「あーちゃん、これ」

 夕食後、海散みちるが私に手渡したのは進路希望調査表だった。

 私がやわらかなソファに沈みながらそれを受け取ると、海散も右隣に座った。

 早いもので海散ももう中学三年生だ。義務教育とかいう面倒な拘束が終わり、ようやく二人きりの薔薇色の日々が始まるのだ。海散はあまりにも可愛すぎるので学校生活においてうっかり殺されてしまわないかと本当に心配だった。

 そういう兆候のあった教師や不審者はきちんと処理したが、完璧には不安を払拭できなかった。いつだって不幸は突然だから、ようやく私の天使様を手のひらて大事につつみこみ、ずっとずっと愛おしむことができると思うと、途轍もない幸福感が脊髄をずるりと伝う。

「進路かあ。海散は何か考えてることあるの?」

「うーん、あーちゃんはどう思う?」

「私? 進学はよくある選択肢だけど、別にそれにこだわらなくてもいいんじゃないかな。最近の感じだと学歴なんてどこまで意味あるかわからないし、学歴だけなら通信制もあるし。というか進学したいの?」

 明日をも知れぬ昨今の情勢からすれば、知識層になることにコストをかけてもリターンを見込みにくい。政府は大量に人間を工場生産することでなんとか社会を維持しようとしているが、何か一つで社会が崩壊しても不思議ではないのだ。

「別にそこまで。学校は飽きた。クラスメイトを全員一気にプチプチできたら楽しそうだけど、ちょっと無理めだし」

 海散はあっけからんと答える。それは私にとって喜ばしいものだった。

「それよりもあーちゃんみたいにお金を稼いでみたいな」

「デイトレーダーになりたいの?」

「そうそう、そんな感じ。大人っぽいじゃん」

「大人っぽいかどうかわからないけど……。結構面倒だよ」

「学校だって面倒だよ」

「それはまあ」

 思わず釘を刺してしまったが、話の方向としては歓迎すべきだった。もともと二人で十分遊んで暮らせるだけの資産は確保しているのだ。仮に海散がデイトレーダーとして上手くいかなくても大損しなければ問題ない。

「それじゃあ教えてあげるからちょっとやってみる?」

 そう提案すると海散は頷いてぎゅっと私を抱きしめた。私もゆっくりと海散を抱きしめて返す。やわらかな体温と共に宝石よりも眩いきらめきをもつ大きな瞳がすぐ近くにある、すぐ近くにある、すぐ近くにあって、こつんとぶつかる、互いひたいが。

 吐息の熱を唇で感じ、すう、はあ、すう、はあ、すっと流星が流れるように両目が閉じていき、私は飢えた獣のように熱源を貪る。ささやかな応答。もっと深く。甘い水音、獣の吐息、甘い体温、獣のまさぐり、甘い、甘い、私の天使様、溶けあって一つの体温になる歓喜。絶対に手放さない、と言った。

 めくるめく喜びの一夜が明けてから、私は海散に初期費用を融資し、少しずつ投資のいろはを教えはじめる。最初こそ全く上手くいかず損失がかさむばかりだったが経験を積んでいくと、私ほどではないにせよ海散もだんだんと資産を増やせるようになっていった。

 勝手気ままに数多の人間を過去形に変換している海散だが、投資に関しては意外にも堅実派で、直感で売り買いすることほとんどなく、データ重視の資産運用を好んだ。

 海散が卒業してからはそれこそ蜜月の日々で、私は海散とずっと一緒にいられて幸せだったし、時間に融通がきくようになった海散は児童でお楽しみすることができる機会が増えご機嫌だった。

 そうして海散が私に融資されたお金を全て返済し、一端いっぱしのデイトレーダーになった頃、海散はかつて彼女を引き取った時の私と同じ年齢となった。

 誕生日はモンブランが食べたいという海散のリクエストに応え、私はとっておきのお店にモンブランを買いにいった。

 社会は相変わらず危うい均衡の上は成り立っており、工場生産された人間はますます増え、相当数はキルキル病の罹患者により消費されていたが、それでも労働力として社会に浸透しつつあった。最近ではより効率的な運用のため、記憶の継承も研究されているらしい。

 いつしか経済システムが破綻し、デイトレーダーという職業自体が終焉を迎える日が来るかもしれない。が、それは今じゃない。だからどうでもいい。海散と一緒にいることが不変ならば、それ以外の全てがどうでもいい。

 量産笑顔を顔面に貼りつけた店員からモンブランを受け取り帰宅すると、パァッンと大きな破裂音が私を迎えた。

「驚いた?」

 目を丸くする私の前には悪戯めいた笑みを浮かべた海散がクラッカーを持っていた。

「そりゃビックリしたよ。どうしたの?」

「今日はお祝いだからサプライズ」

「海散の誕生日だからね」

「そっちじゃないよ」

 今日は海散の誕生日だが、もちろん私の誕生日ではない。他に特に祝うべきことも思い当たらない。海散は猫よりも気まぐれだから、きっと何か良いことを見つけたのだろう。

 モンブランを冷蔵庫に入れようとすると、海散が止める。

「もう食べようよ。紅茶淹れるからあーちゃん座ってて」

 海散がマグカップを用意しはじめるので、私はモンブランを箱から出しておとなしく座って待つことにした。なんとなくテレビをつけるとニュースが流れる。量産真面目のアナウンサーが、著しい精神的肉体的苦痛を与えることに対し殺人罪より重い刑罰が課せられることになったと刑法改正を重々しく報じるけれど、もちろんそんなことどうでもいいのでチャンネルを変えると、量産バラエティになり量産芸人が量産ネタで量産笑いを作っていた。ちっとも面白くなかった。

 ほどなくして両手にマグカップ持った海散がやってくる。

「やっぱコーヒーにしたから」

 コーヒーにはたっぷりとミルクが入っていた。どうして紅茶ではなくコーヒーにしたのかはわからないが、どちらも飲むのでこれも直前で気が変わったのだろう。

 海散は相好そうごうを崩してパクパクとモンブランを食べる。お気に召したらしい。

 それを見ながら私もモンブランに手をつける。しっかりと栗本来の味があり、けれども後に残らない品の良い甘さだ。確かにこれは良いモンブランだ。少し食べ進めたところでミルクコーヒーを飲む。

「誕生日おめでとう、海散」

 二人でモンブランを食べ終えたところで改めて祝福すると、海散は美しく笑う。

「ありがと、これで私もお姉さんだよ。あーちゃんと一緒」

「ああ。海散と暮らしはじめた私の歳と同じってことね。それは思った」

「あーちゃんはずっと私に優しかったよね。だから私もお姉さんとしてあーちゃんに優しくしたかったの」

「へえ、優しくしてくれるの。それは楽しみだな」

 私の答えに海散は口を尖らせる。そんな海散もとても可愛い。そのせいかくらりと唐突に電源を切られたような感覚に襲われる。

「でも私はあーちゃんのお姉さんなれない。だってあーちゃんの方が年上だから」

 テーブルに肘を立て両手で頭を支えるが気を抜くとそのまま意識を失ってしまいそうで、全てが終わってしまいそうで、いったい自分はどうしたのだろう。もしかしたら何かの病気なのかもしれない。海散に異変を伝えようとするが、上手く声を出せない。

 けれどもそんな私の様子を意に介さず、海散は話し続ける。

「だから小さなあーちゃんを作ることにしたの。ほら、見て」

 海散が通信端末を差し出す。持てる意思を総動員してなんとか画面へ視線をやると、液体で満たされたガラス容器の中で裸の少女が揺蕩っていた。口元には呼吸器のようなものが装着され、容器の外へ管が伸びている。

 その少女に見覚えがあった。幼い頃の私と瓜二つなのだ。いや違う。海散が言うとおりこれは私なのだ。

「結構高かったけどお金さえあればちゃんと注文したとおりに工場で作ってくれるんだよ、凄いね」

 海散が画面をスライドさせていくつかの写真をさらに見せてくれるが、それらを把握する能力が私にはもう残っていなかった。ずるずるとテーブルに突っ伏す。

「記憶を引き継ぐとかも試せるみたいだけど、ほら、あーちゃん生まれ変わらなくてもいいって前に言ってたし、それはいいかなって」

 もはや海散の表情を伺うことすらかなわない。けれどもきっと海散は普段と何も変わらず、私の天使様として可愛いいままなのだろう。

「お薬きいてもう寝ちゃった? まあだから、小さいあーちゃんにはちゃんとお姉さんとして優しくするから。だから、バイバイ」

 私の天使様が死を望む。

 だから喜んでそれを受け入れる。

 簡易殺人器の広告に嘘偽りはなく、軽い衝撃があるだけでなんの苦痛もなかった。

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キルキルミチル ささやか @sasayaka

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