救済よ

灰色の空がいまにも泣き出しそうなある日、杏奈と飛翠は再び標的になりそうな男性を探していた。その日はなかなか杏奈の誘いに乗ってくる男に当たらず、十人程声を掛けてやっといつものように金を脅し取った。


帰宅すると、飛翠が疲れたような声を出して居間に座り込んだ。二人がおこなっている美人局は五人当たって一人が引っかかればまだいい方だった。時には今日のように十人以上声を掛けることも少なくない。それもそのはず、突然見知らぬ少女から援助交際を持ち掛けられて、警戒しない方がおかしいというものだった。


「今日はマジ疲れた」

言いながら、飛翠はコーラのペットボトルの蓋を開けて飲んだ。杏奈も居間とつづいている台所に入り、冷蔵庫に冷やしてあったサイダーを口にした。

「もっと楽におっさん騙せないもんかね」

コーラを半分飲み干し、スマートフォンをいじりながら飛翠が愚痴を垂れた。

「あんなの、簡単に成功しないでしょ。飛翠にいは最後の最後しか出て来ないんだからまだいいじゃん。あたしは何人も声掛けなきゃいけないんだから」

サイダーをしまいながら杏奈は言った。それを受けて、飛翠は杏奈を振り返った。

「お前、整形とかしてみたら?美人になれば引っかかる奴も増えんじゃね?」

飛翠の言葉に杏奈は両目をつり上げた。冷蔵庫の扉を粗雑に閉め、テーブルに置いておいた自分の上着を乱暴に掴んだ。

「ざけんじゃないよ」

上着を投げつけてやりたい衝動を抑えながらそう言い捨て、杏奈は居間を出た。足音を立てて自室に向かいながら、両瞳の隅に涙がにじむのを感じていた。



数日後、杏奈は夏葉と飲食店で食事をし、二時間程会話を楽しんだ。杏奈がずっと気になっていた東南アジア料理の店で、杏奈はカオマンガイを注文し、夏葉はナシゴレンと、デザートは二人ともマンゴープリンを食べた。


その日は食事だけで解散となったので、店の最寄駅まで二人で行った。それぞれ反対方面の電車に乗るので改札に入った所で別れようとした時、「杏奈?」という声が背後から聞こえてきた。

振り返るとそこには慶一が立っていた。杏奈を一瞥し、そしてすぐに隣の夏葉を興味深そうに観察した。


杏奈は苦虫を嚙み潰したような感覚になった。こんな所で慶一に会うとは想定外だった。夏葉の存在が兄達に知られないようにわざわざ家から離れた場所で会っていたというのに。

夏葉が慶一を不思議そうに見ていると、慶一は爽やかな笑顔を浮かべ夏葉に話し掛けた。

「こんにちは。君、杏奈の友達かい?」

「あ、はい、そうです」

緊張した面持ちで夏葉が答えると、慶一はにっこりと笑った。

「初めまして、僕は杏奈の兄の慶一です。杏奈にこんなかわいらしい友達が居るなんて知らなかった」

慶一がそう言うと夏葉は照れたように笑った。

「初めまして、大河内夏葉です」

「夏葉ちゃんか。杏奈、友達が多くないから、君さえ良ければ今後も仲良くしてやってくれないか」

「はい、もちろんです!」

少し言葉を交わした頃には夏葉の顔からすっかり警戒心が消えていて、そこには慶一への好意さえうかがえた。良くない展開だった。さっきから慶一が見せている愛想は完全に作りものだった。

「慶一にい、先に帰ってて」

とにかく二人を引き離したくて、杏奈はそう声を掛けた。それに応じた慶一はホームに続く階段に降りる前、「じゃあまた、夏葉ちゃん」とまた爽やかな笑顔を浮かべて去って行った。夏葉はしばらくそれを目で追っていた。


「素敵なお兄さんがいるんだね」

彼女は笑顔で言ったが、杏奈の表情は浮かなかった。

「外面が良いだけなの。中身は最悪な奴なんだよ」

しかし夏葉は杏奈の言葉を本気で受け止めなかった。

「えー、兄妹だからきっとそう思うんだよ。優しそうな人だったじゃん」

彼女は完全に慶一の演技にほだされていた。

「・・・夏葉、仮に、今後慶一にいと会うことがあっても、深く関わらない方がいいよ」

杏奈は深刻な顔でそう忠告したが、「またそんなこと言って」と夏葉は取り合わなかった。それを見た杏奈の胸中はずっと晴れず、最後まで険しい顔をしたまま夏葉と別れることとなった。



それから一週間程経った頃、杏奈は非番だった為、電車で数駅離れた飲み屋街に行き昼から酒を飲んでいた。屋根があるだけで屋外との仕切りが無い席でハイボールを飲み、つまみを食べ、煙草を吸っていた。

いくらか酒を飲み腹を満たすと、他にやりたかったことも無かった杏奈は家に帰ることにした。

電車を降りて数分歩きアパートに着くと、上の階から誰かが降りて来るのが見えた。

驚いたことにそれは夏葉だった。どうしてここに夏葉が?そう疑問に思ったが、すぐに彼女が泣き顔なのと、衣服が若干乱れているのが目についた。

「夏葉・・・!?どうしたの・・・!??」

夏葉の腕を掴み声を掛けた杏奈だったが、顔を歪めたまま杏奈を見た夏葉は質問に答えず、すぐに杏奈の手を振り払った。そのことに杏奈は茫然とした。そして夏葉は一言も発しないまま杏奈から逃げるように階段を駆け下り、アパートの外へと走って行ってしまった。


嫌な予感がした。すぐに杏奈は階段を上がり、自分の家へと入った。居間へと向かうと、そこには慶一が居た。ズボンのベルトをカチャカチャと締め直しているところだった。

「・・・いま、夏葉が出てきたけど、・・・どういうこと」

震える声で杏奈が尋ねると、慶一は「ああ」と返事をした。

「さっき彼女と食事をして、うちに連れてきたところだよ」

「何で連絡先知ってるの」

「お前の携帯で見た」

文句を言おうかと思ったが、今重要なのはそのことではなかった。

「・・・それで、どうしてあの子泣きながら出て来たの」

聞きながらも、多少の予想はついていた。しかし認めたくなくて、質問した。

「ああ、彼女の「具合」を確かめてたんだよ。男が悦びそうな体かどうか。なかなか悪くなかったな。見た目も良いから、客を取らせようと思って」

頭を何かで殴られたかのようだった。慶一が少女に売春をさせていたことは前からあったが、夏葉がその餌食にされたことがショックだった。

「・・・そんな、あの子がそんな事に従うわけないじゃん」

「うん、だから彼女の裸体の写真を何枚か撮っておいた。拒否したら通ってる大学にばらまくって言ったから、従うんじゃないのかな」

最後の方は、ほとんど耳に入って来なかった。悪魔のような兄だと思った。妹の友人を食い物にし、悪びれもせずそのいきさつを話している。うちひしがれた杏奈はその場でふらりとよろめいた。


慶一は杏奈に背を向け、スマートフォンを操作し始めた。それを横目に杏奈はふらふらと台所に向かった。そして目的の物を手に取ると、再び兄の背後に立った。

迷いは無かった。一度、体の奥底から吐き出したような叫び声を上げると、杏奈は手にしていた包丁を兄に振り下ろした。

二度、三度と背中に包丁を突き立てた。兄の悲鳴と共に血が迸った。そのまま慶一は仰向けに倒れ込んだ。

息を切らす杏奈に対して、慶一は虚ろな視線を漂わせていた。「あ・・・、あ・・・、」と声を発した後、視線は杏奈を捉えた。

「どうして・・・だよ・・・、こうでもしないと、俺達は生きていけなかっただろう・・・?今更・・・、真っ当に生きられるなんて、おも・・・」

最後まで言うのを待たず、杏奈は再び包丁を兄の腹に突き立てた。両手で持っていたそれを抜くと、杏奈は顔をぐしゃぐしゃにしながら家を飛び出した。

なんで、なんで、何でこうなった?何がいけなかった?

ひたすら走りながら杏奈は頭の中で叫んだ。どうしてこうなった?誰が悪かった?

最初に家族を捨てた父親が悪かった?それともあたしたちを見放した母親が悪かった?悪事で生きていこうとした兄達が悪かった?

考えれど考えれど思考はめちゃくちゃで、何の答えも出てきてはくれなかった。


走り続けた杏奈は一軒のダーツバーに辿り着いた。そこは飛翠が近頃よく入り浸っている場所だった。

勢いもよく中に入った杏奈はすぐに飛翠の居るテーブルを見つけた。迷うことなく彼目がけて突進していく。杏奈に気付いた飛翠は彼女の異様な気配に目を丸くした。飛翠の前まで躍り出ると、杏奈は不良さながらの叫び声を上げ、持っていた包丁を飛翠に突き刺した。その後も怒声を発したまま何度も刺し続ける。周囲は騒然となり悲鳴を上げる者もいたが、それすらもほとんど杏奈の意識には入って来なかった。


兄が絶命すると、杏奈は店の外へと駆け出した。涙で顔中を濡らしながら走り続ける。十分程走ると、人気ひとけの無い線路沿いへと行き着いた。そこで杏奈は包丁を投げ捨て、脱力したように地面に座り込んだ。


これは今まで散々他人を陥れてきたことへの罰なんだろうか。そんなことをしておきながら、人並みの幸せを求めた末路だったんだろうか。けれど、あたしはこうして生きてくるしかなかった。他の生き方なんて分からなかった。親達に見放された結果やむを得ず歩んできた人生なのだから、罰を与えるならその分救済だって用意して欲しかった。


涙が止まらないまま、上着のポケットに手を入れる。その中から十字架のネックレスを掴み出すと、嗚咽を漏らしながら銀色に揺れるクロスを見た。杏奈はきっ、と顔を強張らせると、右手に持った十字架を思いっきり投げ捨てた。それはフェンスを越えて線路の上へと落ち、それでもなお十字は何度も揺れ、淀みなく輝いていた。


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罰を与えるなら救済を 深茜 了 @ryo_naoi

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