第71話 子供だけの家
夏の終わり。
明日はもう学校の始業式だ。
広央の家は現在、子供二人で生活しているようなものだった。
日常を共にしていたユキ一家とは、当然お互いの家の行き来もなくなっている。
清治が出来る限りの見回りをして、食事の世話は近所の人が世話をしている状態だが、限界がある。
清治が伝手をたどって家政を任せられる人間を探していたが、そう簡単には見つからず急場急場で何とか凌いでいる。
夏休み最後の日、正午を過ぎ少し空が曇っていた。
風が涼しくなってきている。
夏が終わるのだ。
広央は縁側の柱にもたれて、ぼんやり居間を見つめていた。
母親がいなくなり、ユキも来なくなり空虚に広く感じる。
その日イサは朝から具合が悪かった。
聞くと体が重くて
広央は心配だったが、イサはいつもの通り病院を嫌がるので部屋で寝ているよう言った。
それは突然来た。
広央はある芳香、何かの甘い匂いが鼻腔をくすぐったのを感じた。
ふらついているのか、それとも部屋が歪んでいるのか足元がぐにゃぐにゃとする。
甘美な狂喜の感覚。
その感覚がどこから零れてくるのかは直ぐに分かる。
まるで本能に導かれるみたいだった。
子供部屋だ。
イサは布団に包まって寝ていた。
何の不安もない、安心しきった寝顔。
『ああ俺の、俺のつがいがいる』
広央は愉悦な感情に恍惚としていた。
イサは何も気付かず寝ている。
半袖にショートパンツ、肌がたくさん露出している。
ふっくりとした二の腕、太ももを見ているうちに不思議な衝動が沸き上がった。
『噛みたい』
首筋、太もも。
動脈の通った場所。
歯を立てた。
そこから先の広央の記憶は途切れた。
「痛いい痛いいたいいたい!!!!」
悲鳴と、口の中に広がる鉄のような味が広央を目覚めさせた。
イサの太ももに何か所も噛み跡があり血が流れている。
広央は最初何が起こったのか一切理解できなかった。
ただ自分の口の中の異様な味と、イサの表情を見て分かってしまった。
何かを壊してしまった。
空には細い月が上り、夏の夜の情緒。
父の清治は夜勤に出ている、ユキはそろそろ寝ようとしていた。
『ヒロのやつ、何やってんだ?』
庭に広央がいる。
ユキは庭に降り、広央の前まで歩く。
久方ぶりに二人で向き合う。
先に口を開いたのは広央の方だった。
「イサがどこにもいない…ユキ、助けてくれ!」
絞り出すように、やっとそれだけ言った。
イサは家を飛び出したきり、帰ってこなかった。
スマホは家に置きっぱなし。
近所の家、学校の同級生、婦人部。
思いつく限り探したがいなかった。
夜になっても帰ってこない。
「近所にも同級生のとこにもいないなら、街の方にでも行ったのかもな。お前らそんなひどいケンカしたのか?」
自分とイサの間に起こったことを口にすることができない。
広央はユキの問いに、ただ小さく頷くだけだった。
こうして2人は街にイサを探しにいった。
夏の終わりを惜しむかのように、街の盛り場に人々が繰り出している。
ネオンと電灯がきらきらと輝いている。
広央とユキは無口のまま並んで歩く。
イサは一人で街に行ったことがない、行くときはいつも広央達と一緒だ。
中心のセンター街、ゲームセンター。
あちこちとあてどなく歩くが、影も形も見当たらない。
「あ…!!」
広央が叫んで走り出す。
白い髪、白い肌の女の子を見つけたからだ。
人違いだった。
とぼとぼとユキの処に戻ってくる。
「なんでケンカしたんだよ?」
ユキが再度尋ねるが、広央は答えない。
このままでは埒があかない、ユキが猪狩隊に連絡をとった。
あくまで大事にはならないよう父には伏せて、夜警巡視の隊員に事情をはなす。
彼らは街の事を知悉していて、巡回時に街の情報は直ぐ集まってくる。
お金もない未成年が夜にフラつく場所は、限られている。
歓楽街近くの、映画館の横の広場。
イサはそこで見つかった。
広央達が駆けつけた時、イサは夜警隊の詰所に俯いて座り込んでいた。
「イサ、よかった…」
広央はホッとしてイサに近づいたが、彼女は広央と目を合わせようとしなかった。
ユキは2人の様子がおかしいことに気づいたが、理由が想像できなかった。
せいぜいひどい喧嘩をしたのだろう…とタカをくくっていた。
イサを家に連れ帰ったが、結局広央とイサは目を合わさず、会話も出来なかった。
次の日、イサは始業式が終わって学校からの帰り道に足を止めた。
通学用リュックの肩ひもをギュッと握りしめる。
ズボンで隠れているけれど、太ももの噛まれた箇所がひりひりと痛む。
言葉にできなかったが、その違和感が堪らなく嫌だった。
家に背を向け、そのまま街の方に歩いて行った。
虫が蛍光灯にひかれるように映画館横の広場に行きついた。
昨日と同様、まだ幼い少女たちがそこかしこにたむろしている。
その中に一人、オメガの女の子がいた。
高校生くらいで、ミニスカートから白く細い足がのぞいている。
白髪を黄緑色に染めていて、白い肌と相まって一人広場で目立っていた。
イサにとっては数少ない、自分と同じ
じっと見ていると、彼女と目があった。
「おいで~」
黄緑色は笑いかけながらイサに声をかけた。
妙に親し気な態度で。
イサは静かに近づいていった。
Wind of god 【神之島編】 葉純(はすみ) @hasumi888
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