第12話 少女お袖
夕陽が山の西側斜面を赤く照らしている。二人は入らずの山のかなり南側から里に戻った。谷を下る分かれ道に差し掛かると、その先のヤマノクチの社の鳥居の辺りに人影がある。百姓が二人、庄屋からの言伝を伝えた。庄屋は気遣いをし、瑞雲をもてなしたいと申し出たのだ。
〇おすすぎの不調法
「これはこれはお呼びたてしまして申し訳ございません。なにせ田起こしの時期…」と庄屋は、迎え入れた玄関で、挨拶半分言い訳半分の口上を述べた。
「いやいかにも繁忙の折柄、恐れ入る」
「さあさあ、ひとまずおあがり下さいませ。伊藤様のお屋敷にはこちらでお食事して頂くと使いをだしてございます。これお袖、おすすぎお持ちせえ」と庄屋は、奉公人のお袖に命じて桶を持ってこさせ、瑞雲の足を洗わせた。
お袖は、上がり框に腰かけた瑞雲の草鞋をもじもじと解き、足袋、脚絆を脱がせた。
「八太夫、おまはんもご苦労やったな。まあちっとしこって(もう少し頑張って)もらわんならん。お前も上がっていかんか」と言う庄屋に、老猟師がいつものように遠慮してのやり取りをしていると、お袖が、
「あ、ああ、す、すんまへん」といつもより少し高い声をあげた。脱がせた脚絆の片方を桶に落としてしまい、更に慌てて拾いあげそこね、濡れた脚絆と手拭いを土間に落としてしまったのだ。
「なぁにをしとんのや」と庄屋が言う。お袖は真っ赤な顔をして俯いて、
「す、すぐ代わりの手拭いをお持ちしますで」と立ち上がった。だが、お袖の草履が濡れて滑ったのか、そのまま倒れようとしたところに、機敏な動作で瑞雲が飛び出し、お袖を抱きとめた。瑞雲は、ゆっくりとお袖をその場に立たせると、
「どこかくじいておらんか」と、抱いた手をゆっくり緩めながら言った。
「へ、へぇ……」
お袖は、耳の端まで赤くなって、その場に立ち尽くした。瑞雲は二十歳前で、少し線が細く、小綺麗な印象だ。顔立ちも整い、あまり日に焼けてもいない。百姓木こりか、粗野な武士しか見たことがないお袖には、自分を抱きとめた男が絵巻物に登場する若武者のように映っていた。
周りの奉公人から歓声と冷やかしの声がかかる。お袖は、居たたまれずにその場で縮こまった。瑞雲は、ちらりとそれを見やったうえで、
「どのみち水をくぐる脚絆。手間も省けて何よりじゃ。それより足もこの通り。一つ井戸までお願い申す」と、お袖がその場を逃れる助け舟をだした。
「へ、へえ!」とお袖は大きな声で返事をすると、その場にちらかった脚絆や足袋、草鞋を桶に突っ込むと、
「こちらでございます」と小走りに脇の暖簾をくぐり出た。瑞雲も軽く庄屋に会釈をするとお袖に続いた。二人の背中に庄屋は、
「お、お袖、ほなら、離れの脇の井戸にご案内しなはれ。終わったら離れに上がって頂くんやで」と声をかけた。
「ほ、ほらお前らもお膳は離れに移すんやで。着替えも持って早よう行きなはれ」
庄屋は、奉公人達に指図をすると、老猟師にも、
「どないや、離れやったら気遣いもないやろ」と言った。
老猟師は、離れに案内させた庄屋の気持ちがありがたく、また申し訳なく頭を下げた。
〇
お袖は、足を洗い汗をふき取る瑞雲に、水を汲み替え、手拭いを絞り、脚絆を洗うなどかいがいしく動いた。ちらちらと瑞雲を見てはくるくると動き、世話をこなした。
「働き者じゃのう。名前はなんと申す」
「そ!袖と申します!」とお袖は、上気した顔で答えた。
「お袖か。お袖はいつから奉公しておる」
「へ、へえ。お楓様がお生まれなって、子守りにっちゅうてこちら上がりましてえ、六つの歳からもう八年でございます」
「そんな頃から奉公しておったのか。親元を離れて寂しゅうはないのか」
「うちは生まれもこの里で、ちょいちょい帰しても下さって。それはちっとも、はい」
お袖は脚絆と足袋を井戸端に干すと、離れの縁に瑞雲を案内した。西日が離れ座敷の障子にかかっている。行燈や座布団が既に運び込まれていた。奉公人達が料理や酒を運んでくる。それに気づいて、お袖も瑞雲にぺこりとお辞儀をすると、厨へ消えた。頃合いを見て、庄屋が老猟師を伴って現れ、三人は座についた。
瑞雲は、修行僧として酒を辞し、庄屋と老猟師が銚子一つをやりとりする程度の酒宴になった。瑞雲は、庄屋に問われるがまま差支えのない程度に自分の身の上を語ったうえで、老猟師にも訊いたことを庄屋にも訊いた。また瑞雲は若者らしく料理を瞬く間に平らげ、庄屋が奉公人に料理と飯を持ってくるよう言いつけていた。
「庄屋殿、この辺りでは、ヒノシシや一本足で極彩色の鳥などの化物がでるとお聞きしたが」
「はあ、禍々しい凶兆、入らずの山と言われるようになったのもそのヒノシシっちゅう化物のせいでございます。あれは、京の都で戦があったとかで、吉野に都が移る頃やったと聞いております。お公家様のご一族が移ってこられまして、そら立派なお屋敷を建てて、この辺りもちょっとは賑やかになっとったそうでございます」
「するとヒノシシは間違いなく出たと申すのだな」と瑞雲は、身を乗り出した。
「なにやらお公家様の中でも祈祷を生業となさる方々で、この入らずの山の真ぁ裏……、東南側の斜面にお屋敷やとか、そらなんやらもう山城のようなもん造っておられました。この里の木も使う言うて、人も木もずいぶん出したっちゅうとりました」
「そ、それで、ヒノシシはその屋敷にでたのか」
「いえいえ……、ヒノシシは、ちょうど今頃の田起こししてる時分、入らずの山…ヤマノクチの方のずっと上から転がり落ちてきよったっちゅうことでした」
そこにお袖達が、料理と櫃を持って入った。
「続きをお聞かせ願いたい」と瑞雲が言う。お袖はいつになく慎ましく、食べかけになっていた魚や菜を新しい皿に盛りつけて、飯も盛り直した。
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