第6話 澱
〇村入りの話
老猟師と十寸は、互いが行き来をしてしばらく暮らした。雪が深くなった日、囲炉裏の前で二人が話している。
「こないだ旦那に、山降りる相談してのう。『十寸はどこかへ行ってもうた。わしはもう目も利かん、足も利かん。どんなことでもするけぇ、里に置いてくれえ』言うてな」
十寸は静かに聞いていた。
「ヤマノクチ(里の最も山際の小字)の社の堂守どうじゃ言うて、里の年寄衆にも話しつけてくれた。明日、陣屋(代官所)に旦那と届けたら決まりや」
「目や足が利かんて」と、十寸が尋ねる。
老猟師は、右眼の瞼を指先で軽く持ち上げてみせた。瞳孔のすぐ脇に瞳孔と同じほどのぶつぶつとしたイボのようなものができている。
「鉄砲の火花を食ろうてのう。もう、狙いがつけられん。賭け事の形に取られたが、受け出してもよう使わんのや」
老猟師は、俯いて静かに笑った。
「足はどうじゃ。一緒に行ったら猟がたつ」
「そんなこと、言うてくれるか。嬉しいやっちゃ。せやけど、こんな老いぼれ足手纏いになっとった」
「おじい…」
元より、縦横無尽に動く十寸と、地面の草木を分けて歩く老人では、速度が違い過ぎた。
「わしのこと構うことぁない。あの子のそばにおったるんや。いっぱい食べて、もう…一人、お前を抱えて飛ぶ役がおらんとあかんのやろ」
「…うん。…せやけど…、一緒におったら色々教せえてくれる。もっと教えてもらわなあかん」
老猟師は、色々と理由を考える十寸を愛しく感じた。
「月並祭や籠もりのほかは、夜は滅多に人も来ん。人のおらん時に来たらええ」
「…うん」
○白い澱
十寸は洞穴の泉に戻り、体を浸し、その日の獲物をぽちゃりと浮かべた。
白い澱が浮かび上がり、獲物を覆い、沈めていった。
「おじいの目、怪我なん」
少女が十寸と心を同期させて、聞いた。
「うん」
十寸が頷くと同時に少女の考えが十寸の頭に浮かんだ。
「この澱は、人も治す…」
○十寸の悪戯
その夜は月並祭の直会(なおらい)が、深夜に及んだ。里の者を見送って、老猟師は薄い布団に潜り込んだ。
しんとした雪明りの山中を、竹徳利を下げた十寸が、滑るように飛んでゆく。
老猟師の枕元で十寸は、声をかけた。
「おじい」
老猟師は、疲れと返杯をいくつも受けた酔いでぐっすり寝入っていた。
「おじい、おじい、目え治して山に行こう」
十寸は、何度も声をかけたが、一向に起きぬ様子に肩を落とした。
「そや。そおっと目ぇに垂らしたら、明日は見えるように…」
十寸は、少し悪戯な顔をして竹徳利を抱えて浮き上がり、ゆっくりと瞼の上にかけていった。
横向きになって眠る老猟師の右眼から左眼を乳白色の澱が伝った。右眼の腫物が瞼の中でぷちゅぷちゅと小さな音をさせている。
老猟師は夢を見ていた。春の野山で十寸と少女がふわふわと飛んでいる。子供を遊ばせて追いかける親のように、逃げる二人と「あはは」と笑い合っていた。
木の根に足を取られて老猟師は転んだ。その様子が滑稽で、三人はまた笑った。仰向けに転がった老猟師の胸に二人が降り立った。
十寸が、本来ないはずのおちんちんを出して顔に放尿した。
「おじい起きろ。おじい…おじい」
○白い澱の力
「な、なんちゅう…」
老猟師は笑いながら、はっと目覚めた。すぐ脇に笑顔の十寸が浮かんでいる。その姿が深夜のわずかな雪明りにもくっきりと見えた。
顔がべっとりと濡れている。老猟師は顔を手の平で拭い、思わず少し舐めた。
「こりゃなんや…」
糊状で、山芋に貝か何かをすりつぶしたものや色々なものが濃く混じったような味がする。老猟師は、指についたものを何度か舐めて味を確かめた。
十寸は、笑顔のままゆっくりと老猟師の右目の方に廻る。
「ほらどうや、どうや」
老猟師の塞がっていたはずの右目は薄暗闇の中で、右の死角に動く十寸をしっかりと追いかけていた。
「は!、はっ!」
老猟師は慌てて立ち上がり、水壺の水で顔や手、口を洗い流した。
十寸は、不安な顔になった。もっと喜んでもらえると思っていたからだ。
「おまえこれは…」
「泉の澱や。ソが教えてくれたんや」
「ソ。ソ、てなんや」
「あの子、名をたんね(問う)たら、ソ、て答えたんや。この澱は人も治すて」
「うっ、うっ…、そんなことができるんか!。それにしても、わしのこと二人で考えてくれたんやなぁ…」
老猟師は大きく何度も頷いた。
「おおきに、おおきに。こりゃまぁちっとしこらんと(もう少し頑張らないと)な、明日はわしがたんねる(訪ねる)としょう」
十寸は、喜んで山に帰っていった。
その姿が消えた後、老猟師は頭を抱え体を強張らせて、その場にうずくまった。
○革袋
老猟師は、翌早朝から起き出して、参道や、石段の雪を払うと、近くの里の者に山の家に残した物を取りに行くと告げて出掛けた。
山に入るとそれまでの頬かむりを解き、足を早めた。
雪を踏み踏み家に入ると、老猟師は囲炉裏端の床板を外した。そこには炭箱が置かれ、木炭がいくらか残っていた。炭を幾らか片寄せると革袋が現れた。
老猟師は革袋を取り出し、丁寧に炭の粉を払うと、懐に入れて、箱の炭も均して、床板を戻した。
○巻物
「おうい、おうい。わしじゃ」
声をかけると、「おじい…」と、二人の声が聞こえる。老猟師は少し安心して奥に進んだ。
泉の縁石の周りには、十寸が獲った兎や山鳥が転がっている。
老猟師は、右目の礼を丁寧に述べた上で、
「これを見せよう思うてな…」と、革袋を出し、帳面と古びた巻物を見せた。
二人は興味深そうに覗き込む。
「わしはたいして字が読めん。せやけど…今度のことで合点がいった。これは、『ソ』や」
そこには、「ソ 則ち祖 素 礎 也」と書かれていた。脇には、ソを描いた絵がある。
更に老猟師は、巻物を紐解き、びっしりと漢文が並んだ一部を示した。
二人は首を傾げる。
「おまえらもよう字ぃ読まんわなぁ。けど、絵を追うていくだけであらかたわかるんや」
「う、うん」
二人は息を飲んだ。
「大きい盥(たらい)こしらえて、真ん中にソがおる。ほら、魚、兎、を泉に入れとる」
「澱を柄杓で汲み出して、乾かして粉にして、薬にしとる。汲み出しすぎると、ソが弱ってまう」
「う、うわ…」
老猟師が指差すところには、干し大根のような絵があった。
「ほれ、十寸やもう一人の子ぉもあるやろ」
二人は頷く。老猟師は、一呼吸して二人を見た。
「こんな古い巻物に残ったぁる頃から、どっかで伝えられてきとったんや。これは、十寸を連れて帰ってすぐの頃に来た、旅の行者が持っとったもんや。なんか嗅ぎつけて来とったんや」
縁石のそばに寄って巻物を見ていたソが、絵を指差した。
「これ、うちは何をしてるん」
老猟師は、辛い顔になる。
「これはなぁ…、おまえに魚や兎を食べさせて…出させた澱を取り上げて、薬を作る説明や。地面に泉を作ると十寸らを作って…、『飛嚢』…、ヒノウで浮かんで逃げるということや」
ソは、少し震えた。
「欲しいんやったら、ちょっとくらいあげるのに…」
「きっとこれ書いたもんは、独り占めにして薬にして高う捌くことしか頭にないんや。野鍛冶がそやった。儲けることしか考えん。とにかく絞られるだけや」
老猟師も震えていた。
「ほんまは、わしを治してはならなんだ。旦那や嬢ちゃんにも会わせてはならなんだんや」
「おじいも旦那も楓も言わんで」
十寸は、不安な顔で確かめるように言った。
「言わん。言わんやろ。せやけど、わしらに目をつけた誰かが無理やり喋らせるちゅうこともな」
それでも二人は半信半疑な顔をしている。
「え、ええか。人てなもんは、欲に憑かれたらどないな酷いことでもするんや」
「おじいも…」と、ソが聞く。
「わしは、そないなこと…ようせん。…子ぉも孫もないわしや。なくしとうないんや」
「家族…?」
「そうや、そうやのう。家族やのう…」
二人は頷いた。
「一刻も早う、もう一人の子ぉ作るんや」
「うん…」
ソと十寸は、頷くと天蓋部を指差した。
そこには、まだ固まる前の、湯に溶いた卵白のようなものがあった
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