第4話 翡翠色の洞穴

○こぶの下

 その年の冬の始め、老猟師は、入らずの山のこぶに岩魚を供えた後、近くで獣のおかしな声を聞いた。

 こぶの下は、一昨年崖が崩れたところで、それ以来崖下は染み出した水でじゅくじゅくとしたところができている。

 覗き込むと、瓜子(猪の子、瓜坊)が、染み出した水が山中の泥砂を流し出してできた泥沼に沈みかけて哀れな声を上げていた。少し離れたところには母猪がおろおろとしている。

 老猟師は、慎重に崖を降りた。母猪は、威嚇をしながらも瓜子のそばを離れない。

 老猟師は、手近な小枝を折り、泥沼に敷きながら近づいた。ずぶずぶと老猟師の足も沈みかけた時、一杯に伸ばした老猟師の手が、なんとか瓜子の腹あたりに触れた。

「こ、ここまでか」

「おじい」

 肩にとまっていた十寸が、その場でがっくりと倒れた。

「お、おい」

 十寸を振り向いた刹那、瓜子が老猟師の手の平に手足を乗せた。

「お、おお、十寸か」

 瓜子は、手の平に這いあがると、とことこと老猟師の腕、肩、背中を渡り、母猪のもとに走った。

 老猟師の肩で、十寸がびくっと震えた。

「よう考えたな」

 十寸は小さく頷いた。

「ほいだら、出よか」

 老猟師が泥沼を這い出ようとする。母子猪は、そばを離れない。

 沼を抜け出すまで、母子は離れずにいた。


○翡翠の洞穴

 老猟師は、泥だらけの手足を洗おうと崖下の水が滲み出ている辺りの砂や石をどけた。

 それほど大きくないが奥には空洞があるようだ。溜まっていた水が流れきると、這い込めるほどの隙間になった。

「こぶの下まで続いてそうやのう」「のう」

 十寸はふわりと浮いて、先にたった。

「奥、広い。光ってる」

「光ってるて。おおっ」

 奥は土俵ほどの広さがあり、中央に泉が湧き、縁石で囲われている。背を曲げれば立てそうな高さがある。泉の中央にある小さな像と辺りの水がぼんやり光っていた。

「なんやろうのう」

 老猟師は、辺りを見渡した。泉の縁石は、落石で崩れていた。縁石があれば、水は脇の切り溝を伝って、枝分かれした穴に流れ込んでいくようになっていたようだ。老猟師は、縁石を元に戻した。少しずつ水が溜まり始める。

 縁石はよく磨かれており、水が満たされるに従って、ぼんやりと光る像の明るさを反射し、泉全体が透き通った翡翠色になった。

「なんと…、これはこれは…美しい…」

 よく見ると、空洞の壁面にも縁石と同じものが何か所かはめ込まれている。光が満たされていく。老猟師は、神秘的な光景にため息をついた。

「おじい…」

 十寸が、縁石に立って像を指差している。それは十寸にとてもよく似た三、四寸の少女で、腰から上を水面に現し、十寸を見つめていた。


〇十寸の家族

 老猟師は、何か言い表しようのない気持ちになった。

「おじい…」

 もう一度十寸の声を聞いて、その気持ちが、判じ物の答えを得たような気持ちと、間違った道を随分歩いてからその誤りに気づいたような気持ち、そして、急激に十寸が遠ざかっていくような心細い気持ちだと徐々に気付いた。

 十寸が、そっと泉の澄んだ水に足を浸ける。膝辺りまで浸かりながら、一歩二歩と近づく。三歩目に進む時、十寸は少し腰が抜けたようになった。少女も小刻みに震えた。

「ど、どないした…」

 その声にゆっくりと十寸が振り向く。十寸は驚いたような、それでいて安心したような表情で言った。

「家族や」

 老猟師は、なぜそれがこの三歩目辺りでわかったのか解せなかった。十寸に返す言葉も出ずにいると、少女が小鳥のさえずりのような美しい声で老猟師に向かって何かを喋った。それは「ちぃちぃ」と鳴いていたようだったが、徐々に声らしい「言葉」に変わっていった。

「同じ泉に浸かれば、伝わる…、わかる。…少し離れて」

 この声が聞きとれた瞬間、老猟師はびくりと後ずさりした。

「おじい、この石の中の…水に、手え…つけたらあかん。家族…の、体やから」

 今度は十寸が、びくりびくりとしながら、少女と全く同じ調子で喋った。十寸の頭には、少女の記憶や考えが一気に流れ込んでいた。十寸のそれらも少女に流れ込み、お互いが同じ程になると、二人のぎこちない話し方が落ち着き、体の強張りがほどけた。

 十寸は、更に少女に近づく。泉の底は徐々に浅くなり、お互いが手や髪に触れ撫であった。それはまるで幼い兄妹が無事を確かめ合っているようだ。十寸は少女のそばに腰かけ、とてもくつろいだ表情を見せた。

 その様子を見て、老猟師は少し安心して、その場に座り直した。

「家族のう。見つかってよかったのう」

「のう」

 少女が、小鳥の声で答えた。

「こりゃあ…、ええのう」

 老猟師は、思わず笑いだした。

「まそが覚えたことは話せる。おじい、いつも供え物、おおきに」

 少女が、両手を真上にあげると泉から蒸気のようなものでできた手のようなものが伸びて、真上の天蓋部に達した。そこがちょうど供物をささげたこぶの真下辺りだ。

 少しずつ、水滴が泉に落ち始める。すぐに水滴は粘り気のある水飴のようになり、すり身のようになり、ぼちゃりぼちゃりと泉に落ちた。落ちてきた水飴やすり身のようなものは、泉の底に沈み、引き込まれてなくなった。

「御馳走」

 少女は、少し俯き加減に手を合わせた。その仕草は十寸にとても似ていた。

「そ、それで食べたゆうことかっ」

 少女が頷く。少女は少し深呼吸するような仕草をした。繰り返し大きく息を吸うと、乳房の辺りが豊かに膨らんだ。継いで、少女の背の臍から、乳白色の液体が流れ始める。流れるに従って乳房は小さくなり、やがて元通りになった。乳白色の液体は次第に泉に広がる。

 十寸は突然、

「こりゃええ…」と言うと、慌ただしく着物を脱いで、少女に押し付け、浴びるように乳白色の液体に体をまみれさせていった。

 少女は、着物を珍しそうに見上げたりひっくり返したりし、最後には自ら羽織ってしまった。

「どないした十寸、加減悪ならんか」

 老猟師には、目の前で起こっていることがさっぱり分からなかった。

「おじい、こりゃ食べるよりようしゅむ(沁み込む)んじゃ」

 乳白色はやがて沈殿していく。十寸は、泉の底から湯の花のような乳白色をすくって体に塗りつけて見せた。

 十寸は、心地良さげに少女の腰辺りを枕に居眠りを始めた。

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