第95話 一月二十九日(日)ー5 ハシバミ色の瞳

 青ざめた顔をした川野のお父さんが、とぎれとぎれに語るのを私はただ聞いていた。出口のない苦悩を誰にも打ち明けず、気づかれぬよう、ひとりっきりで三十年以上も抱え込んできたのは、どれほどの苦しみだったのだろう。その懊悩の底知れなさ、狂おしさに戦慄した。

 同時に、どこかで、何と川野と違うことだろうと思っていた。手に入る幸せの断片に満足を見出そうとする、どこか達観している川野に比べ、川野のお父さんはいかにも人間臭かった。凡人には想像もつかない壮絶な自制の年月を経てきてはいたが、その苦悩は泥の上を転がりながら泣き叫ぶ、子供のそれだった。一方で真弓さんや家族に対する傲慢さを糾弾しつつ、一方で川野のお父さんの人としての愚かさに共感し、たまらなく引き付けられていた。


「なぜ彼は、川野――章くんに射の指導をしてくれたのですか?」

 川野のお父さんはふっと表情を和らげた。ハシバミ色の瞳の底が初めて穏やかに輝いた。

「ときおり、ひとりの男子生徒が私の隣で弓を引いているのに気づきました。なぜか親しみを感じ、彼が射型の揺れに悩んでいるのに気づくと、つい、指導をしてしまいました。何より求めている祐介ではありませんでしたが、彼との出会いは私の心を穏やかにしてくれました。その少年が章だと、川野竹史として思い出した時に、わかりました」


 川野のお父さんは、ひっそりとほほ笑んだ。疲れ切った顔に浮かぶその笑みには、“袴の彼”の名残が確かにあった。


「ちぎれてしまった私の心は、祐介をさがしつつ、章との触れ合いに癒されていたようです。でも、祐介に会えることはなかった。祐介にそっくりの顔の人物が、でも同時に容子の姿もしている人物が、常に私を見ているにもかかわらず、祐介には会えない。ある朝、気づくと私はプール棟二階の廊下にいました。正面から、曙光すら差さない廊下を女の子が歩いてきました。あの、容子の姿をして、祐介の顔を持つ女の子でした。私は耐えきれず、その子の顔に、祐介の顔に触れてしまいました」


 そう言うと、私の顔を正面から見つめた。長年の憔悴が青黒く染みついた顔に光るのは、淡い、ハシバミ色の瞳。緑と褐色の斑紋が不思議な模様を描く、美しい瞳。“袴の彼”の瞳だ。“袴の彼”の瞳だ。たまらなくなって、目をそらした。


「弓を引くのは、本当に楽しかった。この身がこの世の摂理と化したような、あの気持ちを感じるのは久しぶりでした。章の射が鮮やかになっていくのを見守るのも、楽しかった。楽しいなんて気持ちを実感すること自体、もう久しぶりでした。それでも、私は祐介を求め続けていたのです。祐介を、祐介だけを求め続けました。そしてある朝、章が練習に来ました。でも、プール棟の二階の窓には、誰もいない。何かがおかしいと、小嗣竹史は思いました。気づくと、彼はプール棟の二階にいました。そしてその目の前には、ひたすら求め続けた祐介がいました。祐介の顔をした容子ではなく、祐介その人が。私は思わず顔に触れました。次の瞬間、自分が抱きしめられたのを感じ、小嗣竹史としての私の記憶はそこで途切れてしまいました」


深いため息をついた。

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