春雷

第97話 一月三十日(月) 川野

 早朝のプール棟二階の窓から弓道場を見下ろす。そこではひとりの袴の男子が弓を持ち、今しも甲矢はやをつがえようとしている。ためらいのない、ひとつの無駄もない、緩急ともなう鮮やかな所作。どっしりと腰の据わった、それでいて、どこか軽やかさを感じさせる、優雅な射。打起し、引分け、会、離れ、残心。私は窓から動画を撮る。その動画に、彼以外の存在が写ることはない。


「﨑里ちゃん、おはようさん!」

「川野、おはよう。どうして今朝は朝練に来たの?」

「えへ、誰もおらんと、﨑里ちゃん、寂しいかなって思って。俺なりの気遣い」

「それはどうも御親切に。ところで、昨日、川野のお父さんがうちに来たよ」

 カバンからパンの袋を取り出そうとしていた川野が手を止めて顔を上げた。

「は? 父ちゃんが?」

「うん。うちの愚息がご迷惑をおかけしまして、って。わざわざあいさつしに来てくれたの」

「へえ、あの父ちゃんにそんな社交性があったとは、驚きやな」

 川野はパンを取り出し、袋を開けた。

「おばあちゃんが出かけているときだったから、しばらくふたりでしゃべっていたんだけど、そのうち帰ってきたおばあちゃんが、もう、すごく懐かしがって、夕ご飯を食べていけ、川野も呼べばいいって何度も誘ったんだけど、断られちゃった」

「へえ」

「でも、章と一緒に、改めておうかがいしますって言ってたよ」

 川野は目をむいた。

「﨑里ちゃん、父ちゃんとどんな話をしたん? あの人がそんな社交辞令を言うとは思えん」

 ミックスサンドに大きな口でかみついた。

「そういえば、昨日の父ちゃん、ちょっと変やったんよな」

「変って?」

「俺の作った夕食のチキンカツ、褒めてくれたん。うまいって。一言ぽつりと言っただけやけど、あの人が食い物の評価をするなんて、今までなかったことやけん、俺、びっくりして、まじまじと見返してしまったわ」

「そうなんだ」

 それを聞いて、無性に泣きたい気分になった。

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