第50話 夕凪の帰り道にあった事 怪異と古川祥一郎 別れと出会い

古川と夕凪は年月を経ても続いていた。

二人のの関係は夕凪いわく『神主と巫女』である『友人枠』に止まっていた。

アオも完全な悪霊とならず、自称、『古川の恋人』として振る舞っている。



別れは唐突だった。


古川は夕凪を呼び出した。何時にない深刻な口調に夕凪は急いでやって来た。

その割に、おにぎり作ってと頼まれたので、がっくりしながらも握ってやっていた。


「夕凪、アオ、僕は近々別世界へ転移される」

夕凪とアオはキョトンとした。



「僕が此処から居なくなるって話」

「えっ」

夕凪は握っていたお握りにギューっと力を入れた。

「握り過ぎ」

古川は微笑んで冷静に突っ込んだ。


「いつ?」アオが震える声で尋ねた。

「多分、2、3日中には」

「「早いよ!」」二人は悲鳴に近い声を上げた。

「これでも他の古川より、感は良い方と思うんだけど?」


夕凪はお握りを皿に置くと手を洗いに行き、ものすごい勢いで帰って来た。


その僅かな間に古川はお握りを掠め取っていた。


「どうしよう?どうすれば良いの?」

夕凪は胡座をしてお握りをほうばっている古川に詰め寄って両肩を掴んで揺さぶった。


「どうもしないよ。待つだけだ」ムグムグ食べながら応えた。

「行かない選択はないのか?」

「無いよ。代わりに古川祥一郎と言う同じ顔した奴が来る。此処に来るかはわからない。来たら相手よろしく。君より弱かったら鍛えてやって」


「そんな無責任な!私やアオに丸投げ?」

「そうなんだけど、仕方ない。記憶の引継ぎも完全じゃないから、夕凪とアオの事思い出せないかも」


「ねえ、何とか抵抗できない?力思い切り使って強力な結界張るとか、黒沼達に吸収させるとか」

夕凪は焦って色々言ってみた。

「今までも何十回も抵抗したけど無駄だった」

「お願い、今回も頑張ってみて?」


「まあ、やってみるけど期待しないで」

「でも、古川さん、この世界で最強なんでしょ?もしかしたら此処に居れるかも」

「そうなったら、夕凪に結婚を申し込むよ」

古川はお握りを食べ終わるとそばにあったおしぼりで手を拭き、にっこりして言った。

「それはもういいですよ」

「転移されなかったらずっと一緒にいられるんだよ?将来的に少しは考えてよ!」

 古川は夕凪に手を伸ばしたが、アオが夕凪を後ろに引いて回避させた。

「僕が居るんですけど」

「居たければ居れば?」

古川は惚けて言った。


夕凪の目に涙が浮かんできた。

「古川さんが意地悪で、嘘つきで、自分勝手で、強引で、捻くれてて、エッチな人だって分かった」

「うわーひどいな、ほぼその通りだ」

「でも優しい所も有るし、必ず守ってくれた」

「最低限それだけは守ったつもりだ」

「うん、最低限…?」


「いつもの事だし、仕方ない。次は人付き合い頑張ろかな。新たに来る古川祥一郎も、悪人じゃ無いと思うよ。僕より優しいかも。基本同一人物だし」

「でも、あなたじゃ無い!他人だ!」

「そうだよ!古川さんの言う事は全く信用できません」

「あら、日頃の行いが悪過ぎたね」

「それでも!今の古川さんがいいに決まってる!名前や顔は古川さんでも、お世話になったのもお世話したのも今の古川さんなんだから」

「僕が好きになったのはあなただ!」

「それはそうか」古川は夕凪の頭を撫でた。アオは古川の後ろからしがみついた。


「私も古川さんに掴まってたら一緒に転移できないかな?」

「僕もついて行きたい。取り憑いてるから行けるよね?」

「二人とも、それはできない」

「どうして?」

「転移する時、僕の身体だけ幽霊みたいに透明になって消えるから掴まっていられない。以前悪霊が僕を追って来た事もあったけど、僕の周りに起こる転移の風の渦に弾かれて消えていた。人間にも試されたことがあったけど、最後相手が僕をすり抜けてた」


「そうなんだ」「弾かれる…」

「アオはいいとして、夕凪がついて来てどうするんだ。もし行けたとしても、その世界で孤立するだけだ。残されたご家族に申し訳ないよ。

現れる場所も違うから此処にいる友達は次の世界にはいない。時間軸も変わるから、次の僕は君より年下ってこともあり得る」


「じゃあ、古川さんが行かないで。ずっと一緒にいたい」夕凪は泣き出した。

「夕凪さっき僕の事ボロカスに言ってたよね⁈」

「最後はちょっとだけ褒めてた!」

「本当にちょっとだけだ」

「私は騙されやすくてお人好しとか言った癖に!」


古川は咄嗟に口を押さえたが終いに声に出して笑った。

「それより夕凪とアオに出会えて良かった。僕の力を受け入れてくれたのは夕凪だけだ。君は嫌がるだろうが、君の力も僕は取り込んでいる。こんなに力が合う人は初めてだった。本当は離したくない。アオも悪霊だけど、僕の力と似ているし、6年も一緒に住んでたのに嫌じゃなかった。悪霊アオも僕にとってはいい奴だった」

いつもと違って段々弱々しくなった。


「僕と似ているからもしかして君達も一緒につれていけるかもって夢想したんだ。転移できても夕凪に良い事は一つもない。アオだってどうなるかわからないのに。自分勝手で馬鹿な考えだよ」

「古川さん、いつも身勝手で、でも、寂しがりだから」

「それは合ってる」アオは頷いた。

「やれやれ、二人とも…」


古川は泣きそうな気分になって、片手で自分の顔の片方を押さえた。すっかり感傷的になってしまった。もっとドライに言うつもりだったのに。


「今まで有難う。もっと転移が近付いたら知らせるけど、毎回あっという間だから夕凪は見送りが間に合わないと思う。だから時間があるうちに会っておこうと思った」

「お見送り絶対間に合わす!」


「ふふ、絶対って。もし、夕凪が間に合ったら最後に試してみたいことがある。夕凪には悪いけど、僕の我儘聞いてくれる?」

「今更です。いつも巻き込んでから言うくせに」

「そうだね、今度こそ最後だから怒らないでね」

「場合によります」

「ふふふ、楽しみ」


古川と夕凪はこれまでの事を色々話した。夕凪は笑ったり泣いたり、時には怒ったりしながら思い出話をした。

古川に関しては怖い目に遭わされた事が多かったが。


アオはそばで黙って聞いていた。また後で話すから、と遠慮したのだ。


夕凪は古川の手を取った。

「結局、あれだけご飯食べても痩せたまんまでしたね。次こそはちゃんと食べて下さい」

「気をつけるよ」

古川は逆に夕凪の手を取って引き寄せると抱きしめた。

「さよなら、夕凪。元気でね」

「古川さんも次の世界で頑張って!怪異に油断は禁物ですよ」

「うん、君こそ気をつけて。夕凪、もうお帰り」

気がつけば夕方になっていた。


アオは部屋の隅にずっといた。いつの間にか三角座りで額を膝につけて動かなかった。

「アオ、おいで」

ちゃぶ台の前に座っていた古川が呼んだ。

アオはすぐやって来て古川の前に正座した。


「今までアオを祓わなかったのは良かったのか悪かったのか、わからない。こんなに霊と一緒にいた事は無かったから、アオがこの後どうなるかも予測できない」

「じゃあ、行く前に消して!抵抗しないから」


「ごめん、最後の我儘だ。居て欲しい。最後の時まで。何とかして僕を引き留めてくれ」

「でも、僕は弾かれるんでしょ?」

「アオの繋ぐ蛇腹なら、万が一でも脱出できるかも。もしくは」

古川はにっこりした。

「僕が行く次の世界へ繋げたら、アオも一緒に行ける可能性も」

「それは、本当に可能なの?」

「多分ダメだろうね。怪異や霊は弾かれる。ホント、ダメだ!忘れて。こんないい加減な事言って、おかしいな」


アオは古川を抱きしめてそのまま覆い被さった。

「最初から祥一郎に取り憑いて、中に入っておく。一緒に連れてって!」

古川は躊躇ったが、徐ろにアオに口付けて力をアオが耐えうる最大限入れた。

「何かの足しになるかも」

「祥一郎…」

「この世界に暫く僕の影響が残るかも知れないから、夕凪の事頼みたかったけど、アオの好きにしたら良いよ」

古川はアオの背中をポンポンとあやすように叩いた。


「他の怪異達にも頼もうよ」

「いや、いいよ。下手したら消えてしまうかもしれない。それに、もう潮時なんだろう。これ以上僕の力が強くなると、僕も、この世界もおかしくなるかもしれない。違う世界に行くと力が弱まるからね」


アオは実体化を解いて古川の中に入った。

「できるだけ馴染ますから、不愉快だろうけど我慢してね」

「最後だし、気の済むまでやれよ」

アオは古川の意識を落とした。



それから2日後の夜。


夕凪の携帯に着信音が鳴った。このところ、寝る時でさえ外へ出られる服と携帯を身に着けていたので、直ぐに出ようとして着信名を見て息を呑んだ。

文字化けしていた。

構わず出た。


「夕凪…」

酷い雑音と激しく唸るような風の音がして聞き取りにくい。

「今どこ⁈」

「…鳥居の…」

切れてしまった。着歴が残っていない。


夕凪は慌てて玄関へ降りて靴を履くと飛び出した。

外でアオが待っていた。

「連れてく!」アオが叫んで夕凪の手を引いた。


背後で母親が呼ぶ声がしたが、構ってる暇はない。


蛇腹に乗せられ、道が折り畳まれると一瞬で鳥居に着き、下に人影が見えた。

近付いて確かめると、両手を横に伸ばして立っている古川だった。


「さっきより風が狭まっている!」そばでアオが蛇腹を出したが風に当たると跳ね返されて消えてしまう。

「祥一郎の中に入って取り憑いてたんだけど、弾き出されちゃった。外からも駄目か」

彼を中心として渦巻く風が包み込むように起こっていた。


「古川さん!」夕凪は叫んだ。

古川は顔を上げて夕凪を認めると、首を横に振って、口を動かした。来るな、さよならと言っている。

彼の足元には黒沼がいて徐々に大きくなっていく。

おそらく力を吸っているのだろうが、風は全く勢いが落ちない。

黒沼の中心にいるのに古川がそのまま居続けるのを見て、思い切って夕凪は飛び込んだ。


「入れた!」

「馬鹿!こっちに来るなって伝えたんだけど!」

轟々と吹く風の中、押し入って来た夕凪に、いつも冷静な古川がさすがに青い顔をして叫んだ。

夕凪は構わず古川にしがみついて怒鳴った。

「やっぱり嫌だ!絶対行かせない!!私の力も使って!後はどうなってもいいから!!」

「何言ってるんだ!!後は僕居ないんだぞ!それにアオは君を守るって約束を!くそっ!」古川の顔から汗が滴るように落ちてくる。


「古川さん、手が!!」

渦が強まってきて、古川の伸ばしている手の先から徐々に透明になっていく。

「あー、やっぱりダメか。今回は強いから、もしかしたらいけるかなと思ったけど」

「嫌だ、嫌だ、頑張って!」


おもむろに夕凪は古川の頬を両手で包むと、口付けた。

古川は驚いて顔を背けようとしたが、離そうとしないので自然とそのまま受け入れていた。

その間も古川の手は徐々に肘を超えて透明になっていく。


「夕凪、もういい」

彼は目を瞑ると、両手を伸ばすのを止めて肘で夕凪を抱きしめると逆に力を彼女に注ぎ込んだ。

夕凪は慌てて古川の肩をバンバン叩いた。


やっと離れたが、一層顔色悪く古川は額を夕凪の肩に置いた。古川の息が荒く、身体が震えていた。


急激に空っぽになるまで夕凪に力を注ぎ込んだからだ。最初からそうするつもりだった。

「夕凪やアオを連れていけない、此処に止まる事ができなかった僕をどうか忘れないで!せめて記憶のどこかに残るように願ってる」


二度と会えない、離れていく相手に未練を残すなんて本当に僕らしくない。


「何するんですか!!」

「夕凪も引き込まれる!渦の外へ出るんだ」

古川はそう言いながら、夕凪を抱えて外へ出ようとした。

「一緒に行く!」

夕凪は古川の身体が透明になっているのに気付いて悲鳴を上げたが、必死にしがみついたまま一緒に渦へ足を踏み入れた。


手を!アオの叫びに夕凪は必死で片手を伸ばした。

掴めた!!蛇腹の道が間にできた。


その途端。


夕凪だけ蛇腹に乗って中から弾き出され、アオを突き抜けてごろごろ転がった。

「嘘?何で祥一郎は抜けれないの?道は繋げたのに!」

アオは呆然として夕凪と古川を交互に見る。

夕凪は必死で起き上がって駆け寄る。


蛇腹から渦の中に手を突っ込んで古川を引っ張り出そうとした。

しかし、実体化した夕凪が幾ら掴もうとしても、古川の身体は殆ど透明になっており、夕凪の手はすり抜けてしまう。


「古川さん!古川さん!行かないで!」

夕凪は必死に叫んだ。

「祥一郎!祥一郎がいないと僕は!僕を置いて行かないで!!せめて僕を祓って!」アオが絶叫した。


古川は夕凪とアオをじっと見つめて、


いつも通りの、柔らかな笑顔を浮かべると、


消えていった。



夕凪は茫然と座り込んだ。あれだけ吹いていた風はパッタリ止み、小さくなった黒沼が地面をうろうろしていたが、そのうちいなくなってしまった。


「古川さん、戻って来て、お願い、転移の馬鹿!古川さんを返して、返して」

夕凪は泣きじゃくった。

「…本当に結婚してあげるから、だから、帰って来て」

自分でも何言ってるんだろうと思いながら、考えがぐちゃぐちゃになっていた。



「夕凪」アオが静かに呼びかけた。

「アオ、どうしよう、どうしたらいい?」

「この世界から完全に消えてしまった。僕の力でも祥一郎の行き先に追いつけなかった」

アオはため息をついた。

「嘘でしょ⁈人1人がこんな簡単に消えちゃうの?」

「目の前で見ても信じられないけどね。それで、頼みがあるんだけど」

「何?」


アオは夕凪に近付いて手を取って向かいに立たせた。

「祥一郎の力持ってるよね」

「うん?」夕凪は無意識に胸に手を当てた。


「その力を使って、僕を祓って欲しい」

夕凪はひゅっと息を呑んだ。


「祥一郎が居ないと、僕は完全に悪霊になってしまう。その前に消して」

「嘘だ!今更悪霊なんて、ならないよ!アオはいい霊だよ!古川さんにアオの事頼まれたのに!これからも一緒にいようよ!」


「祥一郎も夕凪の事頼むって言ってた。でも、僕が病院で何してたか知ってるだろう?君にも散々迷惑かけた。夕凪が考えてるより悪霊に近いんだよ、僕は」

「今は、違う」

夕凪は後ろに下がろうとしたが、身体が動かない。


気付けばアオの目が赤く光っていた。

「祥一郎が居たから、普通に僕として存在できた。彼が違う世界に行ってしまったから、次に力が強いのは僕だ。そのまま悪霊になったら、夕凪に止められないし、僕は自分が何するかわからない。そうだろう?」

夕凪は泣きすぎて返事ができない。


「今なら祥一郎の力も全部使わずに、夕凪の力に祥一郎の力をちょっと足せば簡単に僕を消せるよ」

「やだあ」必死に抵抗して夕凪は首を横に振った。


「お願いだ、やっぱり僕は祥一郎がいないと駄目なんだよ。最後に祥一郎を感じて消えたい。わかるだろ?」

「ずるい、したく、ない、アオ、」

口もあまり動かない。

「夕凪、ごめんね、君と祥一郎の邪魔ばっかりして、最後にも迷惑かける」

「そんな、事、ないよ!」


アオは夕凪の手を自分の胸の前に持ってきた。

「ヤ、メ、テ」

アオの目がさらに赤くなった。

「祓え!」


完全にアオの催眠にかかってしまった夕凪は、自分と古川の力を両手に乗せて押し出した。



その力でアオの胸が光り、そこから消えていく。

黒目に戻ったアオは満足そうに目を閉じて、さよならと片手を軽く振ると虚空に消えていった。



「イヤー!アオ!」

夕凪は崩れ落ちた。

「どうしてみんな消えちゃうの?何で私は置いてかれるの?一緒に居たかったのに!!」



暫くして、夕凪を呼ぶ声がしたが、まだしゃがみ込んだまま泣いていた。

「ゆうちゃん、こんなとこで何してるの⁈勝手に出ていって、心配したんだからっ」


「お母さん…」

「どうしちゃったの?ほら立って」

「お母さん、古川さんが行っちゃった」

「えー?」

「いなくなっちゃった」


「誰?古川さんて」

夕凪は立ち上がった。

「祥一郎さんだよ、ご飯食べに来てたでしょ?神影の神主さんだよ」


「だあれ?神影の神主さん?家に?あのお爺さんが?」

夕凪は新たな涙が溢れて来た。

「お母さん、古川さんの事覚えてないの?」


「御免なさい、わからない。さあ、家に帰りましょう?」


「そんな、そんな、酷いよ」夕凪は携帯を確認したが、やはり着信履歴もなく、登録さえ消えていた。


それどころか。

「嫌だ、古川さん、あれ?」涙は止まり、心が軽くなっていく。

『え、私まで忘れちゃうの?嫌だ絶対忘れない!古川さんの事、私だけでも覚えとかないと、次の古川さんに伝えられない!』

夕凪はギュッと握った手を胸の上に置いた。


すると、ほんのり胸が暖かくなった。

「古川さんの力だ。まだ残ってる…」心が落ち着いていく。

「大丈夫、忘れない、覚えてる」


ほっとした夕凪は促されて渋々母親と連れ立って歩き出した。

最後に消えたアオに、転生できるように祈った。

古川のいる世界に行けますように、と。




次の古川は現れなかった。

黒沼や他の怪異も現れなくなったので、夕凪の力は使われず古川の力もずっとあり続けた。

古川から渡されたこれまでの報酬は、夕凪とアオの為に使って欲しいと言われたが、稲荷神社を通じて全て慈善団体に寄付してもらった。


神社の鳥居へは通りかかる度に寄ったが別に何も起こらない。何度か上まで上がったが、神殿も当たり前のようにしん、と立っている。


ある時夕凪は鳥居を恨めし気に仰ぎ見て

「古川さんどうしてるかな?ちょっとでも次の世界を覗けたら良いのに」

と呟いた。



その日の晩だった。



寝ようとして部屋に入った夕凪は違和感を感じた。

もしかして、怪異?と部屋を見回したが何も無い。


コン。

音がした。窓からだ。

夕凪は躊躇ったが大概の怪異は退けられる自信はあったので、思い切って窓を開けた。


前に思いもかけないものが現れた。

すぐ目の前に古ぼけた木の家の壁が有り、丁度夕凪の窓の前に、木の枠ですりガラスの窓があった。

夕凪の家と木の家との間が殆ど無い。その家の下の方は暗くて見えない。


前は公園のはずだ。


窓は引き戸で鍵のようなものはなかった。向こうも明かりが付いていて、向こうの窓は緑色のカーテンが下がっていて中は見えない。

怪異でも霊でもない、この現象は夕凪を戸惑わせた。


隣の窓は手を伸ばせば充分届く距離だ。

別に嫌な感じはしない。心臓はバクバク言ってるが。


誘惑に負けた夕凪は震える手で窓に手をかけた。


横枠の隙間に爪をかけてそっと横に引いた。


窓は軋んで嫌な音がしたが開いていく。

今度は迷わずカーテンを端の方へ引いて覗き込んだ。


「うわっっ!」

「キャッッ!」


中に男性がいて尻餅をついていた。窓の下に低い机が有り、彼の前にノートパソコンが開いてあった。

男の方は口をあんぐり開けて夕凪を凝視していた。


夕凪は上半身を窓へ突っ込むと、目をうるうるさせて叫んだ。


「古川さん!」

ほっそりした顔、薄茶色の髪と目…男は古川そっくりその者だった。

しかし、夕凪を見る目は驚愕に満ちていた。

「え、あんた誰?なんでぇ僕の名前?」体勢がそのまま固まっている。

その声も口調は違うが古川と一緒だ。

「やっぱり古川さんなんだ!!でも、私の事わからないの?古川祥一郎さんだよね?如月夕凪だよ」


男はブンブンと頭を振った。

「君の事は知らんよ!いや、僕は確かに古川祥一郎やけど。それより、僕んとこ(僕の家)の窓ん外はギチギチ他所の家の壁やったはず、どっからどうしてそこにいるん⁈」


夕凪はそれには答えず、あからさまにガッカリした。

「あー、なーんだ、古川さんじゃ無いのか。この世界じゃないんだ」

「何言っとるんや、僕は古川祥一郎でいとる!」

「はいはい、わかってます。残念ながら私の知ってる古川さんとは違うんです」


雑な扱いになったが、古川は動揺している。

「何や、同姓同名の人か?ビックリさすなや」

「違う!古川祥一郎は古川祥一郎一人なの!え、いやそうじゃなくて、そうだけど…取り敢えずいっぱい世界があってそれぞれに個々の古川さんが存在してですね、あれ?」


「よう分からんわ。そんで何で窓からやねん」

「家の窓を開けたらあなたの家があって、目の前に窓があったから開けてみたくなった」

「何でやねん、ようやるなぁ、ちっとは警戒しーや」


「私の世界に居た古川さんに会いたかったから!あの古川さんだから、ビックリさせようとして、こんな変な仕掛けをしたかもとか考えたら、いつもは警戒するんだけど居ても立っても居られなくて、つい」

「ええー?ビックリさせ過ぎやろ!どんな人やねん」


夕凪は涙をポロポロこぼした。

「本当に他の世界の古川さん、名前も顔も声も体型も全く同じなんだね、あー懐かしい。わたし、古川さんの世界と違うけど他の世界も行けたんだ!古川さんの力が残ってるから?それとも神影さんが願いを聞いてくれたのかな?正に奇跡だよう!」


「いや、何のことかさっぱりわからへんのやが」

「そのイントネーション、大阪弁?」

「うん、そや、ここ大阪。そっちは違うん?」

「わあー大阪弁を話す古川さん、新鮮で素敵です!性格良さそうだし、それもいい!こっちは東京でーす、端っこの田舎だけど」


「はあー、こんな漫画みたいな事ホンマにあんねんな。めちゃビビってもうたやん。戻れなくなったらどうすんねん。僕はあんたの思うてる人違うんやろ?早よ帰りーや、危ないで」


「まあまあ、せっかくだから少し話したい。これで最後かもしれないし。今それで何してたの?」

彼は目を逸らすと少しもじもじして小さな声で言った。

「小説入力してた」

「小説?」

「そうや。大した事ない話やけど。趣味やねん」

夕凪は涙を拭いて目を輝かせた。

「私も書いてるよ!続かないけど。原稿用紙10枚が最高」

「それ読書感想文かレポート?」

「この古川さんも辛辣だ、つらい」

「あ、ごめん、冗談のつもりやったけど。つい突っ込んでもうた」

「大阪人の性ですね、わかります。さすが完璧な大阪人ですね」

「完璧な大阪人はどこもいないと思うんやが、東京の人から見たらそうなるのかな」


「ちなみに霊や怪異は見えたりは?」

「霊感か?そんなん無い」

「へー、古川さんみんながそうじゃ無いんだ」

「ええ?みんな?古川って何人おんねん。あんたの知っとる古川はそうなんか?」

「はい、退魔師です。かなり強力な」「ふーん」


「?あなたも転移されて来たんですよね?」

「何やそれ?」

「26歳ルールは?」

「いや、知らん。何の事?」

「そっか、関係なかった。結婚するなら26歳以降って言ってたんですけど」

「へえ、結婚する予定やったん?」

「単に本人が決めてただけみたい」

夕凪は咄嗟に本人が知らないなら、それは伏せておいた方がいいと判断して適当に嘘をついた。

古川の影響で嘘も上手くなった?そう思いたくはない。


『でも、古川さんと同一人物にしか見えない。

記憶無い古川さんもいるの?だとしたら古川さんも新しい世界に行って、ここの事全部忘れちゃってるの?嫌だそんなの』


「その、別の古川祥一郎って人は知らんし、僕は生まれてからずっとここやで?自分が別の世界にもいっぱいおるとか、なんやパラレルワールドかいな」

「そうそれ!古川さんは勝手に転移されて、違う世界に行ってその世界の古川祥一郎になるんだって!それを繰り返してるって言ってた」

「うーん、信じられんけど、君の状況見たら否定できへんな。僕自身は違うと思うけど」

「それなら良かったです。同じ世界で年を取っていくのが古川さんの悲願でしたから」


「そうか、辛いだろうな。その古川も君も」

夕凪の胸はキュッと締め付けられるような感じがした。

そして、もう一つの感覚がし始めた。これ以上干渉してはいけないと。


「私、もう戻らなくちゃいけないかも」

「君は二つの世界を行き来できる特殊な人やね。そやけど他に何が起こるんかわからんで?帰った方がええよ」

「そうですね、名残惜しいけど、そんな気がしてきました。帰ります。さようなら古川さん!会えて嬉しかったです」

「ほな良かったな。なんかよう分からんかったけど。さいなら」


夕凪は窓から手を離した。途端に窓も家も消えて自分の部屋の中に戻っていた。


「また、行けたらいいな」浮き浮きして布団に入った。

でも、何だろう?何か抜けてしまったような気がする。

違う世界に古川さんがいるなら、古川さんもどこかに存在している筈だ。


私と一緒の世界にいた古川さんの世界に行きたい。

そう思って古川の力を探った。


「力が無くなっている」

必死に探ったが感知できない。


「小説家(と名付けた)の古川さんの世界に繋がるのに使ってしまったんだ」

どの古川さんでも良いなんて思ってなかったのに!


しかし、入れられた古川の力が無くなると、必然性があるのか、退魔師の古川の記憶は徐々に消えていってしまった。


その代わり、小説家の古川祥一郎との交流はこれっきりだと思っていたのに、不規則ながら続いていくのだった。



それはもう一つの物語へ密かに繋がっていく。


夕凪の帰り道 怪異と古川祥一郎




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夕凪の帰り道 怪異と古川祥一郎 Koyura @koyura-mukana

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