第96話 一月二十九日(日)ー6 裕佳子と川野竹史
「どうして、“袴の彼”は祐介が抱きしめたら、消えてしまったのですか?」
川野のお父さんは顔をそむけた。
「祐介に抱きしめられることが、あの人の望みだったのですか?」
その言葉が耳に入ったのかどうかもわからない。こけた横顔からはいかなる表情も読み取れなかった。
南向きの窓から差し込む光を受けて右耳の耳殻がうっすらと透き通って見えた。それは、いつか図鑑で見た、数百メートルもの厚みの氷の下に広がる氷点下の海にひっそりと身を潜めている半透明な魚を連想させた。消えてしまったあのひとも、その水の中にいるんじゃないのかしら、ふと、そんなことを思った。氷点下の、体がちぎれそうなほど冷たい水底に横たわり、半透明な魚を身にまとわりつかせて。
川野のお父さんは横を向いたままつぶやく。掠れたささやきは暗くて深い水底から伝わってくるかのようにぼやけて聞こえた。
「祐介が、容子と付き合い始めたと知って以来、あいつと会うのは苦しみとなりました。会いたい、でも会えばよりいっそう苦しみが深くなりました。何より、嬉しそうに容子の話をしてくるのが、もう苦しかった。それでも、何とか耐え続けました。でも、卒業間近となったある日、苦しみに耐えかねて、私は祐介に自分の思いを告げてしまったのです。そして、一度だけ、抱きしめてもらえないか、と頼みました。祐介は、最初、冗談だと思っていたようですが、私が本気なのを知ると、汚いものでも見るような、おびえたような目で私をにらみ、きっぱりと拒絶しました。それで、すべてが終わったのです。あの小嗣竹史が求めていたのは、ただ一度だけの祐介の抱擁であり、それを一心に求める気持ちが彼という存在だったのでしょう」
“袴の彼”の茫洋としたまなざしが目の前に浮かび、涙が溢れそうになった。
「彼は、“袴の彼”は、幸せな気持ちで消えていったのでしょうか? 私は彼に笑ってもらいたかった。お父さんの、祐介のアルバムで見た、屈託ない笑顔をもう一度浮かべてもらいたかった。それが、私の何よりの願いでした。なのに、それを確認することは叶いませんでした」
そう言うと、目を伏せた。川野のお父さんは静かに口を開いた。そこに労わるような柔らかさが含まれているのを感じた。
「ずっと焦れ続けていたものをついに得て、消えていったのです。幸せでないなんてことがあるでしょうか。ただ、川野竹史として小嗣竹史の最後の記憶を手繰り寄せてみたとき、どう考えても、あの姿は本物の祐介ではありえないとわかりました。そっくりの顔をし、男の子の姿をし、でも普通の高校生男子よりはるかに小柄な誰か。あなたしかいないとすぐにわかりました」
私は力なく視線を上げた。
「……騙された、と思いましたか? 汚らわしい、と憤りましたか?」
川野のお父さんは“袴の彼”の表情で寂しげに笑った。
「私が愛し、求めたのは、祐介だけでした。例え好意を寄せてくれても女性を愛せなかったのは――あの献身的な真弓ですら愛せなかったのは、祐介でなかったからです」
答えになっていない。私はたたみかけるように言った。
「それは、それは、つまり、私なら女であっても祐介の代わりを務められる、そう理解しても良いのでしょうか?」
抑える間もなく口から飛び出してしまった質問に、川野のお父さんはわずかに口元をほころばせたが、答えはしなかった。その代わり、川野の「ぎゃあー、止めてえ、﨑里ちゃん!」という悲鳴が聞こえたような気がして、私は泣き笑いのような笑みを浮かべた。
「お茶、温かいのを入れなおしますね」
そう言って台所に立ち、お湯を沸かしていると、おばあちゃんが帰ってきた気配がした。
「あら、お客さん? ええっ!? もしかして、竹史くん?! なんとまあ、なんとまあ、ほんに久しぶりやないの。まああ、嬉しいわあ。えー、わざわざお礼を言いに来てくれたんな? そんなん、気にせんでいいにい。こっちこそ、転校してきたときから、裕佳子が章くんにお世話になりっぱなしなんよ――」
おばあちゃんはひとしきり、川野のお父さんと昔話に花を咲かせ、あら、と時計を見た。
「もうこんな時間なんやな。そうや、竹史くん、章くんも呼んで、今日は一緒に晩ご飯食べていかん?」
おばあちゃんの唐突で熱心な誘いを川野のお父さんは丁重に断った。今日はもう章が食事の準備をしているはずだから、後日改めてお邪魔させてください、と。章だけでなく、私も裕佳子さんにはお世話になったのです。ぜひ、また改めて章とふたり、おうかがいさせてください、と。
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