第7話 一時の安寧

○庄屋の気遣い

 御田祭が行われている。一連の式が終わったころ、庄屋が老猟師に話しかけた。

「どないや。堂守も慣れたか」

「旦那、ずいぶんと顔も出さんと。どうも手ぶらやと行きづろうて」と老猟師は、何度も頭を下げた。

「やまつみ(山の幸)の届かんのは寂しいが、そんなんはどうでもええねや。いつでも顔見せてくれたらええ。それより、具合さえようなっとったら、今年は、田起こしにも出てもらいとうてのう」

「へ、へえ、そらたいして使えもせんが、数の足しにでもしてもろうてのう」

「里のもんには、鉄砲担いで豪胆にやっとったころのおまえしか知らんもんもおる。よう知ってもらえるやろう」

 老猟師は、庄屋の気遣いにまた頭を下げた。

「頭あげてや。去年は、思いの外豊作でのお。鼠やもぐら、畑をあらす獣がずいぶん減ったちゅうもんもおるがのう。わしはわしで、楓のことでうろがきとった(おろおろと、狼狽えていた)が、いやあれは世話なった」

 庄屋は、声こそ潜めていたが、老猟師の肩を叩きながら笑った。だが、老猟師は、ぎくりとして俯いたまま固まっていた。


 十寸は、その気になれば大型の猪や熊も一撃で倒すことができる。ただ、そのための勢いをつけるためにはかなり高く昇らねばならない。小さな十寸は高く昇ると体が安定せず、よほど穏やかな時でなければ射る体勢に入りにくい。また、仕留めても、持ち上げる力が少なく、泉に持ち帰ることができない。大きな獲物、また、沢山の獲物は、運び手として老猟師があればこそであった。


○毒の息

 小型の生き物が十寸に狩り尽くされ、狼や野犬は、群れで鹿などを追っている。一方、単独で狩りをする狐は、飢えに飢えていた。

 雪の上に何かを引きずった跡が続いている。狐は、そこに点々と残る血と匂いを追っていた。

 痕跡は、入らずの山のこぶの手前を下っている。狐の目の先には、十寸が野兎の耳を掴んで精一杯飛嚢を膨らませて持ち上げている様子があった。銛は、野兎の頭頂部から顎に突き抜けている。野兎の後ろ脚だけがずるずると雪面に触れ、崖を降りていく。狐にとっても奇異な光景だが、恐れより飢えと好奇心が勝った。


 十寸が穴に入っていく。登り勾配の狭い穴を、下弁からの強い吐息と上昇を繰り返して少しずつ引きずり込んでいく。

 狐は、一気に兎の足に嚙みついた。だが一瞬早く、十寸は、最も狭く登り急勾配なところを過ぎ、兎を再び吊り上げていた。狐は、そのままの勢いで十寸たちの洞穴に飛び込んだ。

 ぼんやりと緑色に光る泉の手前に魚や山鳥が横たわっている。狐は、山鳥に食いつこうとした。その鼻っ面に兎が落ちてきた。狐は、ガチンと顎を打ち付けたようになり、後退りした。

「はっ、はっ、はっ、はっ」

 狐は突然、四肢をがくがくと痙攣させ始め、その場にうずくまった。すかさず、十寸は、兎から抜き取った銛で狐の頭頂部を貫いた。

 山の獣に侵入されたのは初めてだった。十寸は、震えるソの傍らに降りると、ソを抱きしめた。

「こいつ急にがくがくって…。あれなんや…」

 十寸が疑問を口にしたと同時にソと意識が共有された。

「え、この息が毒の息て」

 十寸は思わず聞き返した。ソは頷き、

「袋にこめた息は、天に昇る息と火を焚く息…。この穴がその息でいっぱいで、息がつまってしもてん」と、続けた。

「俺、楓に息かけたら調子ようなっとったで…」

 ソは少し考え、答えた。

「少しやったら、体にええ。障子も襖も開いてたやろ」

 十寸は「へえ」という顔をした。

「楓の様子見に行きたいんか」「うん」

 十寸は、狐に食われかけた山鳥と野兎を泉に沈めた。

 天蓋部の乳白色の卵白状のものは、先の尖った角柱のようになっていた。


〇符丁

「おやすみなさい」

 楓が廊下に出て礼儀正しくお辞儀をすると、隣に座ったお袖が元気よく障子を閉めた。以前、井戸から現れた十寸に気絶した奉公人の少女だ。

「お袖、そっと閉めんとまた叱られるぇ」と楓が言うと、

「へへ、お屋敷の敷居は滑りがよおて」と笑顔を見せる。手燭を翳すお袖を先頭に、二人はコロコロと笑いながら楓の部屋に入った。行燈に火を入れると、お袖は手際よく楓の布団を敷いた。お袖は、楓を布団に入れると、行燈の倹飩を上げ、火を吹き消そうとした。

「消さんといてぇ」

「遊んでんと寝な叱られますぇ」

 今度はお袖に言われて、もう一度二人は声を出して笑った。

「ちょっとだけ。お昼に端切れ出してたら父様にあかんあかん言われるねん」

「また縫いもんしはりますのん。あの鉄砲撃ちの堂守はんですやろ。山越えて、お人形の着物がお金になりましたんかいなぁ。伊賀か柳生か、宇治やろか。商いの的は外しはったんやろなぁちゅうて…」

 お袖は自分が上手く言えたような気になってけたけたと笑った。

 楓は、自分がつい口にしたであろう言葉をこの口の軽い奉公人がべらべらと喋ったことで、十寸を裏切ってしまったような強い後ろめたさを感じた。あの時の黙って頷く十寸の顔が蘇った。

「しーっ。…うち、お、おじゃみこしらえるんや」

 楓は地袋から針箱を取り出し、引き出しを一つ抜き出した。折々に貰い集めた端切れが納めてあった。

「ほんだら、うちはお片(片付け)にいきますでのう。上がるころまっぺん(もう一度)見によりますで」

 お袖のどたどた歩く音が遠ざかる。楓は、行燈を少し枕元に寄せて端切れを見比べていた。

「楓…」

「え、誰、お袖ぇ」

 楓は部屋を見渡したが、天井や欄間の影がぼんやりと薄暗いきりだった。

「俺や、十寸」

 十寸は、天井隅の板を斜めにずらし、顔を出した。「降りてええか」

「まそちゃん?嬉しいわあ」

 楓は、布団から飛び出すと、障子を開け、人の気配を確かめた。「誰もおらんで」

 十寸は、ふわりと部屋を漂い、部屋の隅に降りた。袋の息を吐きだし、背中に収める。

「どないしたん。こっちきい(おいで)」

 楓は布団にぺたりと座った。

「うん。加減悪ないか」

 十寸も布団に座る。

「うん、おおきに。あ、そやこれ縫うててんで」

 楓は、針箱の引き出しを抜いたところに手を入れると、奥のからくりを手で動かしながら針箱を持ち上げた。針箱の二重底が外れて盆が現れた。十寸は、興味深そうに針箱を覗く。

「うふふ。ほら、これやで」

 楓は、盆に隠していたものを手に取った。

「また作ってくれたんか」

「腹掛けやったら、背中開いてて、戻さんでええやろ思うて」「へぇ」

 楓は早速十寸にせがんで、藍染めの腹掛けに着替えさせた。首を通して、肩から七分の袖まで被うようにできている。足周りは前掛け程あり、腰の上辺りについた房を背中に廻して、前で結ぶようになっている。

「おお。動きやすいのう」

 十寸は、くるくると回ってみせた。

「これは」と十寸は、前掛け部の左隅の白い縫い取りを持ち上げた。

「うちが考えた十寸ちゃんの印。ほら、背中の三角の凧。『十』の字を斜交いに二つ並べた四角の中に『丶』を入れたら、『十寸』と読めるやろ。こないに見えるやろ」と楓は、少し照れながら説明した。

「おおっ、ほんまや」

 十寸は、印と楓を交互に見て、笑顔を見せた。右隅にも茜色の縫い取りを見つけた。「こっちは」

「これは…、かえでの葉っぱ。うちのこと」

 楓は、腹掛けの両隅に二人の符丁を入れたことに頬を染めた。

「ふうは『かえで』…。どういうことや」

 十寸の問いに、楓は十寸があまり字を知らないのではと思った。

「ほら、これがうちの名前。きへんに…」

 楓は針箱の蓋を開けて、蓋の内側に墨書された「楓」という字を見せた。

「…。きへん『風』をつけたら、かえでの木のことで、この字は『ふう』とも読む…、へえ」

「まそちゃん、字ぃ覚えたい?」

「うんうん」

 十寸は、大きく何度も頷いた。

「あっ」

 お袖のドタドタとした足音が近づく。楓は、倹飩の隙間から火を吹き消すと、クスクス笑いながら、十寸を懐に入れて布団に飛び込んだ。お袖が障子を開け、針箱を片寄せて出て行った。

「お昼はこれるのん?」

 布団の中で楓が囁く。


 十寸は、話し疲れて寝入った楓の布団から這い出し、天井板の隙間に消えた。

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