第5話
日常は日の常と書く通り、それはもう当たり前に、もしくは暴力的なまでに、想定の範囲内で終わってしまう日の繰り返しのことを言う。というか、本来そういうものなんだと思う。世間を揺るがす大事件は、それが起きないことのほうが当たり前だから、世間を揺るがすことができる。逆に言えば、常日頃身近な人が亡くなる生活を送っている人にとって、死は日常の延長になっていくんだろうと思う。まぁ、それは大袈裟かもしれないけれど。
何が言いたいかというと、俺はなんの準備もせず、のんべんだらりと花火大会の当日を迎えてしまった。それこそ、今日が花火大会だということを忘れていたくらいに。前々日くらいまではあと何日で花火大会だ、という意識があったはずなのに、昨日の俺は何をやっていたんだろう。
まぁ、よくよく考えれば準備するものなんて何一つない。集合時間に集合場所にいれば、ただそれだけで俺に求められた役割は果たせたと言っても過言ではない。世の中の俺に対する期待値って、きっとそんなものだ。
そうは言いながらも、俺は焦っていた。このままではまず間違いなく、集合時間に間に合わないのだ。夕方思い出した今日の用事は、時間制限があるものなのにも関わらず。ゆっくり見られる準備を済ませて、それから花火を楽しもうという予定であるにも関わらず、だ。
真っ当な理由のない汗ってどうしてこんなにも気持ち悪いんだろう。余計なことを考えれば考えるだけ、走ることをやめたくなってしまう。遅刻をするなら1分でも1時間でも変わらないんだから、別にゆっくり歩いて向かえばいいんじゃないか、という悪魔の囁きを必死に否定しながら、それでも俺は走っていた。
当たり前に混んでいる電車に乗り込むと、浴衣姿の男女がたくさんいて、もうこの時点で俺は場違いなんじゃないかと思ってしまう。別に浴衣がドレスコードというわけでもないのに、祭りに本気を出しています、みたいな雰囲気だけは纏っているの、なんなんだろう。逆ギレと言っても過言ではないひねくれた意見が頭の片隅を埋めていく。楽しむなら身を包むものまで、と思っている人のことを、まるで悪みたいに考えている。もしかしたら本当は、俺もそういうことがしたいのかもしれない。何かを必死に否定するときは、必死に否定しなきゃいけないときだから。
去年は駅集合だったから何とも思わなかったが、こんな祭り然とした空間をあと9駅も耐えなければいけないのか。次の駅で降りたい、もしくは帰ってから千早に謝罪の連絡をして、俺だけでも楽になりたい。いや、本当は、祭りを楽しもうという集団意識を勝手にプレッシャーだと思ってしまうのをやめたい。俺は俺で、勝手に楽しんでもいいんだと思っていたい。そんなこともできないくらい俺の人生は他人任せで、自分にできないことを求められるときは消えたいと思ってしまう。それが損だとわかっていながら。
思考を逸らしたくて外を眺めようにも、俺の身長では窓の景色は見えない。仕方なくスマホを眺めていると、近くのカップルの会話が耳に飛び込んできた。
「彼氏がいる夏って初めてかもしれない」
「え〜、なんか嬉しいわ。今日は楽しもうね」
「うん!」
彼女がいた季節があったことのない俺の前で、よくもまぁそんな最大級の幸せみたいな態度を取れるな、早く別れてしまえ、という思考と、こういう人達が上手くいくことで世界は回っていくし、のうのうと生きている俺の年金を払ってくれる存在が増えていくんだなぁ、上手くいってくれよ、という思考が入り交じって、どちらが勝つでもなく、もったりとした微妙な雰囲気が漂ってくる。
恋人がいる夏、ねぇ。冷めた目をしてはいるものの、一緒に夏を過ごせるだけで嬉しい相手がいるのって、これ以上ないほどの幸せなんじゃないだろうか、とは思う。こんな暑くてダルいだけの季節にも喜びを見いだせたら、きっと人生をやめたくなんてならないだろうから。むしろよりよい人生を送ろう、そのためにはなにができるだろう、と考える時間すらできていくんだろうな。まぁ、それはそれで、俺のような人間は滅入ってしまいそうだけど。
脳みその溶けてしまったようなカップルのおかげで、だいぶ俺のネガティブは緩和された。人の惚気を聞きたがる人って、こんな気持ちなのかもしれない。絶対違うだろうな。
そういえば、千早は今年の夏、彼氏と過ごすつもりだったと言っていた。代役、というか埋め合わせ役として俺が選ばれたわけだが、本当に俺でよかったんだろうか。何か足しになっているような気がしない、という問答を、俺は何度繰り返すんだろう。
千早は今、どんな気持ちでいるんだろう。悲しい、なのか、虚しい、なのか、または怒りとか、そういう激情だろうか。千早に限ってそれはないと思うが、感情の振れ幅が行き過ぎていると感じたとき、それを隠そうとする人だから、何とも言いきれない。わかっているようで何もわからないもどかしさみたいなものを感じる。
千早は俺にやりたかったことを一緒にやってくれることを求めているんだろうけど、俺は千早に何を求めているんだろう。何も求めていないような、でも確実に何かは求めているから一緒にいるような、的確な答えが出ないことも、もどかしいと思う。
自分の気持ちって。中学生になってから常日頃考えることが、また頭の中を埋めていく。俺が俺を理解していないのは、する気がないからなのか、する気はあっても努力が足りないからなのか、何もわからないながらも考えることだけはやめられない。
浮ついた電車の中でひとりだけ沈んでいく俺は、周りからどう見られているんだろうか。どう見られていても関係ないはずなのに、気になって仕方がないのはなぜなんだろう。
考えているうちに浴衣姿の人たちが続々と降り始めたので、あぁこの駅で降りるのか、と物思いが絶たれる。何も見ずともこの人たちに着いていけばいいと考えると、いてくれてよかったのかもしれないな。
千早はここの花火大会に来たことがなかったらしいので、集合場所は俺が指定した。会場からそんなに遠いわけでもないのに、あまり人がいない場所。去年同級生に教えてもらった場所だ。受け売りというやつ。そこはあまり高くない山の中腹にある神社で、人がいない理由は明確だ。虫が出るし、階段がきつい。俺が遅れかけて焦っているのは、そんな場所で長時間待たせるのは申し訳ないと思っているから。早く着いちゃうタイプだって言ってたし。
こういうときだけ、運動部に所属したり日頃から運動をしたりして、体力をつけておけばよかったと思う。こんな思いをしてもどうせやらないのは火を見るより明らかなのに。
石段を登っていく。段数は知らないが、天然の石を積み上げてつくられたこの階段は、本当に神様を迎える気があるのか疑問に思ってしまうほどに急で、なおかつ登りづらい。地面は雨も降っていないのにぬかるんでいて、スニーカーは泥だらけになるし。千早の靴は無事だろうか。
だけど、この階段も悪いところだらけじゃない。木の枝や葉がつくった傘がなくなったタイミングで振り返ると、ちょうどこの街が一望できる。それはここまで登ってきたんだという達成感をくれるし、もう少し頑張ろうというモチベーションにもなる。
いつの間にか一段飛ばして登ることにも違和感がなくなっていて、背が伸びたことを自覚する。こうしている間にも、体はどんどん大人になっていく。早く心もそうなって欲しいものだ、と思いながら、まだまだ続く階段を息を切らして登る。
体力の限界だ、と上を見上げると、あと30段ほどで鳥居にたどり着くらしかった。少しだけ無理をしてみよう、と駆け足で登り始めて、20段ほどで膝に手をつく。
「やっぱりキツいよね、ここの階段」
声の方を見上げると、そこには浴衣姿の千早がいた。格好に似合わないファンシーなハンカチを額にあてて汗を拭っている。
「本当に、そう思う、もう登りたくない」
息を切らしながら返事をすると、「もしかして走ってきた?」と聞かれる。声を出す気にもならず、ただ頷く。
「別に急がなくてもよかったのに。焼きそばとチョコバナナ買ったし」
どれだけ早く来たんだよ、とツッコもうとするも、息が続かない気がしてやめた。ただゆっくりと残りの階段を登りきって、朽ちかけたベンチに腰かける。
「はい、お水」
「…ありがとう」
明らかに飲みかけの水を渡されて、一瞬躊躇しながらもお礼を言う。俺は別に構わないが、千早はそれでいいんだろうか。渡してくるんだからいいに決まっているのに、そんなことを気にしてしまう自分が子供っぽくて、少し嫌になる。一応、口はつけずに飲むけれど。
「別に口つけてもいいのに」
言われてしまうと、意識しているみたいになるだろうが。声に出さず文句を言う。
「友達の飲みさしとかもこうやって飲んでるし…」
こうなってしまうと、もう何を言っても言い訳くさくなる。意識していないアピールって、意識しています、と宣言しているようなもので、今顔が真っ赤になっている自信がある。
「もしかして、本当は嫌だったりする?こういうの」
本気で心配そうな顔をされたので、「あぁ全然、嫌とかじゃないんだけどさ」と必死で否定する。「それならよかった」と安心したような表情を浮かべられ、なんだか申し訳なくなる。もう少し素直に生きてみてもいいのかもしれない。少なくとも、千早に変な誤解を与えないようにするためには。
「…花火、楽しみだったんだけど、ちょっと気合い入れすぎちゃったかもしれない」
何という髪型なのかはよく分からないが、髪もセットされているし、浴衣だし、手提げ袋も服装に合ったものを選んでいる。多分褒めた方がいいんだろうけど、俺には適切な表現が見当たらなかった。…というか、素直に可愛いと褒めるのは、少し気恥しい。
それでも千早が不安に思うなら、と手軽に褒められたりしたら、少しは好印象なんだろうな。そう思いながらも、「あぁ、まぁ、いいんじゃない?花火だし」と服を見もせずに褒めてしまう。後で自己嫌悪するのは明白なのに。
「可愛いって言ってくれてもいいんじゃないかな」
少し不満げな声が聞こえて、振り返って改めて千早の姿を確認する。
「…あー、かわいいんじゃないかな、ごめん、なんかどこがどうかわいいとは言えないけど」
目を逸らしながら答える。本当に恥ずかしい。きっと耳まで真っ赤になっているんだろうと思う。どうにか夕日のせいとかにできないだろうか。
「別に、どこが可愛いとか求めてないよ。ありがとう」
…まぁ、満足気だしいいか。面と向かって褒められるようになるまで、どれくらいかかるだろう。来年の夏には褒められるんだろうか。受験生だし、こんなことをしている暇はないかもしれないけれど。
「花火、何時から?」
「うーんとね、7時からって書いてあったと思う!」
「断言できないことを断言してきたね、斬新だ」
笑いながら降る階段は、登ったときよりもあっという間に終わってしまう。俺たちはこれから人混みに身を滑り込ませて、この一派として生きていくんだ、と覚悟を決める時間が取れないまま、波に飲まれていく。
「はぐれたりしない?」
珍しく不安げに聞いてきたので、「大丈夫」とだけ答える。それからすぐに冗談を思いついたので、声をかけてみることにする。
「もし不安なら、手でも繋ごうか?」
繋がないよ、と困ったような笑顔が返ってくると思ったら、「ありがとう」と言われ、簡単に手を取られてしまう。何も準備をする暇がなかったので、俺は握り返すでもなく、かと言って振りほどくでもなく、絡められた指をなるべく触らないように開いておく。
「ちゃんと繋がなきゃ意味ないでしょ」
そうは言われても、俺の記憶の限りでは女子と手を繋いだことなんてない。せめて手首とか掴んでもいいよと言うべきだったな、と関係のないことを考えて平静を装うことに必死なのに、握り返すような気が起きるわけがなかった。
これ、恋人繋ぎというやつじゃないのか。緊張で手汗をかいてしまっているんじゃないかとか、上がってしまった心拍数が知れてしまうんじゃないかとか、そんな物思いがぐるぐる頭を回っている。
「早くしてよ」
なんでこんなに余裕そうなんだ、この人は。もう冗談も浮かばなくなってしまった頭で必死に考える。恐る恐る握り返すと、千早の手の力は安心したように緩んでいく。
「もしかして、私が初めてだった?」
悪戯っぽく言う余裕すら出てきたようで、振り返らなくてもにやにやしているのがわかる声色が聞こえてくる。
「初めてだよ、もちろん」
正直に返すと、それから返事がなかったので振り返ってみる。
「好きな人とがよかったよね、ごめんね」
「いや、別に…嫌ってわけじゃないよ、本当に」
そう告げても、千早の顔は浮かないままだった。俺は自分の言葉を証明するように、手を握る力を少しだけ強くしてみる。
「ちょっとびっくりしただけで、こういうのは初めての人と、って思ってるわけじゃないから」
「…ありがとう」
俯いた千早の表情はわからなかったが、そんなものを確認する余裕もない。頭の中の虫がうるさいとか、そういうわけではなく、この人波に合わせて移動しないと、本当にはぐれてしまいそうだ。「大丈夫そう?」と声をかけると「うん」と返ってきたので、俺は前を向いて歩き始める。
人の手を引いて歩く、というのは、こんなにも気を使うものなのか、と半ば諦めながら考える。何がしたいかを聞きながら、それを出している屋台を探したりするには、まだまだ身長が足りない。
だけどなんというか、充実感はある。俺は屋台を楽しんだというより、楽しそうな千早の横顔を見ることが楽しかった。初めて祭りに来た子供みたいに瞳を輝かせて、人混みなんか気にしていないみたいにはしゃぐ千早を見ていると、なんだか俺も気恥しさとかを忘れて、同じようにはしゃいでいられるような気がする。
この先、もし数年後に死んでしまったとしたら、間違いなく走馬灯にはこの景色が追加されているだろうと思う。そう考えてから、追加されるって、卒業アルバムみたいだな、と一人笑うと、「なにか面白いことでもあった?」と聞かれた。
「ううん、ただ楽しいなって思ってるだけだよ」
日も落ち始めて、景色は真っ赤に染まっていく。同じように真っ赤なりんご飴をかじって、不思議そうな顔でこちらを見ている千早のことを、きっと俺は忘れられないだろう。
「…私もすごく楽しい。なんか、夢が叶っちゃったみたいな気分」
「夢?」
「うん、私、夏祭りって初めてで」
「え、人生で?」
手を繋ぐことなんかよりも、よほど大事な初めてをもらってしまった気がする。嬉しいは嬉しいんだけど、ギリギリ罪悪感が勝ってしまう。
「初めてが宮城でよかった」
言ってから恥ずかしくなってしまったのか、それから千早は一言も発することなく、りんご飴に集中しだした。俺はその言葉を反芻しながら、明かりのつき始めた屋台の通りを眺めてみる。
去年の花火大会を、俺はこんなに楽しんでいただろうか。告白なんてされていなかったとしても、きっとこれほどまでに楽しいとは思っていなかっただろうと思う。忘れられないだろうとか、いい思い出だなぁなんて、きっと頭をよぎることすらなかった。
「俺も、千早の初めてをもらえてよかったよ」
いつもと違って、余計なフィルターをかけずに放ってしまった一言は、存外千早を照れさせてしまったようで、半分ほどに減っていたりんご飴は地面に落ちてしまう。
「…宮城のせいだ」
しばらく立ち尽くして、落ちたりんごを眺めていた千早は、俺を睨むように見上げた。
「ごめん、そんなに照れるとは思わなくて」
精神的優位を見出した俺は、ここぞとばかりににやにやと意地の悪いことを言う。
「もう!わざわざ言葉にしないでよ」
猛抗議され、俺はへらへらと笑いながら畳み掛ける。
「いちご飴でよかったら、俺のをあげよう。食べかけだけど」
一口だけかじったそれを振りながら煽ると、千早は意地になってしまったようで、「あげるって言ったからね」とかじりついた。
「ふん」
俺の手元にはさっきまでいちご飴が刺さっていた割り箸だけが残って、千早は満足そうにぼりぼりと音を立てながら咀嚼する。
「俺のいちご飴が…」
別に好きじゃないし、雰囲気に流されて買ってしまって後悔していたから、食べられてもよかったんだけど。
「残念でした」
そんなことは知る由もない千早はしてやったりといった顔でこちらを見る。…本当のことを言ったら機嫌を損ねてしまいそうだ。
「花火、もうそろそろだね。移動しよう」
「ここで見るんじゃないの?」
「いい場所があるんだよ」
これも、同級生の受け売りだけど。人混みから外れて、河川敷を歩いていく。
「こっちまで来るの初めて」
「まぁ、こっち方面じゃないもんね」
返しながら、俺は千早の家の最寄り駅すら知らないんだなぁと思う。よくよく考えてみたら、まだまだ知らないことのほうが多いくらいなような気がする。俺は千早の誕生日すら知らないし、千早もまた、俺の誕生日なんて知らないだろう。
それでも、大事なことは分け合ったような気がする。何を気にしているとか、何が不足しているとか、そういう解消しなきゃいけない今だけの悩みみたいなものだったり、抱えてしまったものの話だったり。…分け合ったというよりは、俺が一方的に聞いてもらってばかりいる気がするけど。
喧騒が遠くなると、からからと鳴る下駄の音がやけに大きく聞こえる気がする。風流な音だ。俺のスニーカーからは砂利を踏みつける音しか聞こえないのが、少し物足りないように感じてしまう。
「俺も浴衣とか着たらよかったかも」
「持ってるの?」
「いや、持ってないけど」
「なにそれ」と笑ったあと、千早は思いついたように言う。
「じゃあさ、来年は2人で浴衣を着ようよ」
約束をするとき、それがどんなに拘束力のないものでも、少しだけ身構えてしまう。それが先の予定であればあるほど。できるかどうかわからないことについて断言してしまうことを、無駄に恐れている。
「…まぁ、来年考えるよ」
かと言って、曖昧な返事をしてしまうことを肯定できるわけではない。口約束くらいしてあげたほうがよかったんじゃないかと引きずってしまうんだろう。今日の夜あたりに。
忘れることも、忘れられないことも怖い。確かに楽しかった記憶を失って、どうでもいいことを覚えていて、その中にどうしても忘れてしまいたいことが含まれていたりすることが。決して自分だけのせいでなくても、あのときはあんな約束をしてしまったな、と思う時間が。
きっとこの先も、こんな物思いに襲われる。他人を人生の一部にしてしまうことは、そんなことの繰り返しなんだと思う。それを肯定できるかどうかが、俺が一緒にいられる人を選ぶ基準なんだと思う。狭くて浅い人間関係を、心の底から楽だと思ってしまう、そんな感覚。
諦めきれなくなっていくんだろうな、ということを、率先して諦めようとしている。それはつまり、俺なりの生きやすさの追求であり、将来的な生きづらさへの投資、なのかもしれない。続いてくれるかどうかなんて、俺なんかの頭ではわからないことなのに。
約束ってちょっと重いという感覚の中には、これだけの意味が内包されている。未来への不安とか、期待することへの恐怖とか。
きっと今は、そんなことを考えるべきじゃない。この瞬間を楽しんで、それが長く続くよう祈ったり、この先も続いてくれることに期待をしてみたり、幸せを幸せとして受け入れるべきなんだと思う。それでも俺の頭の中を埋めるのが終わってしまうことへの恐怖なのは、俺がまだ子供だからなんだろうか。
「いい場所って、あそこのこと?」
俺の物思いを知ってか知らずか、千早は小高い丘を指さして、楽しげに話しかけてきた。
「そうそう。あそこが一番眺めがいいんだって」
実際、俺も見たことがないんだけど。去年は話に聞いただけで、人混みの中で花火を見たから。何年か経って、彼女でもできたらあそこで見るつもりだと、その同級生は言っていた。彼女ができたりしたら、俺に報告してくれるだろうか。…まぁ、もうそんな関係性じゃないか。それが時の流れというやつだと納得できるような、それでも少し寂しいような、質量のある煙みたいなものが胸に居座り始める。いっそ、全て忘れてしまえたらいいとすら思う。つらかったことを忘れる代わりに、楽しかったことも忘れる。そんなふうにすべてを忘れられるなら、俺はなんの感慨もない代わりに、何も気にせずに生きていけるだろう。どうせ明日には忘れてしまうんだから、という、一周まわったポジティブに染まって、笑顔で過ごせるような気がする。
「そろそろ上がるかな?」
千早の言葉で我に返る。
持ってきたビニールシートがあまりに小さかったせいで、俺と千早の距離はいつもより近い。当たり前だけど、いつもより俺と千早の間にある空間も狭い。「時間的にはそろそろだね」と返して、花火を気にするふりをして、視線を逸らす。
なんだかこの距離にいると、俺のことなんかすべて見透かされてしまうんだろうな、という気がしてしまって。ちょっとした表情とか、仕草とか、そういうものから、俺のネガティブは溢れ出しているだろうから。見られたくないと思えば思うだけ、俺は人から距離を置いてしまう。
記念すべき最初の花火が、そんな物思いの中で上がった。鮭が川を上るみたいに、必死に空を駆け上がる火の玉が、その真ん中で命を散らすように咲く。
「た〜まや〜」
歌い上げるような楽しげな声を上げる千早の顔は、そのかがやきを反射するみたいに色付いていた。
今日は、花火を見に来てよかった。
特に理由もないのに、そんな確信めいた感覚があった。千早に楽しんでもらえているから、だろうか。とにかく俺の頭や心を埋めていたネガティブはどこかへ吹き飛んで、気が付けば晴れやかな気持ちになっていた。
2発、3発と上がるたびに、千早はわ〜、とか、きれい、とか、感嘆を口にしている。俺はせいぜい、夏らしいなぁと思うくらいなのに、こんなにも楽しめるのが羨ましい。
「音楽に合わせて花火が上がったりするお祭りもあるらしいね」
開催予定の花火大会を見ていて、目に留まったものの話をする。俺は、音も人手も凄いだろうなぁ、絶対に行きたくないなと思って覚えていただけなんだけど。
「パレードなんだか、お祭りなんだか、微妙なところだね」
「そもそも、花火大会があるからってお祭りってわけでもないし」
「あはは、そういえばそうだ」
だけど、空を埋めるほどの規模の花火大会、1回くらいは行ってみてもいいなと思う。どんなものか想像もつかないわけじゃないけど、自分が何を思うのか気になる。感動できるのか、何とも思わないのか、それとも周りの喧騒の方に気を取られてしまうのか。
「それにしても、屋台の方も結構人がいたね」
「まぁ、この辺では一番大きいお祭りだからね、確か」
「小さいお祭りもあるの?」
「自治体とかでやってるお祭りは、狭い公園の周辺だけとかでやってたりするよ」
「へ〜、そっちも行ってみたいかも」
千早が興味を示したのは、意外にも小さいお祭りの方だった。花火がたくさん上がるほうが楽しいと思うんだけどな。
「花火、楽しそうでよかったよ」
「うん。ありがとう、連れてきてくれて」
「連れてきたというか、千早の方が先にいたけどね」
本来、俺が先に着くのが礼儀というか、当たり前のことだと思う。その点については、少し悪いことをしたなと思っている。
「わくわくしちゃって早く着いただけだし、気にしないでよ」
上がり続ける花火を眺めたまま、千早はそう言った。
「…期待した夏、ちゃんとできてる?」
きっと、聞かない方がいいことを聞いている。そう思いながらも、俺はこの不安を自分の中に留めておくことができなかった。いずれはどこかのタイミングで聞かなきゃいけなかったから、いちばん楽しいタイミングで聞いておきたいと思った。
「期待以上だった、かな」
千早の声色にも、言葉自体にも、表情にも、嘘はないように見えた。俺は言葉に詰まって、ただ黙り込んで千早を見る。
「…ありがとう、って、いつも言ってる気がするね」
そうやって照れくさそうに笑ったあと、千早はまた花火の上がる方を向いた。
胸が高鳴った、というのとも違う高揚感があった。ゆっくり染み渡るようなそれは、全身に広がって俺を満たしていくようだった。
俺はちゃんと、千早の役に立てているみたいだ。そう思うだけで、俺がここにいることが許されるみたいで。
それから見る花火は、もうじき終わってしまうというのに、頭から離れないくらいに綺麗だった。
「もうすぐ、夏休みも終わりだね」
花火の打ち上げが終わってしまって、興奮冷めやらぬ、と言った状態で一頻り感想を言ったあと、一息いれてから千早は言った。そうだね、と返すと会話が止まってしまいそうで、「まだ一週間あると思うと、少しテンション上がるかも」と返す。
「そうだね、まだ一週間もある」
一週間って、長いようで短いような、微妙な区切りだ。もう一週間経ったのか、と思う週があって、まだ3日もあるのか、と思う週もある。人間にとっての時間の流れは、充実度とか忙しさによって変わってしまう、案外頼りにならないものだということなんだと思う。
「もし、どう頑張ってもあと一週間しか生きられないとしたら、宮城は何がしたい?」
「どうしたの、急に」
「別に、ちょっとした雑談」
「一週間、ねぇ」
ぼんやりと考えてみても、ひとつも浮かばない。きっとあと何日しかない、と考えながら、目の前の当たり前をこなすんだと思う。
「私は、あと一週間しかなくてもやらなくちゃ、と思うものが、本当にやりたいことなんだと思うんだよね」
「…千早にはある?やりたいこと」
「それを見つけられないから、私はまだ生きているんだよ」
「なるほどね」
考えたこともなかったなぁと思う。やりたいことや、やらなくちゃと思うほどのこと。俺はまだそれに出会えていないし、出会わなきゃいけないとも考えていなかった。
長いような短いような時間をいっぱいに使って、なんとかそれをやり続けようとするのは、たしかに幸せなことなんだろうと思う。安堵している暇も手を抜くような隙もないまま、それをやり続けて終わることのできる人生というのは。俺にとって、何がそれに値するものなんだろう。イメージしてみても、何をしている自分も想像できなかった。
「人間は考える葦、なんだってさ」
「あぁ、パスカルの言葉ね」
「そう。だから私たちは、考えなかったらただの雑草なんだ」
「はぁ、雑草」
人間の本質は思考にある、みたいな考え方の話だ。教師に言われた、考えることが人間に与えられた機能であり使命なんだ、というのは、なんとなくそうなんだろうなぁと思える理屈として覚えている。だけど、別に響いたりしたわけじゃなかった。
「私はさ、これでも私なりに、色んなことを考えているつもりだけど」
まぁ、そうじゃなかったら成績がいいわけがないし、そうなんだろうな。少なくとも俺よりは、何かを考えて生きているんだろう。
「でも、まだ知らないことばっかりなんだよ。世界って不思議だよね」
…正直言って、千早が今何を言おうとしているのかわからなかった。俺は考える葦でも考えない葦でもどちらでもよかったから。
「私ね、最近、あの人のことを考えなくなったの」
「それは、いいことなんじゃない?」
「うん。でもね、あの人のことを考えていたぶんの幸せを、何で補填したらいいんだろうって思っちゃう」
あぁ、なるほど。今千早は、きっと俺と同じ状態なんだろうな。考えていた時間がある分、完全に同じとは言えないまでも、からっぽだと思ってしまっているんだろう。
「…で、私は考えない葦なんじゃないかと思ってるってこと?」
千早は千早で、色々抱えているみたいだ。なんというか、俺にはわからない悩みを。だけど、そこで思考を止めてしまうのもよくない気がして、俺は必死に考えてみる。千早の心が埋まりそうな何かを。
「私、ずっと好きだって思ってたのにね。いつの間にか、名前を思い出せる小学校の同級生、くらいの位置まで落ちていたんだよ、あの人は」
「…それが嫌なら、まだ千早はその人のことが好きだってことなんじゃない?少なくとも、頭の片隅くらいでは」
「そうなんだけど、そうじゃなくてさ」
千早が言いたいことを纏められないのは、とても珍しいことだ。恋心ってそれくらい複雑だということなんだろうなぁと思いながら、ただ話の続きを待つ。
「失恋をしたし、興味を失っていくのは当たり前なの。それを嫌だなぁと思う自分が、何を考えているのかがわからなくて」
「あぁ、思考と心がばらばらになる感覚があるってことか」
「そう!それが言いたかったの」
それなら、俺も常々感じている。こうある方が俺らしいと思うのに、俺らしくない行動を取るときとか。
「それも、今しかない感覚ってやつなんじゃないかなぁ」
きっとこの先、どんどん薄れていってしまうもの。なんとなく肯定できるようになって、なんとなくそんなもんだと思えるようになるもの。そんな、今しかない何某か、なんだと思う。
「今しかない感覚って、私が言い出したのにね。私がそれを信じられなくなってるの」
「たしかに、ずっとそのままでいるのはつらそうだもんね」
「うん。早く今じゃなくなって欲しいよ」
空を見上げてみる。今日は満月ではなかったが、何となく夏の夜は月が上っているだけでいいものに見える。
「焦っても仕方ないからね、そういうのって」
「もどかしいよね、本当に。もどかしいことだらけだよ」
もどかしい。体の表面じゃなくて、内側が痒いときみたいな、どうしようもない感覚を言い表すのに適した言葉。俺はこの言葉を生んでくれた人に感謝を伝えたいほど、この感覚に襲われている。千早もそうなんだなぁと思うと、急に近しい人間に見える。
「なんか、話が逸れちゃったね。あと一週間だね、って話をしてたのに」
「雑談って、きっとそういうものだよ」
「そっか、そういうものか」
ふと、歩くスピードを合わせるのに苦労しなくなったなと思う。このペースが千早のペースだということが見に染み付いてきたんだなぁと思うと、少しだけ嬉しくなる。
ただ歩くだけで幸せを感じられることは、本当に貴重な体験だと思う。少なくとも、つまらないなと思う時間がないということは。
こんな風に時間を気にせず歩いていられるのも、きっと夏休みの間だけなんだろうと思う。どころか、今日で終わってしまうものかもしれない。そんなことに、少しだけ寂しくなる。
「ねぇ、一週間空けてくれないかな」
千早の声色には、緊張が表れていた。そんなに緊張するものでもないだろうに、と思うものの、人が緊張していると自分もそうなるもので、返事を躊躇ってしまう。
言いたくなかった。別にいいよ、とか、適当なことを。
「もちろん」
そう答えると、千早は花が咲くように笑う。蕾が開くときみたいな、ふんわりとしつつ、生き生きとした笑顔だ。
俺もこんな風に笑えたらな、と思う。こんな風になれたら、と何度思うんだろう。千早は気付いていなくても、俺はずっとそう思っている。
「一週間、何をしようか。やってないことってあったっけ」
虫取りは俺がNGで、海も行ったし、花火も見たし、あとはバーベキューとか、キャンプとか、アウトドアなことしか思い浮かばない。
「この夏やりたいことは、もう大体やったよ。いつも通り、あの公園でおしゃべりがしたいなぁと思って」
「そっか、最近それの方がやってないもんね」
進みも戻りもしないような、あの不思議な時間を過ごすことを、俺は幸せだと思っている。どこか違う世界のできごとみたいに、あの公園の東屋はあのままの形であそこにあるような。
「話題はたくさんできたよね」
「まぁ、お互い経験してることだから、全部話題になることだね」
おさらいには、少し早いような気もするけど。そんなことは関係ないんだろうな、千早にとっても、俺にとっても。
河川敷のいい所って、街灯の少なさなのかもしれない。どうでもいいことを、どうでもよくならずに話すとき、景色というのはノイズになるものだから。明日覚えていないような楽しい時間って、光とか、音とか、強い刺激があるものの前では、軽く吹き飛ばされてしまうような脆さがある。それなのに、時間という不変の流れだけは軽く吹き飛ばす力があるんだから、不思議なものだ。
「今年の夏宮城とやったこと、私はずっと忘れないような気がするよ」
「俺は忘れないというか、忘れられないんだろうなぁと思うよ」
別れ際、そんなことを言い合った。今年の夏は、きっと忘れられない夏だ。
焼き付いた、と言ってもいいかもしれない。楽しい夏が、幸せな夏が、なにものにも代えがたいような夏が。俺の中ではきっと、この夏を越えることが人生の目標になっていくんだろうと思う。…一週間じゃ、とても越えられなさそうだ。
俺にとって今年の夏は、長い年月の精算であったような気がする。自分がどれだけ自分のことを考えていなかったか、とか、考え過ぎていたか、みたいなことを振り返るような時間がたくさんあったような気がする。
帰りの電車は思っていたとおり、馬鹿げた人口密度だった。浮かれた雰囲気に身を任せるように、人を気にすることなく大きな声で話をする浴衣姿の人々が、とても眩しく見える。この知らない人たちが所狭しと詰め込まれている空間から、自分たちだけの世界に浸れるほどの幸せって、一体どんなものなんだろう。生物の生態に興味を持つときみたいな、自分にはどうしてそうなるのかわからないことへの知識欲って、なぜか止められない。
他人を気にしない瞬間を作れるということは、きっと幸せなときにそうなるものだというだけで、それ自体が幸せというわけじゃない。だけど、幸せそうな仕草って羨ましい。考えれば考えるだけ、自分を幸せじゃないと言っているみたいだ。きっとそうじゃないのに。少なくとも、今日だけは。
そういえば、今日の俺は早く家の最寄り駅に着いて欲しいと思っていない。不思議とこの空間に自分がいることを肯定できている。
俺もこの人たちと同じように、幸せになれているんだろうか。そうじゃないのかもしれないし、そうなのかもしれないなという不思議な感覚に囚われる。
少なくとも、悪いものじゃないということしかわからない。結論はいつも通りで、まぁそれでいいんだろうなと思いながらイヤホンを付ける。
音楽が流れているだけで、そこを自分の世界にできることは、俺の長所であるような気がしてならない。周りの雑音も、温度も、匂いも、まったく気にならなくなる。そんなことを気にしていたことすら気にならなくなるんだから、なんだか危ないことをしているような気がしてくることすらある。別に全員やっていることなのに、少し不思議だ。音楽って、俺を幸せにしているのかもしれない。でも、ライブとかには行けないだろうなぁ、人が多いし。何より、人を気にしてしまう程度にしか好きじゃなかったんだなぁと思わない自信がない。いつも踏み出せないままでいるんだよなぁ、俺という人間は。
プレイリストの10曲目に到達して、いつも通りが崩れたことに少しびっくりする。そういえば、学校の最寄り駅よりもここの駅の方が遠いんだった。
久々に聴く10曲目は、なんだかいいものであるような気がする。たまにしかしないことにほど幸福を感じるの、なにか理由があるんだろうか。…いつも通りって、幸福を鈍らせるのかもしれない。有ることが難しいから有難うって書くんだよ、と、昔聞いたことが頭をよぎる。なるほど、確かに、当たり前じゃないことは幸せにカテゴライズされるらしい。
そんなことを考えている間に最寄り駅に着く。改札を抜けると、今日の景色と地続きにあるとは思えないほど当たり前に、俺の住む街があった。ここからなら目を瞑っても帰れるだろうなと思うほど、当たり前になった街が。
そういう景色を見るのは、なんだかとても嬉しかった。今日が夢じゃないことを証明してくれるようで。
どこに向かってどう歩けば家に着くのかなんて、考えるよりも先に足が出ているような気がする。それを不思議に思うくらい、まだ夢の中にいるみたいな感覚がある。気を抜いたら、鼻歌でも歌ってしまいそうなくらい。
こうやって、当たり前に感謝する日ばかりだったらいいのに。考えないことを幸せだと思えるとき、それを考えなくて済むからじゃなくて、考えないことに自信を持っているからだったら、それが本当の幸せなんだろうな。
今日は夢を見るだろうか。今日が夢みたいなものなんだから、このまま寝たらいい夢を見られそうな気がする。自分の家の屋根が見えてきて、それから玄関が見えて、それが明るいことを幸せに思う。
部屋に戻っても、まだ夢の中にいるみたいだ。今日一日が本当に夢で、今覚めて朝が来ても、俺はそれに納得できるだろうと思う。珍しく幸せな夢を見たな、とびっくりするかもしれないが、疑問に思うことはないだろう。
なぜそれが幸せなのかを考えるよりも先に眠くなってしまって、安心しきったように眠りにつく。
明日もこんな日になるといい、そう思いながら。
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