第101話 三月九日(木) 川野

 期末試験が終わると、途端に年度末の雰囲気が色濃くなった。私がこの高校に転入してから、もう半年が過ぎた。日の出時刻もずいぶんと早くなってきたので、私はまた登校時間を六時に戻した。本当は、もう、早朝に登校せねばならない理由はほとんどないのだけれど、まだ誰もいない教室の雰囲気を味わいながら本を読むのが楽しくて、私は今でも早朝の登校を続けていた。それに、川野がなぜだか今でも木曜日には弓道の朝練を続けており、それを見守ることが私の中で責務のようになっており、それも早朝登校するもうひとつの理由と言えたかもしれない。

 ずいぶんとくたびれた、無人の教室。ここはどうしてこんなに落ち着くのだろう。このプール棟はお父さんやお母さん、それに小嗣さんが在学する前からあった校舎なので、優に築四十年は越えていることになる。四十期以上の高校生たちがここで入れ替わり生活を送ってきた。彼らが発する熱気をこの教室は延々と吸い込み続けてきた。四十年というときの長さを私は実感できないけれど、この教室にいると、少しだけ、その重みを予感できる。今だけだ。その重みに悲しみを感じず、ただ期待を膨らませていられるのは。この教室の生暖かい空気のなかでまどろんでいられるのは、ここにいることが許される、今だけなのだ。

 イソヒヨドリが高く柔らかくさえずった。季節の移り変わりとともに、その歌声を聞く頻度も増えた。


「おはよう、﨑里ちゃん! 今日はいい天気やわ。日の出がよなったから、練習しやすくていいわ」

 川野がにっと笑いながら現れた。

「おはよう、川野。木曜日だけは早いね。川野も毎日この時間に来ればいいんじゃない? 誰もいない教室って、すごく気持ちいいよ」

 川野が笑って体をくねらせる。

「ええー、﨑里ちゃん、それって、もしかして俺のこと誘惑しちょる? いやあ、朝っぱらからそんな積極的に迫られると、ちょっとハズカシイ」

 私は一音一音をことさらはっきり区切って答える。

「誘ってません、迫ってもいません。もしかして、まだ寝てる? 私は、毎日毎日、遅刻魔にお小言のバリエーションを考えてる小野先生が可哀そうで仕方ないの」

「だからあ、俺、朝弱いんやってば」

「木曜日は早くに来れてるじゃない」

 川野の表情からおどけた色がふっと消えた。

「……木曜日は、記念みたいなもんかな」

「何それ?」

「“袴の彼”が生まれて消えていった記念、なんだわ、木曜日の朝練は」

「だって、川野いちども見えてなかったんでしょ?」

「見えはしなかったけど、でも何度も指導してもらったやん? あれは俺にとってかなり大きなターニングポイントやったよ。それに、俺があいつのことを覚えといてやらんかったら、﨑里ちゃんひとりであいつのことを思い出さんといけんやろ? そんなん寂しいやん」

 毎週木曜日の朝練がそんな気遣いだったなんて知らなかった。川野はどうしてそんなに優しいのだろう。思わず目をそらし、しばたたいた。

「﨑里ちゃん、はい、半分あげるわ」

 その声に振り向くと、川野が半分にちぎった朝食のレーズンサンドを差し出していた。

「またさ、そのうち、恋ばな、しような」

 そういってかすかに笑った。私は無言でレーズンサンドを受け取り、一口食べた。

「ところでさ、今週の土曜日か日曜日の昼に、以前、美羽にリクエストされとった料理の披露をしようと思うんやけどさ、﨑里ちゃんも来るよな?」

「川野の家で?」

「うん。いつものメンバー、美羽と村居と黒木ちゃん夫妻と﨑里ちゃんを呼ぼうかなって。あ、この土日、父ちゃんはおらんよ、母ちゃんとくるみのとこに行ってくるって」

「わかった。じゃあお邪魔させてもらう」

「よっしゃ、じゃ、アシスタントひとり確定な」

「共同作業、苦手なんじゃなかったっけ?」

「俺も成長したんです」

「素晴らしいね」

 もう一口レーズンサンドを食べた。ラム酒の豊潤な香りが鼻に抜けた。

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