第6話

雲や木陰や建物の中といった、陽の光の当たらない場所をありがたいと思えば思うだけ、この夏は終わらないような気がする。気がする、というか、夏の悪い側面はしばらくの間は終わってくれないんだろうなと思う。外に出ようとして、部屋の窓から差し込む光の眩しさに気が沈んでしまうような日々は、もう少しだけ続きそうだ。こんな暑さの中にいると、たった数ヶ月前までは寒さに震える日々があったことを思い出せなくなる。冬の空気って、どんなものだったっけ。冷たくて鋭利な風が無遠慮に体を打つ季節だ、と思ってみても、それを上手にイメージできない。きっと冬に夏を思い出そうとしても、同じことを思うんだろう。くだらないことを考えている間に外に出る準備が整ったので、物思いを中断させる。


外に出て少し歩いてから、家の鍵をちゃんと閉めてきただろうか、と不安に思うことがたまにある。引き返すのも面倒だし、ちゃんと閉めたような気もするから、まぁ大丈夫だろうと思って歩くものの、歩くごとに背中にのしかかる不安は大きくなって、結局は確認しに戻る。予想通り鍵はちゃんと閉まっていて、じゃあこの無駄な時間はなんだったんだと落ち込んでしまう。毎日やっていることほど意識の外に置かれていくものだから、いざやったかどうか不安になると、自信がなくなっていくということなんだろう。それにしてもこの、鍵を閉めたかどうかを疑問に思う気持ちは、昔からずっとあるような気がする。心配性なんだろうな、きっと。仕切り直すように、また歩き出す。

当たり前に歩く道にも、改札を通ることにも、電車に乗り込むことにも、もう慣れきってしまっている。半分寝ていてもできるであろう動作が増えていくことは、きっと時間の経過を示している。俺が俺として、この行為をし続けてきた時間の経過を。それは俺が生きた証であり、変わっていない側面なんだろうな。

人間の本質は、一人で知らない場所にいるときに滲み出るものであるような気がする。それに焦りを覚えるのなら、きっと手の届く範囲の幸せを愛して、予想通りに物事が進むことに安堵するタイプの人間だということなんだろう。逆に言えば、そういう人はアウェーに弱いのかもしれない。俺はきっとそういうタイプなんだろうなと思いながら、見知った駅で降りて、見知った道を歩く。どこを歩いても、そこが自分の場所だとは思えなくて、一人で歩くときはいつも浮遊感みたいなものがある。浮かされる感じと言えばいいのか、浮いている感じと言えばいいのか、そのどちらとも感じられる、心地よくはない感覚。地面に足が着くうちにという思いで必死に足を前に進め続けるうちに、やっと落ち着けるどこかにたどり着く。何も考えてはいなかったけれど、初めての頃も多分そうやって、俺はここに来たんだろうと思う。春は気にも留めなかったが、木々の緑と池の青さに彩られたこの場所は、舗装されたアスファルトの上よりはいくらか涼しげだ。

「おはよう」

声をかけると、千早はぱっとこちらを向いて、笑顔で同じ言葉を返してくれた。

「こんな早い時間にありがとう」

「お礼を言われるほどは早くないよ」

時刻は朝10時前。この時間に呼ばれた意味は、なんとなくわかっている。初めて会った日は、確かこのくらいの時間だった。もっと寒かったし、俺も千早も長袖を着ていたという違いはあるけれど。

今日の千早の格好は、オーバーサイズ気味のTシャツに淡い色のデニム。人のことは言えないが、千早にしてはラフな格好だ。まぁ、ここから動くことはないだろうし、そんなものなのかもしれない。

「今日も暑いね。最高気温、また35℃とからしいよ」

「いつまで続くんだろうね、この暑さ。9月に入っても暑いんだろうなー」

まだ夏だ、と言わんばかりに蝉はやかましく鳴くし、これから紅葉を迎えようとしているようには見えないほど、辺りの木々は青々としている。この夏、何回このフレーズが頭に浮かぶんだろうというほど、夏の象徴みたいな景色と音色と温度が、一気に襲ってくる。

「終わらなければいいのにね、夏休み」

「まぁ、合理的ではないよね。夏休みに入ったばかりのときより、明けてしばらくのほうが暑いわけだし」

時期をずらすとか、少しは考えて欲しいものだ。熱中症で倒れたりする生徒を出してしまったら、夏の期間に休ませた意味がないわけだし。

「あぁ、そういうのじゃなくて、なんかこう…ずっと続けばいいのになって。この時間も、この季節も、思い出も」

「…うーん、たしかに、続いてくれたらいいのにねぇ」

今までの人生、別に夏休みがつまらないわけじゃなかった。だけどそれ以上に、今年の夏は楽しかった。ずっと続くなら、ほかに望むことはないというくらい。千早にとってはそこまで大袈裟なものじゃないかもしれないけれど、俺にとっては本当にそれくらい、印象的な体験だった。

「来年の夏はどうしたって、今年と同じようにはできないもんね」

俺にとってそうかはわからないが、千早にとっては間違いなくそうだろうと思う。きっとちゃんとした高校を目指すんだろうし、倍率も高いんだろう。

俺は、この先の人生をどうするつもりなんだろう。まだどこの高校に行きたいかも決めていないし、そもそも高校に行きたいと強く思っているわけではない。皆がそうするからそうしようと思っているだけで、強い関心なんかがあるわけじゃない。行けそうな高校を選んで、なんとなく勉強をしていくんだろうな。本当にそれでいいんだろうか、と思わないわけじゃないが、それ以外に選択肢はないように思う。今のところ、俺が人生をかけてやらなければならないことなんて、何もないような気がするから。無難に生きて、無難に終わる。それが一番正しい道だと信じ込む努力をしている。


本当は、きっと何かをやりたいんだと思う。誰かの助けになれたり、自分自身を救える何かを。だけどそんな壮大な計画を思いつくほど、よくできた頭をしていないだけ。

これでいいんだろうか、を続けた先は、これでよかった、に繋がっているだろうか。その自信がない人生を送り続けることは、終わらないトンネルを進み続けるようなものなんじゃないだろうか。いつまで経っても拭えない不安が、まだ感情の主成分になり続けている。

「今年の夏、何が一番楽しかった?」

俺とは対照的に、千早は楽しそうにそう聞いてくる。

「あー…難しいな、海も楽しかったし、花火も楽しかったし」

浮かんでくるのは花火や海といった景色そのものよりも、そんな景色を眺めて笑う千早の笑顔だった。今までのどんな経験よりも鮮明に思い出せるそれは、だからこそ簡単に色褪せていってしまうものなんだろうと思う。数年後、今年の夏を振り返ったとき、俺はまだちゃんと千早の顔を覚えているだろうか。それくらい、関わり続けていられるんだろうか。

「一番なんて、決められなくてもいいんじゃないかな」

一番なんて決めてしまうのは、関わりが断たれるときでいい。そんな願いを込めてそう言うと、千早は頷いて笑った。きっと、千早にとっても甲乙つけがたいものだったんだろう。

「いい夏だったよね、本当に」

思い出に浸るには、まだ少し早すぎる気もするけれど。それも頷けるくらい、今年の夏は楽しかった。今後の人生が全部嫌になってしまっても、きっとこの思い出だけで乗り越えられるんじゃないかというくらい。

「いい夏だった。本当に」

ぬるい風が吹き抜ける。水面がわずかに揺れて、小さな波が駆け抜けるように壁にぶつかって消える。そんな景色を眺めている間、ふたりともこの夏を思い返すように、黙ったままでいる。

この夏休みが終われば、俺たちはいつも通り、放課後のわずかな時間をこの場所で過ごすことに充てたり充てなかったりして、日々の微かな感慨を話せたり話せなかったりする日があって、またいつの間にか季節が変わっていたりするんだろうと思う。もしかしたら、なんとなくで過ごす日々に戻ってしまうのかもしれない。


ここは当たり前に、当たり前じゃない場所だ。


そんな、春の間は受け入れられていたことが、だんだんと受け入れ難いことに変わっていく。この時間には終わりがあって、だからこそ大事にしなければならないのだという簡単なことが、どんどん難しくなっていく。俺はあと何度ここに来られるんだろうと考える度に、ここに来ることを重荷に感じたりもする。たとえば、この夏を何度でも繰り返せる魔法があるのなら、俺は縋ってみたりするんだろう。何度か繰り返して飽きてきたとしても、その先を生きることを望んだりはしないんだろう。まだ経験したことがない幸せを信じるよりも、想像通りにしかならないぶん確実に存在する幸せに浸っていたいと願う気持ちがある。俺はずっと、ないものをねだっている。

「聞いてた?今の話」

そんな物思いを遮るように、千早は覗き込むようにして視界に入ってくる。

「あぁ、ごめん。何の話だった?」

「もういいよ、別に。そんな大事な話じゃないし」

元の位置に戻っていく千早からは、目に見えて不満が漏れ出していた。もういいよ、と言われてしまったことに踏み込もうとも思えなくて、気まずい沈黙が流れていく。

「席替えとかやるのかな、新学期」

「あー、やるんじゃない?多分。去年はやったよね」

別に興味もないけど。誰が隣にいようが、話しかけたりするわけじゃないし。

「興味ないって顔してる」

見透かしたように言われてしまうと、否定した方がいいような気がしてしまうのはなぜなんだろう。本心なんだから否定したってしょうがないのに、どうしても肯定するのを避けたくなってしまう。

「千早が隣だったら、興味が湧かなくもないかもね」

触れづらいことを言ってその場を凌ごうとするくせも、自己嫌悪の種だ。否定も肯定もしないスタンスは誰かと衝突したくない気持ちの表れなんかじゃないのに、どうしてかそれを正しいと思っている。

「あはは、確かに。宮城が隣だったら嬉しいかも」

実際、千早が隣だったら、俺はどう思うんだろう。特に変わらないような気もするし、少しは何かが変わるような予感もある。学校で一言も発さない日がなくなるだろうな、とは思うけれど、それ以上何かが変わるんだろうか。

「近付いてくるとどうしても学校の話をしちゃうね」

「そうだね。まだ5日間残ってるのに」

「この5日間をどう楽しむかの方が、私達にとって重要な議題だよね」

議題、というには大袈裟だと思うが、千早は特に疑問に思っているわけでもなさそうだし、まぁいいか。

「私としては、もう少し集合時間を早めて、お昼を一緒に食べたりする日があってもいいと思います。宮城くんはどうですか?」

「いいと思います、とても」

議題、と言った通り、学年集会か何かを想定しているであろう口調に合わせて返事をする。千早には少しだけ、こういう子供っぽい一面がある。

「宮城くんからも提案があればお願いします」

「え、俺も?」

意見を求められるとは思っていなかったので、素に戻ってしまう。それでもお構いなしに「はい。お願いします」と意見を求められるので、必死に絞り出す。

「あ〜…服がないので、選んでもらえたら嬉しいな、と思います」

結果的に、俺の中で重要ではない用事しか浮かばなかったので、とりあえず口にしてみる。こういうときの発想の貧困さは何に由来しているんだろう、もしかしたらこれが俺らしさなのかもしれない。そう思うだけで、自分が世界で一番惨めなんじゃないかと思う所まで行ってしまうあたりは、想像力だけは豊かなのになぁと思う。

「いいよ、選んであげる」

それでも千早が嬉しそうに笑ってくれたので、まぁいいか、と思うことにする。正直、着るものなんかにさして興味はないが、とはいえ納得していない服しかないというのも、それはそれで気になるところではある。納得できていないから迷ってしまうわけだし、これはちゃんとしたときに着る服だ、と胸を張って言える服が一着あるだけでも、俺が外出を憂鬱に思う時間は減るような気がする。

「もう夏も終わりだし、秋服だね。だんだん寒さ対策もしなきゃいけなくなってくるし」

「あぁそうか、3ヶ月後くらいにはもう寒さに震えてるんだ」

「そう考えるとあっという間だよね。信じられないよ」

朝考えていたことと全く同じ話題だ。季節は瞬く間に過ぎ去っていくもので、季節が過ぎ去っていくということは、それだけの時間が経つということだ。あまりにも迅速に、いろんなものが移り変わっていく。成長とか、退化とか、得たものとか、失うものとか、関係性だとか、いろんなものが。そんな世界を生きているんだから、時間が止まって欲しいと思う瞬間はあって当たり前なんだろうな。

「でもさ、秋は秋で楽しいし、冬は冬で楽しいよね」

千早は明るく言うが、俺はあまりそう捉えていない。正直、季節行事が好きなだけで、季節自体に感慨なんてない。特に冬は一人で楽しめるような用事もないし、外は寒そうだなぁと思いながら暖房の効いた部屋にいることが一番の幸せだと思う。

「いいね、一年中楽しそうで」

言ってしまってから、皮肉みたいな物言いになってしまったなと思う。いつもこうだ、と思えば思うだけ、いつも通りなんだから治るはずがないとも思ってしまう。俺にある自分らしさの負の部分を、ずっと気にかけている。

「楽しくもないのに生きていられないよ」

「でも、楽しくない日もあるわけじゃん」

「だから、そんな日が来ないように楽しみを探してるの」

千早は遠い目をしてそう言う。少し考えてみても、やっぱりそれは俺にはできそうにない。目の前の楽しみに食いついて、目先の欲求ばかりを満たして、供給がなくなるごとを不安がったりして、依存するように新しい楽しみを探したりするんだろうと思う。俺にとって、幸せとは薬物のようなものなのかもしれない。

まぁ、それはそうなんだと思う。俺にとって幸せな状態とは、いわば陸に引き上げられているときのようなものだから。その状態がいつまで続いてくれるのかを気にかけてしまうだろうし、幸せじゃない状態のときに染み付いた不幸せなしぐさは、簡単に抜けてくれるものじゃないだろうから。幸せじゃなかったときのことを思い返して、幸せな瞬間に感謝すればするだけ、そこは自分なんかの居場所じゃないような気がしてきてしまう。

「ずっと楽しいと思えたら、とても幸せなんだろうね」

そう返すのが精一杯だ。これ以上は後ろ向きな言葉しか出てこないだろうし、きっとこれくらいがちょうどいい。

「楽しいって思ってたら楽しいよ。どんな環境でも、どんな境遇でもね」

時折、千早は変に大人に見える。何かを諦めてしまったような、それでもそれを受け入れて、前に進もうとしているような。苦悩とか哀愁が滲んでいるような、寂しげな言葉を口にする。それは俺が抱いている輝かしい千早像とは全く別物で、やっぱりまだ理解できていないし、話してくれるような関係性でもないんだろうなと思わせられる。寂しいような、悲しいような、そんな痛みが胸を埋めていく。

「それでも、納得できるまではやってみたいものだと思う。人生も、やりたいことも」

わかったような口振りで、でもたしかに思っていることを口にする。俺はまだやりたいことを見つけられていないが、納得できない現状に納得する必要なんてない。本気でそう思う。納得できない現状と向き合うのが嫌なら、納得できる何かを探して歩くべきだ。正しさだとか、模範的だとか、そういう場所からは逸脱した場所にこそ、きっと生きる理由があるはずだから。

「宮城は、本当に強い人なんだろうね」

千早が何を諦めてしまったのかはわからない。大事にしているものすべてなのかもしれないし、もしかしたら大事にしているもの以外すべてなのかもしれない。それでも、諦めるには早すぎると思う。俺にとっても千早にとっても、この先の人生の方が長いんだから。

だけど、それを押し付けるようなことはできない。千早が今幸せで、この先も幸せになれる自信があるなら、それでいいと思うから。何よりも、誰かの人生に影響を及ぼすような言葉をかけられるような気がしないから。こちらが勝手に悩んでいると思い込んでいるだけで、千早は幸せに生きているのかもしれないから。

「見習いたいよ、そういうところ」

返事はできなかった。俺にとって見習いたかった千早なぎさという人間が、今俺を認める発言をしていることが、なんだか不思議に思えてしまって。天高い場所にいたはずだったのに、俺のところまで降りてきてしまったような、そんな感覚。こんなところにいるべきじゃない、という言葉が頭を埋めていく。そんなことを考えるべきじゃないし、そんなふうに感じるべきじゃない。

「俺の方が、千早を見習いたいよ」

明るくて、賢くて、世の中を心から楽しめるような人に。俺の言葉に苦笑する千早は、まるで千早じゃないみたいだ。

「宮城って、私のことを買い被りすぎてるところがあるよね」

そんなことはない、と言うより先に、さらに否定の言葉を紡がれる。

「私は何もできない、ただ必死に生きてるだけの落ちこぼれなのに」

踏み込むな、と言われた気がして、俺はそれきり押し黙ってしまう。今俺が何を言っても慰めにしかならないだろうし、どれだけ本音を投げかけたとしても暖簾に腕押しなんだろう。かと言って、黙っているのが正解だとは思えなくて、必死になって考える。そんなことないよ、とか、千早はすごい人だよ、みたいな、当たり障りのない言葉が浮かぶたびに打ち消して、今の千早にも届いてくれる言葉を考えている。

「あはは、冗談だよ。そんな真剣に思い悩んだ顔しないで」

明るいトーンでそう言われる。一瞬頭が真っ白になって、それから怒りとか呆れに似た感情が湧いてくる。

「言っていい冗談と、そうじゃない冗談があると思う」

抗議するように言うと、ごめんごめん、と軽い謝罪が返ってくる。

「でも、宮城は意外に私のことを大事にしてくれてるんだね」

「まぁ、これだけ会ってたらさすがにね」

「ふふ、嬉しいな」

本当に嬉しそうに笑う千早の顔を直視できなくなって、俺は目を逸らす。真上近くまで昇った太陽が池の水をきらきらと照らしていて、朝よりも生きているという感じがする。

「大事にしなきゃね、宮城みたいな人のこと」

千早のことを大事にしてくれる人なんて、きっとたくさんいるだろうに。千早はそれに足る人間だし、そうあろうと努力もしているんだし。すべてが報われるわけじゃなくても、それに気が付いてくれる人はきっといると思う。というか俺が、そうじゃないとやっていられない、と思っているだけだ。

「いつも感謝はされてるよ。充分すぎるくらいに」

ちょっと度が過ぎるくらいに、という言葉が過って、それを飲み込んだ。余計な一言を、だんだんと飲み込めるようになっている気がする。気を抜くと発してしまうそんな言葉達を飲み下し続けたら、俺の言葉は優しくなっていくんだろうか。棘がなくなって、誰にでも受け入れやすくなって、他の人と同じ温度になってくれるんだろうか。

そうしたら俺も、誰かと一緒にいることに自信を持てたりするのかもしれない。今この時を共有するだけじゃなく、これからの人生を隣で過ごす自信が。

「これからもちゃんと感謝するね」

「それって、宣言するものなのかな」

笑い合うだけで、俺の物思いは吹き飛んでしまう。それはいい意味でもあり、悪い意味でもある。何かがどうでもよくなってしまうとき、半分は納得で、半分は諦観だと思う。今考えても仕方がないと思うのは、その疑問に答えが与えられないからで、期待値や能力値が足りていないということだから。

訳の分からない大きな感情と向かい合う恐怖は年々心を埋め続けていて、だんだんとそれに抗えなくなっている。欲求や願望といった身の丈を越えようとするきっかけを宥めるように、俺は逃げ続けている。

「私には、それを宣言しないでもできるような自信はないから」

だから毎回、目標は口にするようにしてるんだ、と当たり前のように言う千早をすごいと思うよりも先に、心配してしまう。もしそれが叶わなかったとき、心が折れてしまうんじゃないかとか。きっとそう思っている限り、俺は目標を高く設定できないんだろうな。

「宣言したらできる自信があるだけ立派だと思うよ」

そう返すと表情が曇ったことを、俺は見逃さなかった。それなのに、踏み込むことはできなかった。なんとなく気まずい空気が流れるのを、ただ耐えているだけ。

「まぁ、そんなことは置いておいて」

不完全燃焼のままで、話題は移り変わっていく。踏み込んだほうがよかったのかどうかも、もやもやとした心境が蓄積されていく。頭の隅に押しやって、目の前の話題に集中しようと思えば思うだけ、鉛筆を適当に動かしたみたいなぐちゃぐちゃとした線のようなものが存在感を増していく。

「そういえば、宮城って誕生日いつなの?」

珍しく、千早にそんなことを聞かれる。きっと適切な話題が思い浮かばなかったんだろう。俺と同じように。

「4月4日。ギリギリ春休みかな」

「じゃあ、あと3日早く生まれてたら一学年上だったんだ」

「まぁ、どっちでもよかったけど」

実際、本当にどちらでもよかったと思う。学年がひとつ変わったくらいで大きな変化があるわけじゃないし。発育に関するコンプレックスは少しくらいあったかもしれないが、学年が違うことによる変化なんて、思い浮かぶのは本当にそれくらいだ。

「じゃあ、私は何月何日でしょう!」

きっと適当に言っただけのことを、少し真剣に考えてみる。なぎさ、という名前的には夏生まれっぽいが、雰囲気はどちらかというと春っぽい。

「7月中旬、とか?」

「ざんねん!7月20日でした」

「そんなに外れてもいないじゃん、ニアピンだ」

7月20日か。きっと覚えていたとしても、過ぎてから思い出すんだろうな。それでも一応忘れないように、何度か頭の中で唱えてみる。

「誕生日って、年々ただの平日になっていくよね」

「今年の誕生日なんて木曜日だったから、体育でヘロヘロになってたら終わってたよ」

「あ〜、午後の体育キツいよね」

今年の誕生日、俺は何をしていたんだろう。記憶もないくらいどうでもいい一日だったんだろうな、と思うと、なんとなく損をしたような気持ちになる。来年の誕生日こそは、覚えていられるような日にできるだろうか。今はまだ、そんなことはわからない。だけど、そうなったらいいと思う。

「誕生日、宮城に祝ってもらえばよかったな」

「友達とか祝ってくれたんじゃないの?」

「まぁ、そうなんだけどさ。なんていうか、言っておいたら祝ってくれたのかな、とか」

聞いていたら祝っていたかどうかは、その日の俺がそれを思い出すかどうかにかかっているから、なんとも言いきれない。忘れているというよりは、日付を気にしたり、その数字にできごとを結び付けたりすることが苦手という方が正しいような気がする。

「覚えていれば、おめでとうくらいは言うと思うけど」

「覚えていれば、か。宮城らしいね」

まぁ、確かに俺らしい一面だが、なんとなくそう思われているのは嫌だなぁと思う。忘れっぽいとか、だらしないとか、そういうイメージを持たれたくない。

「あ、悪い意味じゃなくてね。言い切れないことは言わないっていうのが、誠実なんだかそうじゃないんだかわからなくて、宮城らしいなって」

「不誠実でしょ、言い切らないのは」

こんな些細なことでさえ責任を感じたくないというのは、決して誠実さではない。できる、とか、やろう、と思わないと、今の自分を変えられるわけがないのに、そう思えるほど自分を信じているわけじゃない。それが、満足できる自分になるよりも、現状を悪くしないように行動することを優先する理由なんだと思う。

「約束しておいて守らないより、よっぽどマシだよ」

名前も知らないはずなのに、この言葉を向けられた相手に思い当たる。千早にとって、まだ癒えない傷になっている人物。

千早にとって、その人物がどれだけ大きかったのかを、この数ヶ月間思い知ってきたつもりだ。俺なんかで慰められると思っているわけじゃないが、それでもそれなりに一生懸命穴を埋めようとしてきた身としては、その存在の大きさや落とした影の濃さを、嫌というほど目の当たりにしてきた。

「まぁ、言ってもしょうがないんだけどさ」

ひとつ伸びをして、千早はくるりとこちらに向き直る。

「こんなこと言われても、困らせるだけだもんね。宮城のことも、きっとあの人のことも」

つらかったり、受け入れられていないのなら、話を聞くくらいのことは苦痛じゃない。だけど、人に何かを打ち明けることは苦痛だとわかるから、俺がすべきなのは何を言ってもいい雰囲気を作ることなんだろう。具体的に何をしたらいいかは、皆目見当もつかないけれど。

「俺は困るなんて思ったことないけどね」

なるべく軽く言って笑う。少しでも後押しになればいいと思いながら。千早は、困ったように笑うだけだった。そんなもんだろうと思う。俺だってこんなことを言われても、きっとさらけ出そうとは思わないだろう。仕方のないことなのに、心からの言葉を否定されたような、やるせない気持ちになってしまう。

「まぁ、話したくなったら話せばいいよ」

こういうとき、適切な話題が思い浮かぶような機転の利く人間だったらよかったのに。そういった努力を怠ってきた、というか、これまで人と関わるのを避け続けてきた末路がこの沈黙なんだろうなと思う。壁にぶつからない限りは、自分が間違ったことをしてきたことに気付けない。今まで何をやっていたんだろう、と自分を責めることにも慣れてきたのに、この気持ちをどうにかする方法には思い至らないことも、このつらさを加速させている。

「初めて会った時、私が泣いてたの気づいてたでしょ?」

懐かしむように、千早は向かい側のベンチに移動する。

「ここで一人で泣きながら、何してるんだろうって途方に暮れてたときに、宮城が入ってきたの」

そのときのことはよく覚えている。初めに浮かんだ感想が気まずいという最低なものだったことを。

「あんまり話したこともなかったから、どんな人なのか見当もつかなくて。クラスメイトなのに無言でいるのも変かなと思って挨拶したら、気まずそうな返事されてさ」

心の底から申し訳ないと思う。だけどあのときの俺にとって、一人で過ごそうと思った場所に人がいるのは計算外だったし、その上それが関係値のない知り合いというのは気まずいというほかなかった。

「でも意外にいい人で、ちょうどいい距離感を探ろうとしながらも、一人にはしないでいてくれる人だったんだよね」

初めに何を聞いたかも、はっきりと覚えている。

「宮城に話をしながら、あぁきっと私は誰かに話を聞いてもらいたかったんだろうな、聞いてくれる人が宮城でよかった、って思ってた」

やや強い風が吹き込んで、俺の重い前髪も、千早のよく手入れされた髪も、同じように靡く。

「そういえば、自分が嫌になってここに来たって言ってたよね」

「そうだね。ちょっと言い淀んだけど」

「そう思ってなかっただけで、私もそうだったんだと思う。学校に行って、いつも通り笑って過ごすのに、頭の中ではあの人のことを考えてるっていうのが許せなかった」

嘘をつくというのは、防衛本能であると同時に社会への迎合でもある。円滑なコミュニュケーションを図るために必要なのは、その場のノリに合わせること。個人的なつらさに共感してもらうことじゃない。

だから、千早は学校に行けなかった。

その感情を、俺は持ち合わせていない。いくらでも自分に浸っていられるし、気分のままに生きていられる。迷惑さえかけなければ、波風さえ立てなければ、俺はそれを許される。

改めて、そうはなれないなと思う。学校に行く以上は明るく振る舞おうなんて、きっと頭を過ぎることすらない。何も考えないように授業を真剣に受けてみようとか、逆に全く聞かないでずっと考えていようとか、他人の介在しない判断を迫られるんだろう。

「一回休んだらクセになる、ってお母さんは言ってたけど、そんなことなかったなぁ」

そういえば、千早はあの日のできごとについて、どういう言い訳をしたんだろう。俺は通知表を見せたとき、ちゃんと叱られたから、千早もそうだったんだろうか。

「宮城はどうだった?私と初めて会ったとき」

聞かれて、少し真剣に考えてみる。千早の言う通り、最初は気まずかった。だけど知らない感情の話は楽しかったし、いつか俺がそうなったとき、今の俺とは別人になっているんだろうな、という未来への微かな希望も貰えたような気がする。

「なんというか、いい一日だったな、って思った」

だけど、結局この一言に収まってしまうような気がする。いい一日だった。今日を棒に振ったことを忘れて、明日を心待ちにできるような。

「いい一日、か。うん、確かにいい一日だったね」

千早の笑顔がいつも通りになったことに安堵する。きっと今の俺の返答は、あれで正解だったんだろう。

「さて、そろそろいい時間だね」

パン、と手を一回鳴らして、千早は立ち上がる。辺りは暗くなり始めていて、確かに帰るにはいい時間だった。


暮れなずむ街並みは、どこも変わらないような気がする。人々の暮らしが営みから生活にシフトし始めて、それを心待ちにしていたように見える人と、もう明日のことを考えて沈んでしまっているように見える人と、何も考えていなさそうな人。俺があの中のどれかになるとしたら、三番目なんだろうな。

「じゃあ、また明日」

また明日。同じ言葉を返して、電車に乗り込んで考える。無言になってしまったときのこと。

きっと、俺たちはまだ何もわかっていない。俺が千早のことをわかっていないように、千早も俺のことはわからないんだと思う。だから、不完全燃焼で終わる話題があっても仕方ない。割り切るしかないところなのに、納得がいかない部分がある。仕方ないと思うとき、その感情の半分以上は諦めきれないという行き場のない衝動だ。どうしようもなく暗い気持ちが、雨雲のように急速に心に広がっていく。振り払うようにイヤホンをする。いつもは心を救ってくれる音楽が、今日は嫌に、うるさいだけの雑音に聞こえた。


家に着いても鍵は閉まったままで、誰も帰ってきていないらしかった。靴を脱いでそのまま階段を昇って、自分の部屋に辿りつく。

思い切り飛び込んだベッドは、優しく俺を包むように沈む。疲れているわけでもないのに、このまま眠れたら楽だなぁと思いながら目を瞑る。やがて眠気の波が襲ってきて、自分の単純さに感謝しながら意識を手放していく。


次に目が覚めたときはもう真夜中で、一日何も食べていないことを思い出した。不思議とお腹は空いていなかったので、わざわざ食べ物を探しに行くようなことはしない。

昨日のうちに決めてしまえばよかったのに、今日の予定はまだ決まっていない。朝か昼くらいには、千早の方から連絡があるだろう。そう思って窓の外を眺める。

深夜の街を見渡せるのも、きっと今週で最後だ。やろうと思えば来週以降もやれることだが、やらないで済むならそれが一番いい。カーテンを閉めて真っ暗になった部屋で、夏休み最後の週をどう過ごすかを考えてみる。やがて、服を買いに行こうとは言ったものの、服を買いに行く服すらないことを思い出した。そんな服はこの世にはないはずなのに、なんだかいつもの格好でお店に入るのは嫌だ。かと言って制服で行くというわけにもいかないよなぁ、と考え始めて、ふと冷静になる。

俺は今週千早と過ごすことを、すごく楽しみにしているらしい。今までだってそうだったはずなのに、なぜか強くそう思う。いつもより少し早く集合してお昼ご飯を食べることにも、服を選んでもらうことにも、わくわくしている自分がいる。


たまには、明日着ていく服でも見繕ってみようかな。そう思って部屋の電気をつける。無遠慮な白い光に照らされると、途端に部屋は無機質に見えるような気がする。冷たくて寒々しい、そんな印象。いつまでもこれに慣れないから、できる限り部屋は暗くしておきたいのに、俺の部屋の照明は明るさを調節できないので、真っ暗か無機質かの2択しかない。

本当は、夜を一人で過ごすのも別に好きじゃないんだろうな。起きてしまうから起きていたり、眠れなかったりするだけで。


クローゼットの中には、主張が少ないというだけで買ったり買ってもらったりした服が何着か掛かっている。この中から比較的ましなものを選ぶ作業は、骨が折れそうだ。白でまとめたり、黒でまとめたり、一色でまとめるようなコーディネートは上級者という感じがしてできないし、かと言って適当に選んだらいつも通り、地味で飾り気のない自分が出来上がるだけだ。こういうとき、どうしたらいいんだろう。夏服を検索してみても、俺でも着こなせそうなものはないような気がしてきてしまう。きっと、ブランドものの服を買ったりしても、同じことを思うんだろう。

出すだけ出した服を仕舞いもしないまま、ベッドに寝転んでみる。真っ白な天井はそのまま、俺のこだわりのなさみたいに見える。


格好なんかどうでもいいから、早く千早に会いたい。頭に浮かんだそんな言葉はとても気恥ずかしくて、俺は忘れようと起き上がる。引っ張り出した服たちの中では比較的マシだと思えるものを適当に見繕ってみても、やっぱり満足なんかできない。だけど、それでいいような気もする。俺が俺らしくいたからこそ、千早と出会えたような気がするから。きっといつも通りの俺でいいんだろう。


今日着る服をハンガーに掛けて、カーテンレールに吊るしておく。それだけでもこの部屋の無機質さは少し薄まって、生活感が出てきたような気がする。まぁ、いつもより少しだけ、という話だけど。

もうひと寝入りしようと目を閉じてみる。予定があるときほどそれを気にしてしまって、上手に眠れなくなるのはわかっているものの、昼眠くなる可能性を考えたら、寝る努力くらいはしておくべきだと思う。目を閉じて、今日が楽しみだという感情に浸ると、うまく眠気を誘い出すことができた。


身を任せて眠りについて、しばらくして起きる。よく寝たような気分だ。時計を確認すると、11時。ヤバい。もしかしたらもう連絡が来ているかもしれない、と携帯を確認してみると、何も通知はなかったので、とりあえずは安心だ。一応、着替えておいてもいいかもしれない。服を着ているうちに連絡があるかもしれないし。


服を着替えて、さすがにお腹も空いてきたのでリビングに降りる。俺の分の夜ご飯は残しておいてくれたらしく、ありがたくそれを食べる。自室に戻ると12時近くで、そろそろ連絡があってもいい時間になっていた。


しかし、待っても待っても連絡は来ない。自分から連絡するかどうか迷って、急ぎの用事が入ってしまったのかもしれない、いや、それにしたって連絡くらいはできるよな、と葛藤してみたりするうちに、時刻は15時を過ぎた。

こんなことは初めてで、俺はどうしたらいいかわからなかった。夕方まで待ってみて、連絡がなかったら今日はもう何もないことにしようと思って、気を紛らわせるためにネットサーフィンをする。惹かれるようなニュースも、知りたいことも何もなくて、いい時間を過ごしているとは思えないままで、時間だけが過ぎていく。

もしかしたら、千早は事後に遭ってしまったり、事件に巻き込まれてしまったりしたのかもしれない。焦燥感だけは募っていくものの、俺から行動を起こせるわけではない。もやもやが部屋に充満して、だんだん息苦しくなってくる。

『なんかあった?』

息苦しさが限界に達して、俺はついにメッセージを送った。簡素かつ責めている感じのない、我ながらいいメッセージだと思う。何分経っても既読のつかないそれを眺めていたら、そんなどうでもいい感想が浮かんだ。


生憎、俺は千早の家を知らない。もちろん、最寄り駅も知らない。ただ学校の最寄り駅より下り方面に帰っていくということだけしか情報がなくて、探しに行ったりすることもできない。結局俺と千早を繋いでいるのはその程度の関係値なんだと思うと、歯痒さが募る。

こういうとき、後先を考えずに突っ走れる人間だったら、俺はどれほど自分を肯定できただろう。千早のことを心配していると言いながら、最終的にこうやって自分を責める道具にしてしまう。何もかもが気に入らないし、何もかもが手につかない。焦りや不安をこんなに感じたのは、いつ以来だろう。頭のどこか一部だけが、冷静にそんなことを考え出すほど、何か大きい感情に駆られている。


結局、その日は連絡はなかった。平静を取り繕ってする生活は当然ながらいいものじゃなくて、当たり前のことを当たり前にこなしている自分すら腹立たしく思いながら、それでも無情に時が過ぎていった。なんとなく、あの日の千早が学校に行くことを許せなかった理由に思い至って、二人でそんな話がしたいと思えば思うだけ、気分は沈んで行く。最悪、一文字でもいいから返して欲しいと願う。安否の確認ができたら、この先の予定なんかどうでもいい。そう願っても、返事が来るわけじゃなかった。


結局、そのまま夏休みは終わってしまった。やりたいと言っていたことができなかったどころか、会えたわけでも、言葉を交わし合ったわけでもないままで。

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空はどこまでも続いて。 横銭 正宗 @aoi8686

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