第3話 楓(ふう)の患い
○楓の患い
稲刈りを待つ頃、庄屋の娘が患い、床についた。高熱が続き、口の中に細かな斑点が出た。
「何年かおきに流行る病に相違ない」
柳生から呼んだ医者は、周りにうつさぬようこまごまと言いつけて薬を置いて帰った。里中が刈り入れの活気に包まれる中、米の評判に響くことを恐れ、楓はひっそりと離れに移され、看病の甲斐もなく日に日に衰えていった。庄屋夫婦は、おろおろと離れと母屋を行き来するばかりだった。
〇うわ言
西日が離れの庭を照らしている。瓦の影が濃く浮いている。開け放たれた一間で庄屋の妻が、手拭いを絞っては楓の額に乗せ、発疹を掻かぬよう、別の絞った手拭いを体の方々に押し当てている。
楓の口が微かに動く。
「なんや。ん」
妻は楓の口元に耳を寄せた。様子を見に来た庄屋もそれに気づいた。妻はぼろぼろと泣いている。
「ど、どないしたんや」
「ふ、楓が、熱でうわ言を…」
「な、なんや、言うてみぃ」
庄屋も枕元に崩れるように這い寄ると楓の口元に耳を寄せた。
「お…じぎ…の人形…に…着物、あげたい…」
○駆け上がり
庄屋は、山を駆け上がって、老猟師の家を尋ねた。まるで水を浴びたかのように汗をかき、膝が震えている。しかし、人の気配はなかった。
「おうい、おうい、八太ぁ」
庄屋は、家の表で何度も大声で老猟師の名を呼んだ。がさがさと裏の藪が鳴り、老猟師が現れた。
庄屋は、日暮れ後の薄暗闇に老猟師の顔を確かめると、へなへなとその場に崩れた。
「旦那、こんな時分にどないした…」
屈み込む老猟師の帯に庄屋は、しがみついた。
「あ、あの子ぉ、どこやぁ」
老猟師は、懐に手を入れようとした庄屋を簡単にねじ伏せた。
「なにをしますのや。訳を言いなはれ、訳を」
「痛、た、た、ふ、う、楓が死にそうなんやああ」
顔を上げた庄屋の目の前には、細い竹徳利を下げて浮かぶ十寸がいた。
○居待月
「まだ…火種が残っとったわい」
老猟師は藁と小枝を焚べ、囲炉裏に火を起こした。
「こ、こんなとこでぐずぐずできん。うわ言で…、一目見せてやりたい…」
「旦那、提灯もなしにどないなさる。今宵辺りは居待月、座って待ちなはれ」
「ほ、ほなら、その子ぉ連れて来てくれるかっ」
「…噂はお聞きしとるで。…旦那の大事な一人娘の一大事、承知しました」
傍らでは十寸が竹徳利を傾けて、水を飲んでいた。
○竹徳利
行灯の灯が楓の寝顔に影をさしている。しんとしている。
看病に疲れた妻は楓の布団に覆いかぶさって眠っている。縁側の柱にもたれて、奉公人の少女、お袖も寝息を立てていた。
十八夜の月に照らされて、竹徳利をぶら下げた白い逆三角錐が、木々の上から、庄屋の裏庭に現れた。
十寸は、庭をゆらゆらと漂った。
「離れ…の…あった」
お袖の前を漂い抜け、十寸は、楓の寝間に入った。お袖の後れ毛が微かに風に揺れる。
十寸は、ぼんやりとした行灯に照らされながら、ゆっくりと楓の浴衣の胸に降りた。
「ふー」と三角錐の下弁から、息を抜くと、三角錐だった浮袋は折りたたまれてゆき、背中に納まっていった。下弁から抜ける息は、楓の胸元から汗ばんだ体に穏やかな涼風を吹き込んだ。
「ん…」
楓のまぶたが微かに開いた。
自分の胸の上で、あの人形が、おもちゃの竹徳利から美味しそうに水を飲んでいる。
「お人形さん…」
楓は、ゆるゆると右手を伸ばした。
「水、欲しいか」
十寸は楓の右手に竹徳利を持たせた。
「うふふ」
楓はおもちゃのような竹徳利を指で確かめながら、水を飲んだ。
「おいしい」
楓は、「ふぅ」と息をついて体を起こした。
「もう一杯飲むか」
十寸は竹徳利を受け取ると、勢いよく浮袋を膨らませた。
「わっ」
十寸は、にこりと笑うと、
「待っとれよ」と、飛び上がった。下弁からの息が楓の頬に当たる。
「涼しい、これやったん」
十寸は少し振り向いてから、飛び去った。
十寸は、井戸を見つけ、下弁からゆっくり息を抜きながら降りていった。井戸端に置き忘れられた手拭いが、息に煽られて落ちた。
〇十寸と楓
しんとした寝間の布団に、楓が座っている。楓の母もお袖も眠っている。
楓は、十八夜の月明りが照らす庭に向かって、
「お人形さ~ん」と、呼びかけた。
その声に気づいて、お袖が目を覚ました。頭を上げると楓が、布団に起き上がっている。
「おふうさ…」と、言いながら楓の視線の方向に目をやる。その先には、井戸から手拭いを被った白い生首が浮かび上がって見えた。竹徳利からぽとぽとと滴る水滴が、血に見えた。
「ひっ」
お袖は、そのまま気を失った。
十寸がゆらりと楓の布団に戻ってきた。楓は、徳利を受取り、喉を鳴らして飲み干した。十寸が楓に背を向けて、懐辺りに息を吹き込む。
「はぁ、涼しい。気持ちええわ、お人形さん」
「俺は、まそ 言うんや。この着物…」
「うちがこしらえてん」
「おおきに」
背を向けたまま、十寸は浮袋を膨らませては、下弁から息を吹き続けていた。火照った体が鎮まっていく。
「うちも…おおきに」
熱の下がった楓の頬が染まった。
「俺にも」と、十寸は竹徳利の残りを飲み干した。
楓は、更に頬を染めた。十寸は、また浮袋を膨らませた。
「あ、も、もうようなった。おおきに」
楓は、十寸を覗き込み、顔を近づけた。
「うん」
十寸は袋を萎ませる。袋は次第に折り紙のようにたたまれて、背中に納まった。着物の背中を正して十寸は振り向いた。
「お人形やないの」
楓は、指先をゆっくり近づけて肩の辺りを撫でた。
「俺が恐ろしゅうないか」
十寸も楓の指先を手の平で撫でた。
「うん。来てくれてほんまに嬉しい」
「おじいに、いつもは人に見られんよう言われとる」
「山猟師の八太夫さんのこと。なんでなん」
「珍しい生きもんは、捕まえて見世物にされんねやて」
「せえへん…、せえへんよ。また、うちがまそちゃんに着物こしらえてあげる」
十寸は黙って頷いた。
○楓の快気
庭に慌ただしい足音と、提灯と燭台の灯が、揺れながら近づいてきた。
「ふ、楓〜」
庄屋と老猟師、そして奉公人達だった。
妻が目覚め、顔を上げた先には、布団に正座してにこにこする楓がいた。
「お楓」
母に強く抱かれながら楓は、うっとりと天井に浮かび上がった十寸を見ていた。
庄屋も寝間に上がって、楓と妻の背を撫でている。
十寸は、欄間の隙間から隣りの間に抜け、庭にいた老猟師の肩に降りた。
「おふうさまが気がつかれた」
奉公人たちの声が次々に聞こえる。
二人は、明るさを取り戻した屋敷をそっと後にした。
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