第70話 兆し


突然の号令が真夜中の闇をつんざいた。

出撃命令だ。


広央は意外な程瞬時に目が冴え、3秒後には飛び起きて指導官の元に整列していた。

偵察からの情報、敵の潜伏地の無力化、機器を使わずに地図とコンパスで目的地に向かう。

完全に実践を想定しての攻撃訓練だ。

彼は隊の中に無意識のうちにユキの姿を探した。


上背があるのですぐにそれと分かったのだが、様子が違う。


それはあまりにも微細すぎて他の者は気付かないのだが、広央にはユキの微かな息遣いの変化、普段と違う様子に気づく。


後で知ったのだが山に風が出てきて、ユキは軽度の低体温症になっていたのだ。

目がほんのわずか、朦朧としている。


脱落リタイアは自己申告。もちろんユキは絶対にリタイアなどする性質ではない。


広央意外誰も気づかないまま、攻撃訓練は粛々と進められていく。


自動小銃を抱えたままの行軍が身体にこたえる。

攻撃開始はもうすぐだ。


火花が上がった。

火薬の匂いと爆発音。


防御側の潜伏地はかつて変電所として使っていた廃屋。

1㎞近く走りながら向かう。

偵察隊の合図で広央たちが内部に潜入する。

朽ちたコンクリートと割れた窓ガラス、カビの匂いが鼻をつく。


広央は小銃の重みを体に感じながら、攻撃側の隊員の背中を見ていた。

銃は実弾ではなくレーザー光線だが、命中したかどうかはレーザー光線受信装置で確認できる。


音は実弾そのものだ。

暗闇の中での爆音と、人が組み合い倒れる音、叫び声と雄たけびと。


広央は次第にこれが訓練なのか実戦なのかが曖昧になってきた。

目の前の敵を倒さないといけない。

銃を構え敵に命中させる。


古い変電所はコンクリートが浸食され鉄骨がところどころむき出しになっている。

人が組み合いぶつかり合う振動で、建物全体が揺れている。



「危ない!!!」


誰かが叫んだ。

きしむ音を立てて鉄骨がぐらりと揺れた。


生命を守る本能から誰もが飛びのいたが、動作の遅れる者がいた。


ユキだ。

ほんの一瞬足元がふらつき、避けるのに致命的な遅れが生じた。


広央が突進した。

ほとんど体当たりのようにつっこみ、ユキ共々コンクリートの上に倒れこむ。



間髪入れず鉄柱が倒れて床に直撃し、盛大に砂埃を立てた。

隊の者が咳込んでしばらく収まらなかったぐらいだ。


鉄柱は広央とユキの30センチも離れない場所に倒れた。

2人とも奇跡的に無事だった。



「だいじょ…」

広央が声をかける間もなく立ち上がったユキは、無言で粛々と隊列に戻った。

まるで怒ったような、こわばった表情だ。

ユキはただ、隊の足手まといになった自分が猛烈に恥ずかしかった。

だから礼を言いそびれたのだ。


広央も何も言わなかった。

ただ耳に届く指導官の賛辞をどこか遠くからの音声のように聞いていた。

心にぽっかり空いた虚しさを痛烈に感じながら。


3夜4日の行動訓練はこうして2人とも無事にやりおおせた。


家への帰路はお互いずっと無言。

交わす言葉もなくそれぞれの家に入った。

もう辺りは夕暮れだった。



「ヒロちゃんおかえり!!」


イサが広央の腕の中に飛び込んできた。

今日広央が帰ってくるを知り、預け先から帰ってきていたのだ。

預け先の小母さんは2人のために食事を用意し、戸締りはしっかりねと言い言いしながら帰っていった。



少ししてから清治が家に来た。

広央が無事家に帰った事の確認と、家が子供だけになっている事を心配して見回りにきたのだ。


短い言葉を交わした後、清治はふとイサの事を見た。

「広央と話がある、イサは自分の部屋に行っててくれるか」


清治の話は至極簡単だった。


性誘因耐性検査ラット検査を受ける事、それも早急に。

街のクリニックと予約方法・連絡先が書いてあるリーフレットを手渡した。

必ず検査を受けることを約束させ、清治は家に戻っていった。


広央はしばらくの間リーフレットを眺めていた。

機械的な文字が印刷された紙。

やがて手の中でぐしゃっと握りつぶすと、台所のゴミ箱に捨ててしまった。


「キヨおじさん、なんのお話だったの?」

素直に子供部屋に下がっていたイサは、清治が玄関を締める音を聞くや広央の元に駆けつけてきた。


「なんでもないよ、もう寝よ」

広央はイサの頭を撫でながら、答えた。


夜、庭から虫の鳴き声が聞こえてくる。

風はだいぶ涼しくなっていた。


広央は眠れなかった。

訓練で体験した特異な精神状態がまだ続き、日常に戻り切れてないのだ。


隣からはイサの寝息が聞こえてくる。

広央を安心させ、心地よくさせる音。


アルファのお前とイサが一緒にいるのは危険だ。

とくにかく必ず検査を受けるように…


『大人はなんでイサをどこかにやろうとするんだ!俺は絶対に…そんな事はない!!』


極度の疲労がさすがにこたえてきた。

微かな不安と身体の重みを感じながら、広央もやっと眠りに落ちていった。


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