第93話 一月二十九日(日)ー3 竹史、祐介そして真弓

「何かおかしい、と気づいたのは、去年の夏でした。記憶が、自分の経験しようのない記憶が、ふと気づくと、あるのです。その記憶は、すべて、弓道場の、高校の弓道場から見える光景でした」


 うつろな表情のまま、続けた。


「私は十六歳のころに戻っていて、弓道場に立っています。ひたすら、弓を引いているのです。弓を引きながら、ほとんど無になるあの感覚を味わいながら、でもどこかで何かを待っていました。

 ある日、稽古を終え、射場を後にするとき、ふと目を上げました。すると、そこに容子が立っていた。容子が、三つ編みに編んだ髪の毛の先をいつものようにもてあそびながら、プール棟の二階の窓からこちらを見ていました。きりりと胸が痛みました。私が待ち望んでいたのは、これではない、そう思いました。

 それらは、高校生に戻っているときの私の、いえ、現在に紛れ込んだ小嗣竹史の体験です。それが川野竹史の、私の頭の中で、紗幕を通したような記憶として思い出されるようになったとき、私は恐怖しました。ついに、おかしくなったと思いました」


 抑揚なくとつとつと語られる話を私は茫然として聞いていた。川野のお父さんはそこまで語ると口を閉じた。目を伏せたまま、しばらく黙っていたが、何かを吹っ切るように深く息を吐くと、再び口を開いた。


「あなたには、もう、すっかり知られてしまいましたが、私は高校生のころから祐介が好きでした。ひたすら、祐介だけを思って生きてきました。おぞましい、と思われるかもしれません。祐介は容子と結婚し、私も真弓と結婚しました。それでも、私はずっと祐介を、祐介だけを思っていたのです」


「待ってください!」


 思わず口を挟んだ。黙ってはいられなかった。


「真弓さんのことを、本当に何とも思っていなかったのですか? 本当に何とも思っていなかったのなら、そもそも結婚すらしなかったんじゃないんですか? 竹史さんのために、お見合いのときからずっと、ひたすら尽くそうとしてきた真弓さんのことを、竹史さんは何とも思わなかったのですか?」


 川野のお父さんはわずかに顔をゆがめた。


「真弓が私を救おうとしてくれていたのは、もちろん十分感じていました。こんな私と結婚してくれ、会社や知人や世間からの盾になってくれました。でも、真弓の期待が私には重荷でした」

「期待? 重荷?」

「尽くしていれば、いつかは報われる、真弓のそんな無邪気で無意識の期待が私を羽交い絞めにして身動き取れなくしました。助けてもらいたくなどない。気遣ってもらいたくもないし、憐れんでもらいたくもない。互いの打算のための結婚ならば、それに徹してもらいたかった」

「そんな……そんな……それは、傲慢な考えじゃないですか?」

 川野のお父さんは目を上げ、こちらを見据えた。でも、すぐに力なく目線を落とした。

 私はあえいだ。言葉は喉の奥に引っかかったまま、出てこなかった。

「辛い三十余年でした。諦め切ることもできず、ただ耐え、思い続けるだけの。まるで筋肉が麻痺して身じろぎもできないまま、緩慢に迫りくる死を清明な意識で迎え入れねばならない中毒者のように、私は絶望し続けていたのです」


「いいえ!」


 その言葉を聞いたとたん猛然と沸き起こった感情が、憤りなのか、それとも同情なのかわからないまま、私は言い募った。


「たしかに十六歳の小嗣竹史さんの祐介への愛は本物だったのだと思います。でも、真弓さんを受け入れ、真弓さんと過ごした日々、章くんとくるみさんが生まれ、家族四人で共に過ごした日々を辛くて耐えるだけのものだったと言うのですか?

 私はそうは思いません。楽しいと思えることだってあったはずです。それを認めないのは真弓さんにも、家族にも、あまりにも失礼です。

 あなたは祐介のことを思い続けて苦しんだと言っていますが、それは、いつからか、単なる口実になっていたのではありませんか? あなたは自分に与えられた幸せを認めることができない、卑怯で臆病な人間なのではないですか? あなたの言う、祐介への一途な思いとは、自分の弱さを認められない人間の言い訳だったのではありませんか?

 今のあなたは、真弓さんや章くんやくるみさんを踏みにじっているだけでなく、十六歳の小嗣竹史さんの純粋な愛までをも汚しています」


 川野のお父さんは答えなかった。目を伏せ、体をこわばらせ、私の浴びせた言葉が皮膚を犯し肉を蝕んでいくのに、ひたすら耐えているようにも見えた。

 長い沈黙のあと、ぽつりと言った。


「真弓と別居して八年になります。私に働きかけてこようとする彼女へのわずらわしさと、それに応えることのできない自分のふがいなさに耐えきれなくなり、ついに別居を決意しましたが、その後の苦しみはまた別物でした。あなたのおっしゃることは的を射ているのかもしれません」


 その言葉はどこか空言のように響いた。でも、言い終えると、川野のお父さんは苦し気に深いため息を漏らし、再び口をつぐみ、うなだれてしまった。

 高ぶった心はなかなか落ち着かず、私は奥歯をかみしめながら視線を逸らした。ゆっくりと、ゆっくりと息を吸って、吐く。もう一度。南向きの窓から、午後の日差しが差し込み、その中を埃がきらきらと輝きながら漂っている。そのとき、窓の外からあの澄んださえずりが聞こえた気がした。まだ冬なのに? 朗々とした歌は三度繰り返されると、それきり聞こえなくなった。


「竹史さんから、あの人、"袴の彼”が生まれたのは、なぜなのですか?」

 川野のお父さんは、目を上げることなく、かすれた声で答えた。

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