第10話 老猟師の思い出

○兄妹喧嘩

 老猟師は、月明かりを頼りにこぶの脇を下り、穴のそばに辿り着いた。穴に向かい屈み込んだ時、

「ばっ」と、風をきる音が一瞬聞こえた。反射的に老猟師が振り向く。

 そこには、月明かりに白い肢体を反射させ輝く封が、降り立っていた。

「お……、おお!」と、老猟師は、言葉にならない声を漏らした。封は、左手に身の丈ほどの銛を持ち、右腕に十寸を抱いている。封の身の丈の二倍ほどもある飛嚢は、中空を漂いながら、折り畳まれ背中に仕舞われてゆく。老猟師には、それが、裸の子供の天女が、羽衣を畳みながら地に降り立つ様に見えた。

「おじい!」と声を上げると、十寸は、老猟師に飛びついた。

「おお、どうや、うまいこと飛べるように…」と言いかける老猟師を遮るように、十寸は、

「こいついっこもいうこときかへん!勝手になんぼでも上がりよる!」と捲した。こんな十寸を見るのは初めてだ。老猟師が呆気にとられていると、

「もっと上がれる。十寸が怖がるから加減したげたんや」と、小首をかしげながらニッと笑ってみせた。

「こ、怖わないわ!俺も…」

 老猟師には、それが兄弟喧嘩のようにも見え、微笑ましく笑ってしまった。


○老猟師の記憶

 封は、洞穴にくぐりこむと、今日獲ったであろう兎を掴んで、泉に入った。途切れがちに二言三言ソと話すと、やがて外であった出来事が同期される。

 封はゆっくり泉に膝をつき、兎をソの前に浮かべると、やがてゆるゆると全身を泉に浸していった。

 ソが、同期された二人の記憶を視てクスクス笑いだした。

 老猟師は、彼らの当たり前の日常を目のあたりにして目を細めた。

 自分にもわずかながら家族と過ごした記憶があった。山奥の家に祖父、両親と住んでいたのだ。幼い頃は、八太夫からもじって「やだ」と呼ばれていた。家族が自分を「やだ」と呼ぶ声が今も頭に残っている。

 祖父は、よく家を開けたが、両親は常に一緒だった。父は祖父譲りの武芸に秀で、毎日八太夫に稽古をつけた。母はとても身が軽く、八太夫を連れて山奥を跳び廻り、身のこなしや魚や木の実の取り方を教えた。厳しくも、常に傍らに笑顔があった。

 ある夏、祖父が酒と大きな海老をたくさん持ち帰った。その晩は家族が腹一杯になるまで食べ飲んだ。老猟師にとって最も幸せな思い出だ。十寸達の白い澱は、真っ白な大海老の身にも似ていると思えた。

 翌日、家族は慌ただしく荷物をまとめ、家も畑も捨てて現在の入らずの山近くに移った。化物が出たとの言い伝えもあるところだ。訳を聞くと、祖父は、

「この秋は天下分け目の大戦さや」とだけ答えた。

 夏の間に、祖父と父が家を空けた。年の暮れに二人は戻ったが、祖父は右手の親指を失い、父は額に大きな刀傷を負っていた。

 いくらかの恩賞を細かく金に換えながら傷を癒やした後、父と祖父は持ち帰った鉄砲で猟師となった。

 痛みを堪えながらも穏やかな暮らしが続いた。その前後から薬売りがやってくるようになっていた。

 猟で得た獣と、山間に切り開いた畑で育てた薬草を薬売りが買い取る。刀傷の薬や入り用のものはこの薬売りから手に入れるようになった。

 薬売りから、祖父や父が小さく折り畳んだ紙を受け取っている場面があった。それについて父に尋ねると大層驚き、薬の勘定書きだと教えられた。

 少しずつ体躯が大きくなって猟の手伝いができるようになり、父に連れられて里に下りた時に連れていかれたところが、庄屋だった。庄屋は縄手屋と言い、父とは古馴染みで、話が長く弾んだ。父を待つ間に、縄手屋の息子三五郎と知り合った。今の旦那だ。そのころから、体は自分が大きかったが、賢い三五郎とは不思議と馬が合った。粗暴な自分は、あまり親しくなるものもいなかったが、三五郎は山の話を興味深く聞いてくれた。

 数年間、そんな暮らしが続いた。何度か祖父は長く家を空けたが、ある秋に家を出たままになった。その冬、大阪で大きな戦さがあったと聞いた。

 あくる年は、雪が遅くまで残り、里に下りても苗の育ちが悪いという話が出ていた。この年はなぜかよく獣が獲れた。一人で里に獣や岩魚を届けに下りることも増えた。飢饉の噂が広がっていたが、里は平静であった。三五郎と遊ぶことが増えた。このころの出来事が懐かしく思い出された。

 冷たい梅雨の終わりころ、入らずの山から里への道を化物が駆け下ったと大騒動になった。蛇の頭と首をした一本足の巨鳥が、極彩色の赤や黄、緑、青の羽を羽ばたかせ狂声をあげながら、一本足でたたらを踏むように駆け下ったと言い、多々羅雉と呼ばれるようになった。百年ほど前には、強烈な熱と光を放ちながら、燃える大猪が駆け下り、ヤマノクチの大岩にぶつかって方向を変え、田で働かせていた牛に突っ込んで、牛もろとも燃え上がり、塩の山ができたという話もあるところだ。この大猪をヒノシシと呼び、語り継がれていた。

 山に戻った次の日、「当分は山を下りず、留守を守れ」という言葉だけを残して、父母がいなくなった。その年の夏、また大阪で大きな戦があり、豊臣家が滅んだ。

 そこから、里とは疎遠になり、年に一、二度、庄屋に獲物を届けるだけになっていった。


「おじい、おじい」

 目の前に十寸が、ふわりと現れて、老猟師は我に返った。

「そ、そうや、話しとかなあかんことができてな」と、若い行者が里に現れたこと、人探しのため山を案内して回ること、そして、何より、この行者の一族が遥かな昔、十寸たちを閉じ込め、泉の澱を秘薬として搾取してきたことを話した。

「一切知られてはならん、見られてはならんのや」

 老猟師は、翡翠色にぼんやり包まれた洞穴で、手立てを相談し始めた。

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