第94話 一月二十九日(日)ー4 裕佳子と小嗣竹史

「あの夏の日、章から転入生が来ると聞いたのが、私から十六歳の小嗣竹史が生み出されるきっかけになったのでしょう。﨑里という名の転入生が川崎から来る、と」

「……」

「祐介が川崎にいることは知っていました。容子がその春亡くなったことも。だから、それを聞いたとき、転入生は祐介の娘だろうと直感しました。何とか抑え込んでいた思いが一気に再燃し、堪えきれなくなり、救いを求めて抜け出したのが、十六歳の小嗣竹史なのでしょう。弓を引くことで彼は無の近くにまで昇華できました。あの、全てが空っぽになり、自分と世界が溶け合うような高揚感を味わうことができました。でも、そこに祐介はいなかった。容子はいるのに、祐介はいなかった。

 ある日、いつもプール棟の二階の窓辺に佇む、その容子の姿をした人物の顔が、じつは祐介でもあることに気づきました。むしろ、祐介にそっくりでした。信じられなかった。何が起きているのかわかりませんでした」


 川野のお父さんは目を上げて私の顔を見た。一瞬、射すくめるような視線が私の目を貫いた。しかし、私がそれをとらえようとする前に、再び暗然と伏せられた。


「小嗣竹史にはそれが誰なのかわかりませんでしたが、彼の体験を記憶として反芻した川野竹史には祐介と容子の娘だとわかりました。そのおぼろな邂逅からすぐあとに、あなたがうちを訪ねてきました。間近で見るあなたの顔は本当にあの頃の祐介そっくりで、私は動揺しました。しかも、あなたには小嗣竹史がはっきりと見えていた。章には見えていないのに、あなたにだけは見えていた。それを知って、私はさらに動揺し、恐ろしくなりました。思い続け、隠し続け、疲れ、ゆがみきった私の心は、ついにポリプのように出芽して弓道場に舞い戻り、祐介を求めたのです。あなたの中の祐介が私の思いに呼応して、そんな私を見たのでしょう」

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