加えた。また、続きの間で小さく畏まっている庄屋を睨み、

「庄屋殿とあの堂守は、親の代からの付き合い。特に近頃は目をかけてやっております。あの堂守が逃げおおせれば、この庄屋や家族が重い罰を受けることになりましょう」と、殊更に大きな声で言った。

「これ、そのようなこと迂闊に申すでない!悪戯に百姓領民を脅かすことはまかりならん」

 塩田が、強い調子でたしなめた。

「これは誠に申し訳ございません。領民への仕置きなど、私のようなものが口に出すことではないものを。お許しください」

 瑞雲は、塩田に向かって仰々しく平伏した。瑞雲の狙いは、大声で奉公人たちに脅しをかけ、その噂を広めて老猟師の逃亡を防ぐためだったのだ。また、塩田もこの場面でわざとらしく領民側に立ったのは、優しく搦め手側から懐柔し、利を得るためだった。

 塩田は、しばらく瑞雲と話し合ったのち、陣屋に戻った。直ちに代官伊藤一厚に報告をする。伊藤は、五代に渡ってこの天領を治めた小豪族の家柄で、先年跡継ぎ忠厚の嫁取りも叶い、孫が生まれることを楽しみに過ごしている。

「日々平穏に過ぎればよいものを、余計なものを引き受けたわ。言わば我らが主君筋の坊城家よりの書状があった故、断り様もなかったのじゃ」

 伊藤は、変化を嫌い、なにより穏便に年貢の収量を安定させることを良しとしていた。

「その八太夫も庄屋が田起こしにまだ不慣れと申せばこそ、案内をさせたまで。小泉、梅本にもそのようなものに関わっている暇はないと伝えい」

「ははっ。なれど瑞雲の兄の消息、秘薬の手掛かり、共に辿り着いた様子。この秘薬なるものが新しく当地の産物となりますれば、忠厚様のご出世の一助となるやも知れませぬ」

 塩田は、長年仕えた主人の性分をよく掴んでいた。

「うむ。坊城への顔が立ち、忠厚のためにもなればなによりじゃ。だが、山狩りなどに領民は出せんぞ」

「ついては一つ妙案が……」


〇霧の池

 山の霧が老猟師の家に流れ込んでくる。そのぞくりとする冷気に老猟師は目覚めた。老猟師は、黎明の霧の中を抜け、入らずの山に登った。

 霧が尾根筋を越えて東側に流れ下っていく。こぶの手前に辿り着くと、緑の池からも霧が湧き上がっていた。

 老猟師は、ぬかるんだ坂を慎重に下り、切りを掻きわけるように池のほとりにつくと、手の平を水に浸け、じゃぶじゃぶとかき混ぜた。これが十寸達と会う合図だった。

 やがて、しんとした水面の中央に波紋が広がり、湧き上がる霧の中から髪の長い真っ白な少女が浮かび上がった。

 音もなく、立ち昇り、沸き立つ雲のように、ゆっくりと水面から浮かび上がってくる。両手で身の丈ほどの銛を握った封が水面に出現した。封の背後には高貴な神や仏にある光背が輝いている。

「おおっ」と、その神秘的な瞬間に嘆息した老猟師に封がみるみる近づいて、白く細い右手を差し出し老猟師の襟を握った。光背に見えていたものは十寸が広げた飛嚢だった。

 十寸は、自らの飛嚢で浮かび、封の背の割れ目に手を掛けて、水中から浮かび上がらせていたのだ。封の背の割れ目を離すと、一瞬で重心が前に掛かり、老猟師は、胸ぐらを掴まれたまま一気に池に引きずり込まれた。

 封は、老猟師に抱きついたまま、池の水を飲んでは背の臍から勢いよく吐き出して水の中を進み、洞穴に導いた。


「ぶふぁ」

 洞穴は水嵩が増したため、泉のすぐ手前まで水が迫っていた。十寸が泉の切溝からの水を老猟師に繰り返しかけ、泥を流してやる。封が負けじと自分も泉に片足を突っ込んで水かけを始める。老猟師は兄妹喧嘩を見守るような気持ちで泥を流した。

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