第98話 二月二日(木) イソヒヨドリ
まだ暗い町を歩く。ときおり疾風が道端に落ちている空のペットボトルを転がし、乾いた音が遠ざかっていく。体を動かしていると、虚無感を忘れていられた。身を切るような風の冷たさが虚無感を忘れさせてくれた。
学校につくと靴を履き替え、人気のない廊下を歩く。人のいない学校は、そこここに異世界への入口がのぞいていそうな危うい雰囲気がある。いっそのこと、足を踏み外したら、今はもういないあの人のいるところに行けたりしないだろうか。そんな考えが頭をよぎり、私の足を引こうとする。絡みつくその思念を吹っ切るように、私は歩を早める。
吹きっさらしの渡り廊下を渡り切ると、もうプール棟だ。外階段を上り、二階の扉を開ける。廊下に入り、キュッ、キュッと粘着質な音を立てる廊下を歩いていく。一番奥の一年五組の教室の前で向きを変え、廊下に面した窓へと向かう。窓から弓道場を見下ろす。うす暗い弓道場はがらんとしており、誰一人いない。
そのとき、高く澄んださえずりが聞こえた。イソヒヨドリ、私はつぶやいた。声のした方角の高みに目を走らせる。暗くて何も見えない。闇の中で香る梅の花のようにイソヒヨドリは鳴く。色あせた世界に再び色彩を与えようとするかのように、イソヒヨドリは鳴き続ける。
今日は中庭でお弁当を食べようと黒木ちゃんが言ったので、私たちは三人で中庭に行った。
「もうすっかり光の春やねえ」
黒木ちゃんが伸びをしながらしみじみと言った。
「何、その光の春って?」
美羽ちゃんがソーセージドッグの袋を破りながら尋ねる。
「春には三段階あるんよ。光の春、音の春、気温の春、ってね。まだ寒いけど、日の出が早くなって日差しも強くなってくるころが光の春、雪解けの水音や鳥の鳴き声が聞こえ始めるんが音の春、本格的にあったかくなってくるんが気温の春」
いつもののんびりした声で、それでもよどみなく説明する黒木ちゃんに私は感心した。
「黒木ちゃん、詳しいね」
「あ、わかったで、黒ちゃん、それ、矢野っちの受け売りやろ?」
黒木ちゃんは照れながら
「ま、そうなんやけど。でも、光の春って、綺麗な言葉やと思わん?」
「そうな。あ、あとさ、香りの春っちゅうのもあると思わん? 梅とか沈丁花の香りがし始めるころっち意味でさ」
「ああ、いいな、美羽にしてはずいぶん詩的な発言やけど」
「あー、言ってくれるなあ、私だって、常にがさつなわけじゃないんやけん。ところで、黒ちゃん、矢野っちとは、最近どう? うまくいっとるん?」
美羽ちゃんのストレートな質問にも黒木ちゃんは動じなかった。日差しの力強さにも負けない温かな笑顔を浮かべて言った。
「楽しいよ。いつも新しいことを教えてもらえるし、私の話もすごく真剣な表情で聞いてくれて、思いもよらんかったコメントをくれるん。それに、私の料理もおいしいって喜んで食べてくれるん」
美羽ちゃんが頭を押さえながらうめいた。
「ああー、これは聞くんやなかった。何、その超幸せ発言は。うらやましすぎるわ。もう、手料理まで振舞ってんの? くうー、矢野っち、あんな奥手に見えて、実はたいしたやつやったんやな。私も黒ちゃんの料理食べたいにい! お菓子食べたいにい!」
「あ、それならさ、今度うちにみんなで来ん? お昼ご飯もお菓子も準備して待っとくけんさあ。そうや、一緒に期末テストの勉強やらん?」
「あー、それいいかも。裕佳っちも、もちろん来るよね? 国語と化学の先生がおらんと困るけんな」
「いいよ。私も黒木ちゃんのお菓子食べたい」
「じゃあ、あと、矢野っちは言うまでもないとして、川野と村居を誘うかな?」
「何を作ろうかな? 勉強より、そっちが楽しみになってきたわ」
黒木ちゃんはそう言うと嬉しそうに笑った。
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